あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

感情・心境という情態性について。(自我その414)

2020-09-30 15:54:27 | 思想
人間は、感情と心境という情態性に動かされて生きている動物である。人間は、喜びという一時的な感情を得るために、そして、心境という継続的な気分の充実のために生きている。いや、生かされている。そのように、作られているのである。人間、誰しも、それから逃れることはできないのである。ハイデッガーは、「我々は、知覚や行為によるさまざまな事物や他者への関わり合いに先立ち、そうした関わり合いの場としての世界が情態性によって予め開かれている。我々が何にどのように関わり合うかは、情態性しだいである。我々が情態的に自らを見出すあり方によって、世界がどのように開かれるかは左右されるのである。現存在である我々が情態性によって突きつけられているのは、被投性と呼ばれているような、自らがそこに投げ込まれ、そこに引き渡されている、そのあり方である。しかし、情態性は、現存在である我々の被投性を開示すると共に隠蔽するのであり、さまざまな心境の中で不安という心境が持つ意味を強調するのも、それが現存在である被投性を開示するからである。」と述べている。情態性とは感情と心境という気持ちを指す。感情は一時的に高揚した気持ちであり、心境は継続した気持ちである。被投性とは、人間の、自ら主体的に動いているのではなく、動かされている状態を意味している。最初に、人間を動かそうとするのは、無意識の思考である深層心理である。意識しての思考である表層心理の思考ではないのである。現存在とは、人間を指し示すが、人間は、意志や意識という主体的な表層心理の思考の存在者ではなく、無意識という深層心理という非主体的な思考に導かれている存在者であることから、そのように言うのである。簡潔に言えば、ハイデッガーは、「人間は、常に、何らかの感情や心境という情態性の中にあり、情態性が、自分の外の状況を知らしめ、自分の体内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させているのである。」と述べているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。すなわち、表層心理で、意識して思考して、心境を変えることができないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。気分転換とは、気分に直接的に働き掛けて変えるのでは無く、何かをすることによって気分を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある心境の下に、ある構造体の中で、ある自我を持ち、暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きている、自らのあり方である。人間が社会的な動物であるというのは、いつ、いかなる時でも、常に、ある心境の下で、人間の組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように、生きているということを意味するのである。構造体にも、自我にも、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。日本という構造体には、日本人という自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、常に、心境の下で、構造体の中で、自我を主体に立てて、他者と関わり合いながら暮らしているのであるが、自我を主体に立て、自我を動かそうとするのは、深層心理である。深層心理とは、人間自らは意識していないが、心の中で行われている思考活動である。だから、深層心理は、一般に、無意識と呼ばれているのである。人間は、深層心理が、心境の下で、快感原則に基づいて、自我を主体に立てて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。自我の欲望が、自我の活動の起点になるのである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語で、ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求め、不快感を厭う欲望である。快感原則には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め、不快感を避けることを、目的・目標としているのである。このように、自我を動かすのは深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の心の働きであるが、深層心理が、自我を主体に立てて、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。深層心理の働きについて、心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンの言葉は、深層心理は言語を使って論理的に思考しているということを意味する。つまり、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。深層心理は、快楽という感情を得ることを目的にして、自我の欲望を生み出しているのである。さて、快感原則とは、快楽を求める欲望だが、深層心理は、どのような状態であれば、快楽を味わうことができるのか。その状態は四つある。深層心理は、自我を主体に立てて、快楽という感情を得るために、保身化・対他化・対自化・共感化の機能を使い、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。それでは、保身化とは何か。保身化とは、構造体の中で自我を維持することである。深層心理は、自我を確保・存続・発展するために、さらに、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出しているのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このような人間のあり方を、保身存在と言う。国家公務員たちが、公文書の改竄をして、安倍晋三首相を守ろうとしたのは、究極的には、自らの自我を維持しようとしたのである。次に、対他化とは何か。対他化とは、他者から自我に対して好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるからである。つまり、それは、自我が他者に認められている状態である。だから、深層心理は、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、他者に認められたいという欲望を持って、他者が自我をどのように思っているかを探ろうとする。これが、自我を対他化することであり、自我の対他化である。このような人間のあり方を、対他存在と言う。つまり、自我を対他化すること、すなわち、自我の対他化とは、他者に会ったり他者がそばにいたりすると、深層心理が、その人から自我に対して好評価・高評価を得たいという思いで、その人の思いを探るのである。深層心理は、期待通りに、その人から自我に対して好評価・高評価を得ていると思うことができれば、喜びという快楽という感情を得ることができるのである。しかし、深層心理は、期待に反して、その人が自我に対して悪評価・低評価を与えていると思うと、傷心や怒りの感情を覚え、自我に対して逃げ出せや復讐せよなどの行動の指令を出すのである。中学三年生の受験生という自我の不安は、高校受験に失敗して、自分が所属している学校や家族や近所や親戚や仲間などの構造の人々から、悪評価・低評価を与えられることの不安である。しかし、ほとんどの中学三年生は、受験生という自我を捨てようとがしない。高校受験を回避しようとはしない。それは、ラカンの言う「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は他者の評価を勝ち取ろうとしている。人間は他者の評価が気になるので他者の行っていることを模倣したくなる。人間は他者の期待に応えたいと思う。)だからである。ラカンのこの言葉は、自我の対他化の現象を説明しているが、中学三年生の受験生という自我の対他化の現象をも説明している。中学三年生は、他の同級生が、高校受験するから、自らも受験するのである。中学三年生は、中学校という構造体の教師や家族という構造体の親が勧めるから、受験して、高校に進もうと思うのである。次に、対自化とは何か。対自化とは、一般に、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。わがままに生きるとは、深層心理の自我の対自化による行動である。しかし、対自化は、他者に対してだけにとどまらない。物や事柄に対してにも、及ぶのである。だから、対自化の目標は、自我で他者や物や事柄という対象を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配しているという状態になることである。だから、深層心理は、自我で他者や物や事柄という対象を支配したいという欲望を持っていて、常に、他者や物や事柄という対象を対自化して、他者を支配しよう、物を利用しよう、事柄を自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で捉えようとしている。つまり、対象の対自化とは、自我の力を力を対象に遺憾なく発揮することなのである。まさしく、ニーチェの言う「権力への意志」である。特に、他者という対象の対自化は、他者の欲望を排して、自らの欲望を他者に刻印することなのである。それが、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉え、支配しようとする。人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉えようとし、そこに、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合致した対象が存在しなければ、実際には存在しないものを創造することがある。)の内容の状態である。中学三年生の受験生としての自我の欲望は、他の受験生という他者の欲望を排して、自らが合格することによって、自我の力を他者に刻印することなのである。しかし、逆に、自分が不合格になれば、合格者という他者の力を自我に刻印されるから、それを恐れて、不安になるのである。次に、共感化とは何か。次に、共感化とは何か。共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。だから、共感化が成立した情態とは、自我と他者と理解し合っている・愛し合っている・協力し合っている状態である。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。自我と他者の共感化とは、常に他者の評価に身を投げ出す自我の対他化でもなく、常に対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配するという対自化でもない。自我の対他化と他者への対自化を交互に行い、喜びを分かち合う現象である。また、「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という現象も、自我と他者の共感化によって起こる。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化しようとして、争っている状態である。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。しかし、受験生という自我を持っている中学三年生にとって、自我と他者の共感化はあり得ない現象である。同級生が、全て、高校受験を争う他者だからである。言わば、同級生が、全て、敵なのである。しかし、教師たちは、受験生という自我を持っている中学三年生に、共通の敵として受験が存在しているのだと思わせることによって、中学三年生の分断、中学三年生同士の敵視を阻止しようとするのである。言わば、共通の敵として受験が存在していると思わせることによって、中学三年生を「呉越同舟」化させているのである。そして、その作戦は、成功しているかのような様相を見せている。なぜならば、中学三年生も、また、同級生を敵として見ていると思われたくないから、そのように見せているからである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉え、支配しようとする。人間は自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者や物や事柄という対象を捉えようとし、そこに、自らの志向性(観点・視点)や趣向性(好み)に合致した対象が存在しなければ、実際には存在しないものを創造することがある。)の状態である。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、保身化・対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って、社会生活を営んでいる。人間は、構造体の中で、自我という具体的な形を取ることによって、存在感を覚え、行動できるのである。受験生も自我である。言うまでも無く、中学三年生は、中学校という構造体に所属している。しかし、中学一年生も中学二年生も、同じように、中学校という構造体に所属している。しかし、彼らは、自動的に進級していくが、中学三年生だけは、受験という壁を突破しなければ、次年度、高校という構造体に所属できない。ほとんどの中学三年生は、中学三年生という自我と受験生という自我を併せ持っているから、不安な日々を送っているのである。高校受験の日が近づくと、いっそう不安になるのは、誰しも経験していることである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を得て、活動しているが、ある時間帯には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、別の時間帯には、別の構造体に所属し、別の自我を得て活動している。中学三年生も、クラブ活動の時間帯には、クラブという構造体に所属し、部員という自我を得て活動し、家庭にいる時間帯には、家族という構造体に所属し、息子や娘などの自我を得て活動している。しかし、たいていの中学三年生は、クラブという構造体で部員という自我で活動している時も、家族という構造体で息子や娘などの自我で活動している時も、常にもしくは時として、受験生という自我を有していることを意識する。それほどまでに、高校受験は不安な心境を作りだしているのである。このように、人間は、まず、自ら意識せずに、深層心理が、ある心境の下で、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。そして、時には、人間は、表層心理で、深層心理の結果を受けて、それを意識し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考することがあるのである。表層心理で思考して、許諾することに決定すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動である。表層心理で思考して、拒否することに決定すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。表層心理の意識した思考が理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの異常な行動を指令した時である。しかし、深層心理が、対他化の欲望が満たされず、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの異常な行動を指令した時には、人間は、表層心理で審議する前に、深層心理は超自我の機能によって、その異常な行動を抑止しようとするのである。超自我は、深層心理の保身化の機能によって、自我を確保・存続・発展しようとするのである。深層心理の超自我は、道徳観や社会規約によって、異常な行動を抑止しようとするのである。道徳観は、成長するに従い、周囲の大人から与えられ、また、社会規約は、自ら、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために体得していくものである。道徳とは、人のふみ行うべき道であるが、社会の秩序を成り立たせるために、個人が守るべき規範とされているものである。社会は、取り締まるべきことを、道徳観で取り締まり、それで果たせないならば、法律などの社会規約で取り締まるのである。