あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

なぜ、何かが存在するのか。無ではないのか。(自我その441)

2020-11-30 10:41:41 | 思想
なぜ、何かが存在するのか。無ではないのか。これは、なぜ、何も無いのではなく、何かがあるのかというようにも問われている。この物事の存在の根拠を問う問いは、究極の問いと言われ、存在論の重要な命題になっている。しかし、誰一人として、この問いに答えることができない。なぜならば、深層心理が対象として捉えたものが物として存在し、対象が現象となって現れてきたのが事として存在するからであるからである。例えば、机というものがこの世に存在する。たいていの家には、机が存在するだろう。しかし、机は、勉強しない人には、存在しないのである。確かに、家には、机は存在する、しかし、勉強しない人には、机は、存在しないのである。無なのである。確かに、机は、家の中にあるが、勉強しない人にはとっては、意識されず、世界の中に埋没しているのである。ハイデッガーが言うように、机は、世界内存在しているが、勉強しない人にとっては、意識されないから、存在しないとと同様なのである。だから、無なのである。しかし、確かに、世界内存在しないものも無と言う。無の用法として、むしろ、こちらの方が一般的であろう。しかし、世界内存在せず、決して意識されることが無いものを、どうして語ることができるだろうか。ウィトゲンシュタインが言うように「語れないものを語ってはいけない」のである。深層心理とは、無意識の思考である。一般に、無意識と呼ばれている。人間は、自ら意識していないが、深層心理自身は、それを意識して思考しているのである。なぜならば、何かをあらしめているのは、深層心理の働きであるからである。深層心理が捉えたから、物事は存在しているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識に思考して、何かを存在させているのに、人間は、意識して、その根拠を問おうとしても、問い詰めきれないのである。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。すなわち、人間は、表層心理で、意識して、思考して、深層心理の内実に入り込もうとしても、それは不可能なのである。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を、人間は、表層心理で、意識して、思考して、対処するだけなのである。




地獄とは他者のことであり、この世は地獄よりも地獄的である。」(自我その440)

2020-11-27 14:31:58 | 思想
サルトルは「地獄とは他者のことである」と言った。芥川龍之介は「この世は地獄よりも地獄的である。」と言った。いずれも、人間関係の難しさ・苦しさを表現している。しかし、ここで言う、人間関係の難しさ・苦しさとは、一般に言われている、人と人とのつきあいの難しさ・苦しさという意味だけで無く、自らの力では動かすことのできない他者の自らに対する思い・評価、他者を介してしか知ることができない自らの存在の辛さをも表している。なぜならば、人間は、他者を意識しないと、自らを意識できないからである。人間は、他者を意識すると、同時に、反転して、自らを意識するのである。人間は、他者がいないと、自分はどのようにして良いかわからないのである。確かに、他者を意識しなければ、人間には精神的な苦痛は無い。しかし、喜びも無いのである。確かに、他者が存在するから、人間は心が傷付き、不安を覚え、恐怖を覚え、怒りを覚え、罪を犯すのである。しかし、他者が存在するからこそ、人間は心が癒やされ、心が穏やかになり、安心感を覚え、反省するのである。確かに、他者が存在するから、人間は自由ではない。しかし、他者が存在するからこそ、人間は恥を知るのである。人間は、生きている間、他者を意識し続ける。すなわち、自らを意識し続ける。人間は、死が訪れるまで、他者が鏡なのである。人間は、死が訪れるまで、他者の虜なのである。死とは、人間が物になることである。物だから、他者を意識すること無く、自らを意識することも無いのである。物だから、喜びを感じず、苦痛も感じないのである。人生とは、人間が物になるまでの空しい生の営みなのである。しかし、だからこそ、ニーチェは「生をもう一度」と言うのである。空しさの果てに何があるか見ようとするのである。人生の空虚を逃げず恐れず背負い込むことが、ニーチェの言う「積極的ニヒリズム」である。さて、人間は、他者を意識しようと思って、意識しているのではない。言わば、無意識のうちに他者を意識しているのである。それは、同時に、人間は、自らを意識しようと思って、意識しているのではなく、無意識のうちに自らを意識していることを意味するのである。無意識が、他者を意識させ、自らを意識させるのである。しかし、無意識は、ただ単に、他者を意識して、自らを意識しているのでは無い。なぜならば、無意識は、他者に対しても、自己に対しても、あるイメージを持つからである。無意識は、他者に対しても、自己に対しても、あるイメージを作り出すから、喜びを感じたり、苦痛を感じたりするのである。つまり、無意識は、他者を意識し、自らを意識するばかりで無く、それと同時に思考しているのである。無意識の意識・思考を深層心理と言う。すなわち、無意識の働きを深層心理と言う。つまり、人間は、自らが気が付かないままに、すなわち、自らが意識していないうちに、深層心理が意識し、思考しているのである。深層心理は、他者を意識し、自らを意識すると同時に思考するが、それは、他者を他我として、自らを自我として思考するのである。さて、他我とは、他者の自我である。自我とは、自らの自我である。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は、次のようになる。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、都道府県という構造体では、都民・道民・府民・県民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、男女という構造体では男性・女性という自我があるのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、他者と関わりながら暮らしているのである。さて、他者は他人と同じく、自ら以外の者を指しているが、他者とは構造体の内部の人々であり、他人とは構造体の外部の人々である。また、自我、自分、自己は、皆、自らを指しているが、その意味合いは微妙に異なっているのである。自我とは、構造体の中で、他者から与えられたポジションとしての自らのあり方である。自分とは、自らを他者や他人と区別して指しているあり方である。自己とは、他者の自らに対する思い・評価に頓着せず、自らの良心と正義感に基づいて、思考して、行動する自我のあり方である。だから、自己とは、主体的な人間のあり方である。さて、自我を動かすのは、深層心理である。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすように、瞬間的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて行動するのである。まず、自我を主体に立てるとは何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、欲動に基づいて、自我が快楽を得、不快を避けるように、自我の行動について考え、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すということである。深層心理が、自我を主体に立てて、自我が快楽を得るように思考して、自我の欲望を生み出しているから、人間は、一般的に、自己という主体的な存在ではないのである。自らの良心と正義感に基づいて思考しなければ、主体的な思考とは言えないのである。しかし、深層心理の快感原則に基づく思考で生み出した自我の欲望が、自らの良心と正義感に基づく思考で生み出した自我の欲望と合致する時があるのである。善意の人は、この割合が高いのである。問題は、自我が構造体から追放される可能性がある時に、自らの良心と正義感に基づく思考で行動できるかということである。ほとんどの人は、自我が構造体から追放される可能性がある状況の時には、他者に妥協し、自我を確保する方に決断するのである。そもそも、深層心理は、快感原則に基づく思考で、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、自我を確保する方に自我の欲望を生み出すのは当然のことなのである。次に、快感原則とは何か。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め、不快を厭う欲望である。快感原則とは、ひたすらその時その場で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を満たして、快楽を得、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かそうとしているのである。深層心理が感情を生み出し、それによって、自我を動かそうとするのである。感情が強ければ、それだけ、自我が強く動くのである。自我は無方向に動くのではなく、深層心理が生み出した行動の方向に動くのである。それが、行動の指令である。深層心理が怒りの感情と殴れという行動の指令を自我に出せば、怒りの感情が強いほど、自我による殴るという実行性が高くなるのである。次に、欲動と何か。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理を動かしている四つの欲望である。欲動の四つの欲望とは、第一の欲望としての自我を確保・存続・発展させたいという欲望、第二の欲望としての自我を他者・他人に認めてほしいという欲望、第三の欲望としての自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、第四の欲望としての自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望である。