あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我の欲望がもたらす喜びと罪(自我その68)

2019-03-25 20:21:32 | 思想
我々には、抽象的には、自分は存在するが、具体的にはしない。具体的に存在するのは、自我である。我々は、いついかなる時でも、ある構造体に属し、何らかのポジションを得て、それを自分として、ある関係を維持しながら、暮らしている。構造体とは、人間の組織や集団で、家族、カップル、仲間などである。また、ポジションとしての自分を自我と言う。自我には、現在の自分のポジションを維持したい・他者から現在のポジションとしての自分を評価してもらいたいという欲望が、(深層心理から)発する。これが自我の欲望である。自我の欲望の満足・不満足によって、(深層心理が)我々に感情がもたらし、幸不幸を決定する。それが、喜びと罪をもたらす。例を挙げて、説明しようと思う。まず、母という自我の女性は、家族という構造体で、母子関係を築きながら、暮らしている。我が子が成績が良いと喜ぶ。しかし、ある日、我が子のいじめで被害者の生徒が自殺したことを知った。だが、我が子を謝らせず、自分も謝らない。なぜならば、我が子が謝ったり、自分が謝ったりすれば、母という自我が傷付くからである。次に、恋人という自我の男性は、カップルという構造体で、ある特定の女性と恋愛関係を築きながら、日々を送っている。デートをする度に喜びを感じている。しかし、ある日、その女性から、別れを告げられる。彼は、カップルという構造体が壊れ、恋愛関係が消滅することが苦しいので、今までのように交際したいと思い、つきまとう。それが、ストーカーである。次に、友人いう自我の生徒は、仲間という構造体で、ある特定の生徒たちと友人関係を築きながら、日々を送っている。彼らといると、楽しく、喜びを感じる。しかし、ある日、仲間の一人に、嫌いな生徒がいて、いじめを始まる。彼(彼女)は、仲間という構造体から出されることが不安なので、いじめに加担するのである。次に、校長という自我の人は、学校という構造体で、教頭・教諭・生徒たちと教育関係を築きながら、日々を送っている。校長という仕事に喜びを感じている。しかし、ある日、生徒の一人が自殺し、原因がいじめだということを知った。しかし、彼は、校長という自我が傷付くことが嫌なので、いじめの事実を隠蔽する。このように、自我は、喜びをもたらすとともに、罪を強いるのである。それは、どのような自我であろうと免れることはできない。会社員、警察官、裁判官、国会議員、総理大臣など、全ての自我がそうなのである。我々は、自らの自我の欲望の発生に抗することはできない。なぜならば、自我の欲望は、我々の意志や意識という表層心理の届かない、深層心理から発するからである。できることは、発生した自我の欲望を、実行に移さないだけである。しかし、罪だとわかっていても、実行に移さないと、深層心理が苦しみをもたらすので、たいていの人は、実行に移してしまうのである。それ故に、我々には、罪をもたらす、自らの自我の欲望をどのように対処するかについての課題が一人一人に与えられているのである。そして、他者の自我の欲望に警戒しなければならないのである。彼らが悪人だからではない。彼らが凡人だからである。特に、校長、警察官、裁判官、国会議員、総理大臣などの権力者の自我の欲望を警戒しなければならないのである。自我の欲望を支配できるのは聖人君子だけである。私は、そのような人を見たことがない。