あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理は、自らを、精神疾患に陥らせることによって、現実逃避する。(自我その360)

2020-05-30 19:38:23 | 思想
人間は、苦悩が深いから、心がむしばまれて精神疾患に陥るのではない。深層心理が、深い苦悩から逃れるために、自らを精神疾患に陥らせたのである。人間の無意識の心の思考を深層心理と言う。人間の意識しながらの思考を表層心理での思考と言う。それでは、なぜ苦悩に陥ったのか。それは、自らの立場を維持できなくなり、それを失う可能性が大きくなってきたからである。それでは、なぜ、自らの立場を維持できないだけでなくそれを失う可能性が大きくなってきたと感じたのか。それには、三つの理由がある。他者から評価されなくなったこと、他者を支配できなくなったこと、他者と心の交流が図れなくなったことである。他者から評価されなくなったから、他者を支配できなくなったから、他者と心の交流が図れなくなったから、自らの立場を維持できないだけでなくそれを失う可能性が大きくなってきたと感じたのである。それほどまでに、人間は、自らの立場にこだわって生きているのである。さて、自らの立場は、一般に、自我と表現される。それでは、自らの立場、すなわち、自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民という自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘という自我などがあり、学校という構造体には校長・教師・生徒という自我などがあり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則を満たそうと、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動するのである。ラカンは「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、深層心理のことである。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味する。深層心理は、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。論理的に思考するとは、恣意的に思考するのでは無く、欲動に基づいて言語を使って思考するということである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理の心理を動かすものであり、四つの欲望から成り立っている。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を維持したい、すなわち、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我を他者に評価してほしい、すなわち、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者を支配したい、すなわち、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、他者と心の交流を図りたい、すなわち、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。そこに、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味があるのである。深層心理は、まず、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、すなわち、生きていくためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者の場合が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる、決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。次に。後者の場合、すなわち、表層心理で行動の指令について審議した後で行動する場合であるが、この時の表層心理での審議は広義の理性の思考と言われている。広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンが崩れると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、傷心・怒りなどの過激な感情と相手を侮辱しろ・相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。また、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。さて、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望、すなわち、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのであるが、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、人間は、犯罪を犯しても、自己正当化するのである。人間は、自己を正当化をしなければ、すなわち、自己を肯定できなければ生きていけない動物だからである。人間は、自我に捕らわれて、一生を送る。すなわち、自我のために生き、そして、死ぬのである。そして、自己正当化できなければ、深層心理は、自らを、精神疾患に陥らせることによって、現実逃避するのである。さて、快感原則とは、何か。快感原則とは、フロイトの用語であり、深層心理が、喜びや楽しさを得ること目標に思考することである。快感原則には、深層心理には、道徳観や社会規約は存在せず、ひたすら、快楽を求め不快を避けようという欲望である。次に、欲動についてであるが、欲動とは欲望の集団である。だから、欲動を欲望と読み直しても構わないのである。欲動が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させたのである。だから、深層心理は欲動に基づいて思考していると言えるのである。つまり、欲動とは、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、深層心理に内在している欲望の集団なのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギー、すなわち、性欲を挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドとしての性欲だけでは、欲動は狭小であり、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。明確に、欲動は四つの欲望によって成り立っていると考えると、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できるのである。すなわち、欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。欲動には、第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。次に、欲動の第二の欲望である自我の対他化であるが、それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。受験生が勉強するのは、所謂名門大学に合格し、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。自我の対他化については、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉にその意味が集約されている。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る主原因が、深層心理の自我の対他化の欲望がかなわなかったことである。つまり、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、快感原則の下で、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。人間は、それを受けて、表層心理で、すなわち、広義の理性で、現実原則の下で、傷心という感情の中で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのだが、傷心という感情が強いので、不登校・不出勤になってしまうのである。そこで、人間は、表層心理で、すなわち、狭義の理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにするのである。すなわち、現実逃避するのである。