あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自らに過度に期待するから、後悔し、絶望するのである。(自我その450)

2020-12-29 16:50:37 | 思想
人間が、自我に捕らわれず、自らの意志で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動することができるのであれば、人間は、自由な存在であり、主体的なあり方をしていて、主体性を有していると言えるだろう。しかし、人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。人間は、深層心理という自分が意識していない思考が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされて、生きているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は、自我として存在し、深層心理が思考して生み出した感情の力によって、深層心理の生み出した行動の指令の指令を実行するように促され、行動しているだけなのである。確かに、人間は、自らの意志で意識して考えることもある。自らの意志での意識した思考を、表層心理での思考と言う。しかし、人間が、表層心理で、自らの意志によって、意識して、思考する時は、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理の生み出した行動の指令を、自我の行動として許諾するか拒否するかを審議する時だけなのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。暴力や殺人などの犯罪行為は、人間は、表層心理で、抑圧しようするのだが、深層心理が生み出した怒りの感情が強いので、深層心理が生み出した行動の指令のままに行ったことによって起こったのである。だから、人間は、主体的な存在でもなく、自由な存在でもないのである。人間が本質的に自由ではないのは、他者に束縛されているからではなく、自らの深層心理に動かされているからである。人間が自由でもなく、主体的でもないのは、日常生活がルーティーンとなっていることからも理解できる。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ、楽だから、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、日常生活において、時には、異常なことが起こる。学校において、教師に厳しく叱責される。会社において、上司に激しく罵倒される。深層心理は、怒りの感情と反抗しろという行動の指令という自我の欲望を生み出す。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、この自我の欲望を抑えようとする。超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我という作用が、日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、思考して、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を抑圧しようとする。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した怒りの感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに反抗してしまうのである。そうして、いっそう、自らの立場を悪くするのである。つまり、人間の表層心理での思考による意志は、時には、深層心理が生み出した感情と行動の指令に屈服するのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した反抗しろという行動の指令を拒否することを決め、意志によって、実際に、反抗しろという行動の指令を抑圧できたとしても、その場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。強い怒りの感情の抑圧は、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。さらに、強い怒りの感情の抑圧が、暴発して、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。このように、深層心理の超自我という作用と表層心理での思考が、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理の学校や会社という構造体の中で、生徒や会社員という自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。そして、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。しかし、表層心理での思考は、基本的に、長時間掛かるのである。なぜならば、表層心理での思考は、道徳観や法律を考慮し、反抗したしたならば、後に、自我がどうなるかという長期的な展望に立って、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。現実原則は、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望であるから、他者の評価を気にして、道徳観や法律を考慮するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、将来のことを考え、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した反抗しろという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、人間は、再び、表層心理で、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかと苦悩するのである。そうして、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考が続くのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していず、思考と行動の主体は深層心理にあるのである。確かに、人間の特権は、思考することにある。人間の特権は、思考して行動することにある。しかし、人間は、自らの意志によって、意識して、思考しているのではない。人間は、自ら意識して思考したことを意志として、行動しているのではない。人間は、無意識のうちに思考して行動するのである。深層心理が、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動くのである。人間は、深層心理を意識することも動かすこともできないのである。しかし、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識し、それに動かされて、行動するのである。人間は、常に、自らを意識しているわけではない。自らを意識するとは、自らの存在を意識することである。自らの存在を意識するとは、何かを行っている自らを意識することである。人間は、他者を意識した時、自らを意識する。人間は、他者に見られていたり、他者に見られる可能性があった時には、必ず、自らを意識する。人間は、他者に見られている時、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時は、必ず、自らを意識する。人間は、他者の存在を感じた時には、必ず、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、現在の自らの行動や思考を意識することである。すなわち、他者の視線を感じた時や他者の視線を受ける可能性がある時には、必ず、自らを意識するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、現在の自らの行動や思考を意識するのか。それは、他者は、自らにとって、脅威の存在だからである。また、人間は、無我夢中で思考している時や行動している時にも、突然、自らを意識する時がある。無我夢中とは、自らの存在を意識せずに、対象に専心して、思考していたり行動していたりする状態である。それでは、なぜ、人間には、無我夢中で思考している時や行動していている時でも、突然、自らの存在を意識することもあるがあるのか。それは、自らが気付かないうちに、他者に襲われる可能性があるからである。他者は、自らにとって、脅威の存在なのである。このように、人間は、他者の存在によってしか、自らを意識することができないのである。人間は、自由ではなく、主体的なあり方をしていず、主体性を有していないのである。それでありながら、人間は、自由な存在であり、主体的なあり方をしていて、主体性を有していると思い込み、自らに過度に期待するから、後悔し、絶望するのである。


人生とは、苦しみながら考え続けるということである。(自我その449)

2020-12-25 17:29:30 | 思想
