旅日記(5)

2014年09月28日 | 日記
連載中の「旅日記」に複数の方々からメール、お電話、コメント等を頂いています。直接感想を伝えて下さる方もあり、くみさんのご冥福をたくさんの方が一緒に祈って下さっていることに感動しています。先日コメントを下さったcvtさん、有難うございました。ご希望に沿って非公開にしましたが、お気持ちに心より感謝申し上げます。
昨年くみさんがはるばるドイツから参加して下さった合唱の合宿練習が、今年も昨日から今日にかけてありました。昨年くみさんが泊まられた部屋に今年は私が(同行した父と姪と一緒に)泊まりました。ホールや食堂、外の散歩道、どこに目をやってもくみさんのことが想起されて、今年も一緒にいるような気がしてなりませんでした。
合宿のご報告はまた改めて書くことにして、旅日記の続きを。前回書き忘れたことがありました。S夫妻のお宅での最後の日の朝、S家に電話がかかってきました。ハンニが出て、時折笑い声を立てながら何やら話し込んでいます。電話が終わると朝食のテーブルに戻ってきて、笑いながら「ヴォルフガングがすごく恥じ入っていたわ。「野ばら」の作曲者はモーツァルトじゃなくてウェルナーだった、って。「この歳になって自分の専門分野のことで日本人に誤りを正されるとは、何たる不覚!」ですって。」と(笑)。そうこうしているうちに何とご本人がS家へやってきました。何やら随分古い楽譜の束を持って。「昨日は有難う。お礼と言っては変だが、よかったらこれを日本へ持って帰って使ってくれたら嬉しいよ。不要なら処分して構わないから」と手渡してくれて、「元気で。Alles Gute!」と言って疾風のように帰っていきました(笑)。
さて、日本を発って1週間目の9月15日、エッセンからオスナブリュックへ、さらにバスで40分ほど走った郊外の講習会会場へと移動しました。これから5日間、エマ・カークビー女史の講習会が行われます。参加者は10名ほど、テノールの若い学生さんを除けば全員ソプラノ、そして私以外は全員ドイツ人で、音大生か卒業して数年ぐらいのプロを目指している若い人がほとんどでしたが、趣味で歌っている中年の女性や、ご主人と1歳半のお子さんも一緒に参加している若いカップルなどもいて、全体としては割とリラックスした雰囲気です。初日の夕食後、第1回目のレッスン。小さなホールにチェンバロと大小様々のリュートが置かれています。講師はカークビー女史一人で、伴奏者としてチェンバリストのロベルト、リュート奏者のウルフが待機しています。全員が自己紹介替わりに1曲ずつ歌うことになりました。初日だし、夜でもあるので軽めのリュートソングを歌う人が多く、美しく澄んだノン・ヴィブラートの古雅な響きにうっとりと聴き入ってしまいました。私はもともとこういう歌が好きだったんだよなあ、なんて若い頃を思い出しながら。
カークビー女史の教え方はとても親切で具体的で、必ず良いところをほめてから、実際に歌ってみせながら「ここはこういう風に」と指示します。そして、どうしたらそうできるか、発声上のテクニックを教えるのです。この日のレッスンでは「behind」という言葉が頻出していました。もっと後ろに、という指示です。口の奥を開けて、と。声をもっと上の方へ持って行くように、とも言っていました。「笑った顔はチャーミングだけど、歌う時はにっこりした口もとにはしないで、むしろ口は縦に開けて下さい。唇を横に引くと顎に力が入ってしまいます」とも。ああ、W先生の仰っていたことと同じだ、と思いながら聴いていましたが、受講生たちはその一言でパッと声が変わるのです。「どうですか?」、「ああ、ラクになりました」というやり取りが何度も交わされ、反応がいいなあと感心しました。
