あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は誰しも常に堕落する可能性がある。(人間の心理構造その26)

2023-06-08 17:36:15 | 思想
人間は、一生、エディプスの欲望から逃れることができない。だから、常に、堕落する可能性がある。エディプスの欲望とは幼児の異性の親(息子ならば母、娘ならば父)に対する性愛的な自我の欲望である。深層心理が欲動に基づいて快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、エディプスの欲望とは自我の欲望の一つである。深層心理とは、人間の無意識の精神の活動である。だから、幼児は、無意識に、エディプスの欲望を懐くのである。深層心理は、自我を欲動にかなった状態にすれば快楽が得られるので、欲動に応じた自我の欲望を生み出すのである。欲動には、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望がある。しかし、道徳や社会規約は守る欲望が存在しない。だから、幼児の深層心理は、欲動の支配欲、承認欲に基づいて、快楽を求めて、エディプスの欲望を生み出し、幼児を動かそうとするのである。異性の親の愛情を独占したいという支配欲と異性の親に一人の男・女として認めてほしいという承認欲がエディプスの欲望を生み出すのである。もちろん、エディプスの欲望は、同性の親に阻止され、社会的に許されない。だから、かなえられない。しかし、人間は、一生、エディプスの欲望を、深層心理に秘めながら、持ち続けるのである。不倫、浮気、幼児愛、レイプという道を外れた欲望がそれである。さて、人間が幼児期においてエディプスの欲望があることを唱え、それを抑圧する過程をエディプス・コンプレクスとして、思想として作り上げたのは、心理学者のフロイトである。詳述すれば、エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)である。すなわち、エディプスの欲望とは、息子は母に対して、娘は父に対しての性愛的な欲望である。エディプスの欲望を抑圧する過程をエディプス・コンプレクスとフロイトは命名した。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定を得ると、息子・娘という自我が主体に立てて、快楽を求めて、思考して、母・父に対して性愛的な欲望(エディプスの欲望)という自我の欲望を生み出し、息子・娘を動かそうとするのである。つまり、幼児が、家族という構造体の中で、息子・娘という自我を持つと、無意識のうちに、息子は母に対して、娘は父に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を懐き始めるのである。もちろん、この欲望は決してかなえられることは無い。それは、男児の母への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には父が大きな対立者として立ちふさがり、女児の父への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には母が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父・母に味方するからである。そして、幼児の深層心理は、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を貫けば、家族という構造体から追放されるので、この欲望を自らの心のうちに抑圧するのである。幼児の深層心理に存在する超自我というルーティーンの生活を守ろうとする機能が、この家族という構造体の中で生きていくために、そして、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自我の欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。超自我とは、深層心理に存在し、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発し、ルーティーンから外れた異常な行動を抑圧し、自我に毎日同じことを繰り返させようとする機能である。つまり、人間が、無意識のうちに、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、深層心理に存在している超自我の機能によるのである。超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、幼児は、表層心理で、自らの状態を意識して、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧することになる。表層心理とは人間の自らを意識しての精神の活動である。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な自我の利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。人間は、表層心理で、自らの状況を意識して、深層心理が生み出した自我の欲望を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし不利益を被らないないようにしようという視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。つまり、家族という構造体で、幼児という自我の生活を安定して続けるために、超自我や表層心理での思考によって、性愛的な欲望(近親相姦的愛情)という自我の欲望を抑圧するのである。これが、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、息子・娘という自我が成立し、アイデンティティーが確立された時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の欲望が生じるのである。もちろん、それは、家族という構造体を破壊する反社会的な欲望だから、他者や他人から反対され、自らも、超自我や表層心理での思考によって抑圧しようとするのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。しかし、幼児だけが、反社会的な自我の欲望を懐くのではない。人間は、一生、反社会的な自我の欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、一生、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持ち、常に、深層心理が欲動に基づいて快楽を求めて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするからである。欲動に道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しないから、深層心理は、快楽を求めて、反社会的な欲望をを生み出すことがあるのである。なぜ、そのようなことが生じるのか。それは、人間は、誰しも、意志無く生まれているからである。つまり、偶然に、誕生しているからである。人間は、気が付いたら、そこに存在しているのである。つまり、人間は、誰一人として、自らの意志によって生まれてきていないのに、生きているのである。しかし、それは、生きる意味、生きる目的が存在していないということを意味していない。人間は、生きる意味、生きる目的を有せずして、生きることはできない。つまり、人間には、自ら意識していないが、生きる意味、生きる目的が存在しているのである。それを生み出しているのが深層肉体と深層心理である。深層心理が人間の無意識の精神の活動であるように、深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動である。すなわち、人間は、生きる意味、生きる目的を自ら意識して思考して生み出していなくても、無意識のうちに生きていけるのである。すなわち、表層心理で思考して生み出さなくても、既に、深層肉体と深層心理が生きる意味、生きる目的を生み出しているのである。深層肉体の生み出している生きる意味、生きる目的とはひたすら生き続けようとすることである。人間は、深層肉体のひたすら生き続けようとする意志によって、生かされているのである。そして、人間は、動物を脱して、人間界に入ること、すなわち、自我を持つことによって、ひたすら生き続けようとす深層肉体の意志に加えて、快楽を求めて生きようとする深層心理による無意識の意志によって動かされるようになるのである。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者・物・現象などの外部に反応しながら、行動しているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と・物・現象などの外部と関わりながら、暮らしているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。だから、人間は自分にこだわって生きているが、自分とは、自らを他者や他人と区別している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、同じ構造体の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。すなわち、自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と区別しているあり方に過ぎないのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間には、自分そのものは存在せず、別の構造体に入れば、別の自我になるのである。だから、人間は、自我が持つ能力を有して生まれてくるが、自我を有して生まれていないのである。人間は、カオスの状態で、動物として生まれてくるのである。人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生き続けようとするのである。しかし、人間は、カオスの状態では不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持つようにできているのである。人間は、構造体に所属し、自我を有して、初めて、人間としての思考が生まれ、人間として行動できるようになるのである。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かそうとするのである。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、欲動に基づいて快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。快楽を求める欲望を、フロイトは快感原則と命名した。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようと思考する深層心理のあり方である。欲動には、道徳観や社会規約は存在しないから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理が快楽を得るためには、自我の状態を欲動に応じたものにしなければならないのである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てて動かす必要があるのである。もちろん、深層心理が快楽を得るということは、自我、すなわち、人間が快楽を得るということである。それでは、自我の状態がどのようであれば、欲動は深層心理に快楽をもたらすのか。四つの欲望にかなった状態の時である。そこで、深層心理は、自我を欲動の四つの欲望のいずれかにかなうように状態にするように思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。まず、欲動の第一の欲望である保身欲であるが、欲動に自我を確保・存続・発展させたいという保身欲があるから、深層心理はそれに基づいて思考して自我の欲望を生み出し、人間の日常生活をルーティーンにさせているのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないという保身欲からである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失い、保身欲が阻害されたからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切を大切だという保身欲からである。裁判官も官僚も、マスコミや国民から批判されて承認欲が傷付けられるまで、改めることは無いのである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするという保身欲から、事件を隠蔽するのである。事件を隠蔽すれば、マスコミや国民から批判されて承認欲を傷付けられることが無いからである。いじめ自殺事件が起こると、いじめた子の親は親という自我を守るという保身欲によって自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲から、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いという保身欲から、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が、超自我や表層心理での思考によるストーカー行為を抑圧しようという思いを凌駕し、深層心理が思考して生み出した行動の指令に従ってしまうである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心は、欲動の四つの欲望(保身欲、承認欲、支配欲、共感欲)すべてに支えられている。