それでも、人間は、深層心理が生み出した傷心・怒りなどの感情が強すぎると、深層心理の超自我乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。その時は、人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動することを抑圧しようとするのである。現実原則とは、フロイトの用語であり、自我が有利になるか不利になることを考慮して、行動の指令について考えることである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、行動の指令のままに行動することを抑圧できたとしても、後に、傷心・怒りの感情の下で、深層心理が納得するような、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考え出さなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多いのである。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることもある。自殺をする人もいる。しかし、表層心理で、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理で、意識して思考するまでもない、当然の行動だからである。また、現実原則とは、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望であり、それは、深層心理の瞬間的な思考と異なり、長期的な展望に立っている。表層心理でのこの思考活動が、広義での、理性である。しかし、人間は、表層心理で思考を開始するのは、常に、深層心理の思考の結果、生み出された感情と行動の指令という自我の欲望を受けてのことなのである。表層心理で独自に思考を開始することはないのである。しかも、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。さて、ハイデッガーは、「人間は、常に、何らかの感情や心境という情態性の中にあり、情態性が、自分の外の状況を知らしめ、自分の体内の状態を知らしめるとともに、自らの存在を認識させているのである。」と述べているが、感情とは、深層心理がもたらした、すぐに、一つの行動を起こすための心理状態である。心境とは、深層心理の中にある、長期の、一連の、継続した行動を起こすための心理状態である。つまり、感情も心境も、深層心理が引き起こした、行動を起こすための心理状態なのである。さて、人間が常に何らかの感情や気分の中にあるということは、人間は常に何らかの情態性にあるということである。情態性は、単なる心の状態ではない。人間は、情態性にあるから、それに応じて、いろいろな事象が認識でき、自分の状態が認識でき、自分の存在が認識でき、そして、行動を起こすことができるのである。逆に言えば、人間に情態性が無ければ、いろいろな事象も、自分の状態も、自分の存在も無味乾燥になり、何も認識できず、行動を起こすこともできないのである。情態性が、人間と人間の外なる現象を結びつけ、人間と人間の内なる現象を結びつけ、人間とその人の存在を結びつけ、行動を起こさせるのである。つまり、感情や気分が、人間の認識の起因であり、行動の起因なのである。つまり、感情や心境が無ければ、人間は、自己の外の現象も自己の内の現象も自己そのものの存在も認識できず、行動できないのである。その典型が、不安という心境の情態性である。人間は、常日頃、周囲に死者が出ても、いつか自分も死ぬだろうが、まだ、それは先のことだとして、自分にも死が確実に訪れるということを考えることを回避している。しかし、ある時、自分にも確実に死がやって来るのだと思う時や死を引き受けねばならぬ時がやって来る。死は回避できない、確実に自分にすぐにやって来るも思ったり、死を目前にした時、人間は、不安の情態性に陥る。人間は、不安に陥ると、自己そのものも、自己の内外の現象も、自己から滑り落ち、全く、行動を起こす気がしなくなる。言わば、無の状態に陥る。なぜ、不安の情態性に陥ると、無の状態に陥ってしまうのか。それは、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、他者から与えられたものだからである。不安の状態が、それを露見させ、無の状態におとしめるのである。ハイデッガーは、「他者(ハイデッガーの用語では「ひと」)から与えられた見方を、自分で構築した見方に変えない限り、不安の情態性、無の状態から逃れることはできない。」と言う。る。そして、ハイデッガーは、「自らの死を引き受ける覚悟、不安を辞さない覚悟を持てば、自己に対する見方も、自己の内外の現象の見方も、自分自身で、構築し直すことができる。」と言う。これが、ハイデッガーが実存主義者と言われるゆえんである。(ハイデッガー自身は、自らを、実存主義者ではなく、存在の思考者であると言っている。)さて、古来から、西洋でも、東洋でも、感情(深層心理が生み出した感情)を、理性(表層心理による思考)と対立した概念と見なし、理性が感情を克服することに人間の尊厳を見出していた。一般に、感情については、「喜怒哀楽や好悪など、物事に起こる気持ち。精神の働きを知・情・意に分けた時の情的過程全般を指す。情動・気分・情操などが含まれる。快い、美しい、感じが悪いなどというような、主体が情況や対象に対する態度あるいは価値付けをする心的過程。」と説明されている。つまり、辞書では、感情とは、自己の外にある事象についての単なる印象にしか過ぎないのである。このような捉え方をするのならば、感情を軽視するのもうなずける。そして、一般に、理性については、「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。真偽・善悪を識別する能力。古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」とされている。現代の見方も、古来の見方と同じなのである。まず、理性は「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」とあるが、「本能」について、心理学者の岸田秀は、「人間は、本能が壊れている。」と言っているように、人間の本能は定義できないのである。母性愛などは本能として存在しないのである。次に、「本能や感情に支配されず」とあるが、ハイデッガーが言うように、人間は、行動している時であろうと思考している時であろうと、必ず、心の奥底に、感情や心境が流れている。深層心理が、思考して、感情(や気分)と行動の指令という自我の欲望を生み出し、時折、表層心理で、それを受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が出した行動の指令の適否を思考するのである。つまり、理性と感情は、支配・被支配の関係ではないのである。次に、理性(表層心理による思考)が「道理に基づいて思考し」ているとあるが、人間は、既に、深層心理が思考しているのである。確かに、深層心理の思考は「快感原則」の思考であり、表層心理の思考は「現実原則」の思考であるが、いずれも「道理に基づいて思考し」ているのである。次に、理性(表層心理による思考)に「判断する能力」があるとされているが、これもまた、深層心理は「快感原則」の基づいて判断し、表層心理は「現実原則」の基づいて判断し、いずれにも「判断する能力」があるのである。しかも、理性(表層心理)の思考や判断が、正しいか間違っているかを判断するのは深層心理なのである。深層心理が、理性(表層心理)の思考や判断が正しいと判断すれば、心に、満足感・納得感を生み出し、それで、思考や判断は満足感・納得感を持って終了するのである。深層心理が、心に、満足感・納得感という快い感情を生み出さなければ、それが生み出されるまで、理性(表層心理)の思考や判断は継続するのである。つまり、思考や判断の最終的な決定者は、深層心理であり、深層心理の生み出した感情なのである。次に、理性(表層心理)に「真偽・善悪を識別する能力」があるとされているが、理性は、何の動力も無く、何の前提も無く、独自で、真偽・善悪を識別することはできない。必ず、心の奥底に、感情や心境が存在する。深層心理が生み出した感情や心境が動力となり、理性(表層心理)が、深層心理が出した行動の指令の適否を思考するのである。表層心理(理性)が動き出すまでに、既に、深層心理が、真偽・善悪を識別しているのである。深層心理の真偽・善悪の識別が、深層心理の真偽・善悪の識別の前提になっているのである。つまり、理性(表層心理)が、白紙の状態で、真偽・善悪の識別に取りかかるのではないのである。超自我で深層心理の識別の結果を抑圧できず、表層心理で、深層心理の識別の結果に不安を覚えたから、理性を使い、深層心理の識別の結果を前提にして、もう一度、事象の真偽・善悪を判断するのである。不安を覚えたことが、表層心理の理性の力になっているのである。次に、理性は「古来、人間だけが有し、動物は有していないとされ、人間が動物よりも優れている根拠の一つとされた。」について、考えてみる。確かに、動物は言語を有していないから、理性を有していないのは当然である。理性とは、言語を駆使してなされる思考判断能力とされているからである。しかし、理性を有していることは、優位性を意味しない。動物は、同種を殺すことは稀れである。集団で殺し合うことはない。人間だけが、日常的に、同種を殺し、集団で殺し合う。日常的に、殺人があり、戦争があるのである。アドルノは、「理性が、第二次世界大戦を引き起こし、殺し合いをさせた。」と言っている。深層心理が、まず、思考し、怒りや憎悪感情と残虐な行動の指令を生み出し、理性(表層心理)が、怒りや憎悪という感情と憎悪の下で、残虐な行動の指令の適否を思考した結果、人間は、殺し合うことになったのである。つまり、理性(表層心理)が戦争の抑止にならなかったのである。つまり、理性よりも感情に優位性があるのである。それは、深層心理は、常に、ある心境やある感情という情態性の下にあるからである。深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情にも動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の心境や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。人間がエゴイスティックであることは、深層心理が、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すというところに現れているのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、感情や行動の指令という自我の欲望を起こして、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時に、同時に、必ず、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。




自我を主体に立てるということについて。(自我その413)

2020-09-28 14:51:51 | 思想
人間は、カオス(混沌)の状態で生まれてきて、不安だから、コスモス(秩序)の状態を求め、構造体に所属し、自我を持とうとするのである。人間は、精神が安定するには、安定した構造体に所属し、安定した自我を有していなければならないのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、役割を担ったポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。人間は、構造体に所属し、自我を持って活動することによって、精神が安定するのである。構造には、国、県、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなど、大小さまざまなものがある。自我も、その構造体に付随して、さまざまなものがある。国という構造体では、国民という自我がある。県という構造体では、県民という自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体では、店長・店員・来客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我があるのである。確かに、人間は、自分として存在する。しかし、自分には、実態が存在しない。自分という固定したものは存在しない。自分は、単独では存在できない。自分は、他者や他人が存在する時に、もしくは、他者や他人の存在を意識した時に、存在するのである。だから、人間にとって、自分とは、単に、他者や他人と接する時に、もしくは、他者や他人を意識した時に、自らに対してが持つ意識でしか無いのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我を持って、暮らしている。孤独や孤立は、全ての構造体から追放されたわけでも全ての自我を失ったわけでもなく、一つの構造体からアイデンティティを失い、一つの自我が不安な状態にあるにしか過ぎないのである。人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのである。つまり、アイデンティティーを得て、自我が安定するのである。すなわち、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識していると言う自己認識だけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。人間は、自我が安定すると、深層心理が生み出す自我の欲望を満たすために生きることができるのである。人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持し、アイデンティティー得なければ、深層心理が生み出す自我の欲望を満たすために生きることができないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、安定した自我あっての自我の欲望の追求であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属し、安定した自我を持つことを望むのである。それは、安定した構造体でなければ安定した自我が得られず、安定した自我がなければ自我の欲望を追求できないからである。しかし、人間は、意識して、思考して、自我の欲望を生み出しているわけではない。人間の意識しての思考を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではない。人間は、無意識のうちに、安定した構造体、安定した自我を求めているのである。人間の無意識の思考を深層心理と言う。すなわち、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。だから、人間は、自己として存在することに憧れるのである。もしくは、自己として存在していると思い込んでいる。自己として存在するとは、自ら、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することである。人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の主体的な意識しての思考を、理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。そして、人間は、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者や他人から妨害や束縛を受けているからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれない。なぜならば、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。糸井重里が、1988年、西武百貨店ために作ったキャッチコピーの「ほしいものが、ほしいわ。」という言葉は、深層心理によって、何かに向かわされない、退屈で、不快な時から逃れたい、人間の心情を表している。全文は次の通りである。「欲しい物はいつでもあるけれど無い。欲しい物はいつでも無いんだけれどもある。本当に欲しい物があるとそれだけでうれしい。それだけは欲しいと思う。ほしいものが、ほしいわ。」この文ほど、深層心理が生み出す自我の欲望を待つ気持ちを表している文章は存在しない。まさしく、人間は、常に、深層心理から湧き上がってくる自我の欲望という衝迫を待ち受けて暮らしているのである。人間は、表層心理で、自ら意識して思考して、欲望を生み出すことはできない。特に、現代は、自由な、消費中心の時代だと言われているから、ますます、人間は、深層心理の内面から湧き上がってくる自我の欲望を待つ気持ちが強いのである。