あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

ストレスの無い人間はいない。(欲動その16)

2024-06-03 13:13:01 | 思想
人間には自分という固有のあり方は存在しない。人間は常に自我として存在する。自我とは、その時々の自分が所属する構造体における自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、構造体に所属して、自我を持って、初めて、人間として行動できるのである。自我を持たない人間は、抽象的な存在である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動しているのである。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがあるが、それに伴って、次のような自我がある。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある。人間は、一人でいても、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、暮らしている。人間は、引き森の生活をしている人や服役している人以外は、一日のうちでも、複数の構造体に所属し、複数の自我を持って行動するが、同時に、複数の構造体に所属することも、複数の自我を持つことはできない。例えば、街中を仲間と連れだって友人という自我を持って歩いている男性は、偶然、母親に出会うと、仲間には、友人という自我で母親を紹介し、母親には、息子という自我で仲間を紹介する。友人という自我と息子という自我を同時に持つことはできない。コンビニという構造体に入れば、男子高校生という自我ははぎ取られ、一人の客という自我で行動しなければならなくなる。つまり、人間は、常に、ある一つの構造体に限定されて所属させられ、ある一つの自我を限定されて持たらされているのである。このように、人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わりながら、他人を意識しながら、社会生活を営んでいるのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。さて、人間は、常に、構造体に所属して、自我として行動しているが、自ら意識して思考して行動しているのではない。人間の自らを意識した精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で思考して行動しているわけではない。人間は、無意識の思考に動かされて行動しているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。快感原則とは、フロイトの用語であり、欲動に基づいてひたすらその場での快楽を求め不快を忌避する志向性である。深層心理は、自我の状態を欲動にかなえたものにすれば快楽が得られるので、欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かそうとする。つまり、欲動が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。欲動は四つの欲望から成り立っている。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め苦痛から逃れようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。道徳観や社会規約を守ろうという志向性は、表層心理での思考に存在するのである。だから、深層心理が生み出す自我の欲望に善事も悪事も存在する。悪の自我の欲望は抑圧しなければならない。悪事にしろ、自我の欲望を抑圧すればストレスになる。だから、ストレスの無い人はいない。ストレスの無い人とは、自我の欲望通りに行動する部神経な人である。そのような人は、まともな社会では、弾き飛ばされる。だから、まともに生きている人で、ストレスの無い人はいない。最初から、深層心理が善事だけが自我の欲望として生み出されていれば、抑圧する必要が無いからストレスを感じないで済む。しかし、自我の欲望は、深層心理という自分の意志の世界に及ばないところで生み出されるから、善事も悪事も存在し、悪事は抑圧されるから、それがストレスになるのである。もちろん、その悪事という概念は、深層心理ではなく、表層心理の範疇にある。だから、悪事の自我の欲望は収まることは無いのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が深層心理を動かし、人間は深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動しているからである。つまり、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンは、無意識の行動だから可能なのである。逆に、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。さらに、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。退学者・失業者が苦通を覚えるのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。だから、生徒・会社員は自我を失いたくないという保身欲から、嫌々ながらも学校・会社に行くのである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、学校という構造体では同級生という他者から、会社という構造体では上司から、馬鹿にされたり侮辱されたりなどした時に起きる。その時、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が阻害され、苦痛が生じる。そのような時、深層心理は、その苦痛から逃れるために、怒りの感情と同級生や上司などの他者を侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、侮辱・暴力などの過激な行動を行わせ、自我をおとしめた同級生や上司などの他者を逆におとしめることによって、自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、怒りの感情を抑圧し、侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の保身欲から発生した機能である。深層心理には、超自我という、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとする機能も存在するのである。さらに、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令に従って行動したならば後に自我の立場がどうなるかと思考し、受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求める欲望とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうというものである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者や他人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる場合、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。そして、それがストレスになるのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦痛の中での思考がが続くのである。それも、また、ストレスになるのである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し、高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのは、何よりも自我が大切だという保身欲からである。政治権力者に迎合して悪事を犯してもストレスにならないのである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は、自殺した生徒よりも自分たちの自我を大切にするという保身欲から、事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守るという保身欲のために自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。校長、担任教諭、いじめた子の親の非人間的な行為は、彼らにストレスをもたらさないのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲から、いじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。