あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理の志向性(方向性)と反応(自我その74)

2019-03-31 20:58:31 | 思想
人は、外部に反応して、生きている。ハイデッガーは、「人は、心にあることや物しか捉えることができない。見ようとしていることや物しか見ることはできない。」と言っている。つまり、人の心は、反応できる物やことにしか反応しないのである。人の心には、既に、方向性があるのである。この方向性を、哲学用語では、志向性と呼ぶ。志向性について、辞書では、「常に対象について向かう作用の中で始めて対象が一定の意味として立ち現れ把握される意識経験のあり方をいう。」と説明されている。つまり、我々は、常に、既に、心の中の志向性(方向性)のある物やことにしか経験できず、意外な物やことに出会ってする驚くという反応も、既に心の中にある物やことに対してのことなのである。この心の働きは、無意識のうちで行われている。この無意識の心の働きを深層心理と言う。深層心理の働きで、我々は、外部の物やことに反応して行動しながら、日々を送っているのである。それでは、どのような物やことに対して、人は、志向性(方向性)があるのか。それは、必要性と快楽性である。人は、自分にとって必要な物やことを求め、自分に害毒を与えそうな物やことを避ける傾向がある。これを、フロイトは、現実原則と呼んでいる。人は、自分にとって快楽を与えそうな物やことを求め、自分に不快感を与えそうな物やことを避ける傾向がある。これを、フロイトは、快感原則と呼んでいる。人は、現実原則と快感原則の二大原則の志向性(方向性)を持って、活動しているのである。職場に向かうのは、給金をもらい、生活物資を手に入れるという現実原則からである。学校に向かうのは、行かないと両親に叱られるので、その不快感を避けたいという快感原則によるのである。しかし、時には、現実原則、快感原則共にうまく作動せず、志向性(方向性)が弱まる時がある。それが退屈である。しかし、退屈な時というのは、確かに、楽しいことが期待できない時であるが、生きるのに必要な物を今すぐ求めなくても良いという切迫性の無い時なのである。だから、退屈を託つことは無いのである。「待てば海路の日和あり」の諺のごとく、いつか、強い志向性(方向性)が出てくるものである。それを、やる気が無い、根性が無いなどと責める人がいたり、自分自身を責めたりする人がいるが、それは、お門違いである。なぜならば、志向性(方向性)は、表層心理の範疇ではなく、深層心理の範疇だからである。表層心理(意志)では、退屈な気持ちややる気の無い気持ちを変えることはできないのである。もしも、退屈な時や何事にもやる気の無い時を脱し、志向性(方向性)の強い気持ちにしたいのならば、環境を変えてみたり、行動してみたりすることである。散歩に出掛けたり、カラオケに行ったり、音楽を聴いたり、映画を見に行ったり、友人に電話してみたりなどすることである。「犬も歩けば棒に当たる」の諺のごとく、いろいろなことを試しにやってみることである。

私のような存在(自我その73)

