あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

感情・気分の奥なる力(自我その222)

2019-09-26 17:02:24 | 思想
人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きている、自分のあり方である。人間は、社会的な動物であるから、いつ、いかなる時でも、常に、人間の組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように生きていかざるを得ないのである。さて、構造体にも、自我にも、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。日本という構造体には、日本人という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。そして、自我を動かすのは、その人の深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。深層心理が、自我を主体に、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。深層心理は、快楽を得ることを目的にして、自我の欲望を生み出しているのである。それが、フロイトの言う「快感原則」である。深層心理は、自我を主体にして、快楽を得るために、対他化・対自化・共感化の機能を使い、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。それでは、対他化とは何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるからである。次に、対自化とは何か。対自化とは、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。わがままに生きるとは、深層心理の自我の対自化による行動である。次に、共感化とは何か。共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。そして、深層心理は、自我が存続・発展するために、さらに、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。このように、人間は、まず、自ら意識せずに、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。そして、次に、表層心理が、深層心理の結果を受けて、それを意識し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動である。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。表層心理の意識した思考が理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。これが、フロイトの言う「現実原則」である。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。このように、人間は、深層心理の思考から始まるのである。表層心理(理性)の思考は、深層心理の思考の結果を受けてのものなのである。さて、ハイデッガーは、「人間は、常に、何らかの感情や気分の中にあり、それが、自分の外の状態を知らしめ、自分の内の状態を知らしめるとともに、自分の存在を認識させるのである。」と言う。感情とは、深層心理がもたらした、すぐに、一つの行動を起こすための心理状態である。気分とは、深層心理の中にある、長期の、一連の、継続した行動を起こすための心理状態である。つまり、感情も気分も、深層心理が引き起こした、行動を起こすための心理状態なのである。さて、人間が常に何らかの感情や気分の中にあるということは、人間は常に何らかの情態性にあるということである。情態性は、単なる心の状態ではない。人間は、情態性にあるから、それに応じて、いろいろな事象が認識でき、自分の状態が認識でき、自分の存在が認識でき、そして、行動を起こすことができるのである。逆に言えば、人間に情態性が無ければ、いろいろな事象も、自分の状態も、自分の存在も無味乾燥になり、何も認識できず、行動を起こすこともできないだろう。情態性が、人間と人間の外なる現象を結びつけ、人間と人間の内なる現象を結びつけ、人間とその人の存在を結びつけ、行動を起こさせるのである。つまり、感情や気分が、人間の認識の起因であり、行動の起因なのである。つまり、感情や気分が無ければ、人間は、自己の外の現象も自己の内の現象も自己そのものの存在も認識できず、行動できないのである。その典型が、不安という気分の情態性である。人間は、常日頃、周囲に死者が出ても、いつか自分も死ぬだろうが、まだ、それは先のことだとして、自分にも死が確実に訪れるということを考えることを回避している。しかし、ある時、自分にも確実に死がやって来るのだと思う時や死を引き受けねばならぬ時がやって来る。死は回避できない、確実に自分にすぐにやって来るも思ったり、死を目前にした時、人間は、不安の情態性に陥る。人間は、不安に陥ると、自己そのものも、自己の内外の現象も、自己から滑り落ち、全く、行動を起こす気がしなくなる。言わば、無の状態に陥る。なぜ、不安の情態性に陥ると、無の状態に陥ってしまうのか。それは、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、他者から与えられたものだからである。不安の状態が、それを露見させ、無の状態におとしめるのである。ハイデッガーは、「他者(ハイデッガーの用語では「ひと」)から与えられた見方を、自分で構築した見方に変えない限り、不安の情態性、無の状態から逃れることはできない。」と言う。る。そして、ハイデッガーは、「自らの死を引き受ける覚悟、不安を辞さない覚悟を持てば、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、自分自身で、構築し直すことができる。」と言う。これが、ハイデッガーが実存主義者と言われるゆえんである。(ハイデッガー自身は、自らを、実存主義者ではなく、存在の思考者であると言っている。)さて、古来から、西洋でも、東洋でも、感情(深層心理が生み出した感情)を、理性(表層心理による思考)と対立した概念と見なし、理性が感情を克服することに人間の尊厳を見出していた。辞書は、感情について、「喜怒哀楽や好悪など、物事に起こる気持ち。精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。快い、美しい、感じが悪いなどというような、主体が情況や対象に対する態度あるいは価値付けをする心的過程。」と説明している。つまり、辞書では、感情とは、自己の外にある事象についての単なる印象にしか過ぎないのである。このような捉え方をするのならば、感情を軽視するのもうなずける。そして、理性については、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。真偽・善悪を識別する能力。古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」と説明している。現代の辞書も、古来の見方と同じなのである。まず、理性は「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」とあるが、「本能」について、心理学者の岸田秀は、「人間は、本能が壊れている。」と言っているように、人間の本能は定義できないのである。母性愛などは本能として存在しないのである。次に、「本能や感情に支配されず」とあるが、ハイデッガーが言うように、人間は、行動している時であろうと思考している時であろうと、必ず、心の奥底に、感情や気分が流れている。深層心理が、思考して、感情(や気分)と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、それを受けて、深層心理が生み出した感情(や気分)の中で、深層心理が出した行動の指令の適否を思考するのである。つまり、理性と感情は、支配・被支配の関係ではないのである。次に、理性(表層心理による思考)が「道理に基づいて思考し」ているとあるが、人間は、既に、深層心理が思考しているのである。確かに、深層心理の思考は「快感原則」の思考であり、表層心理の思考は「現実原則」の思考であるが、いずれも「道理に基づいて思考し」ているのである。次に、理性(表層心理による思考)に「判断する能力」があるとされているが、これもまた、深層心理は「快感原則」の基づいて判断し、表層心理は「現実原則」の基づいて判断し、いずれにも「判断する能力」があるのである。しかも、理性(表層心理)の思考や判断が、正しいか間違っているかを判断するのは深層心理なのである。