あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の手による、神・仏の捏造(自我その44)

2019-02-28 14:57:08 | 思想
人間は、誰一人として、あの世に行ったことがなく、神や仏を見たことがない。それは、当然のことである。誰一人として、一度も死んだことがないからである。しかし、世界中、ほとんどの人間は、あの世の存在を信じ、神や仏の存在を信じている。そして、あの世や神や仏の存在を信じていない者に対して、無神論者だと言って、非難する。無神論者は、中世のキリスト教世界やイスラム教世界では、迫害され、火あぶりの刑などに処された。現代でも、疎んじられる。これは、笑止千万のことであるが、人間世界とはこういうものである。なぜ、人間は、あの世や神や仏を創り出したのか。それは、人間の存在が、不安だからである。人間は、誰しも、自分がいつか死ぬことを知っている。死ぬのが不安だから、あの世を創り出し、そこに住む、神や仏を創り出したのである。何が恐いのか。死ぬと自分の自我が失われるのが恐いのである。自分の肉体が失われるのを恐がっているのではない。自分の肉体が失われのを危惧していれば、火葬などは許さないだろう。死の苦しみが恐いからではない。老衰死や安楽死には死の苦しみはない。癌も、手術や抗がん剤などの無駄な抵抗をしなければ、苦痛の時はモルヒネなどの薬剤で緩和し、安らかな死を迎えられる。やはり、自我を失うことが恐いのである。それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体の中における自分のポジションである。それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の集合体である。例えば、国、会社、高校、家族、仲間たち、カップルなどがある。そして、その構造体には、それぞれポジションがあり、そのポジションに就くことを自他共に認めれば、それが自我になるのである。人間誰しも、毎日、自分に与えられたポジションを自我として行動しているので、自我に執着し、それを失うことに不安を覚えるのである。例えば、日本という構造体には日本人というポジションがあり、それを自我として生きる人がいて、高校という構造体には校長、教諭、生徒というポジションがあり、それを自我として生きる人がいて、栗原家という構造体には父、母、息子、娘というポジションがあり、それを自我として生きる人がいて、仲間という構造体には友人というポジションがあり、それを自我として生きる人がいて、カップルという構造体に恋人というポジションがあり、それを自我として生きる人がいるのである。さて、戦前のことであるが、戦争に反対した、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二などの社会主義者、無政府主義者、共産主義者のグループ、灯台社のキリスト教者のグループ、自由主義者のグループの方が正しかった。幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二などは、死を賭して反対した。共産党員などは、国会議員を含めて、八十人以上の者が、特高などの拷問で殺されている。しかし、大衆は、政治家・軍部指導者の言うままに、戦争に参加した。特に、太平洋戦争などでは、予科練出身や学徒出陣の若者たちが、特攻隊員となって「靖国で会おう」と言って悲劇の死を迎えたのは、政治家・軍部指導者の与えた「天皇の赤子」という、天皇に繋がる権力者への絶対服従という日本人という自我が彼らの心に埋め込まれていたからである。言わば、正義が自我に敗北したのである。高校でいじめがあっても、校長や教諭は、校長、教諭という自我を守るために隠蔽するのである。また、仲間のいじめに加担するのは、友人という自我を守るためである。栗原家では、父の勇一郎が娘の仁愛さんを虐殺したのは、仁愛さんが父と慕ってくれなかったからである。父という自我が精神年齢の低い勇一郎に殺人という罪を犯させたのである。そして、誰しも、全ての自我が奪われる時がある。それは、死を迎える時である。それゆえに、人間は、死を不安に思い、あの世を創り出して、死後も自我があの世で生き続けることを想定したのである。そして、あの世の存在を保証し、あの世での自我の存続を保証するものとして、神や仏を創り出したのである。ほとんどの人間にとって、最も大切な自我は、家族という構造体における祖父、祖母、父、母、息子、娘という自我であるから、葬儀は一般に家庭で営まれるのである。もっとも、仏は、仏教の本質的な教えでは、人間が修行をして、煩悩を取り去った聖者を意味するが、いつの間にか、仏様という言葉があるように、あの世で、生前の自我を持った死者を迎える優しい存在になったのである。また、誰でも死んだら仏になるという解釈もあるが、この仏も生前の自我を有しているのである。いずれにしても、現代の仏教の教えでも、キリスト教やイスラム教などの他の宗教と同じく、あの世が存在し、死者は、あの世で生前の自我を持して生きているのである。このように、人間は、死んで、自我が失われるのが恐いから、あの世を創り出し、神や仏を創り出したのである。

戦場とは人間の欲望がそのまま現れる場である(自我その45)

