あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分や自己は存在しているのか。自我が存在しているのではないか。(自我その290)

2019-12-31 22:12:38 | 思想
私たちは、自らのことを、自分や自己と表現する。しかし、自分や自己という言葉は、他者と区別した自らの存在を表しているに過ぎない。私たちは、この世に、他者と区別して、一人一人、私として存在しているから、自らのことを、自分や自己と表現するのである。つまり、自分や自己は、私たちが、他者と区別して、自らの行動の主体になっているものの存在を表している言葉なのである。確かに、自分や自己は、他家と区別した私の存在を表す言葉としては、自らにとっては、有効であるだろう。しかし、私たちが、社会生活を営む上においては、自分や自己は、雲散霧消化するのである。私たちが、社会生活を営む上においては、自分や自己は、他者にとっても、存在しないのである。社会生活を営む上で、自らにとっても他者にとっても実際に存在しているのは、自我である。なぜならば、私たちが、社会生活を営む上で、私として存在しているのは、自分や自己という抽象的、総称的な存在ではなく、自我として具体的、個別的に存在しているからである。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、社会生活を営んでいるのである。構造体とは、端的に言えば、人間の組織・集合体である。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自己のあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自分や自己の姿なのである。自分や自己が、自我と具体化し、人間は、存在感を覚え、自信を持って行動できるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、世界内存在の生物であるが、このように、実際に生活するうえでは、世界が細分化され、構造体となるのである。つまり、実際に生活する時には、世界が構造体へと限定され、自分や自己が自我へと限定されるのである。世界が構造体へと限定され、自分や自己が自我へと限定されると、構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)が決まり、その自我に沿って、人間は行動できるのである。自分のポジションを自他共に認めたあり方が自我なのである。世界が構造体へと細分化されると、構造体は、世界のような漠然とした広いものではなくなり、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間、県、国などへと具体的に狭くなり、人間も、その構造体の中で、自分のポジション(役目、ステータス)を担って、自我をもち、それぞれの人がその自我に応じて行動するようになるのである。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、県という構造体では県民などの自我があり、国という構造体では国民などの自我があるのである。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。人間は、世界が構造体へと細分化され、その構造体の中で、自分や自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として立てて暮らしている。世界が構造体へと細分化されるのは、そうすると、構造体の中で、自らの位置を自我として定められるので、存在感を覚えて行動できるからである。人間は、常に、構造体の中で、自分や自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体に立ててて暮らしているのである。その自我を動かすものは、人間の無意識の思考である深層心理である。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め、不快感を厭う欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、不快感を避けることを、目的・目標としているのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、深層心理は、それは、他者に認められること、他者や物や事柄という対象を支配することしたい、他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うことという三種類の欲望を満足させることによって得ようとする。まず第一の欲望であるが、深層心理は、他者に認められたいという欲望を持っているから、常に、自我を対他化して、他者の視線を追っている。換言すれば、自我を対他化すること、すなわち、自我の対他化とは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、自我を対他化する。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われがちである。それは、深層心理が行っているからである。だから、他者の視線の意識化は、誰しも意識して行っていることではないから、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者に会うと、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は常に他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えたいと思う。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。自我の対他化とは、ある意味では、自ら、敢えて、自分の身を他者の評価にさらそうとすることである。第二の欲望であるが、深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配したいという欲望を持っているから、常に、他者や物や事柄という対象を対自化して、他者を支配しよう、物を利用しよう、事柄を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えようとしている。つまり、対象の対自化とは、自らの視線で捉えるということなのである。特に、他者という対象の対自化は、他者がどのような思いで何をしようとしているのか、つまり、他者の欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。この行為が、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということなのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。つまり、他者を見るという姿勢、つまり、他者を対自化するとは、自分中心の姿勢、自分主体の姿勢なのである。第三の欲望であるが、深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。自我と他者の共感化とは、、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。共感化は、協力するや愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語がある。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができなくても、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否し、妥協することを拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者を共感化させ、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理の思考の結果を受けて、人間は、表層心理で、思考を開始するのである。それが、広義での、理性である。人間は、表層心理で、意識して思考し、その結果が、意志による行動になるのである。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、それを意志として行動するのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考結果による行動は、意志と言われている。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が、狭義での、理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、日本語に、「無私」という言葉がある。「私心の無いこと。私利・私欲を求める心が無いこと。」という意味である。つまり、「無私」の「私」の意味は「私利・私欲」である。「私利・私欲」とは、人間の表層原理での、現実原則という自我に利益をもたらそうという欲望である。つまり、「無私」とは、表層心理での現実原則を抑圧し、深層心理の自我を対他化して、他者の欲望に感じて行動することなのである。また、日本語に、「無我」という言葉がある。「無我」には、三つの意味がある。一つは、「無私」と同じ意味である。もう一つは、四字熟語の「無我夢中」の「無我」と同じく、我を忘れるという意味である。我を忘れるということは、他者の視線を気にしないということである。他者の視線を気にするから、自我を意識するのである。つまり、この場合の「無我」とは、深層心理の自我の対他化の機能を抑圧し、深層心理の自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者や物や事柄という対象を捉えようとすることなのである。最後の一つの意味は、仏教の根本思想の一つで、「人間存在や事物の根底にある永遠不変の真実を否定すること。万物は現象として生成するだけで、絶対不変は存在しないとすること。」である。これは、人間の表層心理での意識しての思考の機能、すなわち、理性による心理獲得を否定しているのである。さて、デカルトに、「我思う、故に我あり」という有名な言葉がある。デカルトの著書の『方法序説』の中にあり、ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」(一般に、略されて、「コギト」)を翻訳したものである。デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本原理とされている命題である。「あらゆるものは疑えるとしても、このように疑っている私という存在だけは疑うことができない。私は確実に存在しているのだ。」という内容である。デカルトは、ここから、「疑う能力は理性であり、理性が正しく考え、論証したものは、全て、真理として認めることができるのだ。」という結論を導き出した。