人間は、突然、苦しむ。人間は、自ら意志すること無く、突然、苦痛に襲われる。苦痛に襲われた後で、苦痛を意識する。そして、苦痛に堪えきれないから、それから解放されようとして、その方法を考えるのである。人生は、その繰り返しに過ぎない。それでは、なぜ、人間は、自らが求めていないのに、苦痛に襲われるのか。それは、人間は、深層肉体と深層心理によって、生かされているからである。無意識のうちに、深層肉体と深層心理が、人間を生かしているのである。深層肉体とは、人間の無意識の肉体の動きである。深層肉体は、深層独自の意志によって、肉体を動かし、人間を生かしているのである。人間は、深層肉体の意志という肉体そのものに存在する意志によって生かされているのである。人間は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の意志によって生かされているのである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。だから、人間は、何もしていない状態にある時でも、深層肉体と深層心理は動いているのである。人間は、何もしていないように見える時があるだけで、実際は、いついかなる時でも、常に、深層肉体と深層心理は活動しているのである。深層肉体は、ひたすら生きようという意志を持って、活動している。ひたすら生きようという意志が阻害された時、深層肉体は苦痛を生み出し、人間は、その苦痛を意識し、それから解放されようとして、その方法を思考するのである。深層心理は、ひたすら、快楽を求め、不快を避けて生きようと意志して、活動している。深層心理が、不快感を覚えた時、苦痛を生み出し、人間は、その苦痛を意識し、それから解放されようとして、その方法を思考するのである。深層肉体があるから、人間は、自ら意識して生きようと意志しなくても、生きていくことができるのである。深層心理があるから、自ら意識して快楽を求めようと意志しなくても、快楽を求めて生きていくことができるのである。しかし、深層肉体のひたすら生きようという意志も深層心理の快楽を求め不快を避けて生きようという意志も、人間は、自らが意識して、生み出すことはできない。そして、自らが意識して消そうとしても、消すことはできないのである。それは、深層肉体そのもの、深層心理そのものに、生来、備わっている意志だからである。だから、深層肉体の意志、深層心理の意志は、人間の意識や意志に干渉されないのである。さて、言うまでもなく、人間には、自らを意識しての思考も存在する。それが、表層心理での思考である。人間の表層心理での思考の結果が、所謂、意志である。これは、意識された意志であり、深層肉体や深層心理の無意識の意志とは異なる。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立しているわけではない。人間は、表層心理独自で思考することはできないのである。表層心理での思考は、常に、深層心理が思考した結果を受けて行われるのである。深層心理が、まず、快楽を求め、不快を避けようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。その後、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に利得を得ようという視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考することがあるのである。その思考の結果、生み出されたものが、所謂、意志である。だから、人間は、表層心理での思考だけで、感情を生み出せないばかりか、行動もできないのである。しかも、人間は、必ずしも、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考した後で、行動しているわけでは無いのである。むしろ、人間は、表層心理で意識されることなく、表層心理で思考することなく、深層心理が、快楽を求め、不快を避けようと、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという同じような行動を繰り返すことができるのは、無意識の行動だから可能なのである。人間は、表層心理で思考している時は、自らを意識しているから、当然のごとく、自らの存在も意識している。また、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識する。人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識し、自らの行動や思考を意識するのか。それは、他者は脅威の存在だからである。だから、サルトルは「地獄とは他者のことである」と言い、芥川龍之介は「この世は地獄よりも地獄的である。」と言ったのである。また、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。「無の境地」や「無我の境地」という大仰な言葉があるが、それは、単に、自らの存在を意識していない状態で、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動しているということを意味しているに過ぎないのである。だから、他者の存在を感じた時、「無の境地」や「無我の境地」は簡単に打ち破られるのである。つまり、人間には、深層心理と表層心理という二種類の思考が存在し、思考の主体は深層心理であり、意識の主体は表層心理なのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。思考の中心は表層心理でのものだと思っている。確かに、無意識の行動という言葉が一般に使われることがあるが、それは、例外的な活動である。一般に、無意識の行動とは、ぼんやりとした状態で行う気の抜けた行動であり、人間の行動の中のごく稀な行動を意味している。そして、ほとんどの人は、自ら、表層心理で、主体的に、意識して、考えて、自らの意志によって、行動しながら、日々、暮らしていると思っているのである。だから、深層肉体や深層心理によって苦痛がもたらされると、襲われたように感じ、恐れ、おののくのである。苦痛は、自ら意志すること無くやって来るから、襲われたように感じるのである。さて、人間には、ひたすら生きようという意志を持って活動している深層肉体、ひたすら快楽を求め不快を避けて生きようと意志して思考している深層心理、自我に利得を得ようという視点から思考する表層心理のほかに、表層肉体が存在する。表層肉体とは、表層心理による肉体の活動である。すなわち、表層肉体とは、人間の意識しての肉体の活動、人間の意志による肉体の活動である。表層肉体は、深呼吸する、挙手をする、速く走る、体操するなど、人間の表層心理による意識しての意志による肉体の活動である。人間の日常生活の中での行動の変化は、意識しての意志による肉体の活動である表層肉体によることが大きい。スポーツという日常生活にないことができるのは、意識して意志によって表層肉体の同じ活動を繰り返し行い、それが、深層肉体に定着したからである。しかし、表層肉体の活動は、肉体の活動の一部しか過ぎないのである。肉体の活動のほとんどを深層肉体に負っているのである。確かに、人間の人間たる所以の一つは、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、行動することにある。それが、表層肉体の行為である。しかし、表層肉体の行為と言えども、表層心理の意識や意志が関わるのは、動作の初発のほんの一部にしか過ぎないのである。例えば、歩くという表層肉体の動作がある。確かに、歩くという動作は、歩こうという意志の下で歩くという意識の下で表層心理によって始められる。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰しも意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたならば、意識することに疲れて、長く歩けないだろう。だから、最も簡単に意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという表層肉体の動作すら、意識して行うのはほんの一部であり、そのほとんどは、無意識に、つまり、深層肉体によって行われているのである。歩きながら考えるということが可能なのも、歩くことに意識が行っていないからである。ほとんどの肉体行動は、人間は、表層心理で、自ら意識して、自分の意志によって、行っているのではなく、すなわち、表層肉体の行為ではなく、深層肉体の行為なのである。つまり、人間は、深層肉体によって、動かされ、生かされているのである。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は亡くなった翌日も、髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。それほど、深層肉体の生きようとする意志は強いのである。さて、全ての人間に、生来、深層肉体の肉体をひたすら生かせようという意志と深層心理の精神に不快を避け快楽をもたらせようという意志は備わっている。だから、人間は、生きていけるのである。しかし、確かに、全ての人間に、生来、深層肉体の意志と深層心理の意志が存在するが、その方向性の次元は異なっている。聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とあるが、人間は、聖書に記されているような高尚には生まれていない。高尚な生き方は、誕生の後に創作されたものである。パンを求めてひたすら生きようとしているのが深層肉体であり、パンを食べる時にも快楽を求め、パン以外のものを求める時にも快楽を求めているのが深層心理である。深層肉体のあり方は単純である。深層肉体は、ひたすら生きようという意志、何が何でも生きようという意志、すなわち、生きるために生きようという意志を持っているのである。深層肉体は、精神や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとするのである。だから、自殺は、深層肉体の意志に反した行いである。自殺とは、深層心理が、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づいて生み出した自我の欲望の一つである。深層心理が、生きている間は、快楽を得ることができず、苦痛という精神状態から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。それを受けて、人間は、表層心理で、現実的な利益を追求するという現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧するような結論に達し、意志で自殺を抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した苦痛の感情が強過ぎると、表層心理で抑圧できずに、自殺に突き進んでしまうのである。しかし、深層肉体は、人間が、自殺に突き進んでも、生きる意志を捨てることは無い。だから、どのような自殺行為にも、苦痛が伴うのである。つまり、人間の肉体は、いついかなる時でも、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされているのである。深層肉体の典型は内蔵である。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。