合唱三昧

2016年08月21日 | 日記
昨日は「一日合唱塾」という催しに、合唱をしていらっしゃる年長の生徒さんと一緒に参加してきました。今をときめく気鋭の作曲家信長貴富さんと、合唱指揮者として超有名な雨森文也さんが、熊本のみならず近県からも参集した300人もの参加者に朝10時から夕方4時まで直接ご指導下さるという贅沢な時間。信長さんの作品を6曲、作曲家自らの貴重なレクチャーと雨森氏の的確なアドヴァイスを頂きながら次々と歌っていきました。
私は合唱が大好きですが、合唱でソプラノを歌うと(声の周波数の関係でしょうが)他の声部や伴奏があまり聞こえません。中学校の頃からずっとアルトだったので、これには未だに困惑します。今回の曲は現代曲ですが、わりと調性の明確なものが多かったので(といっても、うちの合唱団で歌うような機能和声オンリーの曲とは比較にならないほど複雑ですが)、アタマが痛くなるような不協和音に苦しむことはありませんでしたが、その代わり、300人もの大人数で歌っているせいもあるのか、ピアノの動きや他のパートとの絡みがぼんやりとしか聞こえないのです。雨森先生が指摘される伴奏のメロディラインや声部間のポリフォニックな動き方など、楽譜を見れば一目瞭然なのに、歌っていてそれが自分の耳に聞こえてこないのは何ともムナシイ気分になります(-_-;)合唱はやっぱり内声がいい!ソリストはいつもメロディラインを歌っているのだから、わざわざ合唱をやるのならソロではできないことをしないともったいないよね、といつも思うのですが、悲しいかなアルトの音域は声帯や筋肉の使い方が自分の本領ではないので、歌っていると欲求不満が高じて、途中で叫び出したくなります(笑)。痛し痒しですね。
それはともかく、本当に得難い素敵な時間でした。午前中のみ参加していた2つの高校の合唱部の皆さんも、よい勉強ができてよかったですね。この講習会ををセッティングし、全面的にお世話下さった地元の合唱団の皆様に心から感謝したいと思います。
高校生たちと一緒に参加して一つ違和感がありました。講師の先生が何か説明をなさって、「それではやってみましょう」とか「○○小節目からもう一度」とか仰るたびに、高校生たちは全員で「はい」と返事をするのです。以前、郡部の中学校の合唱部が音大の先生に指導を受けている様子を聴講した時も同様でした。最近の傾向なのでしょうか。何だか変だと思いませんか?何を言っても反応がない、というのも困りますが、こうたびたび一斉に「はい」と返事をされると、コンビニやファミレスの従業員さんのマニュアル通りの接客を連想してしまいます。私も日頃大学の授業で、「alles klar?(わかりましたか?)」と訊かれたら必ずjaかneinかjein(わかったかどうか自信がありません、という意味)と答えなさい、と毎度口うるさく言いますが、それは、無反応だと先に進んでいいのかどうか判断できないからであって、私「練習問題をやりましょう」、全員「はい」、私「教科書○○ページを開けて下さい」、全員「はい」、私「次の単元に進みます」、全員「はい」などと全体主義的反応をされたら相当怖いだろうと思います。皆様はどう思われますか。
4時に終わって一旦帰宅し、夜は中学校の大同窓会のオープニングコーラスの練習がありました。中年熟年男女20名ほどが集まり、中学校の卒業式の全員合唱曲だった「ハレルヤ」と、校内合唱コンクールの1,2年生の課題曲だった「モルダウ」と「グローリア」(モーツァルト)の3曲を、当時の音楽の先生のご指導で2時間ほど練習しました。合間に、先生がご持参のテープレコーダーで、コーラス部全盛期に放送のためNHK熊本のスタジオに招集されて録音した合唱を聴かせて下さいました。昭和54年5月の録音で、ちょうど私が中3の時です。当時の記憶がありありと蘇り、懐かしさでいっぱいになりました。この中学校でのコーラス経験がなければ歌の道に進むことはなかったでしょう。紆余曲折ありましたが、今、こうして歌を歌っていられることの幸せを噛み締めたひと時でした。


