あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間にはいくつもの顔がある。(欲動その6)

2023-12-30 15:47:05 | 思想
人間にはいくつもの顔がある。なぜならば、所属する構造ごとに異なった自我として生きるからである。人間は自らのことを自分と言うが、人間には特定の自分は存在しない。人間は常に自我として存在しているのである。自我とは、人間が、構造体の中で、役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、首相・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我で行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では父という自我を持ち、会社という構造体では課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我で行動しているのである。だから、息子が母だと思っている人は、確かに、家族という構造体では母という自我で行動しているが、他の構造体では、教諭、客、乗客、妻などの自我で行動しているのである。同様に、息子が父だと思っている人は、確かに、家族という構造体では父という自我で行動しているが、他の構造体では、課長、客、乗客、夫などの自我で行動しているのである。だから、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、所属している構造体ごとに、自我の答え方が異なるのである。人間は、所属する構造体によって異なった自我になり、各構造体は独立していているから、一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。だから、息子は母、父の全体像がわからないのである。家族という構造体で、母、父という他者の自我を持った者しか知ることはできないのである。それでも、彼にとって優しい母、厳しい父ならば、他の構造体でも、他者に対して、優しく、厳しく接していると思い込んでいるのである。しかし、人間は常に構造体に所属して自我として生きているが、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは無意識の精神活動である。つまり、人間は無意識の思考によって動かされているのである。確かに、人間は自らを意識して思考する時がある。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。しかし、人間の表層心理の思考では行動できないのである。なぜならば、表層心理の思考は感情を生み出すことができないからである。深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。道徳観や社会規約を守るという志向性は表層心理に存在する。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間は自らのみならず他者や他人のの全体像がわからないのである。他者とは同じ構造体に所属している人々であり、他人とは別の構造体に所属している人々である。人間は、その構造体における自らの自我と他者の自我しか理解できないのである。他者の一部しか知ることができないのに、そこから全体像を推し量っているのである。しかし、人間は、幾つもの自我、幾つもの顔を持っているからである。人間の自我は、その人が所属している構造体の数だけ存在し、その数だけ、顔があるのである。ほとんどの人は、この世に、自分として存在していると思っているが、人間には、自分という独自のあり方は存在しないのである。ところが、多くの人は、構造体の中で他者から与えられた自我を自分だと思い込んで存在しているのである。しかも、深層心理が自我を主体に立てて思考して人間を動かしているのに、主体的に思考して行動していると思い込んでいるのである。しかし、人間は、生きるためには、他者から与えられたとは言え、自我が必要なのである.。なぜならば、人間とは社会的な存在者であり、社会生活を営むために構造体とは自我が不可欠だからである。人間は、他者との関係性との中で何者かになり、人間として存在することができるのである。他者との関係性を絶って、一人で生きることはできないのである。構造体の中での他者との関わりを通して、事件が起きるのである。数年前、ストーカー殺人事件の犯人として、男性が逮捕された。逮捕されたと言っても、逃げていたわけではない。犯行現場に、呆然と立ち尽くしていたところを、連行されたのである。彼らは三年間交際し、彼が結婚を申し込もうと思っていた矢先、彼女から、「好きな人ができたから、別れてほしい。」と言われた。彼は怒ったり哀願したりしたが、彼女の気持ちは変わらなかった。諦められない彼は、彼女が勤務している会社の前で待ち伏せしたり、彼女のアパートの部屋を監視したりした。彼女は、身の危険を感じ、警察に相談した。警察は、彼を呼び、注意した、彼が謝罪し、納得したようなので、警察はそれ以上踏み込もうとしなかった。その三日後、会社帰りの彼女が、近所のスーパーで買い物し、アパートに入ろうとしているところを、彼が、包丁で、背後から襲い、刺殺した。なぜ、彼は彼女を殺したのか。それは、深層心理が苦悩から逃れたかったからである。なぜ、深層心理は苦悩のるつぼにはまり込んだのか。それは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という欲動から発する全ての欲望を阻害されたからである。相手から別れを告げられ、恋人という自我を存続・発展させたいという保身欲が阻害されたのである。相手から別れを告げられ、相手から恋人という自我を認めてもらいたいという承認欲が阻害されたのである。相手から別れを告げられ、相手の愛情を独占したいという支配欲が阻害されたのである。相手から別れを告げられ、愛し合うという共感欲が阻害されたのである。この苦悩から脱するためにはカップルという構造体を復活するさせるしか無く、それで様々な方法で付きまとったが、その試みがことごとく失敗し、より嫌われ、カップルという構造体を復活するさせることはできないと思い知ったから、この苦悩から逃れるために相手を死に追いやったのである。しかし、こののような惨劇を起こす前までにに、加害者には、引き返す可能性が無かったわけではない。