あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自由、主体的という有名無実の心理現象について(自我その266)

2019-11-29 19:59:27 | 思想
人間は、誰しも、自由に憧れ、主体的な生き方を理想とする。自由とは、辞書によれば、「他から強制や命令を受けること無く、自分の思い通りにできること。」という意味である。主体的とは、辞書によれば、「他のものによって、導かれるのでは無く、自己の純粋な立場において行うさま。」という意味である。しかし、人間は、人間社会の中で生きていかなければならないから、その時点で、既に、自己を捨て、自我になり、自由は奪われ、主体的な生き方は失われてしまう。しかし、それは、他者の強力な妨害にあったからでは無い。他者の妨害があろうと無かろうと、人間は、自我を得た時点で、自由は奪われ、主体的な生き方は失ってしまうのである。なぜならば、人間は、自我を得た時点で、自我の欲望に動かされて生きることになるからである。しかし、人間は、誰しも、自らは主体的に自由に生きることができると思っている。人間は、思考し、判断し、行動しなければいけない時、自分が主体となり、自由にそれができると思っている。人間は、誰しも、自分は、自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動できると思っている。自分が自由に主体的に行動できない時があるとすれば、強力な他者の妨害にあった時か自分に実力が無い時だと思っている。そして、他者の妨害に抗することができない無力な自分、無力だから目標を達成することができない自分を嘆き、苦悩するのである。自分のプライドが粉々にうち砕かれ、嘆き、苦悩するのである。しかし、果たして、その目標は、人間が、自由に主体的に思考して得た目標であろうか。人間が、表層心理で(自ら意識して、自らの意志で)、自由に主体的に思考して得た目標であろうか。それは、深層心理が(無意識・人間自らが意識していない心の働き)が思考して生み出した自我の欲望では無いのか。なぜならば、人間は、人間社会の構造体の中で生きていかなければならず、その時点で、既に、自己を捨て、自我に捕らわれ、自由な思考・生き方や主体的な思考・生き方は失われ、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きるしかないからである。人間が、自由で主体的な思考・生き方だと思い込んでいる生き方は、自我の欲望に動かされている思考・生き方なのである。人間は、自己を捨て、自我を得た時点で、自由で主体的な思考・生き方を失ったのである。つまり、人間は、他者の強力な妨害に遭ったから、自由で主体的な思考・生き方を失ったのではなく、自己を捨て、自我を得た時点から、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて生きるようになったのである。それでは、なぜ、人間は、自由で主体的な思考・生き方ができる自己を捨て、自我の欲望に動かされて生きる自我として生きていかざるを得なくなったのだろうか。それは、人間には、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きることしか生き方が存在しないからである。つまり、人間は、人間社会の中で生きていかざるを得ないのであるから、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。さて、人間が最初に所属する構造体は家族であり、最初に持つ自我は男児・女児である。エディプス・コンプレックスとは、フロイトの思想である。それは、エディプスの欲望が抑圧される心理過程、そして、抑圧された後の心理現象を描いている。エディプスの欲望とは、男児・女児の深層心理が、(本人の無意識のうちに)、異性の親に対して恋愛感情という自我の欲望を生み出し、自分と同性である親に敵意を抱く感情である。しかし、それは、同性の親と社会に容認されず、それを行動に移せば家族という構造体から追放されるために、意識にとどめることはできず、無意識内に抑圧することになる。そして、やがて、男児・女児は同性の親の欲望を模倣することになり、そして、欲望の対象である異性の親に代えて、異性の親と同価値を持つ性的対象である異性を見出すことになる。そして、恋愛をし、結婚をし、親になるとともに、社会的システムの中に組み入れることになるのである。つまり、エディプスコンプレックスとは、男児・女児は、家族という構造体で、男児・女児という自我を持つと、深層心理は、異性の親に対して恋愛感情という自我の欲望を生み出すが、同性の親と社会的がそれを許さないために、家族という構造体から追放されたくないから、異性の親に対する恋愛感情という自我の欲望を抑圧する。それと同時に、異性の親のような人と恋愛をし、結婚をし、同性の親のような存在になることができるという意識を持つことによって、それに納得する。その後、実際に、異性の親と似ている人に恋愛感情を抱き、結婚をし、同性の親と同じような存在になる。このような過程をたどり、男児・女児の自我の欲望は、変化して、社会的なシステムに組み込まれていくのである。エディプス・コンプレックスは、多くの人に知れ渡っているが、一般に、成長とともに消滅していく、男児・女児の異性の親に対する報われない恋愛感情として理解され、そこにおける、精神の葛藤、自己正当化、そして、その後の考え方・生き方に及ぼす影響について深く考慮されることはほとんど無いのである。ただ、単に、人間の幼児期における一過性の一心理状態のように扱われているのである。しかし、エディプス・コンプレックスは、人間の幼児期における心理現象であるが、人間の心理のあり方を解く大きな鍵が隠されている。それは、深層心理が、まず、(人間の無意識のうちに)、自我の欲望を生み出すし、そして、それを受けて、人間は、表層心理で、その自我の欲望の許諾・拒否を思考し、その結果、許諾すればそのまま行動し、拒否すれば抑圧することになるのである。さて、男児・女児が異性の親を恋い慕うだけでは、ほほえましく思われるだけで、父親からも、社会からも、禁止されることはない。男児・女児が恋愛感情を持ったから、父親からも、社会からも、それが禁止されたのである。しかし、禁止されたといっても、それは、直接に、父親や周囲の人に注意されたり叱られたりしたということではない。男児が、自ら、母親に対する恋愛感情は父親にも周囲の人々にも認められないことだと気づいたから、抑圧したのである。自分の気持ちは、ただ単なる恋慕では無く、恋愛感情だから、抑圧しなければいけないと思ったのである。なぜ、抑圧しなければいけないか。それは、父親にも周囲の人々にも認められないことだと気づいたからである。なぜならば、深層心理は異性の親に対する恋愛感情という自我の欲望を生み出すとともに、同性の親に対する敵意の感情を生み出すからである。恋愛感情とは独占欲だからである。男児・女児は、異性の親に対する恋愛感情に突き進む時には、同性の親と対抗しなければならないが、同性の親に抗する力が自分には無く、同性の親には社会的な勢力が味方していることに気付いているから、勝ち目は無い。また、同性の親と対抗すれば、家族という構造体から追放される可能性が高い。家族という構造体から追放されれば、自分は生きていくことができない。だから、男児・女児は、異性の親に対する恋愛感情という自我の欲望を、意識にとどめることはできず、無意識内に抑圧することになるのである。フロイトは、男児・女児が、異性の親に対する恋愛感情を抑圧したのは去勢不安が原因だとするが、私は、家族という構造体から追放される恐怖だと思う。また、男児・女児の深層心理が、異性の親に対する恋慕の感情から恋愛感情に変化したのは、恋愛感情を成就した方が快楽が大きいからである。恋愛感情の成就は、独占欲を満たすことになるからである。さて、男児・女児の深層心理が、異性の親に対して恋愛感情という自我の欲望を生み出したということは、異性の親だけで無く同性の親も一人の人間として発見するとともに、自分もまた一人の人間であることを発見するという副産物を生み出している。つまり、エディプス・コンプレクスは、男女・女児を、社会的な存在へと成長させたのである。また、エディプス・コンプレクスは、家族という構造体から追放される恐怖と男児・女児という自我を失う恐怖を味わわせた。それは、同時に、家族という構造体の重要性と男児・女児という自我の重要性に気付かさせられたのである。人間は、一生、深層心理も表層心理も、家族という構造体や男児・女児という自我だけで無く、所属する構造体から追放される恐怖、所属する構造体の重要性、持する自我を失うことの恐怖、持する自我の重要性に動かされることになる。これも、また、人間が、自由は奪われ、主体的な生き方は失う一因である。


人間は、深層心理に始まり、深層心理で終わる。(自我その265)

2019-11-27 20:31:10 | 思想
苦悩とは、解決策を考え出せなくてあれこれ思い悩むことを言う。人間は、なぜ、苦悩するのか。それは、心が傷付いたからである。それでは、なぜ、心が傷付いたのか。それは、他者に、無視されたり、陰口を叩かれたり、侮辱されたり、殴られたからである。すなわち、他者から、悪評価・低評価を受けたからである。人間は、他者から悪評価・低評価を受け、心が傷付き、心が傷付いた状態で、その傷付いた心を癒そう・回復させようと解決策を考え出そうとするのだが、考え出せない場合、あれこれ思い悩んでしまう。それが苦悩である。人間は、常に、他者から高評価や好評価を得ようと、他者の視線を気にして生きているから、他者から悪評価・低評価を受けると、心が傷付くのである。哲学では、この、他者から高評価や好評価を得ようと他者の視線を気にしながら、他者の視線によって自我を反省しながら生きている人間のあり方を対他存在と言う。心理学では、この、他者から高評価や好評価を得ようと他者の視線を気にしながら、他者の視線によって自我を反省する志向性を、自我の対他化と言う。言うまでも無く、対他存在と自我の対他化は同じものである。しかし、自我の対他化は、人間が、自ら意識して、自ら意志して、行っているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、自我を対他化しているのではない。深層心理が、自我の対他化を行っているのである。深層心理とは、人間が、自ら意識すること無く、人間の意志によらない、心の働きである。一般に、深層心理は無意識と呼ばれている。人間は、自ら意識することなく、自ら意志すること無くても、深層心理が、思考しているのである。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか考えるのである。許諾の結論を出せば、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動することになる。