才能

2013年08月30日 | 日記
昨夜は本を読みふけって夜更かしをしてしまい、一日遅れの更新となりました。
数日前の朝ドラで、アイドルの卵という設定の主人公に向かって大先輩の女優が、「あなたにはやっぱり女優は向いていない」と前置きした上で、「向いてないことを続けられるのも才能よ。頑張りなさい」と励ますシーンがあり、不肖私、この言葉に思わず反応してしまいました。まるで若き日の自分に言われているような気がしたのです。
音楽も含め、芸術家や学者、職人などを目指す場合、まずは「才能」が問題になりますよね。声楽の場合は、何と言っても「良い声」を持っていること。声楽家は大抵、子どもの頃から周囲の人たちに「いい声だねえ」と言われ続けて育っています。それから、音感やリズム感、フレーズ感などが良いこと。「カンの良さ」もこの中に含まれるでしょう。いわゆる「音痴」でないこと、です。「あの人、声はすごくいいのに音痴よね」と言われる人も時々いますから(私は「音痴は直る」と思っているので、音痴だから歌を諦めるべきだとは決して思いませんが、プロを目指すとなると話は少し違ってきます)。そしてもちろん、歌が大好きであること。まあ、声が良くて音楽的センスもあって、それで歌が嫌いという人はめったにいないでしょうが(笑)。この3つは、声楽家を目指すなら外せない前提条件です。多少のデコボコはあっても、音大の声楽科や教育学部の音楽科に行くような人にはこの3つは必ず備わっているのですが、いざ音大に入ってしまうと、このデコボコの序列が非常に気になり、「私は歌には向いていない」と悩むことになります(笑)。
これと別に、「あの人は歌に向いてるよね」と言われるような特性があります。それは、性格が外向き(=社交的で目立つことが好き)で容姿が人並み以上で、華(オーラ)があること。声楽科の人は器楽科や楽理、作曲などの人と比べると明らかに華やかです。昔から、音大のキャンパスを颯爽と胸を張って大きな声で喋ったり笑ったりしながら歩いているのは声楽科の学生と相場が決まっています(笑)。蛇足ですが、私はこの点では全く「歌に向いていない」人間です。
整理すると、歌うたいになる才能とは、1)声が良い、2)音楽的センスがある、3)歌が好きである、4)外向的な性格である、5)容姿が良い、6)オーラがある。大体こんなところでしょう。また、身体的条件というものもかなり大事です。声楽の場合、足腰が強いこと、筋力があること、体力があることも、声の良さに勝るとも劣らぬ条件です。
しかし、こういう「持って生まれた才能」とは別の、隠れた才能(条件)というものもあると思うのです。その筆頭が「継続力」です。「あきらめない」力とも言えるでしょう。以前、学位論文を書いていた頃、仲間内で励まし合う時の合言葉が「あきらめなければ必ず書ける!」でした。
そして、コツコツ努力し続ける力です。あきらめずに努力し続けることができれば必ず花開く。持って生まれた才能の多少のデコボコは努力で補えます。そして、そういう内面的なものは不思議と歌ににじみ出てくるものです。
矛盾するようですが、人生という大きな視点で見れば、どんなに愛着のあるものでも潔くスパッと諦める力が必要な時もあります。人生は複雑で不可思議なものですから。そう考えると、あきらめずに継続することができた場合、そこには本人以外の力やサポートが存在したということでもあります。まことに感動的なことです。

時代

2013年08月27日 | 日記
中島みゆきの「時代」という曲がありますね。障がい者福祉サービス事業所のヴォイトレで今月の曲として歌っています。実は私、この歌を知りませんでした。わりと古い歌なんですね。よく卒業式で歌われた曲だそうです。

今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて もう二度と笑顔にはなれそうもないけれど

そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしない で今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ時代はまわる 喜び悲しみ繰り返し
今日は別れた恋人たちも 生まれ変わってめぐり合うよ

旅を続ける人々は いつか故郷に出会う日を
たとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る
たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても
めぐるめぐるよ時代はめぐる 別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ

まわるまわるよ時代はまわる 別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人達も 生まれ変わって歩き出すよ
今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ

深い絶望と、再生への希望が歌われています。私は、時の流れを「時間」ではなく「時代」と言い表していることと、「めぐる」、「まわる」、「生まれ変わる」という言葉で循環の思想が語られていることに特に注意を惹かれました。時代という言葉からは、できごとが一つの時間的な枠組で捉えられ、一旦完結した後、改めて回想されるようなイメージが想起されます。しかしこの詩では、語り手は「今」は絶望の極みにいるわけです。ということは、この深い悲しみの中で、主人公の心はすでに時間の流れを飛び越えて「未来」にある、ということですよね。強靭な意志の力を感じさせる言葉遣いです。
また、恋人たちはいずれ生きて再会を果たすのでしょうか、それともあの世で再会するのでしょうか。行き倒れた旅人たちは息を吹き返して旅を続けるのでしょうか、それとも、この世の生を終えて、あの世で旅を続けるのでしょうか。
この世とあの世、今と未来が混然一体となったこの詩は、何とも言えない不思議な雰囲気を湛えています。8月は原爆忌、お盆、終戦記念日など、死者を思うことの多い月です。歴史を刻みながら、先人の命を継いで、今ここに生きているこの命の重みを再認識する8月にふさわしい曲だったと思います。


健康発声セミナー2日目

2013年08月25日 | 日記
今日はすごい雨でしたね。うちの前の通りは冠水して通れなくなっていたようですが、セミナーに出かける直前に注意報が解除されました。このお天気ではさすがに今日は少ないだろうと思いましたが、予想通り開始10分前にお一人お見えになっただけ。ひょっとして今日は個人レッスンになるかと思いましたが、定刻を少し過ぎて小学生の女の子同伴のお母さんが来られました。この女の子、どこかで会ったことあるなと思ったら、一昨年、昨年と続けてヴォイトレに行った小学校のコーラス部のメンバーでした。
小学生にもわかるようにと思いながら入門編のレクチャーを始めましたが、ゆっくり丁寧に説明とエクササイズをやると時間が足りませんね。ポイントを絞って話したつもりですが10分ほど超過してしまいました。ストローを使った呼吸の練習は狙い通り有効でした。小学生は、呼吸と共鳴のしくみはわかったようですが、声帯や喉頭蓋など発声器官の話は難しかったそうです。
応用編は男性2人。終了時間間際に常連さんの女性が来られました(時間を間違えていたそうです)。今日はアメリカ民謡の「線路は続くよどこまでも」を教材にしました。下行音程で息を落とさないこと、子音で身体にかかる負荷を利用して母音につなぐこと、タ行、ダ行、ラ行は舌で上の前歯の裏を弾いて発音すること、エやイの母音は下あごに力が入らないよう口角を少し閉め気味にすること、などを細かく練習しましたが、3人ともかなり歌える方たちだったので、急遽オリジナルの歌詞(英語)を検索して英語で歌うことにしました。特にrの発音は、舌を持ち上げ、舌小帯が見えるように後ろへ巻き込む練習をしました。日本語は舌をあまり使わないので結構難しいのですが、鏡を見ながらだとよくわかります。
いろんなアプローチで練習しているうちに、もともと少し超過していた時間がさらに押してしまいましたが、最後はとても英語らしい響きで歌って下さいました。来週は最終日です。読者の皆様、よろしかったらどうぞご参加下さい。お待ちしています!