深層心理には、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の保身欲から発した超自我という機能が存在するからである。超自我が、ルーティーンを守るために、苦悩を抑圧し、付きまとえという行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。超自我が深層心理が生み出したルーティーンから外れた行動の指令を抑圧できなかった場合、人間には、自我の欲望が意識に上り、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。すなわち、表層心理で思考することになる。つまり、人間は、表層心理で、苦悩の下で、付きまとえという行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した苦悩の感情の下で、現実的な利得を求めて、相手に付きまとったならば、後に、自我がどうなるかを、他者の評価を気にし、将来のことを考え、深層心理が生み出した付きまとえという行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した苦悩の感情が強過ぎると、表層心理の意志は、深層心理が生み出した付きまとえという行動の指令を抑圧できず、付きまとってしまうのである。付きまとえば、もちろん、相手からますます嫌われ、邪険にされる。すると、深層心理は、怒りの感情と殺せという行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。怒りの感情が強すぎれば、人間は表層心理の意志では抑圧できず、深層心理が生み出した殺せという行動の指令に従って、行動してしまうのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した苦悩の感情の下で、深層心理が生み出した付きまとえという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した苦悩の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、失恋という心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうして、いつしか苦悩が薄れ、失恋の傷も癒えるのである。さて、マスコミは、このストーカー殺人事件を追及した。特に、バラエティー番組が、執拗に、この事件を追い、連日、放送した。レポーターは、遠慮会釈無く、加害者の周囲の様々な人に会い、インタビューした。まず、彼の実家を訪ねた。父親がインタビューに応じた。父親は、「家では、穏やかで、こんなことをするとは信じられない。」と答えた。これが真実で無かろうと、父親は自らの自我を守るために、そして、息子の自我を少しでも守るために、このように答えざるを得なかったのである。レポーターは、「このような精神の異常者に育てたことに責任を感じませんか。」と、親の責任を問うた。「申し訳ありません。」と、記者に対してにとも、世間に対してにとも、被害者に対してにとも、被害者家族に対してにとも明らかにせずに、深々と頭を下げた。しかし、ストーカー殺人の責任は、一に、息子の責任であり、父親には、全く、責任は無い。息子は、恋人の彼女から別れを告げられ、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことに耐えられなかったので、殺人にまで至ったのである。彼の深層心理が彼に殺害を命じ、彼はそれに抗することができなかったのである。また、彼は、精神の異常者ではない。彼に限らず、誰しも、失恋すると、ストーカー的な心情に陥るのである。一般に、女性の方が、相手の男性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直るのが速い。だから、女性の方が男性よりもストーカーになる人は少ない。男性の方も、相手の女性を嫌悪し、軽蔑することによって、上位に立ち、失恋の苦悩から立ち直ろうとするが、その気分転換が女性より下手で、時間が掛かる。中には、彼のように、全く気分転換が図れず、全く立ち直れない人がいるのである。その中に、凶行に及ぶ者が存在するのである。さらに、レポーターは、「被害者の親御さんに対して、何か、言葉はありませんか。」と尋ねた。父親は、「息子が大切な娘さんの命を奪ってしまって、本当に、すみません。」と、涙声で、深々と頭を下げた。これでは、まるで、拷問である。確かに、凶悪な犯罪である。しかし、父親に何の落ち度があると言うのだろうか。しかも、レポーターは、このような追及の仕方をすると、視聴率が上がり、レポーターという自我の欲望も満足できるので、何の反省もなく、行うのである。大衆は、犯人一人を責めるだけでは、怒りが収まらないので、彼の近親者を探し求め、責任を追及するのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、それを利用し、視聴率を上げ、自我を満足させるのである。さらに、レポーターは、近所に行き、彼の人間性について、尋ね回る。しかし、近所の人は、異口同音に、「きちんと挨拶し、物腰が柔らかで、このような事件を起こすとは考えられません。」と答える。彼の、近所という構造体での近所の人という自我、近隣関係は、すこぶる評判が良いのである。さらに、レポーターは、彼が勤務している会社へ行き、上司や同僚に、彼の人間性について、尋ねる。彼らも、異口同音に、「勤務態度はまじめで、仕事ができ、こんな事件を起こすとは、想像できない。」と答える。彼の、会社という構造体での社員という自我も、評価が高いのである。さらに、レポーターは、彼の高校時代の同級生にインタビューし、「あいつは、かっとすると、何をするかわからないところがあった。」という言葉を引き出し、ようやく、満足できるのである。「やはり、犯人には、裏の顔がありました。犯人は異常な精神の持ち主です。これが、真実の顔です。」と言い、自分のインタビューの成果を誇るのである。レポーターを含めてバラエティー制作関係者は、最初から、「罪を犯す人には、必ず、常人とは異なる、異常心理がある。どんなに穏やかな顔をしていても、それに、騙されてはいけない。」という結論を持っているのである。さらに、被害者の両親にインタビューを試みたようだが、それは断られたようである。それは当然である。彼らは、突然、娘がこの世から消え、家族という構造体が傷付けられた痛みから立ち直っていないからである。何を語れば良いのか。語るとは、訴えることである。訴えることは、ただ一つ、娘を返してほしいということである。