あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自らの大衆性から脱却できるか。(自我から自己へ3)

2021-11-10 16:04:27 | 思想
大衆には、二つの特徴がある。一つは、常に、力に寄りかかって生きているということである。大衆とは、常に、権力者の力や権力という力に寄りかかり、多数という力に寄りかかっている集団なのである。だから、決して、責任を取らないのである。もう一つは、自分で考えること無く、付和雷同に行動することである。ハイデッガーが言うように、大衆とは、世間話、好奇心、曖昧性の塊なのである。世間話とは、多くの人が、根も葉も無い話を無責任に語り合うことである。そこには、仲間意識があり、安心感がある。好奇心とは、上滑りに話題を取り上げ、ひたすら興味本位に追求することである。そこには探究心は存在しない。だから、疲労感が無く、長く話せるのである。曖昧性とは、責任の所在を明確にせず、行動したり、話したりすることである。無責任であるから、常に、気楽な状態でいられるのである。さて、人間は、一般に、大衆として育てられ。大衆となり、大衆として生きていく。親が大衆であり、周囲の人間が大衆だから、大衆となって生きていくのは当然のことである。大衆は、一般に、「世間一般の人々、庶民、民衆」と説明されている。大衆は、社会学では、「属性や背景を異にする多数の人々からなる未組織の集合的存在」と説明されている。大衆の誕生について、歴史的には、「能動的で自己の判断力を持った自立した市民によって形成されていた近代市民社会が、産業革命による資本主義社会の発達ならびにマスコミュニケーション手段の発達に伴って、バラバラで互いに匿名性をもった多数の個々人の集合体によって構成された現代社会に変質したことで、出現したものである」と説明されている。つまり、大衆とは、普段はバラバラであるが、時には大勢に迎合し集団化し、そして、再びバラバラに帰す民衆を意味するのである。このような大衆を、ニーチェは「最後の人間」と呼び、ハイデッガーは「ひと的存在」・「非本来的人間」と呼んだ。ニーチェが「大衆は馬鹿だ」と批判した大衆は、このように、自ら考えず、大勢に迎合し、集団化し、決して責任を取らない人々を指すのである。ニーチェは「最後の人間」に対するものとして「超人」を挙げている。ハイデッガーは「ひと的存在」・「非本来的人間」に対するものとして「本来的な人間」を挙げている。簡潔に言えば、「超人」・「本来的人間」とは、能動的で、責任感が強く、自己の判断力を持った、自律し、自立した人間である。しかし、現代においては、人間は、皆、大衆の中で育つから、大衆になるのは当然のことなのである。しかし、その中にあって、自らの大衆性に我慢できない人、反大衆性、非大衆性を持った人が出てくる。そのような大衆性から脱却した人が、ニーチェの言う「超人」、ハイデッガーの言う「本来的人間」である。しかし、大衆性に埋没した人間になるかするか大衆性から脱却した人間になるかは、普遍性が無く、自分自身が、生きる姿勢として、考えるしか無いのである。しかも、人間は、大衆性を持したまま一生を送った方が、大衆性から脱却して生きるよりも楽なのである。それは、大衆性とは、権力者の力や権力という力に寄りかかり、多数という力に寄りかかり、責任を取ることが無く、自分で考える苦しみが無く、付和雷同に行動し、気楽な状態に存在することだからである。だから、大衆は、週刊誌の記事を喜ぶのである。週刊誌に、スクープとして、よく、既婚男性と独身女性の芸能人の不倫の記事が出る。それは、不倫記事が出ると、大衆がその週刊誌をよく買うからである。たいていの場合は、二人は不倫を否定する。それを受けて、週刊誌は、第二弾、第三弾の記事を載せ、不倫の事実に説得力を持たせる。すると、大衆はますますその週刊誌を買う。すると、芸能人は、思いあまって、記者会見をして、謝罪する。その場合、不倫を認めて謝罪する芸能人と、世間に誤解を与えて申し訳ないと謝罪する芸能人がいる。誰に対して、謝罪するのか。大衆に対して謝罪するのである。しかし、清潔感、誠実性のイメージで売っていた芸能人の場合は、清潔感、誠実性のイメージを崩し、嘘をついたということで、全てのテレビ番組、ラジオ番組を失い、スポンサーからコマーシャル契約を解除されることになる。