しかし、自由とは、常に、退屈を伴っているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。深層心理が生み出した自我の欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。人間の最初の構造体は家族であり、最初の自我はこの家の子(息子・娘)である。家族という構造体に所属し、この家の子(息子・娘)だという自我意識が得られて、初めて、安心感が得られるのである。自我の成立は、アイデンティティーの確立を意味する。幼児の深層心理(無意識の世界)の中に、自分はこの家の子(息子・娘)という自我が成立したということは、自分はこの家という構造体の子(息子・娘)というアイデンティティーが確立したことを意味するのである。すなわち、幼児は、深層心理で、家族や親戚や近所の人々からこの家の息子・娘だと見なされていることを感じ取り、そこに安心感・安住の位置を得たから、自ら、この家という構造体の息子・娘であるという自我を積極的に容認したのである。つまり、この家の子(息子・娘)であるというアイデンティティーの確立があって、初めて、この家という構造体の子(息子・娘)であるという自我が成立したのである。ここにおいて、幼児は、自らの無意識のうちに、深層心理は、家族という構造体の子(息子・娘)であるという自我の確立とともに、家族という構造体内の父・母・(兄・姉)、家族という構造体外の親戚や近所の人々という他者が区別できるようになったのである。幼児がこの家の子(息子・娘)だという自我を持ったということは、彼・彼女が動物を脱し、人間になったということ、つまり、人間界に入ったことを意味するのである。しかし、彼らは、この家という構造体の息子・娘という自我を持ち、人間になった時から、母親・父親に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのである。つまり、人間は、自我が安定すると、自我が発展するように、自我の欲望を生み出すようになるのである。なぜならば、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているからである。快感原則とは、心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。幼児の深層心理は、家族という構造体の中で、息子・娘という自我の安定という快楽を得たから、次は、息子・娘という自我の発展のために、自我の欲望を生み出すのである。それが、エディプスの欲望である。エディプスの欲望とは、最も自分に親しげに愛情を注いでくれる異性の親という他者に対する性愛的な欲望である。人間界に入るということ、つまり、人間になるということは、異性の他者に対して性愛的な欲望を抱けるということなのである。つまり、幼児が、人間になれば、すなわち、この家という構造体の息子・娘であるという自我が成立すれば、異性の親である、母親・父親に対して性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱き始めるのは当然なのである。これが、フロイトの言う、エディプスの欲望である。母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)、すなわち、エディプスの欲望をかなえることが、幼児期における人間の共通の欲望なのである。しかし、もちろん、この欲望は決してかなえられることは無く、絶望することになる。それは、男児の母親への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には、父親が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、父親に味方するからである。そこで、男児は、この家で生きていくために、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自らの欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の発展を抑圧するのである。また、同様に、女児の父親への性愛的な欲望(近親相姦的愛情)には、母親が大きな対立者として立ちふさがり、絶対的な裁き手としての社会(周囲の人々)もこの欲望を容認せず、母親に味方する。そこで、女児も、また、この家で生きていくために、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために、自らの欲望を、深層心理(無意識の世界)の中に抑圧するのである。つまり、自我の安定のために、自我の発展を抑圧するのである。これが、フロイトの言う、所謂、エディプス・コンプレクスである。つまり、人間になるということは、家族という構造体において、この家の子(息子・娘)であるというアイデンティティーが確立され、この家という構造体の子(息子・娘)であるという自我が成立した時から始まるが、それとともに、エディプスの欲望という自我の発展のための欲望が生じるのである。もちろん、それは、社会的には、かなえば悪事である欲望だから、他者から反対され、自ら抑圧するのである。しかし、幼児だから、このような、かなえば悪事となる欲望を抱くのではない。人間は、死ぬまで、かなえば悪事となる欲望を抱き続けるのである。なぜならば、人間は、死ぬまで、常に、何らかの構造体に属し、何らかの自我を持っているから、自我が安定すれば、自我の発展のために、さまざまな自我の欲望が、深層心理から湧いてくるからである。深層心理の快感原則には、道徳観や社会規約が無く、自我の安定、そして、自我の発展を基礎としているから、深層心理が生み出した自我の欲望には、かなえば悪事となる欲望は、必ず、存在するのである。特に、男児・女児には、深層心理の快感原則だけでなく、深層心理の超自我にも、表層心理の現実原則にも、道徳観や社会規約が無いから、深層心理から湧き上がった母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抑圧するのは、もちろん、道徳観や社会規約からではなく、父親・母親そして社会(周囲の人々)が容認しないからである。超自我とは、日常生活をルーティーンに、すなわち、昨日と同じように送ろうという欲望である。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。しかし、幼児期以後も、母親・父親に対する性愛的な欲望(近親相姦的愛情)を抱く者が存在するが、その時は、深層心理の超自我、表層心理の道徳観や社会規約で抑圧するのである。道徳観は、成長するに従い、周囲の大人から与えられ、また、社会規約は、自ら、社会(周囲の人々)の中で生き延びるために体得していくものである。道徳とは、人のふみ行うべき道であるが、社会の秩序を成り立たせるために、個人が守るべき規範とされているものである。社会は、取り締まるべきことを、道徳観で取り締まり、それで果たせないならば、法律などの社会規約で取り締まるのである。それでも、本質的に道徳観や社会規約の無い深層心理の快感原則はは、自我の安定、発展のために、非道な欲望も次々に生み出してくるのである。その度に、人間は、深層心理の超自我、表層心理の現実原則で取り締まっている。しかし、深層心理が生み出す自我の欲望の感情が強すぎると、人間は、深層心理の超自我や表層心理の現実原則を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。それが、時には、偉大なものを創造することもあるが、往々にして、犯罪に繋がるのである。芸能人が不倫すると、「あんなに美しい奥さんがいるのに。」、「あんなに尽くしてくれる奥さんがいるのに。」、「あんなに愛してくれる旦那さんがいるのに。」、「何不自由なく暮らしているのに。」などと、マスコミや大衆は非難する。しかし、不倫した芸能人は、安定した生活に満足できないのである。確かに、不倫した芸能人も、最初は、安定した生活を求める。しかし、生活が安定すると、次は、発展した生活を求めるのである。人間、誰しも、不倫が道徳に反した行為だとわかっている。しかし、人間は、深層心理の快感原則が生み出した自我の欲望の感情が強すぎると、深層心理の超自我や表層心理の現実原則を乗り越えて、自我の欲望をかなえようとするのである。人間は、現状に満足できないのである。その状態を、作家の埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、ニーチェは「力への意志」と呼び、ハイデッガーは「欠如態」と読んでいる。「自同律の不快」は、単に、現状に満足することの不快感であるが、「力への意志」は力強い思想である。「力への意志」とは、「人間が自然法則を見出さなければ、自分にとって、この世界は混沌とした状態のままである。」や「自分が生きる法則を見つけなければ、自分は他者の言うがままの状態で生きることになる。」という思いで、自然法則や生きる法則を発見し、その法則の下で生きようとすることである。「力への意志」とは、ニーチェの根本思想である。「力への意志」は「権力への意志」とも言われる。そのために、「力への意志」は権力者になろうという意志のように解釈する人がいる。確かに、権力者になろうという意志は「力への意志」の一つであるが、それのみに限定すると、「力への意志」は一部の人にしか通用しないことになる。「力への意志」は全ての人に当てはまる思想なのである。「力の意志」は、一般に、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲、さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」などと説明されている。この説明の中で、「他を征服同化し、一層強大になろうという意欲。」は、他者に関わる自我の積極的な姿勢を示している。「力への意志」とは、自我の安定に満足せず、自らが発見した生きる法則の下で、自我の存在を大きくし、自我の存在を他の人から認めてもらいたいという飽くなき自我の発展への欲望なのである。また、「さまざまな可能性を秘めた人間の内的、活動的生命力、不断の生成のうちに全生命体を貫通する力、存在の最奥の本質、生の根本衝動。」という説明は、人間の自我の内からほとばしる生命の躍動的な動きを「力の意志」だとしているのである。つまり、「力への意志」とは、自らが発見した生きる法則の下での自我の積極的な力の発露であることを意味しているのである。ニーチェが「神は死んだ」と叫び、現世の自我において幸福を求めることを説いたのも当然のことである。また、ニーチェは、「人間は、力の意志を意志することはできない。」と言う。つまり、「力の意志」は意識して生み出すものではなく、無意識のうちに住みついていると言うのである。しかし、無意識と言っても、それは、無作為、無造作なものではない。人間は、無意識のうちで、思考するのである。だから、無意識の思考を深層心理と言い、人間の意識しての思考を表層心理と言うのである。深層心理が、自我を主体に立てて、「力への意志」によって、自我の案手に満足せず、自我の発展のために思考するのである。ハイデッガーの言う「欠如態」とは、人間の、常に、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足せず(「欠如態」として見て)、次の高い段階に進もう(進ませよう)と考えている(「完全態」を追い求めている)状態を言う。人間は、一生、これを繰り返す。言わば、カミユの言う「シーシュポスの神話」である。シーシュポスは、一生、地下の石(「欠如態」)を地上に運ぶこと(「完全態」)を繰り返すのである。ハイデッガーは、「人間は、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をしている。」と言う。これが、「全ての現象を欠如態として見るあり方」である。簡潔に、「欠如態としての見方」とも言われている。人間を「欠如態としての見方」(「全ての現象を欠如態として見るあり方」)をする動物として捉える考え方は、卓越した見識、有効な思考法であるが、一般に解説されることは少ない。ただし、サルトルは重要視し、「即自それ自体は無意味な物質的素材のあり方であり、対自はこの素材を意味づける意識のあり方である。」と述べている。サルトルはハイデッガーとは異なった言葉を使っているが、サルトルの言う「対自の意識のあり方」が、ハイデッガーの言う「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)なのである。さて、人間の心は、「欠如態」を「完全態」にするという思いが叶いそうな時は希望が湧き、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうな時、苦悩や絶望の状態に陥る。人間は、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(欠如態としての見方」)に突き動かされて活動し、それが人類の歴史になったのである。人間は、生きている間、「欠如態」を満たして「完全態」にするために、馬車馬や競馬馬のように突き進むしかないのである。馬車馬は御者に操られて、競馬馬は騎手に操られて前に突き進んでいるが、人間は、深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)に操られて、「欠如態」を「完全態」にするように活動するしかないのである。そして、馬車馬は御者から離れ、競走馬は騎手から離れれば自由のようであるが、実際は、その時、彼らは殺されるのである。つまり、彼らは、生きている間、御者、騎手に操られ、前に突き進むしかないのである。人間も、表層心理(自分の意志)で深層心理(自らの心の底から湧き上がってくる思い)から離れることができれば、現在の物事や他者や自分自身の状態に満足でき、「欠如態」として見ることがなく、そのまま「完全態」として見るから、次の高い段階に進むように考えさせられ行動させられることが無いから自由であり、楽な状態になるように見える。しかし、実際は、人間の表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)に届くことが無いから、そのような自由で楽な状態は来ないのである。表層心理(自分の意志)は深層心理(自分の心の底から湧き上がってくる思い)を支配できないからである。サルトルは、「現在の物事や他者や自分自身の状態に満足し、欠如態として見ることがなく、そのまま完全態として見るあり方」を「即自の意識のあり方」と呼んでいる。そして、サルトルも、人間には「即自の意識のあり方」は身につくことはないと言っている。しかし、サルトルは、「人間は、自由へと呪われている。」とも言っている。サルトルの言う「自由」とは「表層心理(自分の意志)」という意味であり、「呪われている」とは「運命づけられている」という意味である。つまり、サルトルは、「人間は、表層心理(自分の意志)で、常に、物事や他者や自分自身を、欠如態として見て、その欠如が満たされた状態である完全態を求め、時にはそのようになることを期待し、時にはそのようになるように努力するあり方をするように運命づけられている。」と言っているのである。ここから、サルトルは、「表層心理(自分の意志)」で考え、行動したのだから、自分の行動に責任を持てと言っているのである。サルトルの責任論は潔い。しかし、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見るのは、「表層心理(自分の意志)」ではなく、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)なのである。もしも、「表層心理(自分の意志)」で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているのならば、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥る前に、自由に、これまで「欠如態」として捉えていた物事や他者や自分自身を、別の物事や他者や自分自身に換えることができるはずである。また、自由に、これまでの「完全態」を別の「完全態」に換えることができるはずである。しかし、これまでの「欠如態」も「完全態」も別の「欠如態」にも「完全態」にもできないのである。深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)で、物事や他者や自分自身を「欠如態」として見ているからである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)につきまとわれ、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)に操られ、自由になれないのである。