あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分らしく生きることと自分のように生きること。(自我103)

2019-04-30 21:19:09 | 思想
ある哲学者は、常に主体的に生きることを主張していたが、ある時、「時には、自分で考えず、自分に代わって考えてくれた人の言うままに生きたいと思うことがある。そんな自分を情けなく思う。」と呟くことがあった。彼は、主体性を重んじ、常に、「人間の本質とは、自分で考え、判断し、決断して、行動することである。」と主張していた。つまり、彼は、常に、自分らしく生きることが人間の正しい生き方だと説いていたのである。しかし、自分で考えることに疲れ、「時には、『自分に代わって考えてくれる人がいたならば、その人に付いていくのだが。』と思う時がある。そして、すぐに我に返り、そんな自分を情けなく思ってしまう。」と言うのである。つまり、彼は、考えることに疲れると、時には、人の考えたことを自分の考えたこととして、人の言ったことを自分の言ったこととして他者に主張して、自分のように生きたいと思う時があると言うのである。なぜ、彼は、普段は、自分らしく生きることを主張しているのに、時には、自分のように生きることに憧れるのか。それは、自分で考え、判断し、決断して、行動するという自分らしい生き方は、その結果が良ければ他者から高く評価されるが、結果が悪ければ他者から責任を追及されるからである。つまり、失敗の時の他者からの責任追及が恐いからである。それに比べて、自分に代わって考えてくれる人に従って行動するという自分のように生きていくことは、その結果が良ければ他者から自分の手柄として高く評価され、結果が悪ければその人に責任を押しつけられ他者からの自分への責任の追及を逃れることができると思うからである。つまり、結果が良ければ自分の手柄であり、結果が悪ければその人に責任だというわけである。ずるい生き方である。しかし、彼は、「そんな自分を情けなく思う。」と自らを恥じていて、誠実である。しかし、世の中の多くの人は、彼の恥じた生き方をしているのではないか。つまり、自分のように生きているのではないか。しかも、自分のように生きていながら、自分らしく生きていると思い込んでいるのではないか。私は、自分のように生きても良いと思う。しかし、その結果が良ければその人の手柄だと告白し、結果が悪ければ自分の責任だと認めるべきだと思う。その人の言に従ったのは自分自身だからだ。しかし、自分のように生きている人は、結果が悪いと、自分に責任はなくその人の責任だと主張するのだが、他者がそれを認めず、自分の責任だと責め立てる。当てが外れた彼は、どうして良いかわからず、悩むのである。世の中の多くの苦悩の原因はこれである。だから、長引くのである。しかし、自分で考え、判断し、決断して、行動するという自分らしい生き方をしている人は、結果が悪くて他者から責任を追及されても、その責任を潔く引き受ける。最初から、結果が悪かったら、責任を取る覚悟があったからである。もちろん、彼にも、苦悩はある。自らの思考が良い結果を結ばなかったのだから、苦悩が無いはずがない。しかし、苦悩は長引かない。なぜならば、この失敗の原因を分析し、それを糧にして、次の段階に向かうからである。自分で考え、判断し、決断して、行動することが、彼の生き方だからできるのである。しかし、自分らしく生きている人は稀で、自分のように生きている人がほとんどなのだから、自分らしく生きている人は、どのような構造体(人間の組織・集合体)であろうと、孤立することが多い。自分らしく生きている人は、孤立化を自ら望まないが、だからといって、無理に避けようとも思わない。なぜならば、現代において、いや、いつの時代もそうだったが、自分で考え、判断し、決断して、行動するという自分らしい生き方をしている人は、孤立することはわかっているからである。世の中には、「自分本来の生き方をする人が増えれば、世の中は良くなる。特に、若者は、自分本来の生き方を目指すべきだ。」と主張する人がいる。確かに、自分本来の生き方、つまり、自分らしい生き方をする人が増えれば、結果的には、世の中は良くなるだろう。しかし、この主張者は、主張者自身の望む生き方が自分本来の生き方であると主張しているのである。しかし、それは、主張者の生き方であり、聞いている人の本来の生き方、自分らしい生き方ではない。つまり、主張者の望む生き方を聞いている人がすれば、聞いている人は、自分らしい生き方ではなく、自分のように生きることになるのである。だから、このように主張する人は政治家に多いのだが、警戒すべきなのである。