深層心理が、理性(表層心理)の思考や判断が正しいと判断すれば、心に、満足感・納得感を生み出し、それで、思考や判断は終了するのである。深層心理が、心に、満足感・納得感という快い感情を生み出さなければ、それが生み出されるまで、理性(表層心理)の思考や判断は継続するのである。つまり、思考や判断の最終的な決定者は、深層心理の生み出した感情なのである、すなわち、深層心理なのである。次に、理性(表層心理)に「真偽・善悪を識別する能力」があるとされているが、理性は、何の動力も無く、何の前提も無く、独自で、真偽・善悪を識別することはできない。必ず、心の奥底に、感情や気分が流れているのである。深層心理が生み出した感情や気分が動力となり、理性(表層心理)が、深層心理が出した行動の指令の適否を思考するのである。表層心理(理性)が動き出すまでに、既に、深層心理が、真偽・善悪を識別しているのである。深層心理の真偽・善悪の識別が、深層心理の真偽・善悪の識別の前提になっているのである。つまり、理性(表層心理)が、白紙の状態で、真偽・善悪の識別に取りかかるのではないのである。表層心理が、深層心理の識別の結果に不安を覚えたから、理性を使い、深層心理の識別の結果を前提にして、もう一度、事象の真偽・善悪を判断するのである。不安を覚えたことが、表層心理の理性の力になっているのである。次に、理性は「古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」について、考えてみる。確かに、動物は言語を有していないから、理性を有していないのは当然である。理性とは、言語を駆使してなされる思考判断能力とされているからである。しかし、理性を有していることは、優位性を意味しない。動物は、同種を殺すことは稀れである。集団で殺し合うことはない。人間だけが、日常的に、同種を殺し、集団で殺し合う。日常的に、殺人があり、戦争があるのである。アドルノは、「理性が、第二次世界大戦を引き起こし、殺し合いをさせた。」と言っている。深層心理が、まず、思考し、怒りという感情や憎悪という気分と行動の指令を生み出し、理性(表層心理)が、怒りという感情と憎悪という気分の中で、行動の指令の適否を思考した結果、人間は、殺し合うことになったのである。つまり、理性(表層心理)が戦争の抑止にならなかったのである。ウィトゲンシュタインも、「苦悩が去ったのは、必ずしも、問題が解決されたからではない。苦悩が去れば、問題が解決されていようといまいと、問題はどうでも良いのである。」と言う。つまり、感情が理性よりも優位性があるのである。

自我の欲望と趣向性(自我その221)

2019-09-25 17:27:18 | 思想
人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体の中での、ある役割(役目、役柄)を担った、自分のポジション(ステータス・地位)である。例えば、朝起きるのは、家族という構造体であり、そこには、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体に行けば、校長・教頭・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体に行けば、社長・部長・課長・社員などの自我がある。もちろん、家族がいなかったり、在学していなかったり、働いていなかったりする者も存在するが、それは、構造体の中に、自分一人しかいないということであったり、家族、学校、会社以外の構造体に所属しているということであり、自我という、構造体の中でのある役割(役目、役柄)を担った自分のポジション(ステータス・地位)があることにおいては、家族、学校、会社の構造体に所属している者と、何ら変わらない。一人暮らしであろうと、退学の身であろうと、無職であろうと、自我は、必ず、存在する。そうでなければ、人間は、生きていけない。さて、人間、誰しも、最初に気に掛かるのは、食べることである。生存欲を満足させることである。それは、他の動物も変わらない。他の動物は、食べて生きて行くことが満足できれば、すなわち、生存欲が満足できれば、次に、子孫を残すことに向かう。しかし、人間は、生存欲が満足できても、必ずしも、子孫を残すことに向かわない。人間の性欲は、子孫を残すという目的から発揮されることは少なく、ほとんど、快楽・支配欲を満たすために使われる。人間にとって、性欲は、異性の他者(同性愛者であったとしても相手を異性の他者として見ている)に、自己の存在をアピールしようという欲望である。すなわち、性欲は、異性の他者に、自我を知らしめ、相手の心を支配することによって、快楽を得ようとすることである。セックスとは、その行為によって、相手に自我の存在を知らしめ、相手の快楽を知ることによって、相手の心を支配した証である。だから、相手の心を支配したい者は、セックスを急ぐのである。バタイユが「男性にとって、セックスとは、相手の女性が納得したものであろうと、レイプである。」と言うのは、この謂である。そして、「女性にとって、愛した男性に対してであろうと、セックスとは、売春である。」と言うことができるのである。この場合、見返りは、金銭ではなく、相手の男性の愛情である。しかし、性欲は自我の存在を知らしめるという自我の欲望であるが、自我の欲望は、性欲だけではない。むしろ、人間の欲望のほとんどは、自我の欲望なのである。しかし、生存欲は、自我の欲望ではない。生存欲は、人間にも、他の動物にも、共通して存在するからである。しかし、他の動物は、言葉を知らないから、自我を持つことができない。だから、自我の欲望は存在しないのである。確かに、他の動物も、家族のようなものを形成するが、それは、子孫を残すためだけに使われ、そこには、自我は存在しない。だから、いたずらに、他の動物たちに、自己の存在をアピールしない。自己の存在をアピールするのは、家族が破壊され、子孫を残すことに危機が生じた時である。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているが、その自我を動かすのは、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。人間は、自らの意志という意識無く、自らの無意識のうちに思考し、思考の結果、生まれてきた感情と行動の指令という自我の欲望を意識し、それを、自分が意識的に自らの意志の下で行った結果だと思い込んでいるのである。もちろん、その感情や行動の指令は自分のものである。しかし、自らの意志無く、自らが無意識のうちに、深層心理が思考し、生み出したものなのである。例えば、朝起きると、学校や会社に行くことを考えて嫌になる。しかし、我慢し、登校し、出勤する。この、学校や会社に行くことを考えて嫌になることは、自らの意志ではなく、深層心理が行ったことなのである。だから、無意識のうちに、いつの間にか、行っている思考なのである。そして、表層心理が、深層心理が生みだした感情の中で、深層心理が生みだした行動の指令を意識して思考するのである。表層心理が、登校・出勤しないと、後で困るになることを予想し、嫌だという感情を抑圧して、登校・出勤するのである。これが、表層心理による意志の働きである。しかし、深層心理が生み出した嫌だという感情が強すぎると、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理の自我の欲望のまま、登校・出勤しないことになるのである。もちろん、逆に、朝起きて、深層心理が、学校や会社に行くことを考えて、楽しく感じたならば、表層心理に意識されること無く、つまり、無意識のままに、登校・出勤してしまうだろう。なぜならば、毎日の行動であるから、換言すれば、ルーティーンだからである。ルーティーンの行動は、意識する必要が無いのである。たとえ、表層心理が、それを意識しても、登校・出勤することは、深層心理の自我の欲望によるものだと気付かず、自らの意志によるものだと思い込むだろう。なぜならば、人間は、常に、自分は自らの意志の下で自ら意識して主体的に行動していると思い込んでいるからである。さて、人間は、朝、起きると、深層心理が、学校や会社という構造体に行くことを考えて嫌になるのは、社員、生徒という自我のあり方が嫌だからである。学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしているからである。人間の深層心理は、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚する。逆に、自我の働きが、他者から認めてもらえず、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的とし、他者から、悪評価・低評価を受けることを避けるように、行動するようになる。だから、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、嫌な感情を持たせると共に学校・会社に行かないという指令を出すのである。