次に、欲動の第三の欲望である対象の対自化であるが、それは、哲学用語で言えば、有の無化作用である。深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。深層心理が、自我を主体に立てて、他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で支配すること、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣になってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。また、人間は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、哲学用語で言えば、無の有化という作用である。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は冷静に捉え、趣向性は感情的に捉えていることである。右翼・保守系の大衆は、愛国心を金科玉条にして、安倍首相を趣向性で捉えている、すなわち、好みで捉えているから、安倍首相が悪行をどれだけ悪行を重ねても、安倍政権を支持するのである。また、自我による対象の対自化は、挫折しても、深層心理が、自らを精神疾患をするまでに苦悩しないのである。なぜならば、挫折しても、深層心理は、無の有化作用、すなわち、、「人は自己の心象を存在化させる」ことによって、空想、妄想を生み出し、乗り越えていくからである。むしろ、自我による対象の対自化にこそ、人間の生きる希望が見出されるのである。そして、また、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。次に、欲動の第四の欲望である自我と他者の共感化は、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。それは、カップルや夫婦という構造体が壊れ、恋人や夫・妻という自我を失うことの苦悩から起こすのである。ドイツの詩人ヘルダーリンは、愛するゼゼッテが亡くなったので、深層心理が、この苦悩から脱出するために、自らを、精神疾患に陥らせ、現実を見ないようにしたのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。安倍晋三首相は、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆の支持を集めているのである。


人間は、自我の欲望を、いつも、美しく着飾らせて生きている。(自我その359)

2020-05-29 10:50:10 | 思想
人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在する。深層心理の思考とは、人間の無意識の思考である。表層心理での思考とは、人間の意識しながらの思考である。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考に気付いていない。無意識の行動というような、例外的な行動にしか、深層心理を認めていない。それは、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか存在しないと思っていからである。だから、ほとんどの人は、自ら、主体的に、意識して、考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らすことができると思っている。そこに、大きな誤解があるのである。人間は、常に、深層心理が思考して、行動しているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に捕らわれて生きているのである。自我の欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。人間は、日常生活において、異常なことが起こらなければ、自ら、意識しながら思考すること、すなわち、表層心理で思考することはは無いのである。しかし、人間は、毎日、特に異常なことが起こらないので、何も考えずに、習慣的な行動を繰り返して生きているように見えても、常に、深層心理が思考して、行動しているのである。人間は、起きている時はもちろん、寝ている時も、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。手を洗うこと、歯を磨くこと、読書すること、音楽を聴くこと、ぼんやり物思いにふけりながら座っていること、友人と会話すること、家族と談笑すること、学校に行くこと、会社に行くこと、コンビニに行くこと、好きな人とデートしている場面を空想すること、好きな人とセックスしている場面を妄想すること、嫌な上司を殴っているのを夢で見ることなど、人間の生活は行動の連続である。もちろん、空想、妄想、夢は、実際には体を動かしていず、イメージでしかない。しかし、イメージにしろ、行動が形作られ、それによって、快楽や満足感が得られたり、気持ちを収めることができるので、行動である。実際に体を動かしてする行動と同等である。なぜならば、実際に体を動かしてする行動も、快楽や満足感が得ること、気持ちを収めることに目的があるからである。それでは、なぜ、行動をイメージするだけで満足し、実際に体を動かして行動しないのか。それは、実際に行動するが不可能であったり、実際に行動することで、対象の他者や周囲の他者から顰蹙を買い、自我に不利益が生じるからである。深層心理は、その点を考慮して、行動の指令を出さず。イメージだけにとどめているのである。もちろん、イメージだけの行動で満足する行動は、全ての行動ではない。それは、イメージを形作るだけで、十分に、快楽や満足感が得、気持ちを収めることができるものだけである。それだけで、快感原則を満たすことができるからである。さて、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動するのであるが、まず、自我とは、何であろうか。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我の人が存在し、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我の人が存在し、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我の人が存在し、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我の人が存在し、仲間という構造体では、友人という自我の人が存在し、カップルという構造体では恋人という自我の人が存在するのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、構造体が存在し、他者が存在し、自我が存在するのである。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしているのである。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現象(現れ)なのである。さて、それでは、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。しかし、人間は、表層心理で、自我が主体的に自らの行動を思考するということはできない。それには、二つの理由がある。一つは、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてのことだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。次に、快感原則とは、何か。快感原則とは、スイスが活躍した心理学者のフロイトの定義であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、欲動とは何か。欲動とは、深層心理の心理を動かすものであり、四つの欲望から成り立っている。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望、もしくは、感情と行動のイメージという自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者の場合が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる、決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。次に。後者の場合、すなわち、表層心理で行動の指令について審議した後で行動する場合であるが、この時の表層心理での審議は広義の理性の思考と言われている。広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。また、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。