つまり、人間は、生きている間、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)が捉えたように、現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めるしかないのである。さて、人間は、同じ現在の物事や他者や自分自身の状態を「欠如態」として見ても、求める「完全態」は、必ずしも、一致しない。例えば、同じ三日月を見ても、次に、半月を期待する人、満月を期待する人とさまざまなのである。中学三年生が国語で65点を取っても、次に80点を目指す人、90点を目指す人、100点を目指人、少し点数が上昇すれば良いと考えている人とさまざまである。それは、それぞれの人の深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)のあり方がさまざまだからである。また、マスコミの情報から、世の中には、いろいろな悩みを抱えている人がいることがわかる。「生きがいが無い。」と嘆く二十代の若者、「生まれてこの方、一度も彼女がいない。」と嘆く三十代の若者、「子供がいない。」と嘆く四十代夫婦、「友達がいない。」と嘆く女子高校生、「美人ばかりが得をしている。」嘆く二十代の女性などさまざまである。彼らは、現在の自分の状態を「欠如態」として見て、「完全態」を追い求めたいと考えているのだが、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われるので、悩んでいるのである。言うまでも無く、彼らの「完全態」は、生きがいがあること、彼女がいること、友達がいること、美人であることである。しかし、傍から、「諦めた方が良いよ。」と言って楽にさせようとしても、かえって、逆効果になり、本人を傷つけることが多い。なぜならば、諦めろの言葉は、本人にその能力が無いことを意味しているからである。また、現在の自分の状態を「欠如態」として見て「完全態」を追い求めるあり方は、本人の深層心理(思い)が為すことであり、表層心理(意志)では、どうすることもできないことだからである。諦めさせるのには、「諦めろ」という言葉掛けのような敵(本人の深層心理)の正面から攻めような大手の方法を取らず、自然に諦めるような状況を作ったり、優しく説得したりなどして、敵(本人の深層心理)の裏面から攻めるような搦め手の方法が取った方が良いだろう。そうすれば、本人が、深層心理(自分の心の底から湧き上がる思い)から諦める可能性が大なのである。また、たいていの人は、複数の「欠如態」を持っている。一般に、深層心理の敏感な人ほど、「欠如態」が多い。だから、一般に、深層心理の敏感な人ほど、悩みが多いのである。しかし、「欠如態」はマイナスばかりではない。人間に、「欠如態」があるからこそ、満足感や幸福感という快楽が得られるからである。満足感や幸福感は、「欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、得られるからである。つまり、人間には、先天的に、「全ての現象を欠如態として見るあり方」(「欠如態としての見方」)が備わっているから、「欠如態」を「完全態」にする(「欠如態」が「完全態」になる)ことによって、満足感や幸福感を得ることができ、「欠如態」が「欠如態」のまま留まりそうに思われる時、苦悩や絶望の状態に陥るのである。だから、人間の深層心理は、永遠に、自我の安定に満足できず、自我の発展のために自我の欲望を生み出し続けなければならないのである。


欲動について。(自我その412)

2020-09-26 13:28:02 | 思想
人間は、自らの存在を意識することがある。すなわち、自らの現在の感情、自らが現在行っている行動を意識することがある。しかし、人間は、自ら意識して思考して、すなわち、自らの意志によって、感情を持つことはできず、行動を生み出すことはできない。人間は、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その自我の欲望に動かされて生きているのである。深層心理とは、人間の無意識のうちでの思考である。つまり、人間は、自ら意識せず、自ら意志無くして、思考したものによって、動かされているのである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、ある自我を持して行動しているのである。構造体と自我の関係は次のようになる。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。確かに、人間は、自ら意識して思考することもある。それは、表層心理での思考である。多くの人は、思考とは自ら意識して行うことだと思っている。すなわち、多くの人は、表層心理での思考を思考だと思っている。しかし、表層心理での思考は、深層心理が思考して生み出した感情の下で、深層心理が思考して生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するかを審議するためにのみ使われるのである。表層心理独自の思考は存在しないのである。しかも、人間は、意識することなく、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが、所謂、無意識の行動である。日常生活が、ルーティーンという同じことを繰り返すことによって成り立っているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間は、意識して思考することなく、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その自我の欲望のままに行動しているから可能なのである。そして、深層心理は、欲動に動かされて、思考しているのである。深層心理は欲動に基づいて思考するのである。深層心理は欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望に動かされて生きているのである。欲動は、深層心理をして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させ、人間を行動へと駆り立てているのである。欲動は深層心理に内在している欲望である。深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動くのである。だから、人間は、自ら、意識して、表層心理で、思考して行動しているのではないのである。フロイトは、欲動(リピドー)として、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、欲動(リピドー)として、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げている欲動(リピドー)は狭小であり、ユングが挙げている欲動(リピドー)は曖昧であり、両者とも、人間の全ての感情と行動を説明できないのである。むしろ、欲動は四つの欲望によって成り立っていると考えると、人間の全ての感情と行動を説明できるのである。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動は、深層心理をして、自我に執着して、思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。人間は、自己に捕らわれた利己主義の動物だと言われているが、厳密には、自我に捕らわれた利我主義の動物なのである。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。つまり、人間は、自我の欲望を満たすために生きているのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。人間は、他者を、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としてみている。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保・存続・発展したい、自我を他者に認めてもらいたい、他者・物・現象を支配したい、他者と心の交流をはかりたいという欲望であるからである。人間は、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。自我は、自分や自己とは、微妙に異なっている。自分は、単に、他者に対して、自らを指し示すしかものでしかない。だから、自らを指し示す必要があれば、自分という言葉は、いついかなる時でも、どのような他者に対してであろうと、使うことができる。つまり、どのような自我であろうと、自分という言葉を使うことができる。自己は、自らの主体である。しかし、人間は、常に、構造体の中で生き、自我は他者によって与えられるから、主体は存在しないのである。人間は、構造体の中で生きるしかないから、自らの現象が自我なのである。人間は、常に、人間の組織・集合体という構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である自我としてしか行動できないのである。ある男性は、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。ある男性は、家族という構造体では、父という自我であり、学校という構造体では、校長という自我であり、店という構造体では、客という自我であり、電車という構造体では、乗客という自我であり、夫婦という構造体では、夫という自我である。ある女性は、家族という構造体では、母という自我であり、銀行という構造体では、行員という自我であり、店という構造体では、客という自我であり、電車という構造体では、乗客という自我であり、夫婦という構造体では、妻という自我である。ある男性は、家族という構造体では、息子という自我があり、学校という構造体では、生徒という自我であり、店という構造体では、客という自我であり、電車という構造体では、乗客という自我であり、仲間という構造体では、友人という自我である。ある女性は、家族という構造体では、娘という自我があり、学校という構造体では、生徒という自我であり、店という構造体では、客という自我であり、電車という構造体では、乗客という自我であり、仲間という構造体では、友人という自我であり、カップルという構造体では、恋人という自我である。人間は、自分や自己においては、欲望を抱かない。人間は、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、自我を持することによって、深層心理が、自我の欲望を生み出すことができるのである。人間は、深層心理が、他者・物・現象に働き掛けるという自我の欲望を生み出し、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているのである。人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。深層心理に対して、人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在するのである。人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできない。人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、深層心理が思考して生み出した自我の欲望の現れなのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。しかし、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。だから、自己は存在していないのである。しかも、自我も、深層心理によって動かされているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持しているから、そこに、常に、他者が存在し、若しくは、介在している。自我が存在しているから、他者がそばにいたり、他者に呼び止められたりすると、常に、自我を自己として意識するのである。人間は、社会的な存在であるから、自己は、人間にとって、単に、自らを指し示すことにしか過ぎず、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我であるから、構造体の中での自我が重要なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。人間は、自我が安定すると、自我の欲望を満たすために生きることができるのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。人間は、他者を、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としてみている。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたいという欲望であるからである。人間は、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。人間は、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、自我を持することによって、深層心理が、自我の欲望を生み出すことができるのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動している。まず、自我を主体に立てることであるが、それは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。人間は、表層心理で、意識して思考して、主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。それには、二つの理由がある。一つは、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。人間は、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。つまり、人間は、本質的に、主体的に思考できず、行動できないのである。もちろん、自我が快楽を得るということは、深層心理が快楽を得るということである。言うまでも無く、深層心理が快楽を得るということは、人間が快楽を味わうということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。そして、自我が快楽を得るために、他者を目標にしたり、若しくは、他者を道具にしたりするのである。だから、深層心理にとって、他者のために自我があるのでは無く、自我のために他者が存在するのである。それ故に、人間関係とは、利用し、利用される関係である。だから、人間は、自我が主体的に思考する以前に、すなわち、表層心理で、自ら意識して、思考する以前に、深層心理が、既に、自我を主体に立てて、自我の快楽のために自我の行動を考えているのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な存在者でもないのである。次に、心境であるが、それは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心がまっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情に動かされているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。人間は、不得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させるのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境や感情が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、苦しいという感情が消すことができれば良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、欲動にとって、深層心理をして、感情や行動の指令という自我の欲望を起こさせて、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、欲動にとって、すなわち、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。すなわち、表層心理で、意識して思考して、心境を変えることができないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同意語である。気分転換とは、気分に直接的に働き掛けて変えるのでは無く、何かをすることによって気分を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができず、何かをすることによって、心境を変えるのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。