深層心理は、欲動によって、すなわち、この四つの欲望のいずれかの欲望によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かさしているのである。また、この欲望のうち、いずれかでも満たされないならば、人間は苦悩するのである。そして、サルトルが「地獄とは他者のことである」と言い、芥川龍之介が「この世は地獄よりも地獄的である。」と言ったように、生きることを地獄のように感じるのである。そこで、地獄に落ちないようにあがいたり、不正を行ったり、地獄に落ちたならば、這い上がろうとあがいたり、不正を行ったりするのである。まず、第一の欲望としての自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、これは、別名、保身化と言われ、人間は自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないから、この欲望が存在するのである。この欲望は、当然のごとく、構造体を存続・発展させようという欲望に繋がっていく。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。学校・会社に行くのも地獄だが、生徒・会社員という自我を失えばもっと深い地獄に落ちるから、学校・会社に行くのである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合したのは、国家公務員として立身出世から外れるという地獄を味わいたくないからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我が傷付いたり失ったりするという地獄を味わいたくないか、事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我が傷付くという地獄を味わいたくないから、自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放される地獄や友人という自我を失うという地獄を味わいたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けるのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うという地獄を味わいたくないから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、地獄から逃れようとするのである。次に、第二の欲望としての自我を他者・他人に認めてほしいという欲望であるが、これは、別名、対他化と言われ、自我を他者に認めてもらうことによって、快感原則を満たそうとする、すなわち、快楽を得ようとするのである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。人間は侮辱されると、深層心理が、怒りという感情と相手に侮辱し返せ・相手を殴れなどの復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出す。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を地獄に落とした相手に対して、相手に侮辱し返せ・相手を殴れなどの復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を地獄に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧しようとするのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、相手に侮辱し返すこと・相手を殴ることなどの復讐に走ってしまい、より深い地獄に落ちるのである。また、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考によって、相手に侮辱し返せ・相手を殴れなどの復讐の行動の指令を抑圧できたとしても、自分の立場は地獄に落ちたままなのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した相手に侮辱し返せ・相手を殴れなどの復讐という行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りという傷心の感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである。しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、長期にわたって、地獄が続くのである。次に、第三の欲望としての自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、これは、別名、対自化と言われ、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、対象への対自化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)作用である。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成できなければ地獄のような苦しみが起こるから、それを避けるために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接するのである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、苦悩という地獄を味わわず、快楽を得られるのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。わがままを通らなければ苦悩という地獄に落ちるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。自分の思い通りに学校を運営できなければ苦悩という地獄に落ちるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。もちろん、自分の思い通りに会社を運営できなければ苦悩という地獄に落ちるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。もちろん、物を利用できなければ苦悩という地獄に落ちるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。もちろん、現象を捉えることができなければ苦悩という地獄に落ちるのである。さらに、深層心理には、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)作用まで存在する。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在が保証されないと地獄だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは地獄だから犯罪を起こさなかったと思い込むことによって地獄から逃れようとするである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって地獄から逃れようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ、地獄のこの世を生きていけないのである。最後に、第四の欲望としての自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望であるが、これは、別名、共感化と言われ、自我と他者が心の交流することによって、快楽を得ようとするのである。逆に、自我が心の交流をしたいと思う他者と心の交流ができなければ地獄という苦悩に落ちるのである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。逆に、かなえられなければ、苦悩という地獄に落ちるのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。仲が悪いという地獄の状態も、共通の敵が登場することで、一時的に、仲が悪いという地獄の状態を脱し、協力して、敵に対するのである。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋人としたい相手に拒否されれば、相手に身を差しだし、相手に対他化される自由を与えたのだから、深い苦悩という地獄に落ちるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じたいからである。仲間という構造体から追放され友人という自我を失うという苦悩の地獄に落ちるから、いじめや万引に加担するのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残るという地獄に落ちる。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感という地獄から自我を抜け出させようという意図からである。もちろん、人間は、表層心理の意志で、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、屈辱感という感情が強いので、ストーカー行為をするようになってしまった、すなわち、ストーカーになってしまったのである。ストーカーになる理由は二つある。一つの理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅するという苦悩の地獄に落ちることの恐怖である。もう一つの理由は、恋人という自我が相手に認めてもらえないという苦悩の地獄に落ちることの恐怖である。