あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

大衆は魔女狩りを好む。(自我その350)

2020-04-29 12:36:26 | 思想
魔女がいるから魔女狩りをするのではない。魔女狩りがしたいから魔女を探すのである。魔女狩りは楽しいから魔女を探し出そうとするのである。私は、パチンコをしたことがない。しようと思ったこともない。学生時代、先輩に連れられて、一度パチンコ店に入ったことがあるが、騒音、たばこの煙、混雑、お金が水の泡のごとく消えていく人たちを見て、すぐに出た。それ以来、一度も、行っていない。しかし、パチンコ店に対する国や都道府県の自粛要請には納得できない。国会議員たちや知事たちは、コロナウィルス感染を防ぐという理由で、パチンコ店に営業自粛を要請し、それに応じなかった店の名を公表し、罰則規定まで設けようとしている。しっかりとした休業補償もせずに、なぜ、そのような暴挙を行うことができるのであろうか。また、パチンコを唯一の娯楽としている人たちも存在する。その人たちのことを考慮したのだろうか。そして、予想されたように、権力者の力を頼る同調者である大衆が、営業を続けているパチンコ店への嫌がらせをしている。権力者が、コロナウィルス感染を防ぐという理由で、休業補償を十分にせず、パチンコ店に営業自粛を要請し、それに応じなかった店の名を公表し、罰則規定まで設けようとしているのである。その上、、権力者の力を頼る同調者である大衆が、営業を続けているパチンコ店への嫌がらせをしているのである。現代における魔女狩りではないのか。魔女狩りとは、13世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ諸国家・アメリカ新国家と教会が、異端撲滅と称して特定の人物を魔女と断定し、糾問する魔女裁判を行い、焚刑に処した事件である。現代においては、権力者とその力を頼る同調者である大衆が、異端分子と見なした人物を迫害し、制裁を加えて排斥することを意味している。魔女狩りをする人とパワハラやいじめをする人の心理構造は同じである。なぜ、パワハラの被害、いじめによる自殺が跡が絶たないのか。それは、権力者やとその力を頼る同調者である大衆という俗的な人間にとって、パワハラやいじめは楽しいからである。それは、子供にも大人にも共通した心理現象である。俗的な人間は、嫉妬を覚える人間や嫌いな人間や弱い人間が一人でいたり少数派であったりすると、パワハラやいじめをすることによって快感を得ようとするのである。嫉妬を覚える人間に対してパワハラを加えたりいじめたりするのは、その人は自分ができないことをして、快楽や名誉や利益を得ていると思うからである。嫌いな人間に対してパワハラを加えたりいじめたりするのは、その人は自分と異なる考えを持っていて、自分に反対したり従わなかったりするからである。弱い人間に対してパワハラを加えたりいじめたりするのは、戦っても絶対に負けないと思うからである。現代において、権力者やとその力を頼る同調者である大衆という俗的な人間が魔女狩りをする対象者は、まさしく、一人でいたり少数派であったりする嫉妬を覚える人間や嫌いな人間や弱い人間である。俗的が大衆が権力を握ると、そのまま俗的な権力者になるから、両者は協力して魔女狩りをするのである。さて、大衆は、一般に、世間一般の人々、庶民、民衆と説明されている。大衆は、社会学では、属性や背景を異にする多数の人々からなる未組織の集合的存在と説明され、大衆の誕生については、能動的で自己の判断力を持った自立した市民によって形成されていた近代市民社会が、産業革命による資本主義社会の発達ならびにマスコミュニケーション手段の発達に伴って、バラバラで互いに匿名性をもった多数の個々人の集合体によって構成された現代社会に変質したことで、出現したものであると説明されている。つまり、大衆とは、普段はバラバラであるが、時には、権力者や多数派に迎合し集団化して暴徒と化し、そして、再びバラバラに帰す民衆を意味するのである。このような大衆を、ニーチェは「最後の人間」と呼び、ハイデッガーは「ひと的存在」・「非本来的人間」と呼んだ。ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と批判した大衆は、このように、自ら考えず、権力者や多数派に迎合し、集団化し、暴徒化しても、決して責任を取らない人々を指すのである。ニーチェは「最後の人間」を克服した者として「超人」を挙げている。ハイデッガーは「ひと的存在」・「非本来的人間」を克服した者として「本来的な人間」を挙げている。簡潔に言えば、「超人」・「本来的人間」とは、能動的で、責任感が強く、自己の判断力を持った、自律し、自立した人間である。しかし、現代においては、人間は、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、一旦は、皆、大衆になる。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。このラカンの言葉は、端的に、人間は一旦は大衆になることを意味している。人間は、無意識のうちに、他者という周囲の大衆の欲望を取り入れて、育っていくのである。だから、人間は、他者という周囲の大衆の評価・意向の虜になって育っていくのである。人間は、他者という周囲の大衆の評価を気にして判断し、他者という周囲の大衆の意向を取り入れて判断するように育っていくのである。つまり、現代においては、人間は、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、一旦は、皆、大衆になるのである。問題は、その後である。大衆性を持したまま一生を送るか、その大衆性から脱却するかということである。もちろん、大衆性を持したまま一生を送る人は、ニーチェの言う「最後の人間」、ハイデッガーの言う「ひと的存在」・「非本来的人間」である。大衆性から脱却した人は、ニーチェの言う「超人」、ハイデッガーの言う「本来的人間」である。しかし、自分が、「最後の人間」・「ひと的存在」・「非本来的人間」に属するか、「超人」・「本来的人間」に属するかは、他者が決めることではない。自分自身が、生きる姿勢として、考えなければならないのである。自ら考えず、権力者や多数派に迎合して、集団化する人間になるか、能動的で、責任感が強く、自己の判断力を持った、自律し、自立した人間になるかである。ハイデッガーが言うように、大衆とは、世間話、好奇心、曖昧さの塊であり、そこに安住していると楽なのである。世間話とは、多くの人が、根も葉も無い話を無責任に語り合うことである。そこには、仲間意識があり、安心感がある。好奇心とは、上滑りに話題を取り上げ、ひたすら興味本位に追求することである。そこには探究心は存在しない。だから、疲労感が無く、長く話せるのである。曖昧さとは、責任の所在を明確にせず、行動したり、話したりすることである。無責任であるから、常に、気楽な状態にいられる。ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう言った』という著書で、「全ての神々は死んだ。今や、我々は、超人が生きることを望む。」と述べている。死んだ神々を信仰しているのが大衆である。大衆とは、死んだ神々を信仰しているように、常に、非本質的なことに囚われて生きている人間である。しかし、人間は、誰しも大衆の中で育つから、大衆として育つのである。だから、人間は、誰しも、自らの深層心理(自らは意識していない心の思考)に、大衆性を持して育ち、生きていくのである。つまり、人間は、誰しも、非本質的なことに囚われて生きているのである。しかし、人間は、大衆性をを持して生きていく限り、非本質的なことに囚われて生きている限り、世事の些末なことに囚われ、それに一喜一憂して、一生を終えるのである。人間は、自らの大衆性を超越しない限り、自己本来の生き方はできないのである。超人とは、自らの大衆性を超越した人間である。ニーチェは、人間は、自らの大衆性を超越した超人にならなければ、自己本来の生き方はできず、真に、生きている充実感を得ることはできないと言うのである。大衆は、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、自我は虚像であることを認めて生きていくことが、幸福に繋がることを知らない。構造体は虚構であること、関係性は変化すること、自我は虚像であることに気付き、それを受けとめて暮らしているのが、超人である。さて、ニーチェは、「人間の認識する真理とは、人間の生に有用である限りでの、知性によって作為された誤謬である。もしも、深く洞察できる人がいたならば、その誤謬は、人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理の上に、かろうじて成立した、巧みに張り巡らされている仮象であることに気付くだろう。」と言っている。まさしく、天体の基本真理と言えども、人間の生に有用である限り、安心感が得られるから、真理とされるだけなのである。しかし、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」とは何であろうか。それは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこに、真理は存在しない」という真理である。だから、「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」なのである。また、「深く洞察できる人」とは、ニーチェの言う超人である。超人とは、これまでの人間である最後の人間、すなわち、大衆を否定した人間である。