確かに、自分らしい生き方をする人が増えれば世の中は良くなるだろうが、それを目標にして行動すべきではない。もともと、世の中はそんなに簡単には変わらない。人間は、そもそも、変わろうと望んでいる人しか変わっていかないからである。世の中に、自分の周囲に、どれだけ、変わろうと望んでいる人がいるか考えてみればわかるはずである。ほとんどの人は、自我(構造体での自分のポジション)に囚われ、全ての価値観を排除して、他者存在のために(他者の評価を受けるために)、なりふり構わず、行動しているではないか。自分らしい生き方をしようとする人は、そのような人たちとは系譜を異にする人である。自分らしい生き方をしようとする人は、自我(構造体での自分のポジション)を意識するが、それに囚われず、他者存在(他者の評価)を意識するが、それに囚われず、自分で考え、判断し、決断して、行動し、その結果が良くて他者から高く評価されても、自分を自分を失わないために謙虚に対応し、結果が悪ければ、潔くその責任を認めるのである。なぜならば、それが、自分の生きている証だと信じているからである。

裏の顔、本当の顔。(自我その102)

2019-04-29 19:14:54 | 思想
数十年前のことであるが、二月下旬の深夜に、我が家から十メートルほど離れた所に、火事があった。隣の家には燃え移らなかったが、一軒全焼した。焼け跡から、若い女性の焼死体が発見された。驚いたことに、その女性を殺したのも、火事を起こしたのも、その家の持ち主であった。その日、その家には、加害男性と被害女性の二人しかいず、彼女から好きな人ができたから別れてほしいという申し出に、彼が逆上し、口論の末に、彼女に灯油を掛け、火を付けて殺し、その火が家に燃え移ったのである。彼は家を飛び出し、隣の家の戸を叩いて、震える声で、自分の家が火事になったことを話し、隣の家の男性が消防署に連絡したのである。翌日から暫くの間、我が家に、放送局や新聞社や雑誌社の記者が入れ替わり立ち替わり来て、彼について私の知っていることを尋ねた。しかし、私の知っていることは僅かだった。彼が半年前ぐらい前にこの中古住宅を買ったこと、一週間に一度ぐらいの程度で夜明かりが付いていること、彼以外に出入りしている人を見たことがないこと、ここから二十キロメートルぐらい離れた国道沿いに大衆食堂を営んでいること、その大衆食堂ははやっていること、その大衆食堂のすぐ近くに家族と暮らしている家があることぐらいだった。記者たちは、彼の人となりを尋ねるので、私は「早朝散歩していて、数回顔を合わせた程度、ほとんど知りません。でも、挨拶がきちんとでき、言葉遣いは丁寧で、礼儀正しい人のように見えました。」と正直に答えた。すると、彼らは不満そうである。中には、「こんなひどい事件を起こす男だから、必ず、裏の顔があるはずなんです。裏の顔を知りませんか。」と正直に自らの意向を言う人もいる。彼の裏の顔を知らない私が不満だったのである。その後、マスコミや近所の人の話によってわかってきたことは、彼は42歳であること、被害女性は24歳の独身のコンパニオンであったこと、二人は宴会で知り合ったこと、妻と小学六年生の息子と小学三年生の娘がいること、PTAの役員をしていて保護者や教師たちの評判が良いこと、家族に暴力を振るったことはなく慕われていること、中古住宅を買ったことを妻は知らなかったこと、大衆食堂の従業員たちにも評判が良いことなどである。だから、マスコミの記者たちは、不満だったのである。彼らは、殺人を犯した人間だから、一般人と異なる裏の顔があるはずだと思い込んでいるのである。また、彼の裏の顔つまり本当の顔を暴かないと、視聴者や読者である大衆にも納得しないと思っているからである。マスコミは苦労の末に、彼の小学校時代・中学校時代の数人から、彼が友人と殴り合いの喧嘩をしているとの情報を得て、彼の裏の顔つまり本当の顔を引き出し、殺人事件を起こす人間の常人にはない異常な性格を発見し、それを大衆に流すことができたのである。しかし、考えてみればわかることだが、現在の小学生や中学生は知らないが、過去の小学生や中学生は、男子ならば、殴り合いの喧嘩は誰でも経験しているはずである。このような無理押しは、マスコミが、異常な性格をしている人が異常な事件を起こすという偏見でものを見ようとし、大衆もそれを受け入れているからである。彼は、一つだけ、ミスを犯した。しかし、それは致命的なミスであった。彼は、家族という構造体では父というポジションを上手くこなし、夫婦という構造体では夫というポジションを上手くこなし、PTAという構造体では役員というポジションを上手くこなし、大衆食堂という構造体では主人というポジションを上手くこなし、近所という構造体では隣人というポジションを上手くこなしたが、不倫という構造体では愛人というポジションをこなし切ることができなかった。