拒否の結論を出せば、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、別の行動を考え出さなければならなくなる。別の行動を考え出せなくて、あれこれ思い悩んでいる状態が苦悩である。例えば、会社で、社員が上司から、「おまえは馬鹿だ。」と侮辱される。社員の自我は傷付く。社員の深層心理は、思考し、怒りの感情とともに上司を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出す。社員は、表層心理で、怒りの感情の中で、上司を殴れという行動の指令の通りに行動した後のことを考える。会社という構造体から追放されることを恐れ、上司を殴れという行動の指令を抑圧する。しかし、社員は、表層心理で、上司を殴ること以外の行動を考え出さなければならなくなる。そうしなければ、傷心・怒りの感情は収まらないからである。しかし、なかなか、別の行動を考え出すことができない。そうすると、あれこれ思い悩んでいる状態が続き、苦悩に陥るのである。また、怒りの感情が強ければ、社員は、表層心理で、上司を殴れという行動の指令を抑圧しようとしても、抑圧しきれず、上司を殴ってしまうのである。これが、所謂、感情的な行動であり、後に、悲劇・惨劇を生むのである。また、確かに、この世には、心の傷付きやすい人と心の傷付きにくい人が存在する。すなわち、深層心理が敏感な人と深層心理が鈍感な人が存在する。しかし、自我の対他化の志向性を有していない人は存在しない。なぜならば、自我の対他化の志向性は、人間が、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で取り入れたものではなく、先天的に、全ての人間の深層心理に備わっているからである。人間は、深層心理の自我の対他化によって、対他存在を満足させるような生き方をするように強いられているのである。さて、対他存在は、一般的な言葉に当てはめると、プライドという言葉に相当するであろう。しかし、プライドは、強い誇り・自尊心を意味することが多く、「プライドが高い」、「プライドが傷付けられた」などと、特異な人や特異な場合にしか使用されない。しかし、対他存在のあり方、自我の対他化という志向性は、全ての人間の深層心理に存在するのである。人間、誰しも、常に、深層心理が、人間の無意識のうちに、他者の視線に気にしながら、行動を考えているのである。対他存在というあり方、すなわち、自我を対他化するという志向性は、他の動物には見られないものである。人間の人間たるゆえんの現象である。確かに、人間が対他存在のあり方をしていなければ、すなわち、深層心理に自我の対他化の志向性が無ければ、他者の視線を気にすることもなく、心が傷付くことも無いだろう。深層心理に自我の対他化の志向性が無ければ、他者から、無視されても、馬鹿にされても、侮辱されても、すなわち、他者から悪評価・低評価を受けても、心が傷付くことは無いだろう。たとえ、殴られ、体に怪我しても、生活に支障があり、痛みはあるだろうが、心が傷付くことは無いだろう。しかし、深層心理に自我の対他化の志向性が無ければ、暑ければ裸で街を歩き回る者が現れ、道路にゴミが散乱し、ゴミ屋敷が増え、街中で奇声を上げ大声を上げる者が増え、女性は化粧を止め、男性は身だしなみを整えることを止め、礼儀も敬語も廃れ、我が物顔で街をのし歩く者が跋扈するだろう。つまり、個人は自らの行動の統制を取れなくなり、社会は秩序を保てなくなるだろう。そして、人間は、対他存在のあり方をしているからこそ、すなわち、深層心理に自我の対他化の志向性が存在するからこそ、他者から行動や行為が褒められたり、容貌・才能・業績が認められたり、尊敬されたりすれば、喜び・快楽などの満足感を得ることができるのである。人間は、他者から、好評価・高評価を受け、喜び・快楽などの満足感を得るために、時には沈黙したり、積極的に発言したり、化粧したり、身だしなみを整えたり、老人に席を譲ったり、ボランティア活動に参加したり、勉強したり、仕事したりするのである。それが、人生の努力目標になっているのである。このように、人間は、他者から、褒められたり認められたりすると、深層心理の自我の対他化が充足し(プライドを満足させ)、喜び・快楽などの満足感を得ることができるのである。逆に、他者から、無視されたリ、侮辱されたり、嫌われたり、殴られたりすると、すなわち、悪評価・低評価を受けると、深層心理は、傷付き(プライドが傷付き)、落胆・絶望などの心情に陥るとともにその心情から解放されようとして、怒りの感情とともに復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、我々は、人間は、深層心理の思考・判断によって、他者から、好評価・高評価を受けるように行動し、他者から、悪評価・低評価を受けるような行動を避けるように、作られているのである。しかし、人間は、一旦、他者から、悪評価・低評価を受けると、心が傷付き、深層心理心がその傷心から脱却しようとして、怒りの感情とともに復讐の行動の指令という自我の欲望を出すのである。その時、表層心理が、復讐の行動の指令を抑圧しなければ、自我に悲劇をもたらし、他者に惨劇を与えるのである。だから、表層真理の抑圧、すなわち、超自我の働きは重要なのである。しかし、怒りの感情が強すぎると、表層心理で抑圧しようとしても、感情にに押し切られ、復讐の行動の指令の通りに行動してしまうのである。深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、傷心から解放されるために、深層心理が、強い怒りの感情と激しい復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであるから、表層心理で、苦慮するのである。怒りの感情が強いから、表層心理で抑圧しようとしても、感情に押し切られ、深層心理が生み出した激しい復讐の行動の指令のままに行動してしまい、悲劇・惨劇を生むのである。たとえ、表層心理で、深層心理が生み出した激しい復讐の行動の指令を抑圧できたとしても、深い傷心、強い怒りの感情はそのまま残っているから、自らを律するのは困難を極めるのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した激しい復讐の行動の指令を抑圧した場合、深い傷心・強い怒りの感情から脱却するためは、代替の行動を考え出さなければなければならず、それは、深い傷心・強い怒りの感情の中で行われるから、案出することは容易ではなく、苦悩の状態に陥りがちなのである。そして、人間は、心が傷付いたから、自分が、他者から悪評価・低評価を受けてていることに気付くのである。深層心理が、心を痛むことによって、人間は、表層心理で、自分が他者から悪く評価されたり低く評価されていることを意識するのである。人間は、表層心理では、すなわち、自ら意識して、自らの意志によって、傷心・怒りの感情も、喜びや快楽という感情も、感情という感情を、全て、生み出すことはできないのである。しかし、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情も、、喜びや快楽という感情も、感情という感情を、全て、深層心理と共有しなければならないのである。人間とは、感情の動物であり、深層心理にも表層心理にも、同じ感情が流れているのである。また、傷心・怒りという感情が収まれば、他者から悪評価・低評価を受けたということが過去の出来事になり、苦悩から脱出できたということになるのである。たとえ、深層心理で、的を射た解決策を案出できなくても、時間とともに傷心・怒りという感情が収まり、友人との長電話によって傷心・怒りという感情が収まり、酒に酔って傷心・怒りという感情が収まり、音楽・アニメ・漫画・映画などの趣味によって傷心・怒りという感情が収まり、他者から悪評価・低評価を受けたということが過去の出来事になれば、苦悩から脱出できたということなのである。つまり、人間は、深層心理に始まり、深層心理で終わるのである。しかし、人間は、自らは主体的に生きている、もしくは、主体的に生きることができると思っている。主体的とは、自分がある思考や判断や行動などをする時、自分が主体となって動くことを意味する。人間は、誰しも、自分は、自ら考え、自ら判断して、自らの意志で行動している、もしくは、できると思っている。そして、自分が主体的に行動できない時があるとすれば、強力な他者の介入があった時か自分に実力が無い時だと思っている。他者の介入に抗することができない無力な自分に苦悩するのである。無力だから目標を達成することができない自分に堪えきれず、苦悩するのである。つまり、自分のプライドが粉粉にうち砕かれた時、苦悩するのである。しかし、果たして、そこまで、人間はプライドを持つ必要があるのであろうか。なぜならば、人間は、人間社会の中で生きていかなければならないから、その時点で、既に、自己を捨て、自我に捕らわれて、主体的な生き方は失われているからである。自分が主体的な生き方だと思い込んでいる生き方は、自我と他者の欲望に動かされている生き方なのであり、決して、主体的な生き方ではないのである。それでは、なぜ、人間は、主体的な生き方ができず、自我として生きていかざるを得ないのか。それは、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を負って生きることしか無いからである。つまり、人間は、人間社会の中で生きていかざるを得ず、いつ、いかなる時でも、常に、ある人間の組織・集合体という構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように、自我として生きていかざるを得ないのである。具体的に言えば、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。だから、総理大臣、校長、社長、店長、運転手と言えども、単に、一つの自我に過ぎないのである。単に、一つの役割を果たしているのに過ぎないのである。彼らは、国民、教諭・生徒、社員、店員・客、車掌・客などに支えられて存在する。だから、どの自我が絶対的なものではないのである。そして、日本、学校、会社、店、電車という構造体も、家族、仲間、カップルという構造体も、ある時代、ある時期において誕生し、そして、時代の推移、時間の経過によって消滅する。だから、どの構造体も絶対的なものではないのである。つまり、自我にプライドを持ついわれは無いのである。自我にプライドを持つから、プライドが打ち砕かれると、苦悩するのである。自我の務めを淡々と果たせば良いのである。失敗すれば、矯正すれば良いのである。自分のミスが原因で、現在の構造体を放逐されれば、別の構造体を探せば良いのである。その構造体も放逐されれば、また、別の構造体を探せば良いのである。構造体に使われるのが嫌ならば、自分が構造体を作れば良いのである。死を迎えるまで変化し続ければ良いのである。それを、立ち止まってプライドを持とうとするから、それが打ち砕かれて苦悩するのである。