最後の方で(あれは年齢順だったのかも)カークビー女史が名簿を見ながら「Rika...?」と私を見て声をかけてくれました。私は今回はメサイアのソプラノソロの曲しか持って行っていなかったので、まずは一番歌い込んでいる「Rejoice, greatly」を歌うことにしました。チェンバロの伴奏で最後まで歌い終わると、カークビー女史が何やら英語で説明を始めました。それまで人の歌に聴き惚れてすっかり失念していましたが、その時になってやっと自分が英語を話せないことにハタと気づきました。「Nein!私は英語がわかりません!!」と叫ぶと、親切なカークビー女史はドイツ語に切り替えて一生懸命説明してくれましたが、彼女のドイツ語は私の英語と大差なさそうです(笑)。何しろ英語は汎世界語だし、ドイツの若い人たちは皆英語ができるので、ドイツでの講習会ではあってもドイツ語しかできない人が参加するとは思っていなかったのでしょうね。見かねた親切な受講生たちがかわりばんこにドイツ語に訳してくれました。それによると、「発声はもう出来上がっています」、「よく準備ができています」、「フルヴォイスで歌わなくてもいいのですよ。バロックはもっと軽く、高音ほど小さく、低音ほど充実した声で歌うのです」、「あなたの英語の発音はドイツ語に近いですね。もっと滑らかにソフトに発音して下さい」、「中間部はテンポを遅くせず、メリスマと声の音色で曲想の変化を表現してみましょう」(これには留保がついて、「この部分を少しテンポを落として歌う歌手も大勢います。試しにイン・テンポで歌ってみた上で、どちらにするかはあなたが判断して下さい」と言われました)、「少し上ずるところがあります。支えを低くしてみて下さい」、「ヴィブラートは極力控えて。声をある程度セーヴした方がノン・ヴィブラートにしやすいですよ」といったことを指摘されたようです。なるほど、バロック音楽はこんな風に歌うのか。そういえばM先生に伴奏して頂いた時も同じようなことを言われたような気がしますが、その時は発声に気を取られ過ぎて、様式感や発音に細心の注意を払うところまで行っていませんでした。今回は人のレッスンを聴きながらどっぷりと古楽の世界に浸っているので、言われることがスーッと体に入ってきます。来てよかったなあ、と思いました。
こうして10時近くまでのレッスンが終わりました。

旅日記(4)

2014年09月26日 | 日記
翌朝、フビイが私を迎えに来てくれて、午前中はマリアさん、ホルストさんと4人で市内を巡りました。フビイの住まいのマンションや、くみさんが通院していた病院、くみさんが通っていた合唱団の練習会場等を外から見たり、先日祈祷会の行われた教会にもう一度行ってみたり。お茶を飲んだ後でフビイが私を駅まで送ってくれて、そこで皆と別れ、列車でRさんの住むデュッセルドルフへ向かいました。Rさんはこの日の夜、エッセンにお住まいの二人の叔母様とケルンに住むRさんのいとこさんを夕食に招いているとのことでした。デュッセルドルフの街中にあるRさんのお宅に一旦荷物を置かせてもらって、私はRさんとご主人のJさんと3人で近くの広大な公園を散歩したりして午後のひとときを過ごしました。デュッセルドルフには最近巨大なハリケーンが襲来し、しばらくの間かなりの惨状だったそうです。この市立公園の巨木もたくさん倒れたそうで、市内の交通マヒもひどかったという話でした。
夜になると、エッセンからW先生の妹さんのTさんとSさん、そしてケルンからもTさんの娘さんのYさんがやってきました。ドイツ人と日本人のハーフのYさんは、私がボン大学に留学した当時、日本人留学生の受け入れ窓口だった日本語学科の学生で、その関係で私はいろいろお世話になったばかりでなく、エッセンのご実家に遊びに行くたびにYさんの叔母さんにあたるSさんのお宅に泊めて頂き、Sさんにもとてもよくして頂きました。Sさんは独身で、姉のTさん一家と同じお宅に別々に住んでいたのです。あれから10年以上経つ間に、Yさんのお父様(つまりTさんのご主人)がご病気で亡くなり、Sさんは当時勤めていた日系企業を定年退職して今では悠々自適の生活を送っておられます。今回はTさんのお宅の方に泊めて頂くことになり(といっても同じお宅の片方の棟ですが)、Rさん宅での賑やかなお食事会の後、週末で実家に帰る予定だったYさんの車にTさん、Sさんとともに乗り込んでエッセンへ向かいました。
