あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

エディプスコンプレックスと自我のめざめ(自我の世界(その10))

2015-12-28 16:10:18 | 思想
エディプスコンプレックスは、フロイトの用語である。それは、「男の幼児が無意識のうちに母親に愛着を持ち、自分と同性である父に敵意を抱くことで発生する複雑な感情。」(広辞苑)である。しかし、「これは社会的に容認されないため、意識にとどめることができずに無意識内に抑圧される。」(百科事典マイペディア)ことになる。そして、その後、「主体は父の欲望を模倣することになり、その結果、彼の欲望は規範化される。また、欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すことにより、主体は自ら父親になると同時に、交換という社会的システムの中に導入されることになる。」(岩波哲学用語事典)のである。この場合、主体とは、男の幼児を意味し、社会的システムとは、ラカンの言う、大文字の他者を意味する。つまり、エディプスコンプレックスとは、わかりやすく言うと、次のようになる。男児は、母親に異性感情を抱くが、社会的にそれが許されないために、自分の気持ちを抑える。そして、自分は男であるから、いつか、父親のような存在になることができ、母親のような女性をめとることができるという意識を持つことによって、それを納得する。そして、母親とは別な女性に愛情を抱くようになる。このようにして、男の幼児の欲望は変化して、社会的なシステムに組み込まれていくのである。さらに、男の幼児の欲望が変化しないと、「一種のしこりないし屈折となり、後に、神経症に罹患する可能性がある」(ブリタニカ国際大百科事典)ともフロイトは言う。なぜ、そうなるのか。言うまでもなく、男の幼児の欲望は社会的に容認されることは無いから、その欲望を持ち続けた男性は、自分の気持ちと社会的システムの板挟みになり、その苦悩のあまり、神経症に罹患するのである。ところで、エディプスコンプレックスは、多くの人に知れ渡っているが、一般に、男児の母親に対する報われない恋愛感情として理解され、成長とともに消滅されるものとされている。そこにおける、精神の葛藤、自己正当化、そして、その後の生き方に及ぼす影響が深く考慮されることはあまりない。幼児期の一心理状態のように扱われている。しかし、ここには、人間の心理のあり方を解く大きな鍵が隠されている。男児が母親を恋い慕っても、父親からも、社会的にも、禁止されることはない。まだ、男児は動物として扱われ、禁止されることはない。男児が母親に恋愛感情を持ったから、父親からも、社会的にも、禁止されたのである。しかし、禁止されたといっても、それは、直接に、父親や周囲の人に注意されたり叱られたりしたということだけを意味しない。自分で、自分の母親に対する感情は父親にも周囲の人にも認められないことだと気づいた時にも、禁止の意味は存在する。その感情は恋愛感情だから、禁止に値すると自分で思ったのである。むしろ、後者の場合がほとんどだろう。なぜ、禁止に値するのか。それは、自分が母親の子供だからである。それ以外の理由はない。自分が母親の子供だから、父親も周囲の人からも、母親に対する恋愛感情に反対されるはずだと気づくのである。それは、母親に対する恋愛感情のめざめと同時に、男児のその家の中でのステータス(自分の位置)の発見、めざめなのである。

愛という名の自己犠牲と罪(自我の世界(その9))

