うたうこと

2016年11月21日 | 日記
その1。今月初旬、昔2年間だけ非常勤をしたことのある高校の合唱コンクールの本選審査に呼んでいただきました。私が勤めていた頃は女子高でしたが、今は共学になり、雰囲気もガラッと変わっていました。昔より生徒たちが落ち着いていて、ステージマナーも立派。本選に出られないクラスの生徒たちも一生懸命聴いて大きな拍手を送っているのが印象的でした。これに順位をつけなくてはいけないのがつらいところです。
その2。今、熊本では地元新聞社主催の学生音楽コンクールの予選が始まっています。このコンクールで入賞して今は一流の演奏家や指導者になっている方がたくさんいます。毎年この時期になると、独唱部門を受けたいと言って駆け込みでうちにレッスンに来る中高生がいますが、やはりある程度腰を据えて発声の勉強に取り組んでもらわないと、付け焼刃ではなかなか予選通過とはいきません。今の中高生は忙しく、コンスタントにレッスンに来ること自体が難しいのですが、今年は高1の女子生徒があっぱれ予選を通過しました。中学生の頃から不定期にレッスンをしていた生徒ですが、本番に強いタイプで、中学校の時も学校の合唱コンクールでソリストに選ばれたものの直前に喘息の発作を起こし、それでも素晴らしく立派にソロを務めた実績があります。今回も当日の出番直前まで「出たくない」、「緊張する」を連発していたのに、蓋を開けてみるとまさかの(?)予選通過で、お母さまもびっくりしていらっしゃいました。
その3。一般のコーラス団体のコンクールも今がシーズンです。Facebookの投稿で結果を知りましたが、コンクールをめざす一般の合唱団、たくさんあるんですねえ。私はどちらかというと一般の合唱団体がコンクールで順位を競い合うことには懐疑的です。教育現場でのコンクールにはそれなりの教育的価値もあるでしょうが、大人になって合唱をする場合、その成果を示す方法はコンクールでなくてもいいのではないかと思うからです。もともと音楽は勝ち負けや優劣をつけるものではないというのが一番の理由。刺激がほしい、レベルアップを図りたい、感動を共有したい、という気持ちもわかりますが、それには別の方法があるでしょう。何事も、序列をつけるのはあまり好ましいこととは思えません。
その4。うちの合唱団に熊本地震の犠牲者追悼コンサートへの出演オファーを頂きました。亡くなられた方に対する鎮魂の祈りを歌に託して捧げるというのが趣旨なので、場所もカトリック教会ですし、聴衆も信者さんが中心です。このコンサートの本旨は復興支援ではなく犠牲者追悼ですが、この2つは実は表裏一体です。心理学では「喪の作業」と呼びますが、亡くなった方を心から悼むというプロセスをきちんと通過しないと、残された者は本当には立ち上がっていけないのです。その意味では追悼コンサートにはそれ独自の意義があると思います。しかし問題は、私たちの被災状況や心の傷の度合いに幅があること。こういうステージに立つことで却って落ち込んでしまう危険もないとはいえません。
「歌う」の語源は「訴える」だと言われますよね。ほとばしり出る心のことば、ということでしょうか。それが向かう先が神であれ、死者であれ、ともに生きる仲間であれ、あるいは自分自身の中にいるもう一人の自分であれ、歌は誰かに受け止めてもらうことを必要としている、ということなのでしょうか。普段は忘れていますが、大事なことだと思います。


ショック

2016年11月13日 | 日記
アメリカ大統領選の結果に大きな衝撃を受け、もともとイマイチだった体調がまたガタガタっと崩れてしまいました。私が落ち込んでもアメリカにとっても日本にとっても何の足しにもならないのですが(-_-;)よほどひどい顔をしていたらしく、大学の控室で先生方が口々に思い思いの表現で慰めて下さいました(笑)。あの日にレッスンに来られた生徒さん方にもご心配をかけてしまって、反省。
熊大では今、一般の社会人向けの公開講座が開催されていて、私もその一つ(自然災害をテーマにした文系の講座)に参加しています。オムニバス方式で、昨日は紛争解決学・平和構築学がご専門の若い女性の先生の担当でした。東日本大震災以来ずっと福島に通っていらっしゃるそうです。昨日はもう一人、臨床宗教師として活動していらっしゃる熊本の牧師さんがゲストスピーカーとして来られていました。東日本大震災の直後に被災地に入られ、それから一年間ずっと、宗教の違いを超えて連携しながら宗教的傾聴や弔いの実践をなさってきた方です。私はケア論で学位論文を書いたので、この数年間の臨床宗教師の方たちの活動に少なからぬ関心を寄せてきましたが、熊本は東日本大震災後、九州の臨床宗教師の方たちの中枢のようになっていたそうで、熊本地震の後、その活動が自然に熊本に接続されたようです。そういえば先日、熊本でもカフェ・デ・モンク(宗教家による傾聴喫茶)が被災地に開設されたと新聞に載っていました。
T牧師は現地の写真をたくさん見せて下さりながら、テレビや新聞では報道されないようなお話をして下さいました。普段M先生からも生々しいお話を伺っていますが、さらに詳細でリアルなお話で、伺いながら様々なことを感じ、考えました。これからも考え続けるつもりですが、今日は前回のブログの内容との関連で一つだけお話を紹介します。
宮城県の小学校で、多数の児童たちが先生方の誘導がまずかったために津波に流されてしまい、先生方の責任を問う裁判が今まさに進行中ですが、この小学校で生き残った生徒や先生にもT牧師はかかわっておられました。津波が発生した時、多くの保護者はただちに子供を学校に迎えに来て連れて帰った(逃げた)そうです。その子たちは助かっているのですね。そして、さまざまな事情で親が迎えに来られなかった子供たちが、あの時全員運動場に集められ、先生の誘導で全員一緒に逃げたわけですが、その中で一人だけ、先生の言うことを聞かないで裏山の方へ走り出した子がいたそうなのです。その子と、その子を連れ戻そうと追いかけた先生の2人だけが助かった。
何という皮肉な顛末でしょう。T牧師が「どうして一人だけで逃げたの?」と訊ねたら、その子は「僕は先生の言うことをあんまり聞かないんだ」と答えたそうです。そして「先生の言うことなんか、あんまり聞くもんじゃない」と。これは教育に対する非常に鋭い警告を含んだできごとではないでしょうか。先日の気のセミナーの講師は、「頭脳」ではなく「身体脳」を鍛えよ、という言い方をなさっています。体は知っているのだと。体育座りという「手も足も出ない」ポーズを取らせ、身体を鈍感にした結果、管理や統制はしやすいかもしれませんが、いざという時に反射的な適応行動の取れない、先生の言う通りにしか動けない身体になってしまっている、と。この小学生はまさにそのことを教えてくれているのではないでしょうか。
私は昔から非常に体が鈍感で、運動能力も人並み以下、体力など人の半分しかなく、体に関してはコンプレックスがとても強かったのです。そんな自分がヴォイストレーナーをなりわいとしていること自体いまだに不思議で、人生というのは本当にわからないものだとつくづく思うのですが、長い間あまりにも頭でっかちで体を抑圧していたので、ひょっとして体が叫びというか、訴えというか、反逆というか、レジスタンスを起こしたのではないかという気がしきりとする今日この頃です。

