私たちは、自らのことを、自分や自己と表現する。しかし、自分や自己という言葉は、他者と区別した自らの存在を表しているに過ぎない。私たちは、この世に、他者と区別して、一人一人、私として存在しているから、自らのことを、自分や自己と表現するのである。つまり、自分や自己は、私たちが、他者と区別して、自らの行動の主体になっているものの存在を表している言葉なのである。確かに、自分や自己は、他家と区別した私の存在を表す言葉としては、自らにとっては、有効であるだろう。しかし、私たちが、社会生活を営む上においては、自分や自己は、雲散霧消化するのである。私たちが、社会生活を営む上においては、自分や自己は、他者にとっても、存在しないのである。社会生活を営む上で、自らにとっても他者にとっても実際に存在しているのは、自我である。なぜならば、私たちが、社会生活を営む上で、私として存在しているのは、自分や自己という抽象的、総称的な存在ではなく、自我として具体的、個別的に存在しているからである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、社会生活を営んでいるのである。構造体とは、端的に言えば、人間の組織・集合体である。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自己のあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自分や自己の姿なのである。自分や自己が、自我と具体化し、人間は、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、世界内存在の生物であるが、このように、実際に生活するうえでは、世界が細分化され、構造体となるのである。つまり、実際に生活する時には、世界が構造体へと限定され、自分や自己が自我へと限定されるのである。世界が構造体へと限定され、自分や自己が自我へと限定されると、構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)が決まり、その自我に沿って、人間は行動できるのである。自分のポジションを自他共に認めたあり方が自我なのである。世界が構造体へと細分化されると、構造体は、世界のような漠然とした広いものではなくなり、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などへと具体的に狭くなり、人間も、その構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)を担って、自我をもち、それぞれの人がその自我に応じて行動するようになるのである。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では県民などの自我があり、国という構造体では国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。人間は、世界が構造体へと細分化され、その構造体の中で、自分や自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として立てて暮らしている。世界が構造体へと細分化されるのは、そうすると、構造体の中で、自らの位置を自我として定められるので、存在感を覚えて行動できるからである。人間は、常に、構造体の中で、自分や自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体に立ててて暮らしているのである。その自我を動かすものは、人間の無意識の思考である深層心理である。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め、不快感を厭う欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、不快感を避けることを、目的・目標としているのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、深層心理は、それは、他者に認められること、他者や物や事柄という対象を支配することしたい、他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うことという三種類の欲望を満足させることによって得ようとする。まず第一の欲望であるが、深層心理は、他者に認められたいという欲望を持っているから、常に、自我を対他化して、他者の視線を追っている。換言すれば、自我を対他化すること、すなわち、自我の対他化とは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、自我を対他化する。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われがちである。それは、深層心理が行っているからである。だから、他者の視線の意識化は、誰しも意識して行っていることではないから、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会うと、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。自我の対他化とは、ある意味では、自ら、敢えて、自分の身を他者の評価にさらそうとすることである。第二の欲望であるが、深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配したいという欲望を持っているから、常に、他者や物や事柄という対象を対自化して、他者を支配しよう、物を利用しよう、事柄を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えようとしている。つまり、対象の対自化とは、自らの視線で捉えるということなのである。特に、他者という対象の対自化は、他者がどのような思いで何をしようとしているのか、つまり、他者の欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。この行為が、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということなのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。つまり、他者を見るという姿勢、つまり、他者を対自化するとは、自分中心の姿勢、自分主体の姿勢なのである。第三の欲望であるが、深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。自我と他者の共感化とは、、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。共感化は、協力するや愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができなくても、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否し、妥協することを拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者を共感化させ、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理の思考の結果を受けて、人間は、表層心理で、思考を開始するのである。それが、広義での、理性である。人間は、表層心理で、意識して思考し、その結果が、意志による行動になるのである。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、それを意志として行動するのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考結果による行動は、意志と言われている。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が、狭義での、理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、日本語に、「無私」という言葉がある。「私心の無いこと。私利・私欲を求める心が無いこと。」という意味である。つまり、「無私」の「私」の意味は「私利・私欲」である。「私利・私欲」とは、人間の表層原理での、現実原則という自我に利益をもたらそうという欲望である。