人間は、自我の動物だから、国民という自我を持つと同時に、この自我を持ち続けたいという保身欲が生じるのである。国民という自我は国という構造体に所属しているから与えられるので、他国の人々によって自国を認めてほしいという承認欲が生まれるのである。だから、オリンピックやワールドカップで自国の選手や自国チームが勝利すると喜ぶのである。勝利すれば、自国の存在や力を他国の人々から承認してもらったように気になれるからである。しかし、愛国心があるからこそ、他国から承認欲を傷付けられていると思うと、戦争を引き起こし、勝利し、自国の存在を認めさせようとするのである。戦争が始まってしまえば、敵国の人間という理由だけで、支配欲から殺すことができるのである。さらに、戦争が始まると、国民に共感欲が生まれ、一致団結して戦うのである。ずるがしこい政治権力者は、それを利用して、他国に戦争を仕掛けるのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我を対他化する(自我が他者にどのようにみられているかを推し量る)ことによって、この欲望を満たそうとする。人間は、他者がそばにいたり会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。人間の中には、毎日、高校や会社という構造体に行き、高校生や会社員という自我を持ち、同級生・教師や同僚・上司という他者から、生徒や会社員という自我に好評価・高評価を得たいという承認欲を持って暮らしている人がいる。しかし、連日、馬鹿にされたり注意されたりして、悪評価・低評価を受け、自我が傷付くと、深層心理は、怒りの感情と殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出すことがある。怒りの感情が弱い場合、欲動の保身欲から発した超自我の機能が、ルーティーンの生活を守るために、殴れという行動の指令を抑圧しようとする。たとえ、超自我が抑圧できなくても、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、怒りという感情の下で、殴れという行動の指令について思考し、それを抑圧する。殴らない方が、生徒や会社員という自我を存続でき、現実的な利得を得られるからである。しかし、傷付いた自我が癒えるには時間が掛かり、その間に、相手が謝罪すればそれで自我が癒されるが、それが無ければ、誰にも知られないような復讐を考えて日々を過ごすのである。そして、それを実行に移す人もいるのである。たとえ、それが悪事だとしても、他者や他人に、自分が犯人だと露見しなければ、非難されたり罰せられたりすることも無く、承認欲が傷付けられることが無いからである。怒りの感情が強い場合、超自我の抑圧も表層心理の意志による抑圧も功を奏さず、人間は、怒りに任せて、行動の指令に従って相手を殴ってしまうのである。そうして、最悪の場合、高校生は退学、会社員は退社を余儀なくされ、保身欲を著しく傷つけられるのである。たとえ、高校や会社という構造体に留まることができたとしても、非難されたり罰せられたりして、承認欲が傷付けられるのである。中には、保身欲や承認欲傷付けられたことに堪えきれなくなり、精神疾患に陥ったり自殺したりする人もいる。精神疾患や自殺は、深層心理が考え出したことだから、人間は表層心理での思考による意志では止めることができないのである。また、受験生が有名大学を目指すのは承認欲からである。だから、学部を選択せず、その大学に入ろうとするのである。本末転倒だが、人間とはそういうものである。少年・少女がアイドルを目指すのも、華やかに見える芸能界という構造体で、大衆の支持を受けたいという承認欲からである。誰が汗水たらして働くことを望むだろうか。汗水たらして働いても、承認欲が満足できないからである。人間が、身だしなみを整えたり化粧したりするのも、他者や他人の評価を受けたいという承認欲からである。ありのままの姿やすっぴんが良いと言う人にも、その姿態で他者や他人の評価を受けたいという承認欲がある。もしも、承認欲を有しない人間が存在したならば、支配欲のままに、傍若無人にふるまうだろう。絶対的なわがままである。だから、人間は、承認欲にとらわれても、承認欲を無視しても、常に、堕落する可能性があるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化とは、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)で、他者・物・現象という対象を支配することである。すなわち、対象の対自化とは、深層心理が、他者という対象を自我の志向性の下で支配しようとし、物という対象を自我の志向性で利用しようとし、現象という対象を自我の志向性で捉えることである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、深層心理が、他者を、自我が支配するために、リーダーとなるために対象としてみることである。そして、深層心理が、自我を、他者を支配するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接するようにさせるのである。深奥心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。そうなれば、自我の力を最大限に発揮できるのである。だから、支配者、リーダーになるためには、手段を選ばない者も存在するのである。手段を選ぶ者は良心からではなく、不正な手段をマスコミや大衆に批判され、その地位から降ろされる可能性があるからである。露見する可能性が無いと思えば、不正な手段を使うのである。また、たいていの人支配欲があることを他者に悟られないようにする。警戒されるからである。学校という構造体の中で、教師が校長になろうとするのは、深層心理が、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。有の無化は、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。深層心理は、自己正当化のためには、欲動の支配欲身をゆだねるのである。深層心理にとって、真実か虚偽か大切では、自我を正当化できるかどうかかが大切なのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲であるが、深層心理は、自我を、他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うような状態にすることによって、快楽を得ようとすることである。深層心理は、常に、趣向性(好み)に合う人を探していて、友人や恋人になろうとしている。友情や恋愛感情に得ることによって、自我の存在を確かなものにしようとするのである。