最後の人間とは、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している人間たちである。だから、超人とは、この世に賭け、この世に生きることを肯定して、積極的に生きる人間ということになるのである。ニーチェは、「神は死んだ」と言うのは、現代は、その超人が現れるべき時代だということなのである。超人とは、「誤謬・仮象を否定して、真理も求めても、そこには真理は存在しない」という「人間を滅ぼしかねない、恐ろしい真理」を認識し、敢えて、自ら、新しく真理を打ち立て、現世を肯定して生きる人間である。もちろん、新しく打ち立てた真理も、また、誤謬・仮象である。しかし、この誤謬・仮象は、キリスト教の教えに従い、この世での幸福を諦め、あの世での神の祝福・加護に期待を掛け、神に祈って、生活している最後の人間たちの誤謬・仮象ではない。現世を肯定して生きるための誤謬・仮象である。だから、超人は、この世で、自らの神を打ち立てるのである。しかし、超人は、まだ、この世に現れていない。だから、ニーチェは、「キリスト教の神が誕生し、その神が死んでから、新しい神が、まだ、現れていない。」と言うのである。そして、ニーチェは、「人間は、楽しみや喜びの中にいては、自分自身の主人になることはできない。人間は、苦痛や苦悩の中にいて、初めて、自分自身の主人になる可能性が開けてくる。」と言い、苦悩の中で、自らの神を誕生させ、超人になることを勧めているのである。しかし、全ての人が、自分自身の主人になれるわけではない。自ら考えず、権力者や多数派に迎合して、集団化する大衆は、自分自身の主人なれないのである。「権力への意志(力への意志)」を「永劫回帰(永遠回帰)」できる者、すなわち、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと表層心理で意識して思考し続ける者だけが、自分自身の主人になれるのである。だから、無意識の思考である深層心理の支配下にあって、楽だから、自ら考えず、権力者や多数派に迎合して、集団化して、同じような生活を繰り返そうという生き方をしている大衆は、日常生活の奴隷なのである。また、日常生活が上手くいかず、苦悩・苦痛があるから、それを解決しようとして、表層心理で意識して思考しても、思考が短時間で終わり、安易に妥協し、以前の日常生活に戻っていく大衆も、日常生活の奴隷なのである。つまり、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、自分自身の主人になれる道が開け、超人になる可能性が開かれているのである。先に述べたように、ニーチェの言う超人とは、ハイデッガーの言う本来的人間である。つまり、我々の中で、自らをいっそう強大にし、自らの可能性に向かって活動するためにはどうしたら良いかと、表層心理で意識して思考し続ける者だけに、日常生活の奴隷から脱し、超人・本来的人間になる道が開かれているのである。「権力への意志(力への意志)」を持って、「永劫回帰(永遠回帰)」に思考する者しか、自分自身の主人になれないのである。すなわち、そして、自分自身の主人になった人、換言すれば、超人・本来的人間だけが、日常生活の安易さから解放され、充実感を得るのである。さて、ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と言ったのは19世紀のことである。しかし、その馬鹿さ加減は、二世紀経った21世紀の日本においても、猖獗を極めている。ハイデッガーは、大衆の特徴として、好奇心・世間話・曖昧性(無責任)の三点を挙げている。現在の日本の大衆が、まさしく、それである。権力者とその力を頼る同調者である大衆が、異端分子と見なした人物を迫害し、制裁を加えて排斥するという魔女狩りを行っているのである。彼らに対して異議を唱えなければならない。ガンジーは、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでも、しなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするためである。」と言う。ガンジーの言葉は至言である。

人間は、些末なことで苦悩する。(自我その349)

2020-04-27 14:56:15 | 思想
人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動している。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。自我とは、構造体において、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係は次のようになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・課長・社員などという自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。その自我を動かすのは深層心理である。深層心理とは、無意識の思考である。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。しかし、人間には、深層心理という無意識の思考だけでなく、意識しての思考である表層心理での思考もある。多くの人が言う思考とは、人間の表層心理での意識しての思考である。多くの人は、深層心理の思考の存在に気付いていない。表層心理での意識しての思考しか思考が存在しないと思っている。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理の思考の結果を受けて、それについて行うのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理をコントロールできず、深層心理から、いろいろな思いが湧いてくるのである。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。まず、気分についてであるが、気分とは、言うまでも無く、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽などの突発的に生まれる心の状態である。それは、気分は深層心理を覆っているものであり、感情は深層心理が生み出すものであるからである。気分は深層心理の中で変わり、感情は深層心理によって行動の指令とともに生み出されるのである。人間は、深層心理が、常に、ある気分や感情の下にあり、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分や感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分や感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になり、行動の起点になっているのである。人間は、得意な時には、すなわち、深層心理が爽快な気分や喜ばしい・楽しい感情の時には、現在の状況を変える必要が無いから、表層心理で意識して思考する必要はないのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動すれば良いのである。しかし、人間は、不得意な時には、すなわち、深層心理が憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の時には、現在の状況を変える必要があるから、表層心理で意識して思考する必要があるのである。これが考えるということである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。だから、人間は、深層心理が、憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の状態にあって、早く、この状態から脱却したいと思えば、表層心理で意識して思考して、深層心理に喜ばしい・楽しい感情が訪れるような行動を考え出さなければならないのである。次に、自我を主体に立てるということについてであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えるということであり、自我が主体的に自らの行動を思考するということではない。なぜならば、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在し、自我に感情をもたらし、自我を行動へと駆り立てる、欲望である。そして、欲動には四つの欲望が内在している。つまり、深層心理には、四つの欲望が内在し、それが自我を動かしているのである。さて、欲動、すなわち深層心理にに内在している四つの欲望とは、次のようなものである。第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。これは、自我の保身化(略して保身化)とも呼ばれている。生徒や会社員が、行くのが嫌でも、学校や会社に行ってしまうのは、生徒いう自我や会社員という自我を失いたくないからである。第二の欲望として、自我を他者に認めてもらいたいという欲望がある。これは、自我の対他化(略して対他化)とも呼ばれている。化粧するのも、成績を上げようとするのも、他者に自我を認めてもらいたいからである。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望がある。これは、対象の対自化(略して対自化)とも呼ばれている。国や学校や会社をコントロールしようとすること、家を建てるために木を利用しようとすること、哲学者が自らの志向性で現象を捉えようとすることなど、いずれも、この欲望から発している。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。