2015-12-23 18:54:04 | 思想
人間は、愛なくしては生きていけない。愛こそが、人間を動かす原動力である。しかし、だからと言って、「世界の中心で愛を叫ぶ」などのように恋愛を賛歌しているのではない。もちろん、恋愛は典型的な人間を動かす原動力である。男女を問わず、恋愛に陥った人が、「あなたのためなら何でもできる。」と言うのは、決して、嘘ではない。実際にそのように思っている。ドイツの詩人ヘルダーリンは、夫のある女性を愛し、その苦悩のために32歳の時に精神に異常をきたし、亡くなる73歳まで精神的薄明のままであった。それほどまで、恋愛感情は、人間の心を動かすのである。ストーカーも、また、恋愛感情に動かされている。マスコミは、ストーカーを、精神異常者のように扱っているが、ストーカーは決して精神異常者ではない。失恋した人は、誰でも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言えるはずがない。失恋を認めること、相手の愛が消滅したこと・恋愛関係が消滅したことを認めることはあまりに苦しい。恋愛に執着し、相手に執着する心がまだ残ひてっている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。失恋した心を癒すには、ずたずたにされたプライドを癒すには、相手を忘れること、相手を恋愛対象者としてみなさないようにするしかない。そこで、一つの方法として、相手を元カレ、元カノとして友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させる方法がある。この方法では、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛みをこうむらないのである。もう一つの方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なすことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。しかし、相手に別れを告げられても、相手に全然恋愛感情がなくなっても、初めから相手に全然恋愛感情がなくても、相手を忘れること、相手を恋愛対象者としてみなさないようにできない者たちがいる。それがストーカーと呼ばれる人たちである。彼らは、相手を忘れる方法が見つからなかったか、相手を忘れる方法を使っても相手を忘れられなかったか、あまりに苦しくて失恋を認めることができなかったかのいずれかに属する人たちである。だから、彼らは相手から離れられず、いつまでも付きまとってしまう。中には、相手が自分の気持ちを受け入れてくれないのであまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようと、相手を殺す人までいるのである。確かに、言うまでもなく、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、悲しいことに、ストーカーも、また、恋愛感情、愛という名の被害者なのである。人間とは、そういう存在なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋愛対象者としてみなさないようにできたから、ストーカーにならないだけなのである。愛は、恋愛だけに伴っているのではなく、そのほかに、母性愛、愛国心などがあり、友情も愛の一種である。人間関係があるところ、そこには、必ず、愛が存在するのである。愛について、仏教の解説がその本質をついている。広辞苑では、「愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。十二因縁では第8支にいちづけられ、迷いの根源として否定的にみられる。」と記されている。なぜ、仏教で、愛が否定されているのか。それは、愛に囚われた人間は冷静な判断ができなくなるからだ。母親は、我が家が火事になると、その中に飛び込んでも、我が子を助けようとする。しかし、わが子が他の子をいじめていても、それを咎められると、いじめられている子にその原因を求めようとする。母性愛の為せる業である。「日本のためなら命を惜しまない。」という人がいる。しかし、明治時代以来、日本が中国や朝鮮を侵略したことを咎められると、中国人や朝鮮人のせいにする。愛国心の為せる業である。仲間を大切にしている人がいる。しかし、その仲間が誰かをいじめていると、自分はその子に恨みはなくても、いじめに加担してしまう。友情の為せる業である。このように言うと、ほとんどの人は、そんなのは本当の母性愛、愛国心、友情ではないと言うだろう。確かに、その指摘は正しい。第三者の立場で判断している。しかし、自分が母親になったら、自分が日本に所属したら、自分が仲間を持ったら、そのような第三者の立場で物事を判断できる人は何人存在するだろうか。甚だ疑問である。世の中では、恋愛、母性愛、愛国心、友情が、無反省で、ほめたたえられている。これら以外にも、愛にちなんだ言葉が満ち溢れている。しかし、だからと言って、恋愛、母性愛、愛国心、友情、そして、その他の愛を、仏教のようには否定することはできないだろう。それを否定するとは、人間の感情を否定すること、つまり、人間の存在を否定することになるからである。愛の感情を否定したら、人間は、一歩も動けなくなるだろう。そこに、愛の難しさがある。

愛国心に取りつかれた現代人(自我の世界(その8))

