あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理が生み出す嫉妬心について。(自我その337)

2020-03-30 14:25:13 | 思想
人間は、老若男女にかかわらず、誰しも、嫉妬心を抱く時がある。嫉妬心は、深層心理が生み出しているから、止めようが無い。深層心理とは、人間の無意識の思考であるから、止めようが無いのである。人間は、自我の欲望に満たされた他者を見た時、深層心理が嫉妬心を生み出すことがある。自我とは、人間が、構造体に所属し、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きていく、自己のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある構造体の中にいて、ある自我を持して生きている。人間は、常に、構造体の中にいて、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとする。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを目的・目標にしているのである。ラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理の思考を意味する。ラカンは深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、自我を主体にして、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとするのである。この後、人間は、深層心理が生みだした行動の指令のままに、表層心理で意識せずに行動することがある。それが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活でのルーティーンと言われる習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。しかし、それと異なり、人間は、表層心理で、深層心理の生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、その諾否について思考して、その結果、行動することもある。すなわち、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、その結果、行動しようとすることもあるのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考は理性と言われ、その思考結果による行動は意志による行動と言われている。しかし、意志には二種類ある。深層心理が人間の無意識のうちに思考して生み出した自我の欲望は深層心理の意志であり、人間が表層心理で意識して思考して生み出した意志は表層心理での意志である。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、人間の表層心理での意識しての思考は、常に、深層心理が生み出した自我の欲望を受け、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について行われるのである。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、常に、深層心理の思考の後であり、表層心理が独自で思考を起こすことは無いのである。さて、人間が、表層心理で、深層心理が生みだした行動の指令を拒否し、行動の指令を抑圧することを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や法律厳守の価値観を有していないので、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、異常な感情(過激な感情)と(異常な行動の指令)過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けたいという現実原則という欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる時には、人間は表層心理で深層心理が生み出した行動の指令を拒否し、抑圧ようとしても、深層心理が生み出した感情に押され、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがあるのである。それが、感情的な行動である。後に、周囲から批判されることが多く、犯罪のほとんどはこの過程をたどっている。また、たとえ、人間は、表層心理での思考の結果による意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することに成功したとしても、その後、人間は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。これも、また、理性による思考である。しかし、なぜ、人間は、表層心理で、すなわち理性で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのであるか。それは、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷付いた感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、自然に、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続くのである。それが苦悩である。だから、人間は、皆、苦悩するのである。さて、人間は、常に、構造体の中にいて、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとする。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、欲動という志向性(観点・視点)に基づいて、論理的に思考しているのである。欲動は四つの欲望によって成り立ち、四つの欲望のいずれかが満たされれば、快感が得られ、快感原則が充足されるのである。四つの欲望とは、第一の欲望として自我を存続・発展させたいという欲望、第二の欲望として自我が他者に認められたいという欲望、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、それによって、動き出すのである。人間の日常生活のほとんどが無意識の行動によって成り立っているのは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望が充足されているからである。すなわち、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理でその行動の指令を意識すること無く、表層心理でその行動の指令の許諾・拒否を審議することなく行動し、毎日の生活が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、日常生活が深層心理の思考のままに行動しても良い状態にあり、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。それは、すなわち、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が充足している生活なのである。さて、深層心理の欲動の第一の欲望である、自我を存続・発展させたいという欲望は、構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出している。それは、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、現在の自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、現在の構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、現在所属している構造体に非常に執着するのである。そうして、人間は、深層心理の欲動に基づいた思考のままに行動し、日常生活を守ろうとするのである。だから、人間の日常生活は、本質的に保守的になるのである。つまり、人間は、本質的に、同じことの繰り返しの日常生活を送ろうとするのである。人間は、表層心理で、意識して思考して、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのではなく、深層心理が、人間の無意識のままに、思考して、人間に、毎日、同じことを繰り返しながら生活するように仕向けているのである。深層心理に導かれ、人間は、無意識のうちに、同じ生活を送っているのである。もちろん、人間が同じ生活を送ろうとするのは、人間の意志による。しかし、この意志は、人間の表層心理の意識しての熟慮による決断ではない。しかも、人間は、このような意志があることをすら意識していない。それは、深層心理が、人間の無意識のうちに、このような意志を生み出しているからである。