2019-02-27 15:52:13 | 思想
人間は、決して、美しい生き物ではない。誰一人として、いつも、美しい気持ちを持っているわけではない。美しい気持ちとは、人に対して優しい言葉を掛けたい、親切にしたい、助けたいなどの欲望である。全ての人間は、何らかのやましい気持ちを懐く時がある。常にやましい気持ちを持っている人も存在する。やましい気持ちとは、人に対して文句を言いたい、殴ってやりたい、殺したい、、浮気心を懐くなどの欲望である。しかし、たとえ、やましい気持ちを懐くことを阻止しようとしても、誰一人してできない。美しい気持ちをいつも持っていようとしても、誰一人としてできない。なぜならば、意志によって気持ちが生まれてくるわけではないからである。この美しい心、やましい心を含めて全ての欲望は、我々の深層心理から生まれてくるからである。深層心理が全ての欲望を生み出しているのである。意志は深層心理には及ばない。そこで、意志を表層心理と呼ぶのである。我々ができることは、意志(表層心理)で、美しい気持ち(深層心理の生み出した欲望の一つ)は実行し、やましい気持ち(深層心理の生み出した欲望の一つ)は心の中で抑圧し、実行を阻止することである。敬虔なキリスト教徒の既婚の男性が、司祭に、「私は妻以外の女性に恋心を懐いてしまいました。」と懺悔し、神の許しを請うことがあるが、彼は決して浮気症の男性ではない。妻以外の女性に恋心を懐いてしまったことは、彼の深層心理が為したことであり、彼の意志とは関わりがない。だから、彼の罪ではない。彼は、この恋心を抑圧し、実行に移さなければ、彼に何の罪もない。もっとも、司祭に懺悔するくらいだから、既に抑圧は始まっていると言って良い。しかし、人間には誰しも深層心理が存在するので、敬虔なキリスト教徒の既婚の男性の懺悔は永遠に続くだろう。しかし、どれだけ抑圧しようと思っても、深層心理が強過ぎれば、抑圧しきれず、やましい気持ちを実行してしまうこともよくあることである。さて、それでは、なぜ、人間は自分の欲望を抑圧しようと思うのか。それは、その欲望を実行すると、周囲から冷たい目で見られたり、逮捕されたり、時には、殺されたりするからである。このような、他の人の視線を気にする人間のあり方を対他存在と言う。フロイトの思想に、エディプスコンプレックスというものがある。幼い男児は、母親に恋愛感情を懐くが、父親の妨害に遭い、この家で生き延びるために自分の気持ちを抑圧し、その後男性として父親のまねをして生きていくということである。さて、幼い男児が母親に恋愛感情というやましい感情を懐いても、それは彼の深層心理のなすことだから、彼の罪ではない。また、父親の存在があったから、彼はその家に生き延びるために、自らの欲望を抑圧したのである。彼の対他存在がうまく機能したのである。そして、この世で、対他存在が最も強く機能するのが戦場である。戦争とは、言うまでもなく、敵と味方と分かれて殺し合うことである。兵士は、上官の視線を気にして、どんな命令にも従うのである。そうしないと、自分は、軍法で裁かれるからである。しかし、逆に、この世で、対他存在が最も機能しないのも戦場である。言うまでもなく、兵士には、敵兵が自分をどのように思っているか考えない。兵士には、憎しみだけしかない。自分が殺されるかも知れないという、敵兵に対する憎しみしかない。そして、敵兵に対する憎しみがなければ、殺せないのである。そこに、敵兵の視線を思い遣ることは全く存在しないのである。それが戦場である。戦場とは、人間の欲望がむき出しになる、残酷な場所である。だから、人間は戦場に立ってはいけないのである。

日本の大衆はいつまで愚かなのか(自我その43)

