年度末雑感

2012年03月31日 | 日記
今日で平成23年度が終了。明日から新年度が始まります。
年が明けてからの3ヶ月は毎年あっという間です。4月からの本格的活動の助走という感じですね。今年の3月はいつまでも寒く、寒さに弱い私はどうも調子の出ない1ヵ月でしたが、やっと桜も咲き始めたことだし、そろそろ気合を入れて諸活動を開始する時が来たようです。
今年度の予定は、まず4月にリサイタル。5月には日独協会創立50周年総会で合唱団が歌います。6月に連続発声セミナー第6クール(全3回)。6,7,8月と八代の合唱協議会主催の連続ヴォイトレ。7月にもう一つの合唱団の七夕コンサート。9月に中学校の30周年記念大同窓会(ハレルヤ大合唱の企画があります)。しかし、所属する学会の年次大会(熊本で開催)と日程が重なり、分身の術でも使わねば(笑)と思案中。9月下旬にはドイツ訪問団の企画があり、目下参加を検討中。11月には合唱団の10周年コンサート。12月には恒例のクリスマスコンサート。1月は生涯学習フェスティバルinパレアでの発声セミナーと、ハイデルベルク・デーでの合唱団の演奏。
決まっているだけでこれぐらいです。ウェルパルくまもとでの発声セミナーは、6月の春のセミナーだけは確定ですが、その後は8月ぐらいに夏のセミナー、10月ぐらいに秋のセミナー、2月ぐらいに冬のセミナーとなりそうです。
こうしてみると今年は周年行事が多いなあと思います。こういう巡り合わせの年もあるのですね。特に11月の合唱団のコンサートは今年のメインイヴェントになりそうです。
ヴォイス・トレーナーの仕事を通して多少なりとも社会のお役に立てるようになったことに大きな喜びを感じる今日この頃ですが、自分が今「働き盛り」の年齢なのだなと思うと同時に、体調管理が大きな課題になりつつあることも痛感します。限られた時間と体力をどのように配分するか。誰でも同じでしょうが難しい問題ですね。諸先輩方はどんな工夫をしてこの年代を乗り切って来られたのでしょうか。
うちに個人レッスンに来られる方たちの年齢別割合を見ると、一番多いのは60代で、現在9名もいらっしゃいます。もっと上の方も数名いらっしゃいますが、皆さん本当に元気。今日レッスンに来られた比較的ニューフェイスの女性もそうで、歌が専門の方ではありませんが、学ぶ意欲においてはセミプロの方たちに遜色なく、それは熱心です。コンサートなどにお誘いしても打てば響くようなお返事。日本はこの世代の方たちに支えられているのかもしれませんね。
熊本市は明日から政令指定都市になります。私もあやかって、心機一転、レッスンの新体制を整えていきたいと思います。

