先ほどNHKで、盲目のピアニスト辻井伸行さんのドキュメンタリー番組を放映していました。彼は子どもの頃から即興演奏にも優れた才能を示していたのですが、クライバーンコンクール優勝以来のフィーバーの中で、自作曲の演奏や映画音楽の作曲のオファーも受けるようになったようです。今後の道筋を見出すために作曲家・ピアニストの加古隆氏にアドヴァイスを受けに行き、「左手を封印して右手だけでメロディーを紡ぐ」やり方を示唆され、戸惑い、苦しみつつ新境地を開拓していく様子が感動的でした。
和声の支えなしにメロディを十分に発展、展開させることを重視する加古さんのスタンスには新鮮な驚きと感動を覚えました。加古さんは芸大・芸大院の作曲科を経て、パリ高等音楽院で現代音楽の泰斗オリヴィエ・メシアンに師事した方です。つまり現代音楽の最前線を走って来られた方なわけです。しかも大学生の頃からジャズにも深く傾倒していたとのことで、私は、そういう人は私たちが思う「メロディ」からは程遠い、言葉は悪いけれど「わけのわからない」作品を書いたり演奏したりするものだと思っていました。私は現代音楽はからっきしダメなのです。ジャズは嫌いではないけれど、リズムの要素が突出しているため「メロディが薄い」ように思えて、あまりなじめません。でも、コマーシャルや映画音楽に使われている加古さんの音楽は(多分自作自演だと思います)、肌触りの柔らかな、ニューエイジミュージック系の音楽のようで、こういう経歴の人でもこういう音楽を書くんだな、と思ったものでした。
それはともかく、「メロディが大事」と言ってもらえると、私たち(歌うたい)は俄然元気になります。なぜって、歌からメロディを取ったら何も残らないではありませんか!それにひきかえ器楽や作曲の人たちは、メロディがどこにどうつながってどう発展しているのか、少なくとも私(たち)にはさっぱり分からないような、極端に言えばメロディが無いような難解な音楽を有り難がって(?)いるように思えてならないことがあります(失礼!)。音大では声楽科の人間は単細胞だと思われている節があり、事実そうなのですが(笑)、しかし、すべての楽器は歌の延長もしくは発展ではないのか?その証拠に、楽器の王様と呼ばれるピアノのレッスンでも、先生方はよく「メロディをもっと歌って!」と言うではありませんか。それなのに現代音楽のこの晦渋さはどうでしょう。
そういうわけで、メロディの美しさや親しみやすさを大切に思う歌うたいの気持ちを認めてくれたような加古さんの言葉に、私はとても心を動かされたのでした。
以前、歌曲の作曲家として有名な中田喜直さんの奥様が、ラジオ番組で「中田はメロディの美しさを大切にしていました。彼は音大の和声学の教師でもあり、彼の作曲の独自性は、同じメロディにほんのちょっと違った和声で伴奏をつけているところなのです」と話しておられました。ああ、メロディを大事にする作曲家もいるんだ、と思うとほっとしました。こんなことを言うと作曲の専門家たちに「当たり前じゃないか」と叱られるかもしれませんが。
ところで、メロディはわかりやすくシンプルであることが、人の心に訴える絶対条件だと思います。かの超有名な「歓喜の歌」だってメロディはいたってシンプルです。子どもの頃、「ポケット歌集」に載っていた「よろこびのうた」の楽譜をたどりながら歌ってみて、なんだこれ、つまんない曲、と思ったものでしたが、とんでもない。滝廉太郎の「荒城の月」もそうです。子どもの頃はあまりにシンプルでつまらない曲に思えたものですが、どちらも不朽の名作だと思います。本当に心に響くものは、メロディに限らずすべてシンプルですね。
和声の支えなしにメロディを十分に発展、展開させることを重視する加古さんのスタンスには新鮮な驚きと感動を覚えました。加古さんは芸大・芸大院の作曲科を経て、パリ高等音楽院で現代音楽の泰斗オリヴィエ・メシアンに師事した方です。つまり現代音楽の最前線を走って来られた方なわけです。しかも大学生の頃からジャズにも深く傾倒していたとのことで、私は、そういう人は私たちが思う「メロディ」からは程遠い、言葉は悪いけれど「わけのわからない」作品を書いたり演奏したりするものだと思っていました。私は現代音楽はからっきしダメなのです。ジャズは嫌いではないけれど、リズムの要素が突出しているため「メロディが薄い」ように思えて、あまりなじめません。でも、コマーシャルや映画音楽に使われている加古さんの音楽は(多分自作自演だと思います)、肌触りの柔らかな、ニューエイジミュージック系の音楽のようで、こういう経歴の人でもこういう音楽を書くんだな、と思ったものでした。
それはともかく、「メロディが大事」と言ってもらえると、私たち(歌うたい)は俄然元気になります。なぜって、歌からメロディを取ったら何も残らないではありませんか!それにひきかえ器楽や作曲の人たちは、メロディがどこにどうつながってどう発展しているのか、少なくとも私(たち)にはさっぱり分からないような、極端に言えばメロディが無いような難解な音楽を有り難がって(?)いるように思えてならないことがあります(失礼!)。音大では声楽科の人間は単細胞だと思われている節があり、事実そうなのですが(笑)、しかし、すべての楽器は歌の延長もしくは発展ではないのか?その証拠に、楽器の王様と呼ばれるピアノのレッスンでも、先生方はよく「メロディをもっと歌って!」と言うではありませんか。それなのに現代音楽のこの晦渋さはどうでしょう。
そういうわけで、メロディの美しさや親しみやすさを大切に思う歌うたいの気持ちを認めてくれたような加古さんの言葉に、私はとても心を動かされたのでした。
以前、歌曲の作曲家として有名な中田喜直さんの奥様が、ラジオ番組で「中田はメロディの美しさを大切にしていました。彼は音大の和声学の教師でもあり、彼の作曲の独自性は、同じメロディにほんのちょっと違った和声で伴奏をつけているところなのです」と話しておられました。ああ、メロディを大事にする作曲家もいるんだ、と思うとほっとしました。こんなことを言うと作曲の専門家たちに「当たり前じゃないか」と叱られるかもしれませんが。
ところで、メロディはわかりやすくシンプルであることが、人の心に訴える絶対条件だと思います。かの超有名な「歓喜の歌」だってメロディはいたってシンプルです。子どもの頃、「ポケット歌集」に載っていた「よろこびのうた」の楽譜をたどりながら歌ってみて、なんだこれ、つまんない曲、と思ったものでしたが、とんでもない。滝廉太郎の「荒城の月」もそうです。子どもの頃はあまりにシンプルでつまらない曲に思えたものですが、どちらも不朽の名作だと思います。本当に心に響くものは、メロディに限らずすべてシンプルですね。