あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

魔女狩りを好む大衆と孤立する知識人について。(自我その402)

2020-08-30 13:16:04 | 思想
大衆とは、国という構造体に所属し、国民という自我を持ち、政治権力者と多数派に寄りかかり、少数派を虐げ、決して、責任を取らない人々である。だから、大衆は、常に、右翼・体制派である。大衆は、政治権力者と多数派の力によって、自分の現在の立場を維持しようとする保身化、自分を認めてもらいたいという対他化、自らの力を見せつける対自化を図り、集団が共感化して少数派を攻撃する。少数派とは、知識人である。だから、知識人は、孤立するのである。しかし、それでも、知識人であらねばならないのである。なぜならば、政治権力者や大衆の国民という自我の欲望のままの行動を許せば、国という構造体の進路が危うくなるからである。政治権力者や大衆には、自らの国民という自我の欲望に執着し、他国の構造体に所属する国民の自我の欲望に対する配慮が欠けているからである。だから、知識人は、反体制派とならざるを得ないのである。知識人は、自らの国民という自我に捕らわれず、他国の構造体に所属する国民の自我の欲望に対してもる配慮して、思考し、行動しようとするのである。さて、人間は、誰しも、大衆として育つ。それは、国という構造体において、国民という自我を持つやいなや、自我の欲望のままに行動しようとするからである。自我の欲望のままに行動するとは、簡潔に言えば、わがままに行動することである。大衆とは、国という構造体において、権力者に頼ったり、多勢を利用したりして、無勢の他者に対して、自我の欲望のままに行動しようとする、すなわち、わがままを通そうとする集団なのである。大衆に対する存在として、知識人がいる。知識人にも、国民という自我はあるが、他国という構造体には国民という自我を持つ者が存在することを認めて、自らの国民という自我の欲望に振り回されず、思考して、行動しようとするのである。だから、人間は、思考しようとしない限り、知識人にならず、大衆のままに存在するのである。それでは、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。国という構造帯では、国民という自我、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任の教師・クラスメートという自我があり、クラブという構造体では、顧問の教師・部員などの自我があり、大学という構造体では、学長・教授・准教授・学生などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。大衆とは、国という構造帯において、国民という自我を持った集団なのである。つまり、日本という構造においての大衆とは、日本人という自我を持った集団である。それでは、人間は、各々の構造体において、どのように考えて行動しているのだろうか。人間は、構造体において、深層心理が、自我を主体にして、自我の保身化・自我の対他化・対象の対自化・自我と他者の共感化という四つの欲望のいずれかを満足させることによって、快楽を得ようという快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。だから、人間は、決して、意識的に思考して、すなわち、表層心理で思考して、意志で行動しているのではなく、無意識のうちに、言い換えれば、深層心理が思考して、行動しているのである。さて、自我の保身化とは、何か。それは、人間は社会生活を営む上では、構造体に所属し、自我が必須だから、自我に執着することである。だから、深層心理は、自我の確保・存続・発展のために、自我を動かそうとするのである。また、深層心理は、構造体の存続・発展にも、自我を動かそうとするが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、日本人という大衆は、日本という構造体にも執着するのである。その執着心が愛国心である。次に、自我の対他化とは、何か。それは、他者から好評価・高評価を受けるために、自我を動かすことである。だから、日本の大衆の一人一人は、時の権力者や大衆集団から好評価・高評価を受けるために行動するのである。次に、対象の対自化とは、何か。それは、支配欲を満足させるために、他者という対象を支配し、物という対象を利用し、現象という対象を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えることである。だから、日本の大衆は、支配欲を満足させるために、知識人などの少数派を攻撃するのである。次に、自我と他者の共感化とは、何か。それは、自我の力を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と愛し合ったり、他者と協力し合ったりすることである。呉越同舟(普段は仲が悪い者たちが、共通の敵が現れると、一致団結して対峙する。)という現象も、自我と他者の共感化の欲望から起こっている。だから、日本の大衆は、時の権力者や大衆集団と共感化して、知識人などの少数派を攻撃するのである。それが、魔女狩りである。大衆は魔女狩りを好むのである。魔女がいるから魔女狩りをするのではない。魔女狩りがしたいから魔女を探すのである。魔女狩りは楽しいから魔女を探し出そうとするのである。魔女は、常に、少数派だからである。例えば、ラサール石井、石田純一、大坂なおみ、小泉今日子、小柳ルミ子などの言動が批判される。批判している者は、もちろん、右翼・体制派のマスコミや大衆である。右翼・体制派のマスコミや大衆は、芸能人、スポーツ選手、歌手は政治的な発言をするべきではないと批判するのである。しかし、真の理由はそうではない。真の理由は、ラサール石井、石田純一、大坂なおみ、小泉今日子、小柳ルミ子が反体制的な発言をしていることである。ラサール石井、石田純一、小泉今日子、小柳ルミ子が安倍内閣寄りの発言をしていたならば、大坂なおみが黒人差別の告発ではなくトランプ大統領寄りの発言をしていたならば、右翼・体制派のマスコミや大衆は賛意を示すことがあっても、批判することはないはずである。石田純一は、集団的自衛権などの安倍内閣の政策を批判したから、コロナウィルス騒動で、過剰な批判を受けているのである。さらに、坂上忍は、テレビ番組で、安倍内閣の政策を批判しているから、右翼・体制派のマスコミから、その番組の司会者を降板させられるという噂を撒き散らかされているのである。高須克弥は、政治的な発言や活動をしているが、それが安倍政権寄りだから、右翼・体制派のマスコミや大衆は、医者は政治的な発言や活動をするべきではないと批判しないのである。さて、魔女狩りとは、13世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ諸国家・アメリカ新国家と教会が、異端撲滅と称して特定の人物を魔女と断定し、糾問する魔女裁判を行い、焚刑に処した事件である。現代においては、権力者とその力を頼る同調者である大衆が、異端分子と見なした人物を迫害し、制裁を加えて排斥することを意味している。魔女狩りをする人とパワハラやいじめをする人の心理構造は同じである。なぜ、パワハラの被害、いじめによる自殺が跡が絶たないのか。それは、権力者やとその力を頼る同調者である大衆という俗的な人間にとって、パワハラやいじめは楽しいからである。それは、子供にも大人にも共通した心理現象である。俗的な人間は、嫉妬を覚える人間や嫌いな人間や弱い人間が一人でいたり少数派であったりすると、パワハラやいじめをすることによって快感を得ようとするのである。嫉妬を覚える人間に対してパワハラを加えたりいじめたりするのは、その人は自分ができないことをして、快楽や名誉や利益を得ていると思うからである。嫌いな人間に対してパワハラを加えたりいじめたりするのは、その人は自分と異なる考えを持っていて、自分に反対したり従わなかったりするからである。弱い人間に対してパワハラを加えたりいじめたりするのは、戦っても絶対に負けないと思うからである。現代において、権力者やとその力を頼る同調者である大衆という俗的な人間が魔女狩りをする対象者は、まさしく、一人でいたり少数派であったりする嫉妬を覚える人間や嫌いな人間や弱い人間である。俗的が大衆が権力を握ると、そのまま俗的な権力者になるから、両者は協力して魔女狩りをするのである。さて、大衆は、一般に、世間一般の人々、庶民、民衆と説明されている。大衆は、社会学では、属性や背景を異にする多数の人々からなる未組織の集合的存在と説明され、大衆の誕生については、能動的で自己の判断力を持った自立した市民によって形成されていた近代市民社会が、産業革命による資本主義社会の発達ならびにマスコミュニケーション手段の発達に伴って、バラバラで互いに匿名性をもった多数の個々人の集合体によって構成された現代社会に変質したことで、出現したものであると説明されている。