メロディ

2011年12月30日 | 日記
先ほどNHKで、盲目のピアニスト辻井伸行さんのドキュメンタリー番組を放映していました。彼は子どもの頃から即興演奏にも優れた才能を示していたのですが、クライバーンコンクール優勝以来のフィーバーの中で、自作曲の演奏や映画音楽の作曲のオファーも受けるようになったようです。今後の道筋を見出すために作曲家・ピアニストの加古隆氏にアドヴァイスを受けに行き、「左手を封印して右手だけでメロディーを紡ぐ」やり方を示唆され、戸惑い、苦しみつつ新境地を開拓していく様子が感動的でした。
和声の支えなしにメロディを十分に発展、展開させることを重視する加古さんのスタンスには新鮮な驚きと感動を覚えました。加古さんは芸大・芸大院の作曲科を経て、パリ高等音楽院で現代音楽の泰斗オリヴィエ・メシアンに師事した方です。つまり現代音楽の最前線を走って来られた方なわけです。しかも大学生の頃からジャズにも深く傾倒していたとのことで、私は、そういう人は私たちが思う「メロディ」からは程遠い、言葉は悪いけれど「わけのわからない」作品を書いたり演奏したりするものだと思っていました。私は現代音楽はからっきしダメなのです。ジャズは嫌いではないけれど、リズムの要素が突出しているため「メロディが薄い」ように思えて、あまりなじめません。でも、コマーシャルや映画音楽に使われている加古さんの音楽は(多分自作自演だと思います)、肌触りの柔らかな、ニューエイジミュージック系の音楽のようで、こういう経歴の人でもこういう音楽を書くんだな、と思ったものでした。
それはともかく、「メロディが大事」と言ってもらえると、私たち(歌うたい)は俄然元気になります。なぜって、歌からメロディを取ったら何も残らないではありませんか!それにひきかえ器楽や作曲の人たちは、メロディがどこにどうつながってどう発展しているのか、少なくとも私(たち)にはさっぱり分からないような、極端に言えばメロディが無いような難解な音楽を有り難がって(?)いるように思えてならないことがあります(失礼!)。音大では声楽科の人間は単細胞だと思われている節があり、事実そうなのですが(笑)、しかし、すべての楽器は歌の延長もしくは発展ではないのか?その証拠に、楽器の王様と呼ばれるピアノのレッスンでも、先生方はよく「メロディをもっと歌って!」と言うではありませんか。それなのに現代音楽のこの晦渋さはどうでしょう。
そういうわけで、メロディの美しさや親しみやすさを大切に思う歌うたいの気持ちを認めてくれたような加古さんの言葉に、私はとても心を動かされたのでした。
以前、歌曲の作曲家として有名な中田喜直さんの奥様が、ラジオ番組で「中田はメロディの美しさを大切にしていました。彼は音大の和声学の教師でもあり、彼の作曲の独自性は、同じメロディにほんのちょっと違った和声で伴奏をつけているところなのです」と話しておられました。ああ、メロディを大事にする作曲家もいるんだ、と思うとほっとしました。こんなことを言うと作曲の専門家たちに「当たり前じゃないか」と叱られるかもしれませんが。
ところで、メロディはわかりやすくシンプルであることが、人の心に訴える絶対条件だと思います。かの超有名な「歓喜の歌」だってメロディはいたってシンプルです。子どもの頃、「ポケット歌集」に載っていた「よろこびのうた」の楽譜をたどりながら歌ってみて、なんだこれ、つまんない曲、と思ったものでしたが、とんでもない。滝廉太郎の「荒城の月」もそうです。子どもの頃はあまりにシンプルでつまらない曲に思えたものですが、どちらも不朽の名作だと思います。本当に心に響くものは、メロディに限らずすべてシンプルですね。