なぜならば、人間とは、自我にこだわる動物だからである。深層心理が、自我にこだわって、構造体において、積極的に、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たし、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けるように行動させているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きている。深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いが気になるあり方を対他存在と言う。深層心理による、対他化の働きである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。このように、深層心理には、他者に対した時、他者を対他化し、その人が自分をどのように思っているかを探ろうとするのである。しかし、深層心理は、他者に対した時、対他化だけでなく、対自化する時もあり、共感化する時もある。対自化とは、他者を支配し、動かし、リードするために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探るのである。共感化とは、他者を、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。当然のごとく、深層心理の対自化の働きは、人間のあり方としては、対自存在であり、深層心理の共感化の働きは、人間のあり方としては、共感存在である。しかし、深層心理の働きとして、対他化が、対自化や共感化よりも、優先する。なぜならば、人間にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、他者の自分に対する思いが最も気がかりになってくるののである。それが、また、社会的な存在としての人間を形成するのである。深層心理の対他化の働き、つまり、人間の対他存在のあり方の特徴は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。さて、人間には、他の動物と同様に、生存欲があるが、単に、生命の維持のために食べるという行為は存在しない。食材をそのまま食べることはほとんど無い。調理し、形を変えて、食している。それは、調理されていない物には食欲が湧かず、調理されている物に対してだけ食欲が湧いてくるからである。人間にとって、食材を調理するとは、単に、生命の維持のために消化しやすくするためでなく、自然を自分の都合の良い形に変えて支配するという支配欲を満足させるのである。そして、栄養価がほとんど無くても、食べることを好む物があれば、食べることができ、生命の糧となっても、食べることを嫌いな物ができたり、実際に食べられない物ができたりするのである。生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生むのである。また、他の動物たちは、安全性が確保されれば、そこで寝ることにし、眠りに落ちることが早く、不眠症も存在しない。しかし、人間にとって、単に、睡眠欲を満たすという行為は存在しない。人間は、安全性以外に、明かりや音や温度の程度・布団やベッドの硬度・抱き枕やぬいぐるみ・添い寝者の有無などの環境が自分に合わなければ、眠ることができないのである。つまり、眠る時にも、環境を自分の都合の良いものでなければ、つまり、環境を支配していなければ、眠ることができず、体調や精神状態に安定性を求めることができないのである。ここでも、また、生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生んでいるである。また、他の動物たち、発情期が来ると、雄たちが雌をめぐって争い、勝利した雄が交尾し、雌が妊娠し、出産している。そこには、好みや恋愛などは存在しない。子孫を残すことだけが目的である。しかし、人間は、大いに異なっている。そもそも、人間には、発情期は存在しない。言わば、一年中が発情期である。しかも、妊娠中も、更年期を迎えても、性欲が存在し、セックスする。また、人間は、ただ単に、セックスするのではなく、恋愛や結婚という形態が存在し、そこに愛情という相手への思いが存在しなければ、基本的にはセックスしない。なぜならば、人間にとって、性欲とは、相手の愛情を求める気持ちであり、セックスができるとは、相手の愛情を手に入れたという支配欲を満足させることだからである。つまり、性欲とは、相手の心を支配したいという欲望なのである。さらに、人間は、異性ならば誰でも愛情や性欲の対象になるわけではなく、個々人によって、好みが異なっているのである。このように、人間には、他の動物のような純粋な欲求は存在しない。それは、全て、個々の趣向性の下で、支配欲という欲望に変換させられている。安定欲も名誉欲も支配欲である。安定欲は自分自身を支配したい、名誉欲は大衆の心を支配したいという欲望なのである。支配欲、安定欲、名誉欲などの欲望は、遠因は、生命を維持し、子孫を残すという欲求にあるが、他者に対する自我の欲望に関わって、個人の趣向性の下で、欲望が欲求を圧倒するようになったのである。人間にとって、食欲は、自然を支配したいという支配欲であり、睡眠欲は、安定した体調や精神状態を求めたいという支配欲であり、性欲は好みの異性の心を支配したいという支配欲なのである。つまり、人間にとって、純粋な欲求は無く、欲求は全て欲望に変えられ、さらに、個人の趣向性の下での支配欲に形を変えられているのである。この個人の趣向性の下での支配欲が、人間世界に、文化、学問、芸術を生み出し、発展させてきたのである


真理と仮象・誤謬(自我その220)

2019-09-24 19:46:41 | 思想
ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、人間の一生は、「人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬」を重ね続け、「仮象」を「巧みに張り巡らす」ことなのである。人間は存在の意味を有していないのに存在しているという「真理」を「深く洞察」すれば、「人間を滅ぼしかねない」ので、「知性」によって「誤謬」を「作為」し、「仮象」を「巧みに張り巡らす」しかないのである。しかし、その「誤謬」は、「人間の生に有用」であらねばならないのである。そこに、人間存在の矛盾と苦悩があるのである。さて、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」には、どういうものがあるだろうか。まず、言えることは、人間は、存在の意味を理解せずに存在しているということである。だから、「自分はどうして生まれてきたのだろう。」、「自分は何のために生きているのだろう。」と、自分の存在に対して、疑問を抱くことがあっても、誰一人として、その答えを見出すことができないのである。なぜならば、誰一人として、生まれて来たいから生まれてきたのではなく、気が付いたら、そこに存在しているからである。しかし、生まれることの許諾・拒否の意志確認が、生まれる前に行われるわけはない。なぜならば、そのような意志確認が求められるということは、既に、生まれ、存在していることを意味するからである。すなわち、誰しも、存在の疑問は、解くことはできないのである。誰しも、自分の存在の意味を理解していないのに、存在し、生きているのである。中島敦の小説『山月記』で、主人公の李徴も、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生き物のさだめだ。」と述べている。これが、人間の存在の真理なのであり、ニーチェの言う、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」の一つである。次に言えることは、人間は深層心理の動物であるということである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理の思考は、人間の無意識のうちに行われているから、深層心理は無意識とばれているのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が思考しているのである。ラカンが、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、この謂である。もちろん、ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「構造化されている」とは、論理的に思考されているということを意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使い、論理的に思考されているということを意味する。