デトックス

2014年05月30日 | 日記
片側顔面けいれんの症状緩和のために処方してもらった薬の副作用でさまざまな身体症状が現れていたのが、薬をやめたらすっかりよくなりました。それをきっかけに、デトックス関連の話を聞くと、何でもすべて試してみようという気になっています。先日、頭皮は皮膚の毛穴の中で一番大きいという話を聞き、頭皮のデトックスをしている美容院がうちの近くにあるので行ってみました。そこで初めてヘアエステなるものを試してみたところ、首筋あたりがスッキリして頭が軽くなったような気が(笑)。そこで今日、2回目を試しました。
実は、今日は午前中から軽い頭痛が始まり、午後からは背中がぞくぞくしてきて、これは風邪の前兆かなと思いながら美容院に行ったのです。施術中は180度水平になったソファに仰向けの状態なので、約2時間のうち1時間半ぐらいは爆睡していたと思います。時折首を横へ動かされる時にちょっと覚醒しますが、またすぐに沈没。そして、終わって外へ出てみると、ああ、今回も頭が軽い!汚染度のひどい大都会に住んでいるわけでなくても、50年近くも生きているとそれなりに毒素を体内に溜め込んでいるのでしょうね。そして、心身の不調は案外その辺に原因があるのかもしれません。
夕方から受験生のFさんがレッスンに来ました。Fさんは今日、熱中症になって救護室で1時間ぐらい寝ていたのだそうです。それなのに30分も歩いてうちに来たというので呆れてしまいました。外気温は多分30℃ぐらいあったはずで、うちに着いた時はにわか雨に降られたように汗びっしょり。コンディション的には絶不調のはずなのに、なぜか今日は聴音も視唱もよくできたし、声もよく出ていました。これもデトックス効果なんでしょうか(笑)。
そして、昨日からゼトックスというスプレー式のデトックス飲料水も試しています。これも生徒さんから教えて頂いたもので、体内に取り込まれた重金属や化学物質を吸着して排出する自然由来の成分が入っているとか。効果を感じるまでに数日はかかるらしいですが、ちょっと楽しみです。
それにしても、10年ほど前、度を越したアンチエイジングブームや健康志向の風潮を「現代の病理の一つ」として批判する論文を書いた私が、今はこんなテイタラクです。中年女というものは、こうしてだんだん健康オタクになっていくものなのでしょうか(笑)。

テキスト解析第2弾

2014年05月28日 | 日記
今回はシューマンの連作歌曲集「女の愛と生涯」の第1曲を取り上げます。ただ今この歌曲集に取り組んでいらっしゃるNさんのレッスンをしながら、シューマン歌曲の香気あふれる美しさに改めて感動したので。

Seit ich ihn gesehen,ざいと いっひ いーん げせーえん
Glaub ich blind zu sein ぐらうぷ いっひ ぶりんと つー ざいん
Wo ich hin nur blicke,ヴぉー いっひ ひん ぬール ぶりっけ
Seh ich ihn allein ぜー いっひ いーん あっらいん
Wie im wachen Traume ヴぃー いむ ヴぁっへん とらうめ
Schwebt sein Bild mir vor, しゅヴぇーぷと ざいん びると みール フぉル
Taucht aus tiefstem Dunkel, たおほと あうす てぃーフすてむ どぅんける
Heller nur empor. へっれル ぬール えんぽール

Sonst ist licht- und farblos ぞんすと いすと りひと うんと ふぁるぷろーす
Alles um mich her, あっれす うむ みっひ へル
Nach der Schwestern Spiele なーは でル しゅヴぇすてるん しゅぴーれ
Nicht begehr ich mehr, にひと べげール いっひ めール
Moechte lieber weinen, めひて りーべル ヴぁいねん
Still im Kaemmerlein しゅてぃる いむ けんめルらいん
Seit ich ihn gesehen, ざいと いっひ いーん げぜーえん
Glaub ich blind zu sein. ぐらうぷ いっひ ぶりんと つー ざいん