気のせい?

2016年11月07日 | 日記
ご無沙汰してしまいました。
季節の変わり目で体調を崩している方が多いですね。かく言う私も、何の因果か胃腸が弱って、その影響で背中が硬直し、そのまた影響でぎっくり腰になりかけ、冴えない日々を過ごしております。学園祭で先週末から今日まで大学が休講になってくれて幸いでした(笑)。そんな中でも新しい出会いや旧友との再会があり、なかなか刺激的な毎日です。
先日、「気」を体験するセミナーに参加したのですが、これが面白かったですね。気は目に見えませんが、エネルギーとして実際に存在するものだと私は思っています。W先生のレッスンでも気功体操や武道に由来するエクササイズを教えて頂いているので、気が声に反映することも実感していますが、今回のセミナーで特に興味深かったのは、例えば正座をした後と体育座りをした後ではあきらかに筋力に差が出るという実験です。前者の方が筋力が強いのです。ゆっくりとお辞儀をした後とガッツポーズをした後も、同じく前者の方が筋力が上がるし、箸置きから箸を取る所作をした後と、直置きの箸を取る所作をした後の比較でも同様でした。お箸を使う所作とナイフとフォークを使う所作でも結果は同じです。これがアメリカ人だと、ナイフとフォークの時の方が筋力が上がるらしいのです。よく身土不二と言いますが、不思議な話ですね。
また、目を閉じて、聞こえてくる音をひとつひとつすべて自分の中に受け入れるような意識を持つと、ぐっと丹田に気がこもってくるのを感じました。目を開けた瞬間にその気が抜けていくのですが、今度は目に入るものをひとつひとつ受け入れるような意識を持つと、また丹田に力が戻ってきました。本当に不思議。
体調不良の真っただ中でそんな体験をして、心なしか背中がラクになったような気がして、でもやっぱり本調子じゃない、という状況でM先生が熊本へおいでになって、12月のチャリティコンサートの練習がありました。なんとなくよろよろしながら練習に参加したのですが、なぜか声はよく出ます。特に高音がわりとラクに出るのに驚きました。気のめぐりがよくなったのかな。
そして昨日。すし酢の大瓶を片手でよいしょっと抱えたとたん、左腰にビリっときました。ああっ、と思ったのですが、そのまま合唱団の練習へ。今日は指揮ができないかも...と思いながら練習を始めました。いつものようなストレッチや体操ができないので、今日は呼吸の練習をしましょう、ということになり、おへその上下に両手をあてて、胸を張ったまま前歯の間から勢いよく息を吐き、吐ききったら体の緊張をゆるめて吸気を反射的に迎え入れる、というエクササイズをしてから発声練習をすると、普段通りのよく解放された声が響いてきました。こういう時でもやりようはあるものですね。
そして、練習中にお客様がありました。お一人は某合唱団の代表者の方で、来年4月に計画されている熊本地震犠牲者追悼コンサートへの出演オファーのための来訪でした。カトリック教会でのコンサートなので、ドイツ語の宗教曲をお願いします、とのこと。シューベルトのドイツ・ミサ曲の抜粋を演奏させていただこうかという話になりました。もうお一方は、このブログへのコメントでおなじみのドレミファそら豆さんです。熊本地震でご自宅が全壊し、お子さんたちのいらっしゃる愛知県にご夫婦で引っ越していかれていたのですが、2週間前に熊本に帰って来られたそうです。東日本大震災の時と違って今回は愛知県にみなし仮設がないことと、知り合いが全くいない環境での生活に限界を感じて、とのこと。皆大喜びでお迎えしました。虫の知らせか、私も「今日の練習が終わったらそら豆さんにメールしよう」と思っていたところだったのです。再会できて本当に嬉しかったです。
気、って不思議ですね。この数週間を振り返ると、何もかもが気のせいのような気がしてきました(言葉遊びではありませんよ)。