しかし、そう訴えたところで、何になろう。誰が叶えてくれるというのか。より虚しさが増すだけである。レポーターは、その代わり、被害者の叔父から、「犯人を死刑にしてほしい。」という言葉を引き出し、最後に、大衆とともに歩む番組の姿勢を示し、視聴者にアピールでき、満足げであった。しかし、レポーターが言うように、犯人は精神の異常者なのだろうか。異常な心理があるから、犯罪を犯すのだろうか。そうではなく、深層心理が生み出した自我の欲望が強いから、犯罪だとわかっていても、それを行ってしまうのではないか。深層心理、自我、自我の欲望を徹底的に分析しない限り、犯罪の真相に迫れないのである。また、レポーターは、かっとすると何をするかわからないところが彼の真実の顔だとし、彼の嘘の顔が多くのの高評価・好評価を生み出していると言っている。つまり、高校時代の同級生を除いて、皆、騙されているというわけである。しかし、人間は、皆、いろいろな構造体に属し、いろいろなポジションを自我として持って暮らしている。この自我の他者からの評価が顔である。自我の他者からの評価が高ければ、良い顔になり、自我の他者からの評価が低ければ、悪い顔になる。だから、顔は、良い顔にもり、悪い顔にもなり、一つに定まらないのである。構造体によって評価が異なるからである。彼は、家族という構造体では、息子という自我は他者からの評価が高く、近所という構造体では、近所に住んでいる人という自我は他者からの評価が高く、会社という構造体では、社員という自我は他者からの評価が高かったが、たった一つ、高校という構造体では、同級生という自我が他者からの評価が低かったのである。人間とは、こういうものである。自我の他者からの評価、つまり、顔は一つに定まらないのである。犯罪者だからと言って、全ての構造体で、他者からの評価が低いわけではないのである。



自分は存在しない。(欲動その5)

2023-12-24 17:52:40 | 思想
小林秀雄は「人間は何にでもなれるだろう。しかし、自分にしかなれない。」と言った。しかし、人間は偶然出会ったものにしかなれない。しかも、他者に受け入れたものにしかなれない。さらに、自分で主体的に考えて行動しているわけではない。つまり、自分は存在しないのである。人間は、誰しも、永遠に生きることができず、必ず、死が訪れる。人間は、誰しも、自らの死を最も恐るべきことだと思っている。それは、人間にとって、自らの存在が掛けがえのないものだからである。しかし、誰が死んでも世界は消滅しない。自我が一つ消滅するだけである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、夫婦、家族、学校、会社、国、店、電車、仲間、カップルなどがあり、それに応じて自我がある。夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では担任教諭。生徒という自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、常に、構造体に所属し、自我として、他我と関わりながら、暮らしている。多くの人は、毎日、自分は人と関わりながら生きていると思っている。人とは他者と他人である。他者とは同じ構造体の人々であり、他人とは別の構造体の人々である。他我とは、他者の自我と他人の自我である。だから、定まった自分は存在せず、所属する構造体の自我がその時の自分になるのである。同様に、定まった他者や他人は存在せず、所属する構造体の自我にとっての他我である。だから、全ての人間のあり方は、構造体によって決まってきて、自分で決められないのである。そして、自分の思考、感情、行動も自分で決めていないのである。他者や他人の評価、影響、評価によって決まってくるのである。だから、誰が死んでも世界は消滅せず、自我が一つ消滅するだけなのである。確かに、親が死ねば子は悲しむだろう。夫が死ねば妻は悲しむだろう。担任教諭が死ねば生徒は悲しむだろう。総理大臣が死ねば悲しむ国民もいるだろう。友人が死ねば悲しむだろう。恋人が死ねば悲しむだろう。しかし、暫くすれば、悲しみも癒え、その自我の代わりの人が現れるのである。すなわち、代わりの親、代わりの夫、代わりの担任今日、代わりの総理大臣、代わりの友人、代わりの恋人が現れるのである。家族、夫婦、クラス、国、仲間、カップルという構造体が消滅することは無いのである。一つの自我が消滅すれば、別の人がその場所、すなわち、その自我に入り込むだけなのである。それは、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我として存在しているからである。人間は自分にこだわるが、固定した自分というあり方は存在しないのである。自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指しているあり方に過ぎないのである。すなわち、自我なのである。しかも、人間はその自我を自ら動かしていず、動かされているのである。深層心理に動かされているのである。深層心理とは無意識の精神活動である。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、心境の下で、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間は自我の主体になっいない。深層心理が自我を主体に立てて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。心境とは、感情と共に、深層心理の情態を表している。心境は、気分とも表現される。心境は、爽快、陰鬱などの深層心理に長期に持続する情態である。感情は、喜怒哀楽などの深層心理が瞬間的に生み出す情態である。爽快という心境にある時は、深層心理は現状に満足し、新しく自我の欲望を生み出さず、現在の自我の状態を維持しようとする。陰鬱という心境にある時は、自我の現状に不満を抱いているということであり、深層心理は現状を改革するために、どのような行動を生み出せば良いかと思考し続けることになる。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、自我の現状に大いに満足しているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、自我の現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、自我の現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、自我の現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、自我の現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が生み出した行動の指令は、自我の現状を維持しようとするものになる。