しかし、デカルトの「コギト」の思想は、疑問の点が多い。まず、私が疑っている(考えている・意識している)事柄の存在の確証は得られないが、私はそこに確かに存在しているから、私は疑う(考える・意識する)ことができるのだという論理は危うい。もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだますことが可能ならば、人間が疑っている(考えている・意識している)事柄が、本当は存在せず、存在しているようにだまされている可能性があるばかりでなく、人間が疑う(考える・意識する)行為も、本当は存在せず、存在しているように悪魔にだまされている可能性があるからだ。そもそも、人間は、自分がそこに存在していることを前提にして、いろいろな活動をしているのであるのであり、自分の存在を疑うこと自体、意味を為さないのである。自分の存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、自分の存在は疑わしいという結論が出たとしても、自分の存在が消滅することは無く、そのまま、存在は継続するから、自分の存在を疑うことは、意味を成さないのである。つまり、論理的に存在が証明できるから存在しているのではなく、論理的な存在の証明の活動も含めて、存在を前提にしているから、活動できるのであり、既に存在していなくては、為されないのである。つまり、「我思う、故に我あり」では無く、「我あり、故に、我思う」のである。また、「我思う、故に我あり」の「我」とは、誰のことであろうか。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのであるから、構造体が異なれば、自我も異なるのである。すなわち、同じ人でも、家族という構造体では息子という自我があり、大学という構造体では大学二年生という自我になり、コンビニ店という構造体では客という自我になり、電車という構造体では乗客という自我になり、テニス部という構造体では部員という自我になり、カップルという構造体では恋人という自我になるのである。つまり、構造体ごとに、異なる自我を発見することになるのである。だから、デカルトの言う「我」には、絵空事の「我」であり、普遍性は存在しないのである。それは、構造体ごとに、自我は異なるから、自我に普遍性は無く、しかも、自我は、深層心理によって主体として立てられ、動かされているからである。それを、「我」自身が主体となり、理性によって思考することができるのだというように考えを進めていくと、必ず、思考の壁にぶつかることになる。それが、現代のありさまでは無いのだろうか。しかし、なぜ、デカルトの単純な「コギト」の思想が、一世を風靡したのであろうか。それは、17世紀の西洋の思想世界において、神が創造した人間観・世界観から脱し、人間が創造した人間観・世界観が求められたからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自らの欲望によって、存在しているように見てしまう。)のである。人間は、神が存在して欲しいから、神が存在しているように思ってしまったように、人間は、理性で、人間の真理・世界の真理を捉えたいと欲望したから、デカルトの単純な「コギト」の思想を信仰したのである。

人間は、深層心理によって、快楽を求め、苦悩させられて生きている。(その289)

2019-12-30 18:27:00 | 思想
聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」という有名な言葉がある。言うまでもなく、パンとは、食糧のことである。聖書は、人間は、生きていくためには、食糧以外に、神の言葉が必要だと言うのである。人間を生かしてくれるのは神であり、神の言葉に従えば、人間が生きていくために必要なものを神が備えてくれると言うのである。さすがに、イエスの教えである。しかし、キリスト教国ではない日本では、一般には、人間は、食べることだけを目的に生きるのではなく、文化的・精神的なことを追求することを目的にして生きるのだという意味で解釈されている。確かに、人間が生きていくためには、食糧だけでなく、他の物や他のことが必要である。それが、聖書では神の言葉、日本では文化的・精神的なことだと考えたとしても、何ら不思議なことではない。なぜならば、人間は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・物・事柄という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えて、解釈している。人間は、他者、対象物、対象事という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)によって、存在しているように創造する。)という動物だからである。しかし、人間の食糧以外の欲望は、本質的には、快楽を求める欲望なのである。いや、食べるという行為すら、うまい・おいしいという快楽を求めているのである。しかも、快楽を求める欲望は、先天的に、人間の心に組み込まれ、全ての人間が有している。それは、人間が意識して求めているのではなく、無意識に求めているのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、快楽を求めているのではなく、深層心理という無意識の心の働きが、快楽を求めているのである。人間は、深層心理によって、ひたすらその時その場で快楽を求めて生きているのである。もちろん、そこには、不快を避けようという欲望が合わせて存在している。これが、フロイトの言う、快感原則である。深層心理は、道徳観や社会規約という志向性(観点・視点)を有さず、快感原則によって、ひたすらその時その場で快楽を求めて思考している。もしも、深層心理が、快楽を得ることを期待している事柄で、満足できず、快楽を得られなかったならば、本人の心に、傷心・怒りという不快という感情を生み出し、その状況を一挙に変えるような行動の指令までも生み出す。深層心理は、不快感が傷心のままにとどまっているならば、相手に謝罪しろという行動の指令を出し、これ以上心が傷付かないようにする。深層心理は、不快感が怒りという感情に高まっているならば、相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの復讐という過激な行動の指令を生み出す。深層心理の思考の結果を受けて、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。現実原則とは、現実的な利益を自らにもたらせようとする欲望である。行動の指令のままに行動することを決定すれば、そのまま行動し、意志による行動と言われる。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が理性と言われるものである。その思考が、なかなか別の行動を結論として見出せない場合、苦悩に陥る。なぜならば、人間が、表層心理で抑圧しようという深層心理が生み出した行動の指令は、常に、過激な行動の指令であり、それは、深層心理が怒りという傷心から生まれた感情とともに生み出されているので、別の行動を考え出さない限り、その怒りという傷心の感情は消えないからである。怒りという傷心の感情の中で思考することが苦悩なのである。人間が、表層心理で、苦悩の中で、生み出したのが、聖書の言う神の言葉に従うことであり、日本人が言う
文化的・精神的なことを追求することなのである。神の言葉に従うことや文化的・精神的なことを追求することによって、苦悩を解決しようとしたのである。まさしく、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・物・事柄という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えて、解釈している。人間は、他者、物、事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)によって、存在しているように創造する。)のである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。さて、人間の深層心理は、他者、物、事柄という対象について思考して、感情と行動の指令を生み出すのだが、それには、何かを主体にすることが必要である。深層心理は、自我を主体にするのである。すなわち、人間は、深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自我を主体に立てて、快楽を得ようという快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、抽象的な自分や自己から離れ、自我を持って、初めて、人間として感じることができ、行動できるなるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしているのである。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として、生きているのである。構造体、自我には、さまざまなものがある。具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・男児・女児などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という庶民)という自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民という自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民という自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民という自我がある。人間は、一生、いついかなる時でも、構造体に所属し、自我を持って暮らしていくのである。さて、人間は、深層心理で、どのような時、快楽を得るだろうか。それは、自我が他者に認められた時、自我で他者や物や事柄という対象を支配している時、自我と他者の交流が上手く行っている時である。逆に、人間は、深層心理で、自我が他者に認められなかった時、自我で他者や物や事柄という対象を支配できなかった時、自我と他者の交流が上手く行かなかった時、傷心もしくは怒りという不快感を抱くのである。人間は、自我が他者に認めて欲しいという思いで他者を見ているから、他者に認められないと、傷心もしくは怒りという不快感を抱くのである。