あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、自分が生み出せない快楽と苦痛に動かされて行動する。(欲動その15)

2024-05-28 13:30:57 | 思想
人間、誰しも、他者から褒められると嬉しくなる。そして、他者から貶されると苦痛を感じる。だから、人間、誰しも、他者から褒められるように行動し、他者から貶されるように行動する。それでは、なぜ、他者から褒められると嬉しいのか。自分が高く評価されたからである。それでは、なぜ、他者から自分が高く評価されると嬉しいのか。これ以上遡行できなくなる。また、なぜ、他者から貶されると苦痛を感じるのか。自分が低く評価されたからである。それでは、なぜ、他者から自分が低く評価されると苦痛を感じるのか。これも、また、これ以上遡行できなくなる。なぜ、両者とも、遡行に限界があるのか。それは、精神的な喜びも苦痛も深層心理が思考して生み出しているから、表層心理の思考では遡行に限界があるのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動であり、表層心理とは人間の自らを意識しての精神活動である。すなわち、人間の無意識の精神活動が思考して精神的な喜びや苦痛を生み出しているから、人間の自らを意識した精神活動で思考して両者を遡行しても遡行しきれないのである。しかし、遡行できなくても、他者から褒められると、すなわち,高く評価されると嬉しくなり、他者から貶されると、すなわち、低く評価されると苦痛を感じるから、人間は、他者から褒められようと、そして、貶されないように行動するのである。
人間は、常に、快楽を得るために、そして、苦痛を回避するために、苦痛から脱却するために行動しているのである。深層心理に快楽が生ずることがあるから、それを求めて行動するのである。深層心理に苦痛が生ずることがあるから、それを回避しようと行動するのである。深層心理に、既に、苦痛があれば、それから逃れようと行動するのである。しかも、快楽も苦痛も、自らの意志に関わりなく、人間の心に生まれてくるのである。そして、自らの意志では、生み出すことも消すこともできないのである。すなわち、人間は、表層心理の思考では、生み出すことも消すこともできないのである。さらに、自らの意志に関わりなく、快楽を求める欲望、苦痛を回避する欲望、苦痛から逃れる欲望が、人間の心に生まれてくるのである。何がそれらの欲望生み出しているのか。それは深層心理である。なぜ、深層心理がそれらの欲望を生み出すのか。それは、人間に、快楽を求め、苦痛を回避し、苦痛から逃れるような行動を起こさせるためである。人間は、快楽そのもの、苦痛そのものを、表層心理の思考では、すなわち、意志では、生み出すことも消すこともできないから、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間に行動させることによって、それをかなえようとするのである。快楽と苦痛が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。しかし、快楽が無ければ、人生は無味乾燥のむなしいものになるだろう。苦痛が無ければ、人間は真剣に考えようとしないだろう。人間は、表層心理の思考では、すなわち、意志では、快楽も苦痛も生み出すことも消すこともできないのに、それを目標に生きているのである。つまり、人間は、表層心理の思考で生きているのではなく、深層心理によって生かされているのである。しかし、快楽や苦痛は突然生まれてくるのではない。深層心理が、常に、自我に基づいて生み出しているのである。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者と関わりつつ、他人を意識しながら行動している他者とは、構造体内の人々である。他人とは、構造体外の人々である。構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、高校という構造体には校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体には店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我がある人間は、一人でいても、常に、構造体に所属している。常に、他者との関わりを想定しつつ、他人を意識しながら暮らしている。人間が社会的な存在であるとは、常に、、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持して、他者と関わつつ、他人を意識しながら暮らしていることを意味しているのである。デカルトは「我思う、故に、我あり。」と言ったが、「我」の定義をしなかった。しかし、人間が、自分の存在を意識するのは、普遍的な自分としてでは無く、個別的な自我なのである。つまり、ある人は、日本という国の構造体では国民という自我であり、家族という構造体では父という自我であり、会社という構造体で課長という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我である。また、別のある人は、日本という国の構造体では国民という自我であり、家族という構造体では娘という自我であり、学校という構造体では生徒という自我であり、コンビニという構造体では客という自我であり、電車という構造体で客という自我であり、仲間という構造体では友人という自我であり、カップルという構造体では恋人という自我であるつまり、人間は構造体ごとに異なった自我を得て暮らしていて、普遍的な自分は存在しないのである。しかも、人間は、自ら意識して思考して行動しているのではなく、無意識の思考によって動かされているのである。すなわち、人間は、表層心理で思考して行動しているのではなく、深層心理が思考して人間を動かしているのである。人間は、表層心理で思考して行動する以前に、深層心理の思考によって動かされているのである。しかし、一般に、思考という言葉は、人間の表層心理での思考を意味している。なぜならば、ほとんどの人は、自ら意識して思考していると思い込んでいるからである。確かに、表層心理での思考は存在するが、それは思考の一部であり、深層心理の思考の後で行われ、深層心理の思考の後塵を拝するのである。なぜならば、表層心理の思考では、感情を生み出せないからである。思考の大半は深層心理によるものなのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の存在に気付いていないから、もちろん、深層心理の思考の重要性に気付くはずがないのである。深層心理は、一般に、無意識と呼ばれ、無意識の行動のような使われ方で、例外的なあり方として考えられている。しかし、人間の行動は、有意識の思考による行動は一部で、ほとんどは無意識の思考による行動なのである。そもそも、無意識は単に意識していないということを意味するだけで、人間の行動は、ほとんど、無意識の思考によってなされるのである。すなわち、深層心理が思考して、人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。つまり、人間は、自らは意識していないが、思考しているのである。それが深層心理の思考である。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、「言語によって構造化されている」のである。つまり、深層心理が言語を使って論理的に思考しているのである。深層心理は、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、ある時は、快楽を求めて、ある時は、苦痛から逃れようと思考して、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となっている人間を動かしているのである。