2019-02-27 10:03:45 | 思想
19世紀のドイツの哲学者のニーチェは「大衆は馬鹿だ」と言った。それから2世紀経っているのに、世界の大衆は賢くなっていない。馬鹿のままでいる。それは国民という自我に囚われているからである。20世紀という世紀は戦争の世紀であり、世界の大衆は歴史上最も愚かな状態にあり、最も国民という自我に囚われていた。しかし、現在も全く改善されていない。愚かな状態にあり、馬鹿のままである。しかし、日本の大衆も例外ではない。日本人という自我に囚われていて、愚かな状態にあり、馬鹿のままである。さて、江戸時代までは、日本に住んでいる人々には、日本人という自我はなかった。江戸時代は、農民は村民としての自我を持ち、商人は町民としての自我を持ち、武士は藩士としての自我を持っていた。自我を持つとは、自らが所属する構造体とそこでの自らのポジションを、自他共に認めることである。そして、人間は、自我を持つと、誰しも、自らが所属する構造体とそこでの自らのポジションを、他の人から、認められ、高く評価されることを欲望する。なぜならば、その欲望が満たされると、大きな感動が得られるからである。だから、江戸時代、農民は他の村や村民と張り合い、商人は他の町や町民と張り合い、武士は他の藩や藩士と張り合ったのである。しかし、それは、言わば、コップの中の嵐であり、幕府もしっかりとしていたこともあり、戦争に発展するようなことはなかった。しかし、自我を持った人間の中には、その自我の欲望を満たそうとするあまり、常軌を逸した考えを持ったり常軌を逸した行動を取ったりすることを、意に介さなかったり良しとする考える者が現れることがある。それが自我に囚われた人間である。その典型がヒットラーである。ヒットラーはドイツ人という自我の欲望を満たそうとして、戦争を起こし、ユダヤ人を虐殺したのである。日本でも、明治時代になると、欧米諸国と同じように、日本人という自我の欲望を満たそうとするあまり、戦争を辞さない若しくは戦争を目的とした、常軌を逸した考えを持ったり常軌を逸した行動を取ったりする者が現れてきた。それが権力者たちの群像であった。そもそも、明治政府の権力者たちは、尊皇攘夷を掲げて、徳川幕府を倒した者たちであるが、彼らには、幕末から、日本人という自我を持っていた。彼らは、既に、日本人という自我を持っていたからこそ、明治政府という四民平等の体制を築き、日本を一国にしたのである。廃藩置県という制度は、おらが国の藩という小さな国を廃止して、日本という大きな国にした制度である。明治初期の佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争は、皆、武士たちが武士という自我を守るために引き起こした戦争であった。言わば、武士という自我を守る者たちと日本人という自我を守る者たちの戦争であった。しかし、多勢に無勢、武士たちに勝てる要素はなかった。しかし、彼らはそれを知りながらも、反乱を起こしたのである。それほど、自我が人間を動かすのである。さて、明治政府の権力者たちは、明治政府という体制を創設するだけでは、国を動かすことができないことはわかっていた。それだけでは、仏作って魂入れずの状態であるこることはわかっていた。魂を入れる必要があった。魂とは、国民に日本人という自我を持たせることであった。それに、まず利用したのが、天皇である。彼らは、「天皇は万世一系である」(天皇家は永遠に同一の系統が続いている)、「国民は天皇の赤子(あかご)だ」(天皇陛下は親であり、国民一人一人はその子供である)と言って、大衆に、日本人という自我を持たせた。新政府になって不安だった国民は、天皇を中心に国がまとまり、自分もその一員として認められていると思い、喜んで、日本人という自我を持つことができた。そして、明治の権力者たちは、徴兵制を導入し、国民皆兵にし、現在の北朝鮮・韓国である李氏朝鮮や現在の中国である清に攻め入った。もちろん、李氏朝鮮や清を攻略したのは、領土獲得や資源獲得などの経済的な面も大きいが、日本人という自我を持たせるということも大きな目的だった。戦争をすると、敵味方がはっきり分かれ、味方には同胞意識を持つようになるからである。これほど強い日本人という自我による結びつきはないからである。李氏朝鮮や清に攻め入ったのは日本だけではなく、欧米諸国も同罪であるのに、なぜ、日本人だけが、現在も、中国人や韓国人や朝鮮人に恨まれているのか。それは、欧米諸国は経済面だけの収奪に終わったが、日本だけが経済面の収奪とともに、日本人という自我を中国人や韓国人や朝鮮人に認めさせ、高く評価されようと思い、残虐な行為を行ったからである。日本人という自我を無理に認めさせ高く評価されようとすれば、中国人や韓国人や朝鮮人にも自国民の自我があるから、抵抗する者がいる。そうすると、拷問したり、残虐な殺し方をしたり、レイプしたりする。いや、抵抗しなくても、拷問したり、残虐な殺し方をしたり、レイプしたりする。慰安婦問題や徴用工問題はこの氷山の一角である。挙げ句の果てに、太平洋戦争を起こし、アメリカに完膚なきまで叩きのめされてしまった。日本人という自我に囚われたことによる悲劇、惨劇である。それでは、いつから、日本人は、日本人という自我に囚われてしまったのか。それは、明治初期からである。明治政府の権力者たちが、国民は天皇の赤子だと言い、李朝朝鮮を攻め、日本人に日本人という自我を持たせた時から始まっている。彼らは、まんまと、国民に日本人という自我を持たせ、それに囚われるようにすることに成功したのである。大衆は、太平洋戦争が終了するまで、権力者が用意した、日本人という自我に囚われていた。太平洋戦争を起こした、東条英機が作成した「戦陣訓」には「生きて虜囚の辱めを受けず」(捕虜になるような恥ずかしいことをするな)という項目は、多数の無駄死にを生み出した。そして、権力者たちは、敗軍の将になるのを嫌がり、自らの自我を守るために、「自分も後に続く」と言って、若者をだまして、幾千もの兵士を特攻に追いやり、殺した。実際に、自決したのはわずかである。戦後、生き残った大勢の権力者たちは、特攻の責任を自決したわずかな者たちに押しつけ、特攻隊員たちは勇敢にも自ら志願したと言って、責任転嫁している。戦後、大衆は賢くなったか。賢くなっていない。戦後の大衆の多くも、戦前の大衆と同じように、中国、韓国、北朝鮮を敵視している。日本人という自我に囚われているのである。そのために、自民党議員や官僚たちと同じように、アメリカを頼りにしている。したたかなアメリカは、日本と安保条約、地位協定を結び、密約を取り決め、国会にも報告義務のない月二回の定期的な日米合同会議で、ただ同然に日本から基地を提供してもらい、基地の駐留費の七割を日本に持ってもらい、核の配備や持ち込みは自由で、基地からいつでも他国に攻撃にも行け、自衛隊とアメリカ軍の合同軍の指揮をアメリカ軍人が執り、アメリカ軍人の日本の出入りは自由であると取り決めている。日本は完全にアメリカの言いなりである。アメリカの家来である。しかし、大衆の多くは、それに気付かず、気付いても意に介さず、逆に、中国、韓国、北朝鮮に理解を示す人を反日だと言って、非難する。自分たちの言動が、むしろ、反日だということに気付いていないのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」という言葉が、今でも、説得力を持っている。