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」のは、「呉越同舟」という自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得たいからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取って快楽を得ようとして、元の仲が悪いという苦悩の地獄に落ちるのである。さて、人間の無意識の思考を深層心理の思考と言うが、人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。それを、理性とも言う。しかし、人間が、表層心理で思考するのは、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令を生み出し、超自我でそれを抑圧できなかった場合に限るのである。その時、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則という自我に現実的な利得を持たせようという欲望に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。だから、ほとんどの人の表層心理での思考も、現実原則という自我に現実的な利得を得るように思考するから、主体的な思考ではないのである。さて、人間の日常生活は、表層心理で意識して思考することが少なく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識して思考せずに、行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。無意識の行動が多いのは、人間の日常生活は、無意識に行動しても、構造体の中で自我を持して暮らしたいという自我の欲望が損なわれる出来事が少ないことを意味しているのである。人間の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が思考した、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考するまでのことが起こっていないからなのである。人間は、表層心理で意識して思考する時は、常に、自我に現実的な利得を持たせようという視点で行うのである。さらに、深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在する。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。その場合には、深層心理が生み出した行動の指令に対する審議は、表層心理に移されるのである。そして、人間は、表層心理で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、自我の利得に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒絶する結論を出しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できず、そのままに行動してしまうのである。そして、地獄に落ちるのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒絶する結論を出し、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである。地獄から脱出できないのである。しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、長期にわたって、苦悩が続くのである。長く、地獄の状態が続くのである。だから、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、行動の指令のままに行動してしまうからである。人間は、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我や表層心理での思考による抑圧にかかわらず、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらし、両者ともに地獄に落ちることが多いのである。さて、人間が自己として存在するとは、自らの良心と正義感に基づいて、主体的に思考して、行動を決めて、それに基づいて、行動することである。しかし、人間は、主体的に、思考して、自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。なぜならば、人間の深層心理は、基本的に、瞬間的に、欲動に基づいて、快感原則という安心と快楽の欲望を満たすように、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持して暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用であり、ルーティーン通りの行動を守る欲望だからである。人間の表層心理での思考は、基本的に、長時間を掛けて、長期的な展望に立って、現実原則という現実的な自我の利得を追い求める欲望に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。つまり、深層心理の快感原則による思考も、超自我のルーティーンを守ろうという作用も、表層心理での現実原則による思考も、自我に基づく思考であり、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考するという自己に基づく思考とは異なるのである。しかし、それでも、時として、偶然にも、深層心理の快感原則による思考でも、超自我のルーティーンを守ろうという作用でも、表層心理での現実原則による思考でも、その結論が、自らの良心と正義感に基づく主体的な思考による結論と合致する時があるのである。そこで、ほとんどの人は、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考するという自己に基づく思考を行っていると思い込んでいるのである。ほとんどの人間は、自己としても存在していないのである。自己として存在するとは、常に、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、常に、自我のあり方を、自らの良心と正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、人間は、自我として生きていながら、主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているのである。それは、深層心理の無の有化作用から起こる現象である。それでは、なぜ、人間は、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することができないのか。それは、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することは、往々にして、構造体から追放され、自我を失うという苦悩の地獄に陥ることを招くからである。つまり、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することは、往々にして、深層心理の快感原則による思考にも、超自我のルーティーンを守ろうという欲望にも、表層心理での現実原則による思考にも、背くのである。つまり、深層心理の快感原則による思考にも超自我のルーティーンを守ろうという欲望にも表層心理での現実原則による思考にも背き、構造体から追放され自我を失うという苦悩の地獄に入ることを覚悟しなければ、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することはできないのである。


人間は、自分にしかなれない。(自我その439)

2020-11-25 13:11:16 | 思想
小林秀雄は、「人間は、何にでもなることができる、しかし、自分にしかなれない。」と言う。人間は、どのような職業にも就くことができるが、どのような職業に就こうとも自分の生き方しかできないという意味である。小林秀雄の現実をしっかりと受けとめ、運命を自らの力で切り開いていこうとする覚悟は潔い。主体的な生き方の模範となるような姿勢である。それが、小林秀雄自らの「自分にしかなれない」の意味である。しかし、果たして、人間は主体的に生きることができるのだろうか。結論を言えば、ほとんどの人間は主体的に生きられないのである。なぜならば、ほとんどの人間は、安心と快楽を求めて、若しくは、ルーティーンの生活を求めて、若しくは、行動現実的な利得を求めて、思考するからである。だから、現実に押し流され、運命の波間に漂う木の葉のような生き方をするのである。これが、ほとんどの人間の「自分にしかなれない」生き方である。そもそも、人間には、自分という固定したあり方は存在しない。人間は、自分として存在しているのではなく、自我として存在しているのである。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って暮らしている。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。構造体と自我の関係は、次のようになる。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、都道府県という構造体では、都民・道民・府民・県民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、男女という構造体では男性・女性という自我があるのである。人間は、ある構造体に所属して、あるポジションを自我として持ち、他者からそれが認められ、初めて安心できるのである。それが、アイデンティティーを得るということである。人間は、構造体に所属し、自我を持し、アイデンティティーを得て、初めて、人間として生活を送れるのである。さて、自我を動かすのは、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は、無意識のうちに、深層心理が、欲動に基づいて、快感原則という安心と快楽を求める欲望を満たすように、自我を主体にして、瞬間的に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、その自我の欲望に動かされて行動するのである。