これは、自我と他者の共感化(略して共感化)とも呼ばれている。カップルという構造体を形成しで恋人という自我を有していること、仲間という構造体を形成し友人という自我を有していること、呉越同舟の関係にあること(普段は仲が悪いのだが共通の敵がいるから協力し合っていること)など、いずれも、この欲望にかなっているのである。さて、欲動は四つの欲望によって成り立っている。それは、自我を存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。簡潔に言えば、性欲である。確かに、他の動物には、発情期があり、一定期間だけ性欲があるのに対して、人間は、言わば、一年中発情期であり、常に、性欲がある。そういう意味では、性欲が、全ての欲望の源になっていると言えないことはない。さて、人間の行動は、深層心理が欲動に基づいて生み出し、指令しているから、全ての行動には理由と意味がある。しかし、人間は、常に、全ての行動の理由と意味を意識して行動しているわけではない。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それが起点となって、人間は行動するからである。確かに、人間は、表層心理で、意識して行動することがある。また、人間は、表層心理で、意識して思考した後で行動することがある。しかし、それらは、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間は、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間は、深層心理が自我の欲望を生み出す前に、表層心理で、思考して、行動することは無いのである。しかし、多くの人は、全ての行動は、自ら表層心理で意識して、思考して、行っていると思い込んでいるから、行動している途中や行動した後で、時として、理痛や意味を理解せずに行動していることに気付き、驚くのである。また、人間の全ての感情にも理由と意味がある。それは、行動の指令と同様に、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。しかし、行動と異なり、人間は、常に、自分の感情を意識している。しかし、人間は感情を意識しようと思って意識しているのでは無く、感情が人間を覆ってくるから、人間は自分の感情を意識せざるを得ないのである。しかし、感情の存在が、すなわち、自分が意識する感情が常に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。これは、デカルトの「我思う故に我在り」(あらゆるものを疑えるとしても、このように疑っている自分の存在を疑うことはできない)という回りくどく、しかも、危うい論理よりも、確かなことなのである。確かに、人間は、常に、自分の感情を意識するが、しかし、その理由と意味を全て理解しているわけではない。後にそれが理解されることもあり、後々までわからないこともある。なぜならば、これも、また、全ての感情は、全ての行動の指令と同様に、人間の無意識のうちに、深層心理が欲動に基づいて思考して生みだしているからである。人間は、意識して、すなわち、表層心理で、思考して、決して、行動の指令と同様に、感情も生み出すことはできないのである。さて、なぜ、全ての行動と感情に理由と意味があるのか。それは、深層心理が、理由で過去と現在を繋げ、意味で将来と現在を繋げているからである。深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事によって現在の感情と行動の指令を生み出し、将来の目的によって現在の感情と行動の指令を生み出しているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。つまり、深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事、現在の感情と行動の指令、将来の目的を繋げているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。この、深層心理による、過去、現在、将来という一連の創造を、ハイデッガーは、時熟と表現している。だから、時熟とは、客観的な時間系列ではなく、深層心理による創造の時間系列なのである。客観的な時間系列は、人間にとって、他者との社会生活を営む上でだけ、意味も為しているのである。ハイデッガーの「存在と時間」は、時熟という志向性(観点・視点)から、読み解かなければならないのである。このように、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、感情的な行動であり、往々にして、他者に惨劇、自我に悲劇をもたらすのである。犯罪も、深層心理が生み出した強い感情が原因である。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、人間は、所属している構造体から追放される可能性が大であったり実際に追放されたりした時、所属している構造体が破壊される可能性が大であったり実際に破壊されたりした時、自我を失う可能性が大であったり実際に自我を失ったりするので、苦悩するのである。さて、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望は、自我の対他化と言われている。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。さて、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、対象の対自化と言われている。それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えている。)という言葉に表れている。さらに、対象の対自化は、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその意味・理由である。だから、人間は、リーダーという自我を失う可能性が大であったり実際に自我を失ったりした時に、苦悩するのである。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその意味・理由である。だから、わがままな行動でも、それを他者から止められた時、人間は、自我が傷付けられ、怒り、苦悩するのである。物という対象の対自化は、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。他者・物・事柄という対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用し、事柄を自らの志向性で捉えようとする。)という言葉に集約されている。さらに、対象の対自化は、「人は自己の欲望の心象を存在化させる(現実化する)」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって、苦悩を避け、心に安定感を得ようとすることがその理由・意味である。さらに、対象の対自化には、「人は自己の欲望を心象化する」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という欲望があるが、これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ることがその理由・意味である。さて、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望は、自我と他者の共感化と言われている。自我の対他化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるとともに仲間という構造体から追放される苦悩という理由・意味があるのであるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感という苦悩から脱しようというという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強過ぎるという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅するという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの苦悩だけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの苦悩もあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。しかし、共通の敵が消えると、以前のように、互いに相手を対自化し、イニシアチブを取ろう、相手のの言う通りにはならないでおこうと徹底的に対他化を拒否して、対自化を求めて苦悩するのである。さて、哲学者のウィトゲンシュタインも、「苦しいという感情が消滅すれば、苦悩の原因も解決されたと言うことができる。」と言う。だから、人間の苦悩が消えるのは、必ずしも、苦悩の原因となっている問題点が解決されたからだとは言えないのである。しかし、苦悩が消えれば、人間は、所期の目標が達成できたということであり、人間は、それ以上、踏み込むことはできないのである。なぜならば、苦悩は、深層心理がもたらすからである。人間は、自らの深層心理が生み出した、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望から逃れることはできないのである。人間は、ルーティーンが破られた時、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自らの表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出したと行動の指令について思考することから逃れることはできないのである。つまり、深層心理がもたらす苦悩の中で、人間は、表層心理で、つまり、理性でどのような思考を形作っていくかが問われているのである。