ラカンが、「構造化されている」というふうに、受動態にしたのは、深層心理の活動は、人間が、無意識の(意識していない)心の世界で、行われているからである。つまり、深層心理は、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考しているのである。深層心理が、自我を主体に、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。人間は、自ら意識せずに、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。次に、表層心理が、それを意識し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動である。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。表層心理の意識した思考が理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。これが、フロイトの言う「現実原則」である。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。このように、人間は、深層心理の思考から始まるのである。表層心理の理性や主体的な思考は、深層心理の思考の結果を受けてのものなのである。これが、人間の心の動きの真理であり、ニーチェの言う、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」の一つである。次に言えることは、人間は、自我に取り憑かれた動物だということである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きている、自分のあり方である。人間は、社会的な動物であるから、いつ、いかなる時でも、常に、人間の組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように生きていかざるを得ないのである。さて、構造体にも、自我にも、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。さて、自我を動かすのは、その人の深層心理である。深層心理が、自我を主体に、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。深層心理は、快楽を得ることを目的にして、自我の欲望を生み出しているのである。それが、フロイトの言う「快感原則」である。深層心理は、自我を主体にして、快楽を得るために、対他化・対自化・共感化の機能を使い、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。それでは、深層心理の自我の対他化とは何か。自我の対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるのである。深層心理の自我の対他化の機能は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。次に、深層心理の自我の対自化とは何か。自我の対自化とは、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られのである。深層心理の自我の対自化の機能は、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)という一文に集約されている。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の自我の対自化の欲望である。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、深層心理の自我の対自化による行動であり、自我の力を他者に発揮し、他者を支配し、自我の思うままに行動することである。そして、他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自我を対自化して、思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、自我を対他化してしまい、行動が妥協の産物になり、思い切りに楽しめず、喜べないと言うのである。だから、サルトルも、「人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならない。」と言うのである。最後に、深層心理の自我の共感化とは何か。自我の共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)もそれである。だから、自我の共感化とは、簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の体場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。人間は、深層心理が、自我の状況に応じて思考し、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探り、迎合するような行動の指令を出す。自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとするような行動の指令を出す。安心できる人や理解し合う人や愛し合うことができる人がそばにいれば、共感化するような行動の指令を出す。自我が不安な時は、共感化できる人がそばにいれば交わり、自我の存在を確かなものにするような行動の指令を出す。そして、深層心理は、自我が存続・発展するために、さらに、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。これが、ニーチェの言う、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」の一つである。次に言えることは、言語には、限界があるということである。人間は、言語を使って、思考する。だから、人間の思考にも、限界があるのである。ウィトゲンシュタインは、「言語ゲームということばは、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることをはっきりさせるのでなくてはならない。言語において人間は一致するのだ。それは意見の一致では無く、生活様式の一致なのである。」という。そして、言語ゲームの一例として、石材を挙げる。「Aは石材によって建築を行う。石材には、台石、柱石、石版、梁石がある。BはAに石材を渡さねばならないが、その順番はAがそれらを必要とする順番である。この目的のために、二人は、台石、柱石、石版、梁石という語からなる一つの言語を使用する。Aはこれらの語を叫ぶ。Bは、それらの叫びに応じて、持っていくように、教えられた通りの石材を持っていく。これを、原初的な言語と考えよ。」つまり、日常生活において、言語が通じれば、正しく使用されたと言えるのである。だから、改まって、言語の本質を問うては、いけないのである。日常生活において、言語が使用され、通じることが、言語の本質であるからである。ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、深層心理の思考は、言語の語法に則り、論理的に行われているからである。中島敦の小説『山月記』の主人公である李徴が言った「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生き物のさだめだ。」という一文の中の「理由も分らずに押付けられたもの」の中には、言語も含まれている。人間は、言語の起源・本質を知らず、それを使用しながら、暮らさざるを得ないのである。また、倫理も、神も、その起源・本質を問うことはできない。なぜならば、倫理も、神も、道具のように、日常生活で使用できないからである。もしも、倫理も、神も、その起源・本質を理解できれば、その意義を失うだろう。倫理も、神も、人間に、畏敬されるから、存在意義があるのである。ウィトゲンシュタインは、「語り得ないことは、沈黙しなければいけない。」と言う。語り得ないことの中には、人間の存在の意味、言語、倫理、神の本質・起源などがある。ニーチェの言う、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」の一つに、言語に限界があるということがあるのである。次に言えることは、精神疾患とは、深層心理が、辛い現実から逃れるために、自ら、もたらしたものだということである。表層心理が、自らの心に、精神疾患を呼び寄せたのではない。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考えたり(自殺念慮が起こり)、実際に、自殺を図ったりする。