セミナー案内

2016年08月17日 | 日記
研究会が終わったばかりですが、来月は恒例の発声セミナーを開催します。
早いもので、9月の声を聞くとクリスマス会が頭をよぎります。春と秋の発声セミナーでは、レクチャー&エクササイズの後、クリスマス会の最後を飾る合唱の曲を練習しますが、今年は「クリスマスのあさ」というイギリスのクリスマスキャロルを選びました。初のア・カペラに挑戦です。
春のセミナーでは公開レッスンもセットにしましたが、今回はレクチャー&エクササイズと合唱の2本立てで、第1部のエクササイズの中で質疑応答の形で個別のミニ・レッスンを試みるつもりです。前回の公開レッスンは、体験レッスン会として別に企画しようと考えています。
焦熱地獄のような凄まじい暑さの中にもかすかに秋の気配を感じるこの頃。オリンピックも高校野球も間もなく終わります。芸術の秋の到来に向け、そろそろ心の準備をしないといけません。先日、久し振りにW先生のところへ伺いましたが、ご体調がすぐれない中にも尽きることのない研究意欲と的確なご指導、今更ながら脱帽の思いでした。その時話題に出た発声の本がとても科学的かつ実践的なので、これからブログで少しずつご紹介させて頂きたいと思っています。
セミナー開催は以下の通りです。

2016年秋の発声セミナー

日時 2016年9月19日(月・祝)
   第1部 13:30-14:30 レクチャー&エクササイズ
   第2部 14:30-15:30 合唱「くりすますのあさ」
   第3部 15:30-16:30 茶話会(質疑応答)

場所 レンタルスペース&サロンDOLCE

参加費 各部1,000円

お申込み メールかお電話で直接お申込み下さい。

皆様のご参加をお待ちしています。

声楽発声研究会

2016年08月12日 | 日記
第1回目の声楽発声研究会、市内中心部の楽器店のスタジオをお借りして昨日開催しました。初めての試みなので、どんな会になるのか私自身イメージがぼんやりしていたのですが、生徒さん方のレベルアップに少しでも役立てばという気持ちでした。
当初10人の方がエントリーされましたが、ご都合で2人欠席で8名のご参加でした。最初に短く自己紹介と曲の紹介をして頂き、一度通して伴奏付きで歌って頂いた後で気付いたことをお伝えし、少しレッスンして仕上げるという形にしました。一応暗譜してきて下さるようお伝えしておいたのですが、暗譜はハードルが高かったようで(笑)、殆どの方が(安心のためでしょう)譜面台に楽譜を載せられました。
8人(男性1名、女性7名)は20代の若者が2人で、後は熟女たちです(-_-;)。選曲はイタリア古典歌曲、イタリア近代歌曲、ドイツ歌曲、オペラアリアが各2名ずつ。実際に順番に歌って頂くと、それぞれの方の個性が際立ちますね。それに、若者と熟年では歌詞や音楽に対する共感度が違います。夕映えに寄せて造物主への畏敬の念や人生に対する感慨を歌ったり、心惹かれている男性がいるのに「もし彼が不実な男だったら困るから、恋に落ちるのは相手の人柄をしっかり見極めてからにしよう」とちょっぴり打算的な思惑を歌ったりする曲は、やはりある程度の人生経験がないと感情移入が難しいでしょうね。それぞれ知性や人格の高潔さがにじみ出る演奏でしたが(笑)、表現の深みや洒脱さが今後の課題です。また、自信がないと身体がのびのびと使えないので、息が上へあがりきらず息っぽい声になってしまいます。たとえ暗譜が不十分でも、少々厚かましく開き直って自由に歌うことが大事です。若い人は体力があってアタマも柔軟なので、テクニック的なことは「打てば響く」ように反応できますが、人生経験ばかりは一朝一夕には積めませんから、想像力を駆使して表現を工夫することが必要ですね。
年齢を重ねると、やはり歌にその人なりの持ち味が表れてきます。選曲にも好みが反映するし、同じ曲を歌っても感じ方の違いが表現に出ていたりして、聴いていた方たちもかなり面白かったのではないかと思います。ただ、若い時ほどスタミナがないので曲の後半でバテ気味になりやすく、エネルギー配分が難しいですね。今歌っているフレーズをこなすことに集中し過ぎると、最後にピークが来る曲は、いざとなって声が出ないということになりかねません。その日の体調を考慮して声をコントロールするのも大事なテクニックです。と言って、私自身それが常にうまくできるわけでもありませんが、こうして歌って頂くと、そういうことがとてもよくわかりました。
歌のレッスンはオーダーメイドですから、一人ひとりの今の課題を正しくつかむことが必要です。その意味で、始めての研究会ははレスナーにとっては大変有益なひとときとなりました。ご参加の方々にもそうであれば本望です。時間がタイトだったので皆さんのご感想を伺う余裕がありませんでしたが、きっといろんなことを感じて下さっただろうと思います。これからまたご意見を伺って、これからも時々こういうレッスンをやりたいと思ったことでした。

