あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

世界内存在の自分、構造体内存在の自我(自我その64)

2019-03-20 20:03:22 | 思想
世界内存在とは、ハイデッガーの思想用語である。世界内存在の世界とは、地球上の全ての地域・国を指しているのでは無く、我々の周囲に広がっている閉じられた環境を指している。それでは、なぜ、我々の周囲に広がっている環境は閉じられているのか。それには、理由が二つある。一つは、無限に環境を広げていくと、その中に存在する物や物事や動物や人間が膨大な数になって定義不可能になり、延いては、それらと対照して存在する自らの定義も不安定になるからである。もう一つは、我々は、人間の視点で、周囲に存在する物や物事や動物や人間を捉えていて、それが環境を形成するから、自ずから、限界づけられ、閉じられてしまうのである。我々は、日々、この閉じられた世界で、その中に存在する物や物事や動物や人間と関わりながら、個々の営みをしながら暮らしている。それが、世界内存在での自分のあり方である。そして、我々にとって、世界は一つの固定したものでは無い。朝起きると家族という世界にいて、勤務している時は会社という世界にいて、買い物をしている時はコンビニという世界にいる。家族、会社、コンビニは、人間の組織・集合体である。家族、会社、コンビニなどの人間の組織・集合体を構造体と呼ぶ。つまり、世界とは、構造体の総称なのである。また、世界が変わると、つまり、構造体が変わると、自分のあり方も変わっていく。すなわち、家族という構造体では父、会社という構造体では社員、コンビニという構造体では客である。この、父、社員、客を、自我と言う。自我とは、構造体での自分のポジションに自分が一体化し、それを心身共に自分として行動するあり方である。つまり、自分とは、自我の総称なのである。このように、我々は、毎日、いついかなる時でも、ある構造体に属し、あるポジションを自分として自我を持って、行動しているのである。父として、社員として、客として、自分の役目を果たそうとするのである。これが、対自存在のあり方である。しかし、それは他者から認められて、初めて成立する。これが、対他存在のあり方である。他者から低く評価されたり、無視されたりすると、心が傷付くのである。家で家族にのけ者にされたり、会社で上司に叱責されたり、コンビニで店員から失礼な扱いを受けたりすると、心が傷付き、怒ったり、ひどく落ち込んだりするのである。逆に、家で尊敬され、会社で上司に評価され、コンビニで店員に丁寧に扱われると、嬉しくなるのである。そのために行動しているとも言って良いほどである。つまり、対自存在は対他存在のためにあるのである。そして、自分も相手も対他存在が満足できることがある。これが、共感存在のあり方である。すなわち、家では、夫婦が愛し合い、親が子をかわいがり、子が親を信頼する。会社では、上司が部下を評価し、部下は上司を信頼する。コンビニでは、店員と客が礼儀を交わす。この共感存在のあり方が最も理想的な形であると誰でも思いがちであるが、実際は、人間は、必ずしも、このような方向に進まないのである。それは、人間に支配欲があるからである。支配欲とは、自らの対他存在を満足するだけにこだわり、敢えて、相手の対他存在を無視し続けたり傷つけ続けたりして、相手を下位の状態に置き続けることで、満足感を得ようとする欲望である。家庭内暴力、会社でのパワハラ、セクハラ、モラハラがその現象である。しかし、支配欲は、深層心理のもたらすことだから、支配欲を行使した者を罰しない限り、収まることは無い。しかし、支配欲が強いと言っても、どの構造体でもそうであることは稀で、特定の構造体だけの人が多い。千葉県の野田市での、小学四年生の女子を殺した父は、会社では、支配欲の片鱗すら見られなかったというのも不思議では無い。さて、ハイデッガーの世界内存在の思想は秀逸であるが、我々は、それを自らのものとして理解し、具体的に、自らを構造体内存在の自我として捉えることが大切だと思う。