自分の気持ちを正直に話せば、全ての人間関係は壊れてしまう。(自我その348)

2020-04-25 13:46:15 | 思想
正直とは、嘘・偽りの無いこと、素直なこと、ありのままということである。正直と同じ意味の言葉に、腹蔵無しがある。腹蔵無しとは、心の中に思っていることを包み隠すことが無いということである。しかし、「私について思ったことを、正直に、腹蔵無く話して下さい。」と言われて、文字通り、相手について、正直に、腹蔵なく話してしまうと、二人の関係は壊れてしまう。それは、どんなに親しくしていても、どんなに信頼していても、どんなに愛し合っていても、時には、深層心理が、相手に対して、不信感、嫌悪感を抱くことがあるからである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。しかし、人間には、深層心理という無意識の思考だけでなく、意識しての思考である表層心理での思考がある。多くの人が言う思考とは、人間の表層心理での意識しての思考である。多くの人は、深層心理の思考の存在に気付いていない。表層心理での意識しての思考しか思考が存在しないと思っている。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理の思考の結果を受けて、それについて行うのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理をコントロールできないから、いろいろな思いが湧いてくるのである。そして、人間は、相手が自分に対して不信感や嫌悪感を抱いている(いた)ということを知った段階で、二人の関係は壊れてしまうのである。ひびが入り、修復が難しいのである。なぜならば、人間の深層心理の欲動(心の根本の動き)の欲望の中に、自我を他者に認めてもらいたいという強い欲望があるからである。これは、自我の対他化(略して対他化)とも呼ばれ、喜怒哀楽という感情は、主に、この欲望が叶うか叶わないかによって生まれてくる。これは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているか常に探っている。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そして、人間は、表層心理で、意識して思考し、その苦悩から脱却する方法を模索するのである。しかし、良い方法は容易に思いつかないのである。なぜならば、苦悩の原因は他者の評価であり、自我の範疇外にある他者の心は容易に動かせないからである。だから、人間は、二人の関係を壊さないようにするには、不正直で、腹蔵を持って、暮らしていくしか無いのである。もちろん、不正直であること、腹蔵を持つことは、ストレスを感じることであるが、それはどうしようもないことなのである。また、キリスト教に、「懺悔」という制度がある。「神の代理とされる司祭に罪を告白し、許しと償いの指定を受けること。」である。キリスト教の結婚式において、神の前で、相手を永遠に愛することを誓うのだから、結婚すれば、人間は、「懺悔」しなければいけないことになる。夫(妻)が妻(夫)への愛を失ったり、別の女性(男性)に心を奪われたりするのは、深層心理がなすことだから、人間は、どうしようもできないのである。キリスト教信者の既婚者は、一生、「懺悔」しなければいけないことになるのである。また、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。さて、人間は、皆、常に、ある構造体に属し、ある自我を持って、暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中での自分のポジションである。人間とは、構造体に所属し、ポジションを担って、その役目を果たそうと行動する存在なのである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自分・自己の姿なのである。人間は、構造体の中で、他者からポジションが与えられ、自らがそれを認めることによって自我が成立する。それによって、アイデンティティが確立するのである。人間は、自我を自分・自己と読み替え、自分・自己として行動するのである。つまり、人間は、構造体で他者から自我を与えられ、自我によって生かされているのであるが、自分・自己によって生きていると思い込んでいるのである。しかし、人間は、自分・自己が自我となり、自我を自分・自己とすることによって、存在感を覚えて行動できるのである。さて、人間は、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、常に、他者と関わって生活をしている。すなわち、社会生活を営んでいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、その構造体に応じてさまざまな自我が持って行動するのだが、代表的な構造体と自我には次のようなものがある。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫・妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。さて、人間は、毎日のように、同じ構造体で暮らしていると、必ず、自分が嫌いな人、自分を嫌う人が出てくる。そして、自分が相手を嫌いになれば、相手がそれに気付き、相手も自分を嫌いになり、相手が自分を嫌いになれば、自分もそれに気付き、自分も相手を嫌いになるものである。だから、片方が嫌いになれば、相互に嫌いになるのである。また、嫌いになった理由は、意地悪をされたからとか物を盗まれたからというような明確なものは少ない。多くは、自分でも気付かないうちに嫌いになっていて、嫌いになったことを意識するようになってから、相手の挨拶の仕方、話し方、笑い方、仕草、雰囲気、他者に対する態度、声、容貌など、全てを嫌うようになる。好き嫌いという感情は、深層心理が決めることだから、その理由がはっきりしないのである。自分が明白には気付かないたわい無いことが原因であることが多いのである。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。しかし、嫌いという理由だけで、相手を構造体から放逐できない。また、自分自身、現在の構造体を出て、別の構造体に見つかるか、見つかってもなじめるか不安であるから、とどまるしかない。そうしているうちに、深層心理が、嫌いな人を攻撃を命じるようになる。深層心理は、相手を攻撃し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れようとするのである。ここで、小学生・中学生・高校生ならば、自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。しかし、大人は、そういうわけには行かない。いじめが露見すれば、法律で罰せられ、最悪の場合、一生を棒に振るからである。もしも、相手が上司の場合、相手にセクハラ・パワハラがあれば、訴えれば良いが、気にくわないということだけでは、上司を更迭できない。逆に、それを態度に示すだけで、上司に復讐され、待遇面で不利になる。また、同輩・後輩が嫌いな場合、陰で悪口を言いふらして憂さを晴らす方法もあるが、自分がネタ元だと露見すれば、復讐されるだろう。だから、深層心理の言うがまに、相手を攻撃してはいけないのである。では、どうすれば良いか。言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接すれば良いのである。しかし、それは、偽善ではないか。確かに、深層心理には、背いている。しかし、相手を嫌いな理由が、不明瞭であるかたわいないものであるのだから、相手には不愉快な思いをさせず、自分も迷惑を被っていないのだから、これが最善の方法なのである。もしも、第三者に納得できるような明瞭なものであるならば、既に、訴えるか、誰かに相談しているはずである。訴えることもできず、誰にも相談できないような理由だから、一人で抱え込み、悶々と悩んでいるのである。確かに、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接することは、自尊心が傷付けられるかも知れない。しかし、幼い自尊心は捨てるべきである。「子供は正直である。」と言われるが、深層心理に正直な行動は子供だから許されるのである。深層心理に正直な行動は、瞬間的には憂さは晴れるかも知れないが、後に、周囲から顰蹙を買い、相手から復讐にあい、嫌いだという不愉快な感情を超えて、自らを困難な状況に追い込んでしまうのである。また、嫌いな相手に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接していると、相手が自分のことを好きになり、自分も相手を好きになることがあるのである。少なくとも、人に対して、言葉遣いを丁寧にし、礼儀正しく接し、機械的に接している限り、誰からも、非難されることは無いのである。

常に、考えることには苦悩が、思うことには快楽が伴う。(自我その347)

2020-04-24 13:49:30 | 思想
