あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

寂しく不安な存在としての人間(自我その69)

2019-03-26 21:28:46 | 思想
人間は、一人では生きていけない、寂しく不安な動物である。しかし、その寂しさ不安は自ら求めたものではない。一人で生きて生きようとすれば、生きていけるのに、一人で生きていくと、深層心理が寂しさ不安を感じ、人を求めるようにできているのである。これが、人間が社会的な動物であるゆえんである。しかし、人間は、家族という人間関係の中では、寂しさ不安を感じることが少ない。それは、家族関係は、憲法、民法、そして他者から、固定されたものとして、社会的に守られているからである。それは、また、固定されているから、自由な選択ができない人間関係とも言える。つまり、自由な選択がある人間関係には、常に、寂しさ不安が伴うのである。それは、自分が自由に相手を選べるが、逆に相手も自由に相手を選ぶことができ、せっかく構築されたと思われる人間関係も、いつ壊れるかも知れないという、寂しさ不安が伴うからである。恋愛、友情をテーマにした映画やドラマが多く作られ、人気を博するのは、それらの関係を構築することが難しく、破壊されるのが容易なためにもたらせる、寂しさ不安が、傍目の人間たちの好奇心を駆り立てるからである。さて、恋愛は性欲から発する。春先、明け方や夕刻に、発情期を迎えた、雄猫は雌猫を求め、雌猫は雄猫を求めて、性欲むき出しの、寂しげな不安げな泣き声を上げる。人間に発情期は無い。一生が発情期である。フロイトは幼児にも性欲があると言った。人間は、インポテンツになった老人にも、閉経を迎えてから三十年以上過ぎた老女にも、性欲は存在する。しかし、人間は、性欲をむき出しにはしない。恋愛という文化の形でそれを表す。恋愛は常に、男女どちらかの片思いから始まる。片思いだけでは、寂しく不安だから、自分の気持ちを打ち明けて、相手に自分の気持ちを気付かせ、相思相愛という固定した関係に持っていきたいのである。しかし、相手に断られ、屈辱感を味わう可能性もある。人間とは、対他存在(人から評価されたいという思いで生きているあり方)の動物であるから、できるだけ屈辱感を味わいたくないのである。しかし、屈辱感を味わう可能性を無視してまで、思いが募ると、自分の気持ちを打ち明けてしまうのである。しかし、告白が成功して、相思相愛の関係になり、カップルという構造体(人間のまとまった組織や集団)が形成されたとしても、恋愛は安泰では無い。なぜならば、恋愛とは、自由に相手を選べることが原則であるので、相手から離れることも別の相手を選ぶことも自由だからである。だから、常に、相手から別れを告げられる可能性はある。カップルという構造体が形成されたと思っていて、相手から別れを告げられ、残された者は悲劇である。苦しくて、容易にカップルという構造体が壊れたと認めることができないのである。カップルという構造体に限らず、自らの意志で構造体を去った者は、次の構造体に希望を持っているから、何ら後悔の念は無い。しかし、構造体に残された者は、突然のことで、苦しくて、構造体の破壊をにわかに認めることができないのである。それでも、残された者は、誰しも、それを認めようとするのだが、その中で、どうしてもできずに、カップルという構造体にこだわり、ストーカーになる者が出てくるのである。次に、友情は、ある構造体に入れられ、寂しさ不安を感じた者たちの連帯感である。この連帯感によって、寂しさ不安感を克服するのである。大人が作った学校という構造体の中の更に小さく区切られた教室という構造体の中に入れられた、小学生・中学生・高校生は、見知らぬ者同士だから、寂しさ不安感を覚える。そこで、友人を作り、仲間という構造体を形成し、寂しさ不安感を克服しようとする。それが、友情という連帯感である。そして、仲間の一人に、教室の中に一人の嫌いな生徒ができる。毎日、その生徒と教室という空間にいさせられる。彼は、それに堪えられない。その生徒に、牽制され、圧迫されているような嫌悪感を覚える。そこから、脱しようとして、その生徒の上位に立とうとする。そこで、仲間内の他の生徒たちに相談して、その生徒を困らせようとする。それがいじめである。困る状態を見て、優越感を得ようとするのである。仲間内の他の生徒たちは、仲間という構造体から出されるのが寂しく不安なので、善悪を判断する余裕が無く、いじめに加担するのである。このように、恋愛と友情は一般に推奨されることだが、人間が一人では生きていけない寂しく不安な動物であることが起点になっているのである。真に、恋愛と友情を推奨するものとするためには、ありきたりの考え方をせず、自分の課題として考え抜き、そのように実践するしかないのである。

自我の欲望がもたらす喜びと罪(自我その68)