何度も、下あごの話

2013年08月23日 | 日記
昨夜は姪の夏休みの宿題に付き合っていたため、一日遅れの更新となりました。
さて、もう何回書いたかわかりませんが、下あごの硬さは日本人の宿痾とも言うべきハンディキャップです。これは普段喋っている日本語の影響なので、そもそもほとんどの方に自覚がありませんし、その力みを取るのに一苦労します。
昨日、60代の女性がレッスンに来られました。声楽歴が長く、ソロ活動や合唱をライフワークとしていらっしゃる方です。以前しばらくうちに通っていらっしゃいましたが、お仕事の都合で中断し、最近またレッスンに復帰されました。吸気筋を使うことや下半身の筋肉を使うことなど、基礎的なことを一つ一つ確認しながらレッスンをしていますが、その中で一番苦労なさっているのが「下あごの力を抜く」ことです。「軟口蓋を挙げ、口の奥を開け、そのまま下あごを軽く左右に動かして下さい」と言うと、唇や舌、顔全体が左右に泳ぐばかりで、下あごが全然動きません。下あごが硬いと舌根も硬いので、まず舌のストレッチを十分にしました。また、顎関節が固まっていて上あごが挙がらないので、棚に顎を載せて口を開ける練習をしました。「あと1㎜挙げて下さい」と言うと、ギシギシっときしむ感じです。そのまま短めの音型で発声をして頂くと、下あごに力が入って棚を押してしまいます。「下あごは載せておくだけにして下さい」と言うと、少し腰回りの筋肉が動き出しました。これをもっと徹底するために、上半身を前屈して首の力を抜き、頭頂が床と向かい合わせになるようにしてあくび声でスタッカートをしながら徐々に上体を起こして行き、最後は頸椎も起こしてまっすぐに立ちます。途中で下あごに力が入って響きが変わってしまうポイントがあるので、その少し手前から何度かやり直します。
そうこうしているうちに、このNさん、「あ、今の声はヴィブラートがかかっていませんね。私でもこんな声が出るんですね!」と感激の面持ち。合唱でノン・ヴィブラートの弱音を求められ、ソプラノの高音域でそれは無理だと困っていたそうです。レッスンが終わる頃、「先生、今、下あごが軽いです。ラクです。」と言われました。おそらくそれまで、下あごが硬いとか動きにくいという自覚さえなかったと思います。喜んで帰って行かれるNさんを見送りながら、喜びと疲れが同時に噴き出してきました(笑)。

声と身体

2013年08月20日 | 日記
話し声を改善したいという方の新入門が相次いでいること、そういう場合も歌を歌って頂く方が上達が速いことは、最近何度かここに書きました。話し声だけをいじるのは難しいのですが、歌ってもらって口の奥の開き具合や体の使い方をつかんで頂き、その感じをキープして喋って頂くと響きがよくなります。レッスンをしていると、日本語が横隔膜をほとんど使わず、口の奥を閉めて口先だけで喋る言語であることを再認識させられます。
一方、本格的に声楽を勉強された方には「歌い過ぎ」の傾向が見られます。大きな声を出さなくてはいけないという無意識の刷り込みがそうさせるのでしょう。喉や下あごに力を入れ、呼気筋で声を前へ押し出そうとされるのです。口の奥を開け、声は後ろへ。この原則を頭では十分に理解されているはずなのに、どうしても意識が前方に行ってしまうようです。声を前へ飛ばす、というような表現で訓練されてきた名残りかもしれません。
よく響く声を出すには上半身には力が入ってはいけません。胸を軽く張った状態をキープして、足腰の筋肉、特に内層筋をしっかり使えるようにします。しかしこれは、口の奥を開ける、上あごを挙げる、下あごの力を抜く、舌の動きを良くする、洟をかむといった運動とつながっているので、そうしたことと切り離して独立的に下半身に力を入れてもあまり意味がありません。発声時は全身が有機的につながって動くのですから、便宜上部分的に練習するとしても、最終的には全身がよいバランスで引っ張りあっている時の感覚をつかまなくてはいけません。しかし「よいバランス」というのはなかなか覚えられないものです。何しろプラスマイナスゼロですから、覚えようにも手掛かりがないのです。
話し声のためのヴォイトレでは、「身体を使っている」、「声と体がつながっている」という感覚が大事ですが、声楽発声の方は「体に余計な力が入っていない」、「まるで声が勝手に鳴っているみたい」と感じる時が良い発声です。無論、目指す声はどちらも「よく響く声」です。
目にも見えず、触ることもできない「声」を磨くには、感覚が頼りです。生理学的な知識も、発声時の感覚とセットで覚えなければ意味がありませんよね。発声を身に付けるためには、頭と身体を同じぐらい使わないといけないようです。