あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

現代は、日本の戦争を前にして、個人の覚悟が試されている時代である。(自我その389)

2020-07-30 14:01:23 | 思想
日本人は、太平洋戦争を起こし、アジアの人々を虐殺、レイプしただけでなく、インドネシアにいたオランダ人女性をレイプし、慰安婦にするなど、残虐の限りを尽くしたが、圧倒的なアメリカの戦力に脅かされ続け、全国各地が焼かれ、挙げ句の果てに、広島、長崎に、原子爆弾を落とされ、惨敗を喫したことを忘れている。やむを得ない戦争、アメリカに引きずり込まれた戦争として、自らの責任を回避している。このままでは、日本は、早晩、戦争をすることになるであろう。日本が、戦争を仕掛けるのではない。アメリカの戦争に巻き込まれるのである。太平洋戦争の言い訳として使っていたアメリカに引きずり込まれた戦争を、文字通り、実践するのである。正確に言えば、アメリカは、自らが引き起こした戦争に、日本を引きずり込み、自衛隊を前線に立たせて戦わせるのである。アメリカ政府は、自国の兵士が亡くなるのを極端に嫌がる。自国の兵士が亡くなると、途端に支持率が下がり、政権交代の可能性が出てくるからである。ドローンが開発されたのも、自国兵士を殺させたくないからである。しかし、ドローン攻撃は、一点集中攻撃であり、一人の敵兵の暗殺や一つの建物の破壊は可能だが、占領地の拡充には効果が薄い。どうしても、兵士による占領地の制圧・拡充が必要になってくる。そのために、駆り出されるのが自衛隊である。アメリカにとって都合の良いことに、安倍晋三首相は、国会での強行採決によって、集団的自衛権を確保した。アメリカの戦争に、自衛隊を使うことに何の支障もない。さらに、吉田茂首相の時に、密約を結んで、アメリカと日本の兵隊が共同で戦う場合、日本の軍隊はアメリカの指揮の下で動くことになっている。かてて加えて、日頃から、実際に、アメリカ軍の指揮官の下で、アメリカの軍隊と日本の自衛隊の連合軍が訓練を行っている。アメリカは、理由をでっち上げて、簡単に攻め込む国である。ブッシュ大統領は、イラクに、実際には存在しない大量破壊兵器を理由に攻め込み、打ち破り、フセイン大統領を殺した。北朝鮮が、核兵器を開発し、なかなか手放そうとしないのは、イラクの二の舞になるのを恐れているからである。アメリカが容易に戦争する国だということは、集団的自衛権によって、日本も容易に戦争をする国になったということだ。つまり、自衛隊員が、アメリカの戦争に巻き込まれて、戦死する可能性が高くなったということだ。自衛隊員が戦死すれば、日本は、必ず、徴兵制を導入する。なぜならば、国会議員では自民党を中心に、マスコミでは日本テレビ、フジテレビ、読売新聞、産経新聞、週刊新潮、週刊文春などを中心に、「自衛隊員だけ死なせて良いのか。」という大々的なキャンペーンを張り、短時間の国会の審議で採決され、圧倒的な多数によって、徴兵制が決定されるのは確実だからだ。日本人は幼稚な国民だ。太平洋戦争で、あれだけ大きな被害をアジア諸国を中心に与え、あれだけ大きな被害を被っているのに、全く反省していない。靖国神社で祀られている戦死者に対して、「日本のために良く戦った。」と褒め称えている。誰でも、兵士になって戦地に行くと、死にたくないから、良く戦うのである。国民にとって、戦地に行く前に、戦争を起こさないように、自分が戦地に行かなくても良いように、体制と戦うことが最も大切なのである。特攻隊員に対しても、「特攻隊員の死があったから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と感謝の念を吐露する。しかし、特攻死した人のほとんどが二十歳前後の若者であったが、彼らが生き残っていたならば、もっと日本は繁栄したはずである。特攻隊員の死に対しては、彼らを死に追いやった軍部を批判すべきなのである。大岡昇平は、『俘虜記』で、「戦争は嫌だが、この戦争の反対しなかった自分には、批判する資格がない。」と言っている。その通りである。日本人にとってこの戦争は自業自得なのである。それでも、共産主義者、共産党、自由主義者、一部の作家、一部の政治評論家、一部の宗教者は戦争に反対した。しかし、彼らは警察や憲兵に拘束され、その多くは拷問死、リンチ死、獄死などに遭った。国民の中には、戦争に反対している人が近所にいると、警察や憲兵に密告する者が多くいた。彼らはそれが正しいと信じていたのである。幼稚なのである。現代でも、戦争が始まったり、徴兵制の導入が行われたりすると、国民の一部は反対するだろう。そして、その運命は、やはり、拷問死、リンチ死、獄死だろう。戦前、戦中、ほとんどの国民は、幼稚だった。天皇陛下のために生きそして死ぬことを良しと考えていた。だから、戦時中、軍人が自らの背後に天皇がいるとにおわせ、軍人勅諭で捕虜になることを許さず、軍人の病人や怪我人を自決に追い込み、沖縄では、母親に我が子を殺させ、中国やサイパンなどの各地で、民間人を老若男女を問わず、毒薬や手榴弾で自決させたのである。戦後の国民も、太平戦争を正当化し、アメリカに忠誠を誓っている自民党が政権を担当しているのを見てもわかるように、幼稚である。だから、集団的自衛権の下、アメリカが引き起こした戦争に、日本が引きずり込まれる可能性は大いにある。国民の判断は当てにならない。問題は、自分自身がどのように行動するかである。日本が戦争に参加し、日本に徴兵制が導入されたならば、自分自身がどのように行動するかである。もちろん、戦争の動き、徴兵制の動きがあったら、反対運動に加わるだろう。しかし、先に述べたように、自民党、日本テレビ、フジテレビ、読売新聞、産経新聞、週刊新潮、週刊文春などによって、かき消されるだろう。徴兵制が導入されれば、早晩、全成人に徴兵検査の案内が来るだろう。それに行かなかったならばどうなるだろう。まず、警察が逮捕に来るだろう。その時、それに従うことはどうしてもできない者は、死ぬか狂うか戦うかするだろう。まず、死ぬということであるが、死ぬとは自殺することである。徴兵検査という体制に屈するより楽な者もいるだろう。次に、狂うということであるが、狂うとは精神疾患に陥るということである。精神疾患に陥るのは、徴兵検査、戦地、殺す殺されるという現実から逃避するためである。しかし、徴兵検査、戦地、殺す殺されるという恐怖の念が強すぎるあまり、深層心理が精神疾患を招き入れることは大いに考えられる。しかし、深層心理は自分の意志ではないから、実際に精神疾患に陥るかどうかは誰にもわからないことである。そして、戦うということであるが、警察と一人向き合って戦っても勝ち目は無い。逃げることである。しかし、狭い日本のこと、国内逃亡はすぐに見つかるから、実現性は乏しい。もっとも、国内逃亡して、警察に逮捕されるような事態になったら、自殺するのも一計だろう。最も良いのは、日本が戦争に巻き込まれた時点で、徴兵制が導入される前に、海外に移住することである。それには、金や国選びとともにさまざまな準備が必要だろう。また、わざと、徴兵検査に合格しないために、自傷や仮病を起こすことも考えられるが、それはすぐに見破られるだろう。それならば、持病を悪化させた方が良いだろう。だから、持病がない者には、実現性は乏しいだろう。最後の方法として、文字取り、体制と戦うのである。もちろん、一人では戦えない。だから、同士を募り、若しくは、同意見の集団に参加して戦うのである。もちろん、敗北死をする可能性が高い。しかし、おめおめ、徴兵検査を受け、戦地に行かされ、したくもない戦争で死ぬよりは良いと思う。さて、国民の選挙によって選ばれた国会議員であり、その国会によって決まった徴兵制、戦争なのだから、国民はそれに従うのは当然だと言う者は多いが、私は、内閣や国会は戦争を回避する義務があり、国民を戦争に強制する権利は無いと思っている。鶴見俊輔は、「戦地で銃を持たせられたら、自殺するつもりだった。」と言い、戦地では通信係だったから、自殺しなかった。鶴見俊輔の考えも、一考に値すると思う。さて、現在の日本の首相である安倍晋三という国家主義者は、岸信介の孫である。岸信介は、超という接頭語を付くぐらいの、国家主義者であった。安倍晋三が、岸信介を尊敬しているのも、頷けることである。岸信介は、満州国の高官を経て、東条英機内閣が太平洋戦争を起こした時は、商工大臣になっていた。太平洋戦争中、大日本帝国は、軍部が、八紘一宇(はっこういちう・世界を一つの家にすること)を掲げて、自らの行為を正当化しつつ、中国、東南アジアの侵略し続けた。その結果、アメリカを中心とした連合国と戦争をせざるを得なくなった。また、大日本帝国は、満州国の建国理念として、五族協和(日・朝・漢・満・蒙の五族の協和。日本人、朝鮮人、漢族、満州族、モンゴル族が平等の立場で満州国を建設すること)・王道楽土(おうどうらくど・王道主義によって、各民族が対等の立場で搾取なく強権のない楽土(理想郷)を実現すること)を掲げた。しかし、八紘一宇、五族協和、王道楽土は、見せかけだけのスローガンであった。真実は、日本軍人(日本人)はアジアの諸民族を蔑視し、嫌悪していたのである。その証拠として、次のような実例を挙げることができる。日本軍(日本人)は、中国や朝鮮や東南アジアにおいて、日本の神社を拝ませ、日本語を強制し、拷問、レイプ、虐殺を行った。陸軍の細菌戦部隊である731部隊は、中国において、ペスト、コレラ、チフスなどの細菌の研究を進め、実戦に使い、中国人、ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って人体実験を行った。その犠牲者の数は三千人近いと言われている。日本軍(日本人)は、朝鮮において、創氏改名(朝鮮人の姓名を日本式の氏名に改めること)を強制した。日本軍人は、東南アジアにおいて、現地の若い女性をだまして、暴力的に従軍慰安婦に仕立て上げた。それは、朝鮮だけにおいてではない。占領地全てにおいてであった。太平洋戦争は終わった。日本は敗北した。しかし、日本人の中には、アジアの諸民族対する蔑視感・嫌悪感を、現在も、持ち続けている人が存在するのである。それも、決して少ない数ではない。特に、中国、韓国、北朝鮮に対して蔑視感・嫌悪感を抱いている人が多い。それは、戦前、大日本帝国が、中国、韓国、北朝鮮を侵略し、占領したからであり、多くの日本人の深層心理が、国家主義思想あるからである。「在日韓国人や在日朝鮮人は日本から出て行け。」と叫びながら、デモ行進をする在日特権を許さない市民の会という右翼集団の行動に如実に表れている。戦前の亡霊が現在まで生き残っているのである。特に、安倍晋三が首相になってから、我が意を得たりとばかり、ヘイトスピーチする集団とともに、中国・韓国・北朝鮮に対して、あからさまに非難する人が増えてきた。