つまり、人間は、自らの深層心理に導かれて、深層心理の意志によって、自ら意識しないままに、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や法律厳守の価値観を有していないので、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、異常な感情(過激な感情)と(異常な行動の指令)過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。異常な感情(過激な感情)の一つが嫉妬心である。嫉妬心は、自我の欲望が満たされた他者がいて、自らはその自我の欲望を満たすことができなかったというその他者に対する敗北の悔しさ、そして、その他者がそこにいる限り自らはその自我の欲望を満たすことができないという恨みの心である。つまり、他者は自我の欲望を満足させているが、自らはまだ自我の欲望を満足させていないばかりか、自我の欲望を満足させた他者が存在することによって自らは自我の欲望を満足させることができないのではないかと思われた時、深層心理が嫉妬心を生み出すのである。持統天皇が、大津皇子を謀反の罪で処刑したのは、その文武に秀でた実力を嫉妬したからである。実子の草壁皇子に皇位継承をしたいがためである。持統天皇は、『日本書紀』では、沈着で度量が大きく礼にかない、仏教に対して熱心で、歌もよくしたと記されていると描かれているが、母という自我を存続・発展させたいという欲望が、大津の皇子に嫉妬し、冤罪で死に追いやったのである。さて、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望は、深層心理が、自我を対他化し、自我が他者から好評価・高評価を受けることによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我の対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるのである。深層心理の自我の対他化の機能は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。人間が、失恋で苦しむのは、カップルという構造体が崩れ、恋人いう自我を失うことで苦しむのであり、自分の代わりに、相手に新しい恋人ができていたり、これから現れたりすることで、その人が自分の代わりに愛されることへの嫉妬心で苦しむのである。受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すこと、いずれも大衆から好評価・高評価を受けたいというこの欲望から起こっている。だから、無名大学出身者は有名大学出身者に対する嫉妬心で苦しみ、少女アイドルグループは、仲良さそうに装っているが、互いの嫉妬心から心から仲良く交際できないでいるのである。さて、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望は、深層心理が、対象を対自化して、快楽を得ようとすることである。対象になるものは、周囲に存在する他者・物・事柄である。他者という対象の対自化とは、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、他者という対象の対自化とは、自我の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかが得られれば、深層心理は、喜び・満足感が得られのである。物という対象の対自化とは、物を利用することである。対象の物を利用できれば、深層心理は、喜び・満足感が得られのである。そして、事柄という対象の対自化とは、事柄を自我の志向性(観点・視点)で捉えることである。対象の事柄を自我の志向性(観点・視点)で捉えることができれば、深層心理は、喜び・満足感が得られのである。さらに、対象の対自化には、自我の欲望の対象となるものが、この世に存在しない場合、それを創造するという作用があるのである。それが、「欲望による心象の存在化」である。神の創造がそれである。人間にとって神が必要だから、深層心理が創造したのである。神がこの世を創造したのではなく、人間が、神を創造し、神がこの世を創造したことにしたのである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのと同じように、犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込み、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、対象の他者を支配しようとする。人間は、対象の物を利用しようとする。人間は、対象の事柄を自我の視点で捉えようとする。人間は、対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、深層心理が生み出す自我の欲望によって、実際に存在しているように創造する。)という言葉に集約されている。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の対象への対自化の欲望である。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、深層心理の自我の対自化による行動であり、自我の力を他者に発揮し、他者を支配し、自我の思うままに行動することである。そして、他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自我を対自化して、思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、自我を対他化してしまい、行動が妥協の産物になり、思い切りに楽しめず、喜べないと言うのである。だから、自由奔放に生きている人に対して、嫉妬心から、わがままだと非難するのである。サルトルは、そのような人間を批判して、「人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならない。」と言うのである。サルトルは、自我の欲望に正直に生きろと言うのである。教諭が校長を目指すこと、社員が社長を目指すこと、いずれもこの機能による。だから、両者とも、尊敬を装いながらも、教諭は校長に嫉妬し、社員は社長に嫉妬しているのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの機能による。最後に、事柄という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、事柄を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの機能による。 さて、欲動の第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望は、深層心理が、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育むこと、協力し合うことで快楽を得ようとすることである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)もそれである。だから、自我の共感化とは、簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の体場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。だから、自我と他者の共感化は、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うというように現象化するのである。「呉越同舟」の呉と越の仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。しかし、戦争や試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化が自我の力が発揮できると思うから、共通の敵がいなくなると、我を張り出すのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体を作り、友人という自我で、構造体に所属していない同級生をいじめのは、連帯感の喜びを感じているとと共に一人で生きている者への嫉妬心からである。カップルや夫婦という構造体にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになるのは、自分の代わりの恋人や妻もしくは夫に対する嫉妬心からである。このように、嫉妬心は醜くて恐ろしいものである。嫉妬心に取り憑かれた人間は、殺人すらも犯してしまうのである。しかし、人間、誰しも、嫉妬心を抱く時がある。人間は、自らのそれに正視できないから、嫉妬心をライバル心に読み替えたのである。自分が嫉妬を覚える人間を良きライバルというように好敵手に仕立て上げたのである。まさしく、それは、「人は自己の欲望を対象に投影する」という欲望の中の「人間は、対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、深層心理が生み出す自我の欲望によって、実際に存在しているように創造する。」という作用なのである。すなわち、「欲望の心象の存在化」である。ニーチェも、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、人間の一生は、「人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬」を重ね続け、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ことなのである。人間は嫉妬心という「真理」を「深く洞察」すれば、自らを「滅ぼしかねない」ので、ライバル心によって「誤謬」を「作為」し、「仮象」を「巧みに張り巡らす」しかないのである。嫉妬心という「真理」は人間の生に無用だが、ライバル心という「誤謬」は「人間の生に有用」だからである。しかし、ライバル心という「誤謬」は「巧みに張り巡らされている仮象」でしかないから、何か事があると、嫉妬心という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」が、人間の深層心理に湧き上がってくるのである。そして、惨劇、悲劇を生み出すのである。そこに、人間存在の矛盾と苦悩があるのである。





