あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

なぜ右翼は自民党を批判しないのか。(提言その7)

2022-07-23 14:08:01 | 思想
右翼とは、国粋主義者、民族主義者、国家主義者、全体主義者を意味する。国粋主義者とは、自国の政治や伝統的な要素はどの国よりも優れていると考え、それだけを守り広めようする人々である。民族主義者とは、他の民族の干渉や支配を排し、自国の民族の統一・独立・発展をめざそうとする人々である。国家主義者とは、自国を至上の存在と見なし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重しようとする人々である。全体主義者とは、個人は国家・社会・民族などを構成する部分であるとし、個人の自由や権利より国家全体の利益を優先しようとする人々である。ネット右翼や街頭でヘイトスピーチをする右翼も、国粋主義者、民族主義者、国家主義者、全体主義者のいずれかに属している。右翼に共通しているのは、日本の国益だけを考えるということである。だから、彼らは、日本の国益に反する考えをしていると思われる人や行動をしている人を、「反日」という言葉で批判してきた。しかし、右翼は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)や世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の活動に便宜を図ってきた自民党を批判しないのである。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の日本支部は、日本人の信者に法外な寄進をさせ、そのお金を韓国の本部に送り、日本の多くの家庭を壊してきた。安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也の家庭もそうであった。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、「合同結婚式」で、教祖が日本人信者の結婚相手を決めている。生まれてきた子供の多くは生まれ育った環境に葛藤を抱き、精神障害を患う者も珍しくない。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)こそ、典型的な「反日」組織である。しかし、右翼は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を批判しないのである。さらに、右翼は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)とずぶずぶの関係であり、その活動に便宜を図ってきた自民党も批判しないのである。自民党は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に警察のメスが入るのを防いだ。自民党と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の右翼的な政治思想は一致し、自民党議員は、選挙の度に世話になり、寄付金を得ているからである。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、選挙の度に、無報酬で、信徒を、多くの自民党議員のために働かせている。自民党は、犯罪組織として悪名が高かった世界基督教神霊統一教会(略称統一教会)から世界平和統一家庭連合への名義変更を許した。下村博文は、文部大臣の時に、18年間名称変更が許されなかったのに、それを許したた。下村博文は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)にパーティー券を購入してもらっている。名義変更したのは、それによって、以前とは別の思想を抱き、以前とは異なる活動をしているように思わせるためである。しかし、世界平和統一家庭連合も、世界基督教神霊統一教会連合と同じ思想を抱き、不正な活動をしているのである。だから、山上徹也は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の総裁である韓鶴子に復讐しようと考えたが、警護が厳重だったので果たせず、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の旗振り役であった安倍晋三元首相に銃口を向けたのである。安倍晋三元首相は、昨年(2021年)9月、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体である宇宙平和連合(UPF)に、「平和ビジョンにおいて、家庭の価値を強調する点を高く評価します」という応援メッセージを送っている。また、自民党の派閥トップは、今年(2022年)の7月の参院選において、旧統一教会の組織票を振り分けた。船田中は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体である宇宙平和連合(UPF)に、祝電メッセージを送っている。「見返りとして、井上義行は、旧統一教会の会員「本人は賛同員と答えている)となり、大幅に票を伸ばした。稲田朋美は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体である「世界女性連合」の集い、「世界平和連合」の春のつどいに参加している。これらは、氷山の一角である。野党議員の一部も関わっているが、自民党議員ほどずぶずぶでは無い。それでも、右翼は自民党を批判しないのである。なぜ右翼は自民党を批判しないのか。それは、心情的に、自民党議員と同じ構造体を形成しているからである。実質的に、自民党員なのである。日本の国益に反する行動をしている世界平和統一家庭連合(旧統一教会)とずぶずぶの関係にある自民党を批判しない右翼は右翼ではない。日本に、右翼はいない。





なぜ右翼は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を批判しないのか。(提言その6)