岸信介は、太平洋戦争中、あくどいやり方で、中国で利益を上げた。それ故に、今もって、多くの中国人に嫌われている。当然のごとく、戦後、A級戦犯として逮捕された。しかし、共産主義国であるソ連の台頭、中国の共産党の勃興、朝鮮戦争が起こりそうな機運が高まってきたので、アメリカは政治判断を下し、岸を釈放した。その後、自民党の衆議院議員になり、そして、首相にまで上り詰めた。1960年、安保条約(日米安全保障条約)を改定した。旧安保条約には、アメリカ軍が安全保障のために日本に駐留し、日本が基地を提供することなどを定めていたが、新安保条約は、それに、軍事行動に関して両国の事前協議制などを加えた。旧新ともに、安保条約は、日本がアメリカの従属国家であることを示している。また、岸信介は、旧安保条約の細目協定である日米行政協定を、新安保条約では、日米地位協定と改定した。日米地位協定には、基地・生活関連施設の提供、税の免除や逮捕・裁判に関する特別優遇、日本の協力義務、日米合同委員会の設置など、アメリカ軍人とその家族の権利が保証されている。日本人がアメリカ人の下位にあることは一目瞭然である。岸信介は、政治家を退いた後も、自主憲法やスパイ防止法の成立を目指した。安倍晋三の父である安倍晋太郎も、自民党の衆議院議員であったが、首相にはなれなかった。岸信介の実弟が佐藤栄作である。つまり、佐藤栄作は安倍晋三の大叔父に当たるのである。佐藤栄作も、自民党の衆議院議員であったが、首相となり、国民は非核三原則をうたいながら、アメリカと核密約を結び、いつでもどこでも、アメリカ軍が日本に核兵器を持ち込むことを許した。それが露見しなかったために、ノーベル平和賞を受賞した。安倍晋三は、祖父の岸信介についてはよく言及するが、父の安倍晋太郎、大叔父の佐藤栄作についてはほとんど触れることがない。それは、安倍晋三の深層心理が岸信介に繋がっているからである。安倍晋三の自我は岸信介に連なっているからである。安倍晋三が靖国神社を参拝するのは、そこに祀られているA級戦犯者の復権、延いては、A級戦犯者だった岸信介の復権を目指しているのである。安倍晋三の集団的自衛権は岸信介の対米従属外交、新安保条約、地位協定に繋がっている。自民党の憲法改正案は、岸信介の自主憲法制定の考えに連なっている。安倍晋三とは岸信介のことなのである。確かに、日本は、太平洋戦争でアメリカに敗れ、満州国は崩壊した。しかし、アジアの諸民族に対しての蔑視感・嫌悪感を残している人々がまだ存在する。特に、中国、韓国、北朝鮮に対してそうである。アメリカに対して敗北したのであって、中国や朝鮮に対しては敗北していないというのである。彼らは、日本をアメリカの従属国にしても、中国、韓国、北朝鮮と対峙しようと考えているのである。言うまでもなく、その一人が安倍晋三である。岸信介の満州国における見果てぬ夢を、安倍晋三が首相となって、今見ようとしているのである。戦前の亡霊が現在の日本を支配しようとしているのである。麻生太郎は、安倍内閣の副首相兼財務大臣である。麻生は、「ワイマール憲法も、いつの間にか、ナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。」と発言し、憲法を変えずとも、解釈によって、実質的な憲法改正の道を示唆した。それは、安倍晋三が、ほとんどの憲法学者が反対する中で、強引な憲法解釈と強行採決によって、国会で、集団的自衛権を認めさせたのと、底で繋がっているのである。麻生太郎の祖父が、吉田茂である。吉田茂は、戦前は、外交官として、日本が太平洋戦争に突き進むために、暗躍した。戦後は、首相となり、最初の安保条約(旧安保条約)を成立させた。戦前は、無鉄砲にも、日本がアメリカと戦争するように仕向け、アメリカが世界の第一の強国だとわかると、戦後は、アメリカに阿諛追従している。麻生太郎の節操のなさは吉田茂と繋がっている。確かに、吉田茂は、アメリカからの要求である日本の軍備増強を拒否した面は評価しても良い。しかし、安保条約を成立させて、日本をアメリカの属国にし、沖縄をアメリカの基地の犠牲にした基礎を造ったことは、批判しても批判しつくせるものではない。たとえ、そこには、昭和天皇の暗躍があったとしても。中曽根康弘は、戦前、海軍主計中尉として、インドネシアにいた時に、従軍慰安施設を作った。自叙伝でそれを自慢げに語っていたが、従軍慰安婦が問題となると、沈黙を保っている。戦後、首相となるや、日本に原発を導入し、レーガン大統領に対して、「日本列島は不沈空母」と言い、アメリカの軍事行動を全面的に支援することを約束した。防衛費の対国民生産GNP比率1%枠を突破させた。さらに、首相として、初めて、靖国公式参拝を行った。また、国家秘密法の制定、有事法制の制定、イラン・イラク戦争末期の1987年に自衛隊の掃海艇の派遣を試みたが、いずれも党内外の反対意見が強く、成功しなかった。中曽根康弘の姿勢は、常に日本のナショナリズムを喚起することであり、海軍時代と全く同じである。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。このような人物がいたために、戦争終結が遅れ、日本は、沖縄戦、本土爆撃、広島・長崎の原爆投下の大惨劇に見舞われるのである。戦後、逮捕され、A級戦犯として終身刑を下されたが、健康上の理由で仮出所を許され、その後、病死した。日本は、戦後のほとんどの内閣は、自民党によるものであった。自民党の本質は、憲法改正案に見られる通り、上意下達の全体主義なのである。それは、戦前の政治と同じである。つまり、戦前の亡霊が戦後の日本を支配しているのである。すなわち、現在でも、アメリカに隷属し、戦前と同じく、国家主義者が日本の政治を動かしているのである。また、日本人は、戦前、戦中、ナチス以上に、国内においてだけでなく、中国、朝鮮においても、残虐なことを行っているのである。大日本帝国の軍人たちは、中国を侵略し、十五年戦争(1931年~1945年)において、侵略した村々において、全食糧を奪い、抵抗した男性は試し斬り、若しくは、軍用犬に食わせ、女性は六歳の幼児から七十歳以上の老女まで全てレイプし、妊婦を殺して胎児を取り出し、無抵抗になった村人を赤ん坊や幼児や老人を含めて一カ所に集めて、銃で皆殺しにしてきたのである。この世で考えられる残虐な行為を、大日本帝国の軍人たち、いや、日本人が中国において行ってきたのである。その残虐ぶりは南京事件が有名であるが、南京事件は氷山の一角である。全ての村々において、南京事件と同様に、いや、それ以上に、残虐な殺戮を行ったのである。日本は、朝鮮を植民地として統治してきた期間(1910年~1945年)、朝鮮を日本に同化させようとし、食糧・原料供給地とし、一切の言論・集会・結社の自由を奪い、農民に飢餓輸出を強い、創氏改名させ、労働者として日本に強制連行し、若い女性を慰安婦にし、21万の青年を戦場に送っているのである。この時代だけに、大日本帝国の軍人・日本人に、異常な欲望が湧いてきたのではない。明治維新以来、ほとんどの大日本帝国軍人・日本人が、異常な欲望を持っていたのである。さらに、戦争末期になり、戦況の不利を悟り、戦闘機・戦艦・武器などが少なくなると、若い兵士や学徒出陣の学生・生徒たちに強要し、「自分も後に続くから。」と言って、六千人以上を特攻という苦悶の死を与えたが、ほとんどの上官は後に続かなかった。そして、戦後、彼らは、特攻の責任を、自決した大西瀧次郎海軍中将などに押しつけ、「特攻を希望した若者たちは立派だった。彼らの名誉ある死があるから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と言って、自らの責任を回避した。特攻によって命を散らされた若者が生きていたならば、日本は現在もっと繁栄しているだろう。軍部の上官たちは、行動が詐欺師であるばかりでなく、言動まで詐欺師である。特攻のほとんどは、希望ではなく、軍部の上官による強要である。軍部の上官たちは、自らの保身のために、若者たちを犠牲にし、若者たちは、臆病者だと言われたくないために、特攻死したのである。現代においても、愛国心が日本と中国が尖閣諸島という無人の島々の領有権を、日本と韓国が竹島という無人島の領有権を戦争も辞さない態度で臨んでいるのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。しかし、それは、幼児の思考、行動である。無人島の尖閣諸島や竹島を巡る攻防など、まるで子供の喧嘩である。また、従軍慰安婦も問題になっているが、従軍慰安婦は、軍隊が直接に関与したかどうかが問題ではない。(実際に、軍部が直接関与している。)日本が、朝鮮半島を占領し、そこの住民が日本軍の慰安婦として行ったことが問題なのである。些事に拘泥せず、きちんと、謝罪すべきである。南京大虐殺も、殺された人数が問題ではない。無抵抗の民間人がレイプされ、虐殺されているのは事実なのだから、きちんと、謝罪すべきなのである。特に、中国においては、ハルビンで、731部隊が、中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って、三千人以上の人体実験を行っていたのも事実であるから、言い訳は許されないのである。さて、日本の安倍晋三政権が、韓国に対して、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのも、韓国民が、日本製品の不買運動を起こしたのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない限り、このような子供じみた正直さが行動となって現れるのである。日本でも、韓国でも、中国でも、愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない人が多数を占めるようになったのである。それは、アメリカも、ロシアも、ヨーロッパも、同じ傾向にあるのである。このまま、各国民が愛国心という自我の欲望に正直に突き進めば、第三次世界大戦になるだろう。そして、最後には、核戦争になるから、人類は、必ず、滅びるだろう。核抑止力という言葉があるが、深層心理から湧き上がる憎しみが強ければ、人間は、核を使うことをを厭わないものである。さて、日本の陸軍・海軍は、太平洋戦争中、二十歳前後の若者を召集し、大半が操縦技術が未熟なのに、約六千人を特攻死させたのであるが、特攻死のほとんどは、日本の敗北決定の中に行われたのである。つまり、戦いが目的ではなく、若者を死に追いやることが目的だったのである。幹部軍人たちは、若者の生殺与奪の権利を握り、実際に死に追いやることで、他者の生命を支配するという自我の欲望を満足できたのである。だから、飛行機の故障で生還した特攻隊員に向かって、特攻死を命じた上官のほとんどが、慰めるどころか、「特攻が成功するか失敗するかは問題ではない。