つまり、大衆とは、普段はバラバラであるが、時には、権力者や多数派に迎合し集団化して暴徒と化し、そして、再びバラバラに帰す民衆を意味するのである。このような大衆を、ニーチェは「最後の人間」と呼び、ハイデッガーは「ひと的存在」・「非本来的人間」と呼んだ。ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と批判した大衆は、このように、自ら考えず、権力者や多数派に迎合し、集団化し、暴徒化しても、決して責任を取らない人々を指すのである。ニーチェは「最後の人間」を克服した者として「超人」を挙げている。ハイデッガーは「ひと的存在」・「非本来的人間」を克服した者として「本来的な人間」を挙げている。簡潔に言えば、「超人」・「本来的人間」とは、能動的で、責任感が強く、自己の判断力を持った、自律し、自立した人間である。しかし、現代においては、人間は、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、一旦は、皆、大衆になる。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。このラカンの言葉は、端的に、人間は一旦は大衆になることを意味している。人間は、無意識のうちに、他者という周囲の大衆の欲望を取り入れて、育っていくのである。だから、人間は、他者という周囲の大衆の評価・意向の虜になって育っていくのである。人間は、他者という周囲の大衆の評価を気にして判断し、他者という周囲の大衆の意向を取り入れて判断するように育っていくのである。つまり、現代においては、人間は、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、一旦は、皆、大衆になるのである。問題は、その後である。大衆性を持したまま一生を送るか、その大衆性から脱却して、知識人になるかということである。もちろん、大衆性を持したまま一生を送る人は、ニーチェの言う「最後の人間」、ハイデッガーの言う「ひと的存在」・「非本来的人間」である。大衆性から脱却した人は、ニーチェの言う「超人」、ハイデッガーの言う「本来的人間」である。しかし、自分が、「最後の人間」・「ひと的存在」・「非本来的人間」に属するか、「超人」・「本来的人間」に属するかは、他者が決めることではない。自分自身が、生きる姿勢として、考えなければならないのである。自ら考えず、権力者や多数派に迎合して、集団化する大衆の一人になるか、能動的で、責任感が強く、自己の判断力を持った、自律し、自立した知識人になるかである。ハイデッガーが言うように、大衆とは、世間話、好奇心、曖昧さの塊であり、そこに安住していると楽なのである。世間話とは、多くの人が、根も葉も無い話を無責任に語り合うことである。そこには、仲間意識があり、安心感がある。好奇心とは、上滑りに話題を取り上げ、ひたすら興味本位に追求することである。そこには探究心は存在しない。だから、疲労感が無く、長く話せるのである。曖昧さとは、責任の所在を明確にせず、行動したり、話したりすることである。無責任であるから、常に、気楽な状態にいられる。ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう言った』という著書で、「全ての神々は死んだ。今や、我々は、超人が生きることを望む。」と述べている。死んだ神々を信仰しているのが大衆である。大衆とは、死んだ神々を信仰しているように、常に、非本質的なことに囚われて生きている人間である。しかし、人間は、誰しも大衆の中で育つから、大衆として育つのである。だから、人間は、誰しも、自らの深層心理(自らは意識していない心の思考)に、大衆性を持して育ち、生きていくのである。つまり、人間は、誰しも、非本質的なことに囚われて生きているのである。しかし、人間は、大衆性をを持して生きていく限り、非本質的なことに囚われて生きている限り、世事の些末なことに囚われ、それに一喜一憂して、一生を終えるのである。人間は、自らの大衆性を超越しない限り、自己本来の生き方はできないのである。超人とは、自らの大衆性を超越した人間である。ニーチェは、人間は、自らの大衆性を超越した超人にならなければ、自己本来の生き方はできず、真に、生きている充実感を得ることはできないと言うのである。大衆は、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、自我は虚像であることを認めて生きていくことが、幸福に繋がることを知らない。構造体は虚構であること、関係性は変化すること、自我は虚像であることに気付き、それを受けとめて暮らしているのが、超人である。さて、ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、天体の基本真理と言えども、人間の生に有用である限り、安心感が得られるから、真理とされるだけなのである。しかし、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」とは何であろうか。それは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこに、真理は存在しない」という真理である。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う超人である。超人とは、これまでの人間である最後の人間、すなわち、大衆を否定した人間である。最後の人間とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。だから、超人とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間ということになるのである。ニーチェは、「神は死んだ」と言うのは、現代は、その超人が現れるべき時代だということなのである。超人とは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこには真理は存在しない」という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、自ら、新しく真理を打ち立て、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している最後の人間たちの誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、超人は、この世で、自らの神を打ち立てるのである。しかし、超人は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んでから、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。そして、ニーチェは、「人間は、楽しみや喜びの中にいては、自分自身の主人になることはできない。人間は、苦痛や苦悩の中にいて、初めて、自分自身の主人になる可能性が開けてくる。」と言い、苦悩の中で、自らの神を誕生させ、超人になることを勧めているのである。しかし、全ての人が、自分自身の主人になれるわけではない。自ら考えず、権力者や多数派に迎合して、集団化する大衆は、自分自身の主人なれないのである。「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」できる者、すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと表層心理で意識して思考し続ける者だけが、自分自身の主人になれるのである。それが、知識人である。だから、無意識の思考である深層心理の支配下にあって、楽だから、自ら考えず、権力者や多数派に迎合して、集団化して、同じような生活を繰り返そうという生き方をしている大衆は、日常生活の奴隷なのである。また、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で意識して思考しても、思考が短時間で終わり、安易に妥協し、以前の日常生活に戻っていく大衆も、日常生活の奴隷なのである。つまり、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、自分自身の主人になれる道が開け、超人になる可能性が開かれているのである。先に述べたように、ニーチェの言う超人とは、ハイデッガーの言う本来的人間である。つまり、我々の中で、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、日常生活の奴隷から脱し、超人・本来的人間になる道が開かれているのである。「権力への意志(力への意志)」を持って、「永劫回帰(永遠回帰)」に思考する者しか、自分自身の主人になれないのである。すなわち、そして、自分自身の主人になった人、換言すれば、超人・本来的人間だけが、日常生活の安易さから解放され、充実感を得るのである。さて、ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と言ったのは19世紀のことである。しかし、その馬鹿さ加減は、二世紀経った21世紀の日本においても、猖獗を極めている。ハイデッガーは、大衆の特徴として、好奇心・世間話・曖昧性(無責任)の三点を挙げている。現在の日本の大衆が、まさしく、それである。権力者とその力を頼る同調者である大衆が、異端分子と見なした知識人を迫害し、制裁を加えて排斥するという魔女狩りを行っているのである。彼らに対して異議を唱えなければならない。ガンジーは、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでも、しなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするためである。」と言う。ガンジーの言葉は至言である。それが、知識人の生き様である。