また、深層心理が、常に、心境や感情という情態に覆われているからこそ、人間は自分の存在を意識する時は、常に、心境や感情という情態にある自分としても意識するのである。人間にとって、現在の自我の状態が良いか悪いかの判断は、常に、心境や感情の状態によるのである。さて、心境は、深層心理の底に過去から流れているものであり、感情は深層心理が現在生み出したものであるから、人間は、表層心理で、感情を変えることができないように、心境も変えることはできない。表層心理とは自らを意識しての精神活動である。つまり、人間は自らの意志で心境も感情も変えることはできないのである。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が自然と変化するのである。だから、原因もわからず、爽快から陰鬱へ、陰鬱から爽快へ変わることがあるのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で意志によって心境を変えたのではなく、その人の深層心理が自らの心境に飽きやすいから、心境が自然と変化するのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の情態は感情に覆われ、心境が感じられなくなる。その後、心境は回復するが、その時、心境は、以前のものとは異なったものになっている。人間は、表層心理で意志によって陰鬱な心境を変えることができないから、何かをすることによって変えようとするのである。それが、気分転換である。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間は意志で心境を変えることができないから、表層心理で心境を変える方法を考えるのである。人間にとって、これほどまでに、感情や心境などの情態が決定的な意味を持っているのである。だから、オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言うのである。苦しんでいる人間にとって、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、表層心理で。苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。だから、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみが消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、人間は、誰も、考えることは無いのである。苦痛が無い思考とは思うことである。思いは、楽しいことを思い浮かべるのである。そこには、深層心理の思考で始まり、深層心理の思考で終わり、表層心理での思考は入り込む余地は無いのである。必要ないのである。なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、人間はその苦しみから逃れようとして表層心理で思考するのである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛が消滅すれば、思考も停止するのである。さて、次に、欲動であるが、深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配望である。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間が、毎日、同じ構造体で、同じ他者に会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーンの生活をしていけるのは、深層心理が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、他者から、侮辱されたりなどして、自我が他者に認められたいという承認欲が阻害されたからである。そのような時、深層心理は、怒りの感情と相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、暴力などの過激な行動を行わせ、承認欲を阻害した相手をおとしめることによって、自らの自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。深層心理には、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した超自我という機能が存在するのである。超自我は、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、意識して、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。すなわち、表層心理で思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱した相手を殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できず、侮辱した相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、高校生・会社員が嫌々ながらも高校・会社という構造体に通学・通勤するのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのも裁判官という自我を守ろうという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は自殺した生徒よりも自分たちの自我を守ろうという保身欲から事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守ろうという保身欲から自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲からいじめの事実を隠し続け自殺にまで追い詰められたのである。