2019-03-30 22:07:02 | 思想
私という存在は何か。それは、日常生活において、私とは何だろうか、私とは誰であろうかという疑問の形で浮かび上がってくるという問いである。誰しも、一度は、このような疑問に突き当たるはずである。そして、明確な答えが得られぬままに、忘れ去られるのである。そして、時期を置いて、また、このような問いに突き当たるのである。このような問いが浮かび上がるのは、決まって、仕事、勉強、人間関係がうまく行かなかった時である。そのような時、不安に陥り、確固たる自分の存在を確認したいのである。他者には無い、これが自分だと言えるものを確信したいのである。さて、果たして、私とは何だろうか。ある人は、大川株式会社の営業部長などと会社名と地位を答えるだろう。しかし、その地位は、その人独自のものではなく、早晩、他の人が交代して入ってくるだろう。ある人は、大川高校の二年生などと学校名と学年を答えるだろう。しかし、その学校のその学年の生徒は百人以上存在するから、その人独自のものではない上に、再来年の三月にはその高校を去り、それを失うことになる。ある人は、山田一朗太などと固有名詞を答えるだろう。確かに、山田一朗太などという固有名詞の人は稀れにしか存在しないだろう。しかし、それは、山田家に生まれ、一朗太と命名されたということであり、形式的にその人を指すだけで、内容的には固有名詞だけでは無である。ある人は、自分の顔と答えるだろう。しかし、それは識別の手段にしか過ぎず、美男・美女にしても、遺伝による偶然に過ぎず、自分の業績ではない。美男・美女も、異論を唱える人が必ず存在し、絶対的な評価ではない。ある人は、自分の考え方と答えるだろう。しかし。それは深層心理が生み出したものであり、本人の意志や努力による業績ではない。ある人たちは、自分が創作した小説・曲・彫刻・絵画と答えるだろう。しかし、それは、一部の人に評価され、一時代のものであり、この世に必要不可欠な作品は一作もない。さて、これまで、述べてきた、会社名と地位、学校名と学年、固有名詞、顔、創作物は、まだ、日常生活において、身近に存在するが、遠くに存在しているのに、自分のことのように感じる現象がある。それは、わがこと、わがものの現象である。わがこととは、我が事と記され、他人の成した業績なのに、自分が成したことのように思うのである。例えば、羽生結弦選手が平昌冬季オリンピックのフィギュアスケートで優勝すると、日本中が沸き返った。それは、羽生選手が日本人だったからである。日本人という自我が、羽生選手の優勝を自分のことのように喜ばせたのである。わがものとは、我が物と記され、自分の所有物を強調した言い方である。そこには、自分の所有している物の偉大さによって、自分の偉大さを他者に誇示しようという狙いがある。国会議員に傲慢な人が多いのは、自分たちが日本を支配していると思い込んでいるからである。国会議員という自我が、日本を所有しているように勘違いさせるのである。このように、会社名と地位、学校名と学年、固有名詞、顔、創作物、日本人、国会議員と例示してきたが、いずれも、私という存在を表していない、私のような存在を示しているのである。もしも、私という存在を真に表したいのならば、自分の深層心理から湧き上がってくる欲望をそのまま実行することである。しかし、それは、他者からわがままだと指弾されるだろう。また、自分の深層心理から湧き上がってくる欲望をそのまま実行すれば、恐ろしいことになる。なぜならば、深層心理から湧き上がってくる欲望には、愛する人を守りたい、尽くしたいなどの欲望ばかりでなく、憎い人を殴りたい、殺したいなどの欲望があるからである。だから、我々は、私のような存在を私の存在として行動するしか無いのである。もともと、本当の存在など無く、仮の存在しか無いのである。それゆえに、それを自覚していないと、仕事、勉強、人間関係がうまく行かなかった時、私とは何だろうか、私とは誰であろうかと自問して、納得できる答えを得られるはずはなく、何度も、自問することになるのである。つまり、私のような存在・仮の存在を生きていくしかないこと自覚して、何事も、肩肘張らず、思い詰めず、処していくことが大切なのである。

人は人生というゲームをさせられている(自我その72)

2019-03-29 20:55:32 | 思想
人間、誰しも、他者の束縛がなければ自分は自由に行動できると思っている。しかし、人間は、他者に束縛されなくても、常に、自我・深層心理に束縛されている。自我とは、おののの構造体における自分のポジションである。構造体とは、人間が活動する、家、学校、会社、コンビニ、道路、電車、カップル、仲間など、人間の組織・集合体の空間を意味する。人間、誰しも、いついかなる時でも、自分であることはできず、自我である。自分であることはないのであるから、自由になることはできない。人間、誰しも、朝、起きた時から、束縛が始まる。他者に束縛されるのではない。自我に束縛されるのである。朝、ある特定の家という構造体で目が覚めるやいなや、祖父、祖母、父、母、息子、娘などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。ただ単にそこに存在するのではない。常に、深層心理に、他者から、自我(自分のポジションとしての活動)が認められるように活動するように動かされている。これが、対他存在のあり方である。また、与えられたポジションは引き受けざるを得ない。なぜならば、自分で、別の家の構造体を選ぶことができず、現在の家の構造体でも別のポジションに変えることはできないからである。これが、自我のあり方である。もちろん、ある特定の高校という構造体へ行くと、一年生、二年生、三年生などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。ある特定の会社という構造体へ行くと、社員、課長、部長、社長などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。コンビニという構造体へ行くと、店長、店員、客などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。道路という構造体を使用する時には、歩行者、自動車運転手、自転車の乗り手などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。電車という構造体に乗る時には、客、運転手、車掌などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。カップルという二人から成る構造体の中では、恋人を自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。仲間という数人から成る構造体の中では、友人を自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。つまり、おのおのの構造体の中で、自我(自分のポジションとしての活動)が認められるように、家族ゲーム、学校ゲーム、会社ゲーム、コンビニゲーム、道路ゲーム、電車ゲーム、カップルゲーム、仲間ゲームを行っているのである。そして、全てのゲームにルールがあるように、全ての構造体にもルールがある。ルールを破れば、罰せられることが一般的だが、あまりにひどいルール破りは、構造体から追放される。誰しも、構造体から追放されるのが嫌だから、ルールを守ろうとするのである。ある構造体から出ても、別の構造体に入れてもらえる保証も別のポジションが与えられる保証が無いからである。それほど、人間にとって、ある構造体に属し、あるポジションを与えられ、それを自我として活動することが重要なのである。なぜならば、自我(自分のポジションとしての活動)があって、初めて、対他存在(他者から認められたり高く評価されたりすること)を満足する機会が与えられるからである。学校という構造体や会社という構造体での自殺の原因は、自我が認められなかったことである。学校でいじめに加担するのは、仲間という構造体から出された後、別の構造体には入れる保証は無く、不安だからである。ストーカーになるのは、カップルという構造体を形成していた一人が別れを告げて去ろうとしているのだが、残されたもう一人が、カップルという構造体が消滅することに限りなく不安を覚え、それを認めたくないからである。ストーカーにならずとも、カップルという構造体を形成していた一人が別れを告げると、残されたもう一人は、誰しも、ストーカー的な心情に陥るものである。このように、我々は、いついかなる時でも、ある構造体に属し、ある特定のポジションを与えられ、それを引き受けて、自我として活動している。そして、常に、深層心理に、他者から、自我(自分のポジションとしての活動)が認められるように活動するように、対他存在を満足させるように動かされている。つまり、いついかなる時でも、構造体と自我から逃れることはできない。しかし、どの構造体での活動しろ、皆、ゲームである。家族ゲーム、学校ゲーム、会社ゲーム、コンビニゲーム、道路ゲーム、電車ゲーム、カップルゲーム、仲間ゲームなどのゲームである。確かに、深層心理には常にせき立てられるが、たかがゲームではないかと考えて、自我に捕らわれ過ぎない生き方をすることが大切である。