特攻死することが意味があるのだ。臆病者め。」と怒鳴りつけたのである。そこで、生還した特攻隊員の多くは、次期の出撃で、何が何でも特攻死しようとしたのである。中には、恥じて、自殺した者までいる。戦艦大和の最期も沖縄への片道燃料の特攻死であった。アメリカ軍は、特攻隊を恐れた。勇気があるから恐れたのではない。戦争とは言え、人間が行うことではなく、理解不能の行動だったから恐れたのである。日本人は人間ではないと蔑視したのは当然である。それでも、軍人幹部でも、美濃部正中尉など、特攻に反対する者はいた。しかし、ほとんどの幹部軍人は特攻を推進した。フィリピン戦で特攻を導入し、特攻隊の創設者と言われている大西瀧治郎中将は、「特攻に反対する奴は、俺が叩き斬ってやる。」とまで言った。しかし、彼は、敗戦決定の翌日、責任を感じて、「特攻隊員に申し訳ない。」と言って、自決した。しかし、若者に特攻死を命じた上官のほとんどは、「君たちの後に自分も続くから。」と言いながら、戦後も生き延びた。戦後、「特攻隊員は、皆、自分で志願したのだ。」と言って、責任逃れをしている。しかも、特攻は、太平洋戦争緒戦の真珠湾攻撃で、既に採用されていたのである。日本軍の国民の生命を軽視する非人間性は、戦いの形勢如何に関わらず、緒戦で既に現れているのである。しかし、権力者とは、こういうものなのである。権力者の自我の欲望は国民の生殺与奪の権利を握ることだからである。このような欲望は、権力者ならば誰でも心に持っているものである。太平洋戦争を起こした東条英機首相は、陸軍大将であり、「生きて虜囚の辱めを受けず。」(捕虜になって生き延びるような恥ずかしいことをするな。)という言葉で有名な戦陣訓を全陸軍に下したことでも、日本の軍人の生命軽視の自我の欲望が窺われる。しかも、特攻を、マスコミも国民も昭和天皇も賞賛したのである。誰一人として、特攻を批判しなかったのである。それは、なぜか。それは、日本人全員が皇国史観という愛国心に酔い、アメリカ憎し、アメリカに勝利しようという自我の欲望に凝り固まっていたからである。戦争に反対した知識人は、殺されているか、刑務所に入っているかして、特攻に反対できなかったのである。日本人全体から、アメリカに勝利するという自我の欲望の前には、特攻という生き残る希望がゼロという作戦で若者の命が失われるという残酷さ・悲劇性は無視されたのである。マスコミも国民も昭和天皇も自我の欲望の虜になっていたのである。そして、戦後、生き残った昭和天皇や軍人たちや政治家たちや官僚たちや大衆は、「太平戦争での尊い犠牲によって、戦後日本の繁栄があるのだ。」と異口同音に言う。しかし、この言葉は、戦死者に対する供養に見せかけて、負け戦だとわかっているのに戦争を起こした責任、戦争に賛成した責任、戦争に反対しなかった責任、戦いによる死より餓死・病死が多いことの責任、特攻によって約六千もの若者を死なせた責任、後に続くと言いながら生き残った責任、連合国に対して国体護持(天皇制維持)を確約してもらうために無条件降伏を受け入れようとせずに広島・長崎に原爆を落とされた責任、完膚なきまでに日本全土を攻撃された責任を回避しようとしているのである。しかも、昭和天皇は、退位しなかったばかりか、日本の共産主義化が恐くて、裏で手を回し、象徴性を逸脱し、アメリカに、半永久的に、沖縄でのアメリカ軍基地の提供を確約したのである。昭和天皇を止める者がいないから、天皇家の安泰という自我の欲望と、日本人を支配しているという自我の欲望が結びついてここまでさせたのである。しかし、自我の欲望が高じると、人間は、このような卑劣なことを行うのである。さらに、大衆の心の中にも、自我の欲望のままに行動したいという気持ちがあり、その欲望の実現可能な権力者が現れたり多数派がその欲望の虜になったりすると、失敗しても、孤立化したり顰蹙を買ったり罰せられたりする虞が無いから、自我の欲望を実現するために、積極的に行動するのである。そして、その欲望実現が失敗に終わると、懲りることなく、次の欲望実現に向かうのである。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、歴史の失敗を何度でも繰り返すのである。そして、戦争や大虐殺が繰り返されるのである。それは、自我の欲望は、深層心理によってもたされ、それが、高じて、強い欲望になると、表層心理(意志)はそれをコントロールできないからである。強い欲望が発生すると、表層心理は、その欲望を処理できず、そのまま行うしか無いのである。だから、日本は、アメリカに負けるとわかっていても、皇国史観という愛国心が深層心理の中で強くて、自我の欲望が高まり、太平洋戦争を起こしたのである。少数の表層心理が強い知識人は、戦争に反対したが、大多数の国民の反対に遭い、警察・憲兵の拷問に遭い、戦争賛成に転向させられたのである。それでも、戦争反対を唱え続けた者がいたが、殺されたのである。拷問死させられた者は百人を超えている。それでも、大衆は、日本は神国だから負けないと思い、神風が吹くから負けないと思っていたのである。幼児思考であるが、自我の欲望の虜になった人間は、現実すらも、その欲望に沿って、その欲望に合わせて見るようになるのである。さて、現在の日本の総理大臣の安倍晋三は、国家安全保障会議(NSC)を創設し、秘密保護法、集団的自衛権を強行採決で得て、いつでも、日本が戦争できる国にした。自我の欲望実現がいつでも可能になったのである。権力者の夢が叶ったのである。それは、大衆の多くが、心の中に、中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという自我の欲望があり、その欲望の実現可能な安倍晋三首相という権力者が現れ、彼を支持したからである。日本は、今、安倍晋三首相・自民党議員・官僚・大衆が中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという欲望で一致し、危機的な状況にある。それでも、彼らには、戦争をする能力も度胸も無いから、一応安心できる。しかし、尖閣諸島・竹島・拉致問題などで、事が起こると、いつ戦争になるかわからないのである。日本が、まず、今、為すべきことは、安倍晋三首相・自民党議員・官僚・大衆の考えとは異なり、日米安全保障条約を廃棄して、真の同盟関係を築くべく、新たな平和条約を結ぶことである。日米安全保障条約、そして、それに付随した日米地位協定によって、日本は、アメリカの家来、もしくは、アメリカの奴隷になっているのである。現在の日米関係は、決して、同盟関係では無いのである。そして、日本軍や日本人が、太平洋戦争中において、中国、韓国、北朝鮮などのアジア諸国において、行った犯罪を謝罪し、平和条約を結び、友好関係を築くべきである。いつまで、日本は、距離的に最も近い、中国、韓国、北朝鮮と喧嘩しているつもりなのだろうか。無人島の尖閣諸島や竹島を巡る攻防など、まるで子供の喧嘩である。従軍慰安婦は、軍隊が直接に関与したかどうかが問題ではない。(実際には、直接に関与している。)日本が、朝鮮半島を占領し、そこの住民が日本軍の慰安婦として行ったことが問題なのである。些事に拘泥せず、きちんと、謝罪すべきである。南京大虐殺も、殺された人数が問題ではない。無抵抗の民間人が虐殺されているのは事実なのだから、きちんと、謝罪すべきなのである。特に、中国においては、ハルビンで、731部隊が、中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って、三千人以上の人体実験を行っていたのも事実であるから、言い訳は許されないのである。しかし、現在の日本の政治状況は、絶望的な状態にある。安倍政権は、特定秘密保護法、安保関連法(集団的自衛権)を成立させ、アメリカ軍から来た情報を隠し、アメリカ軍に自衛隊を差し出すことの権利を得て、ますます、アメリカ従属を深めている。官僚は、鳩山由起夫を裏切って政治生命を絶ち、小沢一郎を冤罪で起訴して政治権力を衰弱させて、アメリカからの独立を志向した政治家に反旗を翻し、戦後以来のアメリカ一辺倒を貫いている。日本会議という、旧生長の家の幹部たちや神道系の人たちは、自民党のほぼ全員の議員、日本維新の会の一部の議員が、日本国憲法を改正して、戦前の大日本帝国憲法や教育勅語の復活を画策している。産経新聞、読売新聞、週刊新潮などは、自民党の広報活動を積極的に行っているだけでなく、野党をおとしめ、野党議員の失脚を謀っている。民間の似非右翼は、ネットを使って、盛んに、日本を持ち上げ、中国、韓国、北朝鮮を非難し、在日韓国人、在日朝鮮人、在日中国人を誹謗中傷し、ことあるたびに、「日本から出て行け」と叫んでいる。似非右翼が、盛んに日本を持ち上げるので、愛国心につられて、一般大衆の中から、似非右翼の考えに賛同する者が増えている。戦前も、日本を持ち上げる書物が増えるのに呼応して、日中戦争・太平洋戦争に突き進んでいったのである。このような似非右翼の広がりをどのように止めたら良いだろうか。似非右翼の幼児的な思考を「反知性主義」と呼んで、批判している書物もある。しかし、似非右翼が「反知性主義」者ならば、書物を読まないだろうから、彼らには効果がないだろう。また、一般大衆も、似非右翼の言葉は、愛国心をくすぐるから、深謀遠慮なく、無反省に、それを受け入れる可能性が高い。残された道は、インド建国の父と言われながら暗殺されたガンジーと青春を駆け抜けて惨殺された日本の革命家三人の生き方である。ガンジーは、「自分の言動は、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、自分は政治によって変えさせられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」という意味のことを言っている。そして、彼は、覚悟を持って、その言葉を実行し、インドをイギリスから独立させた。戦前の日本の革命家三人である、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二は、死を覚悟しつつ、天皇制に反対し、戦争反対を唱えた。幸徳秋水は、大逆事件という冤罪裁判で死刑になった。大杉栄は、関東大震災の際に、何もしていないのに、憲兵によって捕らえられえられ、すぐに殺された。小林多喜二は、共産党員として、非合法活動中に逮捕され、東京帝国大学卒業の特高警察の安倍源基の命令によって、拷問・虐殺された。現在の似非右翼の台頭の中で、人間らしく生き抜くためには、ガンジーのような強い思い、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二のような死の覚悟を持って、似非右翼に抗する発言をし、行動するしかないのである。特に、現在、戦後最大の危機にあり、安倍晋三首相が、戦前回帰を願い、大日本帝国憲法、治安維持法の復活を目論んでいるからである。彼は、太平洋戦争を引き起こした東条内閣の閣僚だった祖父の岸信介を尊敬しているだから、当然の行動である。彼は、祖父と同じく、民主主義社会の破壊者である。国民は、まだ、そのことに気付かないのだろうか。秘密保護法、安保関連法、森友学園・加計学園、桜を見る会、検察庁改定問題など、安倍晋三首相の悪行は、数知れない。国民は、安倍晋三が民主主義社会の破壊者であることに気付かないのだろうか。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言ったが、国民は、もう一度戦争、もう一度原発事故が起こらないと、似非右翼の深謀遠慮のなさ、無反省、幼児性に気付かないのだろうか。ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言っている。どうやら、ニーチェの言うとおりのようである。似非右翼に抗し、大衆になじまず、人間らしく生き抜くためには、ガンジーのような強い思い、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二のような死の覚悟を持って、現在の政治状況に抗する発言をし、行動するしかないように思われる。