さらに、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、人間は、常に、他者の思いを推し量りながら生きている。それは、深層心理に欲動から発した他者に自我を認めてもらいたいという保身欲があるからである。保身欲が満たされれば、深層心理がつまり人間が快楽が得られるのである。だから、人間は、他syから褒められたい、好かれたい、存在を認められたいという思いで生き、行動しているのである。だから、人間はすなわち深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。フランスの心理学者のラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲の現象を表しているのである。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、承認欲の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理に内在する欲動から発した承認欲の作用によって起こるのである。例えば、中学生・高校生はは、学校のクラブという構造体に所属して、部員という自我を持っていて暮らしている。彼らの深層心理は、監督や他の部員という他者から、好評価・高評価を得たいという欲望を持っている。しかし、連日、彼らから馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、傷心という感情と退部という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。しかし、中学生・高校生の超自我はルーティーンの生活を維持させようとして、退部を思いとどまらせようする。しかし、傷心の思いが強ければ、超自我の機能では防ぎきれず、表層心理に上ってくる。中学生・高校生は、表層心理で、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した傷心という感情の下で、深層心理が生み出した退部しろというが行動の指令について思考し、退部を思いとどまろうとする。それは、部に残った方が周囲からの評価が高く、退部した後のことが考えられないからである。しかし、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、部に行けないのである。その後、人間は、表層心理で、傷心の下で、退部を指示した深層心理を説得するために、部に行く理由を探したり論理を展開しようとする。しかし、たいていの場合、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、自殺する者も現れるのである。つまり、承認欲が満たされないことが苦悩の原因でなのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという承認欲を満足させるためである。さて、保身欲は現在の構造体に現在のじがを留めたいという欲動であり、承認欲は自我を他者に認めてほしいという欲望であるが、支配欲は自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。まず、他者という対象に対する支配欲であるが、それは、自我が他者を支配したい、他者のリーダーになりたいという欲望である。この欲望を満たすために、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために物を利用することである。山の樹木を伐採すること、物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感が得られるのである。さらに、対象の支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在している時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しない時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。有の無化、無の有化によって、深層心理は、自我を正当化し、心に安定感を得ようとしているのである。最後に、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合えば快楽が得られるので、自我の状態がそのようになるようにする。自我と他者が共感化できれば、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにすることができるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだしつつ、相手の愛を独占することを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、恋人という自我が相手に認めてもらいたいという承認欲が阻害されたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、未練が残る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理が人間にストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うためである。もちろん、ルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で、ストーカー行為を抑圧しようとするが、屈辱感が強過ぎると、かなわないのである。つまり、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が阻害されたことの辛さだけでなく、恋人という自我を相手に認めてもらえないという諸運良くを阻害された辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者の共感欲が生まれ、そこに、連帯感の喜びを感じるからのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感欲が生み出したものである。