礒山先生の訃報以来、なかなか動揺が収まりません。もう更新されることのないブログについアクセスしては、新たな涙を流しています。
眠れぬままにネットサーフィンをしていると、国立音大のウェブサイトの「音楽徒然草」というコーナーに、だいぶ前に礒山先生がお書きになったエッセイが掲載されているのを発見しました。私の大好きなディヌ・リパッティのことが書いてあり、さらに、私がずっと思っていたことが非常にわかりやすい表現でつづられていました。
ルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッティの伝記を読みました。天才を謳われ、透明度の高い演奏で世界を魅了したこのピアニストが一種の白血病により33歳で世を去ったのは、皆様ご承知の通りです。
その伝記の中で印象に残ったのは、リパッティが生涯を通じて音楽に「仕える」という姿勢を保ち続けたことでした。音楽を尊敬すべき高いものとみなし、その真髄に一歩でも近づくために献身すること。リパッティと彼を支えた人たちは、それを当然のこととみなしていたようです。
こういう考え方こそ音楽への原動力であるべきだと、私は確信しています。いつからか、私は「音楽には神様がいる」と思うようになりました。音楽の神様に喜んでいただくことが音楽の目的であり、だからこそ音楽を愛する人たちは、寝食を忘れ利害は二の次にして、音楽に励むのではないか・・・。気は確かかとおっしゃる方もおありでしょう。しかしそう考えるようになってから、私は音楽の世界を、自然に見通せるようになってきたのです。
近代社会の常識になってきた「人間第一主義」は、人間を超える者へのまなざしの下で、反省されなくてはなりません。たとえば演奏家は、自己顕示を謹んで、作品に、さらには音楽に、献身しなくてはならないと思います。コンサートの帰りに「今日のソリストはうまかったなあ」「すごい歌い手だったね」という会話がかわされるのは、まだ途上。「モーツァルトっていいなあ」「音楽って本当にすばらしいね」という会話がかわされるのが、究極の形なのです。みなが一つになって「音楽に仕える」ときに、人知を超えた楽興の時は実現します。
演奏家は、自己顕示を謹んで、作品に、さらには音楽に、献身しなくてはならない。この一文、礒山先生の思い出とともに、生涯の座右の銘としたいと思います。
眠れぬままにネットサーフィンをしていると、国立音大のウェブサイトの「音楽徒然草」というコーナーに、だいぶ前に礒山先生がお書きになったエッセイが掲載されているのを発見しました。私の大好きなディヌ・リパッティのことが書いてあり、さらに、私がずっと思っていたことが非常にわかりやすい表現でつづられていました。
ルーマニアのピアニスト、ディヌ・リパッティの伝記を読みました。天才を謳われ、透明度の高い演奏で世界を魅了したこのピアニストが一種の白血病により33歳で世を去ったのは、皆様ご承知の通りです。
その伝記の中で印象に残ったのは、リパッティが生涯を通じて音楽に「仕える」という姿勢を保ち続けたことでした。音楽を尊敬すべき高いものとみなし、その真髄に一歩でも近づくために献身すること。リパッティと彼を支えた人たちは、それを当然のこととみなしていたようです。
こういう考え方こそ音楽への原動力であるべきだと、私は確信しています。いつからか、私は「音楽には神様がいる」と思うようになりました。音楽の神様に喜んでいただくことが音楽の目的であり、だからこそ音楽を愛する人たちは、寝食を忘れ利害は二の次にして、音楽に励むのではないか・・・。気は確かかとおっしゃる方もおありでしょう。しかしそう考えるようになってから、私は音楽の世界を、自然に見通せるようになってきたのです。
近代社会の常識になってきた「人間第一主義」は、人間を超える者へのまなざしの下で、反省されなくてはなりません。たとえば演奏家は、自己顕示を謹んで、作品に、さらには音楽に、献身しなくてはならないと思います。コンサートの帰りに「今日のソリストはうまかったなあ」「すごい歌い手だったね」という会話がかわされるのは、まだ途上。「モーツァルトっていいなあ」「音楽って本当にすばらしいね」という会話がかわされるのが、究極の形なのです。みなが一つになって「音楽に仕える」ときに、人知を超えた楽興の時は実現します。
演奏家は、自己顕示を謹んで、作品に、さらには音楽に、献身しなくてはならない。この一文、礒山先生の思い出とともに、生涯の座右の銘としたいと思います。