果報者

2012年04月30日 | 日記
多くの方の応援を頂き、また、連休中でしかも雨降りだったにも拘わらず100名以上の方にご来聴頂いて、本日のリサイタルを無事終えさせて頂きました。ご来聴下さった読者の皆様、また盛会を祈って下さった読者の皆様に心より感謝申し上げます。
終演後しばらくは放心状態でしたが、正気に戻って最初に心に浮かんだのは「私は何という果報者」という感慨でした。このブログにも何度も書きましたが、2月下旬に崩した体調がなかなか元に戻らず、これほど練習できずに臨んだ本番は初めてでした。そのお陰で得たものも大きかったので決してマイナスに受け止めているわけではありませんが、それにしても体調の波が大きく、数日前の夜にはチラッと「ひょっとして今回はドタキャンになるかも...」という不安が一瞬よぎるほどひどく具合が悪くなりました。その翌日は持ち直したのですが、その翌日はまた...とにかく気持ちを明るく前向きに保つことに全力を挙げていました。
昨夜熊本に到着されたM先生と伴奏合わせをした時も、30分ほど歌ったところで「今日はもうこれでやめておきましょう」と言われるような状態だったのですが、今朝の最終調整では「絶好調じゃないの!」と言われるほど調子がよく、「あとは気持ち!中から湧き上がる気持ちを大事にしてね」と何度も言われました。
しかしやはり体力がかなり落ちていたようです。前半はまあ何とか、後半の日本歌曲もまあま何とか行けましたが、プログラム最後のメイン曲「春の声」ではさすがにもう筋肉が引っ張れなくなってしまい、せっかくW先生直伝の「側頭骨共鳴」でラクに出るようになっていたハイCも残念ながら落ちてしまいました。
アンコールで歌った「Stand alon」も途中で歌詞が真っ白になってしまい、M先生に歌ってもらってつなぎました(笑)。アンコール2曲目の「God bless you」でも歌詞を間違えました。まあしかし、これはご愛嬌(と自分で言ってはいけませんね)。
そういう大小の事故はあったものの、それでも歌いながら心から感じたことは「私は何という幸せ者だろう」という深い喜びと感謝でした。まず、お客様が素晴らしかった。最初から最後まで本当に温かい雰囲気に満ちていました。お客様との一体感をこれほど感じられるなんて本当に幸せなことです。歌い手にとってこれにまさる喜びはないと言ってもいいのではないかと思います。また、伴奏者の音楽性と人柄にどれほど助けられたかわかりません。M先生があまりに気さくなので、つい当たり前のような気になってしまいますが、そもそもこれほどのアーチストが共演を自ら申し出て下さるということ自体が大変なことです。
教会という場の力も大きかったと思います。よく響きますし、本来が祈りの場ですからコンサートホールとは雰囲気が違います。この静謐さが、歌う作品の歌詞や音楽をくっきりと浮かび上がらせてくれるような気がします。この教会がM先生のゴスペル教室の会場になっている関係で、リサイタルに使用させて頂くことも快くご了承下さいました。これも本当に有り難いことです。そして、裏方で手伝って下さった私の生徒さんや友人たち。皆さん快く雑事を引き受けて下さいました。
こうした様々な有形無形の土台の上に乗せて頂いて、心ゆくまで大好きな歌を歌い、お客様とその喜びを分かち合える幸せ。これを「果報者」と言わずして何と言うべきか。大仕事を終えた今、私の心を占めているのはそんな思いです。
誰の人生もそうでしょうが、人間、40年以上も生きればそれなりの紆余曲折を経てきています。それでも、後で振り返った時にそれらのすべてを「あの時があったから今がある」と思える、そういう生き方ができれば人生は成功なのではないでしょうか。私にも、「いっそ私から歌を取り上げて下さい」と天に祈った時もありました。それでも、天は「歌っていいんだよ、頑張りなさい」と無言のうちに私を励まし、後押ししてくれました。そして今、「歌ってきてよかった」、「これからも歌い続けよう」と心から思えるこの幸せ。言葉には尽くせません。
もちろん、課題はまだまだいっぱいです。少しずつでも精進を続け、近い将来「春の声」のリベンジに挑戦したいと思います。
最後に、本日のリサイタルにご厚情をお寄せ下さった読者の皆様に改めて心より御礼申し上げます。本当に有難うございました。