人間の無意識のうちに、深層肉体が呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまうはずである。深呼吸という表層心理の意志による意識的な行為、すなわち、表層肉体の行為も存在するが、それは、意識して深く息を吸うということだけでしかなく、常時の呼吸は無意識の行為、すなわち、深層肉体の行為である。呼吸は、人間の誕生とともに、既に、人間の深層肉体に備わっている機能であるから、人間は、生きていけるのである。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞という、深層肉体の意志によらない、異常な事態に陥ったり、自らや他者が人為的にナイフを突き立てたりなどしない限り、止まらないのである。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、深層肉体として、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんのわずか知られていない。だから、人工的な完全な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しい心臓を作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできないのである。このように、人間は、ほとんどの場合、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、肉体を動かしている表層肉体の行為ではなく、深層肉体が、自らの意志によって、肉体自身を動かしているのである。だから、人間は、指を少し切っただけでも、深層心理は、出血させ、痛みを生み出すのである。出血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるための処置である。深層肉体は、自ら、再生能力を持っているのである。さらに、深層肉体は、痛みによって、人間に、そこに異状があることを知らしめるのである。深層肉体は、習慣的なことは、自ら、処理し、それは無意識の行動にとどまるが、異常事態の時は、痛みによって、それを人間に知らしめるのである。すると、深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、深層心理が生み出した自我の欲望について、思考し、その結果が、行動となるのである。人間は、指を切っただけでも、痛みがあれば、異常事態だから、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令を受けて、思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、また、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、肉体を、すなわち、人間の生命を長らえさせようとしているのである。さて、深層心理も、また、深層肉体と同じく、人間の無意識の活動であるが、人間が自我を持つことによって、肉体の活動は深層肉体と表層肉体に分離するが、精神の肉体の活動は深層心理と表層心理に分離するのである。しかし、深層肉体の活動は、人間が自我を持っても、人間の誕生時と同じく、ひたすら人間を活かせようという意志で行うが、深層心理の活動は、人間が自我を持つことによって、快楽を求め不快を避けて生きようという意志は、人間から自我を対象にしてのものに変化するのである。すなわち、深層心理の、快楽を求め不快を避けて生きようという快感原則の基づく思考の活動は、自我を主体に立てることによって行われるようになるのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立て、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて行動するようになるのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体は、家族から始まり、国、学校、会社、夫婦、仲間、カップル、男女関係などが存在する。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があり、男女関係という構造体には男性・女性という自我がある。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。すなわち、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我として、生きるしかないのである。人間は、常に、ある構造体に所属していて、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある自我を主体に立て、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて行動しているのである。快感原則とは、その時その場でひたすら快楽を求め、不快を避けようという欲望である。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしている。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。しかし、欲動の四つの欲望のいずれかがかなわず、自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、過激な行動によって相手をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。しかし、そのような時、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在するのである。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、欲動の第一の欲望である自我の保身化という作用であり、ルーティーン通りの行動を守る欲望なのである。そして、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。しかし、表層心理での思考は、基本的に、長時間掛かるのである。なぜならば、表層心理での思考は、道徳観や法律を考慮し、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという長期的な展望に立って、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。現実原則は、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望であるから、他者の評価を気にして、道徳観や法律を考慮するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、この状況から逃れるためにはどうしたら良いかと苦悩するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。さて、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、正義よりも自我が大切だからである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするから、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできず、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではない。人間の無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望をみたそうという理由からである。だが、傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の理由であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するという意味である。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。対象の対自化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・現象を見ることなのである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えている。)という一文で表現することができる。これは、有の無化という欲望の現象である。有の無化という欲望の現象には、二つの意味があるが、これは、その一つの意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの意味があり、その一つは、「人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。これは、無の有化という欲望の現象である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。「人は自己の欲望を心象化する」のもう一つの意味は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。これは、有の無化のもう一つの意味である。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。さて、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧したのは、そうすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守ろうとしたのである。最後に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否するという仲の悪い状態に戻るのである。人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされるのである。しかし、ある時には、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動して、後悔し、表層心理で、その後始末を苦悩の中で思考しなければいけないのである。ある時には、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できたものの、後に、表層心理で、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情の下で、深層心理が満足するような代替の行動を思考しなければいけないのである。人生は、苦悩の中の思考の繰り返しに過ぎないのである。