ヘンデル

2012年03月29日 | 日記
私は若い頃からバロック音楽が好きです。クラシック好きな方はロマン派を中心に聴かれることが多いと思うのですが、私にとってロマン派音楽は自我に対する働きかけが強過ぎて、安らぎとかリラックスにはつながりにくいのです。それはそれでまた別の意味があるので、ロマン派が苦手ということではないのですが(修士課程でロマン主義を専門にしたぐらいですから)、バロック音楽を聴くと心のバランスが回復されるような気がします。若い頃はバッハに心酔していました。バッハは寝転がってリラックスして聴ける種類の音楽ではありませんが、聴いているうちに、私たちは何か大いなる力に生かされている、ということにハタと気づいたり、少々しょぼくれた気分の時でも「前向きに生きていこう」という気持ちが目覚めてくる、まことに不思議な音楽です。
バッハは別格として、ヘンデルやスカルラッティ、ヴィヴァルディといったバロックの巨匠たちの音楽も本当にいいですね。声楽のレッスンを始めて最初に出会う「イタリア歌曲」で、私はバロック音楽にぞっこんほれ込んでしまいました。ロマン派のドイツ歌曲に目覚めてからは不本意にも遠ざかってしまいましたが、バロック音楽は私の心のふるさとです。
さて、今回のリサイタルでは前半にイタリア・バロック音楽を揃えました。その中にヘンデルのオペラアリアがあります。最初はヘンデルの「メサイア」のアリアや、ドイツ語のテキストに作曲された「9つのドイツアリア」もプログラムに入れていたのですが、全体のバランスを考えて今回は外しました。ヘンデルの音楽には「柄が大きい」とでも言うべきおおらかなスケール感があります。包容力のある音楽、と言えばいいのでしょうか。バッハの厳しさと対照的な感じです。小学校の頃だったか、音楽の教科書にバッハが「音楽の父」、ヘンデルが「音楽の母」と形容されていて、安直な対語だなあと少し呆れたのですが、二人の作品を対比してみると、案外核心を突いた表現かもしれませんね。
今回歌うことにしたのは「エジプトのジュリアス・シーザー」というオペラの有名なアリア「私は運命に泣くでしょう」です。シーザーと言えばクレオパトラ。このアリアも、シーザーが死んだと聞かされた(本当は生きているのですが)クレオパトラが嘆き悲しんで歌うアリです。つまり私は絶世の美女として名高いクレオパトラに扮するわけで、いささか気恥かしいのですが(そんなことには誰も構っていないのは百も承知ですが)、このアリアが世にも美しい逸品なので、是非聴いて頂きたくて選びました。バロック特有のダ・カーポアリアで、激しくも禍々しい中間部と、それを挟む静かな嘆きの歌の切々たる美しさが鋭い対比をなしています。オペラの筋書き自体は相当に血腥く、日本人にはちょっとついていけない感じがしますが、オペラの台本は得てして文学としてはちょっと鑑賞に耐えないようなものが多いように思います(偏見でしょうか)。それだけに一層、というか、そんなこととはまったく無関係に、というか、ヘンデルの音楽の素晴らしさが際立っています。
テキストとの関係で言えば、「9つのドイツアリア」のテキストは啓蒙主義的なキリスト教倫理がモロに反映された教訓的な詩です。私はこの手の詩が大好きで、いずれ9曲すべてをステージに乗せたいという熱い夢を持っているのですが、さすがに9曲続けて聴かされると一般の方は食傷するかもしれません(笑)。A・オジェーによるこの全曲の録音は絶品ですが、オジェーのように寸分の隙もなく9曲を歌いあげられるようになるのはいつのことでしょうか。道ははるか遠い感じですが、還暦までには挑戦してみたいと思います(笑)。

テクニカル・ターム

2012年03月27日 | 日記
W先生の明快にして効果絶大なレッスンに毎度感動している私にとって、その解剖学的な説明は実に魅力的です。ところで先生ご自身は「私の場合いつも先によい声のイメージがあって、そういう声を出すにはどうしたらいいのか、という方向で追求しているのよ」とおっしゃっています。つまり理論は常に「後付け」なのだと。具体的に言えば、「蝶形骨に息を当てればよく響く」というのは結論であって、先生にとっては「響きのよい声」のイメージが先にあり、そういう声を出すにはどうしたらいいかという工夫(メソッド)が次にあり、最後に、よい声が出ている時の身体の状態はどうなっているのかという分析(理論)が来るわけです。解剖図や頭蓋骨模型などで仔細に調べ、「ああ、共鳴には蝶形骨が関係しているんだ!」という発見に至る、という道筋なのですね。
それではレッスンを受ける私たちはどうかと言うと、私など当初は「よい声のイメージ」が混乱していて、目指すべき声がどんな声なのかがそもそもわかっていなかったのです。先生に導かれて自分でも驚くような声が出てきて、そこで初めて「これが「よい声」なのか!」という納得が生まれ、よい声が出た時の爽快感や身体の状態がインプットされたわけです。そこに骨や筋肉の構造、呼吸や共鳴の仕組み、発声器官の機能などの説明が加わり、声と感覚と知識が一つにつながって、そこでようやく「身に付いた」と感じた、という流れでした。
私にはW先生の発声メソッドもさることながら、その理論的、分析的アプローチが非常に新鮮でした。音大で音声生理学も学んだはずなのに、W先生に師事するまで恥ずかしながら「喉頭蓋」も「蝶形骨」も「軟口蓋」も名前すら知らなかったのです。「横隔膜」や「声帯」さえ、名前は辛うじて知っていても、どんな動きをし、どう使うのかは知りませんでした。要するに何も知らなかったのです。ですから、W先生の一つ一つの説明に、まさに目からうろこが落ちる思いでした。仙骨、脳脊髄液、下後鋸筋、腸肋筋、口蓋汎挙筋、前筋、後筋、etc...どこをどう動かせば何がどうなる、という仕組みがわかれば自分で練習できるし、人にも教えられます。特に、人様に教えるには、感覚だけでなく理論の裏付けがどうしても必要です。
――そう思ってこれまでやってきましたが、時折、こういうテクニカル・タームを振り回すことがひょっとしたら私の自己満足ないし空回りになっているのではないか、とふと思うことがあります。理屈も大事ですが、実際によい声が出せることがもっと大事です。私は発声の仕組みを理解してもらうことにウェイトを置き過ぎているのではないか、と。声楽や合唱をやっている人ではなく、歌には無縁の一般の方が「声が小さい」、「滑舌が悪い」、「声が通らない」、「声が嗄れやすい」、「喉が疲れやすい」などの悩みを持ってセミナーや個人レッスンに来られる時も、私は「まず理論」というやり方でこれまで来ました。しかし、それは親切のつもりで実は不親切だったのかも...
今日は20歳のKさんがレッスンに来られる日でしたが、このところ彼女のレッスンでは「もっと違うアプローチが必要」という気持ちになることが多かったので、今日は思い切って理論から離れ、普段やっていることを少し違うやり方で(狙いは同じですが)やってみました。すると、これが思った以上の著効を奏し、Kさんは今日やっと「声を出す」ことと「身体を使う」ことの関係がはっきり体感できたようです。
Kさんは「声が通りにくい」という悩みを解決するためにレッスンに来ていますが、おそらく発声セミナーに参加される方も大部分がKさんのタイプだと思います。これからセミナーは実践中心でやっていこう、理論は「後付け」にしよう、と思った今日のレッスンでした。