自我が他者に認めて欲しいという思いで他者を見ることを、自我の対他化と言う。自我の対他化を略して、単に、対他化と表現することがある。自我を対他化する人間のあり方を、対他存在と言う。人間は、自我で他者や物や事柄という対象を支配しようとするから、支配できない時、傷心もしくは怒りという不快感を抱くのである。自我で他者や物や事柄という対象を支配しようとすることを、他者や物や事柄という対象の対自化と言う。他者や物や事柄という対象の対自化を略して、単に、対自化と表現することがある。他者や物や事柄という対象を対自化する人間のあり方を、対自存在と言う。人間は、自我と他者の交流が上手く行くように考えているから、交流が上手く行かないと、傷心もしくは怒りという不快感を抱くのである。自我と他者の交流が上手く行くように考えることを、自我と他者の共感化と言う。自我と他者の共感化を略して、単に、共感化と表現することがある。自我と他者を共感化させようとする人間のあり方を、共感存在と言う。このように、人間は、深層心理が、自我の対他化、他者や物や事柄という対象の対自化、自我と他者の共感化という三種類の機能を使い、快感原則を満たそう、すなわち、その時その場でひたすら快楽を求めようとする。この、対他化、対自化、共感化の三種類の機能は同時に働くことはなく、その都度、いずれかの一化が機能している。さて、自我の対他化であるが、人間は、常に、深層心理が、他者に認められたいという思いで、自我を対他化して、他者が自我どのように思っているかを探っているのである。つまり、自我の対他化とは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることなのである。人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自我がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間は、一般に、自我にこだわり、プライドを持っているのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、自らのプライドと言えども、自ら、生み出したものではないのである。深層心理の自我の対他化の作用による他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。すなわち。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。大学受験生が不安なのは、受験に失敗して周囲の他者から悪評価・低評価を受けるということの虞からである。つまり、受験生は、周囲の他者の評価の虜、周囲の他者の意向の虜なのである。もちろん、受験生は、受験に成功すれば、周囲の他者から好評価・高評価を受け、喜びを得ることができる。しかし、これも、また、周囲の他者の評価の虜、周囲の他者の意向の虜なのである。しかし、これは、やむを得ないのである。なぜならば、ラカンの言うように、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)からである。
次に、他者や物や事柄という対象の対自化であるが、人間は、常に、深層心理が、他者や物や事柄という対象を支配しようという思いで、他者や対象物や対象事を対自化して、他者の欲望を探り、物の利用を考え、事柄を自らの志向性(自分の視点)や趣向性(好み)で捉えようとする。このように、自我の対他化は見られることならば、対象の対自化は、見ることなのである。だから、サルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言い、対自存在のあり方を推奨したのである。サルトルこそ、ニーチェの言う「権力への意志」の実行者である。一生、孤高の立場で、他者と戦ったからである。しかし、人間は、一般に、対自化を貫くことは難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、権力者の反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を存続させるために、自我を対他化の虜にするからである。そして、自我と他者の共感化であるが、人間は、常に、深層心理が、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという思いで、自我と他者を共感化させ、自我と他者の心の交流を図ろうとしている。つまり、自我と他者の共感化とは、それは、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という四字熟語があるが、これもまた、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカーになる者までいるのである。さらに、深層心理は、自我を存続・発展させようとして、そして、構造体を存続・発展させようとして、構造の中で、自我を主体に立て、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。深層心理が、自我を存続させようと自我の欲望を生み出するのは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、新しい自我の獲得には、何の保証も無く、不安を覚えるからである。深層心理が、自我を発展させようと自我の欲望を生み出するのは、そうすれば、他者から認められ、自我の対他化という欲望が満たされ、喜びが得られるからである。深層心理が、構造体を存続させようと自我の欲望を生み出すのは、構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい構造体の所属には、何の保証も無く、不安を覚えるからである。深層心理が、構造体を発展させようと自我の欲望を生み出すのは、そうすれば、自我もその構造体の他者から認められたように気持ちになり、快感を覚えるからである。もちろん、人間は、現在よりも上位の構造体や上位の自我が用意されていたならば、深層心理は、現在の構造体や自我をすて、その構造体や自我に赴くのである。なぜならば、人間の深層心理には、ニーチェの言う「権力への意志」があり、自我の欲望を最大限に発揮しようと考えているからである。このように、人間は、深層心理が、まず、思考するのである。ラカンは、「無意識は、言語によって構造化されている。」と述べている。無意識とは深層心理のことである。言語によって構造化されているとは、言語を使って、論理的に思考しているという意味である。つまり、人間は、無意識に、深層心理が、まず、言語を使って、論理的に思考するのである。それを受けて、人間は、意識して、表層心理で、思考するのである。このように人間は、常に、深層心理が、構造体において、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。つまり、他者・物・事柄という対象の対自化とは、先に述べたように、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・物・事柄という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えて、解釈している。人間は、他者・物・事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で、存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、他者という対象を支配し、物という対象を利用し、事柄という対象を自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えたいという欲望である。自分の志向性(観点・視点)とは、対象を支配したという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性(観点・視点)は冷静に捉え、趣向性(好み)は感情的に捉えていることである。さて、先に述べたように、人間は、まず、深層心理が、人間自らは意識していないが、心の中で、思考行動を始めるのである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれているが、消極的な存在ではない。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、深層心理の思考の後である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。その思考が、広義の理性である。その思考結果による行動が、意志である。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が狭義の理性である。しかし、狭義の理性の活動は、苦悩を伴うことが多い。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りという不快な感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、狭義の理性による思考は長く続き、それは苦悩になるのである。しかし、それが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。
また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。




深層心理が生み出す自我の欲望と精神疾患(自我その288)

2019-12-28 22:50:22 | 思想