日本人は忘れることにした。(自我その388)

2020-07-29 15:26:38 | 思想
玉音放送があるまでは、日本人のほとんどは、太平洋戦争に敗北するとは思っていなかった。明治以来、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変に勝利し、台湾、朝鮮、満州を手に入れ、太平洋戦争を起こすと、中国奥地まで侵略し、東南アジア諸地域を占領した。神の国の皇軍兵士は、太平洋戦争においても、敗北するはずがなかった。指導部が敗戦を覚悟し、アメリカに国体護持(天皇制維持)を約束させるまで、特攻攻撃を繰り返して、戦争を長引かせていたが、それでも、大衆は日本の勝利を信じていた。広島、長崎に原爆を落とされ、敗戦が決定的となった時でも、指導部は、無条件降伏を受け入れるか受け入れないかで二つに分かれ、最後は、天皇の決断で、無条件降伏を受け入れた。玉音放送で、天皇が敗北を受け入れたことを知り、日本人のほとんどは茫然自失の状態となった。連合国が、東京裁判を開き、日本の戦争指導者を裁くことにより、大衆は、中国、朝鮮、東南アジア地域での皇軍兵士の残虐行為、真珠湾攻撃がだまし討ちであることを知った。しかし、最も激しく気付かされたのは、自らの愚かさであった。真珠湾攻撃に狂喜乱舞し、太平洋戦争を積極的に加担したことであった。しかし、それを直視することが辛いので、軍部にだまされたということで、自らの罪を逃れた。そして、悪夢であったように、太平洋戦争のことを忘れることにした。また、東京裁判で裁かれた、太平洋戦争の指導部も、戦争推進の罪は認めなかったが、天皇に罪が及ぶのを恐れて、戦争が起こったことの罪を認めた。そのために、七人が死刑になった。しかし、誰一人として、自らは、戦争推進した覚えがないとし、時代の空気が戦争を呼び起こしたとし、戦争があったことを忘れることにした。昭和天皇も退位することは無く、主権という地位を失ったが、象徴として居座ることで、戦争があったことを忘れることにした。それ以来、政治家は、よほどの罪でない限り、政治に対して責任を取ることが無くなった。大衆も、政治家がよほどの罪を犯さない限り、政治家に対して責任を取らせることが無くなった。そして、現在に至っている。安倍晋三が、悪行を重ねながらも、総理大臣の地位にいるのは当然のことである。

人間は、自我の安定のために、そして、自我を発展させるために生きている。(自我その387)

2020-07-28 15:09:39 | 思想
ギリシアの哲学者のヘラクレイトスは、「人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている。だから、同じ川に二度と入ることはできない。万物は流転するのだ。」と言った。しかし、ヘラクレイトスは、万物は変化すると共に、対立や矛盾を含んでいると言い、その思考を、「上り坂も下り坂も同じ一つの坂である。」、「水は魚にとっては生だが、人間にとっては死である。」という喩えで示している。そして、「変化、対立、矛盾があることが万物の真理であり、それらを包括した思想を、ロゴスとして、打ち立てなければいけない。」と主張した。ヘラクレイトスの思想は、ヘーゲルに影響を与え、「意見(定立)と反対意見(反定立)との対立と矛盾を通じてより高い段階の認識(総合)に至る」という、弁証法を主体とした哲学を生み出させた。ヘラクレイトスの思想に対して、パルメニデスは、「存在は不変である。」と主張する。その理由を、「存在の生成の原因が存在だとすれば、その原因となった存在もどのような存在が原因になっているかと追究していくことができ、それは、とどのつまり、無限循環となって、追求できなくなり、矛盾が生じる。だから、存在の生成の原因は、存在ではない。しかし、存在の生成の原因を非存在だとすれば、非存在から存在が生じたことになり、それはあり得ないことであり、矛盾が生じる。だから、存在の生成の原因は、非存在でもないのである。すなわち、存在は生成することはないのである。また、存在が消滅するとすれば、存在が非存在に変化することになり、それはあり得ないことであり、矛盾が生じる。だから、存在が消滅することはないのである。つまり、存在は生成することも消滅することもないのである。」と説明している。そして、パルメニデスは、「世界が変化しているように考えるのは、感覚に基づいて思考しているからである。感覚ではなく、理性による思考をしなければならない。」と主張するのである。ヘラクレイトスとパルメニデスの思想は対立しているように思われるが、外見の変化に捕らわれず、本質を捉えよと主張している点では共通しているのである。しかし、古来、日本人にとって、流れる川は、人生の変化を象徴している。鎌倉初期に成立した鴨長明の随筆『方丈記』も、「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる無し。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」という文で始まっている。鴨長明の思想は、無情厭世の仏教観に貫かれ、全てが変化することが真実であり、何に対しても愛着を持ってはいけないと説いている。1961年9月から、仲宗根美樹が歌った『川は流れる』は、レコードが100万枚以上売れ、大ヒットした。横井弘が作詞した。哀しみに満ちた人生であるが、希望を持って生きていこうという感傷歌である。それは、「病葉を今日も浮かべて 街の谷 川は流れる ささやかな望み破れて 哀しみに染まる瞳に 黄昏の水のまぶしさ 思い出の橋のたもとに 錆び付いた夢の数々 ある人は心冷たく ある人は好きで別れて 吹き抜ける風に泣いてる ともしびも 薄い谷間を ひとすじに川は流れる 人の世の塵にまみれて なお生きる 水を見つめて 嘆くまい 明日は明るく」という歌詞に表されている。1989年1月に発売された、美空ひばりが歌った『川は流れのように』は、彼女の生前最後に発表されたシングル作品である。秋元康が作詞した。長い人生を振り返って、よく生きてきたなあとしみじみと感慨にふけっている。歌詞の全文は、「知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遙か遠く 故郷が見える でこぼこ道や曲がりくねった道 地図さえ無い それもまた人生 ああ 川の流れのように 緩やかに 幾つもの時代を過ぎて ああ 川の流れのように とめどなく 空が黄昏に染まるだけ」である。『川は流れる』は、人生の途上にあり、これからも変化はあるだろうが、その変化を受け止めて生きていこうという希望の歌であるが、『川は流れのように』は、人生の最後にある人が、これまでの自分の人生を振り返って、いろいろな変化によって苦しめられてきたが、苦しみも、自分の人生を形作っているのだとしみじみ述懐した歌である。さて、人間は、誰しも、川は海や湖に流れ込んで川という存在を失うように、自分もいつか死んで存在を失ってしまうと考えている。しかし、死後の考え方はさまざまである。死後、あの世で、神の裁きにあい、天国に行かされるか、地獄に落とされるかの運命が待っていると信じている人々がいる。代表的なのは、キリスト教やイスラム教を信仰する人である。彼らは、天国に行きたいがために、聖書やコーランなどを熟読し、教会や礼拝所などに通い、神の教えを日々実践しようとしている。しかし、日本の仏教はそれとは異なる。浄土宗・浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できると説き、日蓮宗は「南無妙法蓮華経」と唱えれば真理に帰依して成仏できると説いている。両者とも、修行が必要でもなく、簡単にできるので、信者はこぞって唱えている。しかし、本来の仏教の教えは、人間が、修行して、悟りを開いて、迷いを去り、永遠の真理を会得して、仏(完全な悟りを得た聖者)になり、全ての煩悩を解脱するという涅槃の境地に入り、一切の苦しみから解放された不生不滅の悟りに入ることである。仏になり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を輪廻転生し、永遠に迷い、苦しむという、生物全ての運命から脱することである。つまり、仏教本来の教えとは、修行し、悟りを開き、涅槃の境地に入り、輪廻転生の苦しみから脱却することなのである。そして、死後、あの世が無いという考え方をする人々がいる。所謂、無神論者である。無神論者の中にも、死後、宇宙の塵となれば良いと考える人、死後、宇宙の一部となれば良いと考える人、偶然生まれたのだから、死後の世界が存在する必然性が無いと考える人、偶然生まれたのだから、この世で何かをする必然性は無く、自分の行動は自分の判断・決断によれば良いと考える人など、さまざまな考え方をする人が存在する。しかし、死後の世界があるという考え方をする人にしろ、死後の世界が無いという考え方をする人にしろ、死後は、安定したいという思いは同じである。それほど、人間は、この世に生きている間は、変化に満ち、苦難が絶えないのである。なぜ、人生は、変化に満ち、苦難が絶えないのか。それは、人間は、カオス(混沌)の状態で生まれてくるからである。人間は、カオス(混沌)の状態で生まれてきて、不安だから、コスモス(秩序)の状態を求め、構造体に所属し、自我を持とうとするのである。