反日という言葉を使う人とストーカーの心情の同一性(自我42)

2019-02-25 12:16:47 | 思想
日本人ならば、誰しも、愛国心がある。だから、オリンピックやワールドカップで、日本チームや日本人選手を応援するのである。もちろん、アメリカ人、韓国人、中国人、ロシア人、イギリス人など、世界各国の国民も、自国チームや自国選手を応援する。どの国に住んでいようと、その国に対する愛情、つまり、愛国心があるのである。現代のように、世界が国ごとに明確に分けられていると、各国民は、自らの国の存在を他国の人々に知られることを願い、自国に執着するのである。自らが所属している国の存在を他国の人々も知られると、自分の存在が知られたように思い、嬉しくなるのである。だから、自国に執着し、自国に愛情を持つのである。それが、愛国心である。だから、愛国心を持つとは、すばらしいことでも、ひどいことでもない。現代の人間ならば誰でも持っているものなのである。だから、日本人ならば、誰しも、愛国心があるのである。反日の日本人は、一人も存在しないのである。反日とは、日本または日本人に反感を持つことを意味するからである。ただし、日本に対する愛国心は同じでも、さまざまな形の愛国心がある。それは、もちろん、愛国心の深浅ではない。愛国心があっても、同じ日本人だと言っても、日本に対するイメージが異なることがある。それは当然である。日本人は選ばれてなったのではなく、そこに住んでいるから日本人になったからである。例えば、日本の過去に対するイメージ、日本の現在に対するイメージ、日本の将来に対するイメージに異同がある。より具体的に言えば、太平洋戦争に対する評価、現在の安倍政権に対する評価、中国や韓国に対する外交政策、アメリカに対する外交政策、来年の東京オリンピックに対する評価などに対して、さまざまな意見がある。ところが、反日という言葉を使う人は、自らと異なった意見を言う人を反日だと批判して、排除しようとする。反日という言葉を使う人の共通の考えは、太平洋戦争に対する肯定的評価、現在の安倍政権に対する肯定的評価、中国や韓国に対する強行外交政策、アメリカに対する友好(隷属)外交政策、来年の東京オリンピックに対する肯定的評価である。彼らは自らと異なった意見を認めず、許さない。彼らは、自分が、日本を最も深く愛し、最も深く理解していると考え、自分と異なった考え方をする人を排除しなければならないと考えている。そして、自分の思い通りにならなければ、日本は滅んでも良いと考えている。実際に、彼らが支持する太平洋戦争の指導者たちは、敗戦だとわかった時でも、自分たちが理想とする国体維持(天皇制維持)のために、一億総玉砕を叫んで戦いの続行を求め、国民の命を無駄にしようとしたのである。それは、全く、ストーカーの心情と同じである。ストーカーになった男性も、自分がこの世で彼女を最も深く愛し、最も深く理解していると思っている。そして、自分の気持ちを理解しないで邪魔をする、彼女の友人や家族を危害を加えてまで排除しようとし、時には、彼女自身に危害を加えてまで彼女の心を取り戻そうとし、それが叶わない時は、彼女を殺そうとまでする。これは、恋人いう自我に囚われた人の悲劇、惨劇である。しかし、それは、当然の帰結なのである。自我に囚われた人は、必ず、何らかの悲劇、惨劇を引き起こすのである。