自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるから、他者の思惑を気にして、自我が安心できるように、深層心理は、自我の欲望を生み出しているのである。そして、自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から認められると、快楽を得られるから、他者の思惑を気にして、自我が快楽が得られるように、深層心理は、自我の欲望を生み出しているのである。つまり、深層心理は、快感原則という安心と快楽を求める欲望を満たすように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)を動かしているのである。だから、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して、安心と快楽を求めつつ、活動しているのである。人間が社会的な存在であるという意味は、人間は、常に、構造体の中で、自我を持して、他者と関わりながら生きているということである。人間は、時間ごとに、空間ごとに、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、他者と関わりながら、行動しているのである。だから、人間には、自分そのものは存在しない。ある人は、国という構造体では国民という自我を持ち、青森県という構造体では青森県民の自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持ち、男女という構造体では女性という自我を持って暮らしているのである。だから、自分とは、自らを他者や他人と区別して指しているあり方に過ぎないのである。他者とは構造体の内部の人々であり、他人とは構造体の外部の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。さて、ほとんどの人間は、自己としても存在していないのである。自己として存在するとは、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我のあり方を、自らの良心と正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、人間は、自我として生きていながら、主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているのである。それは、深層心理の無の有化作用から起こる現象である。無の有化作用とは、深層心理が、ある物やことを強く欲望すると、存在していなくても、存在しているように思い込むことである。神がその典型である。ほとんどの人は、深層心理が、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。しかし、一般に、深層心理は、自我を扱い、自己を扱うことができないのである。ほとんどの人の深層心理は、快感原則という安心と快楽を求める欲望を満たすように思考して、自我の欲望を生み出している。自我を自己へと転換させて、自らの良心と正義感に基づいて、深層心理が主体的に思考する人は稀である。さて、人間の無意識の思考を深層心理の思考と言うが、人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。それを、理性とも言う。しかし、人間が、表層心理で思考するのは、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令を生み出し、超自我でそれを抑圧できなかった場合に限るのである。その時、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則という自我に現実的な利得を持たせようという欲望に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。だから、ほとんどの人の表層心理での思考も、現実原則という自我に現実的な利得を得るように思考するから、主体的な思考ではないのである。さて、人間の日常生活は、表層心理で意識して思考することが少なく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多い。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識して思考せずに、行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。無意識の行動が多いのは、人間の日常生活は、無意識に行動しても、構造体の中で自我を持して暮らしたいという自我の欲望が損なわれる出来事が少ないことを意味しているのである。人間の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が思考した、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考するまでのことが起こっていないからなのである。人間は、表層心理で意識して思考する時は、常に、自我に現実的な利得を持たせようという視点で行うのである。さらに、深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在する。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。その場合には、深層心理が生み出した行動の指令に対する審議は、表層心理に移されるのである。そして、人間は、表層心理で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、自我の利得に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒絶する結論を出しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。だから、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、行動の指令のままに行動してしまうからである。人間は、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我や表層心理での思考による抑圧にかかわらず、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。さて、人間が自己として存在するとは、自らの良心と正義感に基づいて、主体的に思考して、行動を決めて、それに基づいて、行動することである。しかし、人間は、主体的に、思考して、自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。なぜならば、人間の深層心理は、基本的に、瞬間的に、欲動に基づいて、快感原則という安心と快楽の欲望を満たすように、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持して暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用であり、ルーティーン通りの行動を守る欲望だからである。人間の表層心理での思考は、基本的に、長時間を掛けて、長期的な展望に立って、現実原則という現実的な自我の利得を追い求める欲望に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。つまり、深層心理の快感原則による思考も、超自我のルーティーンを守ろうという作用も、表層心理での現実原則による思考も、自我に基づく思考であり、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考するという自己に基づく思考とは異なるのである。しかし、それでも、時として、偶然にも、深層心理の快感原則による思考でも、超自我のルーティーンを守ろうという作用でも、表層心理での現実原則による思考でも、その結論が、自らの良心と正義感に基づく主体的な思考による結論と合致する時があるのである。そこで、ほとんどの人は、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考するという自己に基づく思考を行っていると思い込んでいるのである。それでは、人間は自我から自己へと転換し、主体的に生きることはできないのか。決して、そうではない。ニーチェは、「真理は存在しない。解釈だけが存在する。」と言う。深層心理による快感原則に基づく思考も、超自我というルーティーンを守る思考も、表層心理での現実原則による思考も、皆、解釈なのである。だから、表層心理で、意識的に、自ら、積極的に、自分が存在すること・世界が存在することの疑問を解き、自分の存在の必然性・世界の存在の必然性の意味づけを行っていき、それを確信にまで高めるべきなのである。確かに、それは、ニーチェが言うように、普遍的な真理ではなく、自分による解釈である。しかし、確信にまで高められた解釈ならば、それが、自分にとっての真理であり、深層心理に根付くのである。深層心理が、それに基づいて、思考するのである。しかし、ほとんどの人間は、誰しも、異常なことがあると、考えるのであるが、異常なことは、日常生活で起こり、日常生活は世事にまみれた形而下の営みだから、快感原則、ルーティーン保持、現実原則に基づいて思考し、形而下にとどまり、形而上の思考に発展することは無いのである。なぜならば、ほとんどの人間にとって、異常なこととは、自我が傷つけられて、自我が衝撃を受けることであり、自我が癒されれば、ことはそれで済むのである。つまり、形而下の生活での異常なことは、形而下の思考でとどまり、形而上の思考まで発展することは無いのである。たとえば、自我が傷つけられるのは、高校や大学の入学受験に失敗したり、会社で上司に叱られたこと、学校で教師に叱られたこと、失恋したこと、友人に無視されたことなのである。