8月に寄せて

2016年08月07日 | 日記
地震の影響で授業期間が延び、この暑さですっかり疲弊してブログの更新が進みませんでした。その間、海外では相次ぐテロ、日本でも相模原で凄惨な障害者殺傷事件が発生。日本中がショックと怒りと悲しみに覆われた大事件だったのに、それも都知事選やオリンピックの熱気であっという間に風化しかかっています。しかし、あの殺傷事件の報道に接して、「障害者は生きるに値しない可哀そうな人」という優生思想の誤りを正す必要を痛感した方も多いことでしょう。私も冴えない頭でいろいろ考えました。
まず、健常者を基準に障害者を劣等とみなす優生思想がそもそも間違っています。進化論的に見て「優れている」とは「適応能力が高い」ということ。恐竜だって環境適応ができなくて絶滅しました。つまり「優れている」とは、種(人間の場合は「ヒト」)が保存され、子孫が繁栄することですよね。
ここで思い出すのが、整体の先生が貸して下さった『1/4の奇跡』という本に書かれていたお話です。アフリカには鎌状赤血球貧血症という先天性の病気があり、この病気の人はしばしば重篤な発作を呈して亡くなることもあるので、欧米の医療チームが現地に入ったりするとこの貧血症を直そうとするのですが、実はこの病気の遺伝子はマラリアにに対する抵抗力を持っていて、彼らがマラリア禍を生き延びてくれるお陰で村は絶滅を免れる、というお話。この話はこの本の題名の由来でもあります。両親が鎌状赤血球を作り出す遺伝子がある場合、兄弟の1/4は「鎌状赤血球の遺伝子を持ち、障害がある」、2/4は「鎌状赤血球の遺伝子を持つが、障害はない」、残りの1/4は「鎌状赤血球の遺伝子を持たず、障害もない」。この最後の1/4のグループはマラリアが発生すると亡くなるので、残るのは鎌状赤血球の遺伝子を持つ3/4の人たちです。その4/3には必然的に障害のある人が含まれるのですから、障害の有無で切り捨てを行えば種の存続自体が不可能になるわけです。このお話は、以前倫理学を教えていた時に教科書として使っていた生命倫理の本にも載っていました。エイズも然り。エイズ禍を生き残った人たちは、過去にペスト禍(ペスト以外にも諸説あるようですが)を生き延びてきた人たちの子孫であると言われています。これまで様々な病気が存在したことで人類の持つ遺伝子に多様性が生まれ、そのお陰で今私たちが生きている、という事実は、病気・障害を持つ人たちがいてくれることが人類への貢献であることを示唆しています。もっと穿って言えば、その人たちは人間社会全体の中で健常者の代わりに障害や病気を引き受けてくれているとも言えるでしょう。
古代社会や、今でも西欧化があまり進んでいない地域では、障害者や認知能力が衰えた老人は「神に近い人」として崇められ、大切にされるとも聞きました。それは人類の歴史的な叡智にも適ったあり方ですね。障害者を慈悲殺するのは自分で自分の首を絞める愚行、まさに自殺行為です。社会的弱者をありのままに尊重するというエートスが(おそらくは社会の産業化、複雑化のせいで)どんどん希薄になっている今、道徳を教科化する以前に、こういう科学的基本認識こそ義務教育できっちり教えるべきではないかと思います。
この事件には共感能力の欠如、薬物の影響、危機管理問題など、考えるべき要素が他にもいろいろあります。夏バテの冴えない頭ではここまで考えるので精一杯ですが、時間をかけて一つずつじっくり考えていきたいといます。