また、そもそも、人間は、自らのプライドと言えども、、自ら、生み出したものではないのである。他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。さて、人間、誰しも、夢を見る。しかし、寝る前に、今晩、どんな夢を見るか、誰にもわからない。誰一人として、自分で意識して、自分の意志で、夢を作ることはできないのである。すなわち、誰一人として、表層心理の意識や意志で、夢を作ることはできないのである。つまり、人間、誰しも、夢を支配できないのである。夢を作るのは無意識の心の作用である深層心理だから、夢を支配できないのである。それは、苦悩が深層心理によってもたらされるのと同じである。しかし、夢は、眠っている間だけにしか見ないから、目覚めた後は、精神的には影響を与えることがあっても、直接的に行動に結びつくことは無い。夢に見た場面は、目覚めた後の場面と異なるからである。夢を行動に結びつけようとするのは、夢を解釈した表層心理である。また、白昼夢という現象もある。白昼夢とは、真昼に見る夢、夢のような非現実的な空想を意味する。白昼夢も、眠っている時に見る夢と同様に、精神的には影響を与えるとしても、夢を解釈した表層心理の働きがない限り、行動に結びつくことは無い。夢と深層心理の関係について、本格的に研究した最初の人がフロイトである。フロイトは、夢を解釈して、その人の深層心理の思いを理解しようとした。しかし、フロイトは、性欲にこだわって深層心理を理解し、人間の主体性に期待を掛けすぎるあまり、人間の夢ばかりでなく、人間の現実の全体そのものも、深層心理によって作られ、動かされるているということへまでは思いを致すことができなかった。確かに、夢と現実は異なる。夢は、深層心理だけで形成され、現実は、深層心理だけでなく、そこに、深層肉体、表層心理、表層肉体が絡んで、形成されているからである。しかし、夢も現実も、深層心理が中心であることは同じなのである。デカルトは、『省察』(『第一哲学の省察』)で、「確かに、今、私は、目覚めている。この手を意識して伸ばし、かつ伸ばしていることを感覚する。しかし、私は、夢の中で同じようなことしてだまされたことを思い出さずにはいられない。以上のことをより注意深く考えてみると、夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見出すことができないことに気付かされる。」と記している。「夢と現実を区別する確実な根拠をどこにも見出すことができない」のは、両者とも、深層心理が中心となって形成されているからである。そこで、人々は、体の一部をつねってみて、これが夢の出来事なのか現実に起こっている出来事なのかを判別するのである。痛みを感じなければ、夢の中の出来事である。なぜならば、夢は深層心理だけで形成されているから痛みを感じないのである。痛みを感じれば、現実に起こっている出来事である。痛みを起こすのは深層肉体であり、深層心理は、その痛みを受けて、自我の異状に気が付き、感情と行動の指令を生み出し、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について、そのまま行動するか抑圧するかを考えるのである。抑圧する場合、別の行動を考えることになる。この一連の反応が起こるから、現実に起こっている出来事だとわかるのである。さて、人間は、日常生活において、眠りから覚めると、自我に気付き、深層心理と深層肉体が動き出す。深層心理と深層肉体が合流して行動を起こす。目が覚めると、深層心理は、無意識のうちに、ここは自分の部屋だと認識し、自分が属している家族という構造体と自我(父、母、息子、娘というポジション)を認識し、日付を確認し、時間を確認し、次に向かう高校という構造体での生徒という自我や会社という構造体での会社員という自我に思いを馳せるのである。深層肉体とは、無意識に行う、習慣的な行動である。無意識に行っている行動だから、深層肉体の行動と言うことができるのである。深層肉体の行動は、無意識に行う、ベッドから降り、着替えをし、トイレに向かい、歯磨きを行い、朝食のテーブルに着くなどのような一連の行動である。つまり、深層心理と深層肉体は、深く絡み合っているのである。日常生活に、何ら問題が無ければ、深層心理・深層肉体だけが働き、表層心理も表層肉体も働く余地はないのである。日常生活に、何ら問題が無ければ、悩むことが無く、それによって疲れることが無いから、人間は楽に暮らしていけるのである。つまり、人間は、同じようなことを繰り返して日常生活を送るのは、考え込むことがなく、楽だからである。人間の同じような生活を繰り返そうとする現象は、ニーチェの「永劫回帰(永遠回帰)」の思想に合致している。「永劫回帰(永遠回帰)」について、辞書では、「同じものやことが永遠に繰り返し生じること。世界の出来事は、円環運動を行って、永遠に繰り返すこと。宇宙は、永遠に、回帰運動を繰り返すこと。」と解説され、「目的も意味も無い永遠の反復を、積極的に引き受けるところに、生の絶対的肯定を見る、ニーチェの根本思想。生の各瞬間は、無限回も生起し回帰するが故に永遠の価値を持つとされる思想。人間は、今の一瞬を大切に生きるべきだとする、ニーチェの根本思想。」と意味づけされている。しかし、解説は正しいが、このような意味づけでは、ニーチェの思想は理解できない。ニーチェの「永劫回帰(永遠回帰)」の思想は、「権力への意志(力への意志)」の思想に裏打ちされている。「権力への意志(力への意志)」とは、辞書では、「他を征服し、同化し、いっそう強大になろうという思考を持った意欲。不断の生成の内に、全生命体を貫流させようという思考の意欲。さまざまな可能性を秘めた、人間の内的、活動的生命力を重んじる思想。」と解説されている。つまり、ニーチェは、いっそう強大になろうとする、活動的生命力を重んじる生き方を思考し、楽だから同じような生活を繰り返そうという大衆の生きる姿勢を批判しているのである。だから、ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言うのである。ニーチェは、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動することを思考し、実践することを志向しているのである。言わば、「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」することを志向しているのである。しかし、人間は、日常生活を破って思考するのは、苦悩・苦痛がある時である。日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、思考するのである。思考するのは、表層心理の作用である。そして、それを実践する動きは、表層肉体である。もちろん、人間、誰しも、苦悩・苦痛を忌避する。しかし、苦悩・苦痛が無ければ、誰も、表層心理で思考しないのである。苦悩・苦痛が無ければ、誰も、表層心理で思考せず、深層心理・深層の肉体の下で、同じような生活を繰り返そうとする。だから、ニーチェは、「人間は、楽しみや喜びの中にいては、自分自身の主人になることはできない。人間は、苦痛や苦悩の中にいて、初めて、自分自身の主人になる可能性が開けてくる。」と言っているのである。しかし、人間、誰しも、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で思考するが、全ての人が、自分自身の主人になれるわけではない。「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」できる者、すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと表層心理で思考し続ける者だけが、自分自身の主人になれるのである。だから、深層心理・深層の肉体の下で、楽だから同じような生活を繰り返そうという生き方をしている者は、日常生活の奴隷なのである。また、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で思考しても、思考を短期間で終え、安易に妥協し、以前の日常生活に戻っていく者も、日常生活の奴隷である。つまり、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で思考し続ける者だけに、自分自身の主人になれる道が開け、ニーチェの言う「超人」になる可能性が開かれているのである。ニーチェの言う「超人」とは、ハイデッガーの言う「本来的人間」である。つまり、我々は、「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」するしか、自分自身の主人になれないのである。すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で思考し続ける者だけに、日常生活の奴隷から脱し、「超人」・「本来的人間」になる道が開かれているのである。そして、自分自身の主人になった人、換言すれば、「超人」・「本来的人間」だけが、日常生活の苦悩・苦痛から解放されるのである。




他者の欲望と自我の欲望(自我その264)

2019-11-26 18:36:40 | 思想
人間は、朝、起きた時から、自我を持っている。自我と言っても、特別なものではない。ある人が、鈴木家の長男だったら、自宅で、起床するやいなや、鈴木家の長男として、行動するということである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動するのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションを得ているということであり、現実に行動する自分のあり方なのである。この場合、鈴木家が構造体であり、長男が自我である。もしも、ある人が、ホテルで起床したならば、ホテルにいる間は、ホテルが構造体となり、客がその人の自我になる。ある人が、X会社に勤務していれば、その人は、X会社に行くと、X会社という構造体の中で、社員、課長、部長などの自我を有して、行動することになる。ある人が、Y中学校に在籍しているならば、その人は、Y中学校に行けば、Y中学校という構造体の中で、一年生、二年生、三年生という自我を有して、行動することになる。一見、簡単に、構造体は抜けられ、自我は変えられそうに見えるが、容易ではない。なぜならば、人間の深層心理は、構造体・自我に取り込まれやすいからである。一旦、人間の深層心理が、構造体・自我に取り込まれたならば、容易に、そこから、抜け出すことができないのである。だから、上司のパワハラに遭って自殺する社員を見て、多くの人は「そんなに苦しんでいるのならば、会社を辞めれば良いのに。」と言うが、容易に会社を辞めることはできないのである。社員にとって、自殺することよりも、会社という構造体を追い出され、社員という自我を失うこの方が辛いのである。また、いじめで自殺する小学生・中学生・高校生を見て、多くの人は「そんなに苦しんでいるのならば、学校を休めば良いのに。」と言うが、容易に学校は休めないのである。自殺することよりも、学校を休むことによって、学校という構造体での生徒という自我の立場を危うくすることの方が辛いのである。人間にとって、構造体を追放され、自我を失うことが、どんな出来事よりも辛いことなのである。それは、構造体や自我は、人間の深層心理と一体化し、人間は、表層心理で、その思いを変えることも消すこともできないのである。深層心理とは、人間の無意識の心の働きであり、思考である。表層心理とは、人間の意識しての心の働きであり、思考である。深層心理は人間の無意識の心の働きであるから、人間は、意識しての心の働きである表層心理では、そこに入り込むことはできず、もちろん、働き掛けることもできないのである。人間は、構造体に所属して、自我を持つことで、