オハイエくまもと

2012年03月25日 | 日記
今日はオハイエくまもとの日でした。好天に恵まれて幸いでしたが、風が少々冷たかったので野外ステージの方たちは大変だったかもしれません。合唱団の方の集合時間と重なって「弾き語りのおじさん」の演奏が聴けないのが残念ですが、朝から万端整えて会場の現代美術館へ。ボランティアスタッフが出演者のお世話をして下さっていました。制服を着た高校生たちもスタッフの札を付けて控室の番をしています。集合時間になり、控室で軽食を頂き、身体をほぐして少しだけ練習をしましたが、普段は備え付けてあるキーボードがスペース確保のためか撤去されており、音取りができません。そこで軽く発声をして、曲の頭の部分だけ確認をしてステージ袖でスタンバイ。
進行は順調です。出番が終わった「弾き語りのおじさん」がやってきました。「どうでしたか?」と訊くと、「はい、上がらず落ち着いて演奏できました。知人たちも聴きにきてくれて、昔のバンド仲間から「声が変わった。良くなった」と言われました」と嬉しそうです。よかったよかった。あと5分。会場が人でいっぱいになってきました。あちこちに知人の顔が見えます。うちの甥や姪たちもやって来ました。さあ、いよいよ本番。
最初に男声合唱で「自然における神の栄光」を歌います。うちの合唱団の男声は本番に強いというジンクスがあり、ご本人たちも私もそれをしっかり信じています。最初の一声が立派に響いたので「これは大丈夫だな」と思い、後は「指揮を見て下さいね~~」という念を送りつつ指揮をしました(笑)。間奏の後の入りがいつもフライイングしていたので、そこだけが心配だったのです。しかしそこも無事に通過し、高らかに歌い終わりました。
さて、次が問題の女声合唱「神をたたえる歌」です。ドイツ語をつけて歌ったのは最後の練習日だけでしたから、その日に欠席した方にとってはぶっつけ本番です。今回はかなりタイトな練習日程で本番を迎えることになったため、皆さんに相当プレッシャーがかかっているのではないかと思い、「欠席された方のための臨時練習をしようか」とかなり真剣に考えたのですが、月曜日から私自身が体調不良で、水曜日の夜から半病人状態のまま今日に至ってしまったのでした。こうなったら「できたしこ」(←出来ただけ、の意味)です。上手な歌を聴かせるのが目的ではないのだから、楽しんで喜んで歌いましょう、という気持ちで指揮をしました。出来は?――どうやら止まらずに歌えました(笑)。
最後は「流浪の民」。うちの甥・姪が大好きな曲です。この合唱団の設立間もない頃にステージに乗せたことがあり、古い団員さんたちには記憶が残っていますので、よく乗って歌えています。ソロの部分はパート全員で歌いました。フレーズの終わりの子音の処理に少々乱れがありましたが、それはまあ誤差のうち(?)ということにしましょう。なかなかよく歌えたと思います。
つつがなく演奏を終え、控室に戻る途中、中1の甥に「どうだった?」と訊くと「言葉がよくわかんなかった」と言います。「ドイツ語だもんね。でも、流浪の民はドイツ語がオリジナルなんだよ」と言うと、「えっ、そうなの?」と驚いています(笑)。学校で日本語の「流浪の民」を聴きなれているので、そっちがオリジナルだと思っていたのでしょう。小4と小1の姪に「どうだった?」と訊くと、小さな声でささやくように「きれいだった」と言ってくれました(笑)。
控室に戻ると、女声の方たちが「先生、済みません、先生が一番お恥ずかしかったですよね」、「済みません、11月には頑張りますから」と口ぐちにおっしゃいます。何をおっしゃいますか、よかったですよ、止まらず最後まで歌えたんですから。そう言っても皆さん本当にして下さいません。団長まで「済みません」とおっしゃる始末(笑)。副団長はハンカチを握りしめて目を潤ませています。「泣いてるの?」と訊くと「泣くわけないでしょう」と言下に否定されました(笑)。持病の花粉症に黄砂が重なり、とても辛そうです(花粉症って本当に大変なんですね)。さまざまなお世話を一手に担っていた副団長、運営面でも音楽的にもその陰の力は絶大です。私と違って万事きちんとした人で、うーばんぎゃー(←ざーっとした性格、の意味)な私はとても頼りにしていますが、今日のような準備期間の短いステージはきっと大いにストレスフルだったことでしょう。女声の他のメンバーも皆さんきちんとした方ばかり。そういう意味では済みませんと言わねばならないのは私の方ですが、とは言え、私は別に悪かったとは思っていません(処置なし)。何事も無駄はない、すべてに意味がある、というのが私の信条、今回のステージも大切な一つの経験です。出演できて本当に有り難かったと思っています。
帰り際、スタッフの方から「来年も是非出演して下さいね」と言われました。オハイエくまもとの趣旨に大いに共鳴する私たち、来年も是非参加させて頂きたいと思います。
他の団体も聴いて、それから、複数の催しに顔を出して帰宅する予定でしたが、会場を出たら急に関節痛とだるさが襲って来ました。まだ体調が本調子ではないようです。出席を約束していた2時からの会合の場所まで行ったものの、体力がもちそうになかったのでまっすぐ帰宅し、そのまま寝てしまいました。先ほど起きて県知事選の投票に行きましたが、今日はもう何もできそうにありません。夕食の支度をしたらすぐに寝ることにしましょう。


