楽曲解析3.さようなら、コリンド

2019年09月15日 | 日記
プログラム3曲目は、昨日に引き続きチェスティのオペラ「オロンテーア」の中から「さようなら、コリンド」です。昨日の「憧れの人のまわりに」はエジプトの女王オロンテーアが画家のアリドーロに身分違いの恋心を抱いて歌うアリアでしたが、実は侍女のシランドラもアリドーロに一目惚れします。しかもシランドラにはコリンドという恋人がいながら、アリドーロに心を移すのです。曲想も、オロンテーアのアリアが宙を舞うような「憧れ」の情調に支配されているのに対して、こちらはかなり直截で熱烈な印象です。

Addio,Corindo,addio!  さようなら、コリンド、さようなら。
Rivolto ad altra sfera,  別の世界に向かう今、
della fiamma primiera  私の病んだ心は
non si rammenta più l'egro cor mio.  もはや昔の炎を思い出しはしません。
Addio,Corindo,addio!  さようなら、コリンド、さようなら。
                 
Vieni,Alidoro,vieni,  来て、アリドーロ、来て。
consola chi si more!  死に行く者を慰めて。
E temprando il mio ardore  そして私の熱情を鎮め
godi in grembo a Silandra i dì sereni!  シランドラの胸で爽やかな日々を楽しんで!
Vieni,mia vita,vieni!  来て、私の運命の人よ!


前半の、コリンドに別れを告げる部分はレチタティーヴォ(叙唱、セリフ的な部分)です。冒頭から「Addio, Corindo」と何度も繰り返し、キッパリと意志表示をするのですね。「別の世界に向かう」という表現は、まるで「自分はもう死んでしまうのだ」と言っているように取れますが(病んだ、とか死にゆく、という言葉もありますから)、おそらく「あなたのそばからはオサラバよ」と言いたいのでしょう。いずれにしても、もうあなたとは会えません、と断言しているわけです。Addioという言葉は「もう二度と会えない」という時にしか使わないんだ、とイタリア語の先生が仰ってましたっけ。こんな、何の落ち度もない恋人をバッサリ切り捨てるようなことがよく言えるものですが、恋は盲目、というところでしょうか。技法的には、rivoltoとfiammaはアジリタ(細かいパッセージ)になっていて、トリルも入っています。バロック的な装飾です。このあたりはある程度自由に、アゴーギクを効かせて歌う方が感じが出そうです。
後半のアリアは「vieni, Alidoro」(アリドーロ、来て!)で始まります。「死にゆく人を慰めて!」とはつまり、あなたに恋い焦がれるあまり私は今にも死にそうよ、と言っているわけで、「僕がそばに居るから大丈夫だよ」とアリドーロに言わせたいのです。そして、あなたがそばに来て慰撫してくれれば、私の心は鎮まり、あなたをこの胸にやさしく抱きしめて「爽やかな日々」を楽しませてあげるわ、だから早く来て!と畳みかけるのですね。これはもう芝居っ気を思いっきり出さないと、朴念仁の私にはとても歌えません(爆)。consola(慰めて)にテヌートがつき、ardore(熱情)が長いフレーズになって強調されています。ゆったりしたテンポで切々と歌い上げる、なかなか劇的な音楽です。

ちなみに、シランドラはこの後つかの間アリドーロと恋仲になるものの、アリドーロの方も心変わりしてシランドラとは別れます。そして、所持していた装身具から彼がフェニキアの王子であることが判明し、めでたくオロンテーアと結ばれる一方、シランドラは再びコリンドとよりを戻そうとする、という筋書きになっています。このアリアの風格とストーリー展開のギャップが大き過ぎて困りますが(笑)、シランドラのような女性は巷に案外たくさん居るのかもしれません。小説にも映画にも、こういう人、よく登場しますよね。倫理的にはちょっと問題ありですが、オペラの筋書きに倫理を持ち込むのは野暮というものでしょう。世の中にはいろんな人がいて、さまざまな人間模様があり、人生も人の心も一筋縄ではいかない複雑なものなのだ、ということを今一度しっかり心に刻み付けながら歌うとしましょう。


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