韻律図式は各行「強,弱,強,弱,強,弱」と強拍から始まり、且つ3つの強拍を持つ「トロヘウス」という形です。第1節も第2節も2-4行と6-8行が脚韻を踏んでいます。

第1節。
「私が(ich) 彼を(ihn) 見た(gesehen) 時から(seit)」→私があの方に出会ってから
「思う(glaub) 私は(ich) 盲目の(blind) であること(zu sein)」→私は(自分が)盲目になったように思う。
「ところ(wo) 私が(ich) ~の方へ(hin) ただ(nur) 見る(blicke)」→私がまなざしを向けるところでは、
「見る(seh) 私は(ich) 彼を(ihn) 一人だけ(allein)」→私には彼だけが見える。
「まるで(wie) 中で(im) 目覚めた(wachen) 夢(Traume)」→まるで白昼夢の中のように
「漂う(schwebt) 彼の(sein) 姿(Bild) 私の前で(mir vor)」→彼の姿が目の前に漂う。
「浮かぶ(taucht) ~から(aus) とても深い(tiefstem) 暗闇(Dunkel)」→とても深い闇の中から浮かび上がる。
「より明るく(heller) ただ(nur) ~の上方へ(empor)」→上方へと、一層明るく。

第2節。
「それ以外に(sonst) ~である(ist) 光(licht-) ~と(und) 色の無い(farblos)」→その上、色も光も無い、
「すべて(alles) ~の回り(um) 私(mich) こちらへ(her)」→私のまわりのすべてのものが。
「~へ(nach) 妹たちの(der Schwestern) 遊び(Spiele)」→妹たちの遊びへ
「~ない(nicht) 交際する(begehr) 私は(ich) もはや(mehr)」→私はもう付き合わない
「~したい(moechte) むしろ(lieber) 泣く(weinen)」→むしろ泣きたい
「静かに(still) ~の中で(im) 小部屋(Kaemmerlein)」→小部屋の中で静かに
「私が(ich) 彼を(ihn) 見た(gesehen) 時から(seit)」→私があの方に出会ってから
「思う(glaub) 私は(ich) 盲目の(blind) であること(zu sein)」→私は(自分が)盲目になったように思う。

古風なサラバンドのリズムを刻むピアノ伴奏に乗せて、初恋によって回りの景色も心の風景も一変してしまった乙女の戸惑いが歌われます。ああ、前奏を聴くだけで胸がキュンとなってしまうではありませんか(笑)。

  

語らい

2014年05月26日 | 日記
高校の同級生で同業者の友人がいます。10年以上前に再会して以来、公私にわたって深く関わり合ってきました。お互い、発声で散々苦労してきた過去があります。当時私はW先生の許で新たな希望をもって発声の勉強を始めた頃だったので、彼女にもW先生を紹介したくてW先生を熊本にお招きし、彼女の家をレッスン会場として一緒に勉強するようになりました。お互いの生徒さん達や友人たちにも声をかけ、ドクターストップでW先生が熊本へ来られなくなるまでの4年間、延べにするとかなりの人数の方たちがW先生のレッスンの恩恵に与ったのです。W先生に「カリオペ」の名前を頂いて「カリオペくまもと」を立ち上げた後も、セミナーの時など彼女に随分手伝ってもらいました。ここ数年はお互い常軌を逸した忙しさで、近くにいながら会う機会がめっきり減っていましたが、昨日久し振りに彼女を訪ね、ゆっくり話をしました。私たちぐらいの年齢になると、前置き無しで何でも話せる同世代の友人の存在はとても貴重です。
話題の中心はやはり音楽のことです。彼女は今ジャズにハマっていて、昨日もソウルフルなジャズのCDを聴きながら話に花を咲かせました。私もジャズは割と好きですが、大きな音やマイクを通した音が身体的に苦手なので、ライブはちょっとつらいものがあります(CDの方がずっとラクです)。彼女は極太のドラマチックソプラノで、ジャズ歌手はやはり極太系が多いので、彼女の身体感覚にマッチするのでしょうね。同じソプラノでも綿菓子もしくはビールの泡のようなリリックソプラノの私が宗教音楽やバロック音楽が好きなのも、多分同じ理由からだと思います。と言っても、本当に体の解放された良い発声の歌はどんなジャンルでも聴いて疲れません。且つ、発声が素晴らしければ、そのテクニックを使って何を伝えるか(何が伝わるか)が露わになるので、極端に言えば「テクニックは完璧でも何も伝わってこない歌」もあり得るわけです。そんな話をしながら、現役の歌手ではバーバラ・ボニーとバーバラ・フリットリが発声も情感も素晴らしい、と意見が一致しました。もう少し若手で完璧な発声と言えばアンナ・ネトレプコやナタリー・デセイが浮かびます。歌には歌い手の人生経験の蓄積が反映するので、あと10年後ぐらいがさらに楽しみ、というところです。
話は生徒さんたちのことにも及びました。彼女がどんなレッスンをしているのか、どんな生徒さんたちがみえているのかが窺われて実に興味深い話でした。音痴は必ず治るという点でも見解が一致。合唱をやっている生徒さんたちが多い点も共通で、もっと合唱界に発声の重要性の認識が広がってほしいと語り合いました。そして、生徒さん達のためにこれからも勉強を続けようね、と言い合って別れました。一夜明けると、何だか胸のつかえが取れたようなスッキリ感。「何でも話せる同業者」は本当に貴重な存在です。