そっくりさん

2011年12月29日 | 日記
近所のカフェレストランで月例のコンサートが行われています。私も出演させて頂いたことがありますが、来年の2月に再度出演のオファーを頂きました。そこで、時節柄を考慮して前半は「早春に寄せて」というコンセプトにしようと思い、選曲作業に入りました。
早春の歌と言えばすぐに思い浮かぶのが「早春賦」。これを冒頭に持ってきます。次はモーツァルトの「春への憧れ」にしようと思っています。というのも、この曲は冒頭部分が「早春賦」そっくりだからです。どちらも8分の6拍子の弱起で、同じリズムパターンで長調の主和音の分散和音を下から順に上がっていきます。主和音のアルペジオって「早春の音型」なのかしらん?まあ、それはさておき、この2曲を聴き比べて頂くのも一興かなと思い、並べてみることにしました。
この「早春の音型」(?)で始まる有名な曲がもう一つあります。ご存じ、森繁久彌作詞・作曲の「知床旅情」。加藤登紀子さんが歌って大ヒットしましたね。確か私が小学校に上がるか上がらないかぐらいの頃でした。これも歌っちゃおうかな、とも思ったのですが、さすがに3つ並べるのはしつこいでしょうから、MCの中でエピソード的に紹介しようと思っています。
さて、その次に歌う予定の曲は「浜千鳥」。チドリは冬鳥なので、まだまだ寒い2月に歌うにはいいかなと思って。そしてその後に「冬の星座」を持ってこようと思います。この2曲もまたまた最初の部分が同じ音型です。階名で言えば「ドレミソラド」の上行型。「浜千鳥」は4分の3拍子、「冬の星座」は4分の4拍子なので、うっかりすると気がつかないかもしれませんが、これは日本の陽音階(いわゆるヨナ抜き=ファとシが無い五音音階)の上行型です。「浜千鳥」は全部ヨナ抜きですが、「冬の星座」は途中でシが出てきて、そこでぐっとハイカラな感じになります(ファは最後まで出てきませんね)。
第1部は「そっくりさんコーナー」にしてもいいかな、と思ったのですが、これ以上は思いつきません(笑)。あとは「冬景色」、「ちんちん千鳥」、「あわて床屋」、「どこかで春が」を歌おうかと思っていますが、これらの曲のそっくりさんをご存じでしたら教えて下さい。
部分的に似ている曲ってたくさんありますよね。「黄金虫」とブラームスは結構有名ですし、ショパンのエチュードの中には音大生が「お馬の親子」とあだ名をつけている曲があります。調性音楽の範疇で、つまり音階内の音の順列組み合わせの範囲内で美しいメロディーを作るとなれば、時々似たようなモチーフが現れるのは必然です。しかし楽曲全体を見れば、作曲家の意匠が反映された独自の音楽になっているはずですし、上記の2組4曲も、似てはいても、やはりそれぞれ個性をもった素敵な曲です。

セルフケア

2011年12月28日 | 日記
今日は手作りのマドレーヌを持って入院中の知人のお見舞いに行きました。お菓子作りは中学生の頃から私の大事な趣味の一つです。ヴォイス・トレーナーになっていなかったらパティシエを目指していたかも(冗談です)。知人から「吉田さんはいつも忙しいのに、いつお菓子を焼いているんですか」と訊かれ、「今朝出かける前に焼いたのよ」と答えながらふと、私にとってお菓子作りはレクリエーションであると同時にセルフケアでもあるんだなあ、という思いがよぎりました。
私は基本的に「人指向」で、人と接していないと気持ちが不安定になるタイプです。私の周りには、人と接するより一人で手仕事や家事をしている方が落ち着く「家指向」の人や、仕事やヴォランティアなどで社会との接点を常に持っていないと落ち着かない「社会派」の人もいて、私の性格の中にはそれらの傾向も確かにあるのですが、それよりも「決して社交的な性格ではないにもかかわらず、とにかく常に人間と接していたい」という絶対矛盾的自己同一(?)の傾向が圧倒的に強いのです。人と接することによって傷ついたり疲れたりすることもあるけれど、人によって癒されることもそれ以上にあります。だから、どんなに忙しくても複数の人との接触が保たれていれば、気持ちはまあまあ安定しています。
とはいえ、やはりヴォイス・トレーナー兼声楽家兼セミナー講師兼合唱指揮者、ドイツ語講師、倫理学講師、その他諸々、その都度お面をつけかえながら多くの方たちと接する毎日は、自分で思っているよりも緊張しているでしょうし、目に見えないストレスも知らず知らず蓄積しているだろうと思います。有り難いことにヴォイス・トレーニングはストレス発散に大変適していて、生徒さんと一緒に声を出すことで私自身もかなり発散できていますが、それでもやはり、時々仕事と全然関係ないことをしたくなるのです。
そんな時、家で簡単に気分転換できる方法の一つがお菓子作り。適度に頭も体も使い、ケーキの焼ける甘い香りに包まれると幸せ気分になれ、焼き上がったお菓子を見て達成感を味わうことができます。私にとってお菓子作りは一種の作業療法になっているようです。
人さまのケアをする人は、自分の心身のケアもおさおさ怠りなく心がけていないと、うっかりすると燃え尽き症候群に陥ってしまいますが、私は専らお菓子作りと寝ることでセルフケアを行っております(笑)。簡単で安上がりで実益もあり、本当にいい趣味です(自画自賛)。