2015-12-21 13:50:41 | 思想
愛国無罪というナショナリズムに満ちた言葉がある。愛国心に基づいた行為ならば全てが許されるという意味である。この言葉は、中国の反日運動の際のスローガンに使われたが、判断力の欠いた、幼児性に満ちたスローガンである。しかし、この言葉は、見事に、愛国心の陥穽を表している。現代人ならば、誰しも、自分が所属している国に強い愛情を持っている。それが、愛国心である。現代社会が国際化されたことによる業である。それ故に、国民は、往々にして、愛国無罪を唱えられると、その行為に加担しなくても、一定の理解を示してしまうのである。なおさら、愛国無罪に、反論することなどとてもできそうにない。なぜならば、そうすると、自分自身で、国民としての自分の位置を否定しているような気がし、愛国心を抱いている周囲の人から浮き上がってしまうように思われるからである。日本においても、「俺は日本のためなら何でもする。命も惜しくない。」などと、ナショナリズムに満ちた言葉を吐く人がいる。判断力の欠いた、幼児性に満ちた言葉である。しかし、この言葉に真っ向から反論する人はいない。なぜならば、そうすると、自ら、日本国民としての自らの位置を否定しているような気がし、さらに、日本に愛国心を抱いている周囲の人から浮き上がってしまうように思われるからである。愛国心という言葉は、広辞苑では、「自分の国を愛する心」と説明されている。素朴に、誰しも、このような意味だと思っている。美しい感情のように、誰しも、思っている。そこに、ナショナリストたちが付け込んだのである。日本のためなら命も惜しくないと思っている自分たちが、真に日本のことを思っていると考えているのである。それ故に、彼らは、自らが思っている日本像と異なった考え方をしている人や自らが思っている日本の国益に反した行動をする人を、非国民、売国奴と言って罵るのである。他の日本人も自分たちに従わなければならないと思っているのである。なぜならば、真に日本のことを考えているのは自分たちだと思っているからである。ナショナリストの愛国心はストーカーの恋愛感情に似ている。ストーカーもまた自分が最も相手の女性(男性)を愛し、最も知っていると思い込んでいる。そして、相手に付きまとっている自分は悪くなく、自分のことを受け入れない相手が悪いのだと思い込んでいる。相手が自分の気持ちをどうしても受け入れてくれないとわかったり、相手に新しい恋人ができたりすると、思い余って、相手を殺すことも珍しくない。そして、社会的に罰されるのが嫌で、自分の行為を正当化するために自殺する人も存在する。ストーカーは、相手を真に愛しているのは自分だけだと思っているから、他の人が相手を愛すること、相手が他の人を愛することを許さない。それは、日本を太平洋戦争を突き進ませたナショナリストたちに似ている。ナショナリストたちは、自分たちは命を懸けてまで日本のことを思っているのだと、日本人の愛国心に訴えた。ほとんどの日本人はそれに従った。そして、自分たちの考えに反対する日本人を非国民、売国奴だとして逮捕し、自分の考えに従わない者を逮捕し、拷問にかけ、殺した。殺された者は、わかっているだけでも、八十人以上存在する。ナショナリストたちは、愛国心に訴え、朝鮮半島、中国大陸に侵略し、アメリカ・イギリス・オランダ・中国などに対して太平洋戦争を起こした。そして、愛国心に付け込まれたほとんどの一般民衆は、中国人、朝鮮人、アメリカ人、イギリス人、オランダ人を憎悪した。しかし、戦争に負けた。すると、ほとんどの一般民衆と大多数の日和見主義のナショナリストたちは他の者に責任転嫁して戦後を生き延び、少数の筋金入りのナショナリストたちは、罰せられるのが嫌で、自己正当化するために自決した。そして、日本は、今や、衆参において自民党の絶対多数の安倍政権である。自民党の党是は、現在の日本国憲法を改正し、戦前の大日本帝国憲法に戻すことである。安倍晋三は、根っからのナショナリスである。一般民衆の中からも、知識人の間でも、ナショナリストが跳梁跋扈してきた。情けないことに、そのナショナリストのほとんどが、アメリカ頼みなのである。アメリカに頼って、中国、韓国、北朝鮮に対抗しようと言うのである。他の国に頼るナショナリストなどというのは、本質的には、ナショナリストではないのだが、日本のナショナリストのほとんどがそうなのである。しかし、自民党支配が続く限り、安倍政権が続く限り、安倍晋三のようなナショナリストが首相の座にある限り、日本は、いつでも、戦争に巻き込まれたり、戦争を起こしたりする可能性が高い。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、一度目の太平洋戦争の悲劇で懲りずに、二度目の戦争を経験して笑いものにならない限り、日本の歩むべき道に思い至らないのかもしれない。その時、ほとんどの日本人は、愛国心とはどういうものか、深く反省し、考え直すかもしれない。しかし、その時、日本という国は存在しているだろうか。

ナショナリストたちの蠢き(自我の世界(その7))

