追憶

2019年06月20日 | 日記
中1の時に担任をして頂いたM先生が、昨日、75年の生涯を終えられました。
人間の一生には何度かのターニングポイントがありますが、私の最初のターニングポイントは、中1の時にM先生のクラスになったことでした。このクラスにはなぜか音楽的な人が集まっていて、M先生も音楽好きでした。音楽の先生だった奥様の影響もあったのでしょうか、朝夕のホームルームの時間に「野ばら」や「歓喜の歌」をドイツ語で教えて下さったり、ロングホームルームの時間にミニ・コンサートを開いて下さったり。ヴァイオリンを能くするクラスメイトが2人いて、ピアノの名手もいたので、この3人がバッハのドッペルコンチェルトを演奏したのです。今思えば、これはなかなかすごいことです。コーラス部員も多く、校内合唱コンクールでも学年優勝しました。クラスで愛唱歌集を編集して、私は「1年4組の歌」という曲の作詞をし、ピアノのうまい友人がこれに曲をつけました。もっとも、歌集には載ったものの、結局誰も歌いはしませんでしたが(笑)。ともかく、1年間をこのクラスで過ごしたことで、私は音楽熱に取りつかれ、途中入部でコーラス部に入り、そのまま歌の道に進むことになったのです。M先生のクラスでなければ、私はおそらく別の道に進んだだろうと思います。我が家は特に音楽的な環境ではありませんでしたし、私自身もさほど歌の才能に恵まれていたわけでもありませんでしたから。
大人になってからも、断続的にM先生との関係は続きました。私が母校の中学校の音楽講師になったからです。M先生の末のお子さんのクラスを教える巡り合わせになったこともありました。それに、その後倫理学に転身して大学で教えるようになった時、定年退職されたM先生がその大学で講師として教鞭を取られていたというつながりもありました。奥様とも音楽関係で接触がありました。
6年前に不慮の事故で身体の自由を失われてからは、何度かお見舞いさせて頂きましたが、昨年の夏に同級生たちと病院を訪ねた時、行き違いで私だけ先生にお目にかかれなかったことが返す返すも残念です。奥様が「不自由な身体になっても自暴自棄になることはありませんでした」と仰っていましたが、最期まで頑張って生き抜いて下さったお姿こそ、残された私たちに対する無言の尊い教えでした。心からの感謝を先生の霊に捧げたいと思います。

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