あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

明日も生きていくだろう(自我その70)

2019-03-27 19:10:34 | 思想
明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。確かに、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得られない。しかし、そのように思っている。理性的に考えて、そのような結論に達したのではない。深層心理がそのように思っているから、自らも、そのように思い込んでいるのである。しかし、明日はやってこない、明日は死んでいるということも確証できないのだから、明日はやって来るだろう、明日も生きていくだろうと思い込んでいても、損なことはない。パスカルは、「神を信じた方が生きやすい。」と言い放ったように、明日はやって来るだろう、明日も生きていくだろうと思っていた方が生きやすいのである。しかし、明日も今日のようにやって来るというとは、今日、セクハラ、パワハラ、いじめを受けている人は、明日も、それを受けるということである。明後日も、それ以後も、半永久的に、それを受け続けるということである。新潟県や千葉県で、何年間も監禁されていた少女が助け出されたことがある。マスコミや大衆は、なぜ逃げるチャンスがあったのに逃げ出さなかったのだろうと疑問を呈する。しかし、自らを反省してみると良い。一度なりとも、自らの意志で、現在の生活環境や生活のサイクルを変えたことがあるか、と。他者の力で変えさせられたことがあっても、自らの力で変えたことは皆無ではないだろうか。ハイデッガーは、「人間は臨死の状態になれば(死の覚悟を持てば)、他者の視線をはねのけ、自らの意志で決断し行動できる。」と言った。しかし、太平洋戦争で、操縦技術の未熟な六千人もの若者が、愚鈍で権力意志の強い上官たちの命令で、苦悩の果てに、特攻死した。彼らは、臨死の状態にあったのに、上官たちの視線をはねのけることができなかった。死にたくなかったのに、特攻死を拒否できなかった。太平洋戦争中、一部の知識人だけが、残酷な憲兵や特高の拷問を受けながら、戦争反対を唱え続けた。臨死の状態の中で、憲兵や特高の視線をはねのけ、自らの意志で決断し、戦争反対を唱え続けた。そして、百人以上が殺された。戦後、特攻死した六千人もの若者や戦争反対を唱え続けて拷問死した知識人に、今日は無かった。もちろん、明日も来なかった。しかし、権力意志の強い上官たちや残酷な憲兵・特高には、明日はやって来た。そして、今日生きたように、明日も生きていくことができた。私たちにも、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。

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