あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

なぜ信者は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)から離れられないのか。(自我その530)

2022-08-03 13:19:56 | 思想
オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の五人の実行犯のうちの一人に林郁夫という人がいる。彼はオウム真理教という教団の幹部であるが、改悛の情が強く、捜査に積極的に協力したという理由で、実行犯の中で、唯一、無期懲役判決が下った。彼は、刑務所の中で、地下鉄サリン事件を何度も何度も振り返って考えた末に、「誰でも、自分の立場だったら、同じように実行していたと思う。」と結論を出し、語った。これがテレビで報道されると、多くの人は、この言葉を言い訳として捉え、「反省していない。」と言って、非難した。しかし、彼は究極の反省の末に、このような結論に達したのである。彼は教団の幹部であったが、おそらく、たとえ、一般信者であったとしても、サリン散布を断ることはできなかっただろう。オウム真理教教団の信者であるという自我を守るために、教祖の麻原彰晃の命令を遵守したのである。オウム真理教という構造体に所属し、信者という自我を持った時から、自我を守るためには、教祖の麻原彰晃の命令に従うしか無いのである。それほどまでに、林郁夫は、オウム真理教という構造体から追放され、信者という自我を失うのを恐れたのである。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という構造体に所属し、信者という自我を持っている者たちも同じである。彼らは、霊感商法などのいかがわしい方法で一般の人に高額に品物を売りつけ、一家が破産するまでに本部に献金するのは、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という構造体から追放され、信者という自我を失うことの恐怖からである。間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体に所属して、自我を持って暮らしているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性、そして、教団などがある。国という構造体では、国民という全体の自我があり、総理大臣・国会議員・官僚・庶民などという個別の自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我、そして、教団という構造体では、教祖、信者などの自我がある。だから、人間は、自らを自分と称するが、自分は自我の総称であって、固定していない。なぜならば、人間は、構造体に応じて、異なった自我として生きているからである。人間は、所属する構造体ごとに、異なった自我になるのである。すなわち、所属する構造体が自我を決定するのである。たとえば、、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持ち、そして、オーム真理教という構造体では信者という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持ち、そして、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という構造体では信者という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、家族という構造体では母、父という自我を所有しているが、他の構造体では、日本国民、妻、夫、教諭、人事課長客、乗客、妻、そして、信者などの自我を所有して行動しているのである。しかし、息子や娘は母、父という一つの自我しか知ることができないのである。人間は、その構造体における他者の自我しか理解できないのである。他者の一つの自我しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。しかし、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、その時、所属している構造体に応じて、自我を答えるしかないが、他の構造体では、異なった自我を所有しているのである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、各構造体は独立していているから、その人の一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。しかし、ほとんどの人は、自らは自分として固定して存在しているように思っているのである。しかし、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。それは、他者もその人の自我として存在し、他人もその人の自我として存在していることを意味するのである。だから、人間関係は自我の絡み合いの中で行われ、誰も、自分として動いていないのである。なぜ、そうなのか、それは、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、親を選んでいないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。しかし、親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。生まれてきた子の父、母を自我として生きるしか無いのである。また、人間は、誰しも、生まれてくる時代も選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その時代に存在しているのである。だから、現代日本人は、誰しも、藩という構造体に所属できず、武士という自我を持つことはできないのである。さらに、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持っているのである。だから、人間は、誰しも、自らが存在していることの不安を覚える時があるのである。そこで、その不安を打ち消すために、ますます、人間は構造体と自我に執着するのである。しかし、構造体は他者が創造したものであり、自我は他者から与えられたものであるから、構造体が消滅し、自我が奪われる不安は拭えないのである。一生、その不安が付きまとうのである。人間は、偶然に生まれてきているから、一生、自我が奪われる不安が付きまとうのである。だから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。林郁夫は、オウム真理教教団に所属し、信者という自我を得、さらに、治療省大臣という幹部に発展させ、教祖の麻原彰晃や他の信者に認めてもらうために、地下鉄でサリンを撒いたのである。たとえ、オウム真理教教団という構造体の中で、林郁夫にこっそりとサリン散布を止めるように忠告していた信者としても、彼は、サリン散布を断ることも教団から逃げ出すこともしなかっただろう。しかし、それは、殺されることの恐怖だけではない。サリン散布を断れば、教団内で、よくあったように、リンチされ、殺される可能性が高い。逃亡すれば、追いかけられ、捕らわれ、殺される可能性が高い。逃亡のあげく、捕まって、殺された者はいる。しかし、逃げおおせた者もいる。サリン散布を断ることや教団から逃げ出すことの恐怖は、殺される恐怖以上に、今まで所属していたオウム真理教教団という構造体から離れ、信者という自我を失うことの恐怖が大きかったのである。所属していた構造体から離れ、得ていた自我を失うと、その後、激しい空虚感、絶望感に襲われるのがわかっているから、それが恐いのである。何をやって良いかわからなくなることが恐いのである。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の信者たちも同じである。所属していた世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という構造体から離れ、得ていた信者という自我を失うと、その後、激しい空虚感、絶望感に襲われるのがわかっていて、それが恐いから、悪いことをしているとわかっていても離れることができないのである。しかし、それでも、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)から離れる信者が存在する。それには、自発的なものと他からの働きかけによるものがある。前者は、ある時、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の教理に矛盾を覚え、それが、次第に増幅し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の信者でいることが堪えられなくなった人である。後者は、家族という同じ構造体の者から説得され、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)から離れても、空虚感、絶望感を味わないで済むように思えた人である。いずれにしても、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という構造体で信者という自我で活動していた時間を、他の構造体での自我の活動で代替させなければ、不可能である。最も有効なのは、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という構造体を破壊するか、宗教法人という資格を剥奪することである。そうすれば、必然の結果として、信者という自我のものが存在しなくなるからである。しかし、国会で絶対多数を占めている自民党は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と同じ思想を持ち、選挙の際に、信者から無償の援助を受けているから、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という構造体を破壊することにも宗教法人という資格を剥奪することにも頑強に抵抗し、それらは実現しないだろう。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は日本を韓国の従属国家と見なし、信者をいかがわしい商法で悪行に染めさせて献金させ、家庭が破産するまでに全財産を献金させ、借金をさせてまで献金させ、日本の若い独身信者を合同結婚で韓国人と無理矢理結婚させて、日本人を食い物にしているのに、右翼思想の自民党がこの教団と結託して活動しているとは、何ということだろう。