TさんSさん姉妹のお宅は、町の文化財にも指定されている木組みの古い素敵な家です。美大卒のTさんのセンスが光るインテリアも素晴らしく、3日間の滞在中、生活の隅々にまで行き届いた濃やかな心くばりに圧倒される思いでした。日本と違ってヨーロッパでは時間がゆったりと流れます。特に毎食のテーブルセッティングには感心を超えて感嘆させられました。食事のたびに取り替えるテーブルクロス、美しい食器、ろうそく、配色や配置にまでこだわった美味しい料理。心豊かな生活とはこういうものなのだと感じ入りました。Tさんは決して丈夫なお体ではなく、加えて今は少々ややこしい問題に関わっておられて気苦労が絶えないようでしたが、そんな中で心を尽くしてもてなして頂き、本当に感謝でした。何の苦労もなく日本語で会話のできる気楽さも相まって、ここ数日の緊張がすっかりほぐれました。
近くの湖畔を散歩したり、古城に連れて行ってもらったり、大きなスーパーでお土産を買い込んだりしてのんびりと週末の3日間を過ごし、9月15日、いよいよエマ・カークビーの講習会の始まる日がやってきました。買い込んだお土産やハンニとホルストさんから預かったエリカちゃんの写真などを小包にして郵便局から日本へ送り、エッセンからオスナブリュックへと出発しました。次回は講習会の様子をご報告します。

旅日記(3)

2014年09月23日 | 日記
ドイツ3日目。ホルストさんの運転で近郊へドライブしました。車中、ハンニが「この辺はKumiがよく散歩したところ」、「ここは私の生まれた家」、「ここが私たちが結婚式を挙げた教会」、「ここはエリカをよく遊ばせる公園」という具合に解説してくれます。このあたりはルール工業地帯の一部で、牛の群れが草を食むのどかな田園風景の中に煙を上げる火力発電所が突然現れたり、かつての石炭掘削の名残で車道の片側に段差があったり、この辺はもともと炭鉱労働者の居住区だった、という場所があったりしました。お昼時になり、S夫妻が予約してくれていた「Lernkoch」のお店でS夫妻の知人のヴォルフガングさんと落ち合いました。ここは若い人が料理を習いに来る料理教室で、先生に教わりながら作ったコース料理を、ランチタイム限定で安く提供するという趣向のレストランです。お給仕も生徒さんたちがやります。メニューは選べませんが、とにかく安くコース料理が食べられるので、料理がおっくうになった高齢者がよく訪れるのだそうです。ここで昼食を済ませた後、ヴォルフガングさんの先導で教会めぐりをしました。彼はこの地域のいくつかの教会のオルガニスト兼合唱指揮者なのだそうです。最初に行った聖霊教会は、外観も中もとてもモダンな教会でした。青を基調にした明るい礼拝堂内の真ん中に、鉄くずやがらくたで作った横長の奇妙な十字架がどーんと安置されています。よく見るとハーケンクロイツの刻み込まれた部品もあって、あの悲惨な戦争を忘れまいという決意と覚悟をシンボライズしているのだとか。何とも奇妙で不思議な仕様にあっけにとられる私を尻目に、ヴォルフガングさんはこの教会のオルガンを小手調べのように弾き始めました。新しい教会なので音が少しシャープですが、それが会堂の雰囲気によくマッチしています。その調べを聴きながら、昨日の埋葬式の後でフビイが車の中でかけてくれたセザール・フランクの荘重なオルガン曲の調べがオーバーラップしました。それはまるでくみさんへのオマージュのように聴こえ、くみさんの思い出とともに私の心に深く刻み込まれました。これから先、パイプオルガンの演奏を聴くたびに、私の脳裡にはこの時のことが蘇るに違いありません。