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に相手を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感欲のなせる現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通の敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いにイニシアチブを取りたいという支配欲から、仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされているのである。そして、深層心理が自我の欲望として過激な感情とルーティーンのを逸脱するような行動の指令を生み出した時、超自我で抑圧できなければ、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、表層心理で、過激な感情の下で、ルーティーンのを逸脱するような行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。しかし、人間は、これ以外に、表層心理で思考する時があるのである。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時などである。人間は、他者の存在を感じた時、自我の存在を意識するのである。自我の存在を意識するとは、自我の行動や思考を意識することである。そして、自我の存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の存在を意識し、自我の行動や思考を意識するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自我の存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自我の存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じた時、表層心理で、自我の存在を意識して、現実的な利得を求める志向性から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、人間は、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自我の存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。しかし、人間が自我の存在を意識して、表層心理で思考しても、自己としても存在しると言えないのである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを勝ち取らなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。人間は主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。多くの人は、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。自己として存在するとは、自我を、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することだからである。人間の表層心理での思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。だから、たいていの人は自己として存在していないのである。人間が自己として存在しにくいのは、自我を動かすのは、深層心理だからである。自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるから、深層心理は、他者の思惑を気にして、自我が構造体から放逐されないように思考するのである。人間は、表層心理で、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、他者から白い眼で見られ、その構造体から追放される可能性、時には殺される可能性あるから、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。構造体から追放される覚悟、殺される覚悟がある人だけが主体的に自らの行動を思考することはできないのである。

愛という名の欲望について。(欲動その4)

2023-12-16 13:50:48 | 思想
一般に、愛は欲望と対立しているように解釈されている。愛は推奨され、欲望は毛嫌いされる。それは、愛は献身的だが、欲望は自分の利益の追求のことしか考えていないと思われているからである。だから、小説、映画、ドラマ、アニメ、漫画などにおいて、愛は肯定的に描かれ、欲望は否定的に描かれているのである。日常生活においても、世間では、愛は求められ、崇高なものと見る風潮がある。人間は、愛する人がそばにいると喜びを覚える。さらに、その人に愛されていると実感すると無上の喜びを感じる。そして、愛する人のためには自らを犠牲にしようとさえ考える。だから、愛は崇高なものと思われているのである。愛には様々な形態があるが、愛する喜び、愛されることの喜び、愛する人やものに対する献身性は共通して存在する。愛する子のために、愛する人のために、愛する国のために、自らを犠牲にするのである。しかし、愛する子、愛する人、愛する国とのの出会いは偶然のものである。偶然、その構造体に所属して、自我を持たされ、他者や構造体を愛するのである。
構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。他者とは構造体の中の人々である。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って生きているのである。構造体には、家族、カップル、夫婦、国、学校、会社、店、電車、仲間、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫・妻という自我があり、国という構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では社長・部長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、人間という構造体では男性・女性という自我があり、男性という構造体では老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は構造体に所属して自我を持つと、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。それでは、深層心理とは何か。