言わば、父という自我、夫という自我、役員という自我、主人という自我、隣人という自我とは一体化できたが、愛人という自我には反逆された。交際女性の大切な生命を奪い、妻、子供を苦悩のどん底に突き落とし、周囲の人に迷惑を掛けた。しかし、交際女性の命を奪い、彼自身の人生を奪い、家族を不幸の谷に突き落とし、周囲の人に多大な迷惑を掛けるほど、不倫という構造体・愛人という自我は価値があるのだろうか。確かに、総体的に見れば、他を押しのけるほどの価値はない。しかし、当事者には、他を押しのけるほどの価値も、他を押しのけるほどの力はあるのである。言われているように「愛は盲目」だからである。恋愛の愛だけが盲目なのではない。不倫の愛も盲目だからである。恋愛という欲望も不倫という欲望も、深層心理(無意識という心的世界)から湧き上がってきて、愛ということでは同じである。不倫も恋愛なのである。いや、不倫は道はずれた愛だから、恋愛よりも恋愛だと言えるかも知れない。彼が中古住宅を買ったのも、コンパニオンとの彼女の密会のためだったのだろう。その家は、一階部分に駐車スペースがあり、シャッターを下ろせば、自動車に誰が乗るか誰が降りるかわからないのである。夜ならば確実にわからない。昼でも、工夫を凝らせば、助手席に誰が乗っているかわからないだろう。それほどまでに、彼は彼女とこっそり会いたかったのである。もちろん、妻には、いつか、この家の存在は知られるだろう。その時の言い訳は、恐らく、老後のためだとか投機のためだとかいろいろ考えていただろう。彼女の存在だけは隠しておきたかったに違いない。しかし、自ら、事件を起こすことによって知られることになった。しかも、既婚男性が交際している独身女性に好きな人ができたから殺したというのでは、人間以下の仕業として非難されるだけである。彼も、他の既婚男性が同じことをしていたならば非難していただろう。しかし、自分の場合は、後に非難を浴びることだとわかっていてもしてしまうのである。彼でなくても、人間は、後に非難を浴びることだとわかっていてもしてしまうだろう。しかし、このように主張するのは、彼をかばいたいからではない。人間の欲望を直視しなければいけないと思うからである。人間の欲望を過信してはいけないと思うからである。人間の欲望に警戒すべきだと思うからである。誰にも、深層心理(無意識という心的世界)があり、そこから、常に、いろいろな欲望が上がってくる。しかし、その欲望には、実行すべき一般的な欲望と実行してはいけない黒い欲望がある。犯罪者だけに、実行してはいけない黒い欲望が湧き上がってくるのではない。全ての人に、実行すべき一般的な欲望と実行してはいけない黒い欲望が湧き上がってくるのである。世界中の人がキリスト教徒ならば、全員懺悔しなければいけないことになる。実行してはいけない黒い欲望を、深層心理の圧力に負けて、実行した人が犯罪者なのである。だから、誰もが、犯罪者になる可能性があるのである。恋愛も不倫も愛の力は大きい。愛は現実を乗り越える力ともなるが、愛は現実を破壊する力ともなり得る。だから、愛を過信してはならないのである。「地球の中心で愛を叫ぶ」ような深層心理の欲望の強い人は、「地球の中心で憎しみを叫ぶ」ような深層心理の欲望の強い人である。愛と憎しみは表裏一体の関係にあるからである。巷では「愛は地球を救う」という標語が人口に膾炙されているが、心理学者の岸田秀が言うように「愛は地球を滅ぼす」要素が強いのである。愛国心という国に対する愛が戦争を引き起こし、殉教という特定の宗教に対する愛がテロを引き起こすのである。だから、愛と言って、手放しに評価してはならない。愛も、深層心理から湧き上がってくる欲望に過ぎないからである。しかし、誰しも、深層心理をコントロールすることはできない。我々にできることは、深層心理から湧き上がってくる欲望に振り回されないことだけである。そのためには、日頃から、自らの欲望を直視することである。自らの欲望を過信してはいけないのである。自らの欲望に警戒すべきなのである。

人は、自己の欲望を他者に見ようとする。(自我その101)

2019-04-28 18:56:53 | 思想
