あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛の支配について(自我その57)

2019-03-13 18:36:57 | 思想
愛と聞くと、誰しも、そこに、幸福をもたらす、美しいものや崇高なものをイメージしてしまう。しかし、愛は、一瞬にして、不幸ももたらす、恐ろしいものや醜悪なものに変じるのである。例えば、愛児の寝顔は両親に安らぎを与える。しかし、突然の死は両親を悲しみのどん底に突き落とす。愛児の活躍は両親に幸福感をもたらす。しかし、その両親も、愛児がいじめっ子集団に加わっていて、被害者の児童が亡くなると、自殺の原因を、被害者児童の別の問題や被害者児童の家庭問題に帰すのである。相思相愛の時、恋人たちは幸福感に包まれている。しかし、一方が別れを告げると、別れを告げられたもう一方が、ストーカーになって、殺人者になることまであるのである。なぜ、そうなるのであろうか。それは、愛とは我欲であるからである。それでは、我欲とは、何か。我欲には、所有後の欲望と所属後の欲望という二つの欲望がある。所有後の欲望とは、ある人やある物を所有することから起こる欲望である。その欲望は、自分が所有した人や物を、他の人から褒めてもらいたい・認めてもらいたい・高く評価してもらいたいという欲望である。所属後の欲望とは、ある構造体に所属することから起こる欲望であり、自分が所属している構造体を、他の人から褒めてもらいたい・認めてもらいたい・高く評価してもらいたいという欲望である。つまり、愛がもたらす幸福感は、我欲が満足されたことによって得られ、愛がもたらす不幸は、我欲が傷つけられたり、我欲の対象となっていた人や物や構造体が失われたりしたことによってもたらされるのである。だから、愛児(我が子)や愛車(自分の車)が、他の人から褒められると、嬉しく感じるのである。愛児(我が子)が、いじめの加害者になり、社会から追及されるのが辛いから、被害者や被害者家族に責任転嫁するのである。愛する人(恋人、夫、妻)が、去ってしまって辛いから、ストーカーになってつきまとう人も出てくるのである。愛社(自分が勤めている会社)が、社会人大会で優勝すると、誇らしく感じるのである。愛社(自分が勤めている会社)から、首を宣告されると、絶望に陥るのである。愛する国(自分の国籍のある国)のチームや国際大会で活躍すると、嬉しく感じるのである。愛する国(自分の国籍のある国)が、他国と領土をめぐって争うと、それが無価値の無人島であろうと、多数の死者が出る戦争にまで突き進むのである。つまり、幸福も不幸も愛ゆえなのである。愛という深層心理に突き動かされて、換言すれば、愛に支配されて、我々は、行動しているのである。仏教では、愛を愛着と言い、人間の迷いの根源として否定的に捉えている。確かに、人間は、愛ゆえに不幸になり、間違いを起こすのは事実である。しかし、愛という深層心理は、人間を動かす基だから、愛が人間の心から消え去ったならば、人間は行動できなくなる。仏教で、悟りを開いた人とは、仏のことであり、自分の心から愛を消滅させた人のことを意味する。それは、文字通り、即身成仏を意味する。私は、悟りを開いた人(即身成仏)を見たことも会ったこともないが、江戸時代などで、即身成仏になろう(させよう)と籠の中に入って(入らせて)、何日間も水も食べ物も食べず(食べさせず)、死んだ者(殺された者)が存在するが、その行為を、仏教者は、讃えることはすれ、非難はしないのだろう。即身成仏が本望だからである。しかし、私は仏教者を望まない。また、その行為の有効性も認めない。しかし、愛は幸福ももたらすが、不幸をもたらすのも事実なのである。だから、愛がなければ、幸福にも成れないが、不幸にもならないのである。それゆえに、生きていこうとする限り、愛の存在を認めつつ行動するしかない。しかし、愛は深層心理だから、意志や思考という表層心理では、根本的に動かすことができない。もしも、愛が幸福をもたらしたならば、それを享受し、愛が不幸をもたらしたならば、それを、徐々に、他の心に転化するしかないだろう。