次に、快感原則であるが、それは、スイスで活躍したフロイトの用語であり、快楽を求め不快を避けようとする欲望である。ひたすら、その時その場での、瞬間的な快楽を求め不快を避けたいという深層心理の欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、傷心も不快感に属している。もしも、自我が他者から心が傷つけられたならば、深層心理は、自我が下位に落とされた傷心という不快感から脱却するために、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を復讐に走らせることによって、自我を下位に落とした相手を下位に落とし、自我が上位に立つことによって、満足感という快楽を得ようとすることもあるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、深層心理は、人間の無意識のうちに思考して、感情と行動の指令を対にして生み出し、感情の力によって行動をかなえようとするのである。つまり、感情とは行動の強さであり、行動の指令は具体的な行動を指し示しているのである。例えば、深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は殴るという具体的な行動の力になり、自我に殴ることを強く促すのである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している欲望の集合体である。欲動が、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させているのである。深層心理は欲動に基づいて思考しているのである。人間は、表層心理で、意識して、深層心理に直接的に働き掛けることはできないが、欲動は深層心理が動かしているから、尚のこと、働き掛けることはできないのである。欲動は四つの欲望によって成り立っている。深層心理に内在する欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、自我が他者に認められたいという欲望、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、この四つの欲望に基づいて、快楽を求め不快を避けようとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。まず、欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化という作用であるが、深層心理が、構造体の自我を確保・存続・発展させることによって、安心感という快楽を得ようとすることである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、表層心理で思考すること無く、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。確かに、毎日が、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、上司から叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情と反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために自我を抑圧し、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧するのである。そして、ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強く、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。その一例が、先に述べた、怒りという感情と復讐という行動である。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、自我の対自化化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」と言う現象である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。現実原則も、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。フロイトによれば、超自我とは、道徳観や社会的規約によって、自我の欲望を抑圧することである。しかし、深層心理に、道徳観や社会的規約を有しない快感原則と道徳観や社会的規約を有する超自我が同居することになるから、矛盾することになる。超自我は、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧することである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。その時、人間は、表層心理で、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。さて、ハイデッガーは、人間は突然不安に襲われると言う。不安は、恐怖とは異なる。恐怖は、自我が他者に認められないかも知れないという虞、自我が他者に奪われるかも知れないという虞である。不安は、自己が存在しないという主体不在の認識、自我すらも主体的に動かすことができないという主体不在の認識から来る。しかし、人間は、世事に紛れて、不安を打ち消そうとする。しかし、世事に紛れることによって、恐怖を忘れることはできるが、不安は忘れることはできないのである。だから、人間は、一生、不安に襲われ続けるのである。人間は、自我に捕らわれた欲動によって、深層心理をして、自我を主体に立てて、思考して、自我の欲望を生み出させ、それによって、行動しているから、つまり、表層心理で、自己で主体的に思考できないから、一生、不安に襲われ続けるのである。





国という構造体、そして、愛国心について。(自我その411)

2020-09-25 12:34:59 | 思想
人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、全ての日本人は、日本という構造体に執着し、日本人という自我に執着するのである。構造体には、国以外に、都道府県、市区町村、家族、会社、学校、カップル、仲間、宗教団体などさまざまなものがある。人間は、いついかなる時ども、構造体に所属している。人間は、いついかなる時ども、構造体に所属して、自我を持して行動している。人間は、構造体を離れて、存在できない。自我を持たずして、存在できないのである。人間は、自らの存在を保証するから、すなわち、自我を成立させるから、構造体を愛するのである。だから、世界中の人々は、誰しも、自分が所属している国を愛しているのである。すなわち、愛国心を持っているのである。日本人は、自分が所属している日本という国を愛している。また、誰しも、愛郷心を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷を愛している。誰しも、自分の家族を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ場所を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれている人を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる人を愛しているのである。宗教心を持っている人は、誰しも、。自らが帰依している宗教の共同社会、すなわち、教団を愛しているのである。人間は、自我として存在し、自我は構造体あって成立するから、構造体を愛するのである。ハイデガーは「現存在は世界-内-存在している」と言うが、実際には、人間は構造体-内-存在していて、自我として生きているのである。だからこそ、構造体を愛するのである。人間は、構造体に所属し、構造体内の他者人々にその自我が認められて初めて自分の存在を確認し、安心できる動物なのである。また、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属して自我を所有しているという意識だけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受けているという意識が必要なのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。さて、テレビ番組や書物で、愛国心の有無、強弱に関してアンケートを取り、解説する人がいる。しかし、それは全く無意味である。日本人ならば、誰でも、愛国心を持っていて、強弱を測ることはできないからである。確かに、日本が嫌いだという人も稀れには存在する。しかし、それは、自分の理想とする日本のあり方と現在の日本の状態が異なっているからであり、決して、愛国心を失ったわけではない。国民という自我が存在する限り、愛国心が無くなることはない。もちろん、愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々が持っている。なぜならば、愛国心とは、国民という自我が形成しているものだからである。人間は、国民という自我があるから、世界が国という形に分離された中で、国を形成している者の一人として活動できるのである。それが愛国心である。だから、愛国心は、愛郷心、家族愛、愛社精神、愛校心、恋愛、友情、信仰心と同じように、自我が形成しているのである。さて、愛国心を声高に叫び、中国、北朝鮮、韓国などに対して対抗心を燃やす日本人が数多く存在する。彼らは、自分の考えや行動に同調しない人を、売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。売国奴とは、敵国と通じて国を裏切る者であり、非国民とは、国民としての義務を守らない者であり、反日とは、日本に反対すること、日本や日本人に反感をもつことである。つまり、売国奴、非国民、反日のいずれも、日本に対して自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる人たちが生み出した言葉なのである。彼らは、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らないのである。また、憂国を唱える人も存在する。そして、自らを憂国の士と言う。憂国とは、国家の現状や将来を憂え案ずること、国家の安危を心配することである。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特に特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方を絶対視できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の国家像を絶対視し、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。幼稚である。もちろん、中国の人々や北朝鮮の人々や韓国に人々にも、愛国心はある。特に、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちも、歪んだ、憂国の士である。憂国の士は、相手の立場を理解しようとせず、相手の主張を聞こうとせず、自らの愛国心に酔って、まっしぐらに突き進むのである。それが高じて、戦争に発展することもあるのである。愛国心に酔うと、危機的な状況を招くのである。だから、愛国心とは、一般に言われているような、手放しに、評価すべきものではないのである。しかし、国が存在する限り、国民が存在し、国民は必ず愛国心を有する。愛国心を持てない国民は悲劇である。国が存在しない国民、国にプライドを持てない国民は、悲劇である。国のことを考えると、国民という自我が精神的に不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。それは、中国の人々、北朝鮮の人々、韓国の人々も同様である。そのことに思いを致すことなく、日本人としての自我を強く主張すれば、中国、北朝鮮、韓国と対峙するしかないのである。ヘイトスピーチをして、中国国籍の人、韓国国籍の人、北朝鮮国籍を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。大勢の日本人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしている。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと言っている。彼らは、彼らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと非難する。しかし、彼らは、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国に所属しているからである。自分に日本人という自我が与えられているから日本という構造体を愛しているのである。ただ、それだけのことなのである。それは、他の日本人も同じである。そして、それは、県出身者という自我を与えられているからその県という構造体を愛し、長男という自我が与えられているから家族という構造体を愛し、社員という自我を与えられているから会社という構造体を愛し、その高校の出身者という自我が与えられているその高校を愛し、カップルという構造体になってくれているから恋人を愛し続け、友人になってくれているから仲間という構造体を愛するのと同様である。人間の存在を保証するものは構造体と自我であるから、人間は自我同様に構造体を愛すのである。日本人は、日本人という自我を与えらえているから、日本を愛しているのである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、自分を愛しているのである。それに気づかないので、愛国無罪のような罪を犯すのである。それは、また、愛郷心、家族愛、愛社精神、愛校心、恋愛、友情、宗教心も同様である。真実は、自分を愛しているのである。しかし、愛国心とは、畢竟、自分を愛していることだと認めることは、決して、愛国心の終わりではない。愛国心の始まりである。愛国心は自分を愛していることだと認めることは、そこに愛国心はあるが、愛国心に酔うことはないからである。さて、右翼と左翼ともに愛国心があるが、愛国心のあり方、すなわち、国の愛し方が異なっている。右翼は、国家を至上の存在と見なし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重しようとする考えを抱いている人々である。左翼は、個人を至上の存在と見なし、国家が個人を犠牲にしようとするならば、それは誤った国家思想に導かれているという考えを抱いている人々である。だから、国家を第一に考える右翼と、国家と個人は対立した概念ではなく、国家は個人のためにある考える左翼とは、本質的に、相容れないのである。もちろん、愛国心が無い国民は存在しない。だから、国民の誰もが、いつでも、右翼に的な心情に陥る可能性があるのである。ラグビーのワールドカップで日本チームを応援している時も、戦前の太平洋戦争などの戦争に積極的に参加した時も、日本人は、愛国心によって行動したのである。だから、右翼は、敢えて、国民を右翼的な心情に陥らせるような状況を作ろうとするのである。左翼も、もちろん、愛国心を有しているが、愛国心に溺れることを潔しとしない。それは、個人の存在を第一と考えるからである。だから、左翼は、敢えて、反右翼、非右翼の立場を取るのである。右翼と距離を置き、自らを活かすために、自国の動き、自国民の動き、他国の動き、他国民の動き、国際的な動きを観察して、行動するのである。しかし、右翼は、愛国心に浸り、感情的に行動する。行動右翼という言葉があるが、実際には、行動しない右翼は存在しない。隠忍自重という言葉は右翼には似つかわしくない。国の立場が不利だと思えば、いつでも、右翼は、感情的に、激しい行動をする。それが、愛国心に埋没している者の宿命である。しかし、確かに、右翼の行動は感情的であるが、決して、無目的でも、無論理でもない。愛国心によって突き動かされた行動だからである。愛国心が、国益、国威発揚という目的、国の汚辱や屈辱を晴らすにはどうすればよいかという論理の下で思考させ、行動させるのである。愛国心という感情が動力の主体になっているから、容易に、右翼は激しく行動するのである。だから、右翼は、暴力を厭わない。右翼は、暴力を暴力と思わず、国家のための自己犠牲だと思っている。だから、暴力的には、右翼が左翼より優っている。右翼と左翼が喧嘩をすれば、必然的に、右翼が勝つことになる。