この教会の礼拝はかなり破天荒らしく、伝統的な讃美歌や説教の代わりに歌ったり踊ったりするのだそうです。それが若い人たちをこの教会に引き付けているのだとヴォルフガングさんが話してくれました。
次に訪れた教会の会堂ではインド人のシスターが祈っていました。ヴォルフガングさんとは顔見知りらしく、親しげに挨拶を交わしています。この教会の神父様もインド人で、信者さんも移民が多いそうです。「幸せな人は教会には来ないからね」というヴォルフガングさんの言葉が印象に残りました。
更に2つの教会を巡り、2階のオルガン演奏席に上げてもらったりした後、皆で少し散歩をし、外でお茶を飲みながらいろいろな話をしました。70歳を過ぎているらしいヴォルフガングさんには息子さんがいて、スウェーデンでコンプリート・ヴォーカル・テクニックという特別な発声法を勉強し、免許皆伝(?)でドイツで教室を持って教えているそうです。この発声を身に付けると8時間ぶっ通しで歌っても声が嗄れないのだとか。クラシックだけでなく、ありとあらあゆるジャンルのヴォーカリストたちがレッスンに来ていて、80年代ドイツのスーパースターだったネーナも彼のレッスンを受けたのだそう。興味があったら「CVT」でネット検索してみるといいよ、と言われました(帰国後、検索しましたが、日本語のサイトはありませんでした(-_-;))。私が「私は日本で、ドイツ語の歌だけを歌う特殊な合唱団の指揮者をしているんです」と言うと、ヴォルフガングさんは興味津々で「どんな歌を歌うんだい?」と訊くので、「私たちのテーマソングはウェルナーの「野ばら」です。昔は日本人はみんなこの歌を知っていたんですけど、最近の若い人たちはもう知らないんですよ。ドイツ人留学生たちに聴かせても「知らない」って言うんですよね」と答えると、「僕もウェルナーの野ばらなんて知らないよ」と言うではありませんか。私が最初の部分を口ずさむと、「ああ、それなら知ってるけど、それはウェルナーじゃなくてモーツァルトだろ」という返事。「いいえ、モーツァルトは「野ばら」は作ってません。これはハインリヒ・ウェルナーの曲です」と断言しました。彼は「そうかい?いや、そんなはずは...まあいい、家に帰ってから調べてみるよ。もし本当にウェルナーだったら僕は自分の無知を恥じなくてはならないね」などと言い、S夫妻は面白そうにこの会話を聞いていました。
1時間ほどののち、ヴォルフガングさんと別れてS家へ帰宅。明日はSさんに別れを告げ、デュッセルドルフのRさんのお宅にお邪魔することになっています。日が暮れると、くみさんが吸った空気を吸い、くみさんが歩いた道を歩き、S夫妻の人生が刻まれたこの土地のあちこちをたどった今日という一日が何か特別なものに思えてきて、S夫妻に心からお礼を言いました。お2人は温かく優しく「私たちの方こそ、あなたのお蔭で良い一日を過ごせたわ」と言って下さいました。

旅日記(2)

2014年09月23日 | 日記
翌日はくみさんの遺骨埋葬式でした。フビイが車で迎えに来てくれて、埋葬式が行われるハーゲンという街へ向かいました。車で1時間半ほど離れたところです。ハーゲンの駅でW先生の娘さんのRさんと落ち合い、一緒に埋葬場所へ。Rさんと私は留学中に知り合いました。今年の初め頃、Rさんがデュッセルドルフ在住であることを思い出し、くみさんのお友達になって頂けたらと思ってメールしたのがきっかけで、Rさんはくみさんにメールや電話をして下さるようになり、必要なものを送ってあげたり、何くれとなく気にかけて下さっていました。8月に入ってすぐ「くみさんがホスピスに入られたようよ。電話してあげた方がいいんじゃない?」とくみさんの携帯電話の番号を知らせてくれたのもRさんでした。くみさんの亡くなる前の週に、くみさんが食べたがっていた素麺を持ってお見舞いに行って下さり、翌週エッセンにお住まいの叔母様と一緒にもう一度お見舞いに行くつもりにしていらっしゃいましたが、結局これが最初で最後のお見舞いになりました。