人間は、精神が安定するには、安定した構造体に所属し、安定した自我を有していなければならないのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。人間は、構造体に所属し、自我を持って活動することによって、精神が安定するのである。構造体は人間の組織・集合体であるから、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大きなものから小さなものまでさまざまなものがある。自我も、その構造体に付随して、さまざまなものがある。国という構造体では、国民という自我がある。県という構造体では、県民という自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・来客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に持って、暮らしているのである。孤独や孤立は、アイデンティティを失い、不安な状態であるが、構造体から追放されたわけでもなく、本人もそれを望まない。それは、この世は構造体によって組織されていて、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得なければ生きていけないからである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属することを望むのである。それは、安定した構造体でなければ、安定した自我が得られないからである。人間は、無意識のうちに、安定した構造体、安定した自我を求めているのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。深層心理が生み出した自我の欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。深層心理は、自我が安定するために、そして、構造体が安定するために、自我の欲望を生み出すが、それは、安定した構造体、安定した自我を求めているからである。しかし、人間は、構造体に所属しているだけでは、安定した自我を得ることができない。たとえ、それが安定した構造体であろうと、構造体に所属しているだけでは、安定した自我を得ることができないのである。人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのである。それが、アイデンティティーをエアを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内の他者からの承認と評価を必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我はこの家の子(息子・娘)である。家族という構造体に所属し、この家の子(息子・娘)だという自我意識が得られて、初めて、安心感が得られるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味する。幼児の深層心理(無意識の世界)の中に、自分はこの家の子(息子・娘)という自我が成立したということは、自分はこの家という構造体の子(息子・娘)というアイデンティティーが確立したことを意味するのである。すなわち、幼児は、深層心理で、家族や親戚や近所の人々からこの家の息子・娘だと見なされていることを感じ取り、そこに安心感・安住の位置を得たから、自ら、この家という構造体の息子・娘であるという自我を積極的に容認したのである。つまり、この家の子(息子・娘)であるというアイデンティティーの確立があって、初めて、この家という構造体の子(息子・娘)であるという自我が成立したのである。ここにおいて、幼児は、自らの無意識のうちに、深層心理は、家族という構造体の子(息子・娘)であるという自我の確立とともに、家族という構造体内の父・母・(兄・姉)、家族という構造体外の親戚や近所の人々という他者が区別できるようになったのである。幼児がこの家の子(息子・娘)だという自我を持ったということは、彼・彼女が動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、彼らは、この家という構造体の息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、母親・父親に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのである。つまり、人間は、自我が安定すると、自我が発展するように、自我の欲望を生み出すようになるのである。なぜならば、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定という快楽を得たから、次は、息子・娘という自我の発展のために、自我の欲望を生み出すのである。それが、エディプスの欲望である。エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望である。人間界に入るということ、つまり、人間になるということは、異性の他者に対して性愛的な欲望を抱けるということなのである。つまり、幼児が、人間になれば、すなわち、この家という構造体の息子・娘であるという自我が成立すれば、異性の親である、母親・父親に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのは当然なのである。これが、フロイトの言う、エディプスの欲望である。母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)、すなわち、エディプスの欲望をかなえることが、幼児期における人間の共通の欲望なのである。しかし、もちろん、この欲望は決してかなえられることは無く、絶望することになる。それは、男児の母親への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には、父親が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父親に味方するからである。そこで、男児は、この家で生きていくために、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自らの欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の発展を抑圧するのである。また、同様に、女児の父親への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には、母親が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、母親に味方する。そこで、女児も、また、この家で生きていくために、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自らの欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の発展を抑圧するのである。これが、フロイトの言う、所謂、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、この家の子(息子・娘)であるというアイデンティティーが確立され、この家という構造体の子(息子・娘)であるという自我が成立した時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の発展のための欲望が生じるのである。もちろん、それは、社会的には、かなえば悪事である欲望だから、他者から反対され、自ら抑圧するのである。しかし、幼児だから、このような、かなえば悪事となる欲望を抱くのではない。人間は、死ぬまで、かなえば悪事となる欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、死ぬまで、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持っているから、自我が安定すれば、自我の発展のために、さまざまな自我の欲望が、深層心理から湧いてくるからである。深層心理の快感原則には、道徳観や社会規約が無く、自我の安定、そして、自我の発展を基礎としているから、深層心理が生み出した自我の欲望には、かなえば悪事となる欲望は、必ず、存在するのである。特に、男児・女児には、深層心理の快感原則だけでなく、深層心理の超自我にも、表層心理の現実原則にも、道徳観や社会規約が無いから、深層心理から湧き上がった母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抑圧するのは、もちろん、道徳観や社会規約からではなく、父親・母親そして社会(周囲の人々)が容認しないからである。超自我とは、日常生活をルーティーンに、すなわち、昨日と同じように送ろうという欲望である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。しかし、幼児期以後も、母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱く者が存在するが、その時は、深層心理の超自我、表層心理の道徳観や社会規約で抑圧するのである。道徳観は、成長するに従い、周囲の大人から与えられ、また、社会規約は、自ら、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために体得していくものである。道徳とは、人のふみ行うべき道であるが、社会の秩序を成り立たせるために、個人が守るべき規範とされているものである。社会は、取り締まるべきことを、道徳観で取り締まり、それで果たせないならば、法律などの社会規約で取り締まるのである。それでも、本質的に道徳観や社会規約の無い深層心理の快感原則はは、自我の安定、発展のために、非道な欲望も次々に生み出してくるのである。その度に、人間は、深層心理の超自我、表層心理の現実原則で取り締まっている。しかし、深層心理が生み出す自我の欲望の感情が強すぎると、人間は、深層心理の超自我や表層心理の現実原則を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。それが、時には、偉大なものを創造することもあるが、往々にして、犯罪に繋がるのである。芸能人が不倫すると、「あんなに美しい奥さんがいるのに。」、「あんなに尽くしてくれる奥さんがいるのに。」、「あんなに愛してくれる旦那さんがいるのに。」、「何不自由なく暮らしているのに。」などと、マスコミや大衆は非難する。しかし、不倫した芸能人は、安定した生活に満足できないのである。