人間には、深層心理と表層心理がある。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれている。しかし、無意識と言っても、それは何もしていないということではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。深層心理の動きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味している。しかし、人間には、深層心理という無意識の思考だけでなく、意識しての思考である表層心理での思考がある。多くの人が言う思考とは、人間の表層心理での意識しての思考である。多くの人は、深層心理の思考の存在に気付いていない。表層心理での意識しての思考しか思考が存在しないと思っている。しかし、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在していないのである。人間が、表層心理で思考する時は、常に、深層心理の思考の結果を受けて、それについて行うのである。さて、思考という熟語は、思と考という字から成り立っているが、思うということと考えるということは意味が異なっている。いずれも人間の心の中で行われる行為であるが、同じではない。思考という言葉は、考えるという意味だけで使われている。考えるということは、深層心理が自我に差し迫ってくる事象を現実として苦痛に捉え、表層心理でその苦痛から解放されるための方法を意識して思考している状態である。思うということは、深層心理が自らの欲望がかなった状態にある自我を思い描いている状態である。だから、思うということの対象の中には、自我に差し迫ってくるような事象は存在しない。それ故に、考えるということには常に苦痛が伴うが、思うということには常に快楽が伴うのである。思考と一見似ているように思われる言葉で、思想がある。しかし、思想は、思考と異なり、思も想も同じ意味である。思想は思うという意味である。懸想は異性に思いを掛けることであり、想像は良いことを思い浮かべることであり、理想は自分がすばらしい状態にあることを思い描くことであり、空想は現実にはあり得ないすばらしいことをいろいろと思いめぐらすことである。だから、深層心理が考えることは現実的であるが、深層心理が思うことは空想的、理想的だと言われるのである。しかし、人間が表層心理で考える対象である自我に差し迫ってくる事象も深層心理の思い描く自らの欲望がかなった状態にある自我も、ありのままの存在ではない。そもそも、人間にとって、ありのままの存在は存在しないのである。深層心理が、志向性によって、自我・他者・物・事象を対象として捉えているからである。志向性とは、対象を捉える方向性、すなわち、対象を捉える観点・視点である。地平とも言う。志向性は、深層心理が有している欲望の中に存在する。だから、人間は、自ら意識して、志向性を生み出すこともできず、志向性を変更することもできない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、志向性を生み出すこともできないばかりか、志向性を変更することもできないのである。なぜならば、志向性は、深層心理という人間の無意識の欲望のうちに存在するからである。人間の意識の思考である表層心理は、人間の無意識の思考である深層心理の範疇にある志向性に入り込むことはできないのである。さて、考えるということは、深層心理が自我に差し迫ってくる事象を現実として苦痛に捉え、人間は表層心理でその苦痛から解放されるための方法を意識して思考している状態であり、思うということは、深層心理が自らの欲望がかなった状態にある自我を思い描いている状態であるが、考えるということにも思うということにも深く関わっている自我とは何であろうか。自我とは、構造体の中での自分のポジションである。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間とは、構造体に所属し、ポジションを担って、その役目を果たそうと行動する存在なのである。すなわち、自我とは、構造体の中での、ある役割を担った自分・自己の姿なのである。人間は、構造体の中で、他者からポジションが与えられ、自らがそれを認めることによって自我が成立する。それによって、アイデンティティが確立するのである。人間は、自我を自分・自己と読み替え、自分・自己として行動するのである。つまり、人間は、構造体で他者から自我を与えられ、自我によって生かされているのであるが、自分・自己によって生きていると思い込んでいるのである。しかし、人間は、自分・自己が自我となり、自我を自分・自己とすることによって、存在感を覚えて行動できるのである。さて、人間は、常に、一つの構造体に所属し、一つの自我に限定されて、活動している。人間は、毎日、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て、常に、他者と関わって生活をしている。すなわち、社会生活を営んでいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、その構造体に応じてさまざまな自我が持って行動するのだが、代表的な構造体と自我には次のようなものがある。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫・妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。そして、その自我を動かすのが深層心理の思考である。人間は、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、言葉を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動き出すのである。その後、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することもあり、深層心理の思考の結果を受けて、表層心理で、深層心理が生み出した感情の中で、表層心理が生み出した行動の指令について思考した後で行動することもある。しかし、人間は、表層心理独自で、深層心理から離れて、自ら、意識して、思考して、行動することはできないのである。人間の表層心理での思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令について許諾するか拒否するかを決めるためのものなのである。しかも、人間は、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動することが多いのである。これが無意識の行動である。人間の日常生活のルーティーンと言われる行動はほとんどこれである。さらに、人間は、表層心理で、意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志でその行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、その行動の指令のままに行動してしまうのである。その上に、人間は、表層心理で、意識して思考し、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志でその行動の指令を抑圧することに成功したとしても、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしなければ、深層心理が生み出した感情(ほとんどが傷心や怒りの感情である)が収まらないからからである。これが考えるということである。さて、人間は、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、言葉を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、気分とは、何であろうか。言うまでも無く、気分とは、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽などの突発的に生まれる心の状態である。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。表層心理とは、人間の意識しての思考であり、その思考の結果が意志だからである。なぜ、人間は、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すことも変えることができないのか。それは、気分は深層心理を覆っているものであり、感情は深層心理が生み出すものであるからである。気分は深層心理の中で変わり、感情は深層心理によって行動の指令とともに生み出されるのである。人間は、深層心理が、常に、ある気分や感情の下にあり、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分や感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分や感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になり、行動の起点になっているのである。人間は、得意な時には、すなわち、深層心理が爽快な気分や喜ばしい・楽しい感情の時には、現在の状況を変える必要が無いから、表層心理で意識して思考する必要はないのである。深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動すれば良いのである。しかし、人間は、不得意な時には、すなわち、深層心理が憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の時には、現在の状況を変える必要があるから、表層心理で意識して思考する必要があるのである。