埋葬の場所は森の中。「Ruheforst」(安息の森)という表示のある森の中を10分ほど歩くと、一本の銀杏の木の根元に穴が掘られていました。フビイのお身内やくみさんの合唱仲間やペンフレンドなど総勢10人ほどが集まると、フビイの旧友のBさんが司式をつとめ、心のこもった長い弔辞を読み上げました。葉擦れの音がざわめき、時折鳥の声が響く薄暗い森の中に、くみさんの生い立ちや人となり、フビイとの出会いや2人の生活の様子を語るBさんの声が響きます。銀杏の木が東洋から渡ってきたものであること、東洋の宗教も西洋の宗教もともに死後の再生を信じるものであることを述べたくだりが心に響きました。フビイが骨壺を穴の中に安置し、会葬者が一人ずつ、銀杏の葉っぱとバラの花びらをその上にかけていきました。埋葬が終わると、合唱団のメンバーの方たちが「Dona nobis pacem」(平和をわれらに)を歌い出しました。私も唱和しようとしましたが、声が詰まって歌えません。歌が終わり、皆がその場を去った後もRさんと私はその場に立ちつくしました。少し離れた場所でフビイがじっと待っています。気の済むまで心の中でくみさんに語りかけ、去り難い思いでその場を離れました。
その後、少し離れたカフェで茶話会があり、Wさんとはそこで一旦別れました。私はフビイの車で一緒に戻り、久美さんの所属していた合唱団が主催する祈祷式の行われる街中のプロテスタント教会へと直行しました。すでに続々と人が集まっており、エリカちゃんを連れたS夫妻もやってきました。やがて人がいっぱいになり、祈りと合唱による祈祷式が始まりました。讃美歌や受難曲が奉献されます。楽譜と讃美歌集が配られていたので私も一緒に歌いましたが、こみあげるものを抑えきれず、途切れ途切れになりました。1時間ほどで祈祷式が終わり、フビイとエリカちゃんとベビーシッターのマリアさんと私の4人で、近くの中華レストランに入りました。くみさんのお友達が日本から来たりすると、この店によく来たのだそうです。経営者がベトナム人なので、ベトナムの血を引くエリカちゃんにはいつもジュースを無料でサービスしてくれるのだとフビイが説明してくれました。その女性経営者が私たちに声をかけてきて、フビイが「妻が亡くなったんだ。今、教会での祈祷会を終えてここに来たんだ」と言うと、彼女はびっくりしてテーブルに置かれたくみさんの写真をみつめ、「いい奥さんだったわ。残念だったわね」と言葉少なに声をかけて去っていきました。私も、フビイが注文してくれた料理が全く喉を通りません。無理に少し詰め込みましたが、途中で食べるのを諦めました。支払いに席を立ったフビイが戻ってきて「今日は無料にしてくれたよ」と言いました。
帰りの車中、フビイは「Kumiがここの合唱団に所属していたのはたった3年間だ。それなのに、今日はこんなにたくさんの人がKumiのために集まってくれた」と感慨深げに言いました。そして私をS夫妻宅まで送り届けてくれ、「申し訳ないが、明日は僕は仕事でケルンに行かなくちゃいけなんんだ」と言うと、ホルストさんが「明日は私たちが、Kumiが好きだった場所にRikaを案内して回るよ」と言ってくれました。