確かに、不倫した芸能人も、最初は、安定した生活を求める。しかし、生活が安定すると、次は、発展した生活を求めるのである。人間、誰しも、不倫が道徳に反した行為だとわかっている。しかし、人間は、深層心理の快感原則が生み出した自我の欲望の感情が強すぎると、深層心理の超自我や表層心理の現実原則を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。人間は、現状に満足できないのである。その状態を、作家の埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、ニーチェは「力への意志」と呼び、ハイデッガーは「欠如態」と読んでいる。「自同律の不快」は、単に、現状に満足することの不快感であるが、「力への意志」は力強い思想である。「力への意志」とは、「人間が自然法則を見出さなければ、自分にとって、この世界は混沌とした状態のままである。」や「自分が生きる法則を見つけなければ、自分は他者の言うがままの状態で生きることになる。」という思いで、自然法則や生きる法則を発見し、その法則の下で生きようとすることである。「力への意志」とは、ニーチェの根本思想である。「力への意志」は「権力への意志」とも言われる。そのために、「力への意志」は権力者になろうという意志のように解釈する人がいる。確かに、権力者になろうという意志は「力への意志」の一つであるが、それのみに限定すると、「力への意志」は一部の人にしか通用しないことになる。「力への意志」は全ての人に当てはまる思想なのである。「力の意志」は、一般に、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲、さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」などと説明されている。この説明の中で、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲。」は、他者に関わる自我の積極的な姿勢を示している。「力への意志」とは、自我の安定に満足せず、自らが発見した生きる法則の下で、自我の存在を大きくし、自我の存在を他の人から認めてもらいたいという飽くなき自我の発展への欲望なのである。また、「さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」という説明は、人間の自我の内からほとばしる生命の躍動的な動きを「力の意志」だとしているのである。つまり、「力への意志」とは、自らが発見した生きる法則の下での自我の積極的な力の発露であることを意味しているのである。ニーチェが「神は死んだ」と叫び、現世の自我において幸福を求めることを説いたのも当然のことである。また、ニーチェは、「人間は、力の意志を意志することはできない。」と言う。つまり、「力の意志」は意識して生み出すものではなく、無意識のうちに住みついていると言うのである。しかし、無意識と言っても、それは、無作為、無造作なものではない。人間は、無意識のうちで、思考するのである。だから、無意識の思考を深層心理と言い、人間の意識しての思考を表層心理と言うのである。深層心理が、自我を主体に立てて、「力への意志」によって、自我の案手に満足せず、自我の発展のために思考するのである。ハイデッガーの言う「欠如態」とは、人間の、常に、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足せず(「欠如態」として見て)、次の高い段階に進もう(進ませよう)と考えている(「完全態」を追い求めている)状態を言う。人間は、一生、これを繰り返す。言わば、カミユの言う「シーシュポスの神話」である。シーシュポスは、一生、地下の石(「欠如態」)を地上に運ぶこと(「完全態」)を繰り返すのである。ハイデッガーは、「人間は、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をしている。」と言う。これが、「全ての現象を欠如態として見るあり方」である。簡潔に、「欠如態としての見方」とも言われている。人間を「欠如態としての見方」(「全ての現象を欠如態として見るあり方」)をする動物として捉える考え方は、卓越した見識、有効な思考法であるが、一般に解説されることは少ない。ただし、サルトルは重要視し、「即自それ自体は無意味な物質的素材のあり方であり、対自はこの素材を意味づける意識のあり方である。」と述べている。サルトルはハイデッガーとは異なった言葉を使っているが、サルトルの言う「対自の意識のあり方」が、ハイデッガーの言う「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)なのである。さて、人間の心は、「欠如態」を「完全態」にするという思いが叶いそうな時は希望が湧き、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうな時、苦悩や絶望の状態に陥る。人間は、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(欠如態としての見方」)に突き動かされて活動し、それが人類の歴史になったのである。人間は、生きている間、「欠如態」を満たして「完全態」にするために、馬車馬や競馬馬のように突き進むしかないのである。馬車馬は御者に操られて、競馬馬は騎手に操られて前に突き進んでいるが、人間は、深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)に操られて、「欠如態」を「完全態」にするように活動するしかないのである。そして、馬車馬は御者から離れ、競走馬は騎手から離れれば自由のようであるが、実際は、その時、彼らは殺されるのである。つまり、彼らは、生きている間、御者、騎手に操られ、前に突き進むしかないのである。人間も、表層心理(自分の意志)で深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)から離れることができれば、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足でき、「欠如態」として見ることがなく、そのまま「完全態」として見るから、次の高い段階に進むように考えさせられ行動させられることが無いから自由であり、楽な状態になるように見える。しかし、実際は、人間の表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)に届くことが無いから、そのような自由で楽な状態は来ないのである。表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)を支配できないからである。サルトルは、「現在の物事や他者や自分自身の状態に満足し、欠如態として見ることがなく、そのまま完全態として見るあり方」を「即自の意識のあり方」と呼んでいる。そして、サルトルも、人間には「即自の意識のあり方」は身につくことはないと言っている。しかし、サルトルは、「人間は、自由へと呪われている。」とも言っている。サルトルの言う「自由」とは「表層心理(自分の意志)」という意味であり、「呪われている」とは「運命づけられている」という意味である。つまり、サルトルは、「人間は、表層心理(自分の意志)で、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をするように運命づけられている。」と言っているのである。ここから、サルトルは、「表層心理(自分の意志)」で考え、行動したのだから、自分の行動に責任を持てと言っているのである。サルトルの責任論は潔い。しかし、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見るのは、「表層心理(自分の意志)」ではなく、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)なのである。もしも、「表層心理(自分の意志)」で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているのならば、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥る前に、自由に、これまで「欠如態」として捉えていた物事や他者や自分自身を、別の物事や他者や自分自身に換えることができるはずである。また、自由に、これまでの「完全態」を別の「完全態」に換えることができるはずである。しかし、これまでの「欠如態」も「完全態」も別の「欠如態」にも「完全態」にもできないのである。深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているからである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)につきまとわれ、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)に操られ、自由になれないのである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)が捉えたように、現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めるしかないのである。さて、人間は、同じ現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見ても、求める「完全態」は、必ずしも、一致しない。例えば、同じ三日月を見ても、次に、半月を期待する人、満月を期待する人とさまざまなのである。中学三年生が国語で65点を取っても、次に80点を目指す人、90点を目指す人、100点を目指人、少し点数が上昇すれば良いと考えている人とさまざまである。それは、それぞれの人の深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)のあり方がさまざまだからである。また、マスコミの情報から、世の中には、いろいろな悩みを抱えている人がいることがわかる。「生きがいが無い。」と嘆く二十代の若者、「生まれてこの方、一度も彼女がいない。」と嘆く三十代の若者、「子供がいない。」と嘆く四十代夫婦、「友達がいない。」と嘆く女子高校生、「美人ばかりが得をしている。」嘆く二十代の女性などさまざまである。