心境と感情は、深層心理の情態、すなわち、人間の情態を表している。情態とは、人間の心の状態を意味している。一般に、気持ち、気分と称されている。心境は、深層心理を覆っていて、長期に続く情態である。感情は、深層心理が思考して、瞬間的に生み出す情態である。深層心理は、自らが生み出した感情を動力にして、自らが生み出した行動の指令通りに、人間を動かそうとしている。だから、人間は、表層心理の思考では、すなわち、意志によって、心境も変えることはできないのである。心境も感情も、深層心理の範疇にあるからである。人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の快不快が人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考する。深層心理は、同じことを繰り返すというルーティーンの生活を維持しようと思考する。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理は、自我の欲望として、感情と行動の指令を生み出し、悪い状態を打ち破ろうとする。深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せば、すなわち、感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快、陰鬱など、の長期に持続する情態であり、感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態だからである。感情は、深層心理によって、行動の指令と同時に生み出されて自我の欲望になり、人間を行動の指令通りに動かす動力になる。爽快な心境にある時は、現状に充実感を抱いているという情態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さない。自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。陰鬱な心境にある時は、現状に不満を抱き続けているという情態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しいという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しいという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理には、常に、心境や感情という情態にあるからこそ、人間は、表層心理で、自分を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。人間にとって、心境や感情という情態こそが自らが存在していることの証なのである。心境や感情は深層心理に存在しているから、人間は、表層心理の意志ではそれを変えることはできないが、心境が変わる時がある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時である。その時、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。そして、その後、心境は回復するが、その時、心境は、変化している。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。それでも、人間は、憂鬱な心境を、表層心理で意識して変えようとする。それが気分転換である。何かをすることによって、心境を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接的に心境に働き掛けることができないから、間接的に、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。それほどまでに、心境や感情という情態は、人間にとって、絶対的な存在なのである。オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみを消すために、その原因を探る。苦しみが消えれば、苦しみの原因が何であっても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛という心境が消滅すれば、思考も停止するのである。つまり、心境や感情という情態によって、人間は、すなわち、深層心理は、現在の自我の状態、そして、自我を取り巻く状況のの良し悪しを判断しているのである。つまり、人間は、客観的な視点ではなく、情態の良し悪によって、現在の自我の状態、そして、自我を取り巻く状況のの良し悪しを判断しているのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考する。深層心理は、同じことを繰り返すというルーティーンの生活を維持しようと思考する。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味する。心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境は、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽、感動など、深層心理が行動の指令ととに瞬間的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理は、常に、心境という情態に覆われていて、時として、心境を打ち破り感情という情態を生み出し、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしている時などに、何かを考えている自分、何かをしている自分、何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や心に起こっている感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。また、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自我の存在、すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもあるのも、それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。しかし、人間は、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境も感情も変えることはできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、直接的に、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることによって間接的に変えようとするのである。次に、深層心理は自我を主体に思考しているが、それはどういうことを意味するか。それは、人間が表層心理で思考する以前に、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えているということを意味するのである。人間は表層心理で自らを意識して思考することがあるが、それは、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について思考するのであり、深層心理の思考の影響を受けずに思考することはできないのである。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。しかし、深層心理がよほど強い感情を生み出さない限り、超自我や表層心理の現実原則の思考によって行動の指令は抑圧されるのである。