原因については、家族という構造体では、結婚、離婚、息子や娘の死亡、学校という構造体では、生徒間のいじめ、校長による教師への指導不足の指摘、会社という構造体では、上司の連日の部下への叱責、転勤、退職などがある。いずれもが、自我が、他者からの好評価・高評価を実際に失ったり、他者からの好評価・高評価を受けることを失う可能性が高かったり、他者から実際に悪評価・低評価を受けたり、他者から悪評価・低評価を受ける可能性が高かったりする時である。深層心理は、この時、深く心が傷付き、悲しみ、絶望する。深層心理は、悲しみ・絶望の感情を生み出すとともに、行動を起こすなという指令を出す。表層心理は、深層心理が生み出した悲しみ・絶望の感情の中で、悲しみ・絶望の感情から解放されるために、深層心理が出した行動を全然起こさないという指令の許諾・拒否を考えようとするが、悲しみ・絶望の感情が強いので、深層心理が出した行動を全然起こさないという指令のままに行動することになる。つまり、悲しみ・絶望の感情が維持され、行動を全然起こさないという状態が続くことになる。すなわち、鬱病である。深層心理は、自ら、鬱病に罹患することによって、抑鬱気分を維持し、家族。学校・会社の状態を認識させないようにしたり、学校や会社に行かせないようにしたりするのである。つまり、鬱病とは、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法なのである。他の精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。例えば、統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものの苦痛が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったのである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものによって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込んでいる者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業であることは、言うまでも無いだろう。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。さて、人間が、精神疾患に陥るのは、深層心理によって、自我を対他化するからである。つまり、自我にこだわらなければ、精神疾患に陥らないのである。自分の不幸を他人の不幸のように見なすことができれば、精神疾患に陥らないのである。しかし、自我を捨て去ることはできない。人間は、現実には、構造体の中で、自我を持って生きているからである。自我を捨て去れば、この世では、人間は社会的な生活を送ることはできないのである。つまり、自我を保持しつつ、自我にこだわらないことが大切なのである。そのためには、愛国心のように、日本という構造体の中で、日本人という自我に取り憑かれ、自我に動かされて生きるのではなく、日本という構造体と日本人という自我を使って生きるようにしなければならない。それには、まず、深層心理の対他化の呪縛から解放されることである。人間は、深層心理の対他化の機能によって、他者からの自我に対する評価によって一喜一憂している。そうではなく、深層心理の対他化の機能をつかい、他者からの自我に対する評価によって、自己を知るべきである。表層心理で、深層心理のその一喜一憂も含めて、自我を自らのものとするべきである。つまり、深層心理の自我の駒を、表層心理で操作することになるのである。しかし、そうなると、喜びは、これまでの深層心理の対他化に取り憑かれた自我のような喜びのような大きなものではなくなる。しかし、悲しみも小さくなる。もちろん、精神疾患にも陥らなくなる。そして、これまでのような一喜一憂の大きな感情の揺れがなくなり、静かな充実感がもたらされると考える。しかし、ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言う。ここに言う、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」とは、人間は、自らの存在のあり方を変えることはできないということである。それは、誰一人として、生まれて来たいから生まれてきたのではなく、気が付いたら、そこに存在しているからである。もちろん、生まれることの許諾・拒否の意志確認をされたわけでもない。そのような意志を表明できるということは、既に、生まれ、存在していることを意味するからである。すなわち、誰しも、存在のあり方を変えることはできないのである。それは、誰しも、自分の存在の意味を有していないからである。つまり、誰しも、存在の意味を有していないのに存在しているのである。これが、人間の存在の真理なのである。だから、人間の認識する真理と同じく、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬であり、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であるのである。だから、自我を保持しつつ自我にこだわらない生き方、すなわち、深層心理の自我の駒を表層心理で操作する生き方も、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬であり、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であると言えるかも知れない。しかし、確かに、それが、たとえ、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬であり、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であっても、人間は、真理を求めなければいけないのである。そうでなければ、人間には、全く、生きる価値が存在しないからである。









実存と大衆性(自我その219)

2019-09-23 18:20:46 | 思想
人間は、社会的な動物である。それは、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているということである。構造体には、いろいろなものがあるが、その定義は、人間の組織・集合体であるということである。自我にもいろいろなものがるが、その定義は、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、生きている自分のあり方ということである。人間は、社会的な動物であるから、いつ、いかなる時でも、常に、人間の組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、その務めを果たすことを、自我として生きていかざるを得ないのである。さて、構造体にも、自我にも、さまざまなものがあるが、具体例挙げると、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。さて、自我を動かすのは、その人の深層心理である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。深層心理の思考は、人間の無意識のうちに行われているから、深層心理を無意識と呼ぶのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が思考しているのである。
ラカンが、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、この謂である。もちろん、ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「構造化されている」とは、論理的に思考されているということを意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使い、論理的に思考されているということを意味する。ラカンが、「構造化されている」というふうに、受動態にしたのは、深層心理の活動は、人間が、無意識の(意識していない)心の世界で、行われているからである。つまり、深層心理は、言語を使って、論理的に思考しているのである。深層心理が、自我を主体に、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。
