4つの性格類型

2011年11月30日 | 日記
心理カウンセラーのIさんが、自分の「思考行動キャラクター」を知る簡易テストを持ってきて下さいました。普段の思考や行動のパターンを20項目に亘ってチェックし、その結果に基づいて自分の性格類型を知るというものです。大きく4つに類型化されていますが、誰もがこの4つの要素を全部持っているので、比率の高いものがキャラクターとして表面化している、と考えるのだそうです。また、年齢や立場や環境によってその出方が変わるので、固定的なものととらえてはいけないそうです。
人間の性格を大きく4つに分類する考え方は古代ギリシア時代からあったようです。私も昔少し勉強したことがありますが、教育の分野で有名なR.シュタイナーが提唱している「多血質」、「粘液質」、「胆汁質」、「憂鬱質」の4分類もその系譜に連なるもののようです。日本人は血液型で分類するのが好きですが(ちなみに、日本人が初対面の人に血液型を尋ねて盛り上がるのをドイツ人は不思議がります。そもそもドイツ人には自分の血液型なんて知らない、という人が多いですから)、決めつけはいけない、と思いながらも、「A型」と聞けばなるほど、「B型」と聞けばやっぱりね、「O型」と聞けば確かに、「AB型」と聞けばぎゃははは、という具合に納得してしまうのは、やはりそれぞれの型に特有の思考や行動のパターンが、多少は認められるからではないでしょうか。
それはともかく、自分の性格類型を知ることは自分を客観化するのに役立つだけでなく、人と接する時、相手を受け入れるのに大いに役立ちます。人と自分は似ているところもあれば違うところもある、という当然の認識をきちんと持っていれば、相手の反応が自分と違っても怒ったりがっかりしたりしないで済みますし、キャラ別の特徴を知っていれば接し方にも工夫ができ、気持ちに余裕が生まれます。
今日頂いたテストでは、ボスキャラ、楽しいキャラ、和やかキャラ、研究者キャラの4つに分類されていました。私は数値的にはどれも低いのですが、その中で一番高いのが研究者キャラ、一番低いのがボスキャラでした。なるほどね、と思いましたが、人から見た自分と自分で思っている自分とは違うだろうな、とも思いました。
ヴォイス・トレーナーの仕事にこの類型化がどう絡んでくるかなあ、と考えていますが、キャラ別特徴一覧を読みながら、ボスキャラが強く出ている人はヴォイス・トレーニングにはまず来ないだろうな、と思いました。それから、どんな歌を好んで歌うか、とかどんな歌手が好きか、という「好み」にはこの類型が反映するだろうな、とも思いました。そう言えば、日本におけるシュタイナー研究のパイオニアの一人である高橋巌さんの著書に、単刀直入なベートーヴェンの交響曲を胆汁質、瞬時に変化する軽やかなモーツァルトの音楽を多血質、陰々滅々として景気の悪いブラームスの音楽を憂鬱質と例えた文章がありました(高橋巌『シュタイナー教育の四つの気質』、イザラ書房)。
私は昔から相当な渋好みで、ブラームスの渋さとベートーヴェンの音楽の意志の強さが若いころから大好きでした。これは一貫して変わりませんが、年を経るにつれ、モーツァルトの軽さやシューベルトの天国的な静謐さに強く惹かれるようになりました。シューマンはほとんど「愛している」のレベル、バッハは崇拝の対象で、どうしても好きになれないのがワーグナー。さて、このとりとめのなさは気質の混乱を示すものでしょうか。

オフの日

2011年11月29日 | 日記
今日は珍しくレッスンのない日でした。こういう日は私は全く音楽を聴きません。私は普段から、BGM的に音楽をかけっぱなしにしておくことはほとんどないのです。テレビも、家族が家に居る時はついていますが、一人でいる時に見ていないテレビをつけっぱなしにしておくことはありません。
私という人間は非常に単純なつくりになっているのではないかと思います。つまり、一度に複数のことはできないのです。料理をしながら話をすると調理順や味付けを間違えます。テレビがついている部屋で電話をしたりしたら、話の途中でパニックになります。喫茶店でBGMが鳴っているとつい一生懸命に聴いてしまって、人と話をしていても上の空になります。会合中に隣の人に話しかけられるのが最も困ります。話し合いの内容がわからなくなるのです。
こんな風ですから、以前中学校の教師をしていた頃に一番困ったのが生徒の「私語」です。こちらが何か話している時に私語をされると、そっちに聴き耳をたててしまって、自分の話していたことがわからなくなるからです。
私の弟は、今時珍しく5人の子持ちです。中2から2歳までいます。週に1度、3番目と4番目のピアノのレッスンに行っていますが、下の3人が常に同時に話しかけてくるので(笑)、しばしば一人でパニックを起こしています。
そんなわけで、一人でいる時はとにかく静かに神経を休めたいのです。有り難いことに今の住まいは非常に静かです。風の音や鳥の声だけが聞こえてきます。時たま、隣の赤ちゃんの泣き声や、裏のおばさんの井戸端会議の声なども聞こえてきますが、返事をする必要がないので気楽に(でもやっぱり一生懸命)聞いています。
だから、オフの日の最高の過ごし方は、家でボーっとしていること。お茶を飲み、ベッドに寝転んで風の音を聴き、ケーキなど焼き、またベッドに寝転んで本をパラパラと読み、飽きたらうたた寝をする。デパートやスーパーには極力行きません。音楽がうるさいから。
ドイツに住んでいた時は、駅でも構内アナウンスなどあまり聞こえませんでしたし、買い物に行ってもBGMはほとんどかかっていませんでした。それが何より有り難かったです。