彼らは、現在の自分の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めたいと考えているのだが、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われるので、悩んでいるのである。言うまでも無く、彼らの「完全態」は、生きがいがあること、彼女がいること、友達がいること、美人であることである。しかし、傍から、「諦めた方が良いよ。」と言って楽にさせようとしても、かえって、逆効果になり、本人を傷つけることが多い。なぜならば、諦めろの言葉は、本人にその能力が無いことを意味しているからである。また、現在の自分の状態を「欠如態」として見て「完全態」を追い求めるあり方は、本人の深層心理(思い)が為すことであり、表層心理(意志)では、どうすることもできないことだからである。諦めさせるのには、「諦めろ」という言葉掛けのような敵(本人の深層心理)の正面から攻めような大手の方法を取らず、自然に諦めるような状況を作ったり、優しく説得したりなどして、敵(本人の深層心理)の裏面から攻めるような搦め手の方法が取った方が良いだろう。そうすれば、本人が、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)から諦める可能性が大なのである。また、たいていの人は、複数の「欠如態」を持っている。一般に、深層心理の敏感な人ほど、「欠如態」が多い。だから、一般に、深層心理の敏感な人ほど、悩みが多いのである。しかし、「欠如態」はマイナスばかりではない。人間に、「欠如態」があるからこそ、満足感や幸福感という快楽が得られるからである。満足感や幸福感は、「欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、得られるからである。つまり、人間には、先天的に、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)が備わっているから、「欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、満足感や幸福感を得ることができ、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥るのである。だから、人間の深層心理は、永遠に、自我の安定に満足できず、自我の発展のために自我の欲望を生み出し続けなければならないのである。

構造体と自我について。(自我その386)

2020-07-26 14:17:05 | 思想
人間は、快楽を欲望する動物である。しかし、快楽への欲望は、自ら、意識して、思考して、生み出したものではない。無意識のうちに、思考して生み出している。人間の無意識の思考を深層心理と言う。人間の意識しての思考を表層心理と言う。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、快楽を求めて、主体的に暮らしていると思っている。そこに、根本的な誤りがあるのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、快楽を求めて思考して、人間を動かしているのである。しかし、深層心理が、快楽を追求するには、精神が安定していなければならない。そして、人間は、精神が安定するには、安定した構造体に所属し、安定した自我を有していなければならないのである。さて、それでは、構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。次に、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているのである。構造体には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。国という構造体では、国民という自我がある。県という構造体では、県民という自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に持って、暮らさざるを得ないのである。それは、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属することを望むのである。それは、安定した構造体でなければ、安定した自我が得られないからである。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出しているのは、安定した構造体、安定した自我を求めているからである。さて、人間は、構造体に所属しているだけでは、安定した自我を得ることができない。たとえ、それが安定した構造体であろうと、構造体に所属しているだけでは、安定した自我を得ることができないのである。人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのである。人間は、アイデンティティーを得て、初めて、自我が安定するのである。一般に、アイデンティティーは、簡単に、自己同一性と翻訳されている。しかし、そのように翻訳されているから、意味が不明確になるのである。アイデンティティーとは、自我の存在証明または同一性であり、人間がある構造体内で一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが構造体内の他者からも認められているということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内の他者からの承認と評価を必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。そこに、人間関係の難しさがあるのである。さて、日本人という自我を持つ者にとって、共通して、安定していてほしい構造体とは、言うまでもなく、日本という国である。そして、日本人という自我を持つ者にとって、共通した思いが、日本という国に対する愛情、すなわち、愛国心である。だから、日本人ならば、誰しも、愛国心を持っている。自分が所属している国を愛している。同じように、誰しも、愛郷心を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷を愛している。誰しも、自分の家族を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ場所を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれている人を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる人を愛している。このように、人間は自分の所属している構造体を愛しているのである。それは、そこに自我が存在するからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間はこの世に暮らしていけないから、所属している構造体に執着するのである。その執着心が愛なのである。人間にとって、他者に対する執着心が愛であるばかりでなく、構造体に対する執着心も愛なのである。自我を活かす他者に対する執着心が愛であるばかりでなく、自我を活かす構造体に対する執着心も愛なのである。その最たるものが、愛国心である。よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからである。決して、愛国心を失ったわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々も、どこかの国に所属しているからである。愛国心とは、現代の人間の自我を形成しているものの一つだからである。愛郷心、家族を愛する心、愛社精神、愛校心、恋愛、友情と同じように自我を形成しているのである。また、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や韓国などに対して対抗心を燃やす人がいる。所謂、右翼である。右翼は、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。売国奴とは、敵国と通じて国を裏切る者である。非国民とは、国民としての義務を守らない者である。反日とは、日本や日本人に反感をもつことである。しかし、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持っている者が、売国奴、非国民、反日であるはずが無いのである。なぜならば、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持っている者は、全て、愛国心を持っているからである。全世界の人々が、愛国心を持っているのである。売国奴、非国民、反日という言葉は、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる右翼が生み出したのである。右翼は、大衆にも、官僚にも、政治家にも存在する。自民党、日本維新の会の国会議員のほとんどが右翼であり、安倍晋三首相も、もちろん、右翼である。また、憂国という言葉もある。憂国とは、国家の現状や将来を憂え案ずること、国家の安危を心配することである。憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特に特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、またもや、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃した人たちもまた憂国の士である。さて、日本の憂国の士と中国の憂国の士、日本の憂国の士と韓国の憂国の士が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。尖閣諸島の領有権をめぐって日本と中国、竹島の領有権をめぐって日本と韓国が争っているが、それは、愛国心が高じたからである。愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。しかし、その国に住んでいても、その国に愛国心を持てない国民は悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。その悲劇を味わっているのが、在日朝鮮人である。在日朝鮮人とは、太平洋戦争以前の日本の朝鮮支配の結果、日本に渡航したり、戦時中に労働力として強制連行され、戦後の南北朝鮮の分断、持ち帰り財産の制限により日本に残留せざるを得なくなったりした朝鮮人とその子孫である。韓国籍を持つ人と朝鮮籍を持つ人がいる。日本人は、日本に住み、自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。