2012年04月28日 | 日記
非常勤の勤務先の一つであるG大学の創立70周年記念行事の一環として、仏教学者の山折哲雄氏の講演と、詩人の伊藤比呂美さんと山折さんの対談がありました。伊藤さんのエッセイは新聞紙上で時々読んでいますし、学位論文を書いている頃には山折さんの著作もよく読んでいましたので、今日の講演会は前々から楽しみにしていました。
講演も対談も興味深い内容でしたが、とりわけ印象に残ったのは、山折さんが「近代日本を代表する3人の詩人」として宮沢賢治、石川啄木、斉藤茂吉の3人の東北人を挙げられたことでした(宮沢賢治と山折さんは同郷だそうです)。私もこの3人、特に宮沢賢治には昔から強いシンパシーを感じてきましたが、山折さんは意外な切り口から「仏教的世界観」に迫られました。それは、「宮沢賢治の作品では、あの世とこの世の瞬間的な交錯において必ず「風」が吹く」というご指摘です。「気をつけていないと読み落としてしまうのですが」とおっしゃりながら、有名な『注文の多い料理店』、『風の又三郎』、『銀河鉄道の夜』を例に取って説明して下さいました。私も、これらの作品は何度となく読んでいながら(『銀河鉄道の夜』など、中学校に勤めている頃に文化祭で「生徒に薦めるこの1冊」というアンケートで強く推薦しておきながら)、風が吹くと同時に現実世界から離れたもう一つの世界が立ち現れ、また風が吹いて現実界に戻る、という状況設定にほとんど注意を払っていませんでした。お恥ずかしい限りです。
「千の風になって」というアメリカインディアンの伝承歌謡に基づく歌が大ブレイクしたことがありましたが、「風」は古来「生命」そのものを意味していました。私は自分の学位論文に「スピリチュアリティと自己変容」という副題をつけたのですが、日本語で精神、あるいは霊と訳される「スピリット」はギリシア語では「プネウマ」、ヘブライ語では「ルアッハ」で、どちらも生命の根本原理としての「風」とか「息」を意味します。日本語でも息を吹き返す、とか息を引き取る、という時の「息」はまさしく生命を意味しています。
よい発声を身につけるために一番大切なのは呼吸です。ヴォイス・トレーニングの半分は呼吸法だと言っても過言ではないほどですが、それがいかに生命活動の根源に関わることかを再認識しました。「生きる」とは「息をする」ことですね。「息の長い」生き方をしたいと思います。

コーラスの愉しみ

2012年04月26日 | 日記
今日は老健施設の職員合唱団の練習日でした。私は今、2つの合唱団の指揮をしていますが、福祉サービス事業所でのヴォイトレや、コーラスをしている方たちのグループレッスンや、教会の聖歌隊のレッスンなどもしていますし、不定期ですが小学校のコーラス部や女声コーラスのヴォイトレをさせてもらうこともあり、合唱に関わることが増えてきています。
合唱で大事なことは、全員が同じであるべきことと、一人一人で違わなくてはいけないこととの区別がきちんとついていることです。
同じであるべきことは、まず息の方向と勢いです。呼気流はいついかなる時も上へ。そしてなるべくスピーディーであること。これは基本中の基本であり、至上命令と言っていいぐらい大事なことです。息を前に押し出していたり、息が胸に落ちていたりする人が一人でもいると響きがばらつきます。「響き」とは共鳴のことで、呼気が上へスピーディーに流れることによって声が頭上へ抜け、空間で鳴るわけです。空間の響きが豊かでないと合唱の醍醐味は味わえません。
同じであるべきことの第2は「ピッチ」です。音程感覚が揃っていないとハーモニーが濁ります。正しいピッチでハモった時の感覚を繰り返しインプットすることで、ずれている時にそれと気づけるようになります。いずれにしても「よく聴く」ことが基本です。
各々異なっているべきことは「声の音色」です。一人一人顔が違うように声色は違って当然です。よく「音色を揃えなさい」とか「一人で歌っているように聴こえないといけない」と言われますが、これは誤解を生みやすい表現だと思います。10人で歌っているのに1人で歌っているように聴こえるのは不自然です。10人で歌っているのに20人で歌っているように聴こえるのが「豊かな響き」ではないでしょうか。無論、ピッチは揃っていないといけません。そうでないと「合唱」ならぬ「雑唱」になってしまいますから。
ブレスの長さも、キャリアや年齢、性別などによって個々で違います。体調にも左右されます。ですから、全員で切るところと、無理のないところでカンニングブレスをして再合流するところを、パート内で相談する必要があります。
ピッチを揃えようとお互いの声や全体の響きをよく聴くことや、ブレスの打ち合わせをすることは、集中力やメンタルハーモニーの向上につながります。また、息を高く上げることは一人一人がしっかり身につけなくてはいけないことです。その両者が相俟ってコーラスは有機的な活動となり、身体と精神の両方が賦活される、と思います。
私はコーラスが大好きです。自分の人生にコーラスという一要素があることをとても嬉しく思っています。

養生訓

2012年04月24日 | 日記
今回は本当に長引きました(体調不良が)。もう若くはないのだと思わざるを得ませんが、私は年を取ることにそれほど悲観的ではありません。年を重ねることのメリットというか、恩恵の方をむしろ強く感じているからでしょう。しかしながら、もう無理はきかないのだということをともすれば忘れがちになる私にとって、この度はそれを骨身にしみて思い知るための良い機会だったと思います。これもまた一つの恩恵というべきでしょう。
さて、そこで今回得た教訓を箇条書きにしてみたいと思います。これはあくまでも私の体質や生活習慣、思考パターンに則した規矩であり、人によって多少のヴァリエーションがあろうことを、読者諸賢はどうぞご斟酌頂きますよう。