初めて、人間となるのである。構造体に所属せず、自我を有していない人間は、単に、動物として存在しているにしか過ぎない。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。パワハラに遭っている会社員が出勤するのも、いじめに遭っている生徒が登校するのも、会社、学校という構造体から追放されることを恐れ、会社員、生徒という自我を失うことを恐れているからである。それは、人間は、自我あっての人間であり、自我なくしては、人間は存在できないからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。人間は、一人でいても、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、暮らしている。人間は、一日のうちでも、複数の構造体に所属し、複数の自我を持って行動するが、同時に、複数の構造体に所属することも、複数の自我を持つことはできない。例えば、友人を自宅に招いた女子高校生は、母親に対しては、家族という構造体での娘の自我の立場で友人を紹介し、友人に対しては、仲間という構造体での友人という立場で、母親を紹介する。しかし、彼らが、カラオケ店という構造体に入ると、女子高校生という自我ははぎ取られ、客という自我で行動しなければならなくなる。つまり、人間は、常に、ある一つの構造体に限定されて所属させられ、ある一つの自我を限定されて持たせられて、行動しているのである。いるのである。また、ある自我で、ある構造体において、自信を持って行動できるということは、アイデンティティーを得たということである。アイデンティティーは、日本語では、自己同一化と翻訳され、自分の気持ちだけで、自己承認だけで成立するように思われているが、他者の承認が加わって、初めて成立するのである。むしろ、他者の承認があってこそ、自分の気持ちが納得でき、自己承認できるのである。それ故に、アイデンティティーを得たということは、自信を持って、自我を持しているということであり、それは、ある構造体の中で、あるポジションという自我を、他者から認められ、自らもそれに満足している状態なのである。人間は、ある構造体の中で、自我を有し、アイデンティティーを得、アイデンティティーが確立されて、初めて、自信を持って行動できるのである。さて、それでは、人間を行動へと駆り立てるものは、何か。それは欲望である。欲望は、常に、自我を主体にしての欲望であるから、欲望は、常に、自我の欲望である。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、快楽を求める欲望である。深層心理とは、人間の、自分自身では意識していない、心の働きである。深層心理は、人間の心の中に住み着き、人間の心を動かし、延いては、人間自身を動かすことになるのであるが、その存在は人間に意識されず、その働きは人間の意志によらず、自ら、思考し、その思考結果を、自我の欲望として、人間は、表層心理で、意識して、思考するのである。深層心理は、自ら、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を、表層心理で、意識するのである。それ故に、人間は、自我の欲望は、心の底から湧いてくるように感じるのである。しかし、深層心理は、無作為に自我の欲望を生み出しているのではない。深層心理は、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。さて、快感原則とは、快楽を求める欲望だが、それは、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類の欲望を満足させることによって得ることができる。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は対象や他者を対自化することによって、対象や他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出している。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。つまり、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のうちに、人間の意志によらず、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、深層心理が思考して生み出した感情の中で、深層心理が思考して生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを思考し、その結果が、意志による行動となるのである。表層心理とは、人間の意識、意志であり、人間の意識しての思考、意志による行動である。現実原則とは、自我に現実的な利益をもたらそうとする欲望である。つまり、深層心理の快感原則と人間の表層心理での現実原則は背馳しているのである。それが、端的に表れているのが、フロイトの説く、エディプス・コンプレクスである。エディプスの欲望とは、男児が、家族という構造体の中で、長男、次男、三男などの自我を持ち、深層心理が、快感原則に基づいて、思考し、母親に恋愛感情という欲望を抱くことである。しかし、言うまでも無く、エディプスの欲望は、かなえられることはない。エディプス・コンプレクスとは、エディプスの欲望がかなえられない過程とその結果を表現している。エディプス・コンプレクスとは、男児は、表層心理で、現実原則に基づいて、父や周囲の人々から家族という構造体から追い出されないために、母親に対する恋愛感情という欲望を抑圧することである。もちろん、男児は、自分の意志で、意識して、思考して、すなわち、表層心理で、思考して、母親に恋愛感情を抱いたのではない。男児の深層心理が、快楽を得ようという快感原則に基づいて、思考して、母親に恋愛感情という欲望を抱いたのである。それを受けて、男児は、表層心理で、現実原則に基づいて、思考して、父や周囲の人々から家族という構造体から追い出されないために、母親に対する恋愛感情という欲望を抑圧したのである。男児の深層心理は、快感原則に基づき、最初は、家族という構造体で、男児という自我を母親という他者に対して対他化して、母子関係の下で、満足していた。そして、それは、父親や周囲の人々から認められていた。しかし、後に、転じて、男児の深層心理は、快感原則に基づき、家族という構造体で、男児という自我と母親という他者を共感化し、母親に対して恋愛感情を持ったから、父親や周囲の人々から反対される状況に陥ったのである。しかし、男児という幼子だけで無く、人間は、全て、深層心理の快感原則に基づいた思考の結果を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、思考するのである。人間は、深層心理が、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、まず、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、そのすぐ後、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令のままに行動するかどうかを決めるのである。だから、エディプス・コンプレクスのように、人間は、表層心理で、深層心理が出した行動の指令のままに行動しないことを決断することがあるのである。なぜならば、深層心理は快感原則に基づいて思考するから、深層心理が出した自我の欲望の行動の指令の中には、表層心理の現実原則に相容れないものが存在するからである。深層心理の快感原則は、道徳観や将来に対する配慮を有さず、ひたすら、現在その時の快楽を得ることを目的としているからである。だから、全ての人間は、必ず、表層心理で、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が出した行動の指令を、意識して、意志で抑圧しなければいけない時があるのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、表層心理の抑圧は功を奏さず、深層心理が生み出した感情に押し切られ、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに動いてしまうのである。それが感情的な行動であり、自我に悲劇をもたらし、他者に惨劇をもたらすのである。ストーカーによる悲劇・惨劇は、深層心理が生み出した未練の感情が強いために、表層心理で、その行動を抑圧できなかった事例である。また、人間は、時には、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。それが、無意識の行動である。無意識の行動は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して思考することが必要ではないような、安心できる、毎日繰り返す行動、つまり、ルーティーンのことが多い。ニーチェの言うように、森羅万象の動きと同じように、人間の生活行動は永劫回帰(同じことを永遠に繰り返すこと)であるのは、人間の無意識の思考である深層心理は、習慣的な行動を選ぶ傾向にあり、人間の意識しての思考である表層心理も、思考する苦労から免れたいから、そうなるのである。だから、人間は無意識の行動を毎日繰り返しようになるのである。すなわち、人間は、毎日、同じような時間に家を出て、同じ会社や学校という構造体に行き、同じ社員や生徒という自我を得て活動し、同じような時間に退社・下校し、同じ家族という構造体に戻り、同じ父・母・息子・娘という自我を得て、生活するのである。さて、先に述べてように、人間は、まず、深層心理が、快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。