なぜ、自分探しをするのか。そして、なぜ、失敗に終わるのか。(自我その448)

2020-12-18 18:19:25 | 思想
なぜ、自分探しをする人が存在するのか。それは、自分探しをするきっかけを見れば理解できる。自分探しをするきっかけは、他者に無視されたり、嫌われたり、侮辱されたり、低く評価されたり、他者の期待に沿えなかったり、他者の愛を失ったりすることなどである。つまり、自己嫌悪に陥ったり、自分に自信を失ったりすることがあったことがきっかけである。それほどまでに、人間は、他者の評価に身を委ねて暮らしているのである。他者の評価が人生を決めているのである。具体的に言えば、入社試験や入学試験に失敗したり、信頼している友人から裏切られたり、失恋したり、愛する夫(妻)に裏切られたり、職場で上司に叱られたり、学校で教師や先輩に叱られたり、職場や学校で友人がなかなかできなかったり、職場でリーダー性を発揮できなかったり、クラスで一人のけ者にされたりすることなどがきっかけである。そのような時に、傷心、落胆、自信喪失、劣等感、絶望感などに陥り、自己嫌悪や自信喪失に苛まれる。この重い気分から逃れるために、確固たる自分・本当の自分を見つけようとするのである。すなわち、自分探しとは、確固たる自分・本当の自分を見つけようとすることなのである。中には、自分探しの旅に出掛ける者も存在する。しかし、自分探しは、必ず、失敗する。なぜならば、確固たる自分・本当の自分は存在していないからである。また、この世には、確固たる自分・本当の自分でもって生きている人は存在しないのである。人間は、皆、自我で生きているのである。自我の欲望を満足させるために、生きているのである。しかし、人間には、自我の欲望を満足させるために生きているという自覚は無い。なぜならば、人間は、無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、無自覚のままに、それに動かされて、行動しているからである。人間の無意識のうちの思考を、深層心理と言う。すなわち、深層心理が、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて、行動しているのである。人間は、自我の欲望に動かされて生きているのに、確固たる自分・本当の自分を追究することによって、自分探しをするから、必然的に、袋小路入り込んでしまうのである。つまり、確固たる自分・本当の自分を追究することによって、自分探しをする行為は無意味なのである。すなわち、自分がこれまではその存在に気付いていないが、自分の中に既にあるはずの確固たる自分・本当の自分を見出そうとして自分探しをしても、本質的に、それは、不可能なのである。他者は気付いているが、自分はこれまではその存在に気付いていない確固たる自分・本当の自分に気付こうとしても、本質的に、それは、不可能なのである。これまでは存在しなかったが、これからは確固たる自分・本当の自分を身に付けることを自分探しの目標・目的にしても、本質的に、それは、不可能なのである。自我の欲望を正視しない限り、本質的に、それは、不可能なのである。恐らく、確固たる自分・本当の自分を追究することの志向性による自分探しは、自らの自我の欲望に気付くことはないだろう。全く、方向性が異なるからである。たとえ、偶然、自らの自我の欲望の存在に気付いたとしても、すぐの意識の外に追い出し、初めから存在しなかったことにするだろう。確固たる自分・本当の自分を追究することの志向性による自分探しをしている人間には、自我の欲望は醜く映るからである。それが、深層心理による有の無化である。有の無化は二つの作用がある。一つは、深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとする作用である。もう一つは、深層心理は、自らを苦しめる他者・物・現象という対象がこの世に存在していると、それが存在していないように思い込むことによって、その苦しみから逃れようとする作用である。この場合は、後者の作用である。さて、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて行動しているが、自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我の人が存在し、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我の人が存在し、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我の人が存在し、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我の人が存在し、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我の人が存在し、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我の人が存在し、仲間という構造体では、友人という自我の人が存在し、カップルという構造体では恋人という自我の人が存在し、夫婦という構造体では夫と妻という自我が存在するのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我を持って、他者と他人と関わりながら。暮らしているのである。しかし、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我の欲望を作り出すことはできないのである。人間は、無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出しているのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。つまり、人間は、自らの無意識のうちに、深層心理が、自我を主体にして、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて、行動しているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、常に、構造体の中で、自我として生きていて、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて、行動するのである。感情が行動の指令を実行する動力になっているのである。深層心理は、感情を動力として生み出し、人間(自我)を行動の指令通りに動かして、快楽を得ようとするのである。快感原則とは、快楽を得ようとする欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。快感原則は、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けようという欲望である。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。さて、欲動が深層心理を動かしているのである。欲動とは、深層心理に内在して、深層心理の思考を動かしている四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、思考して、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。略して、保身化と言う。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるのは、人間が、この世で、生きていくためには、何らかの自我を持している必要があるからである。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。略して、対他化と言う。若者がアイドルを目指すのは、大衆から、人気という好評価・高低評価を得たいからである。欲動には、第三の欲望として、自我で、他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。略して、対自化と言う。教諭が校長になろうするのは、学校という構造体の中で、教諭・教頭・生徒という他者を、校長という自我で、支配したいという欲望からである。会社員が社長になろうとするのも、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で、支配したいという欲望からである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれも、物の支配欲から発したことである。アメリカ、ロシア、中国が、世界の覇権を争っているのは、国民という自我が所属している国という構造体で、他国民という自我が所属している国という構造体を凌駕し、世界を支配したいからである。哲学者は人間と自然を対象として捉え、支配しようとし、科学者は自然を対象として捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として捉え、支配しようとするのである。欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我と他者の共感化という作用である。略して、共感化と言う。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持とうとするのである。そこに、喜びや快楽があるからである。先に例に挙げた、自分探しのきっかけになった事柄はは、この四つの欲望がいずれかの欲望がかなわなかったり、傷つけられたり、失ったりした出来事である。すなわち、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望の破産が、入社試験や入学試験に失敗したり、信頼している友人から裏切られたり、失恋したり、愛する夫(妻)に裏切られたり、クラスで一人のけ者にされたりすることである。第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望の破産が、入社試験や入学試験に失敗したり、信頼している友人から裏切られたり、失恋したり、愛する夫(妻)に裏切られたり、職場で上司に叱られたり、学校で教師や先輩に叱られたり、職場や学校で友人がなかなかできなかったり、職場でリーダー性を発揮できなかったり、クラスで一人のけ者にされたりすることである。第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望の破産が、職場でリーダー性を発揮できなかったりすることである。欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望の破産が、