人間は、自己になることができず、他者を知ることができない。(自我その401)

2020-08-28 13:15:03 | 思想
人間は、自分として存在する。しかし、自分そのものは存在しない。自分は、単独では存在できない。自分は、他者や他人が存在する時に、もしくは、他者や他人の存在を意識した時に、存在するのである。だから、人間にとって、自分とは、単に、他者や他人と接する時に、もしくは、他者や他人を意識した時に、自らに対してが持つ意識でしか無い。人間は、自己として存在することに憧れている。もしくは、自己として存在していると思い込んでいる。自己として存在するとは、自ら、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することである。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の主体的な意識しての思考を、理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。そして、人間は、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者や他人から妨害や束縛を受けているからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれない。なぜならば、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して行動しているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。だから、人間は、誰しも、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有することになるのである。例えば、ある女性は、家族という構造体に所属している時は母という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は妻という自我を所有し、銀行という構造体に所属している時は行員という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有し、ママ友仲間という構造体に所属している時は友人という自我を所有して行動しているのである。だから、息子が彼女のことを母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、行員、客、乗客、都民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。逆に、人間は、「あなたは何。」と尋ねられても、一律に、答えることはできないのである。なぜならば、人間は、構造体によって、異なった自我を所有しているからである。そもそも、自己の現れが自我であり、人間は誰しも異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、一般に、各構造体は独立していているから、一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。しかも、彼女は家族という構造体においては母という役割を演じているのであり、夫婦という構造体においては妻という役割を演じ、銀行という構造体においては行員という役割を演じ、コンビニという構造体においては客という役割を演じ、電車という構造体においては乗客という役割を演じ、日本という構造体においては日本人という役割を演じ、東京都という構造体においては都民という役割を演じ、ママ友仲間という構造体においては友人という役割を演じているのである。しかし、人間は、意識して、思考して、その役割を演じているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、その役割を演じているのではない。人間は、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、無意識に、思考して、その役割を演じているのである。すなわち、人間は、深層心理が、思考して、その役割を演じているのである。つまり、自我が深層心理に浸透しているのである。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって行動するのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動は、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持しているから、そこに、常に、他者が存在し、若しくは、介在している。人間は、社会的な存在であるから、自分は、人間にとって、単に、自らを指し示すことにしか過ぎず、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我であるから、構造体の中での自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属して自我を所有しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのであるが、次に、自我を主体に立てること、心境、欲動、快感原則、感情と行動の指令という自我の欲望について記していきたいと思う。まず、自我を主体に立てることについてであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得られるように、自我の行動について考え、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているということである。深層心理が生み出した自我の欲望が人間の心を覆うのである。だから、逆に言えば、人間は、自己を主体にして、表層心理で、意識して思考して、自らの行動を決定していないとということなのである。また、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、深層心理は、常に、他者の思惑を気にして、自我の行動を思考するのである。さらに、人間は、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけなのである。だから、人間は、深層心理の思考を待たずして、表層心理で、思考することはできないのである。人間は、表層心理で、自己によって、主体的に思考できないばかりでなく、自我の行動についての思考も、深層心理の後塵を拝することになるのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な思考者でもないのである。次に、心境であるが、それは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情とは、人間の心境であり感情である。深層心理は、心境や感情に動かされて、自我の欲望を生み出しているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理にとって、自らの心境や感情という情態性が大きな意味を持っているのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。すなわち、表層心理で、意識して思考して、心境を変えることができないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。