聴覚・視覚

2011年12月27日 | 日記
7,8年前から俳句をやっています。といっても時々句会に参加する程度ですが。今日の句会で、「極月や弓長く引くバイオリン」という句が注目を集めました。極月とは12月のことです。ごくげつ、と読みます。その場に音楽関係者が私しかいなかったため、互選の時「これは李佳さんの句でしょう?」と皆さんに言われましたが、違います。この句会の世話役でベテランのMさんの句でした。「へえ、Mさんはヴァイオリンを弾くの?」と訊かれ、Mさんは「いえ、これはヴァイオリン協奏曲のCDを聴いた印象を詠んだものです」と言われました。すると、師匠のI先生が「聴覚的な経験があたかも視覚的経験のように語られ得る。これが俳句の面白さなんですよ」とおっしゃいました。「長い、という語は視覚的にも聴覚的にも使えますからね」と。
もう少し補足すると、CDを聴いていて、ややゆっくりめのテンポ感で力強くフレーズが弾かれていれば、「このヴァイオリニストは弓をたっぷり使って弾いているな」と(演奏の様子を見なくても)わかります。その印象を俳句にすると、それを読んだ人は「弓長く弾く」という表現から「誰かが弓をたっぷり使って弾いている様子」を思い浮かべます。そして、その「誰か」は作者じゃないのかな、あるいは作者はヴァイオリンのリサイタルでも聴きに行って、演奏者を間近に見ているのかな、という推理が働きます。作者の説明を聞いて初めて、ああそうか、CDを聴きながら演奏の様子を想像しているというシチュエーションもあり得るんだ、と気付くわけです。
視覚と聴覚のクロスオーバーは、五感を超えた超感覚的次元から見れば別に不思議なことではない、という学説を読んだことがあります。そういえば、私の大好きな「9つのドイツアリア」というヘンデルの作品の中に、「わが魂は見ることにおいて聴く」という曲がありますが、その歌詞は「我が魂は見ることにおいて聴く。万物が造物主をほめたたえようとして歓呼し、笑いさざめくさまを。さあ、耳を澄ませてごらん。花盛りの春の華麗さは自然の言葉だ。自然はその言葉を、視覚によって、至る所で私たちと語り合っている。」というものです。私(作者)は、花々の咲き誇る春の美しい光景を見て、それを花々が「歓呼」し、「笑いさざめいて」いるように感じています。つまり、魂の中に花々の「歓呼」や「笑いさざめき」が聴こえてくる、というのです。耳を傾けていると、やがてそれが自分に向かって語りかける「言葉」のように感じられてくるのですね。ここでは、聴覚と視覚が混然一体となって一つの体験の二つの側面となっています。
盲目のヴァイオリニスト和波孝禧さんが、子どもの頃、レッスン中に先生が何か説明をされる時に「ほら、見てごらん」とおっしゃるのを何の違和感もなく聞いていた、と話しておられましたが、聴覚と視覚は案外かなり近い、ある種の互換性のある感覚なのかもしれません。そういえば、今日の句会で師匠の選を通った句の中に私の作が3つありましたが、なぜか全部視覚的な句でした。恥ずかしながらご披露します。「手袋のひとつ落ちたる通学路」、「到来のぽんかんの色あたたかく」、「冬林檎ゆたかに紅き冷蔵庫」。2句目はぽんかんの橙色と「あたたかい」という温度感覚のクロスオーバー、3句目はリンゴの赤い色と「ゆたかさ」という充足感のクロスオーバーです。こうしてみると、五感というのは結局一つの感覚の五つの側面に過ぎないのかもしれない、と思えてきます。
余談ですが、リンゴの句は師匠から「冷蔵庫、は要りませんね。生活感が出過ぎている。」と言われました。私もそう思うのですが、他に持ってくる言葉が見つからなかったのです(笑)。

音名・階名

2011年12月26日 | 日記
再びソルフェージュのお話です。
うちの姪たちのレッスンでこの前からドイツ音名をやっています。子どもは一点ト音ぐらいが声の一番出やすい高さのようなので、ピアノで一点ト音を弾いて、その音高に合わせて「ゲー」と歌わせます。次に鍵盤一つ上がって「アー」、また戻って「ゲー」、今度は鍵盤2つ上がって「ハー」、また戻って「ゲー」、鍵盤3つ上がって「ツェー」...といった具合。
前々回、前回と「ゲー」(g)を起点として5度音程までを正確に歌う練習をしました。そこで今日は一つ下がって「エフ」(f)を起点とする5度音程をやってみようとしたところ、小4の姪が「エフってファのこと?」と訊くのです。この子たちは学校で音名を習っていないのですね。というか、音名も階名も同じ「ドレミファソラシド」で習っているらしいのです。だからエフは日本語では「ヘ」だよ、と言っても意味不明な様子。
おりしも、ブログを読んでくれている音大時代の友人からのメールに「階名唱は隣の音との距離を感じるのに適している」と書かれていて、ハッとしました。そうか、起点からの距離が相似形になる音型を起点を移動させて歌わせるんだったら、これは相対音感の訓練なんだ!だからgを起点としてg-a-g-h-g-c-g-d...も、fを起点としてf-g-f-a-f-b-f-c...も、どちらも「ド-レ-ド-ミ-ド-ファ-ド-ソ...」と歌わせないといけなかったんだ!
そもそも何を意図してドイツ音名で歌わせようとしたのか、私自身よくわかっていなかったようです。ソルフェージュは「楽譜を見て音程正しくメロディを歌える」という能力をつける訓練です。「音程(=interval)」とは二つの音の高さの間隔のことで、友人の言葉を借りれば「隣の音との距離」ですから、音程をつかむにはまず楽譜なしで、様々な調性で同じメロディを弾いて聴かせて、全部同じ階名で歌わせる訓練をするところから始めなくてはならなかったのです。そして、そのメロディを五線上に書き取らせ、スタートの位置が違っても次の音との間隔が同じになることに気付かせなくてはならなかったのです。
姪たちのレッスン、1月から仕切り直して「相対音感訓練」に切り替えるべきでしょうね。