これが考えるということである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。だから、人間は、深層心理が、憂鬱な気分や怒り・哀しい感情の状態にあって、早く、この状態から脱却したいと思えば、表層心理で意識して思考して、深層心理に喜ばしい・楽しい感情が訪れるような行動を考え出さなければならないのである。次に、自我を主体に立てるとは何であろうか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えるということであり、自我が主体的に自らの行動を思考するということではない。なぜならば、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。深層心理が、構造体の中で、自らが快楽を得るように、自我を動かしているのである。しかし、それがかなわず、現実が苦痛としてのしかかってきた時、人間は、表層心理で、意識して、思考して、その苦痛から逃れるような方策を講ずるのである。それが、考えるということである。次に、快感原則とは何であろうか。快感原則とは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。つまり、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標として、思考するのである。だから、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について思考する必要があるのである。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性によって決定した行動が意志による行動である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、自ら意識して、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について思考することがあるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。人間の表層心理での思考は、自我に利益をもたらそうという長期的な展望に立って行っているので、深層心理の瞬間的に快楽を求める思考とは著しい対照を成している。しかし、人間の表層心理での意識しての思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するかを決めるために行うのである。人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動することがあるのである。しかも、これは、無意識の行動と呼ばれ、人間はこの行動が非常に多いのである。なぜならば、日常生活のルーティーンと言われる生活は無意識の行動だからである。その生活は、表層心理で考えることがなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに、つまり、深層心理の思いのままに行動しているのである。だから、そこには、快感原則が満たされ、深層心理には、快楽という気分・感情は存在しているのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、傷心・怒りなどの過激な感情と相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、意識して思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しなかった場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。だから、考えるという苦悩の時が長く続くのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが、感情的な行動であり、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。犯罪はほとんどがこれが原因である。だから、誰でも犯罪者になる可能性があるが、特に、深層心理が敏感に反応し、傷心・怒りという強い感情が生まれた時に、その可能性が大きいのである。次に、欲動とは何であろうか。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理を動かす欲望である。人間は欲動に基づいて行動する。欲動は、感情を生み出し、人間を行動へと駆り立てる、人間の内在的な欲望である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的な欲望と言うのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。だから、人間は、自ら、意識して、表層心理で、欲動に基づいて思考して行動しているのではないのである。フロイトは、それをリピドーと表現し、それは性エネルギーであるとした。しかし、フロイトの言うように、性エネルギーだけを欲望とすれば、欲動の力は狭小である。実際には、欲動は、四つの欲望によって成り立っているのである。欲動に内在している四つの欲望とは、次のようなものである。第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。これは、自我の保身化(略して保身化)とも呼ばれている。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかない、自我を保身化しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。深層心理が思うだけの行動で良く、表層心理で考える必要が無いのである。人間は、表層心理で意識して考えることが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、嫌でも学校や会社に行くのである。生徒という自我や会社員という自我を失いたくないからである。第二の欲望として、自我を他者に認めてもらいたいという欲望がある。これは、自我の対他化(略して対他化)とも呼ばれている。これは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の欲望から来る志向性であり、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の欲望の志向性の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の志向性の機能によって起こるのである。そして、人間は、表層心理で、意識して思考し、その苦悩から脱却する方法を模索するのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情と不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、表層心理が欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望を満たそうという理由・意味から考え出したのである。だが、傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を癒やすための方法を、表層心理で考え出すことができないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の理由であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するという意味である。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。化粧するのも、成績を上げようとするのも、他者に自我を認めてもらいたいからである。次に、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望がある。これは、対象の対自化(略して対自化)とも呼ばれている。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えている。)という言葉に表れている。自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さらに、対象の対自化は、「人は自己の欲望の心象を現実化する」(人間は、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ることがその理由・意味である。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、つまり、第三の欲望としての支配欲を満足させようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、つまり、第一の欲望としての自我の保身化のために、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守ることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその意味・理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。さて、哲学用語に、有を無化する、無を有化するという言葉があるが、いずれも、第三の欲望としての対象を支配したいという欲望から発している。有を無化するとは、存在しているものやことを無にすることではない。人間、誰しも、存在しているもの・ことを無にすることはできない。