みちのく紀行(3)

2013年06月29日 | 日記
2日目の夕食会には、ウィーンへご一緒したソプラノのOさん、Oさんが音楽療法士として勤務している老人ホームの施設長Fさん、教育委員会のKさん、コンサート会場の一つだった仮設体育館のお隣のお寺の住職さんが参加され、私たちをねぎらって下さいました。今回はこの方たちの全面的なバックアップのもとでコンサートが開催されたのです。この2年3ヶ月の間、毎月この地に足を運び続けて来られたM先生の真心が、今回このような形で一つの結実を見たわけです。私たちはいわばお神輿に乗せてもらって演奏をさせて頂いただけなのですが、そんな私たちをこんなに歓待して下さって、何だか申し訳ないような気がしました。
F施設長さんがこの日何度もおっしゃった「今日一番癒されたのは私です。涙が止まりませんでした」という言葉に、ご自分自身も被災者でありながら、施設長として入所者の方たちの心身のケアや行政との対応に全力で取り組んで来られたこの2年間の、言葉にならない思いの蓄積を感じました。やっと泣ける日が来たということかもしれません。Oさんも、震災のショックで歌声を失い、今再び歌声を取り戻した感慨を語られました。状況は違っても同じように心因性のショックで歌声を失った経験のある私には身につまされる話でしたが、この後、M先生もやはり精神的なショックが重なって声が出なくなったことがある、とおっしゃるのを初めて聞きました。程度の差はあれ、誰の人生にも何らかの苦しみや悲しみの経験はあるのですね。だからこそ人に優しくなれるのでしょう。そして人と心が通じ合った時、過去のすべての経験が宝になるのだと思います。
住職さんのお話では、この日の午後に演奏させて頂いた地区は旧伊達藩で、他の南部藩の地域とは風習や気質が違うのだそうです。これに関連してKさんは、震災復興のあり方も集落ごとに異なって然るべきではないかとおっしゃいました。土地の人の意見には重みがあります。また、ヴァイオリニストのN氏の「高い防潮堤を作ったりしていますけど、それで津波は防げるんですか?」というお尋ねに、「無理でしょう。それに、そういう人工の防潮堤のせいで津波が見えなくて逃げ遅れた人がたくさんいます。自然と共生していくのが人間のあり方です。私たちは何度も津波に遭っているので逃げ方もわかっているんです。災害を完全に防ぐなんて無理です」とKさんがおっしゃっていましたが、この旅の前に読んだ『共災の論理』という私の恩師の著書にも同じ主旨の文章がありました。日本人は歴史的に、地震、津波、台風、洪水、火砕流、土石流、山崩れ、落雷など実にさまざまな災害とともに生きてきたという事実に立ち、自然とはそもそも恵みも暴威ももたらすもので、人間が自然を支配下に置くことなどできないことを認識する重要さが説かれていました。そんな環境の中で、力を合わせてネットワークを築いて生き抜いてきたのが日本人なのだと。人間が自然をコントロールできるという傲岸な発想と科学技術に対する盲信(狂信?)は根っこでつながっています。自然の中で生業を営んできた人々にはその不遜さがよくわかるのでしょう。
Kさんはまた「釜石と熊本は世界遺産の件で協力していくことになると思いますので、よろしくお願いします」ともおっしゃいました。恥ずかしながら私は、荒尾の万田坑と釜石の製鉄高炉跡が「近代化産業遺産群」という括りで一緒に世界遺産登録を目指していることを知りませんでした。岩手と九州では随分離れているように思いますが、世界遺産という規模で見ればひとまとまりなのですね。東北がぐっと近くなったような気がしました。
このような含蓄ある会話を交わしながら2日目の夜が更けていきました(続く)。

みちのく紀行(2)

