復興祈念コンサート

2019年05月14日 | 日記
熊本地震から早3年が経過。この間、復興に向けた様々な取り組みがありました。直後の時期は何はさておき物的な支援が最優先ですが、次の段階では心のケア、続いて被災者同士の共助・自助の体制作りが求められます。着の身着のままの状態は長くは続きませんから、人間らしさを取り戻すために、芸術の力も必要になってきます。
この3年間、「くまもと音復興支援100人委員会」の方々が、大規模な「復興祈念コンサート」を重ねてこられました。その第3回目、最終回が先日行われました。今回の演目はヴェルディのレクイエム。この曲は、宗教曲離れしたオペラティックな作品で、名曲ですが、私は全曲をナマで聴いたことはありませんでした。今回のような機会がなければ、おそらく一生聴かずに終わったかもしれません。うちの生徒さんたちや知人が合唱で参加していたこともあり、知人である主催者からも何度かメールを頂き、その意気に感じて会場へ足を運びました。
名演でした。
合唱団が最初の一声を発した瞬間、ポリフォニックな響きをまとった「気迫」が、立体的な構造物のようにすっくと眼前に現れ、息を呑みました。このただならぬ空気は、第1回目の「復活」、第2回目の「第九」の時と同じです。鬼気迫るとはまさにこのこと。そして、80分に及ぶ長大な演奏が、一分の緩みもない緊迫感とともに展開されていきました。合唱もソロもオケも本当に素晴らしかった。テクニックも第一級ですが、特筆すべきはその気迫です。これは、合唱メンバーの多くが熊本地震の当事者であることも含め、オケもソリストも指揮者も、皆がこのコンサートにこめられた熱い思いを共有し、共振し合っていることの証明でしょう。
第1回目の「復活」で希望ある未来をめざす決意を、第2回目の「第九」で連帯を、そして今回の「レクイエム」で犠牲者への鎮魂の祈りを、音楽を通して体現したこの「復興祈念コンサート」のプロジェクトに心からの敬意と感謝を捧げたいと思います。私も、自分にできることを精一杯やっていきたいと改めて思ったことでした。

歌う人のためのオイリュトミー・クラスvol.2終了

2019年05月13日 | 日記
昨日、福岡からU先生をお招きして、第2回目の「歌う人のためのオイリュトミー・クラス」を開催しました。
とてもとても有意義な時間でした。シュタープ(銅の棒)を使った基本の体作りが中心でしたが、激しい動きではないのに随分な運動量に感じました。心地よく疲れて、生命が喜んでいるのを感じました。
私は月1回ヨガに通っているのですが、動きに常に醒めた意識を伴わせるという点で、オイリュトミーとヨガは似ています。動きがゆっくりであることも。しかし、ゆっくりでも停滞なく動かないといけません。そんなに難しいことをやるわけではないのですが、一つ一つの動きに意味があり、うまくできない動きがある場合は、身体の問題と言うより、意識が切れていることが多いように思いました。何というか、これは「動く瞑想」とでもいう感じですね。
クラスが始まる前の時間に先生とお話をしていて、「うちの生徒さん達は、両腕を挙げて胸郭を開いた状態を、腕を下ろした時にキープできなくて息が落ちてしまう方が多いです」と言ったら、その言葉に反応されて、「腕を下ろす時って、エーテル体が下がる代わりにアストラル体が上がっていくんですけどね」と仰いました。私には何のことやらよくわかりませんが、何やら下半身、特に脚力と関係のあることのような気がしました。先生にとってもこの会話はレッスンの糸口になったそうで、終わった後に「始める前にあの話ができてよかった」と言って下さいました。
いろいろと印象に残る言葉があったのですが、「記憶には、感情や思考による記憶と、生命による記憶がある」と仰ったのには大いに納得しました。感情と思考(理性)の出どころは同じだ、というのは私の博論指導をして下さった哲学の先生のご意見ですが、対概念のように思われている理性と感情は、生命という包括的な次元から見れば同じカテゴリーなんですね。そして、生命が覚えたものが、本当の記憶として、一人の人間の全体に影響していくのでしょう。自転車乗りでも泳ぎでも楽器の演奏でも、できるようになった時には生命の次元に記憶されていて、もう忘れることはあり得ないわけです。だから、一度は覚えたはずだけど忘れた、というのは、生命の次元で覚えていなかったということなんですね。「体で覚える」という日本的な言い方がありますが、同じ事情を指しているのでしょう。そして、それには反復練習あるのみ。練習というのは、生命の記憶になるまで自分の存在全体に浸透させるということなんだ、と得心がいきました。
そういう意味でも継続的に学びたいと思い、来月から毎月、先生が「親と子のオイリュトミー」のグループの指導で熊本に来られる日の夜、6時からのクラスを開催させて頂くことになりました。たくさんの方に体験して頂きたいと思います。
実は今回、前日と当日で合わせてなんと10名ものキャンセルが出て真っ青になりました。先生から「次回からキャンセルポリシーを明示して下さい」とお言葉を頂きましたが、継続的に学んでいくにあたっては、そういうところもきちんとしないといけませんね。こういう催しにはドタキャンはつきものですから、やきもきしないで済むような体制づくりを考えます。

ドイツ歌曲の夕べ

2019年05月04日 | 日記
令和の幕が開きましたね。10連休をいかがお過ごしですか。私は大学がお休みなだけで、普段と何も変わらず、レッスンをしたり授業の準備をしたりしています。
さて、昨日は市内の画廊喫茶で友人Iさんが「ドイツ歌曲の夕べ」というリサタルを開催されました。前半はシューベルトとメンデルスゾーンとシューマン、後半はブラームスとドヴォルザークという5人の作曲家の作品で構成されたコンサートで、チケットやチラシ、プログラムのデザインもすべてIさんが自分でやり、対訳も自分で作り、演奏の合間に自分で曲の解説をしながら進める、という手作りスタイルでした。こういうコンサートをやってみたかったのだそうです。選曲が彼女らしく、特にドヴォルザークの「ジプシーの歌」は、彼女の声によくマッチしたベストセレクトだったと思います。伴奏のM先生も、どこかジプシーを思わせるような奔放さを秘めた方なので(笑)、お2人ともしっかりハマっていました。歌もとても良かったのですが、特筆すべきは伴奏です。この会場は反響がかなり強いのと、ピアノの鍵盤のタッチにばらつきがあるのとで、コントロールが大変だったと思います。まるで鍵盤を撫でるような弾きぶりでしたが、ダイナミクスも和音のバランスも絶妙でした。お客様も楽しまれた様子で、親密でなごやかな雰囲気でした。
私も10月にはリサイタルです。ぼちぼち準備を進めなくてはね。でも、とりあえずはあと3日間の大型連休、気持ちだけでも少しのんびりしたいと思います。