いじめを隠し続けたことがストレスになったのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫や恋人という自我を失うのが辛いという保身欲から、相手に付きまとい、構造体を維持しようとするのである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、構造体の消滅を認めるしかないから、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことが辛いという保身欲から発した感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできないのである。そうして、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令に従ってしまい、ヒートアップして、殺人にまで及ぶ者がいるのである。夫や恋人という自我を失うことが大きなストレスになったのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。これを受けて、深層心理は、自我を他者に認めてもらって快楽を得ようと思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲を説明している。つまり、人間が、すなわち、深層心理が、自我に対する他者の視線が気になるのは、欲動の承認欲によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間が苦痛を覚えることの原因の多くは、自我が他者に認められないことである。それがストレスになるのである。また、受験生が有名大学を目指すのも、少女がアイドルを目指すのも、自我を他者に認めてほしいという欲望を満足させるためである。認めてもらえなければストレスになるのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とはこの国の国民という自我を失いたくないという保身欲から発しているのである。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。これは、承認欲から発している。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、事項チームや自国選手が敗北すると、それがストレスになるのである。さらに、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、保身欲と承認欲から発した自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、同語反復の無意味な説明である。真実は、国民という自我を失いたくないという保身欲、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという承認欲から発している自我の欲望である。人間は、すなわち、深層心理は、愛国心という自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。愛国心という自我の欲望が満たされない時には、苦痛を覚えるのである。そして、苦痛から逃れるために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。つまり、ストレスを消滅させるために、戦争を起こすのである。しかし、人間は、愛国心という自我の欲望は、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した愛国心という自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、ストレスに動かされる人類には、戦争が無くなることはないのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。これを受けて、深層心理は、他者という対象を支配しようと、物という対象を自我の志向性で利用しようと、現象という対象を自我の志向性で捉えようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。まず、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることが快楽が得られるのである。そのために、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いを秘めながら、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りつつ接している。深層心理は、自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに学校を運営できれば快楽が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配したいという支配欲からである。自分の思い通りに会社を運営できれば快楽が得られるのである。校長は自分の言うこと聞かない教諭がストレスになり、社長は自分の言うことを聞かない社員がストレスになり、パワハラで、校外や社外に追放するのである。さらに、わがままと言われる行動も支配欲からであり、わがままを通すことができれば快楽を得られるからである。わがままが通ればストレスを全く感じずに済むのである。物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。物という対象を支配できればストレスは全く感じないのである。現象という対象の支配欲であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。しかし、現象の捉え方が異なる人が現れると、それがストレスになるのである。さらに、支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。有の無化や無の有化は、ストレス回避の深層心理の営みである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、趣向性(好み)によって、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うような状態を作り、快楽を得ようとする。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手の心を支配し自分の心を支配される許し合うことによって快楽を得ている状態である。人間が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに快楽が生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという快楽が生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで相手に身を差し出していた承認欲から来る屈辱感とこの後相手の心を支配する者への嫉妬心が、深層心理を苦しめる。ストレスがたまっていく。誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルいう構造体が破壊され、恋人という自我を失うことの辛さから、ストレスから逃れるために、ストーカーになることを行動の指令として生み出すのである。もちろん、深層心理に内在するルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実的な利得を求める思考は、これを抑圧しようとする。多くの場合、それは成功する。しかし、ストレスは残ったままである。さらに、一部の屈辱感や嫉妬心の強過ぎる者は、超自我や表層心理の思考で抑圧できず、ストレスを抑圧しきれず、深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままにストーカーになってしまうのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感欲を満たし、そこに、快楽を覚えるからである。さらに、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲を受けての行動である。仲の悪い二人でも、共通の敵が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会でクラスが一つになるというのも、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通の敵が現れたから、クラスが一つにまとまるのである。クラスがまとまるのは、他クラスを倒して皆で快楽を得たいからである。しかし、それらの大会が終わると、承認欲、支配欲に基づく、人間闘争が始まるのである。そして、ストレスが生じるのである。







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