2022-07-20 13:10:02 | 思想
右翼は、何かにつけて、「反日」というレッテルを貼って、自分たちの気にくわない日本人を批判してきた。「反日」とは、日本の国益に反する者という意味である。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、信者に法外な寄進をさせ、そのお金を韓国の本部に送り、日本人の多くの家庭を壊してきた。安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也の家庭もそうであった。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、「合同結婚式」で、教祖が結婚相手を決めている。生まれてきた子供の多くは生まれ育った環境に葛藤を抱き、精神障害を患う者も珍しくない。どうして世界平和統一家庭連合と名のることができるのか。日本家庭破壊連合ではないのか。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)こそ、典型的な「反日」組織である。なぜ右翼は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を批判しないのか。






安倍晋三元首相の暗殺について思う。(提言その5)

2022-07-12 12:47:00 | 思想
7月8日、安倍晋三元首相は、奈良市での街頭演説中に、山上徹也に銃撃され、死亡した。彼は、奈良県警の取り調べに対して、「特定の宗教団体に恨みがあり、当初は、その幹部を襲撃しようと考えていた。安倍晋三元首相とその団体が深く繋がっていると思い込んで、犯行に及んだ。政治信条に対する恨みではない。」と供述しているという。マスコミは最初はその宗教団体名を報じていなかったが、安倍元首相が深く関わり、山上容疑者の母親が信者となり多額の寄付金を強要され、一家が破産したことから、統一教会だと思われる。統一教会は、安い壺を高く売りつける霊感商法、集団見合いのような形で教会の代表者が結婚相手を決める合同結婚で知られているが、共産主義反対、夫婦別姓反対、同性婚反対、外国人参政権反対、専守防衛・非核三原則・武器輸出三原則の破棄を提唱している。まさしく、安倍晋三元首相と同じ考えである。安倍晋三元首相は、集団結婚を兼ねた統一教会に祝電を送ったこともある。それにしても、安倍晋三元首相の最期はあっけなかった。なぜならば、首相在任期間が歴代最長であり、退陣から1年10ヶ月経った現在も、党内最大派閥を率い、タカ派としての発言力は衰えていず、岸田文雄首相も助言を求めざるを得なかったからである。私は、生前、一貫として、安倍晋三首相に批判的であった。しかし、暗殺には反対である。人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて行動するようにできているから、誰しも罪を犯す可能性があるからである。だから、私は死刑廃止論者でもある。さて、安部晋三元首相は暴君であった。しかし、暴君と言っても、ヒットラーのような政権担当能力があったわけではない。安部晋三には政治的な才能は無い。それは、コロナウィルス騒動でのおたおたぶり、判断力の無さ、決断力の無さでも、十分に窺うことができる。しかし、首相としての才能が無くても、国民に見抜かなければ、思う存分、悪行を重ねることができるのである。暴君としての能力が発揮できるのである。安部晋三首相の悪行は数知れない。結果的には失敗したが、検察庁法改正案を強行採決し、安倍政権寄りの東京高検検事長の黒川弘務を、検査庁トップの検事長に就任させる道を開こうとした。イスラエルでは、イスラエル寄りの演説をし、イスラム国に、囚われていた後藤健二さんを殺させた。アメリカ軍の普天間基地を、沖縄県民の意向を無視して、普天間に移設しようと現在も工事を続けている。森友学園、加計学園、桜を見る会で、自らの知人、自らを崇拝している人、自らを支えてくれる人たちに、国税、国土を私物化し、便宜を図った。そのために、近畿財務局の赤木敏夫さんは、森友学園との土地取引をめぐって、麻生財務大臣、財務省の理財局長に、財務省の公文書の改竄を命じられ、反対したのに、加担させられ、それを苦にして自殺している。さらに、安倍晋三は、国会の短期間の審議で、強行採決をして、国家安全保障会議、集団的自衛権、特定秘密保護法を通し、内閣総理大臣の判断だけで、いつでも、アメリカに追随して、日本を、戦争ができる国にしたのである。韓国経済に打撃を与えようとして、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのである。しかし、安部晋三がこれだけの悪行を重ねつつも、政権を担っていられたのは、読売新聞、産経新聞、フジテレビ、日本テレビ、週刊新潮などの週刊誌、ネット右翼、官僚のおかげである。前民主党政権の野田佳彦、菅直人内閣は、官僚の軍門に降り、原発存続、消費税増税などを決め、自民党政権と同じことをするしかなかった。官僚の軍門に降らない鳩山由紀夫は、読売新聞、産経新聞記者に言い含められ、官僚に裏切られ、沖縄のアメリカ軍基地を県外に移転できず、政権を投げ出さざるを得なくなった。そのすぐ後、国会議員の活動も終えた。さらに、官僚たちは、公務員改革を行おうとしていた小沢一郎を、黒川弘務を中心とした検察庁によって、陸山会事件を捏造され、起訴した。後に、無罪となったが、政治に影響力を行使することはできなくなった。さらに、官僚たちは、書類を改竄して、安部晋三の悪行の証拠を消してきた。読売新聞、産経新聞、フジテレビ、日本テレビ、週刊新潮などの週刊誌は、「政権担当能力は自民党にしかない。」、「決められない政治から決められる政治へ。」、「短期の政権交代は、実行力に乏しいだけでなく、海外に向けても恥ずかしい。」などと繰り返し言い、国民にその意識を植え付けた。ネット右翼は、連日連夜、YouTubeを使い、野党議員のスキャンダルを捏造し、中国、韓国、北朝鮮そしてその国民を中傷し、安部晋三政権を援護射撃してきた。