在日朝鮮人もそのようにしたいのである。しかし、太平洋戦争以前の日本の朝鮮支配の結果、それができないのである。その責任は、全て、日本にあるのである。しかし、右翼のヘイトスピーチをすることによって、日本国内から追い出そうとするのである。彼らは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。彼らは、ヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。もちろん、彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしている。そして、彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと非難する。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと言う。しかし、彼らは、なぜ、日本を愛しているのか気付いていない。彼らは、日本という国に所属し、日本人という自我を持っているから、日本を愛しているのか気付いていない。彼らは、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、自我、すなわち、自分を愛していることに気付いていないのである。それは、A県出身者という自我が与えられているからA県を愛し、B家の長男という自我が与えられているからB家を愛し、C会社の社員という自我が与えられているからC会社を愛し、D高校の出身者という自我が与えられているからD高校を愛し、Eが恋人になってくれて恋人という自我が与えられたからEを愛し、Fが友人になってくれて友人という自我が与えられたからFに友情を感じるのと同じである。A県、B家、C会社、D高校、Eを愛し、Fに友情を感じることで喜びが得られるのは、自我、すなわち、自分を愛することができるからである。人間を保証するものは、この自我なのである。自我の連なりが各々の人間を形成し、各々の人間の存在を保証しているのである。そして、人間は、その自我の連なりの中から、構造体に応じて、一つの自我になり、活動しているのである。自我を保証してくれる構造体だからこそ、愛国心、愛郷心、家族を愛する心、愛社精神、愛校心、恋愛感情、友情が持てるのである。


自殺とは、深層心理が生み出した、絶望に追い込まれた者の希望である。(自我その385)

2020-07-24 15:52:50 | 思想
人間とは、欲望の動物である。欲望は、深層心理が生み出す。深層心理とは、人間の無意識の思考である。しかし、生きるということは欲望ではない。人間は、生きるということを前提とされて生まれているのである。だから、生きているという現象は、自ら意識して思考して生み出した意志によってもたらされたものでもない。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。すなわち、人間は、表層心理で、意識して思考して、生きたいという意志を生み出して生きているのではなく、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の動きである。しかし、深層肉体の意志は、人間の精神にまで入り込めず、肉体に働き掛けることしかできない。だから、自殺は、深層心理が生み出した、他者に支配されたくないという欲望、より良く生きたという意志から発している。自殺は、深層心理が生み出した、絶望に追い込まれた者の希望なのである。さて、人間は、誰しも、意志無く生まれる。人間は、気が付いたら、そこに存在しているのである。つまり、偶然に、誕生しているのである。しかし、それでも、ひたすら生きようとする。深層肉体に、常に、生きようとする意志があるからである。私の父は亡くなっても、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の動きである。だから、その意志は、人間が意識して思考して、自らが生み出したものではない。人間が、誕生とともに、肉体が、有している意志である。だから、人間は、この意志に気付いていない。たとえ、気付いたとしても、この意志を動かすことはできない。深層肉体の人間をひたすら生かせようとする意志には、全く、迷いは存在しない。しかし、人間には、自らの意志によって、動く肉体も存在する。それが、表層肉体である。腕を上げる、物を掴むなど、人間が意識して行う行動は全て表層肉体の行為である。表層肉体は、人間は自分の意志によって動かすことができるが、深層肉体は、人間は自分の意志によって動かすことができず、それは肉体自身の意志によって動き、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとする。だから、自殺は、深層肉体の意志に反した行いである。自殺とは、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則の基づいて思考して生み出した自我の欲望による行為である。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けたいという欲望である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしている。人間は、毎日、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令というう自我の欲望を生み出し、それに動かされて、暮らしているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現象(現れ)なのである。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。だから、自殺した人は、深層心理が、生きて間は、苦痛から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。もちろん、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとする。現実原則とは、自らに現実的な利得を求める欲望である。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでいくのである。さて、人間は、深層心理が生み出した、自我の欲望によって動かされている。自我の欲望は、ある感情とその感情に伴った行動の指令によって成り立っている。行動の対象は、他者、動物、生物、事物、事柄などの多岐にわたっている。時には、自分自身が、対象となることがある。自我の欲望は、自分の心の中から生まれてくるが、人間は、自分で意識して、自分の意志によって、生み出すことはできない。自我の欲望は、人間の心の奥底から湧き上がってくるのである。この、人間が、自らは意識せず、自らの意志で行われていない心の働きを深層心理と言う。深層心理が、人間が意識しないままに、思考して、自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、心の奥底から湧き上がってくるように感じるのである。さて、自我の欲望とは、感情と行動の指令である。人間は、自我の欲望を受けて、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して別の行動を考えるかを、意識して、思考することがある。この思考の結果、生まれたものが意志である。この、人間の、意識して、思考する心の働きを表層心理と言う。人間は、表層心理で、深層心理心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することはあるが、表層心理で、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできない。常に、人間は、表層心理で思考するのは、深層心理が思考した結果である自我の欲望についてである。つまり、常に、深層心理の思考が先発であり、人間の表層心理での思考は後発なのである。しかし、深層心理は、人間が意識していない心の中の思考であるが、決して、恣意的に、感情と行動の指令という欲望を生み出しているわけではない。深層心理は、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。快感原則とは、快楽を求める欲望である。そして、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。現実原則とは、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。そうなると、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という道徳観や社会規約を守るという欲望の良心がそれを抑圧できないのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。自殺もこの時に起こるのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。それでは、人間に、何ができるのか。人間は、ただ、単に、深層心理が生み出す自我の欲望に操られて人生を終わらせるのか。それが、一人一人の人間に問いかけられているのである。さて、人間は、親しい人が自殺すると、誰しも、「なぜ、自分に、自分に、悩み事を相談してくれなかったのだろう。」と悔やむ。しかし、それはできないのである。なぜならば、正直とは、嘘・偽りの無いこと、素直なこと、ありのままということである。正直と同じ意味の言葉に、腹蔵無しがある。腹蔵無しとは、心の中に思っていることを包み隠すことが無いということである。しかし、「正直に、何でも、話して下さい。」と言われても、文字通り、相手について、正直に、腹蔵なく話してしまうと、二人の関係は壊れてしまうことがあるからである。それは、どんなに親しくしていても、どんなに信頼していても、どんなに愛し合っていても、それを話してしまうと、相手が、自分に対して、不信感、嫌悪感を抱くことがあるからである。人間は、相手が自分に対して不信感や嫌悪感を抱き、自分も相手が自分に対して不信感や嫌悪感を抱いているということを知った段階で、二人の関係は壊れてしまうのである。それは、人間は、どのような親しい人であろうと、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているか常に探っているからである。だから、どのような親しい人であろうと、何でも話せるわけではないのである。