人間に外見と中身の違いは無い。(自我その336)

2020-03-30 14:24:36 | 思想
モンテーニュという17世紀のフランスの思想家は、「私たちの職業の大部分は芝居のようなものだ。世界全体が芝居を演じている。自分は自分の役をしかるべく演じなければならない。しかし、仮の人物を務めていることを忘れてはならない。仮面と外観を自分の実体であると思ったり、借り物を自分自身のものだと思い込んだりしてはならない。私たちは肌着と皮膚とを区別することができない。おしろいは顔に塗れば十分で、心にまで塗る必要は無い。」と言う。モンテーニュは、職業は、食べていくために必要なものであるが、そこに、自分自身は存在せず、芝居を演じているようなものだと言うのである。しかし、モンテーニュは、人間を理解していない。人間は、職業に就いて仕事をしている時、演じているのではなく、職業人になりきっているのである。化粧をする前の顔も化粧した顔も、偽りなく、その女性の顔なのである。また、役者も、舞台に立っている時もドラマ・映画の撮影をしている時も、演じているのではなく、その人になりきっているのである。なぜ、モンテーニュは過ちを犯したのだろうか。それは、人間の無意識での心の働きである深層心理の思考の存在に気付いていなかったことによる。モンテーニュは、人間の意識や意志の働きである表層心理での思考だけで人間の全てを分析したから、そのような過ちを犯したのである。人間は、自分で意識して、自分の意志で、換言すれば、表層心理で、職業人を演じているのではなく、無意識のうちに、心の底から、換言すれば、深層心理が、職業人になりきって仕事をしているのである。すなわち、人間は、自分で意識して、自分の意志で、換言すれば、表層心理で、演じているのではなく、無意識のうちに、心の底から、換言すれば、深層心理が、その人になりきっているのである。その人になりきっている役者を名優と言い、その人になりきれず演じているように見える人を大根役者と言うが、大根役者は役者ではない。それと同じように、職業人になりきれず、職業人を演じている人は職業人ではない。そして、薄化粧であろうと厚化粧であろうと、女性は、表層心理で、化粧をした顔をした女性を演じているのではなく、深層心理が、化粧をした女性になりきっているのである。つまり、女性にとって、薄化粧した顔であろうと厚化粧した顔であろうと、自分の顔なのである。また、「おしろいは顔を塗れば十分で、心にまで塗る必要は無い。」とモンテーニュ言うが、人間は、自分で意識して、自分の意志で、換言すれば、表層心理で、心を変えることはできないのである。心とは、深層心理の範疇だからである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、心を変えていくのである。だから、人間の心は、移ろいやすく、自我の欲望に満ちたものになるのである。モンテーニュの思いは、「人は自己の欲望を他者に投影する」という自己の欲望から来ているのである。つまり、人間には内面と外面があり人間の本質は内面にあるという思いが、モンテーニュに、そのような人間像を描かせたのである。それは、現代日本人にもある、大きな誤解である。そうして、「人は、外見より中身が大切だ。」などと言うのである。しかし、人間は、中身と外見の区別はできない。中身も外見も自我である。人間は、常に、自我として考え、行動するのである。









平穏と日常、苦痛(痛み)と非日常について。(自我その335)

2020-03-26 16:16:54 | 思想
芥川龍之介は「この世は地獄より地獄的である」と言った。サルトルは「地獄とは他者のことである」と言った。なぜ、人間は、生きている間に地獄の苦しみを味わわなければいけないのか。それは、自我の欲望をかなえようとすると、他者から妨害され、ほとんどかなえることができないからである。人間は、生きている限り、それが続くのである。吉本隆明は「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、他者に妥協し協調しなければ生きていけないことにある。」と言った。わがままとは、自我の欲望のままに行動することである、しかし、自我の欲望を通せば、たいていの場合、周囲の者から顰蹙を買い、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことになる。そこで、人間は、自我の欲望を抑圧し、他者に妥協・協調することになる。確かに、そのようにすれば、周囲になじみ、悪評価・低評価を受けることは無い。しかし、心から楽しめないのである。人間は、心から楽しむことがほとんど無いままにないままに、一生を終えることになるのである。さて、自我とは何か。また、自我の欲望とは何か。そして、何が自我の欲望を生み出すのか。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係は、具体的には、次のようなものになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動しているのである。自我を動かすのは深層心理である。深層心理とは、人間が無意識のうちに行っている思考である。深層心理の思考があって、初めて、人間は自我として動き出すのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、それによって、動き出すのである。深層心理とは、人間が無意識のうちに行っている思考であるから、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、たいていの人は、自らの行動を、自ら意識して思考して、自らの意志によって行なっていると思っている。人間が自ら意識して行う思考を表層心理と言う。確かに、人間は、表層心理で、自ら意識して思考することがある。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の後で、行われるのである。人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の思考の結論を受けて、深層心理の思考の結論について行うのである。だから、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考以前に行われることはなく、もちろん、表層心理独自の思考も存在しないのである。また、意志も、思考と同様に、表層心理の意志と深層心理の意志が存在する。深層心理の意志とは、深層心理が海抱いた感情と行動の指令という自我の欲望である。確かに、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、その結果、自らの意志によって行動することがある。しかし、これも、思考と同じく、深層心理の生み出す意志の方が、人間が表層心理で生み出す意志よりも、早期に存在するのである。しかも、強いことが多いのである。つまり、人間が表層心理で意識して生み出した意志が、深層心理が人間の無意識のうちに思考して生み出した意志と対立した場合、後者が前者を圧倒することが多いのである。なぜならば、深層心理の意志とは、感情と行動の指令という自我の欲望であり、そこには、常に、感情が伴っているからである。深層心理の意志に強い感情を伴っている時には、表層心理の意志は太刀打ちできないのである。ニーチェの言葉に「意志は意志できない」がある。人間は、表層心理での思考にによっては、深層心理の意志を生み出すことはできず、深層心理の意志を変更することもできないという意味である。ラカンの言葉に「無意識は言語によって構造化されている。」がある。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、欲動という志向性(観点・視点)に基づいて、論理的に思考しているのである。欲動という志向性(観点・視点)は四つの欲望によって成り立っている。四つの欲望とは、第一の欲望として自我を存続・発展させたいという欲望、第二の欲望として自我が他者に認められたいという欲望、第三の欲望として自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。高級官僚たちの深層心理の欲動に公務員という自我を存続・発展させたいという欲望があるから、安部晋三首相の悪事に加担し、公文書を改竄し、偽りの証言をするのである。若者の深層心理の欲動に自我が他者に認められたいという欲望があるから、アイドルになり、大衆という他者に認められようとするのである。