人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考えたる(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。自殺率はおよそ15%と高く、注意が必要なのである。日本人の鬱病の生涯有病率は10~15%である。一生のうち、10人に1人以上が罹患する病気であり、女性のほうが男性の約2倍かかりやすいことがわかっている。年代では、10歳代後半から壮年期に多く見られるが、老年期にも見られることがある。原因については、家族という構造体では、結婚、離婚、息子や娘の死亡、学校という構造体では、生徒間のいじめ、校長による教師への指導不足の指摘などのパワハラ、会社という構造体では、上司の連日の部下への叱責などのパワハラ、そして、転勤、退職などが挙げられる。いずれもが、自我が、他者から実際に悪評価・低評価を受けたり、他者から悪評価・低評価を受ける可能性が出てきたり、自我を維持することが不安になったりする時に、起こっている。深層心理は、悲しみ・絶望の感情が強いので、自らの心をある継続した心理状態に置くことによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにする。その時、人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。この、継続した心理状態が鬱病なのである。すなわち、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込んでいる者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。さて、人間が、精神疾患に陥るのは、深層心理が自我にこだわるからである。深層心理が自我にこだわるということは、人間が自我にこだわるということなのである。なぜならば、人間は、深層心理という無意識の心が、まず、自我を主体に立てて、快感原則によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。それを受けて、人間は、意識して思考し、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則によって、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の許諾するか拒否するか決めるのである。許諾すれば、行動の指令のままに行動し、それが意志による行動である。拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、別の行動を考えださなければならなくなる。それが、理性による思考である。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。さて、それでは、深層心理や表層心理が主体に立てている自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。深層心理が自我を動かしている。深層心理は、自我の存続・発展のために思考し、自我を動かそうとする。なぜならば、人間が社会生活を営む上で、自我が主体として立つからである。つまり、人間が社会生活を営む上で、自我が存在しなければ、人間も存在しないのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するようにも思考するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。確かに、人間は、深層心理が、自我にこだわらなければ、精神疾患に陥らない。自我の不幸を他者の不幸のように見なすことができれば、精神疾患に陥らない。しかし、自我を捨て去ることはできない。人間は、社会生活を営む上で、構造体の中で、自我を持って生きているからである。自我を捨て去れば、この世では、人間は社会的な生活を送ることはできないのである。つまり、精神疾患に陥らずに社会生活を営むには、自我を保持しつつ、自我にこだわらないことが大切なのである。さて、先に述べたように、人間は、まず、深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自我を主体に立てて、快楽を得ようという快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理は、自我を他者に認めてもらうことによって、自我で他者・対象物・対象事という対象を支配することによって、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとする。自我が他者に認められたいという欲望は、自我を対他化することによって得られる。自我で他者・対象物・対象事という対象を支配したいという欲望は、他者・対象物・対象事という対象を対自化することによって得られる。自我と他者が理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望は、自我を他者と共感化することによって得られる。自我の対他化、他者・対象物・対象事という対象の対自化、自我と他者の共感化という三化の機能は、深層心理に先天的に備わている。三化の機能は同時に働くことはなく、その都度、いずれかの一化が機能している。
さて、まず、自我の対他化であるが、それは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会うと、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自我がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間は、一般に、自我にこだわり、プライドを持っているのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、自らのプライドと言えども、自ら、生み出したものではないのである。深層心理の自我の対他化の作用による他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。すなわち。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が精神疾患に陥るのも、深層心理の自我の対他化の機能による。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なったのだが、深層心理が生み出した自我の欲望からも表層心理での思考からも、傷心した心を救う有効な手立ては見つからないので、深層心理が、学校や会社という構造体を避けようとして、自らの心を精神疾患に陥らせたのである。次に、他者・対象物・対象事という対象の対自化であるが、それは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・対象物・対象事という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)で捉えて、解釈している。人間は、他者・対象物・対象事という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えて、解釈している。人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で、存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、他者・対象物・対象事・自我という対象を支配したいという欲望である。自分の志向性(観点・視点)とは、対象を支配したという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性(観点・視点)は冷静に捉え、趣向性(好み)は感情的に捉えていることである。自我の対他化は見られることならば、対象の対自化は、見ることなのである。他者・対象物・対象事という対象を自らの志向性(視点・観点)や趣向性(好み)で見るということである。深層心理は、他者・対象物・対象事という対象を対自化することによって、他者を支配するために他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探り、対象物をどのように利用しようか思考し、対象事を自らの志向性(視点・観点)で捉え、自我の行動をコントロールしようとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということの意味でもあるのである。これを徹底したものが、ニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、一生戦うことを有言実行したサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言っているが、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」という言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。大衆は、他者・対象物・対象事という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。また、人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で、存在しているように創造することがある。神の存在がそうである。人間にとって、神が存在しなければ不安だから、神が存在するのである。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬、板垣退助、江藤新平などの勤王の志士という歴史上の人物は、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫んでいる。しかし、彼らは、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がったのではない。彼らのほとんどは、外様大名の下級の武士であったり、郷士であったりするので、江戸幕府が続く限り、立身出世が望めないばかりか、一生、貧窮の生活を送らなければいけない。そんな彼らが、ペリー来航以来、弱体を露わにした徳川幕府に対して、打倒に向かうのは当然のことである。彼らは、朝廷(天皇家)のためではなく、外様大名の下級武士・郷士という自我を捨て去り、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのである。大衆は、彼らを、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がった勤王の武士と思いたいから、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫ばせたのである。かつて、視聴率の高いテレビドラマに、「水戸黄門」という時代劇があった。水戸黄門が、身をやつし、身分を隠して、助さんと格さんを引き連れて、諸国を漫遊し、悪大名、悪代官、悪商人を成敗する物語である。悪人たちと立ち回りになり、悪人たちが、打ちのめされた頃合いに、助さんか格さんが、葵の紋の印籠を掲げて、「さきの副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。」と言うと、悪人一味は、土下座し、平伏して、降伏を宣する。大衆は、庶民を救う権力者が欲しいから、「水戸黄門」というテレビドラマの時代劇を作ったのである。しかし、水戸黄門は、水戸からほとんど出ず、女癖が悪く、城内で、大した理由もなく、家臣を斬殺しているのである。現代政治においても、大衆は、庶民を救う権力者を求めている。だから、安倍晋三や森田健作に支持が集まったのである。