深層心理には、保身欲から発した、超自我という日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能が存在するのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。現実的な利得を求める欲望とは、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。これは、フロイトは現実原則と呼んでいる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし不利益を被らないないような視点から、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考し、異常な行動の指令を抑圧しようとするのである。抑圧が成功すれば、ルーティーンの生活が続くのである。感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。深層心理が、喜び楽しみなどの快い感情を生み出した時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒りや哀しみなどの不快な感情を生み出した時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。深層心理が喜びの感情を生み出した時には、行動の指令通りに人間を動かし、拍手喝采などの喜びの表現をし、他者に自らの存在を知らしめようとする。自我が傷付けられ、深層心理が怒りの感情を生み出した時には、他者への非難や暴力を加えるなどの行動の指令通りに人間を動かし、他者を下位に落とすことによって、下位に落とされた自我を回復させようとする。深層心理が哀しみの感情を生み出した時には、泣くなどの行動の指令通りに人間を動かし、他者に慰めてもらおうとする。深層心理が楽しみの感情を生み出した時には、現在の自我の状態を維持すような行動の指令を生み出し、人間を動かそうとする。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間を動かす力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。しかし、傷付いた感情は、超自我や表層心理での思考によって、行動の指令が抑圧されれば、持続するのである。それが、所謂、ストレスである。だから、ストレスのない人間は存在しないのである。次に、深層心理は、欲動に基づいて快楽を求めて自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、自我の状態を欲動の四つの欲望のいずれかに叶えたものにすれば、快楽が得られるので、欲動の四つの欲望に従って、思考するのである。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。簡潔に言えば、自我という社会的な地位や社会的な位置を守りたいという欲望である。深層心理は、常に、自我の保身化してこの欲望を満たそうとしている。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。簡潔に言えば、好かれたい・評価されたいという欲望である。深層心理は、常に、自我を対他化してこの欲望を満たそうとしている。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。簡潔に言えば、自我の思い通りにしたいという欲望である。深層心理は、常に、対象を対自化してこの欲望を満たそうとしている。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。簡潔に言えば、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・仲良くしたいという欲望である。深層心理は、常に、自我を共感化してこの欲望を満たそうとしている。ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているからである。人間は、表層心理で自我の欲望を意識することなく、自我の欲望のままに行動しているである。日常生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがない、無意識の行動だから可能なのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想そのものである。しかし、人間の生活は、必ずしも、毎日が、平穏ではない。嫌なことがある。承認欲が阻害されることが起こる。学校という構造体で教師に叱られ生徒として認めてほしいという承認欲が阻害される。会社という構造体で上司に叱られ社員として認めてほしいという承認欲が阻害されそれでも、学校や職場へ行くのである。それは、深層心理に保身欲から発した超自我という機能がルーティーンの生活を守ろうとするからである。だから、承認欲を阻害された深層心理が学校や会社に行かないという自我の欲望を生み出しても、超自我という機能がそれを抑圧するからである。さらに、もしも、深層心理の超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、自我の欲望を抑圧し、そして、明日も、また、学校や会社へ行き、ルーティーンの生活を続けるのである。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約に縛られることなく、その時その場での快楽を求める欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。そのような場合、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとする。しかし、感情が強い場合、抑えきれないのである。超自我が過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求める欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考して、意志によって過激な行動を抑圧しようとするのである。しかし、感情が強過ぎると、過激な行動の指令を抑圧できず、そのまま行動してしまうのである。そして、悲劇、惨劇を生むのである。また、しかし、たとえ、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が思考して生み出した行動の指令を拒否することを決め、意志によって、深層心理が出した行動の指令を抑圧できたとしても、次に、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、深層心理には、まだ、深層心理が生み出した傷心の感情や怒りの感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。強い傷心の感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体の政治権力者同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、愛国心を持っているのである。国という構造体にに所属しているからである。よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからであり、決して、愛国心が存在しないわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属しているからである。愛国心とは、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者の、深層心理が思考して生み出す自我の欲望だからである。