さて、深層心理は、どのようなことを目標にして、自我の欲望を生み出しているか。それは、快楽を得ることである。それが、フロイトの言う「快感原則」である。深層心理は、自我を主体にして、対他化・対自化・共感化の方向で思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのであるが、それは、快楽を得るために、機能するのである。それでは、深層心理の自我の対他化とは何か。自我の対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分の自我に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、他者の自らの自我に対する思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるからである。深層心理の自我の対他化の心理現象は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。次に、深層心理の自我の対自化とは何か。自我の対自化とは、
自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるからである。深層心理の自我の対自化の心理現象は、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)という一文に集約されている。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の自我の対自化の欲望である。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、深層心理の自我の対自化による行動であり、自我の力を他者に発揮し、他者を支配し、自我の思うままに行動することである。そして、他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自我を対自化して、思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、自我を対他化してしまい、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないと言うのである。だから、サルトルも、「人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならない。」と言ったのである。最後に、深層心理の自我の共感化とは何か。自我の共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)もそれである。だから、自我の共感化とは、簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の体場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。さて、人間は、深層心理が、自我の状況に応じて思考し、行動する動物である。自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探り、迎合する。自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。安心できる人や理解し合う人や愛し合うことができる人がそばにいれば、共感化する。自我が不安な時は、共感化できる人がそばにいれば交わり、自我の存在を確かなものにしようとする。そして、深層心理は、自我が存続・発展するために、さらに、構造体が存続・発展するために、自我を動かす。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。しかし、人間は、必ずしも、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動するわけではない。
なぜならば、表層心理が、深層心理が生み出した感情と行動の指針を意識し、時には、意志によって、深層心理が生み出した行動の指針を抑圧するからである。つまり、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのであるが、表層心理は、それを受けて、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が出した行動の指令の指令の諾否を思考するのである。その結果、人間は、行動を起こすのである。一般的に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。言うまでも無く、理性は、意識・意志の下で行われる、表層心理の思考である。このように、深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、動くのである。深層心理が、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理は、それを受けて、意識・意志の下で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の出した行動の指令の承諾・拒否を思考するのである。表層心理が承諾すれば、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動する。表層心理が拒否すれば、表層心理は、意識・意志の下で、深層心理の行動の指令を抑圧し、代替の行動を思考することになる。表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、対他化によって、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧する。これが、フロイトの言う「現実原則」である。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないのである。それは、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動する。この場合、怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。表層心理は、深層心理からの相手を殴れという行動の指令を、後のことを考慮し、抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強過ぎるので、抑圧できず、そのまま、相手を殴ってしまうようなことである。この行動は、犯罪になることもあり、後悔することが多いのである。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。このように、深層心理は、快楽を得るために(「快感原則」のために)、自我を対他化・対自化・共感化して、また、自我の発展、構造体の発展のために、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理には、社会的な道徳心が無いから、快楽を得るために(「快感原則」のために)、いろいろな自我の欲望を生み出す。すなわち、深層心理が生み出した自我の欲望は、良心的な欲望、実現可能性の高い欲望、理想的な欲望から、不道徳な欲望、無謀な欲望、かなえてはいけない欲望まで、さまざまな欲望がある。人間、誰もが、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動すれば、人類はすぐに滅びるだろう。表層心理が、自我の存続のために(「現実原則」によって)、社会的な道徳心に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を審査し、良心的な行動の指令、実現可能性の高い行動の指令、理想的な行動の指令を許諾し、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令を抑圧するから、自我は安泰なのである。表層心理が、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令を抑圧できるのは、自我がこれらの悪事を行えば、他者に露見し、悪評価・低評価を受け、顰蹙を買ったり、処罰されたりして、自我が傷付けられるからである。それでは、人間は、自我がこれらの悪事を行っても、他者に、自我が特定される可能性が低かったらなかったらば、どうするであろうか。つまり、人間は、自分が犯人だと特定される可能性が低くても、悪事を犯さないかということである。もちろん、そこには、自分が犯人だと特定される可能性の大小、深層心理が生み出した感情の強弱、悪事の大小が原因し、簡単には、決められないだろう。しかし、もしも、それが、自分が犯人だと特定される可能性が小さく、他者に共感する者が大勢いることが想定され、深層心理が生み出した感情が強く、悪事そのものが小さく、自我が傷付けられる可能性が小さいと思われることならば、人間は、その悪事を犯すのではないか。表層心理は、他者に共感する者が大勢いることで大衆性を頼み、自分が犯人だと特定される可能性が低いから自我が傷付けられる可能性が低く、また、小さな悪事だから自分が犯人だと特定されても自我が傷付けられることが小さいから、深層心理の生み出した自我の欲望のままに行動するのである。