つまり、読売新聞、産経新聞、フジテレビ、日本テレビ、週刊新潮などの週刊誌、ネット右翼が国民を洗脳した上に、官僚が共犯者になっているから、世論調査での、安部晋三内閣の支持率が高く、安部晋三は、思う存分、悪行を重ねることができたのである。さて、安倍晋三は、日本の首相として、自我の欲望のままに行動しているのだが、その行動のしかたは、こどもの自我の欲望のままに行動するしかたと同じである。「子供は正直である。」と言われる。この言葉の意味は、大人は嘘をつくことがあるので言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるというものである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」ということの真意は、子供は自分の欲望に正直に行動するということなのである。子供は自分の欲望に正直であるからこそ、些細なことでも喧嘩するのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の欲望を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まり、喧嘩が絶えないのである。そこで、大人の仲裁が必要になってくるのである。諸悪の原因は、子供が自らの欲望に忠実であることである。だから、子供の欲望を止めるのためには、欲望を実行しないように大人が諫めることである。子供をしつけるとは、大人が子供を監視し、批判し、大人の観点から見て正しいと思う行動をするように仕向けることなのである。大人の監視や批判が緩んだ時、子供の欲望のままの暴走が始まり、反社会的な行動を取りさえするようになるのである。安部晋三も子供のように自我の欲望に忠実であった。それが可能だったのは、国民の監視や批判が緩かったからである。国民の監視や批判が緩んだ証拠は、世論調査での、内閣支持率、自民党支持率の高さに現れた。内閣支持率、自民党支持率が高いから、安部晋三は自我の欲望に忠実に行動できたのである。その暴走、その社会的な行動は目に余るものがあったが、誰も止めることはできなかった。しかし、安部晋三元首相は異常な人間ではない。もちろん、偉大な人間でもない。人間とはこういうものなのである。人間は、深層心理によって動かされている動物だからである。深層心理が、自我を主体に立てて、ある気分の下で、欲動によって快感原則に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは、一般に、無意識と言われている。しかし、無意識と言っても、単に意識されていないというだけで、人間は無意識のうちに思考しているのである。それが深層心理の思考である。しかし、多くの人は、思考とは意識しての思考であると思い込んでいる。確かに、人間には、自らを意識して思考することがある。それが表層心理での思考である。しかし、人間の思考は、深層心理の思考から始まるのである。そして、時おり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識して、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を実行するか拒否するかを審議することがあるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した怒りなどの感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。しかも、人間は、表層心理で意識することなく、深層心理の結果のままに行動することが多いのである。これが無意識の行動である。フランスの心理学者のラカンも「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに思考するが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。つまり、人間は、構造体の中で、まず、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、ある気分の下で、欲動によって快感原則に基づいて言葉を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動しているのである。安部晋三は、日本という構造体で、総理大臣という自我を持って行動していたのである。次に、気分についてであるが、深層心理は、常に、ある気分の下にある。気分は、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が自我を主体に立ててある気分の下で快感原則に基づいて欲動によって言葉を使って論理的に思考して自我の欲望を生み出す時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表情に、その時の気分や感情が表れる。だから、安部晋三が記者会見をしている時、その表情から、その時の気分や感情を窺い知ることができる。記者に追及されるのが苦手な様子がありありと窺われる。それは、心にやましさを持っているからである。さて、人間には、深層心理の思考のほかに、表層心理で思考という自らを意識しての思考がある。表層心理での思考の結果が意志である。しかし、人間は、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。それは、気分は深層心理を覆っていて、感情は深層心理によって生み出されるからである。気分は深層心理の中で変わり、感情は深層心理によって行動の指令とともにに生み出されるのである。しかも、人間は、他者に面した時や他者を意識した時や一人でいてふとした時などに、自らを意識し、何かをしている自分や何もしていない自分の状態に気付くのであるが、その時は、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くるのである。しかし、自分が今行っている行為や行動は他者が代替できるが、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、他者が代替できない、自分の存在なのである。