快感原則とは、快楽を求める欲望だが、それは、他者に認められたいという対他化、他者を支配したいという対自化、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという共感化の三化(三種類)の欲望のいずれかを満足させることによって得ることができる。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は対象や他者を対自化することによって、対象や他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出している。まず、自我の対他化であるが、それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉に端的に表れている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。ラーメンやパンを食べるために出掛けたわけでもないのに、ラーメン店やパン屋に行列ができているのを見ると、自分も食べたくなって、長い時間待たされるのがわかっているのに並んでしまう。田舎の女子高校生は、都会の女子高校生の間でミニスカートやルーズソックスが流行っていると聞くと、急いで、自分もそのような服装をするのである。流行に遅れまいとする心情からである。若者を中心に多くの人がファッション雑誌を買い求めるのも、流行に遅れまいとする心情からである。もう一つは、人には他者から好かれたい・評価されたいという気持ちがあるという意味である。例えば、恋愛感情があれば、その人にも自分に対して恋愛感情を持ってほしいのである。親は子供に、子供は親に、好かれたく思い、認められたく思っているのである。会社では、上司は部下に尊敬されたく思い、部下は上司に認められたく思っているのである。学校では、生徒は他の生徒から好かれ、教師から認められたく思い、教師は生徒から尊敬されたく思い、同僚や校長から認められたく思っているのである。このように、ラカンのこの言葉は、人間は決して自主的に判断して行動しているのではなく、他者の意向に左右されて気持ちが動き、それに基づいて行動しているということを表しているのである。人間は、自主的に判断して一人で行動すると、孤立化する恐れがあり、一人で責任を追及される恐れがあるから、他者に同化するのである。この言葉は、人間は社会的な動物であるということの本質を突いている。若者が有名大学や有名会社に入ろうとするのは、深層心理が、日本という構造体の中で、日本人という自我を日本人全体の他者に対して対他化することによって、日本人という自我を日本人全体に認めてもらいたいという欲望があるからである。また、そもそも、人間は、自らのプライドと言えども、自ら、生み出したものではないのである。他者の欲望に動かされて、生み出したものなのである。つまり、人間は、主体的な判断などしていないのである。他者の介入が有ろうと無かろうと、自らが、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。プライドを持とうという意欲、プライドを気にするという思いも、全て、他者の欲望を取り入れたからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断して、つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。次に、他者の対自化であるが、それは、「人は、自己の欲望を他者に投影する。」という言葉に、端的に表れている。この言葉の意味は、「人間は、客観的な視点を有していず、自らの志向性(自分の観点や視点や見方)で、他者を含めて、全ての事象や現象を捉えている。人間は、自分の思いを他者にも持ってほしいと思う。人間は、他者を思い通りに動かしたい、支配したいという欲望がある。」である。他者の対自化は、人間の自我中心の思いを暴露している。国会議員が総理大臣になろうとするのは、深層心理が、日本という構造体の中で、総理大臣という自我で、国民という他者を対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに日本を動かすことができれば、支配欲を満足させることができ、充実感があるからである。人間は、ある人を好きになると、その人にも、自分のことを好きになってほしいと願う。家族ならば、自分が思っているような思いを抱いてほしいと願う。同じ会社に勤めている人ならば、自分が思っているような社員意識を持ってほしいと願うことである。このように説明すると、意識の共有を願うことで良いように思われるかも知れないが、それが高じ、意識の強制になることがほとんどなのである。相手が拒否すると、軋轢が生じ、傷害事件に及ぶこともあり、時には、殺人事件に発展するのである。例えば、ある人を好きになり、その人にも、自分のことを好きになってほしいと願うのは当然であるが、その人が既に恋人がいる場合は、苦しさのあまり、その人を攻撃したり、その人の恋人を攻撃するのである。恋愛感情は、深層心理がもたらすものだから、誰でも持つものであり、それ自体に罪はない。たいていの人は、好きになった人に既に恋人がいる場合、諦めるのであるが、深層心理の他者の対自化への欲望の強い人は、表層心理で欲望を抑えることができず、自分の思いが通じないと、苦しさのあまり、その人やその恋人を攻撃するのである。特に、アイドルに恋愛感情を持った男性は、アイドルに恋人がいないという前提だから、努力すれば報われると思い、お金や時間を使って、積極的に近づこうとするのだが、それを拒否されると。自分の純愛を踏みにじったと考え、アイドルに裏切られたと思い、苦しさのあまり、一転して、攻撃に向かうのである。また、愛国心の強さを誇っている愛国主義者は、自分と考えの違う日本人が存在することが苦痛で、その人たちを反日などと非難するのである。愛国主義者は、自分の考えしか認めないのである。ヒットラーは、ナチ党を率いて、第二次世界大戦中、約四百万のユダヤ人を虐殺した。ヒットラーは大戦末期に自殺し、ナチ党員は戦後裁かれた。しかし、一般のドイツ国民は裁かれなかった。しかし、ドイツ国民の多くはヒットラーと同じ気持ちであったはずである。ドイツ国民の多くもユダヤ教徒に対して心の中に黒い欲望を持っていたはずである。ユダヤ人がドイツをかき乱し、第一次世界大戦の敗北を招き、賠償金のためにドイツ国民に塗炭の苦しみを味わわせのだから、その報いを受けて当然だという黒い欲望を持っていたはずである。だから、これほど多くのユダヤ人を殺すことができたのである。しかし、これは、ドイツ人だけの問題ではなく、キリスト教徒の多くが抱えている問題である。キリスト教徒の多くはユダヤ教徒に対して心の中に黒い欲望を持っているのである。16世紀後半から17世紀前半に活躍したイギリスの劇作家にシェークスピアに「ヴェニスの商人」という作品があるが、ここには、ユダヤ人商人の悪徳ぶりが描かれている。それほど、ヨーロッパのキリスト教国でのユダヤ人の偏見はすさまじいのである。ユダヤ人虐殺は、ホロコーストというナチスによるものだけでなく、ヨーロッパのキリスト教国全体に存在した。キリスト教徒の多くはナチスと思いを共有しているのである。そこに、イスラム教徒が絡み、互いに、異教徒に対して黒い欲望を抱いているから、戦争や虐殺は常に起こりうる可能性があるのである。また、日本の陸軍・海軍は、太平洋戦争中、二十歳前後の若者を召集し、大半が操縦技術が未熟なのに、約六千人を特攻死させた。日本の陸軍・海軍の幹部の黒い欲望は、約六千人もの二十歳前後の若者を死に追いやったのである。しかも、特攻死のほとんどは、敗北決定の中に行われたのである。つまり、戦いが目的ではなく、若者を死に追いやることが目的だったのである。幹部軍人たちは、若者の生殺与奪の権利を握り、実際に死に追いやることで、他者の生命を支配するという黒い欲望を満足できたのである。だから、飛行機の故障で生還した特攻隊員に向かって、特攻死を命じた上官のほとんどが、慰めるどころか、「特攻が成功するか失敗するかは問題ではない。特攻死することが意味があるのだ。臆病者め。」と怒鳴りつけたのである。そこで、生還した特攻隊員の多くは、次期の出撃で、何が何でも特攻死しようとしたのである。中には、恥じて、自殺した者までいる。戦艦大和の最期も沖縄への片道燃料の特攻死であった。アメリカ軍は、特攻隊を恐れた。勇気があるから恐れたのではない。戦争とは言え、人間が行うことではなく、理解不能の行動だったから恐れたのである。日本人は人間ではないと蔑視したのは当然である。それでも、軍人幹部でも、美濃部正中尉など、特攻に反対する者はいた。しかし、ほとんどの幹部軍人は特攻を推進した。フィリピン戦で特攻を導入し、特攻隊の創設者と言われている大西瀧治郎中将は、「特攻に反対する奴は、俺が叩き斬ってやる。」とまで言った。彼は、敗戦決定の翌日、「特攻隊員に申し訳ない。」と言って、自決した。しかし、若者に特攻死を命じた上官のほとんどは、「君たちの後に自分も続くから。」と言いながら、戦後も生き延びた。戦後、「特攻隊員は、皆、自分で志願したのだ。」と言って、責任逃れをしている。しかも、特攻は、太平洋戦争緒戦の真珠湾攻撃で、既に採用されていたのである。日本軍の国民の生命を軽視する非人間性は、戦いの形勢如何に関わらず、緒戦で既に現れているのである。しかし、権力者とは、こういうものなのである。権力者の他者の対自化への欲望は国民の生殺与奪の権利を握ることだからである。このような黒い欲望は、権力者ならば誰でも心に持っている。太平洋戦争を起こした東条英機首相は、陸軍大将であり、「生きて虜囚の辱めを受けず。」(捕虜になって生き延びるような恥ずかしいことをするな。)という言葉で有名な戦陣訓を全陸軍に下したことでも、日本の軍人の生命軽視の黒い欲望が窺われる。しかも、特攻を、マスコミも国民も昭和天皇も賞賛したのである。誰一人として、特攻を批判しなかったのである。それは、なぜか。それは、日本人全員が愛国心に酔い、アメリカ憎し、アメリカに勝利しようという他者の対自化への欲望に凝り固まっていたからである。アメリカに勝利するという欲望の前には、特攻という生き残る希望がゼロという作戦で若者の命が失われるという残酷さ・悲劇性は無視されたのである。マスコミも国民も昭和天皇も黒い欲望の虜になっていたのである。そして、戦後、生き残った昭和天皇や軍人たちや政治家たちや官僚たちや国民は、「太平戦争での尊い犠牲によって、戦後日本の繁栄があるのだ。」と異口同音に言う。しかし、この言葉は、戦死者に対する供養に見せかけて、負け戦だとわかっているのに戦争を起こした責任、戦争に賛成した責任、戦争に反対しなかった責任、戦いによる死より餓死・病死が多いことの責任、特攻によって約六千もの若者を死なせた責任、後に続くと言いながら生き残った責任、連合国に対して国体護持(天皇制維持)を確約してもらうまで無条件降伏を受け入れようとせずに広島・長崎に原爆を落とされた責任、完膚なきまでに日本全土を攻撃された責任を回避しようとしているのである。