その1。今月初旬、昔2年間だけ非常勤をしたことのある高校の合唱コンクールの本選審査に呼んでいただきました。私が勤めていた頃は女子高でしたが、今は共学になり、雰囲気もガラッと変わっていました。昔より生徒たちが落ち着いていて、ステージマナーも立派。本選に出られないクラスの生徒たちも一生懸命聴いて大きな拍手を送っているのが印象的でした。これに順位をつけなくてはいけないのがつらいところです。
その2。今、熊本では地元新聞社主催の学生音楽コンクールの予選が始まっています。このコンクールで入賞して今は一流の演奏家や指導者になっている方がたくさんいます。毎年この時期になると、独唱部門を受けたいと言って駆け込みでうちにレッスンに来る中高生がいますが、やはりある程度腰を据えて発声の勉強に取り組んでもらわないと、付け焼刃ではなかなか予選通過とはいきません。今の中高生は忙しく、コンスタントにレッスンに来ること自体が難しいのですが、今年は高1の女子生徒があっぱれ予選を通過しました。中学生の頃から不定期にレッスンをしていた生徒ですが、本番に強いタイプで、中学校の時も学校の合唱コンクールでソリストに選ばれたものの直前に喘息の発作を起こし、それでも素晴らしく立派にソロを務めた実績があります。今回も当日の出番直前まで「出たくない」、「緊張する」を連発していたのに、蓋を開けてみるとまさかの(?)予選通過で、お母さまもびっくりしていらっしゃいました。
その3。一般のコーラス団体のコンクールも今がシーズンです。Facebookの投稿で結果を知りましたが、コンクールをめざす一般の合唱団、たくさんあるんですねえ。私はどちらかというと一般の合唱団体がコンクールで順位を競い合うことには懐疑的です。教育現場でのコンクールにはそれなりの教育的価値もあるでしょうが、大人になって合唱をする場合、その成果を示す方法はコンクールでなくてもいいのではないかと思うからです。もともと音楽は勝ち負けや優劣をつけるものではないというのが一番の理由。刺激がほしい、レベルアップを図りたい、感動を共有したい、という気持ちもわかりますが、それには別の方法があるでしょう。何事も、序列をつけるのはあまり好ましいこととは思えません。
その4。うちの合唱団に熊本地震の犠牲者追悼コンサートへの出演オファーを頂きました。亡くなられた方に対する鎮魂の祈りを歌に託して捧げるというのが趣旨なので、場所もカトリック教会ですし、聴衆も信者さんが中心です。このコンサートの本旨は復興支援ではなく犠牲者追悼ですが、この2つは実は表裏一体です。心理学では「喪の作業」と呼びますが、亡くなった方を心から悼むというプロセスをきちんと通過しないと、残された者は本当には立ち上がっていけないのです。その意味では追悼コンサートにはそれ独自の意義があると思います。しかし問題は、私たちの被災状況や心の傷の度合いに幅があること。こういうステージに立つことで却って落ち込んでしまう危険もないとはいえません。
「歌う」の語源は「訴える」だと言われますよね。ほとばしり出る心のことば、ということでしょうか。それが向かう先が神であれ、死者であれ、ともに生きる仲間であれ、あるいは自分自身の中にいるもう一人の自分であれ、歌は誰かに受け止めてもらうことを必要としている、ということなのでしょうか。普段は忘れていますが、大事なことだと思います。
その2。今、熊本では地元新聞社主催の学生音楽コンクールの予選が始まっています。このコンクールで入賞して今は一流の演奏家や指導者になっている方がたくさんいます。毎年この時期になると、独唱部門を受けたいと言って駆け込みでうちにレッスンに来る中高生がいますが、やはりある程度腰を据えて発声の勉強に取り組んでもらわないと、付け焼刃ではなかなか予選通過とはいきません。今の中高生は忙しく、コンスタントにレッスンに来ること自体が難しいのですが、今年は高1の女子生徒があっぱれ予選を通過しました。中学生の頃から不定期にレッスンをしていた生徒ですが、本番に強いタイプで、中学校の時も学校の合唱コンクールでソリストに選ばれたものの直前に喘息の発作を起こし、それでも素晴らしく立派にソロを務めた実績があります。今回も当日の出番直前まで「出たくない」、「緊張する」を連発していたのに、蓋を開けてみるとまさかの(?)予選通過で、お母さまもびっくりしていらっしゃいました。
その3。一般のコーラス団体のコンクールも今がシーズンです。Facebookの投稿で結果を知りましたが、コンクールをめざす一般の合唱団、たくさんあるんですねえ。私はどちらかというと一般の合唱団体がコンクールで順位を競い合うことには懐疑的です。教育現場でのコンクールにはそれなりの教育的価値もあるでしょうが、大人になって合唱をする場合、その成果を示す方法はコンクールでなくてもいいのではないかと思うからです。もともと音楽は勝ち負けや優劣をつけるものではないというのが一番の理由。刺激がほしい、レベルアップを図りたい、感動を共有したい、という気持ちもわかりますが、それには別の方法があるでしょう。何事も、序列をつけるのはあまり好ましいこととは思えません。
その4。うちの合唱団に熊本地震の犠牲者追悼コンサートへの出演オファーを頂きました。亡くなられた方に対する鎮魂の祈りを歌に託して捧げるというのが趣旨なので、場所もカトリック教会ですし、聴衆も信者さんが中心です。このコンサートの本旨は復興支援ではなく犠牲者追悼ですが、この2つは実は表裏一体です。心理学では「喪の作業」と呼びますが、亡くなった方を心から悼むというプロセスをきちんと通過しないと、残された者は本当には立ち上がっていけないのです。その意味では追悼コンサートにはそれ独自の意義があると思います。しかし問題は、私たちの被災状況や心の傷の度合いに幅があること。こういうステージに立つことで却って落ち込んでしまう危険もないとはいえません。
「歌う」の語源は「訴える」だと言われますよね。ほとばしり出る心のことば、ということでしょうか。それが向かう先が神であれ、死者であれ、ともに生きる仲間であれ、あるいは自分自身の中にいるもう一人の自分であれ、歌は誰かに受け止めてもらうことを必要としている、ということなのでしょうか。普段は忘れていますが、大事なことだと思います。