気分転換とは、気分に直接的に働き掛けて変えるのでは無く、何かをすることによって気分を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間にとって、自らの心境や感情という情態性が、自我や自己の基点にある自分そのものである。自らの心境や感情という情態性こそが、自分という存在者を指し示すのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動は深層心理に内在している欲望であり、自我の欲望は深層心理が自我へと外在させた欲望である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。人間は、表層心理で、意識して、深層心理に直接的に働き掛けることはできないが、深層心理は欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出しているのである。だから、人間は、表層心理で、自我を主体的に動かすことができず、自我は、深層心理によって、動かされているのであるが、深層心理は欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出しているのである。深層心理には欲動という四つの欲望が内在している。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、この四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。まず、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化という作用であるが、深層心理が、構造体の自我を確保・存続・発展させることによって、安心感という快楽を得ようとするのである。人間の日常生活が、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して思考することなく、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままの行動、すなわち、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間の毎日は平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、上司から叱責を受ける。その時、深層心理は、思考して、傷心・怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとする。しかし、深層心理の中にある超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。反論したならば、自我の立場が悪くなり、会社にいられなくなるかも知れないからである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。そして、ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続るのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の作用によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように思い込む。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感という快楽を得られるのである。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我と他者が理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、深層心理が快楽を得よう、すなわち、自我が快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう他我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、超自我や表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感という感情が強いからである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。二人の仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうという「呉越同舟」という現象が生じるのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうことである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るという共通の目的があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。次に、快感原則であるが、それは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようとする欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、傷心も怒りも不快感という感情に属している。もしも、自我が他者から心が傷つけられたならば、深層心理は、自我が下位に落とされた傷心という不快感から脱却するために、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を復讐に走らせることによって、自我を下位に落とした相手を下位に落とし、自我が上位に立つことによって、満足感という快楽を得ようとすることもあるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を対にして生み出し、感情の力によって行動をかなえようとするのである。つまり、感情とは行動の強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我に殴ることを強く促すのである。さて、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがある。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。そして、強い傷心という感情は、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。また、強い怒りの感情は、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。








人間にとって、自己も他者も、想定された存在である。(自我その400)

2020-08-25 16:12:13 | 思想
人間にとって、自己の存在も他者の存在も確証できない。自己も他者もその実態は存在しない。自己も他者も想定されたものでしかない。自己そのものの存在も他者そのものの存在も確証できない。単に、自己とは自分を指し示していることであり、他者はその人を指し示していることにしか過ぎない。自分が所有していると想定されているものと自分が所属していると想定されているものが自己を指し示すのである。その人が所有していると想定されているものとその人が所属しているものと想定されているものが他者を指し示すのである。自分が所有しているものと想定されているものは自我であり、自分が所属しているものと想定されているものは構造体である。その人が所有しているものと想定されているものは他我であり、その人が所属しているものと想定されているものは構造体である。他我とはその人の自我である。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。他我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実のその人のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。だから、人間は、自らを指し示す必要があれば、自己という言葉を、いついかなる時でも、どのような他者に対してであろうと、使うことができる。しかし、自我は、構造体の中でしか使えない。なぜならば、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して活動しているのであるが、構造体によって、異なった自我が与えられるからである。構造体には、家族、国、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間にとって、実際に存在するのは自我であり、構造体である。