しかも、昭和天皇は、退位しなかったばかりか、日本の共産主義化が恐くて、裏で手を回し、象徴性を逸脱し、アメリカに、直接進言し、半永久的に、沖縄でのアメリカ軍基地の提供を確約したのである。昭和天皇を止める者がいないから、天皇家の安泰を願うという構造体の存続の欲望と、日本人を支配して生きたいという天皇の自我を存続させ、なおかつ、日本人という他者を対自化したいという黒い欲望が結びついてここまでさせたのである。しかし、人間とは、こういうものである。人間の欲望とはこういうものである。誰しも、心の中には、他者の対自化への黒い欲望があり、その欲望の実現可能な権力者に自我がなったり、実現可能な権力者が現れるとその配下に属したりして、欲望の虜になるのである。それは、失敗しても、孤立化したり顰蹙を買ったり罰せられたりする虞が無いからである。他者の対自化へという自我の欲望実現のために、積極的に行動するのである。そして、その欲望実現が失敗に終わると、懲りることなく、次の欲望実現に向かうのである。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言ったが、実際は、歴史は同じ失敗を何度でも繰り返すのである。そして、戦争や大虐殺が繰り返されるのである。それは、人間は欲望によって動かされる動物だからである。しかも、欲望は、深層心理によってもたされるから、表層心理(意志)は黒い欲望の発生をコントロールできないのである。黒い欲望が発生してから、表層心理は、その欲望をどのように処理するか考えるしか無いのである。しかし、深層心理が強過ぎると、表層心理は止めることはできないのである。だから、日本は、アメリカに負けるとわかっていても、愛国心という深層心理が強くて、太平洋戦争を起こしたのである。少数の表層心理が強い人は、戦争に反対したが、大多数の国民の反対に遭い、警察・憲兵の拷問に遭い、戦争賛成に転向させられたのである。あくまで戦争反対を唱えた者は、殺されたのである。拷問死させられた者は百人を超えている。それでも、国民は、日本は神国だから負けないと思い、神風が吹くから負けないと思っていたのである。幼児思考であるが、黒い欲望の虜になった人間は、現実すらも、その欲望に沿って、その欲望に合わせて見るようになるのである。現在の日本の総理大臣の安倍晋三は、国家安全保障会議(NSC)を創設し、秘密保護法、集団的自衛権を強行採決で得て、いつでも、日本が戦争できる国にした。黒い欲望実現がいつでも可能になったのである。権力者の夢が叶ったのである。それは、国民の多くが、心の中に、中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという黒い欲望があり、その欲望の実現可能な安倍晋三首相という権力者が現れ、彼を支持したからである。日本は、今、多くの国民・安倍晋三首相・与党の自民党議員・官僚たちが中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという黒い欲望で一致し、危機的な状況にある。それでも、彼らには、戦争をする能力も度胸も無いから、一応安心できる。しかし、尖閣諸島・竹島・従軍慰安婦問題・徴用工問題・拉致問題などで、いつ戦争になるかわからない。だから、一触即発になった時の対応、戦争になった時の対応を、今から覚悟を持って決めておくべきである。最後に、自我を他者と共感化することであるが、それは、対等な自我の関係で、構造体を形成することである。そこには、呉越同舟の関係、友情を主体にした関係、恋愛を主体にした関係がる。呉越同舟とは、「仲の悪い者同士でも、共通な敵が現れると、協力して、敵に立ち向かう。」という意味である。しかし、この関係は、共通な敵が去ると、二人は、互いに、相手を対自化し、自分の欲望を通そうとして、以前のような、犬猿の関係に戻るのである。友情を主体にした関係とは、仲間という構造体で、友人という自我で、交流している状態である。確かに、仲間という構造体においては、仲間に属する一人が悩んでいると、友人として、悩みを聞き、共に、解決策を考える。しかし、仲間に属する一人が仲間外の生徒を嫌っていると、仲間という構造体から追い出されたくなく、仲間に属する生徒たちから評価されたいために、自分も、いじめに加担するのである。恋愛を主体にした関係とは、言うまでも無く、カップルや夫婦という構造体において、恋人、夫・妻という自我を持った人が、互いに愛情を感じ、幸福な状態にあることを示している。しかし、自分が愛情があるのに、相手から別れ話を持ち出されると、カップルや夫婦という構造体が壊れる辛さから、相手を罵って傷付け、時には、ストーカーになって、殺人を犯す者まで現れるのである。それでは、なぜ、一時は、深く愛していたのに、愛は、徐々に、もしくは、一瞬にして、はかなく消えるのか。それは、愛を生み出したのは、深層心理だからである。愛は、深層心理によって、突然、誕生したから、徐々にしろ、突然にしろ、はかなく、消えるのは当然のことなのである。つまり、誰一人として、表層心理で、自ら意識して、自らの意志で、人を好きになっていないからである。だから、誰一人として、自ら意識して、自らの意志で、好きである感情を継続させることはできないのである。そして、逆に、「なぜこんな人を好きになったのだろう。」と後悔する人も跡を絶たないのである。結婚後、後悔する人もいれば、恋愛中でも、自分の気持ちを疑う人もいるのである。深層心理が生み出したものでも、愛があれば、人間は、その愛に従って行動する。愛にはそのような力がある。愛は、なぜ、いつ、どのようにして、人間の深層心理で生まれてくるのかは、誰にもわからない。しかし、なぜ、全てを犠牲にするほどまで、愛に大きな力があるのかは理解できる。人間は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人、夫・妻という自我を失うのが恐いから、愛に執着し、愛に動かされるのである。しかし、愛が人間の深層心理に存在するから、人類はここまで存在し、個人が生きがいを感じることができるのである。すなわち、愛の根本には、人類保存と個人の保存への意欲が存在するのである。愛とは、社会的な存在への欲望なのである。すなわち、愛の根底には人類保存の目的があり、個人が社会で生きていくための手段が潜んでいるのである。つまり、性欲と共感感情である。愛の根本は性欲であるから、セックスをして、新しい人間を誕生させるのである。そして、愛は共感感情であるから、他者と協力し、仲間や組織や集合体を形成し、それが自己の存在確信、そして、自己の現実的な存在にも繋がるのである。もちろん、それは、深層心理の働きであるから、人々は、そのことに気付いていない。人間は、愛の現象面しか捉えることができない。愛の現象面とは、愛している人は、自分が愛している人に執着するということである。愛とは、執着心なのである。愛している人には、自我以外に、もう一人執着する人ができたのである。だから、その人の一挙手一投足が気になる。その人が喜べば、自分も喜び、その人が悲しめば、自分も悲しくなる。愛とは、自我の対他化でもあるのである。常に利己的に行動しているように見える人が、愛する人に対してだけは、身を犠牲にする。それを見て、愛はすばらしいと人々は言うのである。しかし、愛している人が、愛している相手に対して、自分自身の身を犠牲にしてまで守ろうとするのは当然である。なぜならば、愛している相手というのは、もう一人の自分だからである。愛している相手が存在しないこの世は考えられないから、自分の身を犠牲にしてまで守ろうとするのである。人々は、愛している人が愛している相手に対して自分自身の身を犠牲にしてまで守ろうとする様子を見て、愛の力に心打たれるのである。だから、「世界の中心で愛を叫ぶ」などの映画が作られるのである。人々がこれほどまでに愛を讃えるのは、現実の人間世界はつまらなく、残酷であるからである。これこそ、他者の対自化であり、「人は自我の欲望を他者に投影する」現象なのである。人間は、愛という霞がかかっている状態で見なければ、人間世界に生きていくことは堪えられないのである。これこそ、スタンダールに、「結晶作用」という有名な言葉があり、「私が結晶作用と言うのは、次々に起こるあらゆる現象から、愛する者の新しい美点を発見する精神作用である。」と述べている。これは、愛している人が愛している相手を、愛という霞がかかっている状態で見ているから、起こるのである。日本の「あばたもえくぼ」という諺と同意である。また、愛している人は、愛している相手からの愛を欲望する。つまり、愛は、愛している相手からも愛を得られて、初めて、満足でき、成就できるのである。愛する相手に出会ったということは、自らを愛してくれることで満足できる相手を見つけたということなのである。だから、人々は、自らの愛に執着するのである。だから、「片思いで良い。」とは、愛の本来の形では無く、告白して断れるのが恐い人から発せられた言葉なのである。また、「運命の人」というのは、愛する相手に出会い、相手も自らを愛してくれているということであり、特に、運命と言えるような大げさなものではない。相思相愛になる人がなかなか見つからなかったということを意味しているに過ぎない。このように、人間は、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。また、人間は、人間の無意識の中で、深層心理が、快感原則によって、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理の思考は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指針を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。だから、たいていの人は、深層心理が、快感原則に基づいて、怒りという感情と相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出しても、表層心理が、現実原則に基づいて、殴った後のことを考えて、相手を殴れという行動の指令を抑圧するのである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。一部の人は、深層心理が、快感原則に基づいて、怒りという感情と相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、現実原則に基づいて、殴った後のことを考えて、相手を殴れという行動の指令を抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎるので、抑圧が功を奏さず、思わず、相手を殴ってしまうのである。そして、相手から復讐を受けたり、周囲から顰蹙を買ったり、罰せられたりするのである。そして、人間は、表層心理で思考し、意志で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。その時、理性による思考は長く続き、それは苦悩であるが、偉大な思想を生み出すこともあるのである。