日々の試練。従うか、戦うか、狂うか、死ぬか。(自我その71)

2019-03-28 14:25:58 | 思想
我々は、自らが属している構造体でパワハラやいじめを受け、その構造体に違和感を覚えている時、今まで通り構造体に従うか、構造体の中の加害者と戦うか、構造体を無視するために精神疾患に陥るか、構造体に行くことも離れることもできない苦しさから逃れるために死ぬしかない。構造体とは、学校、会社、家族などの組織・集合体を指す。さて、誰しも、学校という構造体で、いじめを苦にして自殺する生徒を見ると、自殺するぐらいならば学校に行かなければ良いのにとか別の学校に変われば良いのにと思うが、その生徒の心には今の学校に行かないや別の学校に変わるという選択肢が存在しないのである。それほど、これまでの学校を離れることに恐怖心を抱いているのである。次に、誰しも、会社という集合体で、パワハラを苦にして自殺する人を見ると、自殺するぐらいならばそんな会社は辞めてしまえば良いのにと思うが、その人の心には別の会社や別の仕事という選択肢が存在しないのである。それほど、これまでの会社を離れることに恐怖心を抱いているのである。次に、誰しも、家族という集合体で、親に虐待され亡くなった子供を見ると、親に虐待される家庭ならば死ぬ前に飛び出し誰かの世話や施設に保護を求めれば良いのにと思うが、その子の心の中には別の人の世話や施設の保護という選択肢が存在しないのである。それほど、これまでの家族から離れることに恐怖心を抱いているのである。このように、自らが属している構造体の中で虐待を受け、その構造体に違和感を覚えても、その構造体の人やその構造体そのものと戦うことはできないのである。たとえ、戦いに勝利しても、二度と、構造体に戻ることはできないからである。それは、構造体は運命共同体であり、たとえ、構造体そのものが悪方向に走っていようと、構造体の中に悪事を働いている人がいようと、構造体の中の人やその構造体そのものと戦うことは、構造体そのものに弓を引き矢を射るのと同じことを意味し、構造体の中全体の人から忌避されるからである。そして、構造体外の人からも、ある構造体や構造体の中の人を指弾する行為をする人は忌避されることが多いのである。なぜならば、人は、一般に、永劫回帰(毎日同じことを繰り返すこと)に安心感を得、穏便に暮らし続けることを望んでいるからである。それは、学校、会社、家族という小さな構造体だけでなく、国という構造体にも及ぶ。だから、戦前、戦中、一部の知識人や宗教人が命を賭して、国の方針に逆らって、戦争反対という正しいことを主張し、実際に百人以上拷問死していても、彼らの名誉回復は今もって為されていないのである。さて、構造体を無視するために精神疾患に陥る方法があると述べたが、それは、自らの意志や自らが意識してできることではない。つまり、表層心理では、できないのである。無意識のうちに、深層心理が為すのである。だから、いつの間にか、精神疾患に陥っているのである。構造体内でのパワハラやいじめに精神が堪えきれないと深層心理が判断し、自らの心を精神疾患に陥らせたのである。精神疾患の具体例として、鬱病、統合失調症、離人症などがある。その人の体質によって、罹患する精神疾患が異なるのである。しかし、役目は同じである。自分が属している、パワハラやいじめなどがある構造体を無視することである。深層心理が、自らの心を鬱病にし、心を重くして、その構造体に行かせないようにしているのである。深層心理が、自らの心を統合失調症にし、現実を忘れさせ、その構造体でのパワハラやいじめを感知させないようにしているのである。深層心理が、自らの心を離人症にし、その構造体でのパワハラやいじめを誰に対してのものかわからないようにしているのである。確かに、精神疾患に陥れば、いじめやパワハラを避けることができ、忘れることができる。しかし、精神疾患の辛さや異常さは長く続き、容易に寛解できないのである。なぜならば、精神疾患は、意志や意識の表層心理に拠るものではなく、無意識の深層心理がもたらしたものだからである。さて、確かに、我々は、構造体から追い出されることを恐れ、自らが属している構造体でパワハラやいじめを受け、加害者に怒りを覚えても、そのようなパワハラやいじめを認容している構造体に違和感を覚えていても、ほとんどの人は、加害者やその構造体と戦わず、今まで通りその構造体に属し従っていく。新しく受け入れてくれる構造体が見つかるとは限らず、見つかっても、新入生、新入社員としてやっていく自信が無いからである。しかし、表層心理で無理に受け入れようとしても、深層心理を騙すことはできない。いつの間にか、精神疾患に陥っているか、自殺に向かっている可能性がある。だから、自らが属している構造体でパワハラやいじめを受けていたならば、その構造体から追い出されることを覚悟して、加害者やその構造体そのものと戦うべきである。「人間到る処青山あり」(人間、活躍する場所はどこにでもある)の気持ちで、戦うべきである。そもそも、誰しも、どの構造体でも、新入生、新入社員で始まるのだから、新しい構造体を探し、出直すべきである。