ラカンは、「人は、他者の欲望を欲望する。」と言う。この言葉には、二つの意味がある。一つは、人は他者の行動の模倣をするという意味である。例えば、ラーメンやパンを食べるために出掛けたわけでもないのに、ラーメン店やパン屋に行列ができているのを見ると、自分も食べたくなって、長い時間待たされるのがわかっているのに並んでしまう。田舎の女子高校生は、都会の女子高校生の間でミニスカートやルーズソックスが流行っていると聞くと、急いで、自分もそのような服装をするのである。流行に遅れまいとする心情からである。若者を中心に多くの人がファッション雑誌を買い求めるのも、流行に遅れまいとする心情からである。もう一つは、人には他者から好かれたい・評価されたいという気持ちがあるという意味である。例えば、恋愛感情があれば、その人にも自分に対して恋愛感情を持ってほしいのである。親は子供に、子供は親に、好かれたく思い、認められたく思っているのである。会社では、上司は部下に尊敬されたく思い、部下は上司に認められたく思っているのである。学校では、生徒は他の生徒から好かれ、教師から認められたく思い、教師は生徒から尊敬されたく思い、同僚や校長から認められたく思っているのである。このように、ラカンのこの言葉は、人間は決して自主的に判断して行動しているのではなく、他者の意向に左右されて気持ちが動き、それに基づいて行動しているということを表しているのである。人間は、自主的に判断して一人で行動すると、孤立化する恐れがあり、一人で責任を追及される恐れがあるから、他者に同化するのである。この言葉は、人間は社会的な動物であるということの本質を突いている。次に、多くの心理学者が語っているのに、あまり注目されていないのが、「人は、自己の欲望を他者に見ようとする。」という言葉である。この言葉は、ラカンの言葉と同様に、人間は社会的な動物であるということの本質を突いている。なぜ、人間の本質を突いているのに、ラカンの言葉は人口に膾炙され、この言葉はあまり注目されないのか。それは、人間の自分中心の思いを暴露しているからである。人間は自分中心な人間だと他者に思われたくないのである。さて、この言葉にも、二つの意味がある。一つの意味は、自分の思いを他者にも持ってほしいという思いである。例えば、ある人を好きになると、その人にも、自分のことを好きになってほしいと願うことである。家族ならば、自分が思っているような思いを抱いてほしいと願うことである。同じ会社に勤めている人ならば、自分が思っているような社員意識を持ってほしいと願うことである。このように説明すると、意識の共有を願うことで良いように思われるかも知れないが、それが高じると、意識の強制になり、相手が拒否することになる。そうすると、軋轢が生じ、傷害事件に及ぶこともあり、時には、殺人事件に発展するのである。例えば、ある人を好きになり、その人にも、自分のことを好きになってほしいと願うのは当然であるが、その人が既に恋人がいる場合、苦しさのあまり、その人を攻撃したり、その人の恋人を攻撃するのである。恋愛感情は、深層心理がもたらすものだから、誰でも持つものであり、それ自体に罪はない。たいていの人は、好きになった人に既に恋人がいる場合、諦めるのであるが、深層心理の欲望の強い人は、表層心理で欲望を抑えることができず、自分の思いが通じないと、苦しさのあまり、その人やその恋人を攻撃するのである。特に、アイドルに恋愛感情を持った男性は、アイドルに恋人がいないという前提だから、努力すれば報われると思い、お金や時間を使って、積極的に近づこうとするのだが、それを拒否されると。自分の純愛を踏みにじったと考え、アイドルに裏切られたと思い、苦しさのあまり、一転して、攻撃に向かうのである。また、愛国心の強さを誇っている愛国主義者は、自分と考えの違う日本人が存在することが苦痛で、その人たちを反日などと非難するのである。愛国主義者は、自分の考えしか認めないのである。だから、トラブルが絶えないのである。次に、もう一つの意味であるが、それは、次の通りである。誰しも、心の中に欲望が存在する。その中には、他者を攻撃したい(時には、殺したい)・支配したいという黒い欲望もある。自分一人でそれを実行しようとすると、孤立化したり顰蹙を買ったり罰せられたりする虞があるから、心の内に秘めているが、その欲望の実現可能な権力者が現れたり多数派がその欲望の虜になったりすると、その欲望実現のために、自らも積極的に行動するのである。それが失敗に終わっても、孤立化したり顰蹙を買ったり罰せられたりする虞がなく、成功すれば、満足できるからである。例えば、ヒットラーは、ナチ党を率いて、第二次世界大戦中、約四百万のユダヤ人を虐殺した。ヒットラーは大戦末期に自殺し、ナチ党員は戦後裁かれた。しかし、一般のドイツ国民は裁かれなかった。しかし、ドイツ国民の多くはヒットラーと同じ気持ちであったはずである。ドイツ国民の多くもユダヤ教徒に対して心の中に黒い欲望を持っていたはずである。ユダヤ人がドイツをかき乱し、第一次世界大戦の敗北を招き、賠償金のためにドイツ国民に塗炭の苦しみを味わわせのだから、その報いを受けて当然だという黒い欲望を持っていたはずである。