共感を満たそうとして他者と接する作用を共感化と言う。つまり、共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が閉ざされたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えない。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うという欲動の第一の欲望である保身欲が傷付けられたことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、深層心理のルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考で、抑圧しようとしても、屈辱感が強過ぎるために、ストーカーになってしまうのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化欲から起こる。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であり、深層心理が生み出す感情と行動の指令という善悪が混合している自我の欲望に動かされ、他者に知られることが無ければ、悪の自我の欲望を成就しようとするのである。悪の自我の欲望であっても、自我の欲望を成就すれば、快楽が得られるからである。悪事が露見すると、他者や他人の非難を受け、承認欲が傷付けられるから、悪の自我の欲望を抑圧するのである。しかし、感情が強ければ、超自我も表層心理の抑圧も功を奏さず、悪の行動の指令だとしても、実行してしまうのである。つまり、人間は、誰しも、常に、堕落する可能性があるのである。



人間は動いているのではなく動かされているのである。(人間の心理構造その25)

2023-06-02 17:15:23 | 思想
ほとんどの人は、自らを意識して思考して、自らの意志によって行動していると思っている。しかし、そうではない。深層心理が、自我を主体に、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。確かに、人間は、自らを意識して思考することがある。人間の有意識の精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で思考して意志を生み出すことはあるが、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せないので、表層心理の思考では行動できないのである。意志は、深層心理が生み出した行動の指令について容認するか抑圧するかの判断である。つまり、無意識の思考が人間を動かしているのである。しかし、一般には、無意識の行動は特異な行動として理解されている。実際はそうではなく、人間のほとんどの行動は無意志なのである。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識すること無く、行動しているのである。ほとんどの人の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。深層心理が、自我を主体に、欲動の保身欲に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、ほとんどの人は無意識にそれに従って行動しているのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。さて、深層心理が次のようにして人間を動かしている。深層心理は、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、学校、会社、店舗、施設、市役所、夫婦、家族、仲間、カップルなどがある。学校という構造体には生徒・教諭・校長などの自我、会社という構造体には社員・課長・社長などの自我、店舗という構造体には客・店員・店長などの自我、施設という構造体には所員・所長などの自我、市役所という構造体には職員・助役・市長などの自我、夫婦という構造体には夫・妻という自我、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我、仲間という構造体には友人という自我、カップルという構造体には恋人いう自我がある。人間は、自我を持って、初めて、動物から離れ、人間として暮らしていけるのである。自我を持つ前の人間は、生存欲を満足させるためだけに生きている。それは、他の動物と変わらない。他の動物は、食べて生きて行くことが満足できれば、すなわち、生存欲が満足できれば、次に、子孫を残すことに向かう。しかし、人間は、自我を持つと、生存欲が満足できても、必ずしも、子孫を残すことに向かわない。人間の性欲は、子孫を残すという目的から発揮されることは少なく、ほとんど、快楽を得るために使われる。人間にとって、性欲は、異性の他者(同性愛者であったとしても相手を異性の他者として見ている)に、自己の存在をアピールしようという欲望である。すなわち、性欲は、異性の他者に、自我を知らしめ、相手の心を支配することによって、快楽を得ようとすることである。セックスとは、その行為によって、相手に自我の存在を知らしめ、相手の快楽を知ることによって、相手の心を支配した証である。だから、相手の心を支配したい者は、セックスを急ぐのである。バタイユが「男性にとって、セックスとは、相手の女性が納得したものであろうと、レイプである。」と言うのは、この謂である。そして、「女性にとって、愛した男性に対してであろうと、セックスとは、売春である。」と言うことができるのである。この場合、見返りは、金銭ではなく、相手の男性の愛情である。しかし、性欲は自我の存在を知らしめるという自我の欲望であるが、自我の欲望は、性欲だけではない。人間の欲望のほとんどは、自我の欲望なのである。しかし、生存欲は、自我の欲望ではない。生存欲は深層肉体の意志である。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動である。つまり、人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によってひたすら生きるために生き続けようとするのである。深層肉体あり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしている。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら人間を生かせようとする。深層肉体は、深層肉体独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間は、誰一人として、自分の意志で、肺や心臓や胃などの内蔵の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。だから、人間は眠っている時も呼吸できるのである。