2019-03-25 20:21:32 | 思想
我々には、抽象的には、自分は存在するが、具体的にはしない。具体的に存在するのは、自我である。我々は、いついかなる時でも、ある構造体に属し、何らかのポジションを得て、それを自分として、ある関係を維持しながら、暮らしている。構造体とは、人間の組織や集団で、家族、カップル、仲間などである。また、ポジションとしての自分を自我と言う。自我には、現在の自分のポジションを維持したい・他者から現在のポジションとしての自分を評価してもらいたいという欲望が、(深層心理から)発する。これが自我の欲望である。自我の欲望の満足・不満足によって、(深層心理が)我々に感情がもたらし、幸不幸を決定する。それが、喜びと罪をもたらす。例を挙げて、説明しようと思う。まず、母という自我の女性は、家族という構造体で、母子関係を築きながら、暮らしている。我が子が成績が良いと喜ぶ。しかし、ある日、我が子のいじめで被害者の生徒が自殺したことを知った。だが、我が子を謝らせず、自分も謝らない。なぜならば、我が子が謝ったり、自分が謝ったりすれば、母という自我が傷付くからである。次に、恋人という自我の男性は、カップルという構造体で、ある特定の女性と恋愛関係を築きながら、日々を送っている。デートをする度に喜びを感じている。しかし、ある日、その女性から、別れを告げられる。彼は、カップルという構造体が壊れ、恋愛関係が消滅することが苦しいので、今までのように交際したいと思い、つきまとう。それが、ストーカーである。次に、友人いう自我の生徒は、仲間という構造体で、ある特定の生徒たちと友人関係を築きながら、日々を送っている。彼らといると、楽しく、喜びを感じる。しかし、ある日、仲間の一人に、嫌いな生徒がいて、いじめを始まる。彼(彼女)は、仲間という構造体から出されることが不安なので、いじめに加担するのである。次に、校長という自我の人は、学校という構造体で、教頭・教諭・生徒たちと教育関係を築きながら、日々を送っている。校長という仕事に喜びを感じている。しかし、ある日、生徒の一人が自殺し、原因がいじめだということを知った。しかし、彼は、校長という自我が傷付くことが嫌なので、いじめの事実を隠蔽する。このように、自我は、喜びをもたらすとともに、罪を強いるのである。それは、どのような自我であろうと免れることはできない。会社員、警察官、裁判官、国会議員、総理大臣など、全ての自我がそうなのである。我々は、自らの自我の欲望の発生に抗することはできない。なぜならば、自我の欲望は、我々の意志や意識という表層心理の届かない、深層心理から発するからである。できることは、発生した自我の欲望を、実行に移さないだけである。しかし、罪だとわかっていても、実行に移さないと、深層心理が苦しみをもたらすので、たいていの人は、実行に移してしまうのである。それ故に、我々には、罪をもたらす、自らの自我の欲望をどのように対処するかについての課題が一人一人に与えられているのである。そして、他者の自我の欲望に警戒しなければならないのである。彼らが悪人だからではない。彼らが凡人だからである。特に、校長、警察官、裁判官、国会議員、総理大臣などの権力者の自我の欲望を警戒しなければならないのである。自我の欲望を支配できるのは聖人君子だけである。私は、そのような人を見たことがない。

五つの情緒が人間を動かす(自我その67)