だから、これほど多くのユダヤ人を殺すことができたのである。しかし、これは、ドイツ人だけの問題ではなく、キリスト教徒の多くが抱えている問題である。キリスト教徒の多くはユダヤ教徒に対して心の中に黒い欲望を持っているのである。16世紀後半から17世紀前半に活躍したイギリスの劇作家にシェークスピアに「ヴェニスの商人」という作品があるが、ここには、ユダヤ人商人の悪徳ぶりが描かれている。それほど、ヨーロッパのキリスト教国でのユダヤ人の偏見はすさまじいのである。ユダヤ人虐殺は、ホロコーストというナチスによるものだけでなく、ヨーロッパのキリスト教国全体に存在した。キリスト教徒の多くはナチスと思いを共有しているのである。そこに、イスラム教徒が絡み、互いに、異教徒に対して黒い欲望を抱いているから、戦争や虐殺は常に起こりうる可能性があるのである。また、日本の陸軍・海軍は、太平洋戦争中、二十歳前後の若者を召集し、大半が操縦技術が未熟なのに、約六千人を特攻死させた。日本の陸軍・海軍の幹部の黒い欲望は、約六千人もの二十歳前後の若者を死に追いやったのである。しかも、特攻死のほとんどは、敗北決定の中に行われたのである。つまり、戦いが目的ではなく、若者を死に追いやることが目的だったのである。幹部軍人たちは、若者の生殺与奪の権利を握り、実際に死に追いやることで、他者の生命を支配するという黒い欲望を満足できたのである。だから、飛行機の故障で生還した特攻隊員に向かって、特攻死を命じた上官のほとんどが、慰めるどころか、「特攻が成功するか失敗するかは問題ではない。特攻死することが意味があるのだ。臆病者め。」と怒鳴りつけたのである。そこで、生還した特攻隊員の多くは、次期の出撃で、何が何でも特攻死しようとしたのである。中には、恥じて、自殺した者までいる。戦艦大和の最期も沖縄への片道燃料の特攻死であった。アメリカ軍は、特攻隊を恐れた。勇気があるから恐れたのではない。戦争とは言え、人間が行うことではなく、理解不能の行動だったから恐れたのである。日本人は人間ではないと蔑視したのは当然である。それでも、軍人幹部でも、美濃部正中尉など、特攻に反対する者はいた。しかし、ほとんどの幹部軍人は特攻を推進した。フィリピン戦で特攻を導入し、特攻隊の創設者と言われている大西瀧治郎中将は、「特攻に反対する奴は、俺が叩き斬ってやる。」とまで言った。彼は、敗戦決定の翌日、「特攻隊員に申し訳ない。」と言って、自決した。しかし、若者に特攻死を命じた上官のほとんどは、「君たちの後に自分も続くから。」と言いながら、戦後も生き延びた。戦後、「特攻隊員は、皆、自分で志願したのだ。」と言って、責任逃れをしている。しかも、特攻は、太平洋戦争緒戦の真珠湾攻撃で、既に採用されていたのである。日本軍の国民の生命を軽視する非人間性は、戦いの形勢如何に関わらず、緒戦で既に現れているのである。しかし、権力者とは、こういうものなのである。権力者の欲望は国民の生殺与奪の権利を握ることだからである。このような黒い欲望は、権力者ならば誰でも心に持っている。太平洋戦争を起こした東条英機首相は、陸軍大将であり、「生きて虜囚の辱めを受けず。」(捕虜になって生き延びるような恥ずかしいことをするな。)という言葉で有名な戦陣訓を全陸軍に下したことでも、日本の軍人の生命軽視の黒い欲望が窺われる。しかも、特攻を、マスコミも国民も昭和天皇も賞賛したのである。誰一人として、特攻を批判しなかったのである。それは、なぜか。それは、日本人全員が愛国心に酔い、アメリカ憎し、アメリカに勝利しようという欲望に凝り固まっていたからである。アメリカに勝利するという欲望の前には、特攻という生き残る希望がゼロという作戦で若者の命が失われるという残酷さ・悲劇性は無視されたのである。マスコミも国民も昭和天皇も黒い欲望の虜になっていたのである。そして、戦後、生き残った昭和天皇や軍人たちや政治家たちや官僚たちや国民は、「太平戦争での尊い犠牲によって、戦後日本の繁栄があるのだ。」と異口同音に言う。しかし、この言葉は、戦死者に対する供養に見せかけて、負け戦だとわかっているのに戦争を起こした責任、戦争に賛成した責任、戦争に反対しなかった責任、戦いによる死より餓死・病死が多いことの責任、特攻によって約六千もの若者を死なせた責任、後に続くと言いながら生き残った責任、連合国に対して国体護持(天皇制維持)を確約してもらうために無条件降伏を受け入れようとせずに広島・長崎に原爆を落とされた責任、完膚なきまでに日本全土を攻撃された責任を回避しようとしているのである。しかも、昭和天皇は、退位しなかったばかりか、日本の共産主義化が恐くて、裏で手を回し、象徴性を逸脱し、アメリカに、半永久的に、沖縄でのアメリカ軍基地の提供を確約したのである。