2013年06月27日 | 日記
2日目は朝10時の仮設住宅の集会所でのコンサートからスタートです。最初の20分間、M先生の伴奏でN氏のヴァイオリン独奏があり、終わるや否やお二人は「後はお願いね」と11時からの老人ホームでのコンサートに移動して行かれました。あと30分ほどを、残された私たちで何とかしないといけません。コンサートに集まって下さった20人ほどの方たちは高齢者ばかりです。皆さんとご一緒に手遊び歌を歌ったり、Iさんにオカリナの独奏をして頂いたり、私たちの歌を聴いて頂いたりしてそれなりに楽しんで頂きましたが、もう一つお客様との垣根を超えたいと思いました。腹案として東北民謡の「どじょっこふなっこ」を考えていたのですが、メンバー全員での練習ができていません。どうしようかなあと思いながらふと壁に目をやると、「お茶っこ こちらです」という貼り紙が。これだ!お客様たちに「東北ではものの名前のあとに「っこ」と付けるんですね?べこ、とか、どじょっこ、とか。そこの壁にはお茶っこ、って書いてありますね」と話しかけました。「皆さんに教えて頂きたいことがあるんです。私たち、小学校の時に「どじょっこふなっこ」という歌を習いました。「春になればすがこも融けて」という歌詞でしたけど、その後は何でしたっけ?」と言うと、前列の方たちが相好を崩して「どじょっこだのふなっこだの 夜が明けたなと思うべな」と教えて下さいました。メンバー全員で歌詞を復唱した後メロディをつけて歌うと、皆さんの表情が生き生きとしてきました。「夏になれば?」と尋ねると「わらしこ泳ぎ どじょっこだのふなっこだの 鬼こ来たなと思うべな」と答えが返ってきます。こうして秋、冬と進み、全部を通して歌う頃にはすっかり打ち解けた雰囲気になりました。よかった!
こうして1時間弱のコンサートが終わると、一人の男性が近づいて来られました。ご病気で言語まひがあるようでしたが、この方は何と熊本出身なのだそうです。お身内はいらっしゃらないとのこと。異郷の地の仮設住宅に一人で住んでおられるのかと思うと胸が詰まりました。「また来ますね」と言いながら差し出した手をいつまでも離さず、涙を湛えて「ありがとう」と声を振り絞られるお姿に後ろ髪を引かれながら、M先生たちが先に行かれた老人ホームに向かいました。ここでは、普段全く声を出さない方が「アンコール!」と叫んだのだそうです。施設長さんが「今日のコンサートで一番癒されたのは私です。涙が止まりませんでした」とおっしゃっていました。
ここで昼食を頂いて、車で15分ほどの場所にある中学校の仮設体育館に移動しました。日曜日だったので、30名ほどのお客様の中には数名の小中学生の姿も。ここでもN氏の華麗なヴァイオリン独奏に大きな拍手が沸き起こりました。続いて私たちの合唱、またしてもアリャビエフの「ナイチンゲール」、そして一行の最年少のT君がお得意のエグザイルの歌のサビの部分を独唱しました。M先生の采配のもとではすべてが流れるようにスムーズに運びます。終了後、熊本から持って行ったお菓子を配りながらお客様と少しお話もできました。「さっきのあの高い声、どうやって出しているんですか?」と訊かれ、「頭の中に内蔵スピーカーを埋め込んでいるんですよ」と冗談を言ったり(笑)。M先生に「また来て下さい」と言った中学生の女の子は、親友を津波で亡くしたのだそうです。後で校長先生が話して下さいましたが、その亡くなった子は、学校に残っていれば助かったものを、おばあちゃんが家にいるからと言って帰り、それで命を落としたのだとか。人一倍優しい子だったとおっしゃっていました。
中学校でのコンサートが終わって宿に戻り、今回のコンサートに全面的に協力して下さった教育委員会の方や老人ホームの所長さんたちとご一緒に夕食会が行われました。忘れ難いお話をたくさん伺いました。次回はそれをご報告します(続く)。