2019-03-24 19:59:20 | 思想
ハイデッガーは、「我々は、常に、何らかの気分の状態にある。そして、ふと、自分が、今、どのような気分の状態にあるのか気付く。気分は人間の人間たるゆえんである。」と述べている。しかし、感情、気分、気持ちは、使われ方や使う場所が違うだけで、皆、同じものである。情緒と言い換えることができる。情緒は、深層心理であり、それが我々人間を動かしている。しかし、逆に、情緒は深層心理であるから、誰も自らの意志、つまり、表層心理で、直接的に情緒を生み出すことも変えることもできない。表層心理ができることは、酒を飲んだり、カラオケに行ったり、友人と長電話をしたりして、間接的に、情緒を変えるしか無い。中には、そのような尋常な方法では、辛い気持ちや重い気分を変えられない場合、麻薬や覚醒剤などの違法薬物に頼る人がいる。それほど、情緒は、人間に大きく動かすものなのである。さて、情緒の原因には、肉体的なものと精神的なものの二つがある。肉体的な原因は、身体が直接感じたところから来る。例えば、ラーメンや寿司を食べて喜びを味わったり、胃腸の消化不良で苦しみを感じたりすることなどである。精神的な原因は、人間関係から来る。人間は、常に、他の人から自分が良いように評価されたいという対他存在のあり方をしている。対他存在は、我々の意志に拠らず、我々が意識していないところに存在するから、深層心理である。例えば、他の人から好かれていると感じられると、対他存在が満足し、喜びを感じ、他の人から嫌われていると感じられると、対他存在が傷付き、苦しみを感じる。人間の情緒は、喜び、楽しみ、怒り、悲しみ、苦しみの五つに大別される。ハイデッガーは、人間はふと自分の気分に気付くと述べているが、現在の自分の気分とともに現在の自分の状態にも気付くのである。さて、喜びは、深層心理が、現在の状態に満足し、このままの状態を維持することを、我々に強いるのでいる。例えば、ラーメンを食べていて、おいしく感じると、深層心理は我々に喜びの感情を抱かせ、現在の状態に満足させ、このままの状態を維持することを強いるのである。彼氏(彼女)でデートしていて、彼氏(彼女)に見つめられると、快楽を感じると、深層心理は我々に喜びを抱かせ、現在の状態に満足させ、このままの状態を維持することを強いるのである。次に、楽しみは、深層心理が、未来の状態に期待し、このまま未来の状態を期待し続けることを、我々に強いるのでいる。例えば、夕食に大好きなビフテキ食べることになっていると、深層心理は我々に楽しみを抱かせ、現在の状態に満足させ、このままの状態を維持することを強いるのである。来週の日曜日に、二十年ぶりに幼なじみに会うことになっていると、深層心理は我々に楽しみの感情を抱かせ、現在の状態に満足させ、このままの状態を維持することを強いるのである。次に、怒りは、深層心理が、現在の状態に不満を抱き、一挙にこの状態を変えることを、我々に強いるのである。例えば、自転車がパンクすると、深層心理が我々に怒りの感情を抱かせ、現在の状態に不満を抱かせ、一挙にこの状態を変えようとして、我々に新しい自転車を買うことを強いるのである。友人に侮辱されると、深層心理が我々に怒りの感情を抱かせ、現在の状態に不満を抱かせ、一挙にこの状態を変えようとして、我々にその友人を殴ることを強いるのである。次に、悲しみは、深層心理が、現在の逆境に諦めを抱き、誰かに頼ったり慰めてもらったりすることを、我々に強いるのである。例えば、自家用車がパンクすると、深層心理が我々に悲しみの感情を抱かせ、現在の逆境に諦めを抱かせ、近くのガソリンスタンドに電話して修繕してもらうことを、我々に強いるのである。子供を交通事故で亡くした女性は、深層心理が悲しみの感情を抱かせ、現在の逆境に諦めを抱かせ、母親に電話して慰めてもらうことを、彼女に強いるのである。次に、苦しみは、深層心理が、現在の状態に不満を抱き、この状態を変える方法を考えることを、我々に強いるのである。例えば、風邪を引くと、深層心理が我々に頭痛などの苦しみの感情を抱かせ、現在の状態に不満を抱かせ、この状態を変える方法を考えることを、我々に強いるのである。そこで、我々は、風邪薬や頭痛薬を飲むのである。好きな人に冷たくされると、深層心理が我々に苦しみの感情を抱かせ、現在の状態に不満を抱かせ、この状態を変える方法を考えることを、我々に強いるのである。そこで、我々は、自らの今までの行動を反省し、彼(彼女)に謝罪するのである。このように、深層心理は、我々は情緒を抱かせ、具体的な行動を強いる。しかし、どのような情緒でも、我々は、意志という表層心理でそれを動かすことはできないから、怒り・悲しみ・苦しみのマイナスの気分に陥ったら、自分の趣味などの手段で、それを穏やかにしたり、喜び・楽しみのプラスの気分に転換させることが必要である。

生きがいと自我(自我その66)