昭和天皇を止める者がいないから、天皇家の安泰を願うという欲望と、日本人を支配しているという黒い欲望が結びついてここまでさせたのである。しかし、人間とは、こういうものである。人間の欲望とはこういうものである。誰しも、心の中には、黒い欲望があり、その欲望の実現可能な権力者が現れたり多数派がその欲望の虜になったりすると、失敗しても、孤立化したり顰蹙を買ったり罰せられたりする虞が無いから、自らの欲望実現のために、積極的に行動するのである。そして、その欲望実現が失敗に終わると、懲りることなく、次の欲望実現に向かうのである。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。」と言ったが、実際は、歴史は同じ失敗を何度でも繰り返すのである。そして、戦争や大虐殺が繰り返されるのである。それは、人間は欲望によって動かされる動物だからである。しかも、欲望は、深層心理によってもたされるから、表層心理(意志)は黒い欲望の発生をコントロールできないのである。黒い欲望が発生してから、表層心理は、その欲望をどのように処理するか考えるしか無いのである。しかし、深層心理が強過ぎると、表層心理は止めることはできないのである。だから、日本は、アメリカに負けるとわかっていても、愛国心という深層心理が強くて、太平洋戦争を起こしたのである。少数の表層心理が強い人は、戦争に反対したが、大多数の国民の反対に遭い、警察・憲兵の拷問に遭い、戦争賛成に転向させられたのである。あくまで戦争反対を唱えた者は、殺されたのである。拷問死させられた者は百人を超えている。それでも、国民は、日本は神国だから負けないと思い、神風が吹くから負けないと思っていたのである。幼児思考であるが、黒い欲望の虜になった人間は、現実すらも、その欲望に沿って、その欲望に合わせて見るようになるのである。現在の日本の総理大臣の安倍晋三は、国家安全保障会議(NSC)を創設し、秘密保護法、集団的自衛権を強行採決で得て、いつでも、日本が戦争できる国にした。黒い欲望実現がいつでも可能になったのである。権力者の夢が叶ったのである。それは、国民の多くが、心の中に、中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという黒い欲望があり、その欲望の実現可能な安倍晋三首相という権力者が現れ、彼を支持したからである。日本は、今、多くの国民・安倍晋三首相・与党の自民党議員・官僚たちが中国・韓国・北朝鮮を攻撃したいという黒い欲望で一致し、危機的な状況にある。それでも、彼らには、戦争をする能力も度胸も無いから、一応安心できる。しかし、尖閣諸島・竹島・拉致問題などで、いつ戦争になるかわからない。だから、一触即発になった時の対応、戦争になった時の対応を、今から覚悟を持って決めておくべきである。このように、人間には、常に、深層心理から、いろいろな欲望が湧き上がってくるが、欲望に忠実であってはいけないのである。なぜならば、その中に、黒い欲望が必ず、存在するからである。よく、人間は自由だと唱える人が存在するが、自由ということは欲望に忠実であることだから、あくまで自由を追求する人は、他者を滅ぼし、自らも破滅することになる。欲望を吟味し、欲望の実行・抑圧の取捨選択は、自己の大きな課題である。人間は、この課題に向かって生き、そして、死ぬと言っても良いように思う。

人間は、心にあるようにしか捉えることはできない。(自我その100)

2019-04-27 18:36:43 | 思想
「人間は、心にあるようにしか捉えることはできない。」とは、ハイデッガーの言葉である。この言葉の意味は、人間の心には、既に、関心の視点と関心の対象(対象物や対象事や対象者の範囲)が決まっていて、自らの関心のありようによって心に入って来ることが決まってくるということである。心が決めているのであるから、この関心のありようは、人間の意識しての行為では無く、つまり、人間の表層心理の行為では無く、深層心理(無意識という心的世界)の行為である。この関心のありようが志向性という関心の方向性である。志向性について、辞書では、「常に対象に向かう作用の中で、初めて、対象が一定の意味として立ち現れ把握される意識体験のあり方を言う。」と説明しているが、それは正しい。また、意識について、「意識とは常に何物かについての意識である。」と説明し、これも正しいが、「志向性とは、意識とは常に何物かについての意識であるということである。」と説明としているのは誤っている。まず、志向性があって、後に、意識があるからである。志向性と意識とは同じでは無いのである。