それは、郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心を抱くのと同じである。それらも、皆、深層心理が思考して生み出す自我の欲望である。さて、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や韓国などに対して対抗心を燃やす人がいる。そして、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。売国奴とは敵国と通じて国を裏切る者を罵って言う言葉であり、非国民とは国民としての義務を守らない者であり、反日とは日本に反対することや日本や日本人に反感をもつことや人のことを言う。つまり、売国奴、非国民、反日のいずれも、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる者が生み出した言葉なのである。また、憂国という言葉がある。憂国とは国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く者を特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。さらに、憂国は国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味であるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちもまた憂国の士である。もちろん、彼らは犯罪者である。さて、日本の憂国の士と自称する者と中国の憂国の士と自称する者、日本の憂国の士と自称する者と韓国の憂国の士と自称する者が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。一般に言われているような、決して、過大に評価すべきものではないのである。なぜならば、国という構造体が存在する限り、国民という自我を有する者が存在し、そこには愛国心という自我の欲望が必ず存在するからである。ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心を持てない国民は悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。しかし、それは、中国人、韓国人も同様である。そのことに気付かず、日本人としての自我を強く主張すれば、中国人、韓国人と対峙するしかないのである。ヘイトスピーチをして、中国国籍の人、韓国国籍の人、北朝鮮国籍の人を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。大勢の人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしているだろう。彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと思っているだろう。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと思っているだろう。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国に所属しているからである。自分に日本人という自我を与えられているからである。日本という自我が与えられているから日本という構造体を愛するのである。自分に日本人という自我を保証してくれるものは日本という構造体だからである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、国民という自我を通して自分を愛しているのである。つまり、自我の欲望なのである。それに気づかなければ、愛国無罪のような罪を犯すことになるのである。さて、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の政治権力者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による争いは収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。為政者、国民、共々、愛国心から発する自我の欲望に従順である限り、収まらないのである。さて、いじめも、また、自我の欲望に忠実であることの悲劇、惨劇である。2019年7月3日、岐阜市の中学3年生の男子生徒が、マンションから転落死した。いじめを苦にしての自殺であった。彼は、自殺する前日、同級生三人以上から、トイレの便器に頭を入れられていたという。なぜ、彼は、他の生徒に助けを求めなかったのか。なぜ、彼は、教師に訴えなかったのか。なぜ、彼は、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。そこで、彼は自殺したのである。自殺すれば、いじめられる屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられるからである。自殺すれば、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめをしたのか。それも、非人間的ないじめをしたのか。それは、いじめっ子たちの深層心理にとって、いじめは楽しいからである。小学生、中学生、高校生が、仲間という構造体で、一人の人をいじめるのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、連帯感という快楽が得られるからである。また、嫌いな人間や弱い人間をいじめると、人間は、快感を覚えるのである。なぜならば、人間にとって、嫌いな人間の嫌いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分であるからである。だから、いじめっ子たちは、自らが持つかも知れない嫌いな部分や弱い部分を持っている同級生を仲間という構造体でじめることで、それを支配したと思えるから、快楽を覚えるのである。それでは、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかった時に、安心して、いじめの事実を話すのである。しかし、いじめは、遠い存在ではない。毎日のように、芸人たちがいじめを行い、いじめにあっている。漫才で、ぼけ役が話すと、突っ込み役ははぼけ役の頭を殴って反論したり、否定したりする。それが、視聴者の笑いを誘う。売れている先輩芸人が、売れていない後輩芸人に、無理難題を押し付け、売れていない後輩芸人は、案の定、失敗し、困窮の表情を浮かべる。それが、視聴者の笑いを誘う。芸人たちは、罰ゲームと称され、熱湯湯に入れられたり、蟹に鼻を挟まれたり、火傷しそうな熱い物を食べさせられたり、吐くしかない辛い物を食べさせられたり、のどに通らない苦い物を飲まされたりする。それが、視聴者の笑いを誘う。つまり、いじめの番組を見て、視聴者は快楽を得ているのである、つまり、大衆も、また、芸人という弱い人間がいじめられているのを見ることに、快楽を覚えているのである。大衆も、また、自我の欲望に忠実なのである。そして、芸人が、いじめを甘んじて受けるのは、芸人という構造体や放送業界という構造体から追放されたくないからである。だから、人間世界において、いじめは無くなることがないのである。次に、欲動の第二の欲望が自我を他者に認めてほしいという承認欲であるが、深層心理は、常に、自我を対他化して、その欲望を満たそうとしている。自我の対他化とは、他者から自我を評価されたいと思いつつ、他者から自我がどのように思われているか探ることである。深層心理は、自我が他者に認められ、承認欲が満たされて楽が得られるので、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。