テキスト解析(2)

2014年05月24日 | 日記
「春への憧れ」第1節後半の解析を行います。

3行目。
Wie:ヴぃー。「いかに」、「どんなに」という意味。英語のhowに当たります。
moecht:メひと。oeはウムラウトで、「お」の唇の形で「え」と発音します。chはここでは「ひ」から母音「い」を取り去った舌音。「~したい」という意味の助動詞で、行末の動詞sehn(「見る」)とセットになって「見たい」という意味になります。
ich:いっひ。この文の主語で、「私は」という意味。chはここでも舌音。
doch:どっほ。文意を強調して「だって~ですもの」というニュアンスを出す語です。このchは喉音で、「は」から母音「あ」を取り去った音。直前のoの母音の口形のまま発音するので、どっほと聞こえます。
so:ぞー。「そのように」、「それほど」という副詞で、ここでは次のgerneとセットになっています。母音の前のsは濁音になるので、「ぞー」です。
gerne:げるね。「喜んで」、「好んで」という意味の副詞です。
ein:あいん。英語のa, anに当たる不定冠詞で、次のVeilchenにかかっています。eiの読み方は「あい」。
Veilchen:ふぁいるひぇん。スミレです。vは英語のfと同じ発音、chはここでは舌音。
wieder:ヴぃーだー。「再び」という副詞。wは英語のvと同じ発音、ieの読み方は「いー」。語尾のerは音便化して「あー」。
sehn:ぜーん。「見る」という動詞。sは濁ります。本来はsehenですが、韻律の関係で2つめのeが脱落しています。hは前の母音を伸ばす機能を持ち、音はありません。

「ぼくはどんなにスミレの花に再会したいことか。」

4行目。
Ach:あっは。「ああ」という詠嘆。chは喉音。
lieber:りーばー。形容詞lieb「親愛なる」、「愛しい」に男性1格語尾がついた形です。
Mai:まい。5月のこと。ドイツ語の名詞はすべて男性、女性、中性に類別されますが、1月から12月までの月の名前はすべて男性名詞です。性別は名詞の前に置かれる冠詞や形容詞の語尾変化によって表されます。
wie:ヴぃー。「いかに」。
gerne:げるね。「喜んで」、「好んで」。
einmal:あいんまーる。ここでは「(未来の)いつか」という意味です。
spazieren:しゅぱつぃーれん。ぶらぶら歩くという意味ですが、次のgeh(e)nとともに「散歩する」という意味になります。語頭のspは「しゅぷ」という音になります(正確には「しゅ」から母音の「う」を取り去った音+「ぷ」から母音の「う」を取り去った音)。zは「つ」から母音「う」を取り去った音。
gehn:げーん。「行く」という動詞ですが、「spazieren gehen」で散歩するという意味です。これも本来はgehenですが、韻律の関係で2つめのeが脱落しています。