信頼している友人から裏切られたり、失恋したり、愛する夫(妻)に裏切られたり、職場で上司に叱られたり、学校で教師や先輩に叱られたり、職場や学校で友人がなかなかできなかったり、クラスで一人のけ者にされたりすることである。つまり、自分探しのきっかけは、自我の欲望の破産なのである。すなわち、自分探しのために、確固たる自分・本当の自分を追究しても、無意味なのである。自我の欲望を正視しない限り、本質的に、それは、不可能なのである。さて、もちろん、人間には、深層心理という無意識の思考だけでなく、意識しての思考である表層心理での思考が存在する。多くの人が言う思考とは、人間の表層心理での意識しての思考である。多くの人は、深層心理の思考の存在に気付いていないのである。表層心理での意識しての思考しか思考が存在しないと思っている。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて行う時なのである。人間は、深層心理をコントロールできず、深層心理が過激な行動の指令を出すことがあるから、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令の許諾について審議する必要がある時があるのである。しかし、人間は、表層心理で思考する時は、必ず、深層心理が生み出した感情の下で行い、深層心理が過激な行動の指令は、必ず、過激な感情とともに生み出しているから、過激な行動の指令を抑圧することは容易ではないのである。人間が、他者に殴り掛かるなどの暴力を振るう時は、必ず、深層心理からその行動の指令が出ているのである。人間は、表層心理で、思考して、深層心理から出された殴れという行動の指令を、後の自分の不利な立場を考慮して、拒否しようとしても、深層心理が生み出した怒りの感情が強いと、深層心理の思いのままに、他者を殴ってしまうのである。その後で、後悔し、自己嫌悪や自信喪失に陥り、その重い気分から逃れるために、確固たる自分・本当の自分を見つけようと自分探しをし、袋小路に入り込む者も存在するのである。しかし、一般に、人間の日常生活は、表層心理で意識して思考することが少なく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識して思考することなく行動することが、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活において、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに無意識に行動することがが多いのは、無意識に行動しても、構造体の中で自我を持して暮らしたいという自我の欲望が損なわれる出来事が少ないことを意味しているのである。人間の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が思考した、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考するまでのことが起こっていないからなのである。このような時には、誰一人として、自分探しなどは行わない。それは、確固たる自分・本当の自分を見つけていたり確立したりしているからではなく、自我の欲望にかなった生活をしているからである。しかし、人間は、誰しも、毎日が、必ずしも、平穏ではない。学校や会社という構造体で、教師・上級生・同級生や上司・先輩・同僚などから侮辱され、悪評価・低評価を受け、生徒や社員という自我が傷つけられる時がある。そのような時、深層心理は、怒りの感情とともに罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を自我に与える。しかし、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在するのである。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、欲動の第一の欲望である自我の保身化という作用であり、ルーティーン通りの行動を守る欲望なのである。そして、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。しかし、表層心理での思考は、基本的に、長時間掛かるのである。なぜならば、表層心理での思考は、道徳観や法律を考慮し、長期的な展望に立って、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。現実原則は、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。学校や会社という構造体で、教師・上級生・同級生や上司・先輩・同僚などから侮辱され、悪評価・低評価を受け、自我が傷つけられた生徒や社員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、将来のことを考え、深層心理が生み出した罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した罵倒しろ・殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。そうして、その後で、後悔し、自己嫌悪や自信喪失に陥り、その重い気分から逃れるために、確固たる自分・本当の自分を見つけようと自分探しをし、袋小路に入り込む者も存在するのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、長期にわたって、苦悩が続くのである。そうして、自己嫌悪や自信喪失に陥り、その重い気分から逃れるために、確固たる自分・本当の自分を見つけようと自分探しをし、袋小路に入り込む者も存在するのである。だから、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での現実原則に基づく自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、行動の指令のままに行動してしまうからである。人間は、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我や表層心理での思考による抑圧にかかわらず、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。人間は、自我の存在のあり方、自我の欲望を正視しない限り、悲劇、惨劇から逃れることはできないのである。自我の存在のあり方、自我の欲望を無視して、自分探しのために、確固たる自分・本当の自分を追究しても、無意味なのである。自我の欲望を正視し、ない本質的に、それは、不可能なのである。自我の存在のあり方を編み変えて、自己の存在のあり方とすることが大切なのである。それによって、自我の欲望が自己の欲望へと変化のするのである。どのようにして、自我の存在のあり方を自己の存在のあり方へと編み変えるか、一人一人に課せられているのである。







人間の限界について。(自我その447)

2020-12-16 14:16:26 | 思想
人間は、自我の動物であり、自我から離れて生きることはできない。人間は、自我そのものである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。人間は、時間ごとに、空間ごとに、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、他者と関わりながら、行動している。ある男性は、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、夫という自我を持ち、会社という構造体では、課長という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って、行動しているのである。ある女性、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、母という自我を持ち、学校という構造体では、教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。そして、常に、深層心理が、快感原則を満たすように、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて、行動しているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、自らが意識していないのに、自らの深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望生み出し、それに動かされて生きているのである。深層心理が生み出した感情が、深層心理が生み出した行動の指令を実行するように、人間を動かしているのである。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。欲動とは、深層心理に内在して、深層心理の思考を動かしている四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、思考して、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。略して、保身化と言う。