2015-12-19 18:45:54 | 思想
安倍晋三が首相になってから、ナショナリストたちが跳梁跋扈してきた。街頭ヘイトスピーチをする恥知らずの集団が現れたのも、彼が首相になってからである。なぜ、そうなのか。簡単なことである。安倍晋三自身が、ナショナリストだからである。ナショナリストが日本の政治のトップに立ったので、巷のナショナリストたちがこの機会を利用して、活発に動き始めたのである。さらに、日本と中国、韓国の関係が急激に悪化したのも、安倍晋三が首相になってからである。彼が、A級戦犯が祀られている靖国神社を参拝をするのも、日本が起こした太平洋戦争を肯定しているためである。なぜ、肯定するのか。それは、祖父の岸信介を尊敬しているからである。岸信介は、東条英機が太平洋戦争を起こした時、その内閣の商工大臣であり、敗戦後、1945年にA級戦犯として逮捕され、1948年に釈放されている。さらに、岸信介は、1957年に首相となったが、1960年の日米安保条約改定が国民の反対にあい、それが安保闘争という戦後最大の反政府運動に発展し、内閣総辞職せざるを得なかった。安倍晋三は祖父の汚名を返上したいのである。彼は自らを岸信介と同一化しているのである。それ故に、安倍晋三はナショナリストにならざるを得ないのである。言わば、筋金入りのナショナリストなのである。巷のナショナリストや知識人のナショナリストは愛国心からナショナリズムを抱いているのだが、安倍晋三の場合、愛国心と血筋が相俟ってナショナリズムが掻き立てられているのである。そのような人間が日本の首相になったのである。日本を戦争ができる国にするように持っていくのは当然のことである。安倍晋三の言う、積極的平和主義とはこのことである。安倍晋三は、国家安全保障会議法案、特定秘密保護法案、安保法案を強行採決し、日本は戦争の道へと歩み始めた。それでも、安倍晋三は、「自衛隊員を戦闘地域に派遣しない。後方支援だけの任務にする。」、「日本に徴兵制を導入しない。」などと言う。そう言わなければ、国民から支持されなくなり、首相の座から降ろされるからである。虎視眈々と、まず、自衛隊の海外派兵をなし崩しに現実化させ、憲法を改正して名実ともに日本を戦争のできる国にし、徴兵制の導入を狙っているのである。しかし、安倍晋三は、ナショナリストとして、ありきたりの考え方をしていて、決して異常ではない。問題は、ナショナリズムが思想の母体になっている政党である自民党を衆参選挙で大勝ちさせた国民である。さらに、首相がナショナリストとわかっても、その座から引きずり下ろすことをしない国民が問題である。蟹は自分の体に合わせて穴を掘るというが、日本国民も自分たちの力量で、政治家を選び、政党を選び、首相を支持しているのである。自業自得とも言える。しかし、絶望したり、諦観したりすることはない。なぜならば、いつの時代でも、どの国でも、その成立も政治も常に矛盾・過ちに満ちたものにしかなれないからである。愛国心が、国の成立、政治を支えているからである。誰しも、愛国心を持っている。愛国心とは、字義的には、国を愛する心であるが、それだけでは、意味をなさない。愛国心の実際の意味は、自分が所属している国に対して、矜持・自負・プライド・誇りの念を持つことなのである。その矜持・自負・プライド・誇りは誰に対して成されるか。言うまでもなく、他の国の人々に対してである。そのような愛国心によって、国が成立し、国の政治がなされているのであるから、大いなる矛盾・過ちが生ずるのは当然なのである。しかし、だからこそ、国の成立・政治の矛盾・過ちを批判し続けなければならないのである。国民誰しも、愛国心を持っている。その愛国心は、常に、ナショナリズムへと増大し、ナショナリストを生み出す可能性を持っている。それ故に、国の成立、国の政治を批判し続けなければならないのである。

ナショナリストのナショナリストによるナショナリストのための戦争(自我の世界(その6))