人間は、構造体に所属して、自我を所有することによって、パート(役割)を持つことができ、それに従って行動しようとするのである。しかし、自我は、自己を指し示すものではあるが、自己そのものではない。人間には、自己は存在しない。人間には、自己そのものは存在しない。人間にとって、自己とは、単に、他者に対して、自らが持つ意識でしか無い。自己は、他者に対して、自らの存在を指し示すだけのものだからである。人間にとって、自己も他者も存在しない。人間にとって、自己とは自分を指し示すものでしかなく、他者とはその人を指し示すものでしかない。だから、自己も他者も想定されたものでしかない。人間にとって、自己を指し示すものは、自己が所有している自我であり、自己が所属している構造体である。人間にとって、他者を指し示すものは、他者が所有している他我であり、他者が所属している構造体である。人間は、自我を所有することによって、自我の欲望を持ち、それによって行動しようとするのである。だから、ある人を指し示す時に、山田さんのご主人と表現するのである。言うまでもなく、山田さんは構造体であり、ご主人は自我である。そして、彼は、山田家という構造体で、父という自我を持って行動するのである。だが、人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有することになる。例えば、ある人は、家族という構造体に所属している時は父という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は夫という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は校長という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有して活動しているのである。だから、彼の実態は何かと尋ねられても、答えることはできないのである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼は家族という構造体における父という自我が自らの真実の実態だと答えたとしても、自我は自我でしか無く、自己とは異なるからである。そもそも、自己の現れが自我であり、人間誰しも異なった構造体に所属し異なった自我を所有しているから、自我から自己を割り出すことはできないのである。さらに、パートという言葉には部分という意味もあるが、まさしく、人間は構造体の一部分にしか過ぎないのである。つまり、人間は、常に、構造体に所属し、自我を所有して、構造体の一部分になり、役割を果たすために生きている、役割存在でしかないのである。また、彼は家族という構造体で父という自我を所有し、一般に、そこには、母という自我を所有している女性がいて、彼女は妻という自我で彼の夫という自我とともに夫婦という構造体を形成しているが、彼女は銀行という構造体では行員という自我を所有し、学生仲間という構造体では友人という自我を所有して行動している。彼は、彼女の行員という自我の活動も友人という自我の活動も知らないのである。つまり、人間は、同じ構造体の中での他者の活動、すなわち、他我しか知らないのである。つまり、人間は、他者の実態も知ることはできないのである。しかも、人間は、常に、構造体に所属して、自我を所有しているが、自ら意識して、すなわち、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに従って行動しようとするのである。人間は、自ら、自我を動かすことはできず、深層心理が、自我を主体に立てて、他者に働き掛けるという自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているのである。深層心理が思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。そして、深層心理に対して、人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。多くの人が考える思考は、表層心理での思考である。表層心理での思考の尊称が理性である。つまり、人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在するのである。しかし、人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできないのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して、思考して、すなわち、理性で思考して、深層心理が生み出した行動の指令について拒否するという結論を出し、意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、そのまま、実行せざるを得ないのである。ドイツの哲学者のアドルノが、第二次世界大戦の惨状を嘆いて、「理性の敗北である」と言ったが、もともと、理性には、強い感情を圧倒する力を有していないのである。さらに、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。しかし、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。だから、自己という実態は存在していないのである。自己は、他者に対しての自らの意識である。他者という実態は存在していないのである。他我が存在しているのである。他者は、自己に対しての他者に対する意識である。しかも、自我も、深層心理によって動かされているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。このように、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。まず、自我を主体に立てるであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考え、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているということである。自我は、自己の現れであるから、自我の欲望が自己の欲望となって、人間を覆うのである。だから、人間は、自己を主体にして、表層心理で、意識して思考して、自らの行動を決定するということはできないのである。また、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、深層心理は、常に、他者の思惑を気にして、自我の行動を思考するのである。さらに、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだから、人間は、深層心理の思考よりも早く、表層心理で、思考することはできないのである。人間は、表層心理で、自己によって、主体的に思考できないばかりでなく、自我の行動についての思考も、深層心理の後塵を拝することになるのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な思考者でもないのである。次に、心境であるが、それは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理にとって、自らの心境や感情という情態性が大きな意味を持っているのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。すなわち、表層心理で、意識して思考して、心境を変えることができないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。気分転換とは、気分に直接的に働き掛けて変えるのでは無く、何かをすることによって気分を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。人間にとって、自らの心境や感情という情態性が、自我や自己の基点にある自分そのものである。自らの心境や感情という情態性こそが、他我や他者を引き離す存在者なのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は欲動に基づいて思考しているのである。人間は、表層心理で、意識して、深層心理に直接的に働き掛けることはできないが、欲動は深層心理が動かしているから、尚のこと、働き掛けることはできないのである。さて、深層心理には欲動という四つの欲望が内在している。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、この四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。