フビイたちが帰った後、オーマ・ハンニと私はまた長い時間、くみさんのことを語り合いました。埋葬式での弔辞のことに触れ、宗教観の話になると、ハンニは「私たち夫婦はプロテスタントだけど、それは牧師さんや教会を拠り所とすることではないのよ。私の母や祖母はいつも、隣人愛は人に説くものではなく実践するものだ、と言っていたわ」と語ってくれて、見ず知らずの東洋人の客にこんなに自然体で親切にしてくれるわけが少しわかったような気がしました。私が「男は総じて女より弱いものですよね」と言うと、「その通り。ホルストもうちの息子も一人っ子だから、しっかりした女がそばについている必要があるのよ」と言います。「HubertusはKumiを失うのが怖かったのかもしれませんね」と言うと、ハンニは「そう思うわ。これから私たちができる限りHubertusをサポートしていくつもりよ」と言いましたが、それが決して口先だけの、あるいは観念だけの言葉ではないことがひしひしと伝わってきました。
くみさんもフビイもエリカちゃんも見方によっては薄幸かもしれません。でもハンニと話をするうちに、こんな「善きサマリア人」を隣人に持つ彼らは、自らに向けられる尊い隣人愛への感謝を持ち続ける限り決して不幸ではないはずだと思えてきました。もしかしたら、私はハンニに出会うために今回ここに来たのかもしれません。

旅日記(1)

2014年09月21日 | 日記
皆様、10日間のご無沙汰でした。昨夜遅く無事帰国しました。
今回の旅はおそらく生涯で最も忘れ難い旅の一つになると思います。いろいろなことを感じた日々でした。備忘の意味で時系列で振り返ってみたいと思います。
9月9日(火)。熊本駅から新幹線で福岡へ。10:25発KLMで福岡空港から空路アムステルダム経由で、時差の関係で9日夕方にデュッセルドルフに到着。亡くなったくみさんのご主人のフビー、娘のエリカちゃん、ベビーシッターのマリアさんが空港で出迎えてくれました。前回熊本で会った時にはバギーに乗っていたエリカちゃんは、来月4歳になるそうで、随分大きくなっていました。
彼は終始微笑みを絶やさず、穏やかでした。その様子に私は少し戸惑いましたが、とりあえずくみさんの弟嫁のEさんからの伝言を伝えました。今回の埋葬式に来られなくて残念だったこと。今までお姉さんをサポートしてくれて本当に感謝していること。くみさんが編んでくれたセーターを子供たちが今でも大事に着ていること。子供たちがエリカちゃんのことをいつも気にかけていること。彼はEさんの立場や気持ちをよくわかってくれているようでした。
フビ―の運転でS夫妻のお宅へ直行。S夫人は皆からオーマ(おばあちゃん)・ハンニと呼ばれていて、くみさんと同じ合唱団のメンバーです。エリカちゃんをとても可愛がって下さっているとくみさんから聞いていましたが、ご主人のホルストさんともども「善良」を絵に描いたようなご夫婦で、くみさんの友達というだけのご縁で見ず知らずの東洋人である私に快くお部屋を提供して下さいました。40代の一人息子さんが最近やはり40代の歯科医の女性と結婚されたそうですが、年齢的なこともあって子供は作らないことにしたのだそうで、子供好きのご夫妻にとってエリカちゃんは本当の孫そのもの。リビングに通されてまず目に飛び込んできたのは、「エリカのキッチン」という可愛い張り紙と、その下に鎮座しているティファールの本格的な子供用キッチンセットでした。
リビングでフビ―たちも一緒にお茶を頂きました。Eさんと2人の姪御さんから預かったプレゼントと手紙を渡すと、ホルストさんがエリカちゃんへの手紙を読み上げました。小学生の姪御さんたちが一生懸命ドイツ語を勉強して、ドイツ語で「エリカちゃん、元気ですか。幼稚園は楽しいですか。またいつか会いましょうね」と書いた手紙です。意味もちゃんと伝わったようです。エリカちゃんは和風の手鏡のプレゼントに大喜びでした。フビ―にはEさんから「今までお姉さんを本当に有難うございました。心から感謝しています」というメッセージと肥後象眼のネクタイピン。熊本の伝統工芸品だと説明すると、「これは明日の埋葬式の時につけていこう」とフビ―。オーマ・ハンニへの扇子のプレゼントも、とても喜ばれました。私もフビ―とオーマ・ハンニに和紙の折り紙と便箋セットを持って行きました。折り紙を見ながらフビ―が「くみは手先が器用で、クルミを食べる時なんか、そこらへんにある紙でささっと殻入れの箱を作ってくれたんだ」と言うと、ハンニが「私たちにはこれを作ってくれたのよ」と言いながら、色とりどりの折り紙で折ったバラの花かごの見事な飾り物を見せてくれました。