彼らに誰かが自信をつけれれば、また、時間がたてば、傷ついた自我が癒されていくのである。また、彼らの中には、挫折をきっかけに自分探しをするものも存在するが、その探している自分も誰かに認められている自分であるから、自我にとどまり、自己の存在探求や世界の存在の疑問にまでいかないのである。つまり、形而下の思考にとどまり、形而上の思考にまで高まらないのである。その典型が、政治権力者である。政治権力者は、常に、現実に密着した形而下の思考者であるから、形而上の思考者を、役に立たないものと批判し、時には、弾圧し、粛清さえするのである。形而上の思考者の多くは、現実に妥協することが少なく、権力者の言うがままにならないからである。現在の菅義偉内閣・自民党による学術会議弾圧もそうである。日本の戦前の軍部やドイツのヒットラーやソ連のスターリンや中国の毛沢東などが、多くの哲学者、学者、芸術家、作家などを拷問にかけ、暗殺したのは、権力は常に形而下の思考者であることの宿命である。テレビドラマでは、水戸黄門、徳川吉宗、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの権力者が正義を貫いているが、それは、絶対にあり得ないことである。正義を貫ける人は、形而上の思想の持ち主であり、権力の亡者である形而下の人たちにはできないからである。そのようなドラマができるのは、大衆が正義を貫ける権力者を待望しており、脚本家がそれに迎合したからである。大衆が存在しえない権力者を待望しているから、主体的に政治を見ることはできず、政治の動向や政治家の本性を見誤り、一向に政治が良くならないのである。人間を現象の一つとみることが必要なのである。現象とは、決まって、ある傾向を示す、事象である。その現象の傾向が研究されて、真理・本質と呼ばれているのである。だから、全ての事象が、現象になるのではない。定まった傾向を示さない事象は、現象化しない。それらは、混沌とした状態にとどまっている。言わば、カオス状態にとどまっている。カントは、「現象とは、時間・空間・カテゴリーに規定されて現れているものである。」と言ったが、これは、自然の傾向を捉えた自然現象についてのみ述べたものである。しかし、自然現象であろうと、社会現象であろうと、カントが言う、時間・空間・カテゴリー以外に、特定の志向性(観点・視点)が存在しなければ、人間は、現象を捉えることができない。志向性が変われば、異なった現象が見えてくる。それが、クーンの言う「パラダイム・シフト」である。しかし、現象を捉える基盤になる、時間・空間・カテゴリー、志向性は、無意識の心の働きである深層心理に、備わっていて、深層心理が、それらを基盤に、現象を捉えるのである。だからこそ、人間は、表層心理で、現象を意識して研究し、本質・真理として、表象化し、深層心理を動かすのである。人間の活動も、また、一つの現象である。人間は、肉体と精神が複雑に絡んで、活動している。人間の肉体の活動を、現象として研究している、中心的な学問が、生物学・医学である。生物学者・医学者は、人間を、健康的にする・長寿を目指すという志向性では一致しているから、細部の違いはあっても、協力して研究できる。言わば、全世界の生物学者・医学者は協力して研究できるのである。人間の精神の活動を、現象として研究している、中心的な学問が、哲学・心理学である。しかし、哲学者・心理学者には、共通した志向性が存在しないので、研究の成果も一致しない。しかし、さまざまな志向性(観点・視点)があり、種々の研究成果があることは、研究分野が広がるという大きなメリットがある。しかし、デカルト、パスカル、キルケゴールなどの哲学者は、志向性に神という夾雑物を入れたために、真摯な研究態度でありながら、人間を現象として捉えることができなかった。現象として人間を理解するのには限界があった。それは、ラカンが「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言っているように、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているからである。他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいたからである。人間は、表層心理で、人間を現象として捉えて、主体的な思考を構築し、それが深層心理に根付くことしか、主体的な思考者になれないのである。



人間は、一人では寂しくて生きられない、かわいそうな動物である。(自我その438)

2020-11-23 15:15:54 | 思想
人間は、哀れな動物である。人間は、一人でいると寂しいから他者に近づき、悲しい目に遭うのである。人間は、一人でいると寂しいから他者に近づき、過ちを犯すのである。しかし、それがわかっていても、やはり、人間は、一人でいると寂しいから、他者に近づこうとするのである。そして、失敗を繰り返すのである。人間は、一人では、寂しくて生きられないのである。そこで、組織や集合体に入り、自分のポジションを得て、安心しようとするのである。人間は、構造体に所属し、自我を持し、アイデンティティーを得て、初めて、安心できる動物なのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、都道府県という構造体では、都民・道民・府民・県民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って暮らしている。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。人間は、ある構造体に所属して、あるポジションを自我として持ち、他者からそれが認められ、初めて安心できるのである。それが、アイデンティティーを得るということである。人間は、構造体に所属し、自我を持し、アイデンティティーを得て、初めて、人間として生活を送れるのである。だから、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して、他者からそれが認められるように活動しているのである。人間が社会的な存在であるという意味は、人間は、常に、構造体の中で、自我を持して、他者と関わりながら生きているということである。人間は、時間ごとに、空間ごとに、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、行動している。人間は、誰しも、自らの意志によって意識して考えて行動していると思っているが、真実は、深層心理に動かされて行動しているのである。表層心理とは、自らの意志によって、自ら意識して思考したり行動することを言う。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、表層心理では、自らは意識していず、気付いてもいないが、深層心理が思考して、感情と行動の指令を生み出して、人間を動かしているのである。人間は、深層心理が生み出した感情と行動に基づいて、行動しているのである。深層心理は、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動しているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考することによって生み出していない自我の欲望によって、すなわち、表層心理で思考することによって生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、人間は、自らの表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きるしかないのである。つまり、人間は、自らは意識していず、気付いていないが、深層心理が思考して、欲動に基づいて、快楽を得ようとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その自我の欲望に動かされて行動しているのである。それは、人間の日常生活を見れば、理解できることである。人間の日常生活は、表層心理で意識して思考すること無く、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多い。それが、所謂、無意識の行動である。それは、人間の日常生活は、無意識に行動しても、構造体の中で自我を持して暮らしたいという自我の欲望が損なわれる出来事が少ないことを意味しているのである。人間の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が思考した、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考するまでのことが起こっていないからなのである。人間は、表層心理で意識して思考する時は、常に、自我に現実的な利得を持たせようという視点で行うのである。さらに、深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在する。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持して暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。その場合には、深層心理が生み出した行動の指令に対する審議は、表層心理に移されるのである。そして、人間は、表層心理で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、自我の利得に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。しかし、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、深層心理が生み出した感情が強ければ、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、行動の指令のままに行動してしまうのである。人間は、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。