まず、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化という作用であるが、深層心理が、構造体の自我を確保・存続・発展させることによって、安心感という快楽を得ようとすることである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、毎日が、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、上司から叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。そして、ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。次に、快感原則であるが、それは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようとする欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、傷心も不快感に属している。もしも、自我が他者から心が傷つけられたならば、深層心理は、自我が下位に落とされた傷心という不快感から脱却するために、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を復讐に走らせることによって、自我を下位に落とした相手を下位に落とし、自我が上位に立つことによって、満足感という快楽を得ようとすることもあるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を対にして生み出し、感情の力によって行動をかなえようとするのである。つまり、感情とは行動の強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我に殴ることを強く促すのである。さて、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。さて、ハイデッガーは、人間は突然不安に襲われると言う。不安は、恐怖とは異なる。恐怖は、自我が他者に認められないかも知れないという虞、自我が他者に奪われるかも知れないという虞である。不安は、自己が存在しないという主体不在の認識、自我すらも主体的に動かすことができないという主体不在の認識から来る。しかし、人間は、世事に紛れて、不安を打ち消そうとする。しかし、世事に紛れることによって、恐怖を忘れることはできるが、不安は忘れることはできないのである。だから、人間は、一生、不安に襲われ続けるのである。しかし、ハイデッガーは、自らを臨死の状態に置くことによって、すなわち、自我を失うことを覚悟することによって、人間は、自己に目覚め、主体性を取り戻し、不安を克服できると言う。しかし、主体性とは、人間が、自己を主体にして、表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自己の行動を考えることである。しかし、人間にとって、自己とは、単に、他者に対して、自らが持つ意識でしか無い。自己は、他者に対して、自らの存在を指し示すだけのものだからである。ハイデッガーの言う自己とは、他者に対して自らが持つ意識ではなく、自我を根本的に改変したものであるが、ハイデッガーはそれを説明していない。各々が考えるべきものだとしているのである。





















人間に、自己は存在しない。(自我その399)

2020-08-23 14:00:12 | 思想
人間に、自己という実態は無い。自己は存在しない。自己そのものは存在しない。自己とは、自己を指し示すものでしかない。人間にとって、自己を指し示すものは、自己が所有しているものであり、自己を所有しているものである。自己が所有しているものとは自我であり、自己を所有しているものとは構造体である。自我は、自己を指し示すものではあるが、自己そのものではない。人間には、自己は存在しない。人間には、自己そのものは存在しない。人間にとって、自己とは、単に、他者に対して、自らが持つ意識でしか無い。人間は、自己においては、欲望を抱くことは無い。自己は、他者に対して、自らの存在を指し示すだけのものだからである。人間にとって、実際に存在するのは自我である。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。だから、人間は、自らを指し示す必要があれば、自己という言葉を、いついかなる時でも、どのような他者に対してであろうと、使うことができる。しかし、自我は、構造体の中でしか使えない。なぜならば、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持して活動しているのであるが、構造体によって、異なった自我が与えられるからである。構造体には、家族、国、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。しかし、人間は、自我を動かすことはできない。深層心理が、自我を主体に立てて、他者に働き掛けるという自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。深層心理に対して、人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在するのである。人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできない。人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、深層心理が思考して生み出した自我の欲望の現れなのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。しかし、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。だから、自己は存在していないのである。しかも、自我も、深層心理によって動かされているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持しているから、そこに、常に、他者が存在し、若しくは、介在している。自我が存在しているから、他者がそばにいたり、他者に呼び止められたりすると、常に、自我を自己として意識するのである。人間は、社会的な存在であるから、自己は、人間にとって、単に、自らを指し示すことにしか過ぎず、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我であるから、構造体の中での自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。人間は、自我が安定すると、自我の欲望を満たすために生きることができるのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。人間は、他者を、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としてみている。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたいという欲望であるからである。人間は、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。人間は、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、自我を持することによって、深層心理が、自我の欲望を生み出すことができるのである。
さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動しているのであるが、自我を主体に立てるとは何か、心境とは何か、欲動とは何か、快感原則とは何か、感情と行動の指令とは何かについて、順に、説明していこうと思う。まず、自我を主体に立てることであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。人間は、表層心理で、意識して思考して、主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。それには、二つの理由がある。一つは、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。人間は、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。つまり、人間は、本質的に、主体的に思考できず、行動できないのである。もちろん、自我が快楽を得るということは、深層心理が快楽を得るということである。言うまでも無く、深層心理が快楽を得るということは、人間が快楽を味わうということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。そして、自我が快楽を得るために、他者を目標にしたり、若しくは、他者を道具にしたりするのである。だから、深層心理にとって、他者のために自我があるのでは無く、自我のために他者が存在するのである。それ故に、人間関係とは、利用し、利用される関係である。だから、人間は、自我が主体的に思考する以前に、すなわち、表層心理で、自ら意識して、思考する以前に、深層心理が、既に、自我を主体に立てて、自我の快楽のために自我の行動を考えているのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な存在者でもないのである。次に、心境であるが、それは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、感情や行動の指令という自我の欲望を起こして、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。すなわち、表層心理で、意識して思考して、心境を変えることができないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。気分転換とは、気分に直接的に働き掛けて変えるのでは無く、何かをすることによって気分を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は欲動に基づいて思考しているのである。人間は、表層心理で、意識して、深層心理に直接的に働き掛けることはできないが、欲動は深層心理が動かしているから、尚のこと、働き掛けることはできないのである。スイスで活躍した心理学者のフロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトの言う性欲というリピドーだけでは、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望を説明しきれないのである。むしろ、欲動は四つの欲望によって成り立っていると具体的に考える方が人間の心理を説明できるのである。深層心理に内在する欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、この四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。まず、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化という作用であるが、深層心理が、構造体の自我を確保・存続・発展させることによって、安心感という快楽を得ようとすることである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、毎日が、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、上司から叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために自我を抑圧し、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧するのである。そして、ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強く、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。その一例が、先に述べた、怒りという感情と復讐という行動である。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。次に、快感原則であるが、それは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようとする欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、傷心も不快感に属している。もしも、自我が他者から心が傷つけられたならば、深層心理は、自我が下位に落とされた傷心という不快感から脱却するために、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を復讐に走らせることによって、自我を下位に落とした相手を下位に落とし、自我が上位に立つことによって、満足感という快楽を得ようとすることもあるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を対にして生み出し、感情の力によって行動をかなえようとするのである。つまり、感情とは行動の強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我に殴ることを強く促すのである。さて、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。さて、ハイデッガーは、人間は突然不安に襲われると言う。不安は、恐怖とは異なる。恐怖は、自我が他者に認められないかも知れないという虞、自我が他者に奪われるかも知れないという虞である。不安は、自己が存在しないという主体不在の認識、自我すらも主体的に動かすことができないという主体不在の認識から来る。しかし、人間は、世事に紛れて、不安を打ち消そうとする。しかし、世事に紛れることによって、恐怖を忘れることはできるが、不安は忘れることはできないのである。だから、人間は、一生、不安に襲われ続けるのである。



自我に取り憑かれた人間は、同じ立場であれば、同じことをする。(自我その398)

2020-08-20 16:19:08 | 思想
「誰でも、自分の立場だったら、実行していたと思う。」とは、林郁夫の言葉である。彼は、オウム真理教が起こした、地下鉄サリン事件の五人の実行犯のうちの一人である。彼は、オウム真理教教団幹部であるが、改悛の情が強く、捜査に積極的に協力したという理由で、実行犯の中で、唯一、無期懲役判決が下った。彼は、刑務所の中で、あの事件を何度も何度も振り返って考え、「誰でも、自分の立場だったら、実行していたと思う。」と語っている。これがテレビで報道されると、多くの人は、この言葉を言い訳として捉え、「反省していない。」と言って、非難した。しかし、彼は、究極の反省をしている。究極の反省の後で、この言葉が出てきたのである。彼は、オウム真理教教団の幹部であったが、たとえ、一般信者であったとしても、サリン散布を断ることはできなかっただろう。オウム真理教教団の信者であるという自我が、教祖の麻原彰晃の命令を遵守させたのである。オウム真理教教団という構造体に所属し、信者という自我を持った時から、教祖の麻原彰晃の命令に従うしか無いのである。それが、自我判断である。林郁夫は、自我判断をし、自己判断をしなかったのである。自己判断とは、自分の良心による判断である。自我判断とは、構造体の中で、自我を確保・存続・発展させるために、他者から自我が認められるように、構造体の主体者や構造体の方向性に則って行動するように、判断することである。誰しも、他者には自己判断を求めるが、自らは、判断に迷うと、自我判断するのである。いや、多くは、迷うこと無く、自我判断をしているのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、学校、会社、店舗、施設、役所、家などの構造体で、自我を持って暮らしている。高校という構造体には一年生・二年生・三年生・教諭・校長などの自我、会社という構造体には社員・課長・社長などの自我、店舗という構造体には客・店員・店長などの自我、施設という構造体には所員・所長などの自我、市役所という構造体には職員・助役・市長などの自我、家という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。林郁夫は、オウム真理教教団に所属し、信者という自我を得、さらに、治療省大臣という幹部に発展させ、教祖の麻原彰晃や他の信者に認めてもらうために、地下鉄でサリンを撒いたのである。たとえ、オウム真理教教団という構造体の中で、林郁夫にこっそりとサリン散布を止めるように忠告していた信者としても、彼は、サリン散布を断ることも教団から逃げ出すこともしなかっただろう。しかし、それは、殺されることの恐怖だけではない。サリン散布を断れば、教団内で、よくあったように、リンチされ、殺される可能性が高い。逃亡すれば、追いかけられ、捕らわれ、殺される可能性が高い。逃亡のあげく、捕まって、殺された者はいる。しかし、逃げおおせた者もいる。