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるのは、人間が、この世で、生きていくためには、何らかの自我を持している必要があるからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合したのは、自らの地位の保全と立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されることによって友人という自我を失うことを恐れて、いじめの事実を隠し続けたのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属している必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるのは、人間が、この世で、生きていくためには、何らかの自我を持している必要があるからである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属している必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、現代は、世界中、誰しも、国民という自我を持っているから、愛国心を持ち、自らが所属している国という構造体に執着するのである。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。略して、対他化と言う。若者がアイドルを目指すのは、大衆から、人気という好評価・高低評価を得たいからである。学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持って暮らしている者が、同級生・教師や同僚や上司という他者から悪評価・低評価を受けると、苦悩するのである。それが、連日になると、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自我を、鬱病などの精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにすることもある。欲動には、第三の欲望として、自我で、他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。略して、対自化と言う。教諭が校長になろうするのは、学校という構造体の中で、教諭・教頭・生徒という他者を、校長という自我で、支配したいという欲望からである。会社員が社長になろうとするのも、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で、支配したいという欲望からである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれも、物の支配欲から発したことである。アメリカ、ロシア、中国が、世界の覇権を争っているのは、国民という自我が所属している国という構造体で、他国民という自我が所属している国という構造体を凌駕し、世界を支配したいからである。しかし哲学者は人間と自然を対象として捉え、支配しようとし、科学者は自然を対象として捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として捉え、支配しようとするのである。欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我と他者の共感化という作用である。略して、共感化と言う。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持とうとするのである。そこに、喜びや快楽があるからである。もちろん、人間には、深層心理という無意識の思考だけでなく、意識しての思考である表層心理での思考がある。多くの人が言う思考とは、人間の表層心理での意識しての思考である。多くの人は、深層心理の思考の存在に気付いていない。表層心理での意識しての思考しか思考が存在しないと思っている。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて行うのである。人間は、深層心理をコントロールできないから、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令の許諾について審議する必要がある時があるのである。しかし、人間の日常生活は、表層心理で意識して思考することが少なく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識して思考することなく行動することが、所謂、無意識の行動である。人間の日常生活において、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに無意識に行動することがが多いのは、無意識に行動しても、構造体の中で自我を持して暮らしたいという自我の欲望が損なわれる出来事が少ないことを意味しているのである。人間の日常生活が、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が思考した、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、深層心理の思考のままに行動して良く、人間は、表層心理で意識して思考するまでのことが起こっていないからなのである。しかし、人間は、誰しも、毎日が、必ずしも、平穏ではない。学校や会社という構造体で、教師・上級生・同級生や上司・先輩・同僚などから侮辱され、悪評価・低評価を受け、生徒や社員という自我が傷つけられる時がある。そのような時、深層心理は、怒りの感情と罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を自我に与える。しかし、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発している。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンを行うように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする働きも存在するのである。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという欲望から発した、自我の保身化という作用であり、ルーティーン通りの行動を守る欲望なのである。そして、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。しかし、表層心理での思考は、基本的に、長時間掛かるのである。なぜならば、表層心理での思考は、道徳観や法律を考慮し、長期的な展望に立って、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するか審議することだからである。現実原則は、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。学校や会社という構造体で、教師・上級生・同級生や上司・先輩・同僚などから侮辱され、悪評価・低評価を受け、自我が傷つけられた生徒や社員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、将来のことを考え、深層心理が生み出した罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した罵倒しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した罵倒しろ・殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。また、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、長期にわたって、苦悩が続くのである。だから、超自我のルーティーン通りの行動を行わせる作用にしろ、表層心理での現実原則に基づく自我の利得に基づく思考にしろ、万能ではないのである。なぜならば、超自我や表層心理での思考によって深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、行動の指令のままに行動してしまうからである。人間は、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強過ぎると、超自我や表層心理での思考による抑圧にかかわらず、深層心理が生み出した相手を殴れなどの行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすことが多いのである。
つまり、人間は、自我に執着して存在している限り、悲劇、惨劇から逃れることはできないのである。自己として存在することが大切なのである。人間が自己として存在するとは、自らの良心と正義感に基づいて、主体的に思考して、行動を決めて、それに基づいて、行動することである。しかし、人間は、主体的に、思考して、自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。なぜならば、人間の深層心理は、基本的に、瞬間的に、欲動に基づいて、快感原則という安心と快楽の欲望を満たすように、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。そして、超自我のルーティーンを守ろうという欲望も、表層心理での現実原則による思考も、自我に執着しているからである。基づく思考だからである。つまり、深層心理の快感原則による思考も、超自我のルーティーンを守ろうという欲望も、表層心理での現実原則による思考も、自我に基づく思考であり、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考するという自己に基づく思考とは異なるのである。しかし、それでも、時として、偶然にも、深層心理の快感原則による思考でも、超自我のルーティーンを守ろうという作用でも、表層心理での現実原則による思考でも、その結論が、自らの良心と正義感に基づく主体的な思考による結論と合致する時があるのである。そこで、ほとんどの人は、自らは、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して生きていると思い込んでいるのである。しかし、ほとんどの人は、自己としても存在していないのである。自己として存在するとは、常に、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、常に、自我のあり方を、自らの良心と正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へと転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、人間は、自我として生きていながら、主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているのである。それは、深層心理の無の有化作用から起こる現象である。無の有化作用とは、実際には存在していないのに、深層心理がそれを強く望むあまり、存在しているように思えてくることである。その典型が、神の存在である。それでは、なぜ、人間は、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することができないのか。それは、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することは、往々にして、構造体から追放され、自我を失うことを招くからである。つまり、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することは、往々にして、深層心理の快感原則による思考にも、超自我のルーティーンを守ろうという欲望にも、表層心理での現実原則による思考にも、背くのである。つまり、深層心理の快感原則による思考にも超自我のルーティーンを守ろうという欲望にも表層心理での現実原則による思考にも背き、構造体から追放され自我を失うということを覚悟しなければ、自らの良心と正義感に基づいて主体的に思考して行動することはできないのである。すなわち、自我に執着している限り、自己として生きることはできないのである。