偉大な思想とは、常に、苦悩を伴うのである。芸術も、また、理性の行為である。芸術は、苦悩を作品化して、苦悩を支配する行為なのである。芸術は、理性と同じように、自我の対他化による苦悩で始まるが、その苦悩を作品化して、対自化する行為なのである。人間は、自己の世界を切り開くには、自我の対他化による苦悩を、理性によって、思想によって支配するか、芸術によって、作品化して、支配するしかないのである。それが、対他化という被支配から対自化という支配へと行く道なのである。しかし、人間には、人間関係を主体にしない生き方もあるのである。人間関係を主体にするから、自我を他者によって対他化して、他者から好評価・高評価を受けようと思って行動するのだが、逆に、他者から悪評価・低評価を受けて、逆上し、怒りの感情に圧倒されて、感情的な行動に出て、相手から復讐され、周囲から顰蹙を買い、時には、逮捕されるのである。また、人間関係を主体にするから、他者を自我によって対自化して、他者を支配しようと行動するのだが、逆に、他者から反撃され、逆上し、これも、また、怒りの感情に圧倒されて、感情的な行動に出て、相手から復讐され、周囲から顰蹙を買い、時には、逮捕されるのである。だから、他車と衝突しない生き方をすべきなのである。それは、対象の主体を他者にしない生き方である。対象を、音楽、絵画、映画、生け花、書道、植木、アニメ、漫画などの芸術、サッカー、野球、テニス、ジョギング、ボルダリング、散歩などの勝負を重視しない運動、小説、哲学書、心理学書などの書物、農業、家庭菜園、つり、登山などの野外活動にするのである。対象の主体を他者にしない活動をしていれば、たとえ、他車と衝突することがあって、悲劇や惨劇を招かないのである。悲劇や惨劇を招くのは、常に、自我を対他化して好評価・高評価を受けようと思い、他者を対自化して、他者を支配しようと思って、行動するからである。

人間は、直接、自分の心に働き掛けることはできない。(自我その263)

2019-11-24 18:49:15 | 思想
人間は、欲望によって動かされている。欲望は、ある感情とその感情に伴った行動の指令によって成り立っている。行動の対象は、他者、動物、生物、事物、事柄などの多岐にわたっている。時には、自分自身が、対象となることがあるが、それは、肉体までであって、心には及ばない。つまり、人間は、直接、自分の心に働き掛けることはできないのである。しかも、その欲望は、自分自身で、生み出すことはできない。確かに、欲望は、自分の心の中から生まれてくるが、人間は、自分で意識して、自分の意志によって、生み出すことはできない。欲望は、人間の心の奥底から湧き上がってくるのである。この、人間が、自らは意識せず、自らの意志で行われていない心の働きを深層心理と言う。深層心理が、人間が意識しないままに、思考して、欲望を生み出しているのである。だから、人間は、心の奥底から湧き上がってくるように感じるのである。さて、欲望とは、感情と行動の指令である。人間は、欲望があるから、思考して、行動の指令のままに行動し、行動の指令を抑圧して、別の行動を考えるのである。この、人間の、自分で意識して、自分の意志で思考する心の働きを表層心理と言う。人間は、表層心理で、深層心理心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するが、表層心理で、感情と行動の指令という欲望を生み出すことはできない。常に、人間は、表層心理で思考するのは、深層心理が思考した結果を受けてからである。つまり、常に、深層心理の思考が先発であり、人間の表層心理での思考は後発なのである。しかし、深層心理は、人間が意識していない心中の思考であるが、決して、恣意的に、感情と行動の指令という欲望を生み出しているわけではない。深層心理は、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という欲望を生み出しているのである。快感原則とは、快楽を求める欲望である。そして、人間は、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。現実原則とは、現実的な利得を求める欲望である。深層心理の快感原則と表層心理の現実原則の背馳の現象が明確に窺えるのは、エディプス・コンプレックスである。エディプス・コンプレックスとは、フロイトの思想である。それは、男児の深層心理の思考から始まる。男児の深層心理が、母親に恋愛感情を持ち、自分と同性である父親に敵意を抱き、母親を独占するとともに、父親を排除せよという行動の指令を出したという欲望から始まる。しかし、男児は、表層心理で、思考し、父親にかなわず、社会にも容認されず、家から追放される虞を認識し、その欲望を抑圧したのである。そして、やがて、男児は父親の欲望を模倣することになり、男児の欲望は規範化される。また、欲望の対象である母親に代えて、母親と同価値を持つ性的対象である女性を見出すことになる。そして、恋愛をし、父親になるとともに、社会的システムの中に導入されることになるのである。つまり、エディプスコンプレックスとは、わかりやすく言うと、次のようになる。男児の深層心理は、母親に異性感情を抱くが、父親と社会的がそれを許さないために、表層心理で、自分の気持ちを抑圧する。そして、自分は男性であるから、母親のような女性と恋愛をし、めとることができ、父親のような存在になることができるという意識を持つことによって、それを納得する。そして、実際に、母親とは別な女性に愛情を抱くようになる。このようにして、男児の欲望は変化して、社会的なシステムに組み込まれていくのである。さて、男児が母親を恋い慕うだけでは、ほほえましく思われるだけで、父親からも、社会的からも、禁止されることはない。男児が母親に恋愛感情を持ったから、父親からも、社会からも、それが禁止されたのである。しかし、禁止されたといっても、それは、直接に、父親や周囲の人に注意されたり叱られたりしたということではない。男児が、自ら、母親に対する恋愛感情は父親にも周囲の人々にも認められないことだと気づいたから、抑圧したのである。自分の気持ちは、ただ単なる恋慕では無く、恋愛感情だから、抑圧しなければいけないと思ったのである。なぜ、抑圧しなければいけないか。それは、父親にも周囲の人々にも認められないことだと気づいたからである。それ以外の理由はない。だから、男児は、表層心理で、直接、自分の心に働き掛けて、母親に対する恋愛感情を変化させたわけではない。母親に対する恋愛感情はまだ心の中に残っている。しかし、男児は、表層心理で、自分が母親の子供だから、父親も周囲の人からも、母親に対する恋愛感情に反対され、罰せられると気づいたのである。それは、男児の、自らの母親に対する恋愛感情の発見と同時に、家族という構造体の中での自我(男児というポジション)の発見なのである。さて、人間は、深層心理にしろ、表層心理でにしろ、他者からの自我の評価が高かったり好まれたりすることを欲望する。それを、深層心理や表層心理による自我の対他化による欲望と言う。特に、深層心理は、最初に、欲望を生み出すから、その欲望は強い。また、家族という構造体に、男児、父親、母親という自我があるように、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って生活している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。だから、深層心理は、構造体の中で、快感原則に基づいて、自我を主体にして思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、人間は、構造体の中で、表層心理で、意識して、現実原則に基づいて、自我を主体にして思考して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動するか、行動の指令を抑圧するかを審議し、その結果を、意志として行動するのである。広義の理性とは、人間の表層心理での思考を言う。教義の理性とは、人間が、表層心理で、行動の指令を抑圧し、別の行動を考えることを言う。一般的に、狭義の理性が体系的で、深い思考を生み出す。ちなみに、安倍晋三首相が「桜を見る会」を私物化し、公私混同したことも、森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回ったことも、両者とも、深層心理が、総理大臣の自我・千葉県知事という自我を主体にして思考し、快感原則の思考による行動の指令の通りに行動したからである。彼らは、表層心理で、現実原則で思考しても、両者とも支持率が高かったから、「桜を見る会」を私物化しても、被災地の状況を無視しても、国民・千葉県民という他者の評価を気にしなくてもよい、下がっても高かが知れていると判断し、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動したのである。両者とも支持率が高かったから行ったことである。彼らは、特に、悪人というわけではない。もちろん、善人では、決してない。彼らは、典型的な、俗人なのである。もちろん、彼らは、表層心理で、直接、自分の心に働き掛けて、自らの悪心を変えたわけでは無い。そもそも、人間は、表層心理で、自分の心を変えることはできない。だから、特に、安倍晋三首相は、既に、森友学園問題、加計学園問題で、悪事を働き、今回の「桜を見る会」で悪事を働いた。支持率が高い限り、安倍晋三が首相である限り、この種の悪事を犯し続けるであろう。安倍晋三首相は、深層心理の快感原則の思考の結果を、表層心理で抑圧できないのである。そもそも、安倍晋三首相は、深層心理の快感原則の思考の結果を、表層心理の現実原則で抑圧する気は無いのである。だから、安倍晋三首相は、深層心理の快感原則と表層心理の現実原則の背馳で苦悩することがないから、同じ過ちを繰り返すのである。


深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく乱暴な人である。(自我その262)

2019-11-23 17:33:42 | 思想