涙のわけ

2011年11月28日 | 日記
「悲しいとどうして涙が出るのか?」-哲学者デカルトを悩ませたこの問いを久し振りに思い出しました。といっても、悲しくて泣いたわけではありません。
今日は東日本大震災で被災した学校を支援するためのチャリティーコンサートがありました。前半に県内のいくつかの小中高校の合唱部の演奏があり、後半は大人の合唱団が弦楽の伴奏でペルゴレージの名曲「スタバト・マーテル」を演奏する、と聞いていたので、小1と小4の姪を連れて聴きに行ってきました。
席についてプログラムを開くと、前半の最初は熊本県立盲学校アンサンブル部の演奏となっています。盲学校のアンサンブル部は、数年前に全日本アンサンブルコンテストに初出場で金賞を受賞してその名を全国にとどろかせましたが、私はまだその演奏に接したことがなかったので、楽しみに開演を待ちました。
コンサートが始まり、アンサンブル部の演奏がスタートした、と思う間もなく何かがまっすぐに心に飛び込んできました。と同時に涙が吹き出しました。びっくりしましたが、この感触は記憶にあります。私は過去に2度、同じような体験をしているのです。
最初の経験はもう20年ぐらい前になると思います。ある日、台所仕事をしていたらリビングのテレビからヴァイオリンの演奏が流れてきました。その数秒後、だしぬけに心が震えて涙が吹き出したのです。何が起こったのかわからないままテレビの画面に目をやると、ヴァイオリニストの加藤知子さんが演奏していて、「大江光作曲「夢」」というテロップが出ていました。大江光さんの作品を聴くのはその時が初めてでしたが、柔らかく温かく明るい光のようなものに突然全身を包まれたような感触でした。
2度目の経験は10年あまり前にウィーンに一人旅をした時です。見どころの多いウィーンをガイドブック片手に歩き回っているうちに、素晴らしい庭園に入り込みました。どうやらベルヴェデーレ宮殿のようです。庭園の両側の建物は美術館とのこと。上宮の方に入りました。どの部屋にもすごい絵や彫刻が展示されています。圧倒されながら一部屋ずつゆっくり見て回り、ある部屋に入った途端、いきなり光の洪水というかシャワーというか、何かが全身に降り注いだのです。ものすごい明るさに目がくらんだと同時に涙が吹き出しました。呆然と立ちすくみましたが、はっと我に返って光源をたどると、壁にはあの有名なクリムトの「接吻」の絵がかかっていました。その当時の私は、クリムトなんて辛うじて名前ぐらいは聞いたことがある、という程度の知識しかなく、「接吻」の絵にも何の関心もなかったのです(失礼!)。
この3つの経験に共通しているのは、その作品を心ゆくまで味わって「いいなあ」としみじみ思って涙が出た、というようなものではないということです。知的な判断は一切抜きの、感情さえ通過していない、本当に瞬間的な出来事なのです。暗いところから急に明るいところに出たのでまぶしくて涙が出た、というような、身体レベルの「反射」と同質の体験です。違うのは、目ではなく心に何かが届いたという点です。
さて、今日、私の目から出た涙のわけは何なのでしょう。大枠では「感動して涙が出た」ということなのでしょうか?どなたか教えて頂けないでしょうか。
追記:今日のコンサートは、盲学校アンサンブル部だけでなくどの団体も素晴らしい演奏でした。涙はその後もう出ませんでしたが(笑)、すべての演奏に感銘を受けました。

