あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

私のような存在(自我その73)

2019-03-30 22:07:02 | 思想
私という存在は何か。それは、日常生活において、私とは何だろうか、私とは誰であろうかという疑問の形で浮かび上がってくるという問いである。誰しも、一度は、このような疑問に突き当たるはずである。そして、明確な答えが得られぬままに、忘れ去られるのである。そして、時期を置いて、また、このような問いに突き当たるのである。このような問いが浮かび上がるのは、決まって、仕事、勉強、人間関係がうまく行かなかった時である。そのような時、不安に陥り、確固たる自分の存在を確認したいのである。他者には無い、これが自分だと言えるものを確信したいのである。さて、果たして、私とは何だろうか。ある人は、大川株式会社の営業部長などと会社名と地位を答えるだろう。しかし、その地位は、その人独自のものではなく、早晩、他の人が交代して入ってくるだろう。ある人は、大川高校の二年生などと学校名と学年を答えるだろう。しかし、その学校のその学年の生徒は百人以上存在するから、その人独自のものではない上に、再来年の三月にはその高校を去り、それを失うことになる。ある人は、山田一朗太などと固有名詞を答えるだろう。確かに、山田一朗太などという固有名詞の人は稀れにしか存在しないだろう。しかし、それは、山田家に生まれ、一朗太と命名されたということであり、形式的にその人を指すだけで、内容的には固有名詞だけでは無である。ある人は、自分の顔と答えるだろう。しかし、それは識別の手段にしか過ぎず、美男・美女にしても、遺伝による偶然に過ぎず、自分の業績ではない。美男・美女も、異論を唱える人が必ず存在し、絶対的な評価ではない。ある人は、自分の考え方と答えるだろう。しかし。それは深層心理が生み出したものであり、本人の意志や努力による業績ではない。ある人たちは、自分が創作した小説・曲・彫刻・絵画と答えるだろう。しかし、それは、一部の人に評価され、一時代のものであり、この世に必要不可欠な作品は一作もない。さて、これまで、述べてきた、会社名と地位、学校名と学年、固有名詞、顔、創作物は、まだ、日常生活において、身近に存在するが、遠くに存在しているのに、自分のことのように感じる現象がある。それは、わがこと、わがものの現象である。わがこととは、我が事と記され、他人の成した業績なのに、自分が成したことのように思うのである。例えば、羽生結弦選手が平昌冬季オリンピックのフィギュアスケートで優勝すると、日本中が沸き返った。それは、羽生選手が日本人だったからである。日本人という自我が、羽生選手の優勝を自分のことのように喜ばせたのである。わがものとは、我が物と記され、自分の所有物を強調した言い方である。そこには、自分の所有している物の偉大さによって、自分の偉大さを他者に誇示しようという狙いがある。国会議員に傲慢な人が多いのは、自分たちが日本を支配していると思い込んでいるからである。国会議員という自我が、日本を所有しているように勘違いさせるのである。このように、会社名と地位、学校名と学年、固有名詞、顔、創作物、日本人、国会議員と例示してきたが、いずれも、私という存在を表していない、私のような存在を示しているのである。もしも、私という存在を真に表したいのならば、自分の深層心理から湧き上がってくる欲望をそのまま実行することである。しかし、それは、他者からわがままだと指弾されるだろう。また、自分の深層心理から湧き上がってくる欲望をそのまま実行すれば、恐ろしいことになる。なぜならば、深層心理から湧き上がってくる欲望には、愛する人を守りたい、尽くしたいなどの欲望ばかりでなく、憎い人を殴りたい、殺したいなどの欲望があるからである。だから、我々は、私のような存在を私の存在として行動するしか無いのである。もともと、本当の存在など無く、仮の存在しか無いのである。それゆえに、それを自覚していないと、仕事、勉強、人間関係がうまく行かなかった時、私とは何だろうか、私とは誰であろうかと自問して、納得できる答えを得られるはずはなく、何度も、自問することになるのである。つまり、私のような存在・仮の存在を生きていくしかないこと自覚して、何事も、肩肘張らず、思い詰めず、処していくことが大切なのである。

コメントを投稿