また、右翼自体、暴力を振るうことをためらわない。暴力が、彼らの愛国心の現れだからである。それは、国同士が戦争をした場合、残虐な国の方が勝利するのと同じである。また、右翼は、国家権力と一体化する傾向がある。それは、右翼は、国家の存在を第一と考えるから、国家権力にとって都合が良いからである。だから、左翼が、国が民主主義を失っている時は、もちろんのこと、民主主義で運営されている時でも、右翼や国家権力を批判する場合、暴力による反撃、不当な逮捕、拷問、そして、死さえも引き受ける覚悟が必要である。現に、日本には、明治維新以来太平洋戦争に敗北するまで、民主主義・民主政治は存在せず、左翼は、右翼と国家権力から、暴力、不当な逮捕、拷問、暗殺、冤罪による死刑という被害を受けて来たのである。しかし、日本国憲法をいただき、民主主義国家になったはずの戦後においても、皇室、アメリカ、右翼、現政権を批判すると、暴力、不当な逮捕、暗殺の虞があるのである。日本は、戦後においても、せっかく、日本国憲法という民主主義を原則とした憲法を頂いたのに、民主主義国家となりえなかったばかりでなく、時代に追うごとに、ますます、民主主義から離れていくのである。また、右翼は、愛国心から発生し、国家を至上の存在と見なし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重する考えを抱いてい人々であるから、その成立時期は早い。少年でも、簡単になれる。なぜならば、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者ならば、誰しも、愛国心を抱き、その人が、個人を犠牲にしてでも国家を尊重するという考えに到達するのは、容易なことだからである。だから、戦後においても、大事件が、右翼の少年によって引き起こされているのである。その例を二つ挙げる。一つの例は嶋中事件である。深沢七郎の小説『風流夢譚』」が雑誌『中央公論』に掲載され、右翼が「皇室に対する冒瀆で、人権侵害である。」として中央公論社に抗議をしていたが、大日本愛国党の少年は、1961年2月1日、同社社長宅に侵入し、応接に出た同社長夫人をナイフで刺して重傷を負わせ、制止しようとした同家の家事手伝いの女性を刺殺した。もう一つの例は浅沼事件である。日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、1960年10月12日午後3時頃、東京日比谷公会堂で演説中、少年に刺殺された。彼は、一時、赤尾敏が総裁である大日本愛国党に入党していた。「日本の赤化は間近い。」という危機感を抱き、容共的人物の殺害を考え、街頭ポスターで演説会を知り、犯行に及んだのである。後に、少年鑑別所の単独室で、壁に『七生報国』、『天皇陛下万歳』と書き残して、自殺した。それに比べて、左翼の成立には時間が掛かる。左翼は、まず、自らの中に思想が存在しなければならない。そうしないと、国家権力と右翼に流されるからである。思想の構築には、自らの経験と先人の思想から学ぶことが必要である。その上、さらに、左翼は、自国と他国、世界、現在と未来に思いを馳せ、自国の政治権力者並びに他国の政治権力者に対峙し、自国民だけでなく他国民を納得させ、延いては、世界の人々に理解してもらうだけの深い思考が自らの中に存在しないと、自分が活かされないと考える。他に訴える力がなく、時代に流されてる思想を構築しないと、自己が活きないと考えるから、その成立は困難を極めるのである。戦後、財界の大物が、戦前・戦時中を振り返って、「金を使えば、右翼よりも左翼を転ばすのが簡単だった。」と言っているが、故なき話ではない。本物の右翼は、国家の利益を第一と考え個人を犠牲にするから、金で転ばないのである。しかし、本物の左翼は、確固たる思想によって自我が形成されているから、金で転ぶことは無い。しかし、似非左翼は、安直な人道主義や立身出世やかっこよさや利害によって成ったから、金で転ばすことは容易なのである。すなわち、似非左翼は転向しやすいのである。本物の左翼は容易に転向しないが、それは、自ら構築した思想が自我となっているからである。本物の左翼は、自らの思想を自我としているので、政治権力や右翼勢力の弾圧にあっても、それに屈することはない。転向することは、自我を捨てること、つまり、自分自身を捨てることを意味するからである。人間にとって自我を捨てることは死ぬことに等しいのである。似非左翼は、自らの思想が自我になっていないから、それを捨てることは簡単なのである。それに比べて、愛国心を主軸にし、国益、国威発揚、汚辱や屈辱を晴らすことだけを目的にして行動している右翼は、自我の成立は容易である。愛国心に思想は不必要だからである。だから、転ばすことも難しいのである。本物の右翼は転向させにくいのである。だから、国民が、左翼よりも右翼になりやすいのは、自我が既に持っている愛国心を増長させるだけで右翼に成ることができ、そこに、深い思想は必要ないからである。現在の日本の風潮を、反知性主義だと評する人が多く存在する。知性とは、思考によって認識を生み出す精神の働きを意味する。反知性主義がはびこっているということは、端的に言えば、思考しない人間が増えているということである。言い換えれば、理性よりも感情を重んじている人が増えているということなのである。それは、日本において、左翼的人間より右翼的人間が増えていることを意味している。書店は、中国、韓国、北朝鮮を非難・批判する本であふれかえっている。このような現象は、戦後において、初めて見られることである。右翼的人間が増え、右翼が台頭していることを意味している。また、世界中の人々は、国民という自我を持っていて、左翼よりも右翼になびきやすい。なぜならば、国民ならば誰しも既に持っている愛国心から、右翼の考え理解しやすいからである。日本国民もその例外ではない。ところが、国民が全面的には右翼になびくことはない。それは、国民は、右翼の言うことを全面的に聞き入れれば、自分の所属している国が、すぐに戦争に向かうのがわかっているからである。しかし、国民は、国が戦争に入ってしまったならば、一致協力して戦争に向かうだろう。それを、右翼と右翼的な政治権力は狙っているのである。右翼は、国家のために生き、そして、死にたいから、戦争を恐れない。右翼的な政治権力者は、自分のイニシアチブの下で、国民を一致団結させて、自分たちが意図した一つの方向に、国を持っていきたいから、戦争を起こしたいのである。言わば、全体主義国家を作りたいのである。端的に言えば、それが戦前の日本の軍部であり、戦後の自民党である。だから、自民党は、日本が戦前に回帰することをを望んでいるのである。自民党の憲法草案が、まさしく、その方向性にある。天皇が元首になり、自衛隊が国軍になり、戸主権の復活である。そして、言うまでも無く、右翼的な政治権力者の典型的な例は安倍晋三である。安倍政権ができてから、右翼が台頭し、中国、韓国と極端に仲が悪くなり、書店は、中国、韓国、北朝鮮を非難・批判する本であふれかえり、街頭では、在日の人たちへのヘイトスピーチが横行し、秘密保護法案、安保法案が成立した。日本は、着実に、全体主義国家に向かい始めている。さて、右翼とは、自分が所属している国だけの利益、国威発揚を考えて発言し、行動しようとしている人(人々)のことであるから、その人(人々)が他国の政府及び他国の人々と真っ向から対峙しようと考え、行動を起こすのは当然のことである。他国の政府及び他国の人々と真っ向から対峙しないような右翼は右翼ではない。現在の日本の右翼が、中国、韓国、北朝鮮政府及びその国民と真っ向から対峙する発言し、行動しているのは、右翼として当然のあり方である。ところが、不思議なことに、日本の右翼の大半は、アメリカ政府及びアメリカ国民と真っ向から対峙しようとしていないばかりか、媚びを売っているのである。彼らは、右翼ではない。真っ赤な偽物である。それでは、なぜ、日本の右翼の大半はアメリカの政府及びアメリカ国民と真っ向から対峙しようしないのか。それは、第一に、アメリカが世界で最も強い国であるということがある。アメリカを敵に回すと、日本の存立・自分の存在基盤が危ういという判断から来ている。確かに、それは、ある意味では、冷静な判断であるが、それは、右翼のすることではない。右翼には、日本は世界の中で最高の国であるという意識がなければいけない。いかなる国に対しても、なびいたり、媚びを売ったりしてはいけないのである。第二に、中国、韓国、北朝鮮政府及びその国民と真っ向から対峙するためには、アメリカの政府及びアメリカ国民の力を借りる必要があるということがある。これも、また、冷静な判断である。確かに、アメリカが日本のために動いてくれたら、大きな力になるだろう。しかし、これは他力本願で、右翼の本来の発想からはかけ離れた考えである。虎の威を借る狐の発想である。しかも、アメリカ政府及びアメリカ国民が、自国や自身の利益にならないことのために、日本のために、兵士を出すはずがないのである。あまりにも、人の好い考えである。第三に、アメリカが日本になじんでしまったことがある。だから、右翼の大半はアメリカの勢力を日本から追い出すという発想が存在しないのかもしれない。確かに、戦後、アメリカは、日本に、日本国憲法という平和憲法をもたらし、軍国主義勢力を一掃し、財閥を解体し、農地改革をし、民主主義を持ち込んだ。しかし、それは、日本のためではなく、アメリカ自身のためなのである。その端的な例が、現在も、なお、日本に多数のアメリカ軍基地が存在することである。もちろん、それは日本の防衛のためにではなく、アメリカのアジアにおける覇権戦略のために存在しているのである。言わば、日本はいまだにアメリカに占領されているのである。アメリカ軍基地の最も大きな地域を占めているのは、沖縄県である。沖縄県民は、アメリカ軍基地を県外に移すために、日本政府と厳しい交渉をしている。愛国心を主軸とする右翼ならば、当然、沖縄県民の考えを支持しなければならない。ところが、右翼の大半は、逆に、沖縄県民を非難しているのである。日本の右翼の大半は姑息であり、真の右翼とは決して言うことができない。右翼とは、単純な論理の下で思考して行動し、先見の明がない(先のことが深く考られない)人(集団)であると言っても、日本の大半の右翼の、アメリカという虎の威を借る狐というあり方、アメリカ軍基地を県外に移転してほしいという沖縄県民の願いを非難する態度は、あまりに浅薄で、到底容認することはできない。日本の右翼の大半は本物の右翼ではない。似非右翼である。さて、先にも述べたように、愛国心を有しているのは、右翼だけではない。日本だけでなく、世界においてもそこに国というものが存在すれば、国民は、誰しも、自国に対して愛国心を有している。それを声高に主張するか、内面に秘めているかの違いだけである。全ての人に愛国心が存在するのは、誰しも、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。だから、どの国においても、愛国心を声高に主張する人は存在する。つまり、世界各国にその国の右翼が存在するのである。また、たとえ、二つの国籍を有している人がいたとしても、その人の愛国心は全体に拡散することはなく、その二ヶ国だけには愛国心を抱くが、その他の国には愛国心を抱くことはない。愛国心とは、自分が気に入った国を愛する心ではなく、自分が所属している国を愛する心だからである。自分が所属している国が素晴らしいからでも、自分が所属している国から恩義を受けたからでもなく、自分が所属しているから、その国を愛するのである。だから、日本人は、日本のいう国に執着し、日本のあり方が気になるのである。もちろん、日本人であっても、もしもその人が中国に生まれていたならば、中国に愛国心を抱いていたのは、疑いのないところである。「俺は日本に対して強い愛国心を持っているのだ。だから、中国が嫌いなんだ。」と威張るように言う日本人は、中国に生まれていたならば、中国で、「俺は中国に強い愛国心を持っているのだ。だから、日本が嫌いなんだ。」と威張るように言っているに違いないのである。愛国心に限らず、愛とは、自分が所属しているものや自分が所有しているものに執着し、それが他の人に評価されることを望む感情である。これが自我の現れなのである。ニーチェならば、この現象を、権力への意志と表現するだろう。だから、自分が日本という国に所属しているから日本に愛国心を抱いているのと同様に、自分が中国、韓国、北朝鮮、アメリカという国に所属していたならば、中国、韓国、北朝鮮、アメリカに愛国心を抱いていたのは確実なのである。自我の為せる業である。だから、愛国心は声高に叫ぶほどのことはないのである。自我の為せる業、ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心は、国民ばかりでなく、時には、国全体を大きく動かすのである。自分が所属している国に対する愛、執着、評価が国民個々人ばかりでなく、国全体を動かすことがあるのである。自分が所属している国やその国に所属している自分を、他国や他国の人々や他の人々に認めてもらいたいと思いが高まった時である。国民としての自我が人を動かすのである。それが、人間は社会的な存在であるという文の端的な意味である。人間は社会的な存在であるという文の意味を、マルクスは、階級にこだわり、ブルジョア(資本家)やプロレタリアート(労働者)などの自分の所属している階級によって、人間は意識(考え)が決定され、それが、経済闘争に繋がると述べているが、人間の自我(マルクスは自我という言葉を使っていない)が形成される場(構造体)は階級ばかりでなく、国はもちろんのこと、家族、会社、学校、県、市、町など数多く存在する。そこに構造体が存在し、そこに所属している人がいれば、そこには自我が存在するのである。ちなみに、日本のマスコミの多くは、イスラム教徒の原理主義に基づく過激派のテロの原因を、貧困や洗脳に求めているが、あまりにも安っぽい考え方をしている。貧しくなくても、洗脳されなくても、イスラム教徒の過激派はテロを起こすのである。なぜならば、彼らは、イスラム教という宗教組織に所属し、イスラム教徒という自我を持っているからである。彼らは、国家権力やキリスト教国家やキリスト教徒によって、イスラム教やイスラム教徒が虐げられていると考え、自らの自我が傷つけられていると感じるから、あの世では神に祝されることを願い、この世では、自爆テロなどの絶望的な戦いを行っているのである。さて、それでは、いつ、なぜ、人間に愛国心が芽生えたのだろうか。人間には、先天的に愛国心を備わっているのだろうか。いや、そんなことはない。人類には、有史以来、愛国心という観念が存在したのだろうか。いや、そんなことはない。現代のように、世界が国という単位で細断されながらも、その国の領域を縦断・横断ができるような、国際化した時代においては、自分がある特定の国に所属し、その国が確固たる存在を呈しているという意識、つまり、確固たる国に所属しているという国民意識がないと不安だから、愛国心が生まれてくるのである。つまり、国民としてのアイデンティティ(自己同一性・ほかならぬこの私であることの核心)の意識が存在しないと、国際化した社会では不安で生きていけないから、愛国心を抱くのである。もちろん、自分が所属している国が、国際社会において認められれば、不安解消ばかりか、満足感すら得ることができるのである。それは、国民としてのアイデンティティが満足できるからである。自分が認められたように満足感を得るのである。そこにおいては、国の存在こそが自分の存在、もっとはっきり言えば、国こそが自分なのである。国の存在が自分の自我の現れの一つなのである。ラグビーのワールドカップで日本チームが活躍したり、オリンピックで日本人が活躍したり、日本人がノーベル賞を獲得したりした時に、日本国民全体が喜ぶのも、国民としてのアイデンティティが満足できたからである。自己満足ならぬ自我満足である。手柄を挙げた日本人に、日本人の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。逆に、日本という国や日本人が貶められると、自分が貶められたように傷つく。その日本という国やその日本人に、日本人の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。それも、また、国民としてのアイデンティティが為せる業である。自我の為せる業である。それでは、いつから、日本人は愛国心を持つようになったのか。それは、時代的と個人的の二面から考えることができる。まず、時代的な側面から見ると、次のようになる。時代的には、明治時代からである。正確には、黒船来航がその端緒となり、欧米と対抗するには、幕藩体制を解体して、日本一国としてまとまらなければいけないと思った江戸時代の末期からである。だから、その時まで、江戸時代には、愛国心は存在しなかった。武士の「おらが国」の国は藩であり、農民の「おらが国」の国は村であったのである。