人間には、自分そのものは存在しない。(自我その446)

2020-12-14 14:41:30 | 思想
人間には、自分そのものは存在しない。人間は、時間ごとに、空間ごとに、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を持って、他者と関わりながら、行動している。ある人は、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、母という自我を持ち、学校という構造体では、教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある人は、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、夫という自我を持ち、会社という構造体では、課長という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って、行動しているのである。人間は、自我の動物であり、自我から離れて生きることはできないのである。人間は、自我そのものなのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我の人が存在し、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我の人が存在し、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我の人が存在し、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我の人が存在し、仲間という構造体では、友人という自我の人が存在し、カップルという構造体では恋人という自我の人が存在し、夫婦という構造体では夫と妻という自我が存在するのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我を持って、他者と他人と関わりながら。暮らしているのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしているのである。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、暮らしているのである。だから、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。さて、人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て、生きている。常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)は、それに動かされて、行動しているのである。人間は、自我として生きているから、自我の欲望が、生きる原動力になっているのである。自我の欲望とは、感情と行動の指令であり、感情が行動の指令を実行する動力になっている。人間は、感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。しかし、感情も行動の指令も、人間は、意識して、自らの意志によって、生み出すことができないのである。深層心理が、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、自らが意識していないのに、自らの深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、人間の行動は、全て、深層心理が生み出した自我の欲望の現象(現れ)なのである。さて、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間(自我)は、それに動かされて、行動しているのであるが、これから、自我を主体に立てる、快感原則、欲動、感情と行動の指令という自我の欲望について説明しようと思う。まず、自我を主体に立てるについてであるが、それは、深層心理が自我を主体に立て、中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。深層心理は、自我にこだわり続けるのである。次に、快感原則についてであるが、それは、スイスが活躍した心理学者のフロイトの思想であり、心理学者のフロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、自我が快楽を得るということは、深層心理が快楽を得るということである。言うまでも無く、深層心理が快楽を得るということは、人間が快楽を味わうということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。そして、自我が快楽を得るために、他者を目標にしたり、若しくは、他者を道具にしたりするのである。すなわち、自我という道化師が快楽を得るために、他者を他我という道化師として扱うのである。だから、深層心理にとって、他者のために自我があるのでは無く、自我のために他者という他我がが存在するのである。それ故に、人間関係とは、利用し、利用される関係である。だから、人間は、自我が主体的に思考する以前に、すなわち、表層心理で、自ら意識して、思考する以前に、深層心理が、既に、自我を主体に立てて、自我の快楽のために自我の行動を考えているのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な存在者でもないのである。次に、欲動についてであるが、それは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望についてあるが、これは、自我の保身化という作用をし、ほとんどの人の日常生活を、無意識の行動によって成り立たせているのである。毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むと言っても、毎日が、必ずしも、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、高校という構造体で、女子高校生が担任からスカート丈が短いということとで叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情を生み出すとともに反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。超自我も、また、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発しているのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの思想であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。そして、女子高校生は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、スカート丈を長くして、ルーティーンの生活を続けるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望についてであるが、これは、自我の対他化の作用をし、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているのである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層肉体の意志による、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。次に、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲動の第三欲望についてであるが、これは、対象の対自化の作用をし、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。対象の対自化の作用とは「有を無化する」ことであり、「人は自己の欲望を対象に投影する」と言い換えることができる。それは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、自らの思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。」というこことである。さらに、深層心理の対象の対自化が高じると、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ということまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自我を正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教諭の校長になろういう欲望は、深層心理が、学校という構造体の中で、教諭・教頭・生徒という他者を、校長という自我で対自化し、支配したいという欲望である。