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間は自らが意識しないうちに思考して生み出した自我の欲望に動かされているのである。すなわち、人間が自らが自我の主体になっているのではなく、深層心理が自我を主体を立てて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。愛もまた自我の欲望である。次に、欲動であるが、欲動とは深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の四つの欲望とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲である。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我を他者に認めてほしいという欲望である。支配欲とは自らの志向性で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲とは自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理が欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするのは、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかかなったものにすれば快楽が得られるからである。それを、フロイトは快感原則と呼んだ。さて、人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は子(娘、息子)である。しかし、それは偶然の出来事である。なぜならば、子は、家族を選べず、親(母、父)を選べないのである。なぜならば、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、親を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。しかし、親も、子を選べないのである。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。生まれてきた子の母、父を自我として生きるしか無いのである。それでも、子を愛するのは、家族という構造体の中で、母、父を自我として生きているからである。母、父という自我で子を支配でき、子がそれに従うから、我が子として愛するのである。支配欲がなせる業である。また、そこには、子が親として認めているという承認欲が満足させるものがあるから我が子として愛するのである。そして、子の存在は母、父という自我を確保・存続・発展させてくれ保身欲を満足させてくれるから我が子として愛せるのである。しかし、親は意識して子を愛するのではなく、無意識のうちに愛するのである。すなわち、親の深層心理が子を愛するのである。しかし、多くの人は、親は本能で若しくは自ら思考して自らの意志で子を愛していると思っているのである。しかし、人間には、子を愛する本能は存在しない。だから、子が自らの思い通りにならないと幼児虐待が起こるのである。それは、支配欲、承認欲が阻害されたからである。また、どのような愛も自らの思考によって生み出すことはできないのである。愛は自らを意識した思考によって生まれないのである。人間の自らを意識しながらの精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は表層心理の思考ではどのような愛も生み出うことはできないのである。全ての愛は自我の欲望として深層心理が生み出しているのである。親は、深層心理で子を愛しているから、自宅が火事の際には、自分の命が失われることを省みずに、我が子を救うために、燃え盛る家の中に飛び込んでいくのである。人間は、自らを意識した表層心理の思考では、自分の命を失う行動は選択するはずがないのである。すなわち、この献身的な行動は親を主体にした深層心理が生み出したものなのである。しかし、この親の自らの命を省みずに子の命を救おうとする愛は母・父という自我を失う辛さから保身欲が生み出したものなのである。しかし、学校でいじめ自殺事件があると、いじめていた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺の原因が我が子のいじめだとされると、家族という構造体が傷付けられ、親という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が阻害されるからである。さらに、子供の育て方が方が間違っていたのではないかとマスコミや周囲の人々から批判され、承認欲が阻害されるからである。また、校長や担任教諭も、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切だという保身欲から事件を隠蔽するのである。さらに、生徒の指導方法が間違っていたのではないかとマスコミや周囲の人々から批判されるかもしれないという承認欲が阻害される可能性があるから事件を隠蔽するのである。さて、愛する子のために献身的に行動するのが、家族という構造体の中で母・父という親としての自我を持った人たちのあり方であるが、愛する人のために献身的に行動するのが、カップルという構造体の中で恋人という自我を持った人たちのあり方である。運命の人、赤い糸で結ばれているという言葉がある。言うまでもなく、恋人との深い繋がりを意味する。
愛し合うという現象は、互いに、相手に唯一の恋人として認め合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。互いに恋人と認め合えば、互いに共感欲を満足させることができるのである。しかし、恋愛関係が成立していても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。必ず、未練が残り、辛い気持ちになる。それは、愛し合うという関係が崩壊することによって共感欲が阻害され、カップルという構造体が消滅し恋人という自我を失うことによって保身欲が阻害され、もう相手から恋人として見られないということで承認欲が阻害され、相手の愛を独占できなくなり支配欲が阻害されるからである。失恋の辛さから、相手に付きまとい、よりを戻そうとする者も現れるのである。ストーカーの誕生である。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、中には、相手に嫌がらせをしたり、相手を襲撃したり、相手をを殺したりしたりして、辛さから逃れようとする者もいるのである。