その時、傷害事件や殺人事件が起こることもあるのである。さて、人間は、表層心理を働かせるのは、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令を生み出し、ルーティーンの生活から外れた行動を起こさせようとしている時だけでは無い。それ以外にも、人間は、表層心理で、自らを意識したり、自らの行動を考える時があるのである。人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、表層心理で、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。しかし、人間が、表層心理を意識して働かせるのは、深層心理が思考してルーティーンから外れた行動の指令を出し、超自我で抑圧できなかった場合、自我に現実的な利得をもたらそうという視点で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかについて審議している時である。だから、人間は、表層心理を働かせて、自らを意識する時や自らの意志によって、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考する時は、常に、苦悩に陥るのである。なぜならば、人間が、自我に現実的な利得をもたらそうという視点で、表層心理で意識して思考する時は、常に、深層心理が思考してルーティーンから外れた行動の指令を出し、超自我で抑圧できなかった場合だからである。深層心理が、相手を殴れなどのルーティーンから外れた行動の指令を生み出す時は、常に、怒りなどの過激な感情を伴っているのである。人間は、表層心理で、自我に現実的な利得をもたらそうという視点によって、相手を殴れば後に自我に不利益なことが予想されるから、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのだが、深層心理が生み出した怒りの感情の中で行われるから、往々にして、抑圧できず、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。そして、表層心理で予想したように、後に、自らの自我に不利益をもたらすのである。だから、人間は、表層心理を働かせて、意識して思考する時、常に、苦悩に陥るのである。しかし、それは、一人では、寂しくて生きられない人間の宿命なのである。人間は、構造体に所属し、自我を持し、アイデンティティーを得て、初めて、安心できる動物だからである。人間は、深層心理が思考して、欲動に基づいて、快楽を得ようとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その自我の欲望に動かされて行動しているので、深層心理の思考が主体であり、表層心理での思考は後追いであるから、苦悩は、必ず、存在するのである。さて、深層心理は、快楽を求めて、自我を主体に立てて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているが、快楽は欲動にかなった時に得られるのである。欲動が深層心理を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に、自我を主体に立てて思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てているのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。つまり、深層心理は欲動に動かされて思考しているのである。心理学者のフロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトの言う性欲というリピドーだけでは、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明しきれないのである。欲動は、性欲に限定されず、四つの欲望によって成り立っている。深層心理に内在する欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望の四つの欲望である。この中で、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望を満足させることから、人間は、始まるのである。人間は、自我を持つことで、深層心理という無意識の思考が自我の欲望を生み出すことができるのである。深層心理は、自我の確保・存続・発展という欲動の第一の欲望を満たし、快楽を得るために、自我の欲望を生み出している。そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。それでも、構造体は絶対不可欠なのである。自我のために必要だからである。だから、国、都道府県、家族、学校、会社、仲間、夫婦、カップルという構造体に所属している人は、誰しも、愛国心、郷土愛、家族愛。愛校心、愛社精神、友情、夫婦愛、恋愛感情を持っているのである。人間は、自我として存在し、自我は構造体が存在することによって成立するから、構造体を愛するのである。この構造体に対する愛が、自我に対する愛とともに、人間に快楽をもたらすとともに、人間を悲しい目に遭わせたり、過ちを犯させたりするのである。愛国心があるから、オリンピックやワールドカップを楽しめるが、戦争も引き起こすのである。郷土愛があるから、帰省すると安心感が得られるが、隣県同士争うのである。家族愛があるから、自宅が火事の際には親は自らの命を投げ出して子供を助けようとするが、いじめをしていた子の親は、いじめの責任をいじめられていた子やその家族に帰するのである。愛校心があるから、同窓会を楽しむが、偏差値の低い学校を馬鹿にするのである。愛社精神があるから、充実した毎日が送れるが、会社の不正に荷担するのである。友情があるから、仲間といると楽しいが、いじめに加担するのである。夫婦愛や恋愛感情は、生きている実感を持たせてくれるが、夫婦やカップルが破綻すると、ストーカーになる者も現れるのである。人間は、一人でいると語り合える人を求め、大衆となり、世間話にうつつを抜かし、好奇心に駆られて考えることをなくし、無責任に陥り、自己を失うのである。

人間は、深層心理の圧倒的な力の中で、表層心理で何ができるか課せられている。(自我その437)

2020-11-21 15:33:55 | 思想
人間は、心の底から湧き上がる快楽を堪能しながら、生きている。人間は、心の底から湧き上がる怒りに対処しながら、生きている。人間は、心の底から湧き上がる苦しみから逃れる方法を考えながら、生きている。人間は、心の底から湧き上がる哀しみを癒やす方法を考えながら、生きている。快楽、怒り、苦しみ、哀しみは感情である。つまり、人間は、心の底から湧き上がる感情に動かされて生きているのである。しかし、感情は心の底から湧き上がってくるように、人間の意志では、生み出すことはできない。深層心理が、感情を生み出しているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、自らは意識していず、気付いていないが、深層心理が思考しているのである。しかも、深層心理は、感情だけで無く、それとともに、行動の指令を出しているのである。人間は、深層心理が生み出した感情と行動に基づいて、行動しているのである。深層心理は、自我を主体に立てて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動しているのである。自我とは、構造体の中での自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間が社会的な存在であるという意味は、人間は、常に、構造体の中で、自我を持して、他者と関わりながら生きているということである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して、活動しているのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、行動している。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我から一つの自我を持ち、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我から一つの自我を持ち、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我から一つの自我を持ち、店という構造体では、店長・店員・客などの自我から一つの自我を持ち、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我から一つの自我を持ち、仲間という構造体では友人という自我を持ち、夫婦という構造体では、夫もしくは妻の自我を持ち、カップルという構造体では、恋人という自我を持ち、県という構造体では、県知事・県会議員・県民などの自我から一つの自我を持ち、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我から一つの自我を持って活動している。人間は、構造体の中で、ポジションを担って、その役目を果たそうと行動するのである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自らの姿なのである。人間は、構造体の中で、ポジションでが与えられ、それを自らのあり方として体得して行動するのである。つまり、人間は、自己として生きているのではなく、構造体によって自我を与えられ、自我によって生かされているのである。人間は、自らだけでは生きられず、自我となることによって、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、哲学者のハイデッガーの言うように、他の動物と同じく、世界内存在の生物である。しかし、他の動物は世界は一つであるが、人間だけが、世界が構造体へと細分化され、構造体内存在になるのである。