自我には正義も良心も思想も通用しない(自我その41)

2019-02-24 14:48:36 | 思想
我々は、いついかなる時でも、ある構造体の下で、自我を持って生きている。そして、その構造体と自我が、他の人から認められ高く評価されることを目標として生きている。自我とは、自らが所属する構造体における自らのポジションである。たとえば、日本という構造体に所属する人には、日本人という自我がある。恋愛関係という構造体に所属する男女には、恋人という自我がある。家族という構造体に所属する人には、父、母、息子、娘という自我がある。グループという構造体に所属する人には、仲間・友人という自我がある。さて、我々は、自ら自我をもって生きていると思っている。確かに、我々には、常に自我が存在する。しかし、主体的に持っているのではない。持たされているのである。そして、誰しも、自我を拒否できない。自我を拒否すれば、人間として、自分の生き方がわからず、誰にも相手にされず、社会生活を営めなくなる。つまり、我々は、いついかなる時でも、自我によって動かされて生きている。そして、人間の幸不幸は、この自我によって引き起こされる。しかし、自我によって引き起こされた幸福は説く者はいても、不幸もまた自我によって引き起こされていることを指摘する者はいない。それでは、なぜ、自我が不幸を引き起こすのか。それは、自我には正義も良心も思想も通用しないからである。なぜならば、自我は深層心理によって動かされているからである。日本という構造体に所属する人には日本人という自我があるのと同様に、中国、韓国、北朝鮮という構造体に所属する人には、中国人、韓国人、朝鮮人という自我がある。しかも、明治以来の戦争において、中国、韓国、北朝鮮は日本に侵略された歴史があるから、彼らは日本や日本人をライバル視している。それゆえに、領土問題などで国同士の意見が異なると、過激な抗議行動を取る。かてて加えて、安倍晋三首相を中心とする、アメリカに積極的に隷属している、似非右翼は、先の戦争を正当化しているから、両者の自我が衝突して、収拾のめどが付かない。自我には正義も良心も思想も通用しないのである。恋愛関係という構造体を形成している男女は恋人という自我を持っているが、一方が別れを告げたらどうなるだろうか。振られた人は、必ず、苦悩する。なぜならば、相手から恋人という自我を認めてもらえなくなったからである。振られた人は、相手を憎み軽蔑し、相手を下に見ることによって、その苦悩から逃れようとする。それでも、苦しみから解放されない者は、ストーカーに走る。もちろん、その人は、自分のやっている行為が悪いことだとわかっているが、心の底から湧き上がってくる思いを止めることができないのである。表層心理でわかっていても、深層心理の思いが強ければ、止めることができないのである。家族という構造体を形成している父という自我を持っている者が、娘から嫌われたらどうなるだろうか。必ず、苦悩する。なぜならば、家庭では、常に、娘から父という自我を認めてもらいたいと思って暮らしているからである。正常な父は、いろいろと考え、努力して、娘に気に入られようとする。異常な父は、暴力によって、娘に父と認めさせ、父という自我を満足させようとする。心の底から湧き上がってくる怒りや憎しみがそのようにさせるのである。たとえ、表層心理で悪いとわかっていても、深層心理の思いが強ければ、止めることができないのである。それが、千葉県野田市で起きた、父の娘への暴行死の悲劇である。グループという構造体を形成している人は仲間・友人という自我を持っているが、グループのメンバーの一人に嫌いな人がいて、いやがらせをしていたらどうなるだろうか。他のメンバーも加担するだろう。仲間・友人と認めてもらい、自我を守りたいからである。それがいじめである。そして、学校も教育委員会もいじめの加害生徒の母親たちもいじめの事実を認めないのも、校長、教師、教育委員、母の自我を守るためである。つまり、自我には正義も良心も思想も通用せず、自我は深層心理によって動かされているのである。「なぜ悪いとわかっているのにやめないのだ。」と注意する者は多い。しかし、彼らは。自我とそれを動かす深層心理の存在に気付いていない。自我のあり方、そして、それに伴う深層心理のあり方を変えない限り、人間の不幸はとどまることはないだろう。