讃美歌の響き

2011年11月27日 | 日記
月に1度、県外の小さな教会の聖歌隊のヴォイス・トレーニングに行っています。聖歌隊と言ってもメンバーは牧師夫妻と若い女性信者さん2人の合計4名。子どもの頃習った「村の小さき教会」という歌を彷彿とさせる、静かな山の手に建つ小さな教会です。
私の母は洗礼を受けたクリスチャンだったので、家でもよく讃美歌を歌っていましたし、私も子どもの頃は日曜学校に通っていました。教会の礼拝にはオルガン演奏と讃美歌が付き物です。三つ子の魂百までで、この環境は長ずるに及んで私が音楽の道に進む布石となりました。とはいえ、3年前に声楽発声研究所を立ち上げた時には、教会の聖歌隊の発声指導をするようになるとは想像もしていませんでした。これもご縁ですね。時節柄、レッスンでは先月からクリスマスの讃美歌の練習をしていますが、教会で聴く讃美歌ほど清らかな調べはありません。たった4名のハーモニーの、えも言われぬ美しさ!
ところで、和声学や4声体聴音の基礎教材でもある讃美歌、肉声で美しいハーモニーを響かせるには発声の方向が統一されていることが必要です。天井が高い教会で美しく響く声とは、呼気が頭上に抜けた、俗に言う「頭に響く声」です。息モレした声や胸に落ちた声では頭上で融け合って空間に広がって行くことができませんから、息を高く速く垂直に飛ばさなければなりません。そのためには腰回りの呼気筋群の筋力が不可欠です。そこで今日は最初に、あおむけに寝て足を組み、その足を手で抱え込んでぐっと体に引き寄せながら背中を床に押しつける運動をしました。これは横隔膜を鍛えるのに良いと聞いていましたが、横隔膜と拮抗する補助呼気筋群にも効いたようで、4人とも即座に素晴らしく良く響く声が出るようになり、びっくりしました。大げさでなく本当に20人分ぐらいの響きに感じられました。
もうひとつ、この教会でいつも感じることがあります。それは、信仰を持っている方の特性でしょうか、4人とも、こちらの言うことをまっすぐに受け止め、できてもできなくてもとにかく言われる通りにやってみようとされる、ということです。全く自然体で。うちの生徒さんは基本的にそういう方ばかりで、私もとても助かっていますが、ここの聖歌隊の4名は特にそうなので、教えるのが非常にラクです。いろんなことを試してみるのに遠慮がいらないし、声が変わるのも早い。今日も、発声練習では良かったけれど、歌詞のついた歌になると口の中が狭くなって響きが薄くなってしまったので、あれこれと口腔を広く保つ方法を試してみました。いろいろやってみる中でうまくいかないこともありますが、できなくても落ち込まない。何度でも、どんなやり方にも、皆さん一生懸命ついてこられます。そして、瞬間的にぱっと声が変わります。その繰り返しで、2時間ほどのレッスンの最初と最後では全然違った響きになっています。この聖歌隊のヴォイス・トレーニングを始めて約2年。いつも温かい気持ちに満たされて教会を後にします。

野性の証明

2011年11月26日 | 日記
今日のレッスンでIさんが「最近、声の自然な出し方が少しわかってきたような気がします。自然に声が出せるとラクなんですよね。これまでわざわざ苦しい声の出し方をしていたんだと気付きました」とおっしゃいました。教育大で音楽を専攻され、長年合唱をしてきた方からこのような言葉が出るということには、非常に考えさせられるものがあります。
自然という言葉は日常よく使われますが、かなり多義的な言葉です。私の師匠も「私が求めている発声法は「自然」の一語に尽きる」とおっしゃりつつ、「「自然」ほど難しいものはない、とよく言われるのよね」ともおっしゃるのですが、この場合の「自然さ」とは、あくび、ため息、笑いなどの生理現象がもたらす体の動きのことを指しています。たとえば、あくびをすると体が極限まで外側に開き、横隔膜が下がり、喉頭蓋が開き、口蓋垂が見えなくなるほど軟口蓋が上がります。ため息をつくと完全に体が弛緩します。高らかに笑うと、俗に「腹の皮がよじれる」という言い方があるように、お腹が痛くなるほど腹筋が自動的に動き、息が高く上がります。耳の後ろが痛くなるほど軟口蓋も上がっています。
これらの生理的運動は動物一般の自然本性のなせるわざです。すなわち、あくびの一番よいお手本はカバやワニのあくびの様子ですし、深くため息をついた状態から出てくる声はライオンやトラの唸り声と同質のものですし、高笑いを応用すると犬の遠吠えやさかりのついたネコのような声がごく自然に出てきます。その時には体中の筋肉が動いており、喉にはまったく負担がかかっていません。そして、その声は動物の声と同様大変よく響きます。つまり、自然な発声の技法の根幹は「人間も動物である」という当然の事実に基づいているわけです。
以前、うっかり窓を開けてレッスンしていたら、窓の外から突然カラスの「カ~~」という耳をつんざくような声が響いてきたことがありました。私の住まいはマンションの3階なのですが、ベランダから目と鼻の先に見えている隣家の大きな桐の木の梢から聞こえてきたようでした。その鳴き声がこちらの出している声とそっくりの響きだったので思わず笑ってしまいました。また、口角を耳の方へ思い切り引っ張って「イ~~」と側頭骨に響かせる練習をしていたら、(その時は窓はちゃんと閉めていたのですが)さかりのついたネコが二匹、あの独特の声をたてながら、ベランダから見えるはす向かいの家の屋根をゴロゴロと転げまわっているのが見えたことがありました。それがまた、思わず錯覚を起こすほどこちらの出している声とそっくりなのです。いやはや、人間も動物であるとはこういうことなのか、と膝を叩くような気分でした。
自然とはつまり野性のことなのです。そして、人間は普段それを忘れて上品に(?)生活しているので、本物のあくびさえできなくなっている人が多いのです。途中で噛み殺してしまう癖がついているのですね。かのJ.J.ルソーの「自然に帰れ」というスローガンは、発声法のスローガンともなり得るというわけです。