教諭の深層心理の欲動に生徒や他の教諭たちという他者を支配したいという欲望があるから、校長を目指すのである。人間の深層心理の欲動に物を支配したいという欲望があるから、いろいろな物が材料・原料になるのである。人間の深層心理の欲動に現象を支配したいという欲望があるから、自らの志向性で現象を捉えようとするのである。、人間の深層心理の欲動に自我と他者の心の交流を図りたいという欲望があるから、恋愛をしたり、友情を育もうとしたりするのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求めることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動という四つの欲望に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理の思考の後に、すぐに行動するわけではない。確かに、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、深層心理が生み出した行動の指令のままに、すぐに行動する場合が多い。それは、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。しかし、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、承諾するか拒否するかを思考してから、行動する場合もあるのである。それは、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望について、意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が表層心理の意志による行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や法律厳守の価値観を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けたいという現実原則という欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しなかった場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。例えば、人間は、他者から侮辱されると、深層心理が思考し、傷心・怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出す。人間は、表層心理で、殴った後ことを考慮して、行動の指令を抑圧する。そうして、殴るという行動の代わりに、第三者に相談して、相手を罰することなどをするのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことも多くあるのである。先の例で言えば、次のようになる。人間は、他者から侮辱されると、深層心理が思考し、強い傷心・怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出す。人間は、表層心理で、殴った後ことを考慮して、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、傷心・怒りという感情が強いので、深層心理が生み出した殴れという行動の指令のままに行動してしまうことがあるのである。そして、逆に、自らが罰せられるのである。これが、相手に怪我を負わせるような過激な行動の場合、犯罪として成立するのである。しかし、人間の日常生活のほとんどは、表層心理で思考することなく、深層心理の思考のままに、無意識の行動によって成り立っている。すなわち、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理でその行動の指令を意識すること無く、表層心理でその行動の指令の許諾・拒否を審議することなく、行動している。それは、当今の生活が、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望にかなっているからである。人間の毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ、楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。つまり、人間が、ニーチェの「永劫回帰」という思想にかない、毎日同じことを繰り返すルーティーンという平穏な生活を営んでいるのは、深層心理の自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それは、肉体にも精神にも、人間は、表層心理で、意識して思考するような苦痛を感じる出来事が起こっていないことを意味するのである。肉体でも精神でも、苦痛があれば、人間の毎日同じことを繰り返すルーティーンという平穏な生活が破られるのである。人間は、料理をしている時、誤って、包丁で指を切る時がある。指に痛みが走ったから、指を怪我したことに気付くのである。そして、指を見て、表層心理で、傷の応急手当を考えるのである。毎日、包丁で指の怪我をしている人ならば、深層心理が思考のままに、無意識で、傷の応急手当をするが、たいていの人は、包丁を使っての指の怪我は非日常的なことだから、表層心理で、指の傷を意識して、応急手当を考えるのである。人間は、他者に何かを言われて、心に痛みを感じることがある。心が傷付いたから、心に痛みを感じたのである。傷付いた心も痛みを感じた心も深層心理である。深層心理が他者の言葉を侮辱と捉え、深層心理の欲動の自我が他者に認められたいという第二の欲望が傷付けられ、下位に状態に置かれたから、復権を目指し、怒りという感情と殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出したのである。深層心理は、傷心という感情のままでは、下位に状態に置かれたままで、復権を目指そうという行動の指令を生み出すことができない。深層心理が、傷心から怒りの感情へと変化したから、下位に置かれた状態から復権を目指して、殴れという行動の指令を生み出したのである。人間は、心に痛みを感じた時から、表層心理で、深層心理の動きを意識している。人間は、肉体でも精神でも苦痛を感じるという非日常的なことが起こると、表層心理で、意識して思考するのである。換言すれば、痛みが無ければ、人間は、精神的にも肉体的にも異常な状態では無いことを意味しているのである。指に痛みが無ければ、指の傷に気付かず、万が一、傷があることに気付いても、たいていの人は、指をほっとくものである。また、心に痛みが無ければ、侮辱されても、侮辱だと感じないのである。心に痛みが無ければ、冷静に対応し、冷静に答えるものである。つまり、痛みは、人間に、自らの異状を知らせる信号なのである。自らの異状とは、痛みがあることであり、自らの精神もしくは肉体が異常な状態にあること、つまり、自らの肉体もしくは精神に損傷があるということを意味するのである。


初めに深層心理ありき、失恋という非日常について。(自我その334)

2020-03-24 12:49:20 | 思想
新約聖書に「初めに言葉ありき」という言葉がある。クリスチャンならば誰でも知っている言葉である。この世は神の言葉によって作られたという意味である。もちろん、人間も神によって作られたのである。だから、クリスチャンは、神の意向に沿って行動しようとする。クリスチャンにとって、神の意向に沿って行動することが正しい生き方であるからである。しかし、どのようなことが神の意向であるかは、クリスチャン全てに共通しているのでは無く、宗派によって、異なっている。しかし、それでも、神の意向に背くとか神に対立するなどというはもってのほかの行動である。神に対する傲慢な態度は、決して、許されれないのである。しかし、クリスチャン以外の人々には、クリスチャンが信仰するキリスト教の神の言葉は聞こえてこない。彼らは、キリスト教とは異なる宗教を信仰していたり、宗教とは別のものを信じていたり、時と場合によって信じるものを変えていたり、信じることに不信感を抱いていたり、信じるものが無くても生きていけると思っていたりするからである。しかし、どのような人々にも初めにあるのは深層心理の思考なのである。深層心理の思考があって初めて人間は動き出すのである。深層心理とは、人間の無意識のうちに行われている思考である。だから、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、たいていの人は、自らの行動は、自ら意識して思考して、自らの意志によって行なわれていると思っている。人間が自ら意識して行う思考を表層心理と言う。確かに、人間は、表層心理で、自ら意識して思考することがある。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の後で、行われるのである。人間の表層心理での思考は、常に、深層心理の結論を受けて、深層心理の結論について行うのである。だから、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考以前に行われることはなく、もちろん、表層心理独自の思考も存在しないのである。また、意志も、思考と同様に、表層心理の意志と深層心理の意志が存在する。確かに、人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、その結果、自らの意志によって行動することがある。