もう一つ、くみさんが熊本に帰省した折にドイツ語や歌を通して知り合いになった方たちのサインを寄せ書きしたお悔やみのカードを渡すと、彼はそれをじっと見つめ、感慨を込めて一言「有難う」と言いました。私も「皆がKumiを好きだったのよ」と一言だけ答えました。
フビ―たちが帰宅し、ハンニと2人っきりになった時、私は率直に「Kumiはドイツで本当に幸せだったのでしょうか」と尋ねました。ハンニは少し考えてから「Hubertusは本当にKumiによく尽くしていたわ。あんなに手厚く奥さんをサポートする男性はドイツ人には珍しいと思うわよ。その意味ではKumiは確かに幸せだったと言えるわね」と答えました。「でも、最期には立ち会えなかったんでしょう?」と尋ねると、「そうなの。でも、私たちもあんなに早くKumiが亡くなるとは思っていなかったの。私を含め、合唱団のメンバーが日替わりで毎日Kumiを見舞いに行っていたけれど、いつも意識ははっきりしていたし、10月のErikaの誕生日までは大丈夫、ひょっとするとクリスマスまでもつかもしれないと思っていたわ。少なくとも9月下旬にHubertusが出張から帰ってくるまでは大丈夫だと思っていたのよ」と。「Erikaはママが亡くなったことを理解していますか?」と尋ねると、「Erikaはとても賢い子よ。ママが重い病気だということはよくわかっていたわ。Kumiが亡くなった時、幼稚園の先生が大きな花束を下さったの。Erikaは「これをママにあげるの。ママはどこにいるの?」と訊いたのよ。私はErikaに「ママはもういないの。もう帰ってこないのよ」と伝えたの。Erikaは黙っていたけれど、理解したと思うわ」と言われました。私は胸がいっぱいになり、ハンニに「どうぞこれからもずっとErikaのそばにいてあげて下さい」と言うと、彼女は真剣な面持ちで「Erikaは私のすべてよ。私の幸せの源なの。私たち夫婦はこれからもずっとErikaのためにできる限りのことをするし、Hubertusにも最大限のサポートをするつもりよ。Hubertusにもそう言ったの」と言われ、重ねて「あなたにお願いがあります。私たちはErikaに日本語を忘れさせたくないの。KumiはいつもErikaに日本語で話しかけていたし、Erikaは自分では日本語はしゃべらないけれど、ママの言うことはちゃんとわかっていたわ。だから、誰か日本人を紹介してほしいんです。そうしたら私たちはその方のところにErikaを時々連れて行きます。もちろん私たちも一緒に過ごすわ。私たちはママが日本人だったことをErikaにずっと覚えておいてほしいの。Hubertusにもその話をしたけれど、彼は特に何とも言わなかったわ。でも、私たちがそうしたいんです」と言われました。私はまた胸がいっぱいになり、「そこまで深くErikaを愛して下さって、Erikaは本当に幸せな子です。明日、日本人の友人と一緒に埋葬式に立ち会うので、彼女に頼んでみますね。デュッセルドルフには日本人がたくさんいるし、彼女の叔母さんが2人エッセンに住んでいますから、きっと力になってくれると思います」と言いました。ご主人のホルストも書斎から出てきて、「エッセンだって車で行けばここから大して遠くないし、私は先月定年退職したばかりだから時間はいっぱいあるんだ。頼むよ」と言われました。
こうして第1日目の夜は更けていきました。翌日の埋葬式の様子は次回ご報告します。