しかし、男性芸能人の中には、ファンの前では迷惑を掛けたと謝罪するが、公式の場では謝罪しない者もいる。彼は、迷惑を掛けた人に謝罪するのは当然だが、何ら関係のない世間の人々に対して謝るつもりはないと言う。大衆に対して謝罪する必要は無いというわけである。言うまでもなく、不倫事件で、最も傷付いたのは、男性芸能人の配偶者である。そして、迷惑を被ったのは、芸能人の所属事務所、コマーシャルで彼らを使っていたスポンサー、番組で彼らを使っていた放送局、スポンサーである。そして、芸能人とその所属事務所は、スポンサー、放送局に違約金を支払うことになる。芸能人は、迷惑を掛けた人たちに対して、できる限り、責任を取ろうとする。独身女性芸能人の中には、相手の男性の配偶者に、謝罪の手紙を書く人もいる。しかし、やはり、テレビ番組では、ほとんどのコメンテーターが、何ら関係のない世間の人々に対して謝るつもりはないと言う男性芸能人に対して、反省が足りないと批判する。巷のインタビューでも、大衆は、コメンテーターと同じく、その男性芸能人に反省が足りないと批判している。しかし、果たして、マスコミや大衆が言うように、その男性芸能人には反省が足りないのか。その男性芸能人は大衆に対して謝罪を表明すべきなのか。それとも、男性芸能人が言うように、何ら関係のない世間の人々、すなわち、大衆に対して謝罪する必要はないのか。端なくも、芸能人の不倫騒動によって、芸能人、マスコミ、大衆の関係性が如実に表面化した。マスコミは、芸能人のスキャンダルを記事にしたり、放映したりすることによって、命脈を保っている。なぜ、芸能人のスキャンダルを材料にするのか。それは、大衆が好むからである。まさしく、大衆は、芸能人の不倫騒動に対しても、世間話、好奇心、曖昧性を基に楽しんでいるのである。もちろん、大衆は、自らが好奇心の塊であることに気付いていない。大衆は、男性の配偶者に対しての同情の言葉を発して、自らが優しい人間だとアピールする。また、自分自身、そう思い込んでいる。不倫をした芸能人を断罪することによって自らが正しい人間だとアピールしている。大衆は、他の大衆と同じように、不倫した芸能人を断罪し、男性芸能人の配偶者に対しての同情の言葉を発して、他の大衆と仲間意識を持って、安心感を得ている。他の大衆と同じ意見を吐いているから、自分の言葉に責任を取る必要が無く、心強い。安心して、芸能人の不倫騒動にうつつを抜かすことができる。しかし、大衆が芸能人の不倫騒動をこのような形で世間話で語るように仕向けたのはマスコミである。それは、マスコミの恣意的な操作によるものなのである。マスコミは、大衆の動向を鳥瞰して嘲笑などしていない。マスコミと大衆は同じ方向性にある。マスコミも、大衆の一人なのである。マスコミは、大衆だから、大衆の気持ちがよくわかり、大衆の好みそうなものを記事に取り上げたり、放映したりするのである。マスコミは、先鞭を付けただけなのである。確かに、男性芸能人は配意宮者には謝罪すべきであろうし、露見するやいなやもう既にしてしまったことであろうが、本質的には、彼が言うように、何ら関係のない一般世間の人々、すなわち、大衆に対して謝罪する必要はない。だから、このまま、自らの信念を押し通しても、何ら道義に違反しない。また、女性芸能人も、同様に、男性芸能人の配偶者には謝罪すべきであろうが、本質的には、何ら関係のない一般世間の人々、大衆に対して謝罪する必要はない。しかし、女性芸能人は、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪した。なぜ、男性芸能人は謝罪せず、女性芸能人は謝罪したのであろうか。それは、女性芸能人は清潔感、誠実性をて売ってきたが、男性芸能人はそれに与しなかったからである。清潔感、誠実性を売ってきた女性芸能人は、謝罪しなければ芸能界で生きていけないからである。しかし、男性芸能人は、清潔感、誠実性を売りにしていないので、ファンと関係性を築ければそれで良いと思い、ファンだけには謝罪したのである。女性芸能人は、大衆と関係性を築かなければ(人気を得なければ)、芸能人というステータスを失ってしまうのである。だから、不倫を否定しつつ、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪したのである。しかし、しれでも、その後、女性芸能人は、テレビ局から見放され、大衆から不信感を持たれ、芸能人というステータスを維持できなくなった。全てのテレビ番組、ラジオ番組を降板し、謹慎生活に入らざるを得なかった。最悪の結果になってしまった。それでは、女性芸能人は、放送業界にとどまり、芸能人というステータスを維持するためにはどうしたら良かったのだろうか。まず、最初に考えられるのは、最初に不倫の報道が出た段階で、不倫を否定するのではなく、不倫を肯定して、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪すべきであったということである。そうすれば、逆に、放送業界や大衆からから正直者として評価され、芸能人というステータスを維持できたかもしれない。しかし、それが裏目に出て、放送業界や大衆から不倫者として非難され、一挙に、芸能人というステータスを失ったかもしれないから、不倫を否定したのである。しかし、最初に不倫を否定したから、週刊誌が、第二、第三の矢を放ち、不倫を否定しても、放送業界や大衆は嘘つきというレッテルをはってしまったのである。むしろ、不倫を肯定して、マスコミを通じて、大衆に対して謝罪すべきであったのである。女性芸能人は賭けに失敗したのである。しかし、芸能人はなぜ不倫をするのだろうか。芸能人は、不倫が露見すれば、放送業界という構造体から追放され、タレントや俳優の自我を失い、不倫が露見すれば、家族という構造体から追放され、父や母という自我を失い、不倫が露見すれば、夫婦という構造体から追放され、夫や妻という自我を失う可能性が高いのをわかっていながら、なぜ、不倫をするのだろうか。それは、芸能人に限らず、人間は、意志で恋愛するわけでは無いからである。恋愛感情が、意志という表層心理で生まれるのならば、意志で止めることはできる。しかし、恋愛感情は、無意識、つまり、深層心理が生み出すから、容易に止めることはできないのである。だから、不倫が露見すれば苦境に立たされるのがわかっていながら、二人の愛情は冷めることがないのである。だから、誰しも、不倫をする可能性があるのである。しかし、大衆はそれを認めない。絶対に不倫をしないタレントや俳優が存在していると思っている。特に、女性芸能人に求める。その大衆の期待にこたえた芸能人は、清潔感、誠実性を売りにして、人気を博す。だから、清潔感、誠実性を売りにした芸能人が不倫すると、裏切られた大衆の復讐は激しい。週刊誌も、清潔観、誠実性を売りにした芸能人が不倫した記事を載せると、大衆がよく買ってくれるので、彼らのプライバシーに徹底的に暴く。放送業界も、大衆の支持によって成り立っているから、大衆の視線を気にせざるを得ない。それは、視聴率となって現れる。だから、放送業界も、大衆の世間話、好奇心、曖昧さに迎合せざるを得ないのである。しかし、日本において、清潔感、誠実性だけで形成された芸能人は存在するのだろうか。清潔感、誠実性だけで形成された芸能人は実体のない芸能人である。果たして、実体のない芸能人は存在するのだろうか。言うまでも無く、その時、真っ先に思い浮かぶのは、アイドルである。アイドルとは、一般に、若手タレントの人気者を指しているが、本来の意味は、偶像である。アイドルだけでなく、清潔感や誠実性を売りにした芸能人は偶像である。だから、不倫よって、清潔感や誠実性のイメージがはぎとられると、放送業界から去るしかないのである。アイドルは、恋愛することすら許されていないのである。しかし、実体のない(偶像に満ちた)芸能人こそ、放送業界の重要な一翼を担っているのである。しかし、清潔感や誠実性を売りにした芸能人は実体がないから、実体を見せると、次から次へと消されるのである。そして、次から次へと消えていくから、次から次へと生まれてくるのである。その新奇さが、大衆の好奇心を満足させるのである。芸能人には、大衆の好むイメージさえあれば良く、実体が無くても良く、次から次へと生まれてくるから、我も我もと若者は芸能人になりたがるのである。大衆の好むイメージには、清潔感、誠実性以外に、爽やかさ、若々しさ、清楚、可愛らしさ、美しさ、上品さ、優しさなど、様々なものがる。つまり、放送番組は、実体のない、イメージに満ちた、偶像の世界なのである。そこに、不倫という実体を持ち込んだ芸能人が現れると、去らざるを得なかいのである。