つまり、「無私」とは、表層心理での現実原則を抑圧し、深層心理の自我を対他化して、他者の欲望に感じて行動することなのである。また、日本語に、「無我」という言葉がある。「無我」には、三つの意味がある。一つは、「無私」と同じ意味である。もう一つは、四字熟語の「無我夢中」の「無我」と同じく、我を忘れるという意味である。我を忘れるということは、他者の視線を気にしないということである。他者の視線を気にするから、自我を意識するのである。つまり、この場合の「無我」とは、深層心理の自我の対他化の機能を抑圧し、深層心理の自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者や物や事柄という対象を捉えようとすることなのである。最後の一つの意味は、仏教の根本思想の一つで、「人間存在や事物の根底にある永遠不変の真実を否定すること。万物は現象として生成するだけで、絶対不変は存在しないとすること。」である。これは、人間の表層心理での意識しての思考の機能、すなわち、理性による心理獲得を否定しているのである。さて、デカルトに、「我思う、故に我あり」という有名な言葉がある。デカルトの著書の『方法序説』の中にあり、ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」(一般に、略されて、「コギト」)を翻訳したものである。デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本原理とされている命題である。「あらゆるものは疑えるとしても、このように疑っている私という存在だけは疑うことができない。私は確実に存在しているのだ。」という内容である。デカルトは、ここから、「疑う能力は理性であり、理性が正しく考え、論証したものは、全て、真理として認めることができるのだ。」という結論を導き出した。
しかし、デカルトの「コギト」の思想は、疑問の点が多い。まず、私が疑っている(考えている・意識している)事柄の存在の確証は得られないが、私はそこに確かに存在しているから、私は疑う(考える・意識する)ことができるのだという論理は危うい。もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだますことが可能ならば、人間が疑っている(考えている・意識している)事柄が、本当は存在せず、存在しているようにだまされている可能性があるばかりでなく、人間が疑う(考える・意識する)行為も、本当は存在せず、存在しているように悪魔にだまされている可能性があるからだ。そもそも、人間は、自分がそこに存在していることを前提にして、いろいろな活動をしているのであるのであり、自分の存在を疑うこと自体、意味を為さないのである。自分の存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、自分の存在は疑わしいという結論が出たとしても、自分の存在が消滅することは無く、そのまま、存在は継続するから、自分の存在を疑うことは、意味を成さないのである。つまり、論理的に存在が証明できるから存在しているのではなく、論理的な存在の証明の活動も含めて、存在を前提にしているから、活動できるのであり、既に存在していなくては、為されないのである。つまり、「我思う、故に我あり」では無く、「我あり、故に、我思う」のである。また、「我思う、故に我あり」の「我」とは、誰のことであろうか。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのであるから、構造体が異なれば、自我も異なるのである。すなわち、同じ人でも、家族という構造体では息子という自我があり、大学という構造体では大学二年生という自我になり、コンビニ店という構造体では客という自我になり、電車という構造体では乗客という自我になり、テニス部という構造体では部員という自我になり、カップルという構造体では恋人という自我になるのである。つまり、構造体ごとに、異なる自我を発見することになるのである。だから、デカルトの言う「我」には、絵空事の「我」であり、普遍性は存在しないのである。それは、構造体ごとに、自我は異なるから、自我に普遍性は無く、しかも、自我は、深層心理によって主体として立てられ、動かされているからである。それを、「我」自身が主体となり、理性によって思考することができるのだというように考えを進めていくと、必ず、思考の壁にぶつかることになる。それが、現代のありさまでは無いのだろうか。しかし、なぜ、デカルトの単純な「コギト」の思想が、一世を風靡したのであろうか。それは、17世紀の西洋の思想世界において、神が創造した人間観・世界観から脱し、人間が創造した人間観・世界観が求められたからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自らの欲望によって、存在しているように見てしまう。)のである。人間は、神が存在して欲しいから、神が存在しているように思ってしまったように、人間は、理性で、人間の真理・世界の真理を捉えたいと欲望したから、デカルトの単純な「コギト」の思想を信仰したのである。
しかし、デカルトの「コギト」の思想は、疑問の点が多い。まず、私が疑っている(考えている・意識している)事柄の存在の確証は得られないが、私はそこに確かに存在しているから、私は疑う(考える・意識する)ことができるのだという論理は危うい。もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだますことが可能ならば、人間が疑っている(考えている・意識している)事柄が、本当は存在せず、存在しているようにだまされている可能性があるばかりでなく、人間が疑う(考える・意識する)行為も、本当は存在せず、存在しているように悪魔にだまされている可能性があるからだ。そもそも、人間は、自分がそこに存在していることを前提にして、いろいろな活動をしているのであるのであり、自分の存在を疑うこと自体、意味を為さないのである。自分の存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、自分の存在は疑わしいという結論が出たとしても、自分の存在が消滅することは無く、そのまま、存在は継続するから、自分の存在を疑うことは、意味を成さないのである。つまり、論理的に存在が証明できるから存在しているのではなく、論理的な存在の証明の活動も含めて、存在を前提にしているから、活動できるのであり、既に存在していなくては、為されないのである。つまり、「我思う、故に我あり」では無く、「我あり、故に、我思う」のである。また、「我思う、故に我あり」の「我」とは、誰のことであろうか。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのであるから、構造体が異なれば、自我も異なるのである。すなわち、同じ人でも、家族という構造体では息子という自我があり、大学という構造体では大学二年生という自我になり、コンビニ店という構造体では客という自我になり、電車という構造体では乗客という自我になり、テニス部という構造体では部員という自我になり、カップルという構造体では恋人という自我になるのである。つまり、構造体ごとに、異なる自我を発見することになるのである。だから、デカルトの言う「我」には、絵空事の「我」であり、普遍性は存在しないのである。それは、構造体ごとに、自我は異なるから、自我に普遍性は無く、しかも、自我は、深層心理によって主体として立てられ、動かされているからである。それを、「我」自身が主体となり、理性によって思考することができるのだというように考えを進めていくと、必ず、思考の壁にぶつかることになる。それが、現代のありさまでは無いのだろうか。しかし、なぜ、デカルトの単純な「コギト」の思想が、一世を風靡したのであろうか。それは、17世紀の西洋の思想世界において、神が創造した人間観・世界観から脱し、人間が創造した人間観・世界観が求められたからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自らの欲望によって、存在しているように見てしまう。)のである。人間は、神が存在して欲しいから、神が存在しているように思ってしまったように、人間は、理性で、人間の真理・世界の真理を捉えたいと欲望したから、デカルトの単純な「コギト」の思想を信仰したのである。