また、人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚しつつ、行為や行動を行ったり、何もしていない状態にあったりする。つまり、気分や感情が、自分が行っている行為や行動や何もしていない状態の価値判断になっているのである。次に、欲動についてあるが、深層心理は、欲動という志向性(観点・視点)に基づいて、論理的に思考している。欲動という志向性は四つの欲望によって成り立っている。それは、第一の欲望として自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化である。安部晋三は、悪行を重ねつつも、策略を駆使して、自民党議員、公明党議員、官僚を動かし、読売新聞、産経新聞、フジテレビ、日本テレビなどのマスコミを使って、首相の座を守ったのである。官僚は、安部晋三首相に加担して、嘘の国会証言や公文書を改竄したのは、エリーという自我を守りたいためである。第二の欲望として自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化である。安部晋三は、悪行を重ねつつも、策略を駆使して、自民党議員、公明党議員、官僚を動かし、読売新聞、産経新聞、フジテレビ、日本テレビなどのマスコミを使って、首相の座を守ったのは、首相として、国民から尊敬を受けたいからである。第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象の支配したいという欲望がある。対象の対自化である。国会議員が総理大臣になりたいのは、日本という国を支配したいためである。第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我と他者の共感化である。安部晋三が、森友学園、加計学園、桜を見る会で、自らの知人、自らを崇拝している人、自らを支えてくれたたちに、国税、国土を私物化し、便宜を図ったのは、彼らと共感化し、快楽を得たいがためである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、フロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。もちろん、人間は、快感原則に基づいて行動すれば、他者から顰蹙を買うどころか、犯罪者になる可能性が十分いある。だから、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について思考する必要があるのである。しかし、安部晋三は、世論調査での内閣支持率、自民党支持率が高いから、他者の思惑を考慮することなく、快感原則に基づいて、行動できたのである。そうして、悪行を重ねたのである。さて、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、自ら意識して、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について思考する。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。現実原則とは、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。人間の表層心理での思考は、自我に利益をもたらそうという長期的な展望に立って行っているので、深層心理の瞬間的に快楽を求める思考とは著しい対照を成している。しかし、人間の表層心理での自ら意識しての思考は、常に、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について許諾するか拒否するかを決めるために行うのである。人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で思考することはできないのである。もちろん、世論調査での支持率の高いので、安部晋三首相は、深層心理が生み出した欲望のままに行動することが多く、表層心理で思考して、意志によって抑圧することはごく稀れだったのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動であるが、安部晋三首相の理性も意志も極めて弱かったと言わざるを得ないのである。すなわち、思考力が乏しかったのである。さて、人間は、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、不安などの過小な感情と過小な行動の指令もしくは怒りなどの過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、意識して思考して、深層心理が生み出した行動の指令を拒否して、行動の指令を抑圧することを決め、実際に、行動の指令のままに行動しなかった場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した不安などの過小な感情もしくは怒りなどの過激な感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した不安などの過小な感情もしくは怒りなどの過激な感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。特に、怒りなどの過激な感情が強い時は注意しなければいけない。その感情によってもたらされた行動が、感情的な行動であり、他者に惨劇をもたらし、自我に悲劇をもたらすことが多いのである。犯罪はほとんどがこれが原因である。だから、誰でも犯罪者になる可能性があるが、特に、深層心理が敏感で、深層心理が生み出す感情の強い人は、その傾向が強いのである。ところで、安部晋三首相は、新型コロナウィルス感染症が日本に蔓延し始め、総理大臣という日常生活において、異常な出来事に出会った時、深層心理は、どのような反応を示したのだろうか。安部晋三の深層心理は、不安という過小な感情と傍観という過小な行動の指令という自我の欲望を生み出したと考えられる。