深層心理は、カップルという構造体が破壊され恋人という恋人いう自我を失うことの屈辱感、辛いという感情を生み出し、人間にかくも愚かなことを行わせるのである。もちろん、人間は、超自我の機能や表層心理の現実原則に基づいての思考によってストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した屈辱感、辛い感情が強過ぎると、超自我や表層心理での抑圧は深層心理が生み出したストーカー行為の指令を止めることができないのである。超自我とは、深層心理に内在する、欲動の保身欲から発した、日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能である。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。深層心理が生み出した屈辱感、辛い感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出したストーカーの行動の指令を抑圧できないのである。その場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかを審議することになる。人間は、表層心理で、自我の状況を意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか考えるのである。現実的な利得を求めるとは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという志向性で考えることである。それを、フロイトは現実原則と呼んだ。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、自我の状況を意識し、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、自我にどのようなことが生じるかを、現実的な利得を得ようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。もちろん、人間は表層心理で思考して、意志によって、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した屈辱感、辛い感情が強過ぎると、表層心理の思考でも、深層心理が生み出したストーカーの行動の指令を抑圧できないのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出したストーカーとしての行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、ストーカー行為を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した屈辱感、辛いの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、屈辱感、辛い感情を生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続き、屈辱感、辛い感情が去るのを待つしかないのである。それほど、深層心理の感情が人間の行動を左右するのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいという心境から逃れるために、苦悩の原因となっている問題を解決しようとするのであるが、苦しいという感情から逃れられることができれば、苦悩の原因となっている問題を解決しようがしまいが、気にならないのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが唯一の目的だからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの感情という情態が大切なのである。それは、深層心理は、常に、快楽を追い求め、不快感を忌避しているからである。さて、現在、世界中の人々には、皆、愛国心がある。世界は国という構造体で区分され、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。それは、深層心理に内在する、自我を確保・存続・発展させたいという欲動から発した保身欲によって起こされているのである。社会生活を送るためには、何らかの国という構造体に所属し、国民という自我を得る必要があるのである。言い換えれば、人間は、何らかの国という構造体に所属し、国民という自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している国という構造体、現在持している国民という自我に執着するのである。それは、現在の国民という自我が消滅すれば、新しい国民という自我を獲得しなければならず、現在の国という構造体が消滅すれば、新しい国という構造体に所属しなければならないが、新しい国民という自我の獲得にも新しい国という構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。国民という自我あっての現代の人間であり、国民という自我なくして現代の人間は存在できないのである。だから、現代においては、誰しも、愛国心を持っているのである。つまり、世界中の人々が、国という構造体と国民という自我にプライドを持っているのである。
だから、自国のすばらしさを他国の人々に認めてほしいという承認欲から、ワールドカップやオリンピックで自国チームや自国選手を応援するのである。政治権力者は、国民を思うように動かしたいという支配欲、自らの存在を自国民や他国民に認めてほしいという承認欲から戦争をするのである。愛国心と言えども、単に、国民という自我を愛している自我の欲望に過ぎないのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、愛国心が生じ、国民の愛国心を利用して政治権力者は戦争を引き起こし、愛国心にとらわれた国民は、戦場において、深層心理に動かされ、自我の欲望を満たすために、拷問、虐殺、レイプを行ってしまうのである。政治権力者、国民、共に、深層心理が生み出した愛国心という自我の欲望に従順である限り、この世から、戦争は無くならないのである。このように、愛には様々な形態があるが、全て、自我の欲望から発していることを肝に銘じて分析していかない限り、愛による惨劇、悲劇は無くならないのである。