しかし、安倍晋三首相は、強行採決を繰り返して日本を私物化し、森友学園・加計学園の自分の信奉者・友人に、不正な優遇をし、「桜を見る会」を私物化し、公私混同した。森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回った。現在、視聴率の高い、テレビ朝日のテレビドラマに、「相棒」という刑事ドラマがある。東大法学部を卒業した、キャリアの杉下右京警部が、警視庁特命係という、仕事らしき仕事のない部署で、相棒の部下を一人従えて、強引に難事件に首を突っ込み、解決していくというドラマである。東大法学部卒などのキャリアと呼ばれる官僚たちは、安倍晋三のために、公文書を改竄し、嘘の答弁をし、都合良く健忘症になる。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。大衆は、高学歴の人間に、ありもしない夢を抱いているのである。権力者や高学歴の人間が、いつか、自分たちを救ってくれるのではないかと期待を抱いているのである。そして、自分たちは、何もせず、そのような人が現れるのを待っているのである。それが、両ドラマを高視聴率に導いているのである。しかし、大衆が、どれだけ待とうと、権力者や高学歴の人間は、大衆の意を酌んでくれない。彼らは、その権力や高学歴を生かして、自分たちの利益を最大限に求め続ける。それは、集団的自衛権の国会成立、原子力発電所の再稼働に、如実に現れているではないか。世論調査で、圧倒的に、集団的自衛権の成立に反対・原子力発電所の再稼働に反対の結果が出ても、自民党を中心とした勢力は、強引にそれを推し進めたのである。しかし、それでも、大衆は、権力者や高学歴者が、自らを救うの待ち続けるであろう。人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で、存在しているように創造するからである。大衆は、特に、そうなのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」の声が聞こえてくる。そして、自我と他者の共感化であるが、それは、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という四字熟語があるが、これもまた、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカーになる者までいるのである。さて、先に述べたように、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、表層心理ではなく、深層心理である。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するのである。表層心理とは、人間が、意識して、思考し、その結果を、意志として行動するあり方である。もしも、人間が、最初から、自分で意識して考え、意識して決断して、行動できれば、人間は主体的な活動ができ、主体性を持していることになる。しかし、表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するから、人間は、本質的には、主体的なあり方をしていず、主体性を持していないことになる。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、深層心理の思考の後である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、その決定通りに行動しようとするのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考結果による行動は、意志と言われている。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われるのである。さて、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。







自分は何のために生きているのか。人間は何のために生きるのか。(自我その287)

2019-12-26 22:35:14 | 思想
人間、誰しも、「自分は何のために生きているのか。」と考えることがある。人間、誰しも、苦悩の中で、意識して、「自分は何のために生きているのか。」と考える。しかし、たいていの場合、その疑問が解けないままに、しかも、自分の生き方を明確には見出せないままに、再び、日常生活に埋没し、その疑問を忘れてしまう。また、自分の生き方がわかったと思ったとしても、その生き方は、今までの生き方をほんの少し変えてみたり、今までの生き方に対する気持ちのありようを変えたりしたものである。つまり、変わったとしても、考え方が少し変わっただけで、本質的には生き方は変わっていないのである。そもそも、人間は、自分の生き方を変えることはできないのである。なぜならば、人間を動かすものは、深層心理だからである。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、人間は、無意識のうちに思考しているのである。もちろん、人間は、意識しながら、考える。それが、人間の表層心理での思考である。つまり、人間には、無意識という深層心理の思考と意識しての表層心理での思考の二種類の思考があるのである。一般には、思考と言えば、意識しての思考である。なぜならば、たいていの人は、人間は無意識のうちでも思考していることに気付いていないからである。それは、当然のことである。なぜならば、無意識なのだから、人間の精神構造を分析しない限り、そこが思考しているとは気付くことも理解することもできないからである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。さて、人間は、苦悩の中で、意識して、「自分は何のために生きているのか。」と考えている時、表層心理で、考えている。人間の意識しての思考や行動は、全て、表層心理でのものである。しかし、苦悩は、人間は、表層心理で、意識して生み出すことはできない。人間は、苦悩に限らず、全ての感情を、表層心理で、生み出すことはできない。感情を生み出すのは、無意識の思考である深層心理である。もちろん、苦悩を生み出したのも、深層心理である。それでは、なぜ、人間は、苦悩するのか。それは、心が傷付けられたことがきっかけである。例えば、家で、父親から、成績不振を厳しく咎められる。学校で、同級生から、悪口を言われる。会社で、ノルマを達成していないので、給料を下げられる。近所の人たちから、仲間はずれにされる。交際していた女性から別れを告げられ、失恋するなどがある。その時、深層心理は、二つの反応を示す。一つは、深層心理は、傷心のあまり、絶望感に陥り、その場から逃げ出せという行動の指令を本人出す。人間は、表層心理でそれを受けて、その場から逃げたら、よりいっそう不利な状況に落ちると考え、その場に踏みとどまりながら、心の傷の癒やし方を考える。その時、思考に苦慮して、「自分は何のために生きているのか。」と考えるまでに至ることがあるのである。もう一つは、深層心理は、傷心を怒りに転じて、心を傷付けた相手に反撃しろという行動の指令を本人に出す。人間は、表層心理でそれを受けて、反撃したら、よりいっそう不利な状況に落ちると考え、反撃しろという行動の指令を抑圧しながら、心の傷の癒やし方・怒りの収め方を考える。その時、思考に苦慮して、「自分は何のために生きているのか。」と考えるまでに至ることがあるのである。また、「自分は何のために生きているのか。」と考えている中で、「人間は何のために生きるのか。」という疑問が湧いてくることがる。それは、個人的な疑問を普遍的な人間の疑問に高めることによって、個人の疑問を解決しようとしたのである。1903年、華厳の滝で投身自殺した第一高校生に対して、マスコミは、「人間は何のために生きるのか。」という課題に苦悩のあまり自殺したのだと褒めそやした。しかし、後に、彼の手紙や日記から、彼の自殺の原因は」失恋であるとわかった。失恋の傷で、自我を立て直すことができなかったから、彼は、自殺したのである。「自分は何のために生きているのか。」や「人間は何のために生きるのか。」という疑問は、苦悩の原因にならない。自我が傷付けられたという傷心や怒りを癒やす方法が見つからないので、それが苦悩にまで高まり、「自分は何のために生きているのか。」や「人間は何のために生きるのか。」という疑問にまでたどりついたのである。これらは大きな問題であるが、人間は、この問題を意識して考えても、すなわち、表層心理で考えても、答えは見出せない。なぜならば、人間は、無意識の思考という深層心理によって動かされているからである。人間は、まず、深層心理が思考し、それを受けて、表層心理で、思考するからである。しかし、苦悩をもたらした傷心の原因を探れば、「自分は何のために生きているのか。」や「人間は何のために生きるのか。」という疑問の解答の糸口は見えてくるのである。先に、傷心の原因として、五つの例を挙げたが、家で、父親から、成績不振を厳しく咎められたことは、家族という構造体で、父親という他者から息子もしくは娘という自我に悪評価・低評価を与えられたから、深層心理が傷付いたのである。なぜ、深層心理が傷付いたのか。それは、深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出しているが、それがかなわなかったからである。学校で、同級生から、悪口を言われたことは、学校という構造体で、同級生という他者から悪評価・低評価を与えられたから、深層心理が傷付いたのである。なぜ、深層心理が傷付いたのか。これも、また、深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出しているが、それがかなわなかったからである。会社で、ノルマを達成していないので、給料を下げられたことは、会社という構造体で、社員という自我がノルマを支配しようとしたが失敗し、深層心理が傷付いたのである。なぜ、深層心理が傷付いたのか。それは、深層心理は対象や他者を対自化することによって、対象や他者を支配したいという欲望を生み出しているが、それがかなわなかったからである。近所の人たちから、仲間はずれにされたことは、近所という構造体で、自我が隣人という他者との共感化に失敗し、深層心理が傷付いたのである。なぜ、深層心理が傷付いたのか。それは、深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出しているが、それが叶わなかったからである。交際していた女性から別れを告げられ、失恋したことは、カップルという構造体で、恋人同士という共感化が失われ、深層心理が傷付いたのである。なぜ、深層心理が傷付いたのか。これもまた、深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出しているが、それがかなわなかったからである。
さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動しているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、その構造体の中で、ポジションが与えられ、それを自己のあり方として行動する主体である。すなわち、自我とは、ある役割を担った現実の自分の姿なのである。自己が自我となって、存在感を覚え、人間は、自信を持って行動できるのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。構造体は、先に例に挙げたように、家族、学校、会社、近所、カップルなどの人間の集合体・組織である。家族という構造体では、父親・母親・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、近所という構造体では、隣人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。たとえ、人間は、一人暮らしをしていても、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、暮らしているのである。さて、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体に立てて暮らしているのであるが、先に述べたように、その自我を動かすものは、表層心理ではなく、深層心理なのである。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するのである。表層心理とは、人間が、意識して、思考し、その結果を、意志として行動するあり方である。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。
だから、「自分は何のために生きているのか。」や「人間は何のために生きるのか。」という問いに、一律の解答を与えるならば、人間は、深層心理によって動き出すから、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めるためだということになる。しかし、人間、誰しも、この解答に満足しないだろう。なぜならば、人間は、意識して考えること、すなわち、表層心理で考えることに尊厳を置いているからである。また、それで良いのである。なぜならば、人間は、表層心理の思考を重んじなければ未来に期待できないどころか、深層心理のままに行動していれば、既に、人類は滅びているからである。しかし、人間は、表層心理では、感情を生み出せず、深層心理から独立して思考できず、常に、深層心理の思考の結果を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するか思考することから活動は始まるのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について拒否することを決定し、意志で。行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、抑圧できず、行動の指令のままに行動してしまうのである。だから、人間の表層心理での思考には限界があるのである。しかし、それに賭けるしかないのである。もしも、表層心理での思考で、深層心理の思考を克服できる人がいれば、その人は聖人である。しかし、私は、これまで、聖人に会ったことも、見たこともない。さて、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定するのである。そして、その決定を、意志として行動しようとするのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考結果による行動が意志である。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われるのである。さて、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について思考することを広義での理性と言い、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定して別の行動を考え出すことを狭義での理性と言う。いずれにしても、人間の表層心理での思考は理性なのである。また、先に述べたように、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。ルーティーンと言われる日常生活は、無意識の習慣的な行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、先に述べてように、人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、それは、他者に認められたい、他者や対象を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類の欲望を満足させることによって得ることができる。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は対象や他者を対自化することによって、対象や他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出すのである。まず、自我の対他化であるが、それは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。これが自我の対他化であり、人間の無意識のうちで、深層心理が行っていることである。この他者の視線の意識化は、自らの意志という表層心理に拠るものではなく、無意識のうちに、深層心理が行っている。だから、自動的な行為のように思われがちである。だから、他者の視線の意識化は、誰しもに起こることなのである。しかし、ただ単に、他者の視線を感じ取るのではない。そこには、常に、ある思いが潜んでいる。それは、その人から好評価・高評価を得たいという思いである。つまり、人は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人は他者の評価を勝ち取ろうとしている。人は他者の行っていることを模倣したくなる。人は他者の期待に応えようとする。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。だから、自我の対他化とは、ある意味では、自ら、敢えて、自分の身を他者の評価にさらそうとすることなのである。サルトルが、「対他化とは、見られているということであり、敗者の態度だ。」と言っているのも、一応は、頷けることである。当然のごとく、サルトルは、「見られることより見ることの方、すなわち、対自化が大切なのだ。」と言っていることになる。サルトルに、「あなたは何のために生きているのか。」や「人間は何のために生きるのか。」という質問をしたら、恐らく、一つの答えとして、「他者や対象を対自化し続けることである。」と返ってくるだろう。確かに、サルトルは、一生、対象を自らの視点で捉え続け、他者と戦い続けた。次に、対象や他者の対自化であるが、それは、自らの視線で見るということである。深層心理は対象や他者を対自化することによって、対象や他者を支配したいという欲望を生み出しているのである。すなわち、他者の対自化とは、他者(その人)がどのような思いで何をしようとしているのか、つまり、その人の欲望を探ろうとすることであり、対象物の対自化はその物を利用することを考えることであり、対象事の対自化は、自分の視点で物事を捉えることである。つまり、対象や他者を対自化するとは、自我中心の姿勢、自我主体の姿勢なのである。これを徹底したさせたのが、ニーチェの言う「権力への意志」である。次に、自我と他者の共感化であるが、それは、自我と他者の相克を克服したものである。それは、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。理解し合う、協力し合う、愛し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」という四字熟語文字がト他者の共感化の現象である。「仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。」という意味である。仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができなくても、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否し、妥協することを拒否するからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻ってこともある。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者を共感化させ、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差しだしていた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカー殺人という凶行に走る者がいるのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。男児は、家族という構造体から追放されないために、母親に対する恋愛感情というエディプスの欲望を抑圧したのである。このように、深層心理は、快感原則によって、自我を対他化し、対象や他者を対自化し、自我と他者を共感化し、そして、自我の保全のために、自我の欲望を生み出している。深層心理の方向性は単純明快である、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、自我を保全することである。もしも、「自分は何のために生きているのか。」という問いが有効であるならば、それは、人間は、表層心理での思考、すなわち、理性による解答である。それが、有効な解答ならば、それは、「人間は何のために生きるのか。」という問いにも有効になる。しかし、人間の表層心理での思考は、理性と呼ばれているが、自我に利益をもたらそうという現実原則という欲望に基づくから、自我と他者の壁を超えるのは至難の業である。しかし、自我と他者の壁を超えない限り、「自分は何のために生きているのか。」の解答は、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることと同様に、独りよがりのものになる。況んや、「人間は何のために生きるのか。」という問いに答えようもないことは言うまでもない。