さて、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望、すなわち、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望に動かされて生きているのであるが、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、人間は、美しく着飾らせるのである。それは、自己正当化であるが、人間は、自己を正当化をしなければ、すなわち、自己を肯定できなければ生きていけない動物だからである。人間は、自我に捕らわれて、一生を送る。すなわち、自我のために生き、そして、死ぬのである。次に、愛について述べようと思う。愛は、美しく着飾せられた自我の欲望の現象(現れ)である。人間には、愛という感情、そして、それに対する感情として、憎しみがある。しかし、他の感情と同じく、愛も憎しみも、人間は、自らの意志や意識で生み出すことができない。つまり、表層心理で、生み出すことができない。愛も憎しみも、人間の無意識のうちに、心に生まれてくる。つまり、深層心理が、生み出しているのである。しかしながら、世間には、愛を崇高なものと見る風潮がある。映画やテレビドラマでも、愛が題材として描かれることが多い。それは、愛するもののために自らを犠牲にするからである。恋愛は愛する人のために、家族愛は愛する家族のために、愛国心は愛する国のために、母性愛は愛する子のために自らを犠牲にするのである。イスラム教、キリスト教、仏教という宗教でも、愛に対する考え方は異なるが、いずれも愛が絡んでいる。イスラム教は、愛を説かないが、神に対する愛が基本である。キリスト教は、神に対する愛と人間に対する愛(隣人愛)を説く。仏教は、愛を煩悩だとして否定するが、教祖に対する愛、信者同士の愛がある。信者同士の愛といっても、イスラム教、キリスト教、仏教ともに、同一宗教というだけでは、愛は成立しがたく、同一宗派になって、初めて強い愛が生まれる。だから、イスラム教徒は、他の宗教の信者を殺戮するだけで無く、スンニー派とシーア派同士でも殺し合っている。キリスト教徒も、かつて、他の宗教を軽蔑するだけで無く、幾度となく、カソリックとプロテスタントの間で激しい戦争があった。日本の仏教でも、かつて、宗派同士の激しい戦闘があった。だから、愛とは、愛する人のために、愛する家族のために、愛する国のために、愛する子のために、愛する神のために、愛する教祖・信者のために存在するだけであり、普遍的な人類愛に繋がらないのである。愛する人がいる人は憎む人が存在し、愛する家族がいる人は他の家族を憎み、愛する国がある人は他の国を憎み、愛する子がいる人は他の家族の子を憎み、愛する神がいる人は他の宗教・他の宗派の神を憎み、愛する教祖・信者がいる人は他の宗派の教祖・信者を憎むのである。だから、決して、愛とは崇高なものではないのである。愛とは、愛の対象者だけが、利益を受ける仕組みである。しかし、愛の対象者が、愛を受けることを拒むと、ストーカーの被害者になったり、家庭内虐待の被害者になることもある。それは、愛とは、愛の対象者への愛と見せかけながら、真実は、自我愛だからである。言い換えれば、人間は自分しか愛せないのである。人間は、自我、そして、自我を保証する構造体しか愛せないのである。それは、欲動にの第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望、そして、自我を存続・発展させるために、構造体を存続・発展させたいという欲望から来ているのである。すなわち、自我の保身化の欲望から来ているのである。だから、カップルという構造体を破壊した恋人に対して、ストーカーとなって復讐するのである。家族という構造体で、自分を父として尊敬しない息子・娘に対して、虐待するのである。だから、愛は崇高な感情では無い。愛するものために自らを犠牲にするという行為も、愛する構造体が傷付けられ・破壊されるのを見るのが辛いからである。愛する構造体が傷付けられ・破壊されることは、自我が傷付けられ・破壊されることを意味するからである。確かに、自分の命が失われることを省みずに、我が子を救うために、燃え盛る家の中に飛び込んでいく母親は偉大である。母性愛の為せる業である。しかし、どの母親も、我が子がいじめ自殺事件の加害者になると、自殺の原因を、被害者自身の性格・被害者の家族の問題に求めるのである。これも、また、母性愛の為せる業である。しかし、自我にこだわり、構造体にこだわり、愛や憎しみを生み出すのは、深層心理の為せる業であり、表層心理の所為ではない。人間は、表層心理で(意識して、自ら意志して)、愛も憎しみも生み出せず、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出せないからである。深層心理が(人間の無意識のままに)、愛も憎しみも、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出しているからである。これが、深層心理が生み出した自我の欲望である。だから、愛する構造体を傷付け・破壊した者に対する復讐の行為も愛する者のために自らを犠牲にするという行為も、(深層心理が生み出した)自我の欲望から発しているのである。確かに、表層心理は、自我の欲望を生み出していないから、復讐の行為も犠牲の行為も自らの意志ではない。しかし、深層心理も表層心理も同じ肉体に宿り、同じ心の中にある。だから、表層心理は、深層心理の欲望の思いが強くてそこから発する行為が過激な場合は、必ず、意識するはずである。そして、その過激な行為が行われた後のことを考慮し、自らの肉体を抑圧し、その行為を行わないようにしなければならないのである。「子供は正直だ」とよく言われるが、それは、子供は自我の欲望に正直に行動するということである。それが許されるのは、子供の思考力や力が乏しいから、自我の欲望に正直に行動しても、大した被害をもたらさないからである。しかし、大人が自我の欲望に正直になると、どうなるか。2005年4月、中国人が、日本の自民党小泉政権の歴史教科書問題や国連安保常任国問題に端を発して、暴徒化し、「愛国無罪」の掛け声の下で、日系スーパーなどが襲撃した。日本人が日本の都合の良いように近代の中国侵略を糊塗するのも、中国人が日系スーパーを襲撃したのも、両者とも、愛国心という自我の欲望に正直だったからである。そして、自国に対する愛国心が強ければ強いだけ、他国に対する憎しみを増長するのである。日本人は、戦前、戦中、ナチス以上に、中国、朝鮮において、残虐なことを行ったのである。大日本帝国の軍人たちは、中国を侵略し、十五年戦争(1931年~1945年)において、侵略した村々において、全食糧を奪い、抵抗した男性は試し斬り、若しくは、軍用犬に食わせ、女性は六歳の幼児から七十歳以上の老女まで全てレイプし、妊婦を殺して胎児を取り出し、無抵抗になった村人を赤ん坊や幼児や老人を含めて一カ所に集めて、銃で皆殺しにしてきたのである。この世で考えられる残虐な行為を、大日本帝国の軍人たち、いや、日本人が中国において行ってきたのである。その残虐ぶりは南京事件が有名であるが、南京事件は氷山の一角である。全ての村々において、南京事件と同様に、いや、それ以上に、残虐な殺戮を行ったのである。日本は、朝鮮を植民地として統治してきた期間(1910年~1945年)、朝鮮を日本に同化させようとし、食糧・原料供給地とし、一切の言論・集会・結社の自由を奪い、農民に飢餓輸出を強い、創氏改名させ、労働者として日本に強制連行し、若い女性を慰安婦にし、21万の青年を戦場に送っているのである。人間の欲望とは、こういうものである。この時代だけが、大日本帝国の軍人・日本人に、異常な欲望が湧いてきたのではない。いつの時代でも、人間には、異常な欲望が湧いてくる。しかし、この時代だけが、異常な欲望を持った大日本帝国軍人・日本人の行為を、大日本帝国軍人・日本人の他者が非難しなかったり、止めなかったりしなかったのである。なぜならば、この時代において、ほとんどの大日本帝国軍人・日本人が、異常な欲望を持っていたからである。さらに、戦争末期になり、戦況の不利を悟り、戦闘機・戦艦・武器などが少なくなると、若い兵士や学徒出陣の学生・生徒たちに強要し、「自分も後に続くから。」と言って、六千人以上を特攻という苦悶の死を与えたが、ほとんどの上官は後に続かなかった。そして、戦後、彼らは、特攻の責任を、自決した大西瀧次郎海軍中将などに押しつけ、「特攻を希望した若者たちは立派だった。彼らの名誉ある死があるから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と言って、自らの責任を回避した。だから、大西瀧次郎は、責任を取って、自決したのである。特攻によって命を散らされた若者が生きていたならば、日本は現在もっと繁栄しているだろう。彼らは、行動が詐欺師であるばかりでなく、言動まで詐欺師である。特攻のほとんどは、希望ではなく、軍部の上官による強要である。