サリン散布を断ることや教団から逃げ出すことの恐怖は、殺される恐怖以上に、今まで所属していたオウム真理教教団という構造体から離れ、信者という自我を失うことの恐怖が大きかったのである。所属していた構造体から離れ、得ていた自我を失うと、その後、激しい空虚感、絶望感に襲われるのがわかっているから、それが恐いのである。何をやって良いかわからなくなることが恐いのである。だから、林郁夫は、自己判断より、自我判断を優先させたのである。しかし、誰しも、自己判断を理想とする。自己判断とは、自分の良心による判断だからである。人間は、意識して、思考すると、自己判断を理想とするのである。人間の意識しての思考が表層心理である。つまり、人間は、表層心理で、意識して思考すると、自己判断によって、すなわち、自分の良心にそって生きるのが良いと思うのである。しかし、実際には、人間は、自我判断によって、生きているのである。自我判断とは、構造体の中で、自我を確保・存続・発展させるために、他者から自我が認められるように、構造体の主体者や構造体の方向性に則って行動するように、判断することである。それでは、人間をして、自我判断させるのは何であろうか。深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は、常に、無意識のうちに、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者を共感させたいという欲望を持って、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者を共感させたいという欲望という三つの欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという欲望から派生したものである。快感原則とは、フロイトの用語である。ひたすら快楽を求めることであり、上記の四つの欲望のいずれかが満たされたならば、快楽が得られるのである。このように、人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在し、人間は、深層心理が思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされているのである。人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできないのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令について拒否することを決定し、意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。だから、林郁夫が、表層心理で、意識して思考し、麻原彰晃のサリンを撒けという命令を拒否することを決定し、意志で、麻原彰晃の命令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した、死への恐怖感・オウム神理教教団から追放され信者という自我を失う恐怖感が強いので、麻原彰晃のサリンを撒けという命令のままに行動してしまうのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。林郁夫も、麻原彰晃の命令を聞くというルーティーンをたどり、地下鉄でサリンを撒いたのである。さらに、林郁夫は、オウム真理教教団という構造体の中で、治療省大臣という幹部になり、自我を確保・存続・発展させたいという欲望が満たされ、麻原彰晃という教祖に治療省大臣に抜擢され、自我が他者に認められたいという欲望が満たされ、治療省大臣という幹部という地位で信者を指導して、自我で他者を支配したいという欲望が満たされ、信者から信頼・尊敬され、自我と他者を共感させたいという欲望が満たされ、全ての欲望が満たされていたので、麻原彰晃の命令を拒否して、オウム真理教教団という構造体から追放され治療省大臣という自我を失うという選択肢は存在しなかったのである。かつて、新潟県や千葉県で、何年間も監禁されていた少女が助け出されたことがある。マスコミや大衆は、なぜ逃げるチャンスがあったのに逃げ出さなかったのだろうと疑問を呈する。しかし、彼ら自身が、自らを反省してみると良い。一度なりとも、自らの意志で、現在の生活環境や生活のサイクルを変えたことがあっただろうか。彼女たちも、ルーティーンに従って行動していたのである。人間は、他者の力で変えさせられることがあっても、自らの力で変えることはほとんど無いのである。しかし、ハイデッガーは、「人間は自らを臨死の状態におくことができれば(死の覚悟を持つことができれば、他者の視線をはねのけ、自ら自身で考え、自らの意志で決断し、自ら一人でも行動できる。」と言った。実存主義である。しかし、林郁夫は、死の覚悟を持てず、むしろ、死の恐怖に苛まれた。また、他者の視線をはねのけ、自ら自身で考え、自らの意志で決断し、自ら一人で行動しようとせず、オーム真理教から追放され治療省大臣という自我を失うことを恐れた。だから、麻原彰晃の命令で、地下鉄でサリンを撒くことになったのである。また、太平洋戦争で、臨死の状態にあった、操縦技術の未熟な六千人もの若者が、愚鈍でありながらも出世欲の強い上官たちの命令で、苦悩の果てに、特攻死した。彼らは、臨死の状態にあったのに、上官たちの視線をはねのけることができなかった。死にたくなかったのに、特攻死を拒否できなかった。それは、彼らは、臨死の状態にありながら、自らを臨死の状態におかなかった(死の覚悟を持つことができなかった)からである。なぜならば、臆病者というレッテルを貼られることで、日本人という自我を失うことが恐かったからである。太平洋戦争中、一部の知識人・一部の宗教人・一部の共産党員だけが、残酷な憲兵や特高の拷問を受けながら、戦争反対を唱え続けた。臨死の状態に身をおき(死の覚悟を持ち)、憲兵や特高の視線、政治権力の視線、マスコミや神主や大衆の視線をはねのけ、自らの意志で決断し、戦争反対を唱え続けた。そして、百人以上が拷問で殺された。特攻死した六千人もの若者や戦争反対を唱え続けて拷問死した一部の知識人・一部の宗教人・一部の共産党員に、戦後の明日は無かった。操縦桿を握った時に、そして、逮捕された時に、今日は途絶え、明日は無かった。しかし、若者を特攻死させた上官や戦争反対者を拷問死させた憲兵や特高には、戦中の今日も戦後の明日も存在した。そして、今日生きたように、明日も生きていくことができた。つまり、自我によって生き、他者を殺した者たちに明日は来たのである。自己によって生きようとした者は、自我によって生きている者に殺されたのである。さて、ほとんど戦後生まれになった日本人にも、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。それが、習慣であり、ルーティーンである。それが、ニーチェの言う「永劫回帰」(全ての者は同じことを繰り返す)という思想である。ほとんどの人間は、「永劫回帰」しているのである。すなわち、ほとんどの人間には、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくのである。それは、自我によって生きているからである。しかし、人間、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできない。誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできないのに、明日がやって来ること、明日も生きていくことを信じている。もちろん、人間は、表層心理で、意識して考えて、そのような結論に達したのではない。表層心理での思考が理性の思考である。すなわち、理性の思考から、明日への期待が生まれているのでは無い。深層心理(無意識)がそのように信じなければ生きていけないから、明日もやって来て、明日も今日のように生きていくことができると思い込んでいるのである。それは、そのように思わなければ、生きていけないからである。しかし、人間には、時には、判断が求められることが起こる。その時、自己判断をするか自我判断をするかを決定しなければならない時がある。自己判断とは、自分の良心による判断である。自我判断とは、構造体の中で、自我を確保・存続・発展させるために、他者から自我が認められるように、構造体の主体者や構造体の方向性に則って行動するように、判断することである。だから、戦後生まれの者も、他者には自己判断を求めるが、自らは、判断に迷うと、自我判断するのである。なぜならば、自分の良心によって判断すると、正義は貫けるが、構造体から追放され、自我を失う可能性が高いからである。戦前、戦中は、自己判断をして行動した者は、国家権力という自我に取り憑かれた者に殺され、戦後は、自己判断をして行動した者は、構造体の主体者という自我に取り憑かれた権力者から構造体から追放されるのである。