2019-03-22 18:58:22 | 思想
自我とは、自分の社会的なポジションである。例えば、山田太郎、山田晴子は、二人だけで会うと、夫、妻であり、家庭では、父、母であり、道を歩けば、両者とも、通行人であり、職場へ行けば、会社員、銀行員であり、コンビニに入れば、両者とも、客である。自我とは、この、夫、妻、父、母、通行人、会社員、客というポジションを、心身共に自らとして引き受けるあり方なのである。そして、その自我が他者から認められるように行動するのである。自我が他者から認められるように行動する、人間のあり方を対他存在と言う。自我が他者から認められたいという気持ち、つまり、対他存在は、自分で意識して意志したものではなく、深層心理から湧き上がってきた欲望である。我々は、対他存在の意のままに動くしか無いのである。ところで、「生きがいが無い。」、「何をやっても、生きがいが感じられない。」などと不満げに言う人がいる。彼らは自我にあぶれ、自己を見つめ直した時に、自己の不在に気付いたのである。しかし、それは当然のことである。元々、我々には、自己や自分は存在せず、自我だけが存在しているからである。我々は、自我を、自己や自分だと思い込んで暮らしているのである。誤った考え方は、自己とは、自分で自分を認めるという考え方である。確かに、空想的には、そういう考え方で、自己を想定できるが、実際には、そういう自己は存在しないのである。生きがいの不在を嘆いている人は、そこには自分や自己がいないと気付き、本来の自分や本来の自分は何かと自問するが、本質的に、人間には、自分や自己は無いから、自答できないのである。自答できるのは、常に、自我だけである。生きがいがいの不在の嘆きは、自我が認められていないことの不満から発せられるのである。さて、「僕は山田太郎です。」、「私は山田晴子と申し上げます。」と自己紹介するのは、会社や学校でことであり、自分を、あるポジションの人間として認めている人がいる場合に限りのことである。だから、正確には、社内での他者や級内の他者からの自我認知の機会なのである。誰にも尋ねられてもいないのに、「僕は山田太郎だ。」、「私は山田晴子だ。」と言う人はいない。また、それは意味の無いことなのである。氏名とは、人を識別する手段に過ぎないからである。若者には無限の可能性があると言っても、小学生に、「将来の夢は何ですか。」と尋ねると、男子ならば、「サッカー選手です。」、「野球選手です。」、女子ならば、「花屋さん。」、「お菓子屋さん。」と答える子が多い。有限の可能性であり、夢では無く、ありきたりの職業であり、現実である。しかし、子供の夢は、周囲のマスコミによる影響が大きく、言わば、大人たちが与えたものなのである。だから、戦時中の少年たちの夢は、陸軍や海軍の将校であったのである。子供たちも、将来、自らの憧れの職業に就き、大人たちに認められることを夢見ているのである。たとえ、将来、憧れの職業に就けなくても、与えられた職業を、自我として、周囲から認められることを願いながら、生きていくのである。それが叶えば、生きがいになるのである。これが生きがいの実態である。それ故に、生きがいが感じられなくなったならば、自己を見つめ直すのでは無く、自我を見つめ直すこと、つまり、自らの社会的なポジションのあり方を反省すべきなのである。

人にはなぜ痛みがあるのか(自我その65)

2019-03-21 20:20:05 | 思想
痛みには、体の痛みという肉体的なものと心の痛みという精神的なものの二種類がある。しかし、両者とも、共通している点がある。それは、異常事態が発生している点である。指に傷を負ったから、指が痛むのである。担任の教師に叱られたから、心が痛むのである。確かに、肉体的な痛みにしろ、精神的な痛みにしろ、苦痛であるから、我々は不快であり、避けたい気持ちになる。しかし、だからこそ、我々は、現在の自分の状態を意識し、痛みの原因を考え、痛みがこれ以上大きくならないように若しくは痛みが去るように対応を考え、現在のような状態に二度と陥らないように自らを戒めるのである。指が痛むから、自分が指を怪我していることを意識し、カットバンを張り、包丁裁きが原因であることを突き止め、今度から包丁扱いを慎重にしようと自らを戒めるのである。心が痛むから、自分が担任の教師に叱られていることを意識し、謝り、成績が悪いことが原因であることを突き止め、今度からまじめに勉強しようと自らを戒めるのである。痛みが無ければ、現在の自分を意識することも無く、肉体的な傷害や精神的な障害があっても、それを傷害だと気付かず、もちろん、その原因を探ることも無く、自らを戒めることも無いだろう。つまり、体に痛みが無ければ、指の傷の手当てもせず、その後も、包丁裁きをぞんざいにするだろう。心に痛みが無ければ、反省せず、その後も、勉強せず、遊びほうけるだろう。このように、痛みとは、誰しも歓迎しないものであるが、快楽と同じように、人間が、本質的に持たされているものなのである。我々は、先天的に、快楽を求めるような方向に向かい、痛みを避けるような方向に進むように、深層心理で方向付けられているのである。我々は、痛みがあると、表層心理が、現在の自分の状態を意識し、深層心理が、痛みの原因を考え、痛みがこれ以上大きくならないように若しくは痛みが去るように対応を考え、現在のような状態に二度と陥らないように自らを戒めるのである。だから、我々の過去の思い出は、痛みのあるものが強く残っているのである。また、我々の社会生活は、表層心理での現在の状態の意識は一致しても、深層心理での原因や対策が不一致はままあることである。それは、表層心理のよる意識は現在の状態を映したものであり、個々の深層心理が原因や対策を考えるからである。例えば、試合に敗北した痛みから、11人のサッカー選手は、試合に負けたという現状に対する意識をもち、それは一致しても、原因を探ったり次の試合に向けての練習方法を考えたりすると、なかなか一致しがたいことはありがちなことなのである。