軍部の上官たちは、欲動の第一の欲望である自らの保身のために、若者たちを犠牲にし、若者たちは、欲動のの第二の欲望である自我の対他化のために、すなわち、臆病者だと言われたくないために、特攻死したのである。現代においても、愛国心が日本と中国が尖閣諸島という無人の島々の領有権を、日本と韓国が竹島という無人島の領有権を戦争も辞さない態度で臨んでいるのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。無人島の尖閣諸島や竹島を巡る攻防など、まるで子供の喧嘩である。また、従軍慰安婦も問題になっているが、従軍慰安婦は、軍隊が直接に関与したかどうかが問題ではない。日本が、朝鮮半島を占領し、そこの住民が日本軍の慰安婦として行ったことが問題なのである。些事に拘泥せず、きちんと、謝罪すべきである。南京大虐殺も、殺された人数が問題ではない。無抵抗の民間人がレイプされ、虐殺されているのは事実なのだから、きちんと、謝罪すべきなのである。特に、中国においては、ハルビンで、731部隊が、中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って、三千人以上の人体実験を行っていたのも事実であるから、言い訳は許されないのである。さて、日本の安倍政府が、韓国に対して、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのも、韓国民が、日本製品の不買運動を起こしたのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない限り、このような子供じみた正直さが行動となって現れるのである。日本でも、韓国でも、中国でも、愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない人が多数を占めるようになったのである。それは、アメリカも、ロシアも、ヨーロッパも、同じ傾向にあるのである。このまま、各国民が愛国心という自我の欲望に正直に突き進めば、第三次世界大戦になるだろう。そして、最後には、核戦争になるから、人類は、必ず、滅びるだろう。核抑止力という言葉があるが、深層心理から湧き上がる憎しみが強ければ、核を使うことをを厭わないのである。


人間は誰でも猛獣使いである。(自我その358)

2020-05-25 17:12:39 | 思想
中島敦の小説『山月記』で、主人公の李徴が反省の弁を述べ、次のように告白している部分がある。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」李徴は、尊大な羞恥心という自らの性情をコントロールできなかったために、虎という尊大な羞恥心を持っている動物になってしまったと言う。李徴は、自らにとって、内なる、コントロールすべきものは尊大な羞恥心という性情であったと言うが、人間一般にとって、内なる、コントロールすべきものは自我の欲望である。人間は自我の欲望をコントロールできなければ、李徴と同じく、自分自身を損ない、妻子を傷つけ、友人を苦しめ、周囲の人に迷惑を掛けるばかりでなく、殺人さえ行う可能性があるのである。もちろん、尊大な羞恥心は、李徴が求めたものではない。気付いた時には、既に、李徴の深層心理に存在し、それが李徴を動かし、惨劇・悲劇を招いたのである。同じように、自我の欲望は、人間自らが、意識して、求めたものではない。人間の無意識のうちに、深層心理が、自我の欲望を生み出し、それが人間を動かし、惨劇・悲劇を招く可能性があるのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。それに対して、表層心理とは、人間の意識しての思考である。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らない。深層心理の思考に気付いていない。だから、ほとんどの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。そこに、大きな誤りがあるのである。しかも、人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在しているのではない。人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてである。しかも、人間は、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について、表層心理で、常に、審議するわけではない。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。日常生活のルーティーンという同じようなことを繰り返す行動は、無意識の行動である。さて、フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、感情と行動の指令が合体したものであり、深層心理が、自我を主体にして、思考して、生み出したのである。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動するのである。さて、それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されて、暮らしている。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。つまり、人間の行動は、全て、自我の欲望の現象(現れ)なのである。それでは、自我を主体に立てるとはどういうことか。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。人間は、表層心理で、自我が主体的に自らの行動を思考するということはできない。それには、二つの理由がある。一つは、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。もう一つは、人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてのことだけだからである。人間は、表層心理独自で、思考することはできないのである。次に、深層心理は、何を求めているか。それは、快楽である。深層心理は、構造体の中で、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我を動かしているのである。スイスで活躍した心理学者のフロイトは、深層心理の快楽を求める傾向を、快感原則と表現している。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。次に、深層心理は、何に基づいて、快楽を得ようとして、自我の欲望を生み出しているか。それは、欲動である。つまり、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、四つの欲望の集合体である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、人間は、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則によって、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、深層心理が、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。後者が広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多いのである。人間は、自我の欲望という猛獣をコントロールしながら生きていけなければいけないのだが、猛獣のコントロールに失敗すれば、李徴と同じように、猛獣の配下となるしかないのである。つまり、自我の欲望のままに、行動するしかないのである。

人間は自我に捕らわれて一生を送る。そこに、自己は存在しない。(自我その357)

2020-05-23 16:46:55 | 思想