みちのく紀行

2013年06月25日 | 日記
被災地コンサートのご報告です。
22日土曜日早朝、5時過ぎの高速バスで福岡空港へ向かいました。T君とIさんが同じバスに乗られました。JRでやってきた3人と福岡空港で合流し、一路仙台へ。前日に若い女性3人を乗せて東京から現地入りしたプロのドライバーのKさん(今回のコンサートの出演メンバーでもあります)が、私たちを迎えに8人乗りのワゴン車を運転して仙台まで戻ってきて下さっていて、私たち6名と荷物を乗せて再び岩手県へ向けて出発。約5時間の車の旅です。車中で、Kさんが沖縄出身であること、M先生の古くからのお知り合いであること、これまでに何度かM先生に同行して被災地を訪ねていらっしゃることなどをお聞きしました。今回のコンサートは何人で何の曲を歌うことになるのか、Kさんもよく知らないそうです(笑)。「M先生のコンサートはいつもこうなんです」と。私たちも曲のことが一番心配で、東京でのレッスンの録音に合わせて車中で何度も練習しました。
練習の合間に見る外の鄙びた風景の何とも言えない懐かしさ。デジャヴ(既視感覚)に襲われました。何と緑が濃いのでしょう。それに、長袖ブラウス1枚ではうすら寒いほどの涼しさ。さすが東北です。
岩手に入って海岸沿いの道に出ると、津波に襲われた跡がリアルに残っています。あちこちに瓦礫の山、テレビでよく報道された「奇跡の一本松」。胸が詰まるような思いでそれらを見ながら、根こそぎ流されてしまった集落の、辛うじて残った家の付近で車を降りてみました。海など全く見えません。こんなところにまで津波が来たとは信じられないほどでした。
見渡す限りの荒涼たる光景に言葉を失いつつ、午後3時ごろ目的地の大船渡の教会に着きました。簡素で清潔な教会です。震災後に建て直されたのでしょう。大槌町での1時からのコンサートが終わったM先生たちもこちらへ向かっていらっしゃるはずですが、教会も牧師館もまだ閉まっています。めいめいに発声練習をしたり教会の裏手を散歩したりおしゃべりをしたりしているうちに牧師さんが戻って来られ、やがてM先生一行も到着しました。出演メンバーがここで初めて全員揃ってリハーサル、そして本番となりました。
今回のコンサートの目玉は、ドイツで第一級のオーケストラのコンサートマスターを長年務められたヴァイオリニストのN氏です。魂のこもった素晴らしい演奏と、お人柄のにじみ出た温かいトークに、お客様ともども感動に浸りました。N氏の演奏の後、皆でゴスペルナンバーを歌い、私は途中でアリャビエフの「ナイチンゲール」も歌わせて頂きました。伴奏はすべてM先生、そしてお客様はこの教会の信者さんです。人数は多くありませんでしたが、私には会場の空気の密度が非常に高く感じられました。お客様の人数とは不釣り合いなほどです。たくさんの方が耳を傾けて下さっているように感じられました。この時間が永遠に続いてほしい、というような雰囲気の中でコンサートは終了し、そのまま茶話会になりました。N氏は気さくに私に声をかけて下さって、ドイツの話で盛り上がりました。
茶話会の後、仮設の屋台が立ち並ぶ一角に移動し、数人ずつに分かれて食事をしました。その後また数台の車に分乗して宿泊先へ移動したのですが、連絡ミスでお一人の方を屋台村に取り残していることが途中で分かり、引き返してピックアップというハプニングも。宿泊先は釜石の宝来館という旅館です。目の前が海で、平時は素晴らしく眺望の良いところです。ここの女将さんは、一度津波に呑まれて奇跡的に助かったのだそうで、この旅館は非常にドラマティックな経緯があって再建されたそうです。素敵な旅館でした。
こうして初日の夜は暮れていきました(続く)。