自己の欲望と他者の欲望について(自我その286)

2019-12-26 00:25:13 | 思想
人間は、誰しも、人間社会の中で生きている。すなわち、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きていく、自己の存在の姿である。構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。言うまでもなく、人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我は息子もしくは娘である。もちろん、血縁関係の無い家庭、児童養護施設などで育つこともあるが、そこでも、家族という構造体が形成され、息子もしくは娘という自我を持って育つのである。成長するにつれて、家族という構造体に加えて、保育園、幼稚園、小学校などの構造体に所属し、そこで、保育園児、幼稚園児、小学生などの自我を持して、暮らすことになる。つまり、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持して生きていかざるを得ないのである。しかし、人間は、構造体の中で、自我を得た時点で、自己は捨てられ、自我に捕らわれ、主体的な生き方は失われのである。人間は、構造体の中で、自我を得た時点で、自己判断し覚悟を持って行動するという、主体的な生き方は失われのである。なぜならば、人間は、構造体の中で、自我を得た時から、深層心理(人間が意識していない心の働き)が生み出した自我の欲望に動かされるからである。確かに、深層心理は、自我を主体に立てて、思考する。しかし、自我は主体に立てられているだけであり、自我を動かす主体は深層心理なのである。だから、人間は、本質的には、主体的な存在ではないのである。それでも、人間は、誰しも、自分は主体的に生きていると思っているか、覚悟すれば、いつでも、主体的に生きることができると思っている。その理由は、二つある。一つの理由は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・対象物・対象事・自我という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)で捉えている。人間は、他者・対象物・対象事・自我などという対象を、自分の志向性(観点・視点)で、無識のうちに捏造することがある。人間は、他者・対象物・対象事・自我という対象が実際には存在しなくても、無意志のうちに、自分の志向性(観点・視点)で、存在しているように創造する。)である。これらの現象が、全て、人間の無意識のうちに為されるのは、深層心理が為しているからである。自己の欲望とは、他者、対象物、対象事、自我という対象を支配したいという欲望である。自分の志向性(観点・視点)とは、対象を支配したという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。つまり、人間が、自分は主体的に生きていると思っているか、覚悟すれば、いつでも、主体的に生きることができると思っているのは、自分は主体的に生きたいと思っているからなのである。人間は、自分には主体的な生き方は実際には備わっていないのだが、主体的に生きたいと思っているから、自分には主体的な生き方は実際には備わっていると思い込んだのである。そもそも、主体的とはどのような意味であるか。主体的とは、自分がある思考や判断や行動などをする時、自分が主体となって動くことを意味する。自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動することである。だから、人間は、この生き方に憧れ、主体的な生き方ができると思い込んだのである。しかし、「人は自己の欲望を対象に投影する」という理由以外に、人間は、自分は、主体的な生き方ができると思い込む理由がある。それは、人間は、まず、深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自我を主体に立てて、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すが、そのすぐ後、人間は、表層心理(人間の意識しての心の働き)で、自我を主体に立てて、現実原則に基づき、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか思考し、その思考の結果が意志による行動として現れるからである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、その時その場での、ひたすら快楽を求める欲望である。現実原則も、心理学者のフロイトの用語で、長期的な展望の下に、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。だから、人間の表層心理での思考を、主体的な生き方に結びつけようと考えるのもうなずけるところである。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて行われるのである。また、人間の表層心理での思考は、現実的な利益を自我にもたらそうという現実原則の下で行われるのである。そして、人間は、表層心理で思考し、深層心理が生み出した行動の指令について拒否しようと結論を出し、意志で行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できず、行動の指令のままに行動してしまうことがあるのである。だから、人間の表層心理での思考を、主体的な生き方に結びつけることはできないのである。さて、人間は、まず、深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自我を主体に立てて、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すが、それは、自我が他者に認められることによって、自我で他者・対象物・対象事・自我という対象を支配することによって、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって得られるのである。自我が他者に認められたいという欲望は、自我を対他化することによって得られる。自我で他者・対象物・対象事・自我という対象を支配したいという欲望は、他者・対象物・対象事・自我という対象を対自化することによって得られる。自我と他者が理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望は、自我を他者と共感化することによって得られる。この、自我の対他化、他者・対象物・対象事・自我という対象の対自化、自我と他者の共感化という三化は、深層心理が行うから、人間の無意識のうちに行われ、三化は同時に起きることはなく、いずれか一化で行われる。まず、自我の対他化であるが、それは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者に会うと、まず、その人から好評価・高評価を得たいと思いで、その人の視線から、自分がどのように思われているかを探ろうとする。つまり、人間は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、視線を感じ取り、その人から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自我がその人にどのように思われているかを探ることなのである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間は、一般に、自我にこだわり、プライドを持っているのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、自らのプライドと言えども、自ら、生み出したものではないのである。深層心理の自我の対他化の作用による他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。すなわち。人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。次に、他者・対象物・対象事・自我という対象の対自化であるが、それは、先に記したように、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・対象物・対象事・自我という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)で捉えている。人間は、他者・対象物・対象事・自我などという対象を、自分の志向性(観点・視点)で、無識のうちに捏造することがある。人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意志のうちに、自分の志向性(観点・視点)で、存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、他者・対象物・対象事・自我という対象を支配したいという欲望である。自分の志向性(観点・視点)とは、対象を支配したという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。言わば、自我の対他化は見られることならば、対象の対自化は、見ることなのである。他者・対象物・対象事・自我という対象を自らの志向性(視点・観点)で見るということである。深層心理は、他者・対象物・対象事・自我という対象を対自化することによって、他者を支配するために他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探り、対象物をどのように利用しようか思考し、対象事を自らの志向性(視点・観点)で捉え、自我の行動をコントロールしようとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということの意味でもあるのである。これを徹底したものが、ニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、一生戦うことを有言実行したサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言っているが、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」という言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。