人間は、自我に捕らわれて、一生を送る。すなわち、自我のために生き、そして、死ぬのである。だから、自我の存続・発展のためには、総理大臣・国会議員・官僚などの自我を持つ者たちは国民という自我を持つ人たちの自我をないがしろにし、父・母という自我を持つたちは期待に応えない息子・娘という子という自我を持つ人たちをないがしろにし、夫という自我を持つ人は仲が悪くなった妻という自我を持つ人ををないがしろにし、妻という自我を持つ人は仲が悪くなった夫という自我を持つ人ををないがしろにし、校長という自我を持つ人は教諭という自我を持つ人ををないがしろにし、教諭という自我を持つ人は生徒という自我を持つ人ををないがしろにし、社長・部長などの自我を持つ管理職は社員という自我を持つ人ををないがしろにし、友人という自我を持つ人たちは仲間以外の自我を持つ人ないがしろにし、恋人という自我を持つ人は元恋人という自我を持つ人をないがしろにするのである。それは、戦時中において最も顕著であった。大日本帝国の軍人という自我を持つ人たちは中国人・朝鮮人という自我を持つ人たちに対して略奪・拷問・レイプ・虐殺など行い、大日本帝国の軍部の上官たちは若者たちを徴兵して特攻隊員という自我を持たせ、無駄な死に追いやったのである。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、夫婦という構造体には夫・妻の自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に属して、ある自我を有して、行動するのである。人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、それによって、行動するのである。まず、深層心理についてであるが、深層心理とは、人間の無意識の思考である。それに対して、表層心理とは、人間の意識しての思考である。つまり、人間には、深層心理の思考と表層心理での思考という二種類の思考が存在するのである。しかし、ほとんどの人は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らない。深層心理の思考に気付いていない。だから、ほとんどの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。そこに、大きな誤りがあるのである。人間の表層心理での思考は、深層心理から独立して存在しているのではない。人間が、表層心理で、意識して。思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについてである。しかも、人間は、深層心理が生み出した行動の指令の諾否について、表層心理で、常に、審議するわけではない。人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多い。それが無意識の行動である。日常生活のルーティーンという同じようなことを繰り返す行動は、無意識の行動である。さて、フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望に捕らわれて生きているのである。欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。次に、自我を主体に立てるについてであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考えるということである。自我が主体的に自らの行動を思考するということではない。なぜならば、そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。深層心理が、構造体の中で、自我が快楽を得るように、思考して、自我を動かしているのである。次に、気分についてであるが、気分は、感情と同じく、心の状態を表す。深層心理は、常に、ある気分や感情の下にある。つまり、深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、気分や感情にも動かされているのである。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の気分や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の気分や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。だが、悪なる欲望を抱いた者まで罪人であるとすれば、深層心理が欲望を生み出すのだから、人間全員が懺悔しなければならないだろう。当然、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。次に、欲動についてであるが、欲動とは欲望の集団である。だから、欲動と欲望を同列に扱って構わない。欲動が、深層心理を内部から突き動かしているのである。だから、深層心理は欲動に基づいて思考するのである。欲動とは、深層心理に感情と行動の指令という自我の欲望をを生み出させ、人間を行動へと駆り立てる、深層心理に内在している欲望の集団である。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。つまり、性欲である。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。欲動は四つの欲望によって成り立っていると考えると、人間の全ての感情と全ての行動と感情の理由と意味を説明できる。すなわち、欲動には、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。いずれも、自我を存続・発展せたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。冒頭で述べた、自らの自我で他者の自我をないがしろにするのも、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我の保身化から来ている。次に、欲動の第二の欲望である自我の対他化であるが、それは、深層心理が、自我が他者に認められることによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、言い換えると、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。他者に認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、認められれば、評価されれば、好かれれば、愛されれば、信頼されれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。中学生や高校生が勉強するのは、テストで良い成績を取り、教師や同級生や親から褒められたいからである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る原因の一つが、深層心理の自我の対他化の機能による。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、快感原則の下で、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。人間は、それを受けて、表層心理で、すなわち、広義の理性で、現実原則の下で、傷心という感情の中で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのだが、傷心という感情が強いので、不登校・不出勤になってしまうのである。そこで、人間は、表層心理で、すなわち、狭義の理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。次に、欲動の第三の欲望である対象の対自化であるが、それは、有の無化作用であり、深層心理が、他者や物や現象という対象を自我で支配することによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。他者という対象を自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で命令して動かすこと、物という対象を自我の志向性や趣向性で利用すること、現象という対象を自我の志向性や趣向性で捉えることなのである。すなわち、他者の対自化とは、自我の力を発揮し、他者たちを思うように動かし、他者たちのリーダーとなることなのである。その目標達成のために、日々、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接している。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用することである。現象の対自化とは、自分の志向性でや趣向性で、現象を捉え、理解し、支配下に置くことである。対象の対自化は、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、現象という対象を、自分の志向性や自分の趣向性で捉えている。国会議員は総理大臣否ってこの国を支配したいのである。教諭は校長になって学校を支配したいのである。社員は社長になって会社を支配したいのである。人間は樹木やレンガを建築材料として利用するのである。科学者は自然を対象として捉え、支配しようとするのである。また、人間は、自分の志向性や自分の趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。それが、「人は自己の心象を存在化させる」、無の有化という作用である。人間はは、この世に神が存在しなければ生きていけないと思ったから、神を創造したのである。さて、自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。