有を無化するとは、存在しているものやことをありのままに捉えず、対象として支配したいという欲望によって捉えることである。そもそも、人間は、存在しているもの・ことをありのままに捉えることはできない。存在しているもの・ことのありのままの状態を、カントは物自体と言い、サルトルは即自と言った。しかし、物自体も即自も存在しないのである。物自体も即自も、人間の想像の産物である。さて、人間は、意識して、自らの意志によって、存在しているもの・ことを対象として支配したいという欲望を持つことはできない。すなわち、人間は、表層心理で、意識して、思考して、存在しているもの・ことを対象として支配したいという欲望を生み出すことはできない。深層心理が、存在しているもの・ことを対象として支配したいという欲望を有している。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、無意識とは、単に、意識していないという状態ではない。人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理である。さて、深層心理が有している存在しているもの・ことを対象として支配したいという欲望には、常に、志向性が存在する。志向性とは、対象を捉える方向性、すなわち、対象を捉える観点・視点である。地平とも言う。しかし、人間は、自ら意識して、志向性を生み出すこともできず、志向性を変更することもできない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、志向性を生み出すこともできないばかりか、志向性を変更することもできないのである。なぜならば、存在しているもの・ことを対象として支配したいという欲望そのものが、人間の無意識のうちに、すなわち、人間の深層心理に存在するからである。つまり、有を無化するとは、深層心理が、対象として支配したいという欲望の下で、自らが有する志向性によって、存在しているもの・ことを捉えることなのである。しかし、深層心理の有を無化する作用を否定すれば、人間は何も見ることはできず、どのような対象を捉えることもできないのである。なぜならば、人間にとって、本質的に、物自体も即自も存在しないからである。つまり、人間には有を無化する作用があるということ、すなわち、人間は、深層心理に、対象として支配したいという欲望の下で、自らが有する志向性によって、存在しているものやことを捉える作用があることが、人間の人間たる所以の一つなのである。次に、無を有化するということについてであるが、それは、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込むということである。これも、また、深層心理の欲望の作用である。人間世界には、実際には存在していないのに存在しているように思い込まれたもの・ことは非常に多く存在する。しかも、それは、個人のみが有するもの・こと、集団が共通して有するもの・こと、人類全体が有するもの・ことなど、多岐にわたっている。人間は、実際に存在しているもの・ことをありのままに捉えることはできないのと同様に、実際には存在していないもの・ことも、無の状態、空の状態で、ありのままに捉えることはできないのである。しかし、人間は、実際に存在しているもの・ことに対してと同様に、自ら意識して、自らの意志によって、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込むということはできないのである。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込むということはできないのである。深層心理が、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込みたいという欲望を有しているのである。つまり、人間は、深層心理が有する実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込みたいという欲望によって、無意識に、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込んでしまうのである。しかし、深層心理は、恣意的に、実際には存在していないもの・ことを存在しているように思い込むのではない。そこに、志向性が存在する。その志向性とは、そのもの・ことの存在が自らにとって絶対必要不可欠であり、そのもの・ことの存在が自らに安らぎを与えるということである。つまり、深層心理は、そのもの・ことの存在が自らにとって絶対必要不可欠であり、自らに安らぎを与えると判断すれば、実際には存在していないもの・ことを、存在しているように思い込んでしまうのである。人類が神を創造したのは、神が存在しなければ生きていけないと思ったからである。犯罪者の中には、自らの犯罪を正視するのは辛いから、いつの間にか、自分は犯罪を起こしていないと思い込んでしまう人が出現するのである。いじめ自殺事件があると、いじめっ子たちは責任を問われるのが辛いから、いじめではなく遊びのつもりだったと証言するばかりでなく、そのように思い込むのである。いじめっ子たちの親も、親という自我を傷付けられるのが辛いから、自殺の原因をいじめ以外に求め、いじめられた子の性格やその家庭環境にあると思い込むのである。ストーカーは、夫婦という構造体やカップルという構造体が壊れ、夫もしくは妻や恋人いう自我を失うのが辛いから、このような気持ちに追い込んだ相手に責任があり、自分には付きまとったり襲撃したりする権利あると思い込んで、その行為に及んでしまうのである。次に、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。これは、自我と他者の共感化(略して共感化)とも呼ばれている。自我と他者の対他化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、生徒たちの心には、再び、第三の欲望としての支配欲が頭をもたげてきて、クラス内の他者である生徒との闘争が始まるのである。



考えるということには、常に、苦悩が伴う。(自我その346)

2020-04-20 13:58:38 | 思想
人間の思考には二種類存在する。深層心理の思考と表層心理での思考である。深層心理の思考とは、人間の無意識のうちでの思考である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。しかし、多くの人は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らない。深層心理の思考に気付いていない。だから、多くの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。まず、人間は主体的ではない。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きている人間を主体的に生きているとは言えないのである。さて、自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある自我を有して、ある構造体に所属し、自我の欲望に動かされて行動しているのである。そして、その自我の欲望を生み出しているのは深層心理なのである。確かに、人間は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理で思考することはある。しかし、人間の表層心理での思考は、常に、深巣心理の思考の後で行われるのである。人間は、構造体の中で、まず、深層心理が、ある気分の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動き出すのである。最初に、気分についてであるが、深層心理は、常に、ある気分の下にある。気分は、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、言葉を使って論理的に思考して自我の欲望を生み出す時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。次に、主体に自我を立てるということについてであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて考えるということであり、自我が主体的に自らの行動を思考するということではない。なぜならば、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。次に、欲動についてであるが、欲動は深層心理を突き動かす源であある。欲動には四つの欲望が内在している。深層心理はそれによって感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動へと駆り立てるのである。欲動に内在している四つの欲望とは、次のようなものである。第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。これは、自我の保身化(略して保身化)とも呼ばれている。嫌でも学校や会社に行くのは、生徒いう自我や会社員という自我を失いたくないからである。第二の欲望として、自我を他者に認めてもらいたいという欲望がある。これは、自我の対他化(略して対他化)とも呼ばれている。化粧するのも、成績を上げようとするのも、他者に自我を認めてもらいたいからである。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望がある。これは、対象の対自化(略して対自化)とも呼ばれている。国や学校や会社をコントロールしようとすること、家を建てるために木を利用しようとすること、哲学者が自らの志向性で現象を捉えようとすることなど、いずれも、この欲望から発している。