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できることは、物を支配していることであり、満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、現象を支配でき、快楽を得られるのである。次に、自我と他者の心の交流を図りたいという欲動の第四の欲望についてであるが、これは、自我の他者の共感化という作用をし、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを得られるのである。しかし、共感化の構造体も壊れることがある。共感化は深層心理が行う欲望であるから、人間は、表層心理の、意識しての思考、意志、理性では、構造体の創造も破壊も止めようがないのである。恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、超自我や表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感という感情に敗北したからである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」という状態である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得ようとするからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。深層心理の共感化による協力は、対自化による対決に変わるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を生み出し、感情の力によって行動をかなえようとするのである。つまり、感情とは行動の強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我に殴ることを強く促すのである。超自我や表層心理での思考はそれを抑圧しようとしても、深層心理の生み出した感情が強ければ、深層心理の殴れという行動の指令のままに殴ってしまうのである。自殺という現象もそうである。深層心理の生み出した傷心という感情が強ければ、深層心理の自殺しろという行動の指令のままに、人間は自殺してしまうのである。さて、人間には自分そのものは存在せず、人間はさまざまな構造体に所属しさまざまな自我を持って行動しているということは、ほとんどの人は、自己としても存在していないということを意味するのである。自己として存在するとは、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我のあり方を、自らの良心・正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我の欲望にとらわれた自我から自らの良心・正義感に基づく自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、ほとんどの人は、自我の欲望と自らの良心・正義感が対立した場合、自我の欲望を選択するから、主体的に生きることができず、自己として生きることができないのである。なぜならば、自己として生きようとして、自らの良心・正義感に基づいて行動すれば、構造体から追放され、自我を奪われる危険性があるからである。だから、人間が生きていくということ、すなわち、自我として生きていくということは不正を重ねることなのである。人間は、誰しも、ソクラテスのような自らの思想に殉じた生き方やキリストのような自らの信仰に殉じた生き方をできないのである。しかし、人間は、深層心理で、主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているのである。それは、深層心理の無の有化作用から起こる現象である。無の有化作用とは、深層心理が、ある物やことを強く欲望すると、存在していなくても、存在しているように思い込んでしまうことである。神がその典型である。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理で、実際には存在しない神が存在しているように思い込んだのである。ほとんどの人は、自我の欲望に基づいて生きているのに、深層心理が、自己として生きていると思い込んでいるのである。まさしく、「信じるものは救われる」のである。人間にとって、それほど、自我と構造体は掛け替えのない存在なのである。しかし、自我と構造体は選択できないか選択の幅が非常に狭いのである。それは、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきたわけではないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。人間、誰しも、親を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。その家族を構造体として、父、母を自我として存在しているのである。人間は、誰しも、生まれてくる時代を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その時代に存在しているのである。だから、誰しも、藩という構造体に所属できず、武士という自我を持つことはできないのである。人間は、誰しも、生まれてくる国を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持っているのである。パスカルが、『パンセ』で、「私の人生の短い時間が、その前と後ろに続く永遠のうちに、『一日だけで通り過ぎてゆく客の思い出』のように飲み込まれ、私の占めている小さな空間、さらに、私の眺めているこの小さな空間が、私の知らない、また私を知らない無限のうちに沈んでゆくのを考える時、私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由がないからである。誰が私をここに置いたのだろうか。誰の命令と指図によって、この場所とこの時が私のために当てがわれたのか。」と述べているように、誰しも、存在の不安を感じる時があるのである。そこで、その不安を打ち消すために、ますます、人間は構造体と自我に執着するのである。しかし、構造体は時代の産物であり、自我は他者から与えられたものであるから、構造体が消滅し、自我が奪われる不安は拭えないのである。一生、その不安が付きまとうのである。だから、人生の途上で、自殺する人が後を絶たないのである。人間は、自我が奪われる不安から逃れられないから、自殺するのである。そして、人間は、自我として生きていくことの空しさから逃れられないから、自殺するのである。しかし、パスカルは、信仰心の厚いキリスト教徒である。最後には、神が存在の保証をしてくれるのである。神の視線を感じることができれば、自分の存在が保証されるのである。もちろん、それによって、自分が存在している必然性の疑問が解き明かされたというわけではない。しかし、ウィトゲンシュタインが言うように、人間にとって、問題が問題として気にならなくなった時、問題は解決したのである。キリスト教徒にとって、神の視線、神のほほえみを感じることができれば、存在の問題は解決されたのである。それ以上に問うことは、神に対する冒涜である。しかし、日本人には、存在を保証してくれる神は存在しない。神道の神は、神社で、賽銭を上げて願いを唱えれば、人々の叶えてくれる、現世利益の神である。人間の現実に密着している、形而下の神であり、人間の存在を保証してくれるような、形而上の存在ではない。浄土真宗の仏も、「南無阿弥陀仏」と六字の名号を唱え、念仏すれば、また、日蓮宗の仏も、「南無妙法蓮華経」と七字の題目を唱えれば、人々を極楽へ往生させてくれる、現世利益の仏である。仏も、また、人間の現実に密着している、形而下の仏であり、人間の存在を保証してくれるような、形而上の存在ではない。神道の神も仏教の仏も、人々に、苦役や苦行をせずとも、利益をもたらすような、人々に寄り添い、友好的で軽い存在なのである。だから、逆に、人々に、存在の保証を与えてくれる力はないのである。それに比べて、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は、死後、人々を裁き、時には、断罪する、厳しく、重い存在であるが、逆に、人々に、存在の保証を与えてくれる力があるのである。しかし、人間は、存在の不安を覚えても、生きていけるのである。現実に深く関わり、それを考えないようにすれば良いのである。そうして、死期が迫ったら、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱え、極楽へ往生することを願えば良いのである。しかし、現実に深く関わると言っても、深層心理が現実に深く関わっていこうとするから、そうなるのであって、もしも、深層心理が存在の不安を覚え続け、自分で存在の意味を究明しようとしたり、何かに存在の保証を求めようとしたらば、現実に深く関わっていこうという形而下の気にはならず、形而上の思いになる。しかし、日本人は、伝統的に、現実に密着した、形而下の思考をし、存在の意味を究明しようとするような形而上の思考はしないのである。ユングの言う「民族の元型」を日本人に当てはめると、日本人の元型の思考は、現実密着の形而下の思考である。しかし、確かに、日本人の元型の思考は、現実密着の形而下の思考であるが、現実密着とは、自我にこだわって生きていくということであるから、脱することが必要なのである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのである。そういう意味では、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。しかし、虚構だから何をしても良いというのでは無い。そもそも、何をしても良いという思いは、深層心理の強い欲望であり、それは、現実密着型の人間の発想であり、人生を虚構だと考えている人からは生まれてこないのである。人は、現実を虚構だと思い、虚構を生き抜いていけば良いのである。虚構だと思えばこそ、自由があるのである。自分の意志によって、現実密着の形而下の思考から距離を置き、形而下の思考を形而上の思考に変換させ、自分の思考によって、現実を編み直すことが大切なのである。そこに、自由の喜びがあるのである。