しかし、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性(観点・視点)は冷静に捉え、趣向性(好み)は感情的に捉えていることである。また、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これを徹底した思想が、ドイツの哲学者のニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、フランスの哲学者のサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。見られることより見ることの方が大切なのだ。」と言い、死ぬまで戦うことを有言実行したが、一般には、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。また、大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。次に、欲動の第四の欲望である自我と他者の共感化は、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、喜び・満足感という快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化とは、自我の存在を確かにし、自我の存在を高めるために、他者と理解し合い、心を交流し、愛し合い、協力し合うのである。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。年齢を問わず、人間は愛し合って、カップルや夫婦という構造体を作り、恋人や夫・妻という自我を持つが、相手が別れを告げ、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、深層心理の敏感な人ほど、ストーカーになって、相手に嫌がらせをしたり、付きまとったりするのである。また、敵と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の志向性である。政治権力者は、敵対国を作って、大衆の支持を得ようとするのである。さて、人間は、常に、深層心理が、ある構造体の中で、ある自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、それによって、行動しようとする。その後、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、行動する場合がある。前者が、無意識による行動である。人間の生活が、ルーティンと言われる決まり切った無意識の行動の生活になるのは、表層心理で考えることもなく、安定しているからである。だから、ニーチェの言う「永劫回帰」(同じことを永遠に繰り返す)という思想が、人間の日常生活にも当てはまるのである。後者が広義の理性の思考である、広義の理性の思考の結果が意志(による行動)である。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考するのである。これが広義の理性である。現実原則も、フロイトの用語で、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、その後、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、行動の指令の通りに行動すると、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、人間は、表層心理で、傷心・怒りという苦痛の感情の中で、傷心・怒りという苦痛の感情から解放されるための方法を考えなければならないことになる。これが狭義の理性である。この場合、人間は、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、深層心理が納得するような方策を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令を意志を使って抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、所謂、感情的な行動であり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。さて、サルトルの言う、自分自身で主体的に考えて行動する生き方である実存主義の思想は、深層心理の対象の対自化の方法なのである。それは、ニーチェの「権力への意志」の思考でもある。しかし、サルトルは、無意識の思考、すなわち、深層心理の思考を認めなかった。サルトルは、人間は、最初に、深層心理が、快感原則に基づいて、言語を使って論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、後に、人間は、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が生み出した行動の指令の通りに行動する場合と、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考し、その結果、思考する場合があることに思い至らなかった。なぜならば、サルトルには、深層心理と表層心理の葛藤がなかったからである。サルトルは、自分の思うままに行動したのである。もちろん、それが深層心理の欲望の行動だとは考えなかった。サルトルは、マルクス主義に傾倒した。なぜならば、サルトルは、自ら主体的に考え行動すると言ったが、自分の思考だけでは、主体の方向性が見いだされなかったからである。マルクス主義に歴史の必然的な動きを感じ取り、自らの思考の方向性を見いだそうとしたのである。そこに、サルトルの実存主義の限界があった。レヴィ=ストロースは、南米の未開と言われているさまざまな閉じた民族と暮らすことによって、歴史の変遷はなく、同じことを繰り返しながら生きる穏やかな生き方を知った。それが、構造主義である。そして、サルトルの主体的な思考や歴史の必然的な動きの尊重を、先進国に生きる人々の自己中心的な考え方だと批判した。そこから、サルトルの社会的な影響力の急速に弱まった。しかし、サルトルは、最期まで、意志の人、戦う人であった。他者と対し、見られる存在としての自我の他者化の弱みを感じた時、その他者を見るという対自化することによって、勝利しようとした。おそらく、現代において、サルトルに師事して、その思想をそのまます実行する人は皆無であろう。しかし、サルトルの有言実行の真摯な生き方は尊敬に値すると思う。しかし、サルトルは、「人間は自由へと呪われている。」と言うが、真実は、「人間は深層心理の欲望へと呪われている。」である。サルトルは、「実存は本質に先立つ」と言うが、真実は、「深層心理の思考が、人間の表層心理での思考である実存や人間の表層心理での結論である本質よりも先立つ。」である。



人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きている。(自我その356)

2020-05-21 20:36:57 | 思想
人間、誰しも、他者に、自らの欲望を全て話せば、他者は軽蔑し、警戒し、去って行くだろう。人間は、恥知らずな生き物なのである。しかし、人間は、自ら、思考して、欲望を生み出しているわけではない。深層心理が思考して欲望を生み出しているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、欲望を生み出しているのである。フランスの心理学者のラカンの言葉に「無意識は言語によって構造化されている。」がある。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した欲望に捕らわれて生きるのである。欲望が、人間が生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが生み出していない欲望によって生きているのである。しかし、自らが生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、その欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。しかし、自らが生み出していないから、恥知らずな欲望も湧いてくるのである。しかし、ほとんど人は、深層心理が欲望を生み出していることに気付いていない。欲望はその人自らが意識して思考して生み出していると考えている。人間の意識しての思考は、表層心理と言われている。ほとんどの人は、人間は表層心理で思考して欲望を生み出していると思っている。ほとんどの人は、自ら意識して思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らない。深層心理の思考に気付いていない。だから、ほとんどの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。