それは、おたおたぶり、判断力の無さ、決断力の無さから、窺うことができる。深層心理が、不安という過小な感情と傍観という過小な行動の指令という自我の欲望を生み出したから、新型コロナウィルス感染症に対する対策が考えられなかったのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するからである。深層心理が生み出した感情が不安という過小な感情であり、深層心理が生み出した行動の指令が傍観という過小な行動の指令であるから、表層心理で有効な対策が出すことができず、安倍首相は、おたおたし、判断できず、決断できないのである。安部晋三は、本来、総理大臣の器の人ではないのである。しかし、世論調査での、内閣支持率、自民党支持率が高いから、安部晋三は自分の欲望に忠実に行動できたのである。その暴走、その反社会的な行動は目に余るものであったが、誰も止めることができなかったのである。安部晋三が首相の時代は、ニーチェの「大衆は馬鹿だ」という声が大きく聞こえてきた時代であった。そして、現在も、それが続いているのである。






人間は、自分として存在できないのに、どうして自分に執着するのか。(自我再論3)

2022-07-03 15:06:46 | 思想
人間には、自分という自らが生み出したあり方・生き方は存在しない。人間は、常に、自我として生きているのである。自我を離れて生きることはできないのである。自我は構造体の中で生まれてくる。人間は、構造体を離れても生きることはできない。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って、生きているのである。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では日本国民という自我を持ち、家族という構造体では夫という自我を持ち、会社という構造体では人事課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って行動しているのである。だから、息子や娘が母、父だと思っている人は、家族という構造体では母、父という自我を所有しているが、他の構造体では、日本国民、妻、夫、教諭、人事課長客、乗客、妻などの自我を所有して行動しているのである。しかし、息子や娘は母、父という一つの自我しか知ることができないのである。人間は、その構造体における他者の自我しか理解できないのである。他者の一つの自我しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。しかし、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、その時、所属している構造体に応じて、自我を答えるしかないが、他の構造体では、異なった自我を所有しているのである。人間は、誰しも、異なった構造体に所属し異なった自我を所有し、各構造体は独立していているから、その人の一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属して、ある一つの自我として生きていて、他の構造体では、他の自我を有しているから、自分というあり方は固定していないのである。しかし、ほとんどの人は、自らは自分として固定して存在しているように思っているのである。しかし、自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。それは、他者もその人の自我として存在し、他人もその人の自我として存在していることを意味するのである。だから、人間関係は自我の絡み合いの中で行われ、誰も、自分として動いていないのである。なぜ、そうなのか、それは、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、親を選んでいないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。しかし、親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。生まれてきた子の父、母を自我として生きるしか無いのである。また、人間は、誰しも、生まれてくる時代も選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その時代に存在しているのである。だから、現代日本人は、誰しも、藩という構造体に所属できず、武士という自我を持つことはできないのである。さらに、人間は、誰しも、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持っているのである。だから、パスカルが、『パンセ』で、「私の人生の短い時間が、その前と後ろに続く永遠のうちに、『一日だけで通り過ぎてゆく客の思い出』のように飲み込まれ、私の占めている小さな空間、さらに、私の眺めているこの小さな空間が、私の知らない、また私を知らない無限のうちに沈んでゆくのを考える時、私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由がないからである。誰が私をここに置いたのだろうか。誰の命令と指図によって、この場所とこの時が私のために当てがわれたのか。」と述べているように、人間は、誰しも、自らが存在していることの不安を覚える時があるのである。そこで、その不安を打ち消すために、ますます、人間は構造体と自我に執着するのである。しかし、構造体は他者が創造したものであり、自我は他者から与えられたものであるから、構造体が消滅し、自我が奪われる不安は拭えないのである。一生、その不安が付きまとうのである。人間は、偶然に生まれてきているから、一生、自我が奪われる不安が付きまとうのである。だから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、苦痛を覚える時もあるのである。そして、その苦痛を解消するために、国民がこぞってそのことだけを思考し、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。