明治時代に入り、日本人全体の尊崇の対象としての天皇の存在を強調し、庶民に浸透させ、日本人全体が守らなければならない大日本帝国憲法の成立させ、日本を取り仕切る明治政府への納税の義務を国民全体に課し、日本が他国と戦う時のために徴兵令を公布して、国民に兵役義務を課すことなどを通して、日本人は、自分が住んでいる日本を他国に対抗する独立した国として認めると同時に、自分自身が日本という国の一員として認めるようになったいったのである。つまり、明治時代以降、日本人は、日本という国の存在と日本人としての自分を認め、意識するようになったのである。愛国心の誕生である。もちろん、そこには、同時に、日本に対するアイデンティティ、言い換えれば、日本国民としてのアイデンティティも誕生している。端的に言えば、愛国心、日本に対するアイデンティティ、日本国民としてのアイデンティティの三者は同じものである。次に、個人的な側面から見ると、次のようになる。個人的には、日本人は、誰しも、生まれつき愛国心を持っているわけではなく、成長の過程の中で、子供の頃から愛国心を抱くようになるのである。自分自身の体験や周囲の日本人からの影響によって愛国心を持つようになるのである。単に、小学校で、日本という国の存在とともに自分が日本人だということを教えられただけでは、愛国心は身につかない。そこでは、知識は入ってくるが、愛国心は湧いてこない。次のような時、愛国心が湧いてくるのである。街で欧米人に会い、その体格に圧倒され、惨めな自分の体格を卑下しつつ、自分と同じ体格の人たち、つまり、日本人を見た時、自分と同じように日本に生まれ育った者への愛情、つまり愛国心を抱くのである。外国旅行に行き、言葉や習慣や雰囲気の異なっているのに不安を覚えている時、日本人を見て安心感を得た時、愛国心を抱くのである。また、外国旅行に行き、日本に帰りたくなった時、自分の生まれ育った国への愛情、つまり愛国心を抱くのである。さらに、子供心にも、オリンピックやワールドカップやノーベル賞受賞などでの日本人の活躍に、周囲の大人たちが湧きかえっているのを見ると、自分もうれしくなり、自分もこの大人たちと同様に日本人だから喜んでいいのだと思った時、愛国心を感じ取っているのである。つまり、誰しも、自分が他国の人々から疎外されていると感じていた時に、自分が日本人の一員であり、日本人の仲間の一人なのだと意識して、安心感を得た時から、我知らず、愛国心を持つようになるのである。また、日本及び日本人が他国及び他国の人々と対抗している場面で、自分も、周囲の日本人と同様に、日本及び日本人に応援したくなる気持ちになった時から、愛国心を覚えるようになるのである。特に、日本及び日本人が他国及び他国の人々との対抗している時、自分が日本という国に所属していることそして日本人の一員だと強く意識し、愛国心を強く覚えるのである。さて、先に、愛国心は自我の現れだと述べたが、愛郷心も愛校心も自我の現れである。何であれ、自分がそこに所属していることを意識し、そこに愛着を感じ、無意識に(深層心理で)そこに囚われた時、つまり、アイデンティティを抱いた時、そこが自分の自我の一つになるのである。例えば、自分は青森県民だと意識するようになった時、青森県に愛郷心を抱き、青森県民としてのアイデンティティを抱き始めるようになる。また、自分はX高校の生徒だと意識するようになった時、X高校に愛校心を抱き、X高校生としてのアイデンティティを抱き始めるようになる。つまり、人間は、自分が所属している構造体(日本、青森県、X高校など)に執着し、他の構造体と対抗することを意識して生きている動物なのである。人間は、常に、ある特定の構造体の中で、その一員として生きざるを得ない存在者である。構造体の外の生き方は存在しない。構造体に属さずに生きることはできない。山田一郎には山田一郎独自の生き方は存在しない。山田一郎は、ある時には日本人として、ある時には青森県民として、ある時にはX高校生として生きているのである。日本人、青森県民、X高校生が、山田一郎のそれぞれの場面における自我である。自我の現れが山田一郎の行動になっている。その自我を支えているのが、日本という構造体、青森県という構造体、X高校という構造体なのである。だから、山田一郎にとって、日本人、青森県民、X高校生だけでなく、日本も青森県もX高校もかけがえのない存在なのである。さて、一般的には、愛国心の強い人に対して、右翼という短い言葉ではなく、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)という長い言葉があてがわれることが多い。確かに、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)と呼んだ方がわかりやすい。言葉そのものにその意味が現れているからである。しかし、私が、ここで敢えて右翼という言葉を使うのは、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)の反対勢力は、一般に、左翼と呼ばれているからである。そこで、それの対義語として右翼という言葉を使用しているのである。さて、先に述べたように、誰しも、愛国心を持っている。だから、誰でも右翼になりうる可能性がある。それでは、なぜ、一部の人しか右翼にならないのか。それは、そこに、左翼的な考え、そして、左翼が存在するからである。左翼とは、愛国心を抱きつつも、自らの愛国心に身をゆだねず、相手の国民にも愛国心があると認識し、両者に折り合いをつけようとする人たちである。端的に言えば、左翼が存在するから、右翼の愛国心の暴走を止めることができるのである。右翼と左翼が対抗し、国民がそれを見て判断を下すから、国に秩序が成立し、国が存続するのである。もしも、右翼が台頭し、左翼が有名無実になってしまえば、国民も右翼化することになり、その国はためらいなく他国と戦争を始めるだろう。世界は、幾度も、その惨劇を見ている。いや、現在も見続けている。日本は、その惨劇を、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争などにおいて見てきた。しかし、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦においては、勝利に酔い、惨劇を惨劇として認識できなかった。それゆえ、太平洋戦争戦争において、大惨劇を見ることになった。世界は、第一次世界大戦、第二次世界大戦において、大惨劇を経験をした。右翼の台頭がもたらしたものである。愛国心の暴走がもたらしたものである。それゆえ、右翼の台頭、愛国心の暴走を絶対に許してはならないのである。右翼の台頭そして愛国心の暴走の制止に失敗すれば、国は滅びてしまうことになるのである。延いては、世界が滅びてしまうのである。フロイトは、人間個人の心理構造と社会の心理構造は同じだと言ったが、それは至言である。右翼の台頭・愛国心の暴走を制止することと男児の母親に対する欲望を抑圧することととは、原理的に同じである。フロイト、ラカンは、男児の母親に対する欲望を抑圧することをエディプス・コンプレックスと呼んだ。男児の母親に対する欲望は抑圧しなければならない。なぜならば、それに失敗すると、その家庭は無秩序になってしまう。延いては、社会が無秩序になってしまう。しかし、愛国心も男児の母親に対する欲望も、異常な感情ではなく、誰しも、成長過程において、自然に生まれてくる感情なのである。自然に身につく観念、深層心理(無意識)なのである。だから、愛国心も男児の母親に対する欲望も、その誕生を止めることはできない。何かに転嫁できても根絶させることはできないのである。仮に、それらを根絶させてしまうと、この世には、国民もいなくなり、男児も存在しなくなるだろう。それらは、現代のすべての人間の発達段階において、自分の体験や周囲からの影響を通して、自然と生まれてくる感情、自然と心に身につく感情、深層心理(無意識)なのである。そして、それらは、ある年齢の頃においては、ある時には、ある場面においては、心の拠り所になることがある。また、その誕生にも必然性がある。問題は、それを手放しに喜べないということである。それらを暴走させるととんでもないことになるからである。確かに、それらが弱い間、自分が抑圧しようと思って抑圧できている間、自分が抑圧できなくても周囲が制止することができている間は問題は無い。むしろ、ほほえましい状況を作り出す。しかし、それらが強くなり、自分が抑圧しようと思わなかったり、思わなくなったり、自分が抑圧しようとしても抑圧できない時に周囲がそれらを制止することができなかったり、周囲が逆にそれらに加担したりした場合は、とんでもない状態を引き起こす。人間関係が乱れ、家族が崩壊し、社会の秩序が保たれなくなり、国が破壊され、世界が破滅する。「子供は正直だ」という言葉をがある。子供をほめた言葉である。しかし、この言葉は、大人が子供をしっかり管理できている時にしか使えない言葉である。文字通り、子供が自分の心に正直に行動したらどうなるか。子供が大人の管理を離れて正直に行動するようになったらどうなるか。男児が母親に対する欲望のままに行動するとどうなるか。誰でも、その結果は容易に想像できることである。家庭が破壊され、社会が破壊される。愛国心も同じである。右翼の言うように、国民が愛国心のままにわき目も振らずに行動してはいけないのである。むしろ、右翼の行動を止めなくてはいけないのである。特に、権力者の動向に細心の注意を払う必要があるのである。政治権力者が、右翼と共に、もしくは右翼的な考えの下で、愛国心を振りかざして、わき目も振らずに国を動かせば、確実に、その国は戦争になる。それは、二国間だけの戦争にとどまらず、他の国の権力者や他国民の愛国心を燃え上がらせ、世界中が戦火に見舞われてしまうような状態を作り出す可能性が十分にある。端無くも、現在、世界の至る所に、その状態が見え隠れしているのではないか。キリスト教徒の国がイスラム教徒の国を圧迫してきたのも、キリスト教徒の国に圧迫され続けたイスラム教徒が絶望的な自爆テロで反撃を開始したのも、愛国心の故ではないか。イスラム教徒の一過激集団、一原理主義組織が、「イスラム国」という国を名乗っているのも、その現れではないのか。現在の日本も、右翼が台頭し、愛国心が暴走を始めているから、戦争まであと一歩の状態であると言えるのではないか。さて、このように、日本の右翼が台頭し、愛国心が暴走し始めたのは、安倍政権の誕生からである。日本の右翼の台頭、愛国心の暴走の原因を、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きに求める人が多いが、それらは主因ではない。主因は、安倍政権の誕生にある。中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きが無くても、右翼の台頭、愛国心の暴走は、いつでも、起こり得る。右翼は、常に、虎視眈々とその機会をうかがっている。右翼にとっては、日本国だけの国益、日本の国威発揚、日本を貶める国への懲罰を目的とした、愛国心の発露だけが生きがいなのである。常に、戦争も辞さない覚悟を持っているからである。現に、安倍政権誕生以前にも、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きはあった。しかし、右翼の台頭、愛国心の暴走はなかった。それは、なぜか。国民が右翼的な考えや右翼に理解を示さず、時の政権も右翼的な思考を持っていなかったからである。たとえ、時の政権が右翼的な思考を持っていたとしても、国民に理解を得られないと判断し、その思考を自ら封鎖していたからである。さて、先に述べたように、日本人ならば誰でも愛国心を持っている。そして、それが極端に強い人、右翼はいつの時代にも常に存在する。それ故に、日本国民が愛国心に振り回されたり、右翼を制止しなかったりしたならば、彼らが台頭し、愛国心が暴走し、日本は容易に戦争に導かれてしまうる。右翼は、右翼的な思考を持った安倍政権が誕生したから、国民が右翼の考えに賛同していると考え、安倍政権の陰に陽にバックアップを得て、我が意を得たりとばかりに、跳梁跋扈するようになったのである。愛国心とは、他の国や他の国の人々の対抗意識であるから、中国や韓国や北朝鮮が存在しなくても、例えば、アメリカやロシアやフィリピンやベトナムやタイなど、どの国(国民)に対してでも抱くことはできる。しかし、どの国(国民)に対してであろうと、異常なレベルでの対抗意識、異常なレベルでの愛国心を燃やしてはいけないのである。それが、戦争に繋がるからである。戦争には、戦勝国は存在しない。戦勝国、敗戦国ともに敗戦国になるのである。関わった国全部が、敗戦国なのである。戦争に勝ち、相手国を占領し、相手国に非を認めさせ、相手国から多額の賠償金を得るなどというのは夢の話である。勝利国においても、無傷は終わることはない。多数の戦死者が出て、国土は荒廃し、民主主義は廃れる。敗戦国においても、権力者は敗戦を認めても、その後、国民の中からゲリラ闘争を始める者が出てくる。それほど、現代人は、国に対する愛国心、郷土対する愛郷心、宗教に対する殉教意識が強いのである。アメリカに敗北した、アフガニスタン、イラクの現状を見ればよい。アメリカは、アフガニスタン、イラクを日本のようにしたかったのである。日本は、太平洋戦争で、アメリカに敗れ、アメリカの意のままの国になった。現在でも、アメリカ軍の爆撃機が、自分たちの好きな時間に、日本国全体の上空を飛び回っている。アメリカは、アジア支配のために日本に基地を置いているのだが、日本政府は、思いやり予算などという言葉をねつ造して、毎年二千億円以上のみかじめ料をアメリカに払っている。情けないことに、大半の右翼は、中国、韓国、北朝鮮を批判しても、アメリカを批判しないのである。右翼の風上にも置けない人たちである。右翼の中には、中国や韓国や北朝鮮と戦争をしても日本(日本人)のプライドを守るべきだと説く者がいる。彼らは、戦争をゲームのようにしか考えていないのである。太平洋戦争を考えてみれば良い。日本(日本人)は、プライドを守るために、アメリカと、勝ち目のない戦争、太平洋戦争をしたのである。そして、破滅的な敗北を喫したのである。喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、戦後も七十年を過ぎると、日本人は太平洋戦争の惨状、そして、その原因を忘れてしまったのではないか。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、もう一度、戦争をしないと、戦争という地獄に面と向かうことはできないのだろうか。右翼の台頭、愛国心の暴走を許してはいけないと気付かないのだろうか。先に述べたように、フロイトは、男児の母親に対する欲望の抑圧を、エディプス・コンプレックスと表現している。男児は母親に対して恋愛感情を抱く。だが、父親の反対に遭い、社会が父親に味方するので、男児は母親に対する恋愛感情を抑圧する。その後、その代理としての別の女性に恋愛感情を抱くことによって、その不満を解消するようになると言うのである。ちなみに、フロイトは、男児たちの父親殺しの例も挙げている。社会が正しく機能していなければ、大いにその可能性はある。この行為の後、男児たちは、このことを秘密にしていたから、社会的に罰せられることはなかったが、一生、負い目を持って暮らすことになる。言うまでもなく、社会的にも、家庭的にも、男児個人にとっても、男児の母親に対する欲望を抑圧しなければならないのである。エディプス・コンプレックス(男児の母親に対する欲望の抑圧)と愛国心の暴走(右翼の台頭・暴走)の抑圧は、対称的である。男児は、父親の反対に遭い、しかも、社会(周囲の人たち)が父親の考えに同調していると感づいたから、母親に対する欲望に抑圧するしかなかったのである。男児は、この家庭、そして、この社会に生きていかなければならないからである。右翼は、左翼が反対し、国民が左翼の考えに賛意を示したならば、右翼の台頭・愛国心の暴走は無いはずである。右翼も、また、この日本の社会において生きていかなければならないからである。しかし、安倍政権が誕生し、中国や韓国や北朝鮮を挑発するようになると、右翼は我が意を得たりとばかりと台頭して来たのである。政治権力を笠に着たのである。マスコミも、連日連夜、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きについて報道するので、巷でも愛国心が暴走させる人が出てきたのである。ヘイトスピーチをする集団が、その典型である。戦前も、現在と同じような状況を呈していた。だから、太平洋戦争に突き進んでしまったのである。マスコミは、連日連夜、中国に攻め込んだ日本兵の勇敢さ、中国兵の弱さ、中国人の愚かさ、アメリカの理不尽な要求について報道し、愛国心をくすぐったので、国民全体が右翼の考えに同調してしまったのである。もちろん、当時の日本国家の中枢の軍人や政治家たちも、愛国心に凝り固まり、日本国だけの国益、国威発揚を考えるような、右翼の権力者集団だったのであるから、日本国全体が右翼の思想に染まっていたと言えるのであるが。しかし、そのような時代風潮の中にあっても、日本共産党、灯台社というキリスト教団体、桐生悠々という新聞記者、斎藤隆夫という国会議員は、戦争反対を唱えて、果敢にも、国家権力に反旗を翻した。しかし、右翼的な考えにどっぷり染まっていた国民は、彼らに理解を示すどころか、目の敵にした。