つまり、人間は、実際に生活する時には、細分化された世界の一つである構造体の中で、一つの自我へと限定されて存在するのである。世界が一つの構造体へと限定され、自己が一つの自我へと限定されるから、人間は、構造体の中で、自我というポジションに応じた行動ができるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。だから、人間は、自我に捕らわれ、自由に物事を考えることができないのである。人間は、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。なぜならば、人間は、深層心理が自我を主体に立てて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて、行動するからである。もしも、人間が、自我に捕らわれず、自らの意志で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動することができるのであれば、人間は、自由な存在であり、主体的なあり方をしていると言えるだろう。主体性を有していると言えるだろう。しかし、人間は、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。つまり、人間は、自分が意識して思考していない思考が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされて、生きているのである。人間は、自我として存在し、深層心理が思考して生み出した感情の力によって、深層心理の生み出した行動の指令の指令を実行するように促され、行動しているだけなのである。確かに、人間は、自らの意志で意識して考えることもある。自らの意志での意識した思考を、表層心理での思考と言う。しかし、人間が、表層心理で、自らの意志によって、意識して、思考する時は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理の生み出した行動の指令を、自我の行動として許諾するか拒否するかを審議する時なのである。さて、深層心理は、人間が自らは意識していない、心の中で行われている思考行動であるために、一般に、無意識と呼ばれている。心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているが、無意識とは深層心理を意味している。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。しかし、自らの表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。これから、自我を主体に立てる、心境、欲動、快感原則、感情と行動の指令という自我の欲望について、説明していきたいと思う。まず、自我を主体に立てるについてであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。深層心理にとって、他者のために自我があるのでは無く、快楽を得るために自我があるのである。つまり、自我の快楽のために他者が存在するのである。人間は、本質的に、エゴイスティックな動物なのである。それは、人間は、自らの意志によって意識して思考する前に、すなわち、表層心理で思考する前に、深層心理が、既に、自我を主体に立てて、自我の快楽のために自我の行動を考えるというところから来ているのである。だから、人間は、表層心理で、自らの意志によって意識して思考して、主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。しかも、それは、当然なことなのである。自我は、構造体という他者から与えられ、自我は深層心理に浸透し、深層心理の自我を主体とした思考によって、人間は、動くから、人間は、表層心理で、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。人間が、表層心理で、自らの意志によって、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけなのである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。つまり、主体的に思考できず、行動できないのである。次に、心境であるが、心境は、感情と同じく、心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。つまり、深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情という自らの状態に影響されて、自我の欲望を生み出しているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の時には、深層心理は現在の状態を維持しようと思考して、そして、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば良く、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、感情や行動の指令という自我の欲望を起こして、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているからである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、思考して、自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、すなわち、表層心理では、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。それほど、人間にとって、心境や感情が大きな存在なのである。それは、フランスの哲学者のデカルトの「我思う故に我在り」(あらゆるものを疑えるとしても、このように疑っている自分の存在を疑うことはできない)という回りくどく、しかも、危うい論理よりも、確かな存在なのである。しかも、デカルトの「我思う故に我あり」の「我」は、デカルトは自分を意図しているが、デカルトの意図と異なり、それは、単なる第一人称を指す自分ではなく、特定の自我なのである。つまり、人間は、常に、構造体の中で、自分が自我となり、自我を主体として他者と関わりながら暮らしているので、デカルトの「我思う故に我あり」の「我」にしても、そこには、単なる第一人称を指す自分は存在せず、つまり不特定の自分は存在せず、特定の自我しか存在しないのである。確かに、自我は自分であるが、社会的には、自分は存在せず、すなわち、社会的には、自分は意味を為さないのである。だから、デカルトの「我思う故に我在り」という論理は、この世にデカルト一人しか存在しないのであれば成り立つが、現に、社会的な存在として生きている人間には成り立たないのである。次に、欲動であるが、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に、自我を主体に立てて思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てているのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。つまり、深層心理は欲動に動かされて思考しているのである。心理学者のフロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトの言う性欲というリピドーだけでは、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明しきれないのである。欲動は、性欲に限定されず、四つの欲望によって成り立っている。深層心理に内在する欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。まず、深層心理に内在する欲動の四つの欲望の第一の欲望は自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、それは、自我の保身化という作用で現れる。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。自我を存続させたいのである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、立身出世のためである。いずれも、自我を確保・存続・発展せたいという欲望、すなわち、自我の保身化作用から来ているのである。いずれも、安倍前首相に、認めてもらい、立身出世しようとしていたのである。自我を発展させたかったのである。また、人間は、入学試験や入社試験に合格して、学校や会社という構造体で自我を確保しようとするのである。つまり、深層心理の自我の確保・存続・発展という欲望、すなわち、自我の保身化の欲望は、独りよがりで、孤独な営みなのである。次に、深層心理に内在する欲動の四つの欲望の第二の欲望は自我が他者に認められたいという欲望であるが、それは、自我の対他化という作用で現れる。それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。さらに、自我の対他化には、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探るという作用がある。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探るのである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。若い女性がアイドルを目指すのは、大衆から賞賛を浴びたいからである。宇宙飛行士を目指すのは、宇宙から帰還して、国民から賞賛を浴びたいからである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。そして、人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわず、他者から悪評価・低評価を受けたことである。