2015-12-17 13:23:01 | 思想
日本人ならば、誰しも、基本的に、自分が所属している日本という国に対して、愛情を持っている。それが、愛国心である。なぜ、愛国心を持っているのか。それは、決して、日本が国が素晴らしいからではない。日本が素晴らしい国であろうとひどい国であろうと、日本人ならば、誰しも、愛情を持っているのである。日本人に限らず、誰しも、自分の所属している国に対してアイデンティティ(自己同一性)を持っている。自分の所属している国に対してアイデンティティ(自己同一性)を抱かないと、この国際化した現代において、不安で生きていけないからである。自分の所属している国に対してのアイデンティティ(自己同一性)とは、愛国心の別名である。しかし、自分が自分を日本人だと認めているだけでは、日本という国に対してアイデンティティ(自己同一性)を持っているということにはならない。他の日本人に日本人だと認められて、初めて、日本という国に対してアイデンティティ(自己同一性)を持つことができるのである。そして、日本人に限らず、誰しも、自分の所属している国に対してアイデンティティ(自己同一性)の観念を抱くと、他国そして他国の人々に、自分の所属している国を認めてほしくなってしまう。そのために、いろいろな場面において、国同士の競争が起こってしまう。オリンピック、ワールドカップ、ノーベル賞、宇宙開発、そして、戦争など、様々な場面がある。それ故に、決して、自分の所属している国に対してアイデンティティ(自己同一性)の観念を抱くこと、つまり、愛国心を持つことは素晴らしいことではない。また、ひどいことでもない。世界中の人々は、この国際化した現代において、国人として生きていかないと不安だから、愛国心を持つのである。そして、愛国心が高じた形がナショナリズムであり、ナショナリズムを持っている人がナショナリストである。ナショナリストとは、右翼の別名である。明鏡国語辞典で、ナショナリズムの意味を調べると、「①他国の圧力や干渉を排し、その国家・自己の属する族の統一・独立・発展をめざす思想または運動。民族主義。②国家を至上の存在とみなし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重しようとする思想。国家主義。」と出ている。つまり、ナショナリズムとは、戦争に直結する観念なのである。しかし、そのナショナリズムを生み出したのは、愛国心である。だからこそ、愛国心を手放しで賛嘆してはならないのである。現代人は、誰しも、この流動化した国際社会において、国人として自国に身を寄せないと、自分の所属している国に対してアイデンティティ(自己同一性)を抱かないと、愛国心を持たないと、不安で生きていけないのである。それは、この世では、自分ひとりで生きていくのが不安だから、親子関係に身をゆだね、親に身を寄せて、子という立場を守って、必死に生きている幼児に似ている。しかし、それを嘲笑して、終わらせるべきではない。なぜならば、人間は、一生、いつ、いかなる場面においても、何かに身をゆだね、何かに身を寄せ、自分の立場を守ように生きていくように仕向けられた動物だからである。人間は、この世知辛い世間の中で、友人関係、恋愛関係、会社、高校、家族などに身をゆだね、友人たち、彼(彼氏)、会社の同僚たち、クラスメート、両親などに身を寄せ、友人、恋人、会社員、高校生、息子などの立場を守って生きてくしかないのである。同様に、日本人は、この国際化した現代社会において、日本という国に身をゆだね、他の日本人に身を寄せ、日本人という立場を守って生きていくしかないのである。しかし、「俺は日本を心から愛している。」とか「俺は日本のためなら命も惜しくない。」とか言う人に対しては、警戒すべきである。これらの言葉は、単なる愛国心以上のものを含んでいるからである。確かに、これらの言葉は愛国心とは矛盾しない。しかし、これらの言葉の裏には、他国との戦争も辞さないという意味を含んでいる。これらの言葉を発する人は、例外なく、ナショナリスト、右翼と言われる人である。彼らは、確かに、他の日本人と同様に、日本という国に対してアイデンティティ、日本という国に対して愛情を持っている。しかし、外国の人々も、同様に、その国に愛情を持っていることまで思い至らない。そこまで冷静に考えることをしない。そして、外国の人々の愛国心を理解して行動する日本人を「非国民」などと言って非難する。彼らは自らの幼児性に気づいていない。日本人ならば、誰にでも、愛国心はある。しかし、ナショナリストのように愛国心に振り回されると、容易に、外国と戦争になるのは目に見えている。