1.身体を冷やさない。飲み物も食べ物も温かいものを摂る。薄着をしない。シャワーで済ませず、お風呂でよく温まる。
2.よく寝る。昼間でも「横になりたい」と感じたらすぐに横になり、仰向けになって脱力する。夜は12時までには就寝する。
3.温野菜をたくさん摂る。炭水化物、肉なども適量を欠かさず摂る。
4.パソコンやスマホなどのOA機器は休み休み使う。なるべく短時間にする。
5.できるだけマスクをする。
6.お茶うがいをする。
8.鼻うがいをする。
9.吸入をする。
10.焦らない。あまり練習しない。疲れているのに焦って練習して「声が出ない!」とますます焦る悪循環に陥らないため。
11.自分に与えられている生命力、復元力を信じる。それに感謝する。
12.すべては必ず良い方向に向かっていることを信じる。それに感謝する。
13.できていないことを数え上げない。できていることを数え上げる。それに感謝する。
14.すべきことができなかったら、人に頼る。罪悪感を抱かず、ただただ感謝する。
15.笑顔と明るい声で人に接する。それができなさそうな時は横になって英気を養う。
16.自分のファンになり、本番を楽しみに待つ。
17.コンサートで歌う歌を大好きになる。その歌がどんなふうに歌ってもらいたがっているか、ヒマさえあればイメージトレーニングをする。

以上です。どの項目も完全に実践できているわけではありませんが、心がけているだけ随分気持ちが違うものです。本番まであと5日。毎日を大切に過ごしたいと思います。

リゴレット

2012年04月22日 | 日記
昨晩、知人が出演するオペラを聴きに行ってきました。演目はヴェルディの「リゴレット」。恥ずかしながら私はこのオペラについては有名なアリアを何曲か知っている程度で、筋書きを全然知りませんでした。
リゴレットというのは道化役者の名前なのですね。その愛娘ジルダのアリアは有名です。純情一途な役柄に声も容姿もよく合ったソプラノさんが歌っていました。知人というのは20代のバリトンで、声も体格もオペラ向きの堂々たる偉丈夫です。昨晩も年に似合わぬ立派な押し出しで名脇役を務めていました。
このオペラは悲劇で、最後にはジルダが死んでしまいますが、「リゴレット」に限らず、私はロマン派以降のオペラを見るたびに人間の業というものを思わずにはいられません。多くのオペラに、自分の感情をコントロールできずに破滅に向かう人間の愚かしさと、一方では他のために自らの命を差し出す犠牲的精神の美しさがリアルに描かれています。どちらにしても人間って悲しい生き物だなあ、と思わずにはいられません。
登場人物に感情移入して現実に戻った時、私たちはその疑似体験を通して「心が健康になる」のだ、と言ったのはドイツの作家ミヒャエル・エンデでした。「すべての芸術は治癒の使命を負っています」と彼は語っています。人は多かれ少なかれ病んでいる、本物の芸術は人の心を本質的なレベルで癒すものでなくてはならない、と。しかしそれは美しいものに触れて心が和む、といった程度のものではない、と彼は言うのですね。芸術作品を通して、弱さ、醜さ、歪み、闇といった人間の負の側面に正対すること、あるいは、それと同じものを持った自分が、作品を通じてそれを限りなくリアルに経験することが治癒のプロセスなのだ、と言うのです。そして最後には救いがなくてはならない、と。救済に至る通路となり得る作品こそ真の芸術作品なのだ、と。
エンデの言っていることに対する私の理解が正鵠を射ているのかどうかあまり自信はありませんが、リサイタルの直前と言っていいこの時期に「リゴレット」を見たことには意味がある、と思っています。私はこれまで、自分に恋愛経験がないので恋の歌は歌えない(笑)、とか、恋の結末の悲惨さを身近に数多く見過ぎたために恋愛に肯定的になれない(笑)、などと御託を並べて恋の歌を避けてきましたが、それは要するに(自分の中にもある)人間の業に対する認識が薄かった、ということに他ならないのです。あるいは敢えてそこから目をそらしていたのかもしれません。人間にはどうしようもない統御不能な感情というものがある。しかし非常に崇高な感情もある。その両面をしっかり見ていくこと、その上で信じるに足るものを求め、それに近づこうとすることが大事なのだ、おまえはもうそろそろ、そういうことを見据えていける年になっているはずだ、と、私が選曲した作品たちが私に向かって語りかけています(笑)。究極的にはすべての存在を肯定することのできる境地に至りたい、と思います。人間の成熟とはそういう境地を言うのではないか、と思う今日この頃であります。
今日は倫理学の教師のようなブログになってしまいました(笑)。