骨伝導

2012年03月24日 | 日記
W先生からお習いしたメソッドの中には、従来の医学的知見を覆すような、あるいは西欧近代の生理学や解剖学の枠組みでは説明できないような経験知から導き出されたものも数々あります。その一つが骨伝導です。以前は、骨は響かないと言われていたそうですが、現在では骨も響くということは常識になりつつあるそうです。
今日、Hさんが県外から久し振りにレッスンに見えました。Hさんのように遠方にお住まいでなかなかレッスンに来られない方は、いろいろな疑問や悩みを持ってレッスンに来られますが、今日Hさんは「下半身を使って声を出す、ということが体感的によくわからない」、「息が続かない」という2つの疑問を持ってこられました。前者の疑問の対する一つのアプローチが「骨伝導」です。Hさんの発声を聴いていると、高音域になるにつれて響きが薄くなっていきます。そこで、片足を上げてどすんと踏み込むと同時に声を出す練習を何度かやっているうちに足の骨が響いてきました。これは本人にもはっきり変化がわかるので、家で練習する時も比較的わかりやすい方法です。下半身を使うもう一つのアプローチは、高音を出す時に膝を軽く曲げ、足の指を使って内転筋を緊張させながら瞬間的に重心を少し後ろへ移動させる方法です。股関節を動かすことまでは今日はできませんでしたが、足腰を使うことと発声が少しつながったようでした。Hさんは私の声と同じような感じの軽めのソプラノです。こういうタイプは響きが薄くなりやすいので、骨伝導や足の使い方に常に留意する必要があります。
少し休憩した後、Caro mio benを教材としてブレスを長くする練習をしました。「息が続かない」のは呼気筋で息を押し出すからです。下行音型で声と一緒に息が下がると、胸も下がってきて吸気筋がゆるみます。どんな音型でも息は常に上へ上へ。そう意識すると、胸が拡がった状態が自然にキープできます。Hさんも最初は息が上へ下へと動いていましたが、少し意識するとフレーズが一息で歌えるようになりました。
「座って歌う時はどうすればいいのですか?」というご質問もありました。「座ったまま立ちあがろうとすると足の裏や腿の裏が緊張しますよね、その状態で歌うんです」とお答えしました。そうすれば自然と上体も開きます。脇腹の肋骨と骨盤の間に拳をつっこみ、そこを拡げるようにして歌うと、上体がより一層開きます。これをやってみるとHさんの声が歴然と変わりました。
何かつかめた、という晴れ晴れとした顔でお帰りになるHさんを見送りながら、私も充実感に浸りました。身体が解放されると声も顔つきも生き生きとしてきます。その変化を間近で見る喜びは私の役得です。