「ああ、いとしい5月よ、早くまた外を散歩したいなあ!」

ドイツの冬は長くて厳しいので、花が一斉に咲き始める5月を待ち焦がれる気持ちには切実なものがあるようです。この詩には、早く表に出て思いっきり走り回りたい、きれいな花の色や明るい新緑に目を喜ばせたい、という春への憧れが子供の視点で表現されています。

韻律図式は基本的に「弱・強・弱・強...」のパターンで、各行に3つの強拍があります。奇数行は弱拍で終わり、偶数行は強拍で終わっています。
各行の行末を見ると、奇数行はmache/Bache,gerne/gerne、偶数行はbluehn/gruen, sehn/gehnと脚韻を踏んでいます。このパターンは「交叉韻」と呼ばれます。

モーツァルトは詩の韻律に合わせて6/8拍子の弱起で作曲しています。ドイツリートは(ヨーロッパの歌曲は全部そうですが)言葉の強弱と音楽的な強弱が一致しているので、歌いやすく聞き取りやすい。その点、昨今の日本のポップスとは大違いです。

それではこれにて。

右脳のレッスン

2014年05月22日 | 日記
テキスト解析は一旦お休みして、今日はレッスン報告記とします。
今日はNさんとご一緒にW先生のお宅に伺わせて頂きました。Nさんが昨日から明日にかけて所用で上京なさるとおっしゃっていたので、一度是非W先生のレッスンにお供したいというご希望を叶えるべく日程調整して、二人でお伺いすることになったのです。私は日帰りです。
ここしばらく大気汚染の影響で喉がどうにも不調で、練習らしい練習が全然できない状況が続いているので、昨夜W先生にお電話して「明日はPM2.5対策をご伝授下さい」とお願いしておきました。東京都下のW先生宅の周辺は緑が豊かで、少なくともPM2.5に関しては熊本より好条件です。ともかく声を聞いて頂くと、声帯を通り抜けた声が一旦声帯の方に逆流し、改めて上へ抜けようとしているようだと仰いました。声帯を意識し過ぎているので、そこから声を抜こうと思えば思うほど力が入るようなのです。声帯のことは忘れて、息を瞬時に上へ抜くようにと仰いました。口の奥をもっと横へしっかり開け、声を耳の後ろに持っていくこと、篩骨の緊張をゆるめないこと、ンガという発音で少し詰まった声を出し、その声の当たりをそのままにして後ろへ引っ張ること、その時顎をのけぞらせないこと、等々、いつものように手取り足取り教えて頂きましたが、先生が「声帯」という言葉を使って説明される度に私の意識が声帯に向いてしまうので、すぐさま「声帯のことは忘れて!」と仰って別の方法を示して下さいます。その誘導に従っているうちに息と声のポジションが高くなってきました。
頭で考えると逆効果になる、と再三言われ、「あんまり一生懸命言われたとおりにしようと思わないで、ちょっとだけやればいいのよ、そして、それでいいよと言われたら、ああこんな感じか、というぐらいに受け止めておけば良いの。頭で考えるとバランスを崩すのよ。全体を見て言っているんだから、あんまり部分的な弱点を意識するとかえって変に力んで、結局わからなくなっちゃうのよ」と仰いました。仰っていることはよーくわかります。人の声はかなり正確に分析できますが、自分の発声を自分で分析しても的を外れていることが多いものです。発声は最終的には感覚的に身に付けるしかないのですものね。
Nさんはきっと私の声を聴いていてすごく面白かったのではないかと思います。Nさんご自身もレッスンを受けられましたが、私は飛行機の時間があるので、Nさんのレッスンの途中でおいとましました。こんなふうに生徒さん方をお一人ずつお連れしてW先生のところに通えたらどんなに良いでしょうね。
付記 東京は今日は荒天で、落雷のため帰りの飛行機が何と2時間も遅れました。私は雨女なので、同じ雨女の友人と出かけると相乗効果でよく雷雨になります(笑)。私に同行される方はどうぞそのおつもりで(笑)。