また、精神に無意識の深層心理の活動と有意識の表層心理の活動があるように、肉体にも無意識の深層肉体の活動と有意識の表層肉体の活動がある。表層肉体とは、人間の自ら意識して意志によって動く肉体のことである。表層肉体の動きとして、次のようなものがある。授業中、生徒が、教師の質問に答えようとして、手を挙げることである。正座していて、辛くなり、あぐらをかくことである。遅刻しそうになり、駆け足で急ぐことである。しかし、表層肉体の動きは肉体の活動の一部にしか過ぎないのである。肉体の大半の活動は深層肉体の活動である。さて、生存欲は、人間にも、他の動物にも、共通して存在している。深層肉体は全ての動物に共通に存在するのである。しかし、他の動物は、言葉を知らないから、自我を持つことができない。だから、深層心理と表層心理、深層心理と表層心理は分離していない。もちろん、自我の欲望は存在しないのである。確かに、他の動物も、家族のようなものを形成するが、それは、子孫を残すためだけに使われ、そこには、自我は存在しない。だから、いたずらに、他の動物は、自らの存在をアピールしない。自らの存在をアピールするのは、家族が破壊され、子孫を残すことに危機が生じた時である。しかし、人間は、他の動物と異なり、いつ、いかなる時でも、常に、構造体で、自我を持って暮らしているのである。人間は、誰しも、自我に縛られ、日々を送り、一生を終えることになるのである。人間は、自らを自分と表現し、他者や他人と峻別している。自分とは自我である。他者は同じ構造体内の人々であり、他人は異なった構造体内の人々である。人間は、自我によって、自らを他者や他人と峻別しているのである。しかし、人間、誰しも、自我を作り出すことができないのである。常に、構造体の中で、自我を与えられ、与えられた自我で生きるしかないのである。自我の選択権は与えられていないのである。そもそも、人間には、自ら誕生するか否かの選択権が与えられていないのである。人間、誰しも、気が付いたら、そこに存在しているのであり、自分で選択して生まれてきたのではないのである。すなわち、人間は、誰しも、偶然、生まれてきながら、必然的に生きていくしか無いのである。だから、人間は、誰しも、家族という構造体を選択することができず、生まれるやいなや、、男に生まれてくれば息子という自我を与えられ、女に生まれてくれば娘という自我を与えられ、その構造体で、生きていくしか無いのである。もちろん、母も父も選択できない。言うまでも無く、家族の他のメンバーも選択できない。ある特定の家族という構造体に生まれ、息子、娘という自我が与えられるのである。そして、ある特定の家族という構造体に所属して、母、父という自我を持った人たちに服属して生きるしか無いのである。だから、母、父という自我を持った人たちが良い人たちであれば幸運であり、母、父という自我を持った人たちが悪い人たちであれば不運であると言うしか無いのである。しかし、不運であっても、そこで生きるしか無いのである。他の家族は引き受けてくれないからであである。つまり、子にとって、息子、娘という自我も偶然であり、母、父、家族の他のメンバーとの出会いも偶然だが、必然的に、母、父、家族の他のメンバーに服属し、その家族に所属して生きるしか無いのである。また、このことは、親に対しても言えることである。母、父も、子(息子、娘)を選択することはできない。親は、生まれてきた子(息子、娘)は、どんな子であろうと、自分たちの家族という構造体に所属させ、我が子として育てるしか無いのである。つまり、母、父も、子(息子、娘)を選択することはできないのである。母、父にとって、偶然、生まれてきた子(息子、娘)であるが、どんな子であろうと、必然的に、自分たちの家族という構造体に所属させ、我が子として育てるしか無いのである。この後、この子は、成長するにつれ、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、会社、仲間、カップルなどの構造体に所属し、園児、生徒、学生、会社員、友だち、恋人などの自我を得るが、それらの出会いも、偶然であり、しかし、やはり、そこで、必然的に生きるしかない。なぜならば、人間は、誰しも、生まれてくる時代も場所を選択することができないからである。もちろん、人間は、誰しも、生まれてくる国も選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。だから、現在、韓国人の中にも、日本人の中にも、口角沫を飛ばして、相手を罵っている人がいるが、韓国に生まれたのも日本に生まれたのも偶然であり、当然として、韓国人という自我も日本人という自我も偶然の産物である。韓国に生まれてくれば韓国人という自我を持つから日本人の短所が目に付き、日本に生まれてくれば日本人という自我を持つから韓国人の短所が目に付くだけなのである。口角沫を飛ばして相手を罵るのは自我に踊らされているだけなのである。深層心理が自我を踊らせているのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属し、自我を有しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。その自我を動かしているのが深層心理である。深層心理が、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。それでは、心境とは何か。心境とは、感情と共に、深層心理の情態である。心境は、気分とも表現される。深層心理は、常に、心境の下にある。心境はルーティンの生活を維持しようとし、感情はそれを打ち破ろうとする。感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態であり、感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。感情は、深層心理によって、行動の指令と同時に生み出され、行動の指令を行う力になる。心境は、爽快という情態にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。心境は、陰鬱という情態にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しみという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が覆われているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。心境や感情という情態こそが自らが存在していることを指し示すのである。感情は、深層心理によって生み出されるから、人間は、表層心理の意志ではそれを変えることはできない。心境は、深層心理に存在しているから、人間は、表層心理の意志ではそれも変えることはできない。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。