これが、人間の大衆性である。それが、ハイデッガーの言う、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間のあり方である。ハイデッガーは、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた状態を「現存在の頽楽」(人間の堕落した状態)だと言う。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活とは、大衆の生活であり、「好奇心のままに、そこにいない人や事柄を話題に取り上げ、誰が言ったのかもその根拠も示さず、無責任に、語り合って、日々を送る生活」である。世間話は、他者と話題を共有できるから、深層心理の他者との共感化が築け、満足感が得られるのである。好奇心は、他者のプライバシーにまで入っていけるから、深層心理の自我の対自化をを満足させるのである。曖昧性は、無責任に話せるから、深層心理の自我の対他化が傷つけられず、むしろ、対自化を満足できるのである。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活は、他者の非難を浴びそうであるが、他者も同じようにしているから、むしろ、他者と、共感化できるのである。さて、日本人は、日本という構造体で、日本人という自我を持って生活している。日本人の深層心理は、快楽を得るために(「快感原則」のために)、日本人という自我を対他化・対自化・共感化して、また、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のために、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。これが、愛国心である。特に、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のための自我の欲望が、日本人の愛国心である。だから、日本人ならば、誰にでも、愛国心は存在する。もちろん、アメリカ人にも、中国人にも、ロシア人にも、韓国人にも、全て、存在する。だから、売国奴や反日などと言って、他の日本人を非難する人が存在するが、行動の仕方が違うだけで、売国奴や反日は存在しない。さて、日本人の深層心理は、快楽を得るために(「快感原則」のために)、日本人という自我を対他化・対自化・共感化して、また、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のために、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているが、当然、行動の指令の中には、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令などの悪事を行うことの指令が存在する。しかし、大衆性に満ちた日本人は、もしも、それが、自我が犯人だと特定される可能性が小さく、他者に共感する者が大勢いることが想定され、深層心理が生み出した感情が強く、悪事そのものが小さく、自我が傷付けられる可能性が小さいと思われることならば、実行するのである。そして、集団となって、街頭で、「在日は出ていけ。」と叫び、インターネットで、「在日の女優」、「反日日本人の正体」、「日本を駄目にした日本人」、「韓国に日本を売った日本人の正体」などと流すのである。さて、ハイデッガーは、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間を「ひと(ひと的存在)」と言う。ニーチェは、「大衆」、「最後の人間」と言う。わかりやすく言えば、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間性が、大衆性である。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活を送り、それに満足しているのが大衆なのである。ハイデッガーは、「ひと(ひと的存在)」を「非本来的な人間」と言い、そこから脱却し、「本来的な人間」になるためには、「自らを臨死性に置く」(自らを死に臨む状態に置く)という覚悟を持たなければならないと説いているが、「本来的な人間」の内実を説明していない。ニーチェも、「大衆性」に対峙するものとして「貴族性」を挙げているが、その内実を説明していない。一般に、ハイデッガーやニーチェの思想は、「実存」と呼ばれている。サルトルは、「実存が、本質に優越する。」と言っている。サルトルによれば、「実存とは、衆人におもねらず、個人が自ら思考し、決断し、行動することである。」ということになる。しかし、やはり、「実存」を詳述していない。ハイデッガーは、自らの思考を「存在への思考」とし、サルトルの自らの思想理解を嫌ったが、「実存」に関する限り、サルトルの考え方は、一考に値すると思う。しかし、ハイデッガーの「本来的な人間」にしろ、ニーチェの「貴族性」にしろ、サルトルの「実存」にしろ、もしも、「大衆性」から脱却しようと思うのならば、自ら、思考するしかないことを説いている。「大衆性」は共通した考え方・生き方だが、ハイデッガーの「本来的な人間」の考え方・生き方にしろ、ニーチェの「貴族性」の考え方・生き方にしろ、サルトルの「実存」の考え方・生き方にしろ、一人一人が思考し、決断した、生き方だからである。




人間の悲劇の原点は、自我に取り憑かれることにある。(自我その218)

2019-09-22 18:02:44 | 思想
人間の特徴を使って、人間を定義する言葉は幾つもある、有名な言葉は、ホモ・サピエンス、ホモ・ファーベル、ホモ・ルーデンス、ホモ・シンボリクスである。ホモ・サピエンスは、リンネが考案し、人間は考える動物であるという意味である。ホモ・ファーベルは、ベルクソンが考案し、人間は道具を作る動物であるという意味である。ホモ・ルーデンスは、ホイジンガが考案し、人間は遊ぶ動物であるという意味である。ホモ・シンボリクスは、カッシーラーが考案し、人間は象徴化する動物であるという意味である。その他に、人間は言葉を使う動物である、人間は火を使う動物である、などがある。いずれも、人間を他の動物と比べ、その優位性を特徴としている言葉である。しかし、もう、自画自賛の言葉を考案するのはやめた方が良いのでは無いか。オゾン層を破壊したのは人間である。公害は人間が作り出したものである。地球温暖化は人間が作り出したものである。無数の動物を絶滅させたのは人間である。これらの行為に飽き足らず、人間世界には、個人が個人を殺すという殺人、個人が集団を殺すという殺人、集団が個人を殺すという殺人、集団が集団が殺すという戦争という行為がある。更に、自分が自分を殺すという自殺という行為がある。確かに、他の動物にも、時には、これらの行為が見られることがある。しかし、人間ほど、大規模に、計画的に、個人が個人を殺し、個人が集団を殺し、集団が個人を殺し、集団が集団が殺すという行為は、他の動物には、見られないことである。むしろ、人間の特徴である、考える、道具を作る、遊ぶ、象徴化する、言葉を使う、火を使うということは、これらの残虐な行為に利用されている。さて、かつて、殺人であっても、戦争であっても、その原因は経済的なものだと考えられていた。実際に、そういうことが原因であった場合もあり、現在でも、そういうことが原因である場合もある。金品を奪うために、財産を奪うために、土地を奪うために、資源を奪うために、労働力を奪うためにという経済的なものが要因であると思われていた。マルクスも、そのように考え、経済的な要因を取り除くために、マルクス主義(共産主義)を打ち立て、共産主義革命という階級闘争を提唱した。共産主義革命という階級闘争において、プロレタリアート(労働者階級)が勝利し、プロレタリアート(労働者階級)が独裁体制を敷き、計画経済を行えば、資本家と労働者の貧富の格差・身分の格差が消滅し、国民が、平和に、幸福に暮らせ、国家間の戦争も無くなると考えたのである。しかし、共産主義革命が成功した、ソ連、中国、北朝鮮は、どうなっただろうか。国家権力が国民を大量に餓死させ、国家権力者が敵対勢力を大量に粛清し、戦争も無くなるどころか、むしろ、自国から仕掛けるようなありさまであった。これでは、資本主義国家と、何ら、変わらない。むしろ、状況はいっそう残虐を極めた。確かに、マルクスは、天才である。資本主義社会の分析においては、マルクスは、随一の思想家である。しかし、マルクスは、経済的な要因に捕らわれすぎた。確かに、経済的な要因が、人間を動かすことはある。しかし、最も強く人間を動かすのは、深層心理が起こす自我の欲望なのである。しかも、現代においては、ますます、猖獗を極めているのである。マルクスは、フロイトやニーチェの思想を知らなかったので、深層心理が起こす自我の欲望に気付かなかったのである。フロイトが、深層心理(無意識と呼ばれることが多い)を再提唱し、欲望(リピドー)の存在をアピールしたから、それらが広まったのである。