だから、いついかなる時でも、人間は怒りや苦悩という感情に襲われる可能性があるのである。しかし、深層心理が感情を生み出すから、人間はその感情から逃れることはできないのである。そして、深層心理が感情と同時に生み出した行動の指令通りに動かされるのである。また、感情という情態があるからこそ、心境という情態とともに、人間は自分の存在を意識できるのである。次に、欲動の第三の欲望が支配欲である。深層心理は、常に、自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を支配することによって、すなわち、対自化することによって、快感や満足感などの快楽を得ようとしている。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。深層心理は、志向性によって、自我・他者・物・現象という対象を捉えている。人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのである。深層心理の対象への対自化というあり方は志向性で対象を捉えていることである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、志向性で、他者という対象を支配しようとし、物という対象をで利用しようとし、現象という対象を捉えているのである。深層心理は、志向性で、対象の対自化して、支配欲を満たして、快感や満足感を得ているのである。さて、まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、深層心理が、すなわち、人間が、快感や満足感が得られれるのである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快感や満足感が得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、ウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による無差別の殺戮は、支配欲を満足させるために起こしているのである。もちろん、それは、自我の欲望の仕業である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという満足感が得られるのである。しかし、現在、世界中に、自然を収奪するだけの自我の欲望を満たすあり方を反省し、自然の共生するあり方へと転換の運動が起こっている。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快感や満足感が得られるのである。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、深層心理が、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込むという意味である。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって心に安心感を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、趣向性によって、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。趣向性とは、簡潔に言えば、好みである。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、互いに、理解し・愛し・協力するのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、快感や満足感が得られるのである。カップルという構造体は、恋人という二人の自我によって成り立っている。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人として自我を認め合うことができれば、自らの存在を実感でき、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。また、仲間という構造体は、友人という二人以上の自我によって成り立っている。友情という現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。人間が友人を作ろうとするのは、仲間という構造体を形成し、友人という自我を認め合うことができれば、そこに安心感が生じるからである。友人いう自我と友人いう自我が共感すれば、そこに、信頼感が生じ、一人の自我で受ける孤独感から解放され、力がみなぎって来るのである。しかし、人間、誰しも、誰を恋人にするか、誰を友人にするかは、表層心理で、自らを意識して思考して決めているわけではない。深層心理が、趣向性によって、選んでいるのでいる。趣向性とは、好みであり、共感性という感性である。人間は、意識して感性に入ることはできないのである。感性は、深層心理の範疇に属しているからである。また、呉越同舟という共通の敵がいたならば仲が悪い者同士も仲良くすることも、共感化の現象である。二人の仲が悪いのは、二人の趣向性が異なり、そこで、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで一つになるということも、共感化の現象である。そこに共通の対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通の対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化で自我の力が発揮しようと思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)ようになるのである。しかし、逆に、小学校、中学校、高校では、自我の深層心理の趣向性が合わないために、いじめという現象が起こるのである。いじめの原因は、毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブという構造体で、クラスメート、部員という自我で暮らしていることである。毎日、同じクラスメート、部員と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくる。好きな部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員と嫌いなクラスメート、部員を峻別しているわけでは無い。深層心理が、共感化への趣向性がそれを出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生は、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることもその嫌いなクラスメート、部員を別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるだけである。だから、現在のクラス、クラブという構造体で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、嫌いな人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分には、共感化している友人がいるから、彼らに加勢を求め、いじめを行うのである。彼らも仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。クラスという構造体では、担任の教師は、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなり、担任教師という自我の力量が問われるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをするのである。また、カップルという構造体で恋人という自我にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまでするのは、カップルという構造体が壊れ、恋人という自我を失うのが辛いからである。いじめている生徒も担任教師も、良心に目覚め、正義に基づく自己として生きない限り、いじめやストーカーは絶えることは無いのである。このように、深層心理が、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲という四つの欲望のいずれかに基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、それに無反省に従っている限り、犯罪は絶えることは無く、それが殺人や戦争にまで及ぶのである。確かに、一般に、自我を傷つけられた人間が殺人事件や戦争を引き起こす。人間は自我を傷つけられると、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとする。自我を傷つけられた人間の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた人間を殺せという自我の欲望を生み出して、傷ついた人間を殺人へと駆り立てるのである。自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、戦争へと駆り立てるのである。人間は、自己に目覚めない限り、自我の欲望に従って生きるしかないのである。しかし、自己に目覚めるのは自我の欲望を徹底的に批判するしかなく、それは至難の業である。しかし、自己に目覚めない限り、人類は殺し合って滅びるしかないのである。さて、ストーカーも、また、自我の欲望に忠実な人を意味する。ストーカーは、恋人という自我の欲望に取り憑かれ、失恋を認めることができず、憎しみの感情に動かされ、理性(表層心理による判断)を失ったである。マスコミは、ストーカーを、精神異常者のように扱っているが、ストーカーは決して精神異常者ではない。ストーカーの行動は、他者(彼氏・彼女)が、カップルというい構造体から他の構造に所属することに脅威を覚え、それを妨害することから起こることである。それは、いじめという快楽を覚える行動ではなく、恋人いう自我を保つための必死の行動である。失恋した人は、誰しも、一時的にしろ相当の時間にしろ、ストーカー的な心情に陥る。誰しも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。失恋を認めることは、あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言う気には決してならない。失恋を認めること、相手の自分に対する愛が消滅したこと・二人の恋愛関係が瓦解したことを認めることはあまりに苦しい。それは、相手から、自分に対する愛が消滅したからと言われて、別れを告げられても、自分の心には、恋愛関係に執着し、相手への愛がまだ残っている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。このまま恋愛関係に執着するということは、敗者の位置に居続けることになる。失恋したということは、敗者になり、プライドが傷付けられ、下位に落とされたということを意味するのである。ずたずたにされたプライドを癒し、心を立て直すには、自分で自分を上位に置くしか無い。そのために、失恋した人は、いろいろな方法を考え出す。第一の方法は、すぐには、自分を上位に置くことはできないので、相手を元カレ、元カノと呼び、友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させ、もう、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることである。これは、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛手を被らないで済むのである。第二の方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なし、自分が上位に立つことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。これは、女性が多く用いる方法である。第三の方法は、すぐに、別の人と、恋愛関係に入ることである。新しい恋人は、別れた人よりも、社会的な地位が高く、容貌が良い人である方が、より早く失恋の傷は癒やされる。しかし、失恋の傷が深く、失恋の傷を癒やす方法を考えることができない人も存在する。それは、相手に別れを告げられ、相手が自分に対する愛を失っても、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないようにすることができない人である。そのような人の中で、相手につきまとう人が出てくる。それがストーカーと呼ばれる人である。ストーカーは、男性が圧倒的に多い。彼は、失恋を認めることがあまりに苦しく、相手を忘れる方法が考えることさえできず、相手から離れることができずに、いつまでも付きまとってしまうのである。中には、相手がどうしても自分の気持ちを受け入れてくれないので、あまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようとして、相手を殺す人までいる。確かに、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、ストーカーも、また、深層心理が愛という自我の欲望に取り憑かれた被害者なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、多くの人は、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないことに成功したから、ストーカーにならないだけなのである。カップルという恋愛関係の構造体は、恋人という自我があり、恋愛感情という愛があるから、相思相愛の時は、「あなたのためなら何でもできる。」と言いながら、相手が別れを告げると、相手のことが忘れられず、誰しも、ストーカー心情に陥り、時には、実際に、ストーカーになる人が現れるのである。それは、相思相愛で、カップルという恋愛関係の構造体を形成している時は、あまりに大きな快楽を得ていたから、カップルという恋愛関係の構造体が破壊された上に、相手が、別の人とカップルという恋愛関係の構造体を形成し、その人と快楽を得ること想像すると、嫉妬心で堪えられないからである。このように、一事が万事、人間は、深層心理の快楽を求める欲望によって動かされているのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して、快楽を得るための行動を考え出して、それを実行しているわけではない。深層心理が、人間の無意識のうちに、快楽を得るための行動を考え出して、それを人間を実行させているのである。しかし、深層心理が、快楽を得るための行動を考え出し、人間は、それを実行して快楽を得ているとしても、快楽を否定することはできないのである。なぜならば、深層心理が。快楽を求めて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我である人間を動かしているからである。快楽を求めることが、人間の生きる目標になっているのである。快楽を否定することは、人間の存在を否定することだからである。








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