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。これは、自我と他者の共感化(略して共感化)とも呼ばれている。カップルという構造体を形成しで恋人という自我を有していること、仲間という構造体を形成し友人という自我を有していること、呉越同舟の関係にあること(普段は仲が悪いのだが共通の敵がいるから協力し合っていること)など、いずれも、この欲望がかなっているのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。さて、ラカンの言葉に「無意識は言語によって構造化されている。」がある。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。つまり、人間は、構造体の中で、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、言葉を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動き出すのである。この後、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動する場合と表層心理で深層心理が生み出した自我の欲望を受けて思考してから行動する場合がある。前者の場合、無意識の行動と呼ばれている。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。人間の日常生活は、ほとんど、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の欲望にかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。また、深層心理は、自我が存続・発展するためには、構造体を存続・発展する必要があるから、そのためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。高級官僚たちが、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会などでの、「記憶にございません」を繰り返す国会答弁、証拠隠滅、書類消去、書類改竄をするのは、安倍晋三首相に恩を売り、立身出世したいがためである。彼らは、自らの自我のために、国民を欺いているのである。彼らは、国民を欺くことがルーティーンになっているから、表層心理で、自らの行動の諾否について、審議することは無いのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考してから、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。さて、人間が、表層心理で、自ら意識して思考するのは、ルーティーンが破られたからである。つまり、日常生活において、異常なことが起こると、すなわち、ルーティーンが破られると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、傷心・怒りなどの過激な感情と相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、意識して思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しなかった場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した傷心・怒りという感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、感情的な行動であり、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。犯罪はほとんどがこれが原因である。だから、誰でも犯罪者になる可能性があるが、特に、深層心理が敏感で、深層心理が生み出す感情の強い人は、その傾向が強いのである。そして、人間が、表層心理で思考して、深層心理の行動の指令を抑圧しようするのは、たいていの場合、他者から悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、周囲から顰蹙を買い、時には、社会的に罰せられ、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。さて、苦悩は、人間が、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、苦痛の感情を取り除く方法を長期にわたって苦慮している状態を言う。しかし、傷心・怒りという苦痛の感情を生み出しのは、深層心理である。深層心理が、自我が、他者から悪評価・低評価を受け、快感原則に基づいて、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動を指令したのである。しかし、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理の行動の指令の通りに、相手を侮辱したり殴ったりすると、後で、その相手から復讐されたり、周囲に人から顰蹙を買ったり、法的に罰せられたりして、自我が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧したのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、自らの現実原則が納得し、深層心理の快感原則が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になるのである。この時、人間は、自らの思考の力を最大限に発揮しなければならないのである。これが、理性である。そこで、ニーチェは、「人間は、安楽の時、自分自身から離れ、苦悩の時、自分自身に近づく。」と言うのである。安楽も苦痛も深層心理がもたらした感情である。しかし、人間は、安楽の時には、表層心理で、考えることをしない。反省する必要が無いからである。人間は、苦痛の時、表層心理で、苦悩の状態に陥って深く考えるのである。だから、偉大な思想は、全て、苦悩の中から生まれている。理性が、偉大な思想を生み出したのである。デカルト、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガーなど、全てそうである。しかし、一般的には、苦悩とは、人間が、苦しいと感情の中で、その苦しみから逃れる方法を、表層心理で案出するためにもがいている現象である。人間は、その時、自分が苦しみにあることを課題にして、苦しみがもたらされた原因を分析し、苦しみから脱却する方法を思考するのである。これが理性による思考である。確かに、理性による思考によって、苦しみから脱却する方法が考え出すことができ、それを実行し、実際に、苦しみから脱却できる者も存在する。しかし、苦しみから脱却する方法を考え出すことができなくても、時間とともに、苦しいという感情が薄れゆき、苦しみから脱却する者も存在する。そして、苦しいと感情という感情が強すぎるので、また、苦しみから脱却する方法が考え出す自信がないので、他者との会話や遊びや趣味やアルコールや医薬品などに頼って、苦しみから逃れようとする者も存在する。つまり、表層心理でしっかり受け止め、理性による思考に終始する人と、表層心理で受け止めきれず、時間や気分転換に頼る者が存在するのである。しかし、後者の場合であっても、それを非難することはできない。その理由は二つある。一つは、人間の意識という表層心理で与り知らぬ所で、すなわち、無意識という深層心理が苦しいという感情を生み出しているからである。もう一つは、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した苦しい感情から脱却するための行動の指令のままに行動すると自分にとって利益の結果になると判断したから、行動の指令を抑圧したのである。つまり、人間の表層心理による所期の目標は、深層心理が生み出した苦しいという感情を消滅させることという一点だからである。だから、哲学者のウィトゲンシュタインも、「苦しいという感情が消滅すれば、苦痛の原因も解決されたということができる。」と言うのである。だから、人間の苦悩が消えるのは、必ずしも、苦悩の原因となっている問題点が解決されたからだとは言えないのである。しかし、苦悩が消えれば、人間は、所期の目標が達成できたということであり、人間は、それ以上、踏み込むことはできないのである。確かに、深層心理は、何かの出来事によって、欲動によって、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という欲望を生み出すから、その出来事が、他者にとっては、些末であったりすることはままあることである。しかし、他者にとっては、些末に見えることも、本人の深層心理には、課題となる大きなことだから苦痛になるのである。人間は、自らの深層心理が生み出した、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望から逃れることはできないのである。また、人間は、ルーティーンが破られた時、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自らの表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出したと行動の指令について審議するから逃れることはできないのである。つまり、苦悩の中で、理性がどのような思考を形作るかが問われているのである。