さらに、志向性によって何物かが捉えられ、のちに、それが意識されるのは事実だが、それが為されるのは深層心理の意識であり、それが表層心理の意識に必ずしも上ってこないのである。深層心理が捉えて意識しても、表層心理の意識にならないことが多いのである。無くした腕時計を探すというような、表層心理による意識しての志向性の行動は、稀の現象である。深層心理の志向性だけで、人間はほとんどの行動ができるのである。なぜならば、人間は、深層心理が考え、深層心理によって動かされているからである。さて、「人間は、心にあるようにしか捉えることはできない。」をわかりやすく言い換えれば、人間は、自分が理解したい方向で理解したいものしか理解できず、自分が見たい方向で見たいものしか見えず、自分が聞きたい方向で聞きたいものしか聞くことはできないということである。このような関心の視点と関心の対象の傾向性を動物も有している。トカゲは葉が擦れるような微かな音には敏感だが、ピストルの発射音にはびくともしない。蛇などの天敵は微かな音を立てるから警戒するのである。ヒナコウモリは日暮れに声帯から超音波を発しながら障害物を探知しながら、巧みに飛び回る。日暮れは襲ってくる動物がいないから、障害物に注意すれば良いのである。犬の轢死体が少なく、猫や狸の轢死体が多いのは、犬は後天的に学ぶ能力が長けているから、自動車の動きを察知して避けることができ、猫や狸は本能という先天的なものに拘泥し、先天的な本能に埋め込まれていない自動車のスピードに対処できないのである。さて、人間の関心の視点、つまり、志向性の視点は、対自化、対他化、共感化である。対自化とは、対象物や対象動物や対象者を利用の視点で見ることである。対他化とは、対象者に自分がどのように見られているか考えることである。共感化とは、対自化、対他化の枠を取り払い、共通の敵と戦うために協力し合ったり、理解し合ったり、友情を交わし合ったり、愛を交わし合ったりすることである。そして、人間の関心(志向性)の視点と関心の対象(対象物や対象事や対象者の範囲)には、個人によって異なっている。山の樹木を見ても、木材業者は木材の用途として対自化して捉え、自然学者は対自化して分類し、画家は感動して共感化し、その後、絵の対象として対自化し、登山者は感動して共感化するだろう。飼い犬に対しても、飼い主は可愛いから共感化しているが、大きな犬に対しては、飼い主以外の人は、その犬の動向を対自化して観察して見たり、自分を襲ってくるのでは無いかと対他化して見たりするするだろう。同じ人に対しても、仲の良い人は共感化して見、初対面の人は自分をどのように思っているだろうと対他化して見、仲の悪い人や猜疑心のある人は欠点を見つけようと対自化して見るだろう。このように、人間も動物も、心に、既に、関心(志向性)の視点と関心の対象(対象物や対象事や対象者の範囲)が決まっていて、自らの関心のありようによってしか心に入ってこないのである。つまり、生きるとは、先入観によって生かされているということなのである。

肉体的な損傷も精神的な損傷も、痛みから始まる。(自我その99)

2019-04-26 20:22:03 | 思想
痛みには、肉体的なものと精神的なものがある。最初に、肉体的な痛みについて、説明しようと思う。肉体的な痛みは、我々に、痛みの部分に損傷があることを知らせ、治療をすることを強制し、今後の対策を講ずることを強いるのである。まず、痛みから始まるのである。例えば、指の怪我であるであるが、その発見も治療もその後の対策も痛みが起点であり最終地点なのである。時系列で言えば、最初に指の怪我、次に痛みであるが、我々にとって、最初に指に痛みが来て、次に指の怪我の発見があるのである。つまり、指に痛みがあるからこそ、我々は、指に着目し、出血している指を発見し、その指の痛みから解放されようとして治療に専念し、二度とこの痛みを味わうことの無いように、これからは慎重に包丁を扱おうというような今後の対策を講ずるのである。つまり、痛みがあるからこそ、我々は、その部分が損傷していることに気付き、その痛みから解放されるために、その損傷部分を治すための方法を考え出そうとするのであり、痛みがあるからこそ、人間は、損傷の原因を考え、二度と同じ過ちを犯さないように対策を講ずるのである。それ故に、痛みからの解放が、損傷箇所の治療の終了である。もちろん、痛みが無くなっても、損傷箇所が十分に治癒していない場合もあるが、それでも、たいていの場合、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ているのである。肉体が、このまま放置していても、自然に治癒する段階に来ていると判断したのである。もしも、痛みが無ければ、人間は、肉体に損傷があってもそれに気付かないから、もちろん、治療やその後の対策を考慮するはずが無い。