しかし、これも、思考と同じく、深層心理の生み出す意志の方が、人間が表層心理で生み出す意志よりも、早期に存在するのである。しかも、強いことが多いのである。つまり、人間が表層心理で意識して生み出した意志が、深層心理が人間の無意識のうちに思考して生み出した意志と対立した場合、後者が前者を圧倒することが多いのである。なぜならば、深層心理の意志には、常に、感情が伴っているからである。深層心理の意志が強い感情を伴っている時には、表層心理の意志は太刀打ちできないのである。ニーチェの言葉に「意志は意志できない」がある。人間は、表層心理によって深層心理の意志を生み出すことはできず、表層心理によって深層心理の意志を変更しようとしてもできないという意味である。深層心理の意志とは自我の欲望のことを意味している。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令が自我の欲望である。人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって動き出すのである。ラカンの言葉に「無意識は言語によって構造化されている。」がある。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。深層心理は、恣意的では無く、欲動という志向性(観点・視点)に基づいて、論理的に思考しているのである。さて、欲動という志向性(観点・視点)は四つの欲望によって成り立っている。それは、第一の欲望として自我を存続・発展させたいという欲望、第二の欲望として自我が他者に認められたいという欲望、第三の欲望として自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、それによって、動き出すのである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動しているのである。構造体と自我の関係は、具体的には、次のようなものになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求めることを目的・目標にして、行動の指令を生み出すのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動という四つの欲望に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理の思考の後に、すぐに行動するわけではない。確かに、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、深層心理が生み出した行動の指令のままに、すぐに行動する場合が多い。しかし、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、承諾するか拒否するかを思考してから、行動する場合もあるのである。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望について、意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が表層心理の意志による行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や法律厳守の価値観を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けたいという現実原則という欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことも多くあるのである。これが感情的な行動であり、犯罪はほとんどこの状態で起こるのである。しかし、人間の日常生活のほとんどは、無意識の行動によって成り立っている。すなわち、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理でその行動の指令を意識すること無く、表層心理でその行動の指令の許諾・拒否を審議することなく、行動している。それは、当今の生活が、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望にかなっているからである。人間の毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ、楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。つまり、人間が、ニーチェの「永劫回帰」という思想にかない、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。さて、深層心理の欲動の第一の欲望である、自我を存続・発展させたいという欲望は、構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出している。それは、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、現在の自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、現在の構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、人間は、現在所属している構造体にも執着するのである。そうして、人間は、深層心理の欲動に基づいた思考のままに、日常生活を守ろうとするのである。だから、人間の日常生活は、本質的に保守的になるのである。つまり、人間は、本質的に、同じことの繰り返しの日常生活を送ろうとするのである。人間は、表層心理で、意識して思考して、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのではなく、深層心理が、人間の無意識のままに、思考して、人間に、毎日、同じことを繰り返しながら生活するように仕向けているのである。誰に脅迫されているわけでもなく、誰に見張られているわけでもないのに、深層心理に導かれ、人間は、無意識のうちに、同じ生活を送っているのである。もちろん、人間が同じ生活を送ろうとするのは、人間の意志による。しかし、この意志は、人間の表層心理の意識しての熟慮による決断ではない。しかも、人間は、このような意志があることをすら意識していない。それは、深層心理が、人間の無意識のうちに、このような意志を生み出しているからである。つまり、人間は、自らの深層心理に導かれて、深層心理の意志によって、自ら意識しないままに、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こると、人間は、深層心理の思考のままに行動することはできず、表層心理で意識して思考することになる。失恋は、誰の日常生活においても起こりうる、異常なことである。恋愛関係が順調な時は、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動という四つの欲望に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、毎日、同じことを繰り返しながら、日常生活を送っていたのである。欲動の四つの欲望がかなえられていたのである。それは、第一の欲望としての恋人という自我を存続・発展させたいという欲望は、カップルという構造体が存在していることでかなえられていたのである。第二の欲望としての恋人という自我が他者に認められたいという欲望は、相手から恋愛相手として認められているという気持ちから満足できたのである。第三の欲望としての恋人という自我で他者を支配したいという欲望は、相手の愛情を独占しているという確信から、かなえられたのである。第四の欲望としての恋人という自我と他者の心の交流を図りたいという欲望は、デートする度に、互いの愛情を確認し合っていたから、満足できたのである。しかし、相手から別れを告げられ、失恋の状態に陥ると、全ての欲望の満足感は崩れていくのである。すなわち、第一の欲望としての恋人という自我を存続・発展させたいという欲望の満足感は、カップルという構造体が壊れたということで崩れ、第二の欲望としての恋人という自我が他者に認められたいという欲望の満足感は、相手から見て恋愛相手としてふさわしくないということで崩れ、第三の欲望としての恋人という自我で他者を支配したいという欲望の満足感は、相手の愛情が離れたということで崩れ、第四の欲望としての恋人という自我と他者の心の交流を図りたいという欲望の満足感は、二人で会うこともできないということで崩れたのである。もちろん、失恋においても、最初に動くのは深層心理である。失恋においても、深層心理は、道徳観や法律厳守の価値観を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、道徳や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けたいという現実原則という欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことも多くあるのである。これが感情的な行動であり、ストーカー行為という犯罪はこの状態で起こるのである。さて、人間、誰しも、今まで交際してきた人から、突然、「別れてほしい。」と言われた時、ショックのあまり、すぐには、その言葉を信じることはできない。