そして、その後、心境は回復するが、その時、心境は、変化している。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできず、心境がおのずから変化するのである。それでも、人間は、嫌な心境を、表層心理で意識して変えようとする。それが気分転換である。何かをすることによって、心境を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。それほどまでに、心境は人間を大きく動かすのである。オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛という心境が消滅すれば、思考も停止するのである。次に、欲動であるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、自我の状態が欲動の四つの欲望のいずれかにかなったものであれば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は欲動の四つの欲望に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かそうとするのである。欲動には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で思考する時である。深層心理の快楽を求めて思考するあり方を、フロイトは快感原則と呼んだ。つまり、欲動が、深層心理を動かし、自我である人間を動かしているのである。欲動の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間がルーティンの生活を維持しようとするのは、保身欲からである。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したからである。人間が、離婚、退学、退社を嫌がるのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を失うのを恐れているからである。人間が、会社などの構造体で昇進を喜ぶのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。だから、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのである。それは、一般に、郷土愛と言われているが、単なる自我愛である。また、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのである。それは、一般に、愛国心と言われている。しかし、それも、単なる自我愛である。また、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明され、推賞される。しかし、真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、国家観の戦争が無くなることはないのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるのである。深層心理は、自我を対他化して、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、他者から自分がどのようにみられているか探ることである。人間は、誰しも、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。例えば、会社で上司に口汚く罵られ、学校で同級生に侮辱される。そのような時、承認欲を傷付けられた深層心理は、怒りの感情と上司や同級生を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとする。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考える。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、誰かが自我が傷つけても、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるための怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、自我をうちに閉じこもらせてしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を会社や学校に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられるのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることを対象の対自化と言う。つまり、対象の対自化とは、対象を志向性で自我の支配下に置くことなのである。対象の対自化とは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が失われたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。安倍晋三前首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した、自我のエゴイスティックな行動である。このように、人間は、生きているのではなく、深層肉体と深層心理によって生かされているのである。人間は、無意識のうちに、深層肉体の意志によって、ひたすら生きるために生き続けようとするのである。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持って、人間を生かしているのである。深層心理が、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。ところが、ほとんどの人は、自らを意識して思考して、自らの意志によって行動していると思っているのである。確かに、人間は、自らを意識して思考することがある。人間は、表層心理で思考して意志を生み出すことはあるが。しかし、表層心理での思考は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せないので、それでは、人間は行動できないのである。表層心理での思考の結果である意志は、深層心理が生み出した行動の指令について容認するか抑圧するかの判断するだけなのである。つまり、無意識の思考が人間を動かしているのである。そして、人間のほとんどの行動は無意志なのである。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識すること無く、行動しているのである。だから、ほとんどの人の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっていて、それはは、無意識の行動だから可能なのである。