あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛国心の陥穽。(欲動その13)

2024-04-18 15:29:46 | 思想
現在、世界は国という単位で分断されている。人々は、何れかの国という構造体に所属し、国民という自我で生きている。だから、世界中の人々は、皆、愛国心を持っているのである。世界中の人々が、オリンピックやワールドカップで、自国選手や自国チームを応援し、勝つと喜び、負けると悲しのは。、愛国心の成せる業である。日本人が、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのは、郷土愛の成せる業である。国という構造体に所属し、国民という自我を持っているから、自国選手や自国チームを応援し、都道府県という構造体に所属し、都道府県民という自我を持っているから、郷土チームを応援するのである。しかし、愛国心が戦争を引き起こすのである。オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チーム負けても、高校サッカーや高校野球で郷土チームが負けても、次回や次年度の大会が待っている。しかし、戦争で亡くなった人は生き返らないのである。「靖国神社で戦死者を祀らなければ誰も戦争に行かない。だから、靖国神社が大切なのだ。」と靖国神社の必要性を訴える必要性を訴える人がいる。しかし、靖国神社に祀っても、戦死者は帰らないのである。それは、敵国においても同じである。戦場では殺すか殺されるかの瀬戸際に立たされ、敵国の人間という理由だけで殺すしかないのである。だから、戦争を起こさないことが必須条件なのである。それでも、戦争が起こるのはなぜか。前線に立たない政治権力者が国の政治を司っているからである。政治権力者の支配欲が戦争を引き起こすのである。政治権力者という自我を持った者の愛国心による支配欲によって戦争が引き起こされ、国民という自我を持った者たちは愛国心によって政治権力者のその判断をやむなしと考えるから、戦場に駆り出され、殺し合いをするのである。国民は愛国心があるからこそ、政治権力者の判断をやむなしと考え、戦争を支持するのである。しかし、人間は人を簡単には殺せない。戦場で、殺さなければ殺されるという状況に追い詰められて、敵国の人間だから殺しても構わないのだと自らに言い訳して引き金を引くのである。殺すか殺されるかの瀬戸際に立たされた者の悲劇・惨劇である。戦争が起これば容易に引き返すことはできないのである。戦争が起こる前にそれを食い止めなければならないのである。戦争を起こす政治家を最高権力者にしてはならないのである。そして、自らの愛国心におぼれてはならないのである。しかし、一般に、愛国心は、純粋に国を愛する気持ちとして崇敬されている。そして、日本では、、愛国心の薄いと思われる人を、反日、売国奴などと呼んで非難するのである。しかし、愛国心を国を愛する気持ちと解釈は表面的である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。愛国心は、国民という自我から発動された欲望、すなわち、自我の欲望なのである。愛国心に限らず、人間は、自我の欲望を満たすことを目的として生きているのである。なぜならば、自我の欲望を満たせば快楽が得られるからである。人間は、自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、残虐な行為を行うのである。愛国心という自我の欲望が満たされないから、その不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。プーチンは、ロシアという構造体の大統領という自我がウクライナという構造体のゼレンスキー大統領に汚されたと思ったから、ロシアという構造体に所属する兵士という自我を使って、ウクライナという構造体を攻めさせ、そこに所属する国民を殺させ、ゼレンスキー大統領を屈服させようとしたのである。だから、国という構造体存在する限り、大統領、国民という自我、愛国心という自我愛が存在するので、大統領という政治権力者に、戦争を起こす権限がある限り、ロシア、ウクライナから戦争がなくなることは無いのである。