これまでの深層心理の欲動の満足感は消えて、目の前が真っ暗になっている。一瞬のうちに、心はどん底に落とされる。気を取り直して、冗談では無いかと疑い、相手の顔をまじまじと見る。しかし、冗談ではない。相手は真剣な顔をしている。元に戻すことができそうにない。それと同時に、深層心理は、傷心から、怒りの感情に変わってくる。怒りの感情が次第に高まってくる。この時、誰しも、表層心理で、現実原則に基づいて思考して、「うん、わかった。これまでつきあってくれてありがとう。」とは言えない。これまで二人で築いてきたと思っていたカップルという構造体を、相手が一挙に消滅に向かわせようとしているのである。悲しみの中に怒りがある。この時、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情と行動の指令という自我の欲望のままに、泣く人もいるだろう。相手をなじる人もいるだろう。怒り狂う人もいるだろう。「今まで上げた物を返してほしい。」と言う人もいるだろう。稀れには、相手を殴る人もいるだろう。しかし、ほとんどの場合、よりは戻せない。泣いたり、消沈した様子を見て、それに同情して、よりを戻してくれる人は、いたとしても、ほんの僅かである。ほとんどの場合、別れを告げられたら、失恋が確定してしまう。しかし、誰が、すぐに、失恋を認めることができようか。確かに、誰しも、表層心理では、失恋を認め、意識している。しかし、深層心理は、認めることができないのである。なぜならば、カップルという構造体は、既に、深層心理の中に住み着いてしまっているからである。一人の人間の深層心理は、カップルという構造体だけでなく、家族という構造体、仲間という構造体、会社という構造体などの種々の構造体の中で自我を持ち、それを存続・発展させたいという欲望で、日常生活を送っているのである。だから、自我が所属している全構造体の存続・発展をも存続・発展させようという欲望を持って毎日暮らしているのである。自我と自我が所属する構造体の存続・発展があれば、深層心理の欲望が満足できるのである。しかし、一つでも、自我と自我が所属する構造体が消滅という危機的な状況にあれば、深層心理は、過激な感情と行動の指令を出すのである。失恋という現象は、その典型である。人間は、失恋すると、深層心理が、傷心・怒りという過激な感情と泣け・相手をなじれ・怒り狂え・殴れなどの過激な行動の指令を生み出すのである。泣くのは、相手から同情を受け、よりを戻すためである。相手をなじる・怒り狂う・殴るのは、相手を困らせ、上位に立つためである。いずれも、傷心・怒りという心の動揺を鎮めるためである。人間は、失恋すると、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することはできない。深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強いので、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。しかし、失恋した、ほとんどの女性は、表層心理が、意識的に、相手の男性を憎悪し、軽蔑することによって、深層心理から恋人という自我とカップルという構造体を追い出してしまうのである。そうして、男性によって、一方的に、カップルという構造体が消滅させられたのではなく、自分自身も、積極的に、カップルという構造体も消滅させたということで、敗北感を味わうことがないようにするのである。しかし、失恋した、ほとんどの男性は、表層心理が、意識的に、相手の女性を憎悪し、軽蔑しようとしても、それが、深層心理にまで届かないのである。未練が残るのである。未練が残るということは、相手が愛していないのに、自分が愛しているというを意味しているから、いつまでも、敗北感が残るのである。それでも、失恋した、大抵の男性は、何かに気を紛らわせ、相手の女性と会わないことによって、徐々に、深層心理から、カップルという構造体と恋人という自我を消していくのである。しかし、一部の男性は(稀れには女性も)、未練に堪えきれず、つまり、敗北感に堪えきれず、一挙に、敗北を挽回しようとして、相手につきまとったり、盗聴したり、嫌がらせをしたり、襲ったり、時には、殺人を犯したりするのである。つまり、ストーカーとなるのである。

保守的で排他的な日常生活について。(自我その333)

2020-03-21 17:53:52 | 思想
人間は、本質的に保守的である。それは、深層心理が、現在の日常生活を守ろうとしているからである。だから、日常生活は同じことを繰り返すのである。英語でも、routineという言葉は、本来は、いつもの手順という意味の言葉であるが、それが、日常生活をも意味するようになったのである。さて、深層心理とは、人間の無意識のうちに行われている思考である。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、欲動に基づいて思考している。欲動とは、人間に感情を生み出し、人間を行動へと駆り立てる、人間の内在的な欲望である。欲動は、深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言うのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。人間は、表層心理によって動くのでは無いのである。人間は、表層心理で、自ら意識して、欲動に基づいて思考して行動しているのではないのである。さて、欲動は四つの欲望によって成り立っている。四つの欲望とは、第一の欲望として自我を存続・発展させたいという欲望、第二の欲望として自我が他者に認められたいという欲望、第三の欲望として自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのである。すなわち、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望という四つの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動している。構造体と自我の関係は次のようになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求めることを目的・目標にして、行動の指令を生み出すのである。深層心理の思考の動きについて、ラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動という四つの欲望に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理の思考の後に、すぐに行動するわけではない。確かに、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、深層心理が生み出した行動の指令のままに、すぐに行動する場合が多い。しかし、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、承諾するか拒否するかを思考してから、行動する場合もあるのである。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望について、意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や法律厳守の価値観を有していないので、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けたいという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳や社会的規約を考慮し、後に自我に利益をもたらし不利益を避けたいという現実原則という欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことも多くあるのである。これが感情的な行動であり、犯罪はほとんどこの状況で起こるのである。しかし、人間の日常生活のほとんどは、無意識の行動によって成り立っている。すなわち、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理でその行動の指令を意識すること無く、表層心理でその行動の指令について思考することなく、行動している。それは、現在の生活が、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望にかなっているからである。人間の毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ、楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。つまり、人間が、ニーチェの「永劫回帰」という思想にかない、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。さて、深層心理の欲動の第一の欲望である、自我を存続・発展させたいという欲望は、構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出している。それは、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、現在の自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、現在の構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、人間は、現在所属している構造体にも執着するのである。