指の怪我ぐらいならば、治療しなくても、血小板が血液を固めて傷口を塞ぎ、白血球が細菌を殺し、そのうちに、損傷した細胞が復原するから、心配は無いだろう。しかし、時には、肉体のある部分が損傷していても、その部分に痛みが無い場合がある。その典型的損傷が癌である。ほとんどの癌科の医者は、癌の損傷が少ない場合、つまり、早期発見ならば、手術で剔抉すれば、二度と癌病に罹らないと言う。しかし、近藤誠医師は、早期発見であっても、胃癌や乳癌などの代表的な癌は、多量の癌細胞が発生しているから、手術は無駄であるばかりか、体を弱らせ、癌細胞を増殖させ、全身に転移させるから、逆効果だと言う。彼は、抗癌剤も、ほんの1一部の癌を除いて、ほとんどの癌には効き目が無いどころか、副作用が強いから、服さない方が良いと言う。だから、彼は、一部の癌を除いて、ほとんどの癌は手術や抗癌剤を用いない方が良く、痛みが出たら、医療用のモルヒネを使って、痛みを和らげながら、日常生活を送った方が良いと言う。私は、近藤誠医師の方を信用している。なぜならば、彼は、医者の良心からの自己判断をし、ほとんどの癌科の医者は、医者の立場を守ろうという自我判断をしているように思うからである。次に、精神的な痛みについて、説明しようと思う。肉体的な痛みは、我々に、肉体の痛んでいる部分に損傷があることを知らせ、治療をすることを強制し、今後の対策を講ずることを強いるのであるが、精神的な痛みも、我々に、心に損傷があることを知らせ、治療をすることを強制しているのである。肉体の損傷は骨折や怪我や腫瘍などであるが、精神の損傷は対他存在の損傷である。対他存在の損傷とは、簡単に言えば、プライドの損傷である。対他存在とは、我々は、他者から好評価と高評価を受けたいと思いつつ、他者が自分がどのように見ているか気にしながら、暮らすことである。人間は、常に、家、会社、店、学校、仲間、カップルなどの構造体に所属し、家族関係、職場関係、教育関係、友人関係、恋愛関係などを結び、父・母・息子・娘、営業部長・経理課長・一般社員、店主・店員・客、校長・教頭・教諭・生徒、友人、恋人などのポジションを自分として自我を持って暮らしているが、淡々と漠然と暮らしているのでは無い。我々は、他者から自我(自分のポジションとしての働き)に好評価や高評価を受けたいという対他存在の視点を持って暮らしているのである。だから、他者から好評価や高評価をもらえれば嬉しいが、他者から悪評価や低評価を与えられれば心が傷付くのである。これが、精神の損傷、プライドの損傷なのである。そうすると、深層心理は、我々の心に痛みをもたらし、我々に、対他存在・プライドの損傷を回復させよと迫るのである。対他存在・プライドの損傷は、他者から下位に置かれたから起きたのである。そこで、深層心理は、我々を下位に置いた他者に、復讐・反論・反撃するように命令するのである。思考力のある人は、復讐・反論・反撃すれば、いっそう事態が悪くなり、自分がいっそう傷付くことになると判断し、それらのすぐの行動を自重するか、良い機会が来るまで待つだろう。また。深層心理が弱い人も、簡単に自重できるだろう。しかし、思考力の乏しい人や深層心理の強い人は、すぐに、復讐・反論・反撃を開始するのである。それが、短絡的な行動、感情的な行動である。これが、往々にして、犯罪に繋がるのである。ストーカーによる殺人は、カップルという構造体を壊され、恋愛関係を失わされ、恋人いう自我を傷付けられた者の復讐である。体罰は、学校という構造体において、教育の上下関係を転倒させられ、自我を傷付けられた教諭による生徒への復讐である。家庭内虐待は、家という構造体において、子に愛されずに家族関係が精神的に壊れ、親という自我を傷付けた子への復讐である。ストーカー、体罰をする教諭、家庭内虐待をする親の多くは、自らの行為が悪いことだとわかっているが、深層心理から湧き上がってくる痛みが強いから、そのような痛みから解放されたく思い、深層心理の言うままに復讐をせざるを得なくなるのである。精神的な損傷も、痛みからその損傷、その原因に気付き、痛みから解放されようとして行動を起こすのである。つまり、精神的な損傷も、その発見も治療も、痛みが起点であり最終地点なのである。このように、肉体も精神も、痛みがあるからこそ、我々は、その部分が損傷していることに気付き、その痛みから解放されるために、それを治そうとするのである。痛みの有無が、損傷の治癒のバロメーターになっているのである。それ故に、痛みが我々を支配していると言えるだろう。身も心もぼろぼろにされるのがわかっていながら、覚醒剤や麻薬などに手を出す人が跡を絶たないのは、痛みの支配の強さを語っているように思う。