そのために、鬱病などの精神疾患に陥ることがあるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なり、苦悩し、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。すなわち、現実逃避することによって苦悩から逃れようとするのである。しかし、人間は、他者が苦悩しているのを見ても、決して、精神疾患に陥ることは無いのである。つまり、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用も、また、独りよがりで、孤独な営みなのである。次に、深層心理に内在する欲動の四つの欲望の第三の欲望は自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望であるが、それは、対象の対自化の作用として現れる。それは、有の無化作用である。有とは対象として存在するものである。無化作用とは、深層心理の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で対象を捉えることである。有の無化作用には、二種類存在する。有の無化作用の一つは、深層心理が、他者や物や現象という対象を深層心理の志向性や趣向性で捉えることによって、すなわち、支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、志向性や趣向性で、他者という対象を支配することによって、物という対象を利用することによって、現象という対象を捉えることによって、支配し、喜び・満足感を得ようとするのである。さて、対自化が他者という対象に向かう時には、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーになろうとする。人間は、この目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接しているのである。国という構造体における総理大臣や国家議員という自我を持った人間の国民に対する姿勢、学校という構造体における校長という自我を持った人間の教諭に対する姿勢、会社という構造体における社長という自我を持った人間の社員に対する姿勢がそれである。次に、対自化が物という対象に向かう時には、自我の目的のために、対象の物を利用することである。大工という自我を持った人間の木材を加工する態度がそれである。最後に、対自化が現象という対象に向かう時には、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。科学者という自我を持った人間の自然に対する姿勢がそれである。つまり、他者・物・現象という対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、自分の志向性や自分の趣向性で、他者という対象を支配しようとしている。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとしている。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。)という言葉に集約することができるのである。有の無化作用のもう一つは、深層心理は、自らを苦しめる他者・物・現象という対象がこの世に存在している場合、それが存在していないように思い込むことによって、その苦しみから逃れようとすることである。いじめられていた子が自殺すると、いじめていた子は、責任を問われるのが辛いから、遊びだと思い込み、いじめていた子の親は、親という自我を責められるのが辛いから、自殺の原因をいじめられた家族にあると思い込むのである。さらに、無の有化作用がある。それは、深層心理は、自らの志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、この世に存在しているように思い込むことである。無の有化作用は、「人は自己の心象を存在化させる」という言葉で言い換えることができる。多くの人は、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、深層心理が、神が存在しているように思い込んだのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。さて、対象の対自化の作用を徹底させたのが、ドイツの哲学者のニーチェの「権力への意志」という思想である。確かに、人間は、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、他者の視線にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。最後に、深層心理に内在する欲動の四つの欲望の第四の欲望は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。深層心理が、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化は、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うことなのである。つまり、自我と他者の共感化という作用も、また、自我のためにあるのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という自我と友人という他者が理解し合い、心を交流するのである。人間は、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合うのである。人間は、労働組合という構造体に入って、組員という自我を形成しあって、協力し合うのである。確かに、年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つことがある。しかし、相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥るのである。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。なぜならば、自我と他者の共感化という作用も、また、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるためというエゴイスティックなものだからである。ストーカーは、深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。すなわち、自我と他者の共感化の作用も、自我のために存在するから、相手が別れから告げられると、傷心・怒りのために、相手の気持ちも考えずに、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするようなストーカーが出現するのである。つまり、自我と他者の共感化と言えども、自我に執着し、独りよがりで、孤独であり、それは、他の三つの欲望と、何ら変わらないのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の作用が起こしたものである。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」も、自我のエゴイスティックな行動なのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。深層心理は、欲動という四つの欲望を満たすことで、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。次に、快感原則であるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場で、欲動の四つの欲望のいずれかを満たして、快楽を得、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望であるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我の欲望をもって自我を動かそうとするのである。感情が行動の指令を自我に実行させる力になるのである。深層心理が生み出す感情の最も激しいのは怒りであるが、怒りの感情それだけで生み出されることは無い。常に、相手を殴れなどの行動の指令を伴うのである。深層心理が怒りの感情と相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我に提出し、自我に殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。だから、現実原則も、独りよがりで、孤独なものなのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する機能が働くが、感情が強過ぎる場合、働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心の感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。このように、深層心理の快感原則や超自我にしろ、表層心理の現実原則にしろ、独りよがりで、孤独なものである。つまり、人間は、エゴイスティックで孤独な存在なのである。確かに、家が火事になり、取り残された子供を助けようとして、自らの命が失われる危険を省みずに、火の中に飛び込む母親が存在する。感動的な行為であるが、それは、家族という構造体の中の母親という自我がそのようにさせるのであり、言わば、深層心理がそうさせるのであり、表層心理の思考による、主体的な意志によるものではない。だから、よその家が火事ならば、消防署には連絡しても、火の中に飛び込むことはないのである。このように、人間は、深層心理が生み出す感情に動かされて生きているのである。しかも、深層心理は、感情とともに行動の指令を出し、自我を動かそうとするのである。人間は、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望という圧倒的な力の中で、表層心理で、何ができるか課せられているのである。