そうして、人間は、深層心理の欲動に基づいた思考のままに、日常生活を守ろうとするのである。だから、人間の日常生活は、本質的に保守的になるのである。つまり、人間は、本質的に、同じことの繰り返しの日常生活を送ろうとするのである。人間は、表層心理で、意識し思考して、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのではなく、深層心理が、人間の無意識のままに、思考して、人間に、毎日、同じことを繰り返しながら生活するように仕向けているのである。誰に脅迫されているわけでもなく、誰に見張られているわけでもないのに、深層心理に導かれ、人間は、無意識のうちに、同じ生活を送っているのである。もちろん、人間が同じ生活を送ろうとするのは、人間の意志による。しかし、この意志は、人間の表層心理の意識しての熟慮による決断ではない。しかも、人間は、このような意志があることをすら意識していない。それは、深層心理が、人間の無意識のうちに、このような意志を生み出しているからである。ニーチェが「意志は意志できない」と言うのは、深層心理の意志は、表層心理によって生み出すことはできないという意味である。意志には、深層心理が生み出す意志と表層心理で生み出す意志があるのである。つまり、人間は、自らの深層心理に導かれて、深層心理の意志によって、自ら意識しないままに、毎日、同じことを繰り返しながら生活しているのである。さて、日本には、「郷に入っては郷に従え」という諺がある。「新しい土地に移り住む時は、その土地の風俗や習慣に従うべきである。」という意味である。すなわち、人間は、新しい土地に移り住む時には、その土地に元から住んでいる人々の風俗や習慣に従った方が、トラブルが無く、住みやすいという意味である。つまり、新しく移り住もうとしている人は、自分の考え方や生き方でその土地に住もうとすると、その土地に元から住んでいる人々との間にトラブルが生じ、住みにくくなるから、自分の考え方や生き方を捨てて、その土地に元から住んでいる人々の風俗・習慣に従いなさいという忠告なのである。一つの土地は、一つの共通のパラダイムが存在し、その土地に住む人は、そのパラダイムに基づいて暮らしているから、新参者は自らのこれまでのパラダイムを捨てて、住人たちのパラダイムに合わせなければなければならないのである。新参者の自我は弱く、住人たちの自我は強大であるから、新参者は住人たちのパラダイムに合わせなければ生きていけないのである。パラダイムとは、本来、アメリカの科学史家のクーンの用語であり、ある領域の科学者集団を支配し、その成員によって共有されている物の見方、問い方、解き方などの総体という意味である。しかし、パラダイムは、現在においては、ある時代やある場所の人々の物の見方や考え方を支配する概念的な枠組みや思考の規範という意味でも使われているのである。しかし、諺で忠告するまでも無く、ラカンが「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、他者のまねをするようになる)と言っているように、実際に、新参者は、いつの間にか、住人たちのパラダイムに合わせてい生きていくようになるのである。しかし、それでも、住人たちは、必ずしも、新参者を歓迎しないのである。住人たちの中には、新参者をいじめたり、襲撃したりする人が存在するのである。それは、住人たちにも、もちろん、深層心理の欲動の第一の欲望の自我を存続・発展させたいという欲望とそれに付随した構造体を存続・発展させたいという欲望があり、新参者が新しく構造体に所属することによって、それが阻害される虞があるからである。住人たちは、新参者が土地という構造体に新しく所属することによって、住人という自らの自我が弱まり、土地という構造体がこれまでとは別の方向に行くのを危惧するのである。住人たちは、新参者が、新しい考え方と生き方を持って、土地という構造体に新しく所属することによって、構造体がこれまでとは別のパラダイムになり、住人という自らの自我が弱まったり、自らの自我の地位を新参者に奪われたり、土地という構造体がこれまでとは別の方向に行ったりすることを恐れるのである。さて、土地という構造体において、住人という既に自我を持っている者たちの中に新参者という新しく自我を得た者をいじめたり襲撃したりする人が存在するように、国、家族、学校、会社、仲間などという構造体においても、既に自我を持っている人の中には新しく自我を得た人をいじめたり襲撃したりする人が存在するのである。さて、誰しも、愛国心を持っている。自分が所属している国を愛している。誰しも、愛郷心を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷という構造体を愛している。誰しも、自分の家族という構造体を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社という構造体を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ、学んでいる学校という構造体を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれているカップルという構造体を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる仲間という構造体を愛している。誰しも、宗教心を持っている。自らが帰依している宗教の共同社会、つまり、教団という構造体を愛している。このように、人間は自分の所属している構造体を愛しているのである。それでは、なぜ、人間は、自分の所属している構造体を愛するのか。それは、構造体が自らの存在を認めて、自我を与え、保証していてくれるからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。つまり、人間には、常に、構造体に所属していること、すなわち、自我を持つことが必要不可欠なのである。人間は、構造体に所属し、自我が与えられ、構造体の人々にその存在が認められて、初めて、自分の存在を確認し、安心できる動物なのである。それが、アイデンティティーを持つということである。アイデンティティーを持つことができるのは、自我を存続・発展させたいという深層心理の欲動の第一の欲望が満たされているからである。ところが、日本では、一般に、アイデンティティーは、簡単に、「自己同一性。人格における存在証明または同一性。」などと説明されている。これでは、アイデンティティーは独りよがりなものになる。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持しているだけでは得ることはできないのである。アイデンティティーは、構造体に所属し、自我を持し、その自我が構造体内の他者や構造体外の他者に認められ、自らが自らの自我に満足して、初めて得ることができるのである。つまり、アイデンティティを得るには、自らの自我に対する他者からの承認と評価を必要とし、自らが自らの自我のあり方に満足することが必要なのである。さて、よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心を有するからである。それは、深層心理の欲動には、自我を存続・発展させたいという第一の欲望があり、その欲望は構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出しているからである。日本人の深層心理の欲動には、日本人という自我を存続・発展させたいという第一の欲望があり、その欲望は日本という構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出しているからである。確かに、日本が嫌いだという日本人は存在する。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからである。決して、愛国心を失ったわけではない。もちろん、愛国心は、日本人にだけ存在するのではなく、世界の人々の心に存在している。なぜならば、世界中に、国という構造体が存在し、国民という自我が存在するからである。どの国民の深層心理の欲動にも、国民という自我を存続・発展させたいという第一の欲望があり、その欲望は国という構造体を存続・発展させたいという欲望をも生み出しているからである。しかし、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や北朝鮮や韓国などに対して敵愾心を露わにする日本人が存在する。国家主義者である。そして、自分の考えや行動に反対する人を売国奴、非国民、反日だなどと非難する。売国奴は、敵国と通じて国を裏切る者をののしって言う言葉である。非国民は、国民としての義務を守らない者をののしって言う言葉である。反日は、日本に反対すること、日本や日本人に反感をもつことという意味である。しかし、日本人には、売国奴、非国民、反日は存在しない。売国奴、非国民、反日という言葉は、日本人ならば誰しも日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる国家主義者が生み出したのである。また、憂国という言葉も存在する。