2日目の夕食会には、ウィーンへご一緒したソプラノのOさん、Oさんが音楽療法士として勤務している老人ホームの施設長Fさん、教育委員会のKさん、コンサート会場の一つだった仮設体育館のお隣のお寺の住職さんが参加され、私たちをねぎらって下さいました。今回はこの方たちの全面的なバックアップのもとでコンサートが開催されたのです。この2年3ヶ月の間、毎月この地に足を運び続けて来られたM先生の真心が、今回このような形で一つの結実を見たわけです。私たちはいわばお神輿に乗せてもらって演奏をさせて頂いただけなのですが、そんな私たちをこんなに歓待して下さって、何だか申し訳ないような気がしました。
F施設長さんがこの日何度もおっしゃった「今日一番癒されたのは私です。涙が止まりませんでした」という言葉に、ご自分自身も被災者でありながら、施設長として入所者の方たちの心身のケアや行政との対応に全力で取り組んで来られたこの2年間の、言葉にならない思いの蓄積を感じました。やっと泣ける日が来たということかもしれません。Oさんも、震災のショックで歌声を失い、今再び歌声を取り戻した感慨を語られました。状況は違っても同じように心因性のショックで歌声を失った経験のある私には身につまされる話でしたが、この後、M先生もやはり精神的なショックが重なって声が出なくなったことがある、とおっしゃるのを初めて聞きました。程度の差はあれ、誰の人生にも何らかの苦しみや悲しみの経験はあるのですね。だからこそ人に優しくなれるのでしょう。そして人と心が通じ合った時、過去のすべての経験が宝になるのだと思います。
住職さんのお話では、この日の午後に演奏させて頂いた地区は旧伊達藩で、他の南部藩の地域とは風習や気質が違うのだそうです。これに関連してKさんは、震災復興のあり方も集落ごとに異なって然るべきではないかとおっしゃいました。土地の人の意見には重みがあります。また、ヴァイオリニストのN氏の「高い防潮堤を作ったりしていますけど、それで津波は防げるんですか?」というお尋ねに、「無理でしょう。それに、そういう人工の防潮堤のせいで津波が見えなくて逃げ遅れた人がたくさんいます。自然と共生していくのが人間のあり方です。私たちは何度も津波に遭っているので逃げ方もわかっているんです。災害を完全に防ぐなんて無理です」とKさんがおっしゃっていましたが、この旅の前に読んだ『共災の論理』という私の恩師の著書にも同じ主旨の文章がありました。日本人は歴史的に、地震、津波、台風、洪水、火砕流、土石流、山崩れ、落雷など実にさまざまな災害とともに生きてきたという事実に立ち、自然とはそもそも恵みも暴威ももたらすもので、人間が自然を支配下に置くことなどできないことを認識する重要さが説かれていました。そんな環境の中で、力を合わせてネットワークを築いて生き抜いてきたのが日本人なのだと。人間が自然をコントロールできるという傲岸な発想と科学技術に対する盲信(狂信?)は根っこでつながっています。自然の中で生業を営んできた人々にはその不遜さがよくわかるのでしょう。
Kさんはまた「釜石と熊本は世界遺産の件で協力していくことになると思いますので、よろしくお願いします」ともおっしゃいました。恥ずかしながら私は、荒尾の万田坑と釜石の製鉄高炉跡が「近代化産業遺産群」という括りで一緒に世界遺産登録を目指していることを知りませんでした。岩手と九州では随分離れているように思いますが、世界遺産という規模で見ればひとまとまりなのですね。東北がぐっと近くなったような気がしました。
このような含蓄ある会話を交わしながら2日目の夜が更けていきました(続く)。
F施設長さんがこの日何度もおっしゃった「今日一番癒されたのは私です。涙が止まりませんでした」という言葉に、ご自分自身も被災者でありながら、施設長として入所者の方たちの心身のケアや行政との対応に全力で取り組んで来られたこの2年間の、言葉にならない思いの蓄積を感じました。やっと泣ける日が来たということかもしれません。Oさんも、震災のショックで歌声を失い、今再び歌声を取り戻した感慨を語られました。状況は違っても同じように心因性のショックで歌声を失った経験のある私には身につまされる話でしたが、この後、M先生もやはり精神的なショックが重なって声が出なくなったことがある、とおっしゃるのを初めて聞きました。程度の差はあれ、誰の人生にも何らかの苦しみや悲しみの経験はあるのですね。だからこそ人に優しくなれるのでしょう。そして人と心が通じ合った時、過去のすべての経験が宝になるのだと思います。
住職さんのお話では、この日の午後に演奏させて頂いた地区は旧伊達藩で、他の南部藩の地域とは風習や気質が違うのだそうです。これに関連してKさんは、震災復興のあり方も集落ごとに異なって然るべきではないかとおっしゃいました。土地の人の意見には重みがあります。また、ヴァイオリニストのN氏の「高い防潮堤を作ったりしていますけど、それで津波は防げるんですか?」というお尋ねに、「無理でしょう。それに、そういう人工の防潮堤のせいで津波が見えなくて逃げ遅れた人がたくさんいます。自然と共生していくのが人間のあり方です。私たちは何度も津波に遭っているので逃げ方もわかっているんです。災害を完全に防ぐなんて無理です」とKさんがおっしゃっていましたが、この旅の前に読んだ『共災の論理』という私の恩師の著書にも同じ主旨の文章がありました。日本人は歴史的に、地震、津波、台風、洪水、火砕流、土石流、山崩れ、落雷など実にさまざまな災害とともに生きてきたという事実に立ち、自然とはそもそも恵みも暴威ももたらすもので、人間が自然を支配下に置くことなどできないことを認識する重要さが説かれていました。そんな環境の中で、力を合わせてネットワークを築いて生き抜いてきたのが日本人なのだと。人間が自然をコントロールできるという傲岸な発想と科学技術に対する盲信(狂信?)は根っこでつながっています。自然の中で生業を営んできた人々にはその不遜さがよくわかるのでしょう。
Kさんはまた「釜石と熊本は世界遺産の件で協力していくことになると思いますので、よろしくお願いします」ともおっしゃいました。恥ずかしながら私は、荒尾の万田坑と釜石の製鉄高炉跡が「近代化産業遺産群」という括りで一緒に世界遺産登録を目指していることを知りませんでした。岩手と九州では随分離れているように思いますが、世界遺産という規模で見ればひとまとまりなのですね。東北がぐっと近くなったような気がしました。
このような含蓄ある会話を交わしながら2日目の夜が更けていきました(続く)。