しかし、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領に限らず、政治権力者は、往々にして、支配欲から来る自我の欲望を満たすために、戦争を行おうとするのである。すなわち、ほとんどの政治権力者は悪党なのである。悪党とは自我の欲望を満たすためには他者の犠牲を厭わない者のことを言うのである。政治権力者としての支配欲から来る自我の欲望を満たすために国民の命を犠牲にして戦争を行う者は悪党以外の何者でもないのである。もちろん、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も悪党である。悪党のプーチン大統領を支持して戦場に立つロシア国民も悪党のゼレンスキー大統領の支持して戦場に立つクライナ国民も愛国心を理由に戦争をやむを得ないと思っているのはあまりにも愚かである。前線で死ぬのは国民であり、政治権力者は背後でひたすら命令するだけなのである。プーチン大統領は、ウクライナ国内の親露派の地域と人々を守るためと言って、ウクライナに兵を侵攻させ、自らはロシア国内にとどまっている。ゼレンスキー大統領は、ウクライナの独立を守るためだと言って、全国民に武器を持って戦うように呼びかけ、自らは前線に立つことはない。これまでに、ロシア兵は20万人以上、ウクライナ兵・ウクライナ国民は10慢人以上亡くなっている。現在も、戦争が継続しているのは、多くのロシア国民と多くのウクライナ国民が愛国心を理由に戦争を支持しているからである。日本を含めて、各国の政治権力者が、プーチン大統領の行為を野蛮だとして批判している。確かに、プーチンは悪党である。しかし、ゼレンスキーも悪党である。両とも、支配欲という自我の欲望を満たすために戦争を行っているからである。しかし、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領に限らず、政治権力者は、支配欲という自我の欲望を満たすために、戦争を行おうとするのである。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、他者の強い批判にあうと、わがままを通せず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。人間は、生まれつき、わがままに生きたいのである。それがかなえば快楽を得るからである。だから、人間は、他者に批判されなければ、わがままに生きようとするのである。わがままに生きるとは、自我の欲望のままに、行動することである。他者に合わせて生きるとは、他者に批判されないように、他者の目を気にして行動することである。つまり、人間は、本質的に、自我の欲望のままに、自分の思い通りに行動したいのだが、他者の批判が気になるから、他者に合わせて行動するのである。しかし、政治家は、自我の欲望に従って、わがままに生きられると思っているのである。特に、政治家の頂点である大統領や首相は、権力を発揮すれば、国民を思い通りに、自我の欲望のままに支配することができると思い込んでいるのである。だから、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、政治権力者としての支配欲という自我の欲望を満たすために国民の命を犠牲にして戦争を行っているのである。政治権力者の自我の欲望の主体は支配欲だから、それを放置すれば、いともたやすく戦争を起こし、いともたやすく国民に殺人を行わせ、かつ、死に追いやるのである。国民が止めなければ、政治権力者の支配欲という自我の欲望は、果てしなく広がるのである。しかし、多くのロシア国民と多くのウクライナ国民は、いまだに、愛国心を理由に戦争を支持しているかやむを得ないものとして諦めている。だから、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、迷い無く、自我の欲望を満たすために戦争を継続するのである。ニーチェに「権力への意志」という思想がある。その意志とは、他者からの好評価・高評価を糧にしていっそう強く生きようという人間に備わっている意志である。それは、他者の視線を自らのものとして、他者に自らの存在を見せつけようという意志である。そこには、現状に留まり、反省しようという意志は存在しない。永遠に現在を乗り越えようとする。そこには、「政治権力者は英雄的行動を繰り返して権力の向上を続けている間、大衆は力強い権力者に憧れ続ける」と考えが基礎にある。だから国民が、が愛国心に支配され、政治権力者を崇拝すれば、政治権力者はいっそう増長し、自省することはないのである。ニーチェは「大衆は馬鹿だ」とも言ったが、まさにその通りである。国民は、全ての政治家は国民に支持されて権力を握ると、もしくは、全ての政治家は権力を握った後に国民に支持されると、必ず、堕落することに気が付いていないのである。なぜならば、人間を知らないからである。だから、英雄を待望するのである。のである。しかし、人間には、誰しも、支配欲があり、政治権力を握り、国民が期待すると、自分は何をやっても許されると思い、支配欲を発揮して、自我の欲望のままに行動しようと思うのである。国民が、それを批判しない限り、政治権力者は、自我の欲望のままに、わがままな行動をするのである。国民が、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領を支持するから、彼らは国民の命を犠牲にしてまで戦争をするのである。




コメントを投稿