憂国とは、国家の現状や将来を憂え案ずること、国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、国家主義者と同様に、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている人たちを、売国奴、非国民、反日などと非難するするのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人が侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような悪行を行った人たちもまた憂国の士である。さて、日本の国家主義者、憂国の士と中国の国家主義者、憂国の士、日本の国家主義者、憂国の士と韓国の国家主義者、憂国の士が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分だけを口角泡を飛ばして言い、相手の主張を聞かないであろう。感情が高じた挙げ句、殴り合いが始まる可能性もある。愚かな政治権力者が国家主義者や憂国の士である場合、戦争に発展する可能性もある。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。愛国心は、一般に言われているような、決して、評価すべきものではないのである。だが、国が存在する限り、国民が存在し、愛国心を必ず有している。万が一、愛国心を持てない国民が存在したならば、悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。日本人は、自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。しかし、国家主義者、憂国の士と異なり、それを他者に無理強いしないのである。それが、日本人としての自我のあり方である。それは、中国人、韓国人朝鮮人も同様である。そのことに気付かず、日本人としての自我を強く主張すれば、中国人、韓国人朝鮮人と対峙するしかないのである。ところが、ヘイトスピーチの集団が存在する。彼らは、「在日(在日韓国人・在日朝鮮人)は、日本から出て行け。」と叫び、挙句の果てには、「在日を殺せ。」とまで言う。ヘイトスピーチをして、韓国国籍の人、北朝鮮国籍の人を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちであり、排外主義者であるる。大勢の人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしているだろう。彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと思っているだろう。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと思っているだろう。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国という構造体に所属しているからである。自分に日本人という自我が与えられているからである。それは、山田一郎は、日本人という自我を与えられているから日本という構造体を愛し、青森県出身者という自我を与えられているから青森県という構造体を愛し、山田家の長男という自我を与えられているから山田家という構造体を愛し、ソニーの社員という自我を与えられているからソニーという構造体を愛し、日本大学の出身者という自我を与えられているから日本大学という構造体を愛しているのと同じである。人間を保証するものは、自我なのである。人間は、自我の束から、構造体に応じて、一つの自我を取り出して、活動しているのである。山田一郎は、日本という構造体においては日本人という自我の下で活動し、青森県という構造体においては青森県出身者という自我の下で活動し、山田家という構造体においては山田家の長男という自我の下で活動し、ソニーという構造体においてはソニーの社員という自我で活動し、日本大学という構造体においては日本大学の出身者として活動してきた、もしくは、活動しつつあるのである。それ故に、山田一郎の自我の真の姿は決定しようと思っても、それは不可能なのである。構造体におけるその時の自我が全て真の姿である。日本という構造体の中にいれば日本人、青森県という構造体の中にいれば青森県出身者、山田家という構造体の中にいれば長男、ソニーという会社の構造体の中にいれば社員、日本大学という構造体の中にいれば日本大学の出身者である。人間の存在を保証するものはこの構造体と自我なのである。日本人は、日本人という自我を与えらえているから、日本を愛しているのである。日本人という自我を保証してくれるものは日本という国家だから日本を愛しているのである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、自分を愛しているのである。それに気づかないから、愛国無罪のような罪を犯す人が出現するのである。しかし、愛国心とは、自分を愛していることだと認めることは、決して、愛国心の終わりではない。愛国心の始まりである。なぜならば、愛国心はエディプスの欲望と同じく、深層心理の欲動から発するからである。一般に、エディプスの欲望という言葉は使われず、精神分析の用語として、エディプス・コンプレックスが使われている。エディプスの欲望とは、父に代わって母と性的関係を結ぼうとする男児の深層心理の欲望である。エディプスの欲望は、深層心理の欲動の第三の欲望である自我で他者を支配したいという欲望から発している。エディプスの欲望は、男児の深層心理の欲動の第三の欲望である男児という自我で母という他者を支配したいという欲望である。当然、父もそれを許さず、社会もそれを許さない。それを許すと、家族関係が破綻し、社会の秩序が乱れるからである。そこで、男児は、自らの欲望を抑圧し、欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すことにより、主体は自ら父親になると同時に、交換という社会的システムの中に導入されることになるのである。エディプス・コンプレックスとは、男児という幼児が自らの欲望を抑圧して、大人の男性として社会に出ていくための過渡期にあるものである。愛国心もまた日本人という幼児の欲望と言うことができる。日本人は、日本人という自我を持ち、日本という国の構造体に育っていくので、必ず、日本に愛国心を抱くのである。男児の深層心理は、男児という自分の自我の存在を保証してくれるので、母を愛し、母と性的関係を結ぶことによってそれを確固とした形にしようとするのである。日本人は、日本人という自らの自我の存在を保証してくれるので、日本という国の構造体を愛すのである。しかし、男児は、父の権威が壁になり、エディプスの欲望は断念せざるを得なくなる。そして、男児は、欲望の対象を母から代えて、母と同価値を持つ性的対象を見出すことになるのである。父と社会が男児の欲望の暴走を止めるのである。男児の暴走を止めなければ、家族関係、社会体系が不都合状況に陥ってしまうのである。それでは、国家主義者や憂国の士やヘイトスピーチをする人など愛国心を強く抱いている人の暴走を止めるのは何であろうか。子供は無垢な存在だとして、男児の母親に対する欲望を許すべきではない。それと同様に、愛国心は国に対する純粋な思いだとして、愛国無罪というような犯罪を許すべきではないのである。男児の欲望が欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すようになるように、愛国心もまたむき出しの行為ではなく、ワールドカップやオリンピックなどで日本を応援すれば良いのである。愛国心もまたエディプスの欲望と同じように幼児の欲望なのである。それ故に、男児の欲望も愛国心も恥ずべき心情なのである。むき出しにしてはならないのである。国家主義者や憂国の士やヘイトスピーチをする人はむき出しにしたいからこそ、むき出しにしてはならないのである。むき出しにしたいのは、アイデンティティーを基本とした心情だからである。アイデンティティーを発露することは、他者の自我に対する挑戦となるからである。誰しもが、アイデンティティを持つと、それを発露したくなる。それ故に、それを実践すると争いになるのである。それ故に、大人と言える人は、発露したいという幼児の心情を恥じて、抑圧するのである。それは、愛郷心、家族を愛する心、愛社精神、愛校心でも同様である。故郷、家族、会社、学校にアイデンティティを得れば、だれでも発露したくなるのである。しかし、それを発露することは、他者も抑圧していたアイデンティティーを発露し、争いになるのである。それ故に、大人と言える人は愛国心を発露しないのである。つまり、愛国心の発露は幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の国家主義者と中国の国家主義者の争い、日本人の国家主義者と韓国の国家主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めなければいけない。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしている、国家主義者だからである。それ故に、愛国心による批判合戦は収まる気配は一向になく、むしろ拡大している。それ故に、良識ある大人の国民が、大衆の国家主義者に対してと同様に、国家主義者の政治権力者の言動に対して批判すべきなのである。