人間は、多くの誤解の下に生きている。感情の起伏が激しく、いきなり殴り掛かるなどの乱暴を働く人を心が強い人だと思っている人が多い。そうではなく、乱暴な人は心が傷付きやすく、その傷付いた心を早く回復させるために乱暴を働くのである。傷付きやすい心を持っているか傷付きにくい心を持っているかは、先天的なもので、本人にはどうしようもできない。一生変わることはない。さて、心の動きには、深層心理と表層心理の二種類があり、最初に動き出すのは、深層心理である。最初に、深層心理という、本人の無意識の心が、思考し、感情と行動の指令を生み出すのである。それを受けて、人間は、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するか思考し、その結果が意志による行動となるのである。人間は、表層心理で、受け入れることを決定すれば、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動し、それが意志による行動となるする。人間は、表層心理で、受け入れることを拒絶すれば、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧し、別の行動を考え出さなければならなくなる。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、表層心理で、受け入れることを拒絶し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、功を奏さず、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。まさしく、感情の起伏が激しく、乱暴を働く人とは、深層心理が敏感な人なのである。深層心理の敏感な人は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を、意識して思考し、受け入れることを拒絶し、抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強いので、深層心理が生み出した乱暴を働けという行動の指令に逆らえないのである。深層心理の鈍感な人は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を、意識して思考し、受け入れることを拒絶し、抑圧しようとすれば、深層心理が生み出した感情が弱いので、深層心理が生み出した乱暴を働けという行動の指令に止めることができるのである。それでは、なぜ、深層心理の敏感な人の深層心理は、乱暴を働けという行動の指令を出したのか。それは、自我が傷付けられたからである。それは、人間は、自我を対他化して、他者に認められようと思って生きているのに、他者に侮辱されたり、無視されたり、陰口を叩かれたりして、悪く評価されたり、低く評価されたので、心が傷付き、深層心理が、傷付いた心を回復させようとして、怒りの感情とともに殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出したのである。怒りの感情が強いので、深層心理で、殴れという行動の指令を抑圧しようとしても、功を奏さず、いきなり殴り掛かってしまうのである。さて、多くの人は、自らの意志で生き、自らの意志で行動し、自らの行動を意識して生み出し、自らの感情を意識してコントロールして暮らしていると思っている。しかし、そうではない。意志や意識という表層心理は後発の動きなのである。まず、深層心理が思考し、感情と行動の指針という自我の欲望を生み出し、すぐ後で、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、意識して思考し、深層心理の生み出した行動の指令を受け入れるか拒絶するかを考えるのである。つまり、先発の動きは、深層心理によって引き起こされるのである。意志や意識という表層心理は、深層心理の動きがあって、初めて、動き出すのである。しかし、一般的には、意志や意識が重要視され、深層心理は、例外的な動きとして、捉えられている。しかし、真実はそうではない。常に、深層心理が思考し、感情と行動の指針という自我の欲望を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識して思考し、それを受け入れたり、抑圧したりするのである。さて、深層心理は、一般的に、深層心理は無意識と呼ばれている。むしろ、無意識という言葉の方がより普及している。無意識について、辞書では、「本人は意識していないが、日常の精神に影響を与えている心の深層。心理学で、通常意識に上らない識閾の領域。夢・精神・分析などによって意識化が可能になる。潜在意識。」と説明している。そして、深層心理については、辞書では、「人間の精神活動のうち、意識されていない心的領域。無意識。日常の意識生活に働きかけている無意識下の心理。奥深くに隠れている心の働き。外に現れない無意識の心の働き。」と説明している。このように、深層心理と無意識は、同じなのである。しかし、無意識という言葉は、意識という言葉に無という否定を表す助字を付けた言葉であり、主体は意識にあるということを言外に表現しているから、深層心理と無意識は同じ意味であるが、敢えて、無意識ではなく、深層心理という言葉を使うのである。それは、自我の感情や行動の指令という欲望は、深層心理の積極的な働きによって生まれているからである。人間は、それを受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の採否を思考するのである。つまり、本質的には、人間の主体は深層心理にあるのである。人間は、自ら意識して思考するという表層心理の働く前に、既に、自らが気付かないうちに、深層心理が思考し、感情と行動の指針という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識し、それの適否を思考するだけなのである。一般的には、意識して(表層心理の)行動する方が無意志の(深層心理の)行動より多く、また、優先していると考えられている。しかし、真実は、逆である。無意志による行動の方が意識しての行動より多く、優先しているのである。果たして、誰が、「次は右足、次は左足」と意識して、歩くだろうか。誰が、品詞や活用形などの文法を意識して考えて、文を作るだろうか。誰が意識して思考して、人を好きになるだろうか。それらは、皆、無意識の(深層心理の)働きなのである。さて、深層心理の欲望は、対自化・対他化・共感化の作用によって生まれてくる。対自化とは、人は、物や動物や他者に対した時、それをどのように利用するか、それをどのように支配するか、彼(彼女)がどのように考え何を目的としているかなどと考えて、対応を考えることである。対他化とは、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを言う。共感化とは、他者と、敵に当たるために協力したり、友情を紡いだり、愛情を育んだりすることを言う。人間の深層心理は、物や動物や他者に対した時、この三化のいずれかの姿勢で当たる。この三化の中で、深層心理の欲望が最も激しく動くのは、他者に対した時の対他化である。喜怒哀楽の感情のほとんどは、他者に対した時、対他化の結果、自らがどのように思われているかを知ることによって起こる。それほど、他者の自我に対する評価が、人の気持ちを左右するのである。特に、深層心理の敏感な人は、他者の自我に対する評価によって、心が大きく揺れるのである。他者から好評価・高評価を受けると、ある人はは有頂天になり、ある人は歓声を上げ、ある人は威張り出す。他者から悪評価・低評価を受けると、ある人は気持ちが大きく沈み込み、ある人は相手に対して激しい憎悪の感情を抱き、ある人は恥ずかしくて居たたまれない感情になり、ある人は自殺を考えるほど気持ちが重くなるのである。しかし、自分の深層心理が敏感であることが嫌いであったとしても、自分の意志では、どうすることもできない。人間は、先天的に、深層心理の感度、つまり、敏感、鈍感が決まっているからである。そして、それが性格に繋がっているのである。だから、人間は、先天的に、性格も決まっているのである。さらに、自分の意志で自分の深層心理を変えることはできないから、性格は、一生、変わらないのである。さて、深層心理の敏感な人には、怒りっぽい、心が傷付きやすい、いつまでもくよくよしている、いつまでも根に持っている、復讐心が強い、嫉妬深い、よく笑いよく泣くなど、感情の起伏の激しさが外面に現れる特徴がある。なぜならば、深層心理の敏感な人は、他者からの評価に、心が大きく動くから、必然的に、自我の欲望も強くなる。その強い欲望を、表層心理で抑圧しようとしても、抑圧できないからである。深層心理の欲望が強いから、いつまでもくよくよしている、いつまでも根に持っている、復讐心が強い、強く嫉妬するなどの思いが長く持続するのである。傷害事件を起こしやすいのもストーカーになりやすいのも深層心理の敏感な人の特徴である。それも、また、深層心理の欲望が強いからである。芸術家が多いのも、深層心理の敏感な人の特徴である。それは、深層心理の敏感な人は、心が激しく動揺し、心のバランスを失い、そのバランスを取り戻そうとして、芸術に表現するのである。つまり、芸術に、心の傷を表現することで、昇華するのである。傷害事件を起こす人の多くは、激しく心が傷付けられ、心のバランスが失われたので、バランスを取り戻そうとして、自分の心を傷付けた人の心を傷付けようとして、相手に暴力を振るったのである。ストーカーになる人は、失恋によって激しく心が傷付けられ、心のバランスが失われたので、バランスを取り戻そうとして、相手につきまとって、相手に新しい恋人を作らせないようにして、失恋の事実を認めないようにしたり、自分の心を傷付けた相手の心を傷付けて、失われた心のバランスを取り戻そうとして、相手に暴力を振るったり、殺したりするのである。精神疾患に陥りやすいのも、深層心理の敏感な人の特徴である。それは、他者から悪評価・低評価を受け続け、それに伴い、心も激しく動揺し続け、バランスを失い続け、深層心理がそれに堪えられなくなり、自らを、精神疾患にすることによって、現実から逃れようとするのである。確かに、精神疾患に陥れば、他者からの悪評価・低評価から逃れることはできるが、日常生活全体に大きな支障が出るのである。さて、このように、人の深層心理の感度、人の性格は、生まれつきのもので、一生、変わることはない。自分の性格を知ることによって、自分の深層心理の感度を知ることが大切である。深層心理の敏感な人は、心が傷付けられ、心のバランスを失いそうな場所には近寄らないことが大切である。また、深層心理の敏感な人は、他者から悪評価・低評価を受け続けている環境にいるならば、即刻、環境を換えることである。確かに、人間は、ある程度は、逆境に堪えることができるが、深層心理の敏感な人の感情の揺れは、揺さぶり続けられたならば、精神疾患に陥らなければ堪えられないほど、高まるからである。日本全体で、これまで、「克己」、「根性」、「大和魂」、「逃げるのは卑怯者のすることである」、「逃げるのは恥ずべき行為だ」などの言葉で、我慢して、そばに居続け、今までと同じことを繰り返すことを強要してきた。それは、政治権力者、資本家、教師などの上に立つ者が、大衆、労働者、生徒を、自らの意図の下に支配したいという、他者を対自化しようという意図の下で行ってきたのである。しかし、それが隠蔽され、それらが美徳として誤って解釈されてきたからである。「君子危うきに近寄らず」であり、環境を換えること、逃げることは、決して、卑怯者のすることでも恥ずべき行為でもない。最も良いのは、深層心理の仕組みを知り、他者の評価に囚われないことである。「たかが他者の思いではないか」、「人生はゲームのようなものだ」と考えるべきなのである。