そして、もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの妨害や束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。人間は主体的ではないのである。人間は、自由であっても、主体的になれないのである。なぜならば、人間は、常に、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きているからである。自我の欲望に動かされて生きている人間は主体的に思考し、主体的に生きているとは言えないのである。人間は、主体的に思考して欲望を生み出しているのではなく、深層心理が思考して、欲望を生み出しているから、誰しも、他者に、自らの欲望を全てを話すことができないのである。欲望の中には、必ず、恥知らずな欲望が存在するからである。中には、恥知らずな欲望にまみれている人も存在する。しかし、人間の欲望は、本人に関わりの無い、突拍子のない、野放図なものではない。人間の欲望は、常に、本人の自我と深く関わっている。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。人間は、いついかなる時でも、ある自我を有して、ある構造体に所属し、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、深層心理が、次に、自我を主体に立てて思考しているのである。つまり、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考え、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。だから、自我が主体的に自らの行動を思考するということではないのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我が主体的に自らの行動を思考することはできないのである。次に、深層心理は、何を求めて、自我の欲望を生み出しているか。それは、快楽である。深層心理は、自我が快楽を得るように思考して、自我の欲望を生み出している。快楽を求めるあり方を快感原則と言う。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理の思考は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを、目的・目標としているのである。キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる欲望を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式がある。だが、悪なる欲望を抱いた者まで罪人であるとすれば、深層心理が欲望を生み出すのだから、人間全員が懺悔しなければならないだろう。当然、司祭自身も、懺悔しなければならないことになる。さて、深層心理は、まっさらな状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではない。深層心理は、常に、ある気分の下にある。気分は、感情と同じく、心の状態を表す。気分は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する心の状態である。感情は、喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる心の状態である。人間は、気分や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の気分や感情の状態の時には、深層心理は現在の状態を維持しようとし、不得意の気分や感情の状態の時には、現在の状態から脱却するために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さらに、人間は自分を意識する時は、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は気分や感情を意識しようと思って意識するのでは無く、ある気分やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識せざるを得ないのである。つまり、否応なく、気分や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある気分の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する気分や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。そして、気分は、深層心理が自らの気分に飽きた時、そして、深層心理がある感情を生み出した時に、変化する。感情は、深層心理が、人間の無意識のうちに、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、欲動によって、言葉を使って論理的に思考して自我の欲望を生み出す時、行動の指令ととともに誕生する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、気分も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、気分も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時などに、何もしていない自分の状態や何かをしている自分の状態を意識するのであるが、その時、同時に、必ず、自分の心を覆っている気分や感情にも気付くのである。どのような状態にあろうと、気分や感情は掛け替えのない自分なのである。つまり、気分や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。
さて、深層心理を内部から突き動かしているものは何か。それは欲動という欲望の集団である。だから、欲動と欲望を同列に扱って構わない。人間は欲動に基づいて行動する。欲動とは、感情を生み出し、人間を行動へと駆り立てる、人間の内在的な欲望の集団である。欲動は深層心理に存在しているから、内在的と言うのである。フロイトは、欲動をリピドーと表現し、性本能・性衝動のエネルギーを挙げている。ユングは、リピドーとして、生命そのもののエネルギーを挙げている。しかし、フロイトが挙げているリピドーは狭小であり、ユングが挙げているリピドーは漠然としていて、曖昧であり、両者とも、人間の全ての行動と感情の理由と意味を説明できないのである。実際には、欲動は四つの欲望によって成り立っている。それは、第一の欲望として、自我を存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の交感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動きだすのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、ある心境の下で、快感原則に導かれ、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。人間が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしているのは、自我を存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が満たされているからである。それが、人間が毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活をしている理由と意味である。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合するのは、立身出世のためである。さて、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望は、自我の対他化と言われている。自我の対他化は、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。悪評価・低評価が傷心という感情の理由である。不登校・不出勤は、これ以上傷心せず、自宅で心を癒やそうという意味である。その後、人間は、表層心理で、理性で、現実原則に基づいて、傷心という感情の下で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令について意識して思考し、行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのである。それは、欲動の第一の欲望である自我を存続・発展させたいという欲望を満たそうという理由からである。だが、深層心理が生み出した傷心という感情が強いので、登校・出勤できないのである。