ニーチェは、自我の欲望という言葉を使わなかったが、「権力への意志(力への意志)」などの思想で、人間の心には、本質的に、他を征服し、いっそう強大になろうという意欲があると説いたから、人々は、心の中にある衝動に気付いたのである。フロイトやニーチェの思想を普遍すれば、人間は、深層心理の欲望によって動かされているということが理解できるのである。深層心理の欲望とは、深層心理が引き起こす自我の欲望である。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。具体的に言えば、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。さて、深層心理は、自我をどのような方向に向けて、自我の欲望を生み出しているか。それは、三方向である。一方向は、自我の対他化であり、自我が他者から認められること、愛されること、強化されることである。つまり、自我の対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、他者の自らの思いを探ることである。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。もう一方向は、自我の対自化であり、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)ということである。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望なのである。そして、思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の力を発揮し、支配し、思うままに行動することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないと言うのである。だから、サルトルも、「人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならない。」と言ったのである。最後の一方向は、自我の共感化であり、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)もそれである。だから、自我の共感化とは、簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いであり、自我の立場と他者の体場は同等であるから、一般的に、歓迎されるのである。さて、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探り、迎合する。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、安心できる人や理解し合う人や愛し合うことができる人ならば、共感化する。人間は、自我が不安な時は、共感化できる人がいたならば交わり、自我の存在を確かなものにしようとする。また、深層心理は、自我が存続・発展するように、そして、構造体が存続・発展するように、自我を動かす。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動させようとするのである。表層心理は、それを受けて、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が出した行動の指令の指令の諾否を思考するのである。その結果、人間は、行動を起こすのである。一般的に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。言うまでも無く、理性は、意識・意志の下で行われる、表層心理の思考である。このように、深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、動くのである。深層心理が、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理は、それを受けて、意識・意志の下で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の出した行動の指令の承諾・拒否を思考するのである。表層心理が承諾すれば、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動する。表層心理が拒否すれば、表層心理は、意識・意志の下で、深層心理の行動の指令を抑圧し、代替の行動を思考することになる。表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、対他化によって、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧する。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないのである。それは、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動する。この場合、怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。表層心理は、深層心理からの相手を殴れという行動の指令を、後のことを考慮し、抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強過ぎるので、抑圧できず、そのまま、相手を殴ってしまうようなことである。この行動は、犯罪になることもあり、後悔することが多いのである。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。さて、深層心理は、対自化・対他化・共感化のうち、どの機能を強く働かせて、人間を動かしているか。それは、対他化の機能である。深層心理は、対他化の機能を最も強く働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出ているのである。人間は、他者から、好かれたい、愛されたい、認められたいという思いが強いのである。他者から、好評価・高評価を受けたいのである。だから、逆に、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受けると、深層心理が、対他化によって、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令するのである。表層心理が、深層心理の行動の指令である相手を殴れなどの過激な行動を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強いので、人間は、深層心理の行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。これが、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多く、最悪の場合、殺人事件にまで至るのである。人間は、このように、常に、他者から、好評価・高評価を受けたいと思って生きているのである。つまり、人間は、プライドの動物なのである。しかし、このプライドは、他者から悪評価・低評価を受けると、簡単に傷付けられ、その心の傷を癒やそうとして、怒りの感情がわき上がり、傷害事件を引き起こすことがあるのである。特に、構造体のトップにいる人ほど、プライドが高い。言うまでも無く、構造体の中では、自分より上位の人がいないからである。また、部下は、トップの人から、悪評価・低評価を受けると、心が深く傷付く。なぜならば、常に、トップの人から、好評価・高評価を受けたいと思って、構造体の中で、暮らしているからである。しかし、総理大臣、校長、社長、店長、と言えども、単に、一つの自我に過ぎない。単に、一つの役割を果たしているのに過ぎない。国民、教諭・生徒、社員、店員・客などに支えられて存在しているのである。だから、どの自我も、絶対的ではないのである。そして、国、学校、会社、店、という構造体も、家族、仲間、カップルという構造体と同様に、ある時代、ある時期において誕生し、そして、時代の推移、時間の経過によって消滅してしまう存在物なのである。だから、どの構造体も、絶対的ではないのである。つまり、自我にプライドを持ついわれは無いのである。自我にプライドを持つから、プライドが打ち砕かれると、苦悩するのである。つまり、人間は、自我の務めを淡々と果たせば良いのである。失敗すれば、矯正すれば良いのである。自分のミスが原因で、現在の構造体を放逐されれば、別の構造体を探せば良いのである。その構造体も放逐されれば、また、別の構造体を探せば良いのである。構造体に使われるのが嫌ならば、自分が構造体を作れば良いのである。死を迎えるまで変化し続ければ良いのである。それを、立ち止まってプライドを持とうとするから、それが打ち砕かれて苦悩したり、過ちを犯したりするのである。