チャリティコンサート

2013年06月21日 | 日記
明日から2泊3日で岩手県の被災地に行ってきます。M先生のチャリティコンサートのお手伝いです。お寺や教会、仮設、学校など5~6か所を巡ります。先発隊は既に現地入りしています。明日は熊本から6名が福岡空港発で仙台へ飛び、そこからワゴン車で5時間ほど北上して午後4時半からのコンサートに合流予定。
M先生が「お菓子の差し入れ歓迎」とおっしゃったので、月に2回ヴォイトレをしている障がい者福祉サービス事業所で作っているクッキーを持って行こうと思って注文したら、注文した分の倍量、3個入りの小袋を100個も作って下さいました。また、うちにレッスンに来ている若い女性が「父が製菓会社に勤めているので」とアウトレットを2袋も持ってきてくれました。入院中の我が父からもお見舞いに頂いた菓子折の提供があり、お菓子だけで大荷物です(笑)。荷作りに大わらわの最中にM先生から電話があり、「大槌の後半ではあなたに歌ってもらうから、何でもいいから歌いたい曲の楽譜を持ってきてね」と言われ、ええっ、と絶句する私に「「うぐいす」でも「春の声」でも日本歌曲でも何でもいいから」と無茶振り(笑)。慌てて楽譜を捜索しましたが、リサイタルの時の楽譜一式がどこにも見当たりません。きっとM先生が持って帰られたんだ(笑)。だんだん「矢でも鉄砲でも持って来ーい」という気分になってきました。リサイタル以来一度も歌っていませんが、まだ1ヵ月も経っていないし、M先生が伴奏されるんだし、まあ何とかなるでしょう。ともかく、この目で被災地の現状を見、被災者の方たちと直接お会いする機会を頂いたことに感謝しています。気持ちはあっても、きっかけがないとなかなか足を運ぶことはできませんから。
さて、どんな旅になるでしょうか。しばしご報告をお待ち下さい。それではまた。

頭部共鳴の話

2013年06月19日 | 日記
人体の中で「声の共鳴箱」の役割をしているのは副鼻腔です。副鼻腔とは上顎洞、篩骨洞、前頭洞、蝶形骨洞の4つの総称で、この中で一番大きいのは蝶形骨洞です。
蝶形骨洞は目と鼻の後ろ側を占める大きな蝶々の形の空洞で、頭部共鳴とは端的に言えば「呼気を高速で垂直に吹き上げて蝶形骨洞に送り込むこと」です。つまり、声楽発声に関しては、呼気はいついかなる時も真上へ飛ばさなくてはいけません。
しかるに篩骨共鳴とは何か。篩骨は蝶形骨の前に位置する小さな骨で、蜂の巣状なので重さは3gぐらいしかないそうです。この蜂の巣状というところがミソで、だからよく響くわけですね。「マスケラに響かせる」という言い方がありますが、それは篩骨に響かせることを意味していると思われます。
ところで、声は緊張しているところに集まる性質を持っているそうです。日本人は(ほとんど無意識ですが)下あごが緊張しているので、下あごに声が集まります。しかし下あごに集まった声はあまり響かないのです。そこで、下あごの緊張を解き、目をカッと見開くような感じで篩骨のあたりを緊張させます。難しければ、指で目頭をつまんで前へ引っ張って緊張を作るとわかりやすいでしょう。そうしておいて息を垂直に蝶形骨洞に向けて飛ばします。そうすると、蝶形骨に接する9つの骨のうち前方の篩骨に声が集まってきます。
篩骨が十分に共鳴すると声に芯ができ、前方によく飛びます。曲のクライマックスで篩骨共鳴を使うと効果的なので、発声の中でこの共鳴を会得してもらおうとして「両目の間を緊張させて響きを集めて下さい」という言い方をしていたのですが、どうもこれは誤解を生みやすい表現だったようで、息を直接篩骨に当てようとして呼気が前へ流れてしまい、噎せたり喉声になったりする方が続出してしまいました。そうではなく、両目の間に緊張を作っておいて、呼気はあくまでも真上へ飛ばすのです。呼気は真上へ抜くが声は篩骨に当てる。そうすると明るく張りのある篩骨共鳴が得られます。今日レッスンに来られたIさんは、私の説明が不十分だったため、篩骨に響かせることは「息は真上へ」ということと矛盾するのではないかと思っていらしたそうですが、その誤解が解消したとたん、軽やかで且つ密度の高い、とても美しい響きになりました。
「声は前へ前へ響かせなさい」という指導をされる先生が多いそうですが、それはおそらくこの篩骨共鳴のことをおっしゃっているのでしょう。しかし、うっかりすると「呼気は常に上へ」という大原則を見失って喉声になってしまいます。間違って受け取られないよう、教える側も説明する時にはよく気をつけないといけませんね。