そして、人間は、表層心理で、すなわち、理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それも上手く行かずに、苦悩に陥るのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。そして、苦悩が強くなり、自らそれに堪えきれなくなり、加害者である同級生・教師や同僚や上司という他者を数年後襲撃したり、自殺したりするのである。つまり、同級生・教師や同僚や上司という他者の悪評価・低評価が苦悩の理由であり、襲撃や自殺は苦悩から脱出するという意味である。また、受験生が有名大学を目指すこと、少女がアイドルを目指すことの理由・意味も、自我が他者に認められたいという欲望を満足させることである。さて、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、自我の対他化と言われている。自我の対他化は、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由・意味である。対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)という言葉に表れている。さらに、対象の対自化は、「無を有化させる」(「人は自己の欲望の心象化を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。これは、人間特有のものである。 人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこと、いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めること、いずれもこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ることがその理由・意味である。さて、自我の志向性や趣向性は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)である。志向性と趣向性は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性は観点・視点で冷静に捉え、趣向性は好みで感性として捉えていることである。さて、自我の対他化は自我が他者によって見られることならば、対象の対自化は自我の志向性や趣向性で他者・物・現象を見ることなのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。さて、人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。それは、家族という構造体で、男児という自我を持った者は、深層心理が、母親という他者に対して、男性という好評価・高評価を受けて快楽を得ようとして、近親相姦的な愛情というエディプスの欲望を抱き、敵対者として、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、表層心理で、抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理がエディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)という自我の欲望を生み出したのである。しかし、家族という構造体から追放される虞があるので、男児は、深層心理で、エディプスを抱いたのは一人の男性という自我を母親という他者から認めて欲しいという理由から起こしたのであるが、表層心理で、エディプスの欲望を抑圧した意味は、そうするすることによって、家族という構造体の中での男児の自我を守ることである。さて、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという欲望は、自我と他者の共感化と言われている。自我の対他化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。さて、人間の行動は、深層心理が欲動に基づいて生み出し、指令しているから、全ての行動には理由と意味がある。しかし、人間は、常に、全ての行動の理由と意味を意識して行動しているわけではない。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それが起点となって、人間は行動するからである。確かに、人間は、表層心理で、意識して行動することがある。また、人間は、表層心理で、意識して思考した後で行動することがある。しかし、それらは、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間は、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した後、それを受けて行われるのである。人間は、深層心理が自我の欲望を生み出す前に、表層心理で、思考して、行動することは無いのである。それであるのに、人間は、全ての行動は、自ら表層心理で意識して、思考して、行っていると思い込んでいるから、行動している途中や行動した後で、時として、理痛や意味を理解せずに行動していることに気付き、驚くのである。また、人間の全ての感情にも理由と意味がある。それは、行動の指令と同様に、深層心理が、人間の無意識のうちに、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すからである。しかし、行動と異なり、人間は、常に、自分の感情を意識している。しかし、人間は感情を意識しようと思って意識しているのでは無く、感情が人間を覆ってくるから、人間は自分の感情を意識せざるを得ないのである。しかし、感情の存在が、すなわち、自分が意識する感情が常に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。これは、デカルトの「我思う故に我在り」(あらゆるものを疑えるとしても、このように疑っている自分の存在を疑うことはできない)という回りくどく、しかも、危うい論理よりも、確かなことなのである。確かに、人間は、常に、自分の感情を意識するが、しかし、その理由と意味を全て理解しているわけではない。後にそれが理解されることもあり、後々までわからないこともある。なぜならば、これも、また、全ての感情は、全ての行動の指令と同様に、人間の無意識のうちに、深層心理が欲動に基づいて思考して生みだしているからである。人間は、意識して、すなわち、表層心理で、思考して、決して、行動の指令と同様に、感情も生み出すことはできないのである。さて、なぜ、全ての行動と感情に理由と意味があるのか。それは、深層心理が、理由で過去と現在を繋げ、意味で将来と現在を繋げているからである。深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事によって現在の感情と行動の指令を生み出し、将来の目的によって現在の感情と行動の指令を生み出しているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。つまり、深層心理が、欲動に基づいて思考して、過去の出来事、現在の感情と行動の指令、将来の目的を繋げているから、全ての行動と感情に理由と意味があるのである。この、深層心理による、過去、現在、将来という一連の創造を、ハイデッガーは、時熟と表現している。だから、時熟とは、客観的な時間系列ではなく、深層心理による創造の時間系列なのである。客観的な時間系列は、人間にとって、何の意味も為さないのである。さて、人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、ある気分の下で、自我を主体に立てて、快感原則を満足させるように、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識して思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。後者の場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した自我の欲望を意識して、思考して、行動する。すなわち、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちなので、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、実際に、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならない。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。だから、人間は、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされて生きていると言えるのである。