「大衆は馬鹿だ」というニーチェの言葉が聞こえてきそうである。しかし、たとえ、大衆は馬鹿であっても、左翼は大衆に訴え続けなければいけないのである。死をも覚悟して、右翼に抗して主張しなければいけないのである。それが左翼である。明治以来、死を覚悟しながら、真っ向から、右翼の政治権力に抗して、天皇制に反対し、戦争反対を唱えた者が少なくとも三人存在する。大逆事件で冤罪で死刑になった幸徳秋水、関東大震災のどさくさ紛れの中で軍隊に拉致され虐殺された大杉栄、治安維持法の罪状を科せられ逮捕されその日のうちに特別高等警察に拷問死させられた小林多喜二である。彼らは、常に死を覚悟して、日本国民に、天皇制の反対と戦争反対を訴え続けた。しかし、愚かな日本国民は、彼らを理解せず、むしろ、非難した。日本国民は、自らを「天皇の赤子」としていた上に、軍隊に肩入れしていたからである。彼ら三人は、それを理解していた。しかし、国民に、自らの主張をし続けた。左翼とはこういうものなのである。たとえ、国民から理解されなくても、死を覚悟しつつ、政治権力と右翼に抗して、自らの主張をし続ける存在者が左翼なのである。だから、それは、愛国心におぼれず、権力者や右翼に抗するものであれば、マルクス主義者であっても、無政府主義者であっても、自由主義者であっても、構造主義者であっても、脱構造主義者であっても、どのような思想を抱いている者でも構わないのである。しかし、現在の日本において、左翼陣営はあまりにも貧弱である。幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二がいないのである。左翼陣営が貧弱なのは、決して、政治権力の弾圧やマスコミの政治権力への迎合や右翼の激しい妨害があるからではない。確かに、安倍政権は、マスコミを圧迫し、国民を愚弄し、戦前のように戦争のできる、上意下達の全体主義の国家にしようとしている。民主主義の否定の動きを示している。読売新聞、産経新聞、週刊新潮などのマスコミは、安倍政権と歩調を合わせ、原発推進、安保法案賛成、憲法改正の論調を張っている。権力にすり寄っていく態度はマスコミの役目をすっかり失っているどころか、共犯者である。右翼は、在日韓国人や在日朝鮮人に対してヘイトスピーチを繰り返し、自由主義的な発言をする人をネットで口汚くののしっている。その短絡的な思考や行動は幼児性を示している。しかし、戦前は、日本は、もっとひどい状況にあった。政治権力は、警察や軍人を使って、共産主義者、無政府主義者、自由主義者などの反体制派を、不当逮捕し、冤罪や拷問によって、百人以上の者を死に追いやった。マスコミは、政治権力に同調し、国民に対して、戦争を煽り、戦場に向かわせた。右翼は、自分たちと考えの異なる者を暗殺した。それに比べると、現代は、まだ、左翼に発言できる機会が多く、政治権力や右翼の妨害も陰険ではあるが、隠微な段階にある。それでありながら、左翼陣営が貧弱なのは、覚悟あるものが少ないからである。幸徳秋水や大杉栄や小林多喜二のような覚悟ある者があまりに少ないのである。政治権力の弾圧やマスコミの非難や右翼妨害を敢えて引き受けるだけの覚悟を持っている者が少ないのである。もちろん、そこには、殺される可能性もある。しかし、死すら厭わず、自らの言葉によって、政治権力やマスコミや右翼の愛国心の暴走を止めようとしない者は、左翼ではない。死を覚悟して発言する者がほとんどいないから、現代は、左翼陣営が貧弱なのである。愛国心とは感情である。感情が高まると、過激な行動に出る。右翼には常にその可能性がある。だから、左翼は、それを受ける覚悟が必要である。それを受ける覚悟で発言できない者は左翼ではない。安泰な位置で発言している者が多いから、現代のような逆境の中では、沈黙を保つものが多いのである。しかし、このままでは、戦前に舞い戻ることになるだろう。






自我について。(自我その410)

2020-09-19 18:44:24 | 思想
人間は、自我として存在する。しかし、人間は、意識して、思考して、自我として動いているのではない。人間は、無意識のうちに思考して、自我を動かしているのである。人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。人間の無意識の思考を深層心理と言う。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。人間は、他者がそばにいたり、他者に会ったり、他者に見られたすると、自らを意識し、また、他者がそばにいなくても、ふと自らを意識することがあるから、自ら意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、その思考の結果である意志によって、行動していると思い込んでいるのである。確かに、人間は、表層心理で思考することがあるが、その時は、必ず、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、拒否するか採用するか審議する時である。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持して活動している。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、国などがある。構造体とは、人間の組織・集合体である。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我の人がいて、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我の人がいて、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我の人がいて、銀行という構造体では支店長・行員などの自我の人がいて、店という構造体では店長・店員・客などの自我の人がいて、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我の人がいて、仲間という構造体では友人という自我の人がいて、夫婦という構造体では夫・妻の自我の人がいて、カップルという構造体では恋人という自我の人がいて、国という構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我の人がいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して活動しているのである。自我とは、言わば、役割を果たし、役柄をこなすという役を演じている人間のあり方である。しかし、人間は、意識して、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、その役を演じているのではない。すなわち、人間は、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、無意識に、思考して、その役を演じているのである。すなわち、人間は、深層心理が、思考して、その役を演じているのである。なぜならば、自我は深層心理に浸透し、人間と自我は一体化しているからである。深層心理が、自我と一体化となり、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するのである。人間は、誰しも、常に、さまざまな構造体に所属して、その構造体に応じて、さまざまな自我を所有しているが、深層心理によって生み出された感情と行動の指令という自我の欲望によって動かされる存在でしかないのである。ある女性は、家族という構造体に所属している時は母という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は妻という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という国の構造体に所属している時は日本人という国民の自我を所有し、埼玉県という構造体に所属している時は県民自我を所有し、教諭仲間という構造体に所属している時には友人という自我を所有して活動しているのである。だから、彼女に、「あなたは何。」、「あなたは誰。」と尋ねても、一定の答は返ってこないのである。時と場所によって、自我が異なるからである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼女の息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、教諭、客、乗客、県民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部の自我しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。だから、殺人事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追求し、会社、近所、親族、高校時代の仲間などという構造体を訪ねるが、その評価は同じではないのである。構造体に応じて、異なった自我を持ち、異なった評価が与えられているからである。そのなかで、マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だとして取り上げているだけなのである。さて、人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持している。そして、そこに、常に、他者が介在している。ふと自分を意識することがあるが、それは自我を意識しているのである。そして、常に、自我として存在しているから、他者がそばにいたり、他者に呼びかけられたりすると、常に、自我を自分として意識するのである。人間は、社会的な存在であるから、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我であるから、構造体の中での自我が重要なのである。また、深層心理は、自我を主体にして、自我の確保・存続・発展することを志向して思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、構造体が存続・発展する必要があるのである。だから、深層心理は、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在持している自我に対してと同様に、現在所属している構造体に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。高級官僚たちが、森友学園、加計学園、桜を見る会などの問題について、国会答弁で、「記憶にございません」を繰り返し、証拠隠滅、書類消去、書類改竄を繰り返したのは、安倍晋三首相に恩を売り、現在の地位の保全と立身出世のためである。さらに、人間は、構造体に所属し、構造体内の他者にその存在が認められて、初めて、自らの自我が安定するのであるが、それがアイデンティティーを得るということである。つまり、アイデンティティを得るには、自らが構造体に所属しているという認識しているだけでは足りず、構造体内で、他者から、承認と評価を受ける必要とするのである。つまり、構造体内の他者からの承認と評価が存在しないと、自我が安定しないのである。人間は、自我が安定すると、深層心理が生み出す自我の欲望を満たすために生きることができるのである。自我の欲望を満たすとは、自我の存在を他者に知らしめ、快楽を追求することである。人間は、他者を、自我が自らの欲望を追求するための目標、若しくは、道具としてみている。なぜならば、自我の欲望とは、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらいたいという欲望であるからである。人間は、自我の欲望を追求しながら、一生を送るのである。人間は、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、自我を持することによって、深層心理が、自我の欲望を生み出すことができるのである。だから、人間には、自分というあり方は存在しないのである。自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別しているあり方に過ぎないのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別している姿が自分なのである。さらに、人間は、自己としても存在しない。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は主体的に生きることはできない。人間は主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。多くの人は、自我を自己だと思い込み、自らは自己として存在していると思い込んでいるのである。しかし、誰しも、自己は存在しないのである。自己として存在するとは、自ら、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することだからである。人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。人間の主体的に意識して行う思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということはできないのである。だから、自己は存在しないのである。人間が自己として存在できないのには、二つの理由がある。一つの理由は、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるからである。人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。人間は、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、他者から白い眼で見られたくなく、その構造体から追放されたくないからである。官僚が公文書の改竄をするのも、社員が会社の不正に荷担するのも、役所や会社という構造体の他者から白い眼で見られたくなく、それらの構造体から追放されたくないからである。もう一つの理由は、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で、すなわち、深層心理から離れて、理性独自で、思考して行動することはできないのである。つまり、人間は、本質的に、主体的に思考できず、行動できないのである。しかし、人間は、自分が主体的に行動できない原因は他者や他人から妨害や束縛を受けているからだ思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、自我の確保・存続・発展のために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するからである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現れなのである。確かに、人間に、表層独自の主体的な思考は存在しない。深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、自我の確保・存続・発展のために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。自我の欲望には二つあり、一つの欲望は、自我を確保しつつ、他者を支配し、他者を排除し、なおかつ、自我を他者に認めてもらい、自我を存続・発展させようという欲望である。もう一つの欲望は、自我の確保・存続・発展のために、構造体の存続・発展をさせようという欲望である。しかし、深層心理は、自我の確保・存続・発展。構造体の存続・発展を願いながらも、瞬間的に思考するから、自我の喪失、構造体の破壊に向かうような自我の欲望を生み出すことがあるのである。深層心理は、自我に執着し、瞬間的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。しかし、いずれの欲望を満たすには、他者と他人が必要なのである。安易に、他者を排除したり、支配したり、他人を無視してはいけないのである。しかし、深層心理は、他者や他人の存在に思いを馳せないのである。その時、人間は、表層心理で思考して、自我の欲望を抑圧しなければならないのである。他者とは、自らと同じ構造体に所属している人であり、他人とは、自らと異なった構造体に所属している人である。他者は、協力して、構造体の存続・発展を目指さなければならないのである。また、自我と他者が対立した時、裁定を仰がなければ、収拾が付かないのである。そして、人間は、他人の立場に立つことを想定することによって、自らの自我を反省し、他者の自我、すなわち、他我を思い遣ることができる。これらは、皆、表層心理での思考によって、行われるのである。そのような意味でも、表層心理での思考、すなわち、理性による思考は重要である。