大衆世界においても、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、他者・対象物・対象事・自我という対象を、無意識のうちに、自分の志向性(観点・視点)で捉えている。人間は、他者・対象物・対象事・自我などという対象を、自分の志向性(観点・視点)で、無識のうちに捏造することがある。人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意志のうちに、自分の志向性(観点・視点)で、存在しているように創造する。)という現象は、顕著に、現れている。歴史上の人物や架空の人物の取り上げられ方がそうである。坂本龍馬、西郷隆盛は、しばしば、テレビドラマに取り上げられ、人気が高い。彼らは「新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫ぶ。これは、彼らを含めて、勤王の志士の決めぜりふである。勤王の志士とは、江戸末期、自分の身を犠牲にして、朝廷(天皇家)のために、徳川幕府打倒を図った、高い志を持つ人という意味である。確かに、彼らは、徳川幕府打倒のために、命を賭けて戦った。しかし、それは、決して、朝廷のためではない。自らの自我のためである。彼らは、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのである。勤王の志士には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬、板垣退助、江藤新平などが存在する。彼らのほとんどが、薩長土肥、すなわち、薩摩、長州、土佐、肥前の下級武士である。坂本龍馬などは、武士より下位の郷士である。薩長土肥は外様大名の藩である。西郷隆盛、大久保利通は薩摩藩、木戸孝允、伊藤博文は長州藩、坂本龍馬、板垣退助は土佐藩、江藤新平は肥前藩の藩士である。外様大名は、関ヶ原の戦いの後に徳川家に臣従した大名であり、幕府の要職から外され、辺境地帯に封ぜられ、冷遇・警戒された。外様大名は、徳川幕府が続く限り、不安・恐怖から脱却できない。しかも、彼らのほとんどは、外様大名の下級の武士であったり、郷士であったりするから、立身出世が望めないばかりか、一生、貧窮の生活を送らなければいけない。そんな彼らが、ペリー来航以来、弱体を露わにした徳川幕府に対して、打倒に向かうのは当然のことである。彼らは、朝廷(天皇家)のためではなく、外様大名の下級武士・郷士という自我を捨て去り、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのである。徳川幕府が続く限り、彼らは、外様大名の下級武士・郷士という自我を持たせられ続け、立身出世が望めないばかりか、一生、貧窮の生活を送らなければいけないからである。しかし、大衆は、坂本龍馬、西郷隆盛を含めて勤王の志士は、「新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」という決めぜりふのように、江戸末期に、自分の身を犠牲にして、朝廷(天皇家)のために、徳川幕府打倒を図った、高い志を持った人であると思い込んでいるのである。だから、大衆に合わせて、勤王の志士がヒーローのテレビドラマが作られるのである。もちろん、テレビドラマは、放送局が作る。しかし、大衆に人気の無いテレビドラマは、放送局が作ることができない。大衆に人気の無いテレビドラマは、消えていく。放送局は、幕末を描いたテレビドラマは、大衆の勤王の志士のヒーロー像、すなわち、大衆の意向に合わせて作るしかないのである。それでは、なぜ、現代の大衆はもちろんのこと、明治時代以降の大衆は、勤王の志士を、江戸末期に、自分の身を犠牲にして、朝廷(天皇家)のために、徳川幕府打倒を図った、高い志を持った人であると思い込んでしまったのか。それは、第一には、明治政府以来現代の政府まで、大衆に、当時代の政治性を肯定させるようにするために、当時代の政治性の基礎を作った勤王の志士のヒーロー像を、学校教育で植え付けるようにし、それが成功したからであるが、第二には、大衆自身、権力者やヒーローを待望しているからである。もちろん、大衆は、それに気付いていない。大衆は、勤王の志士のヒーロー像は真理だと思い込み、しかも、それを自ら獲得したものであると思い込んでいる。メシアとは、古代ユダヤ人が待ち望んだ救い主であり、キリスト教ではイエスが救い主だとされているが、勤王の志士のヒーロー像と同じ現象である。マルクスは、このような大衆の動向を憂え、「宗教は阿片だ」と言ったのである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」のである。大衆は、他者・対象物・対象事・自我などという対象を、自分の志向性(観点・視点)で、無識のうちに捏造するのである。大衆は、人間は、他者、対象物、対象事、自我などという対象が実際には存在しなくても、無意志のうちに、自分の志向性(観点・視点)で、存在しているように創造するのである。真実は、坂本龍馬、西郷隆盛などの外様大名の下級武士・郷士は、外様大名の下級武士・郷士という自我を捨て去り、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのであるが、日本の大衆は、自分の身を犠牲にして、朝廷(天皇家)のために、徳川幕府打倒を図った、高い志を持った人であると思い込んでいるのである。「人は自己の欲望を他者に投影する」現象、すなわち、大衆は自分の志向性で他者を作り上げる現象は、枚挙に暇が無い。かつて、視聴率の高い、TBSのテレビドラマに、「水戸黄門」という時代劇があった。水戸黄門が、身をやつし、身分を隠して、助さんと格さんを引き連れて、諸国を漫遊し、悪大名、悪代官、悪商人を成敗する物語である。悪人たちと立ち回りになり、悪人たちが、打ちのめされた頃合いに、助さんか格さんが、葵の紋の印籠を掲げて、「さきの副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。」と言うと、悪人一味は、土下座し、平伏して、降伏を宣する。現在、視聴率の高い、テレビ朝日のテレビドラマに、「相棒」という刑事ドラマがある。東大法学部を卒業した、キャリアの杉下右京警部が、警視庁特命係という、仕事らしき仕事のない部署で、相棒の部下を一人従えて、強引に難事件に首を突っ込み、解決していくというドラマである。大衆は、権力者や高学歴の人間に、ありもしない夢を抱いているのである。権力者や高学歴の人間が、いつか、自分たちを救ってくれるのではないかと期待を抱いているのである。そして、自分たちは、何もせず、そのような人が現れるのを待っているのである。それが、両ドラマを高視聴率に導いているのである。しかし、大衆が、どれだけ待とうと、権力者や高学歴の人間は、大衆の意を酌んでくれない。彼らは、その権力や高学歴を生かして、自分たちの利益を最大限に求め続ける。それは、集団的自衛権の国会成立、原子力発電所の再稼働に、如実に現れているではないか。世論調査で、圧倒的に、集団的自衛権の成立に反対・原子力発電所の再稼働に反対の結果が出ても、自民党を中心とした勢力は、強引にそれを推し進めたのである。安倍晋三首相が、森友学園・加計学園の自分の信奉者・友人に、不正な優遇をしたのも、「桜を見る会」を私物化し、公私混同したことも、森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回ったことも、大衆の支持率が高いからである。しかし、それでも、大衆は、待ち続けるであろう。自民党安倍政権、森田健作千葉県知事、東大卒業者は、すなわち、権力者は、常に、安泰である。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」の声が聞こえてくる。そして、自我と他者の共感化であるが、それは、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という四字熟語があるが、これもまた、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカーになる者までいるのである。さて、先に述べたように、人間は、常に、構造体の中で、自己が自我となり、他者と関わりながら、自我を主体として暮らしているのであるが、その自我を動かすものは、表層心理ではなく、深層心理である。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するのである。表層心理とは、人間が、意識して、思考し、その結果を、意志として行動するあり方である。もしも、人間が、最初から、自分で意識して考え、意識して決断して、行動できれば、人間は主体的な活動ができ、主体性を持していることになる。しかし、表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、思考を開始するから、人間は、本質的には、主体的なあり方をしていず、主体性を持していないことになる。深層心理とは、人間が自らは意識していないが、心の中で行われている思考行動である。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。人間が、表層心理で、意識して思考するのは、深層心理の思考の後である。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、現実原則に基づいて、自我を主体にして、思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動するか抑圧するかを決定し、その決定通りに行動しようとするのである。表層心理とは、人間が、自ら意識して行う思考行為である。その思考結果による行動は、意志と言われている。現実原則とは、心理学者のフロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。しかし、表層心理での思考は、常に、深層心理の結果を受けて行われるのである。さて、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定した場合、別の行動を考え出さなければならない。その思考が理性と言われるものである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうことになる。これが、感情的な行動であり、後に、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多い。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、人間は、人間の無意識のうちで、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想の誕生には、常に、苦悩が伴うのである。