明日も生きていくだろう(自我その70)

2019-03-27 19:10:34 | 思想
明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。確かに、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得られない。しかし、そのように思っている。理性的に考えて、そのような結論に達したのではない。深層心理がそのように思っているから、自らも、そのように思い込んでいるのである。しかし、明日はやってこない、明日は死んでいるということも確証できないのだから、明日はやって来るだろう、明日も生きていくだろうと思い込んでいても、損なことはない。パスカルは、「神を信じた方が生きやすい。」と言い放ったように、明日はやって来るだろう、明日も生きていくだろうと思っていた方が生きやすいのである。しかし、明日も今日のようにやって来るというとは、今日、セクハラ、パワハラ、いじめを受けている人は、明日も、それを受けるということである。明後日も、それ以後も、半永久的に、それを受け続けるということである。新潟県や千葉県で、何年間も監禁されていた少女が助け出されたことがある。マスコミや大衆は、なぜ逃げるチャンスがあったのに逃げ出さなかったのだろうと疑問を呈する。しかし、自らを反省してみると良い。一度なりとも、自らの意志で、現在の生活環境や生活のサイクルを変えたことがあるか、と。他者の力で変えさせられたことがあっても、自らの力で変えたことは皆無ではないだろうか。ハイデッガーは、「人間は臨死の状態になれば(死の覚悟を持てば)、他者の視線をはねのけ、自らの意志で決断し行動できる。」と言った。しかし、太平洋戦争で、操縦技術の未熟な六千人もの若者が、愚鈍で権力意志の強い上官たちの命令で、苦悩の果てに、特攻死した。彼らは、臨死の状態にあったのに、上官たちの視線をはねのけることができなかった。死にたくなかったのに、特攻死を拒否できなかった。太平洋戦争中、一部の知識人だけが、残酷な憲兵や特高の拷問を受けながら、戦争反対を唱え続けた。臨死の状態の中で、憲兵や特高の視線をはねのけ、自らの意志で決断し、戦争反対を唱え続けた。そして、百人以上が殺された。戦後、特攻死した六千人もの若者や戦争反対を唱え続けて拷問死した知識人に、今日は無かった。もちろん、明日も来なかった。しかし、権力意志の強い上官たちや残酷な憲兵・特高には、明日はやって来た。そして、今日生きたように、明日も生きていくことができた。私たちにも、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。