これからも、放送業界には、芸能人が、次から次へと生まれてくるだろう。そして、その新奇さが飽きられて消えていくか、実体を持ち込んだために消されていくだろう。放送業界とは、虚構の構造体なのである。芸能人は、放送業界という虚構の構造体に属し、放送業界人、マスコミ、芸能人という関係性の中で、芸能人という自我を得ている。だから、芸能人というステータス自身が虚像なのである。しかし、この世で、虚構でない構造体、変化しない関係性、虚像でないステータスは、存在するのだろうか。確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスが存在しなければ、人間は不幸なのだろうか。むしろ、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて、生きて行った方が幸福になれるのではないか。しかし、人間は、これまで、確かな構造体、固定した関係性、実像としてのステータスを信じて、追い求めて、歴史を形成して来たのではなかったか。それが不幸の源泉ではなかったのか。それを方向転換して、構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて生きていくことが、幸福に繋がるのではないのか。しかし、大衆構造体は虚構であること、関係性は変化すること、ステータスは虚像であることを認めて、生きることはできないだろう。大衆とは、世間話、好奇心、曖昧性にうつつを抜かしている存在者だからである。それでは、人間は、自らの大衆性から脱却できないのだろうか。一年前に、「現代は、死を覚悟しなければ、政権批判ができない時代になりつつある。」という記事が新聞に出た。まさしく、死を覚悟しながら、政権批判ができる人だけが、自らの大衆性を脱却できるのである。インド建国の父と言われているガンジーは「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでも、しなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするためである。」と言う。この言葉の意味は、自分の行動だけでは、政治を変えることはできないかもしれないが、少なくとも、自分が行動している限り、自分だけは政治によって変えられることはないということである。ガンジーの言葉は至言である。自分の行動は全ては取るに足らないことかも知れない。しかし、自分が行動したというそのことが重要なのである。確かに、現代日本の政治は、大衆の意見によって変化し、大衆の考えが変わらない限り、政治は変わらない。しかし、ニーチェが言うように「大衆は馬鹿だ」から、自ら思考しようとせず、政治権力や右翼マスコミや周囲の大衆右翼から与えられた因循姑息の政治意識から離れようとしない。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言うように、大衆は、政治権力や右翼マスコミや周囲の大衆右翼いう他者の欲望を欲望するからである。確かに、自分の行動は大衆の大半の政治意識を変えることはできないかも知れない。しかし、大衆の幾人かには響くかも知れない。何よりも、自分が行動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはないのである。自分の行動が大衆の大半の政治意識を変えることはできないといういらだちが、70年安保闘争の全共闘闘争が連合赤軍などの直接行動を呼び起こし、悲劇・惨劇を呼び起こしたのである。確かに、自分がどのように行動bしようと、大衆の大半の政治意識は変わらない。しかし、それでも、行動し続けるのである。それが、自分がこの世に生きている証だからである。戦前、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二は、常に、国家権力の監視を受けながら、死を覚悟しつつ、戦争反対を唱えた。そして、国家権力によって、不当に逮捕され、虐殺された。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。甘粕正彦は、1923年9月16日、東京麹町憲兵分隊長の時、関東大震災の混乱に乗じて、無政府主義者の大杉栄、妻で婦人運動家の伊藤野枝、甥の6歳の橘宗一を連行し、絞殺した。軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、3年後、釈放された。1930年、中国に渡り、1931年の満州事件以後、軍の謀略・工作活動に携わり、満州国建設に関わり、満州映画協会理事長を歴任した。1945年8月20日、敗戦の報を受けて、満州でピストル自殺した。安倍源基は、東京帝大法学部法律学科卒業であるが、戦前の特高部長時代、小林多喜二など、数十人を拷問死させている。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。戦後、従三位勲一等に叙位・叙勲された。戦後の日本は、アメリカ(GHQ)が作成した日本国憲法によって、民主国家として、出発した。しかし、国民の大半は、戦前と同じく、国家主義者である。民主主義者を標榜しているが、本質的には、国家主義者である。戦後も、戦前と同じく、国民の大半は、国家主義者なのでである。それは、戦後の政治的な大事件が右翼によって引き起こされ、現在の首相である国家主義者の安倍晋三が、どれだけ悪事を働いても、国民から高い支持を受けていることからも理解できる。戦後、右翼によって引き起こされた政治的事件を挙げてみよう。一つ目の例は嶋中事件である。深沢七郎の小説『風流夢譚』」が雑誌『中央公論』に掲載され、右翼が「皇室に対する冒瀆で、人権侵害である。」として中央公論社に抗議をしていたが、大日本愛国党の少年は、1961年2月1日、同社社長宅に侵入し、応接に出た同社長夫人をナイフで刺して重傷を負わせ、制止しようとした同家の家事手伝いの女性を刺殺した。二つ目の例は浅沼事件である。日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、1960年10月12日午後3時頃、東京日比谷公会堂で演説中、少年に刺殺された。彼は、一時、赤尾敏が総裁である大日本愛国党に入党していた。「日本の赤化は間近い。」という危機感を抱き、容共的人物の殺害を考え、街頭ポスターで演説会を知り、犯行に及んだのである。後に、少年鑑別所の単独室で、壁に『七生報国』『天皇陛下万歳』と書き残して、自殺した。大江健三郎は、この事件に触発されて、「政治少年死す」という小説を書き、17歳の少年が類似した事件を起こし、自殺するまでを描いた。第2部を発表したところ、出版社及び著者に右翼から脅迫が行われ、第2部は、初出誌以外に収録されていない。戦前戦後を通じて、体制批判をする者は、政治権力者、官僚、右翼マスコミ、大衆右翼によって弾圧を受け、逮捕され、拷問され、あまつさえ命まで狙われてきたのである。明治から現代に至るまで、無数の者が弾圧され、命を奪われたのである。深層心理が生み出す自我の欲望に正直な幼稚な人間は、他者の命まで奪うのである。体制批判をする者は、自我の欲望に正直な幼稚な政治権力者、官僚、右翼マスコミ、大衆右翼によって弾圧を受け、逮捕され、拷問され、命を奪われてきたのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある関係性を築いて、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間が最初に所属する構造体は、一般に、家族であり、最初の関係性は家族関係であり、最初の自我は、男の子または女の子である。我々は、家族という構造体で、家族関係を築きながら、男児もしくは女児という自我を持って行動し、成長していくのである。保育園という構造体で園児という自我、幼稚園という構造体で園児という自我、小学校という構造体で小学生という自我、中学校という構造体で中学生という自我。高校という構造体で高校生という自我、大学という構造体で学生という自我、会社という構造体で社員という自我、店という構造体で店員という自我、仲間という構造体で友人という自我、カップルという構造体で恋人という自我、夫婦という構造体で夫もしくは妻という自我ヲ持って行動するのである。また、我々は、日本という国にも所属し、社会的な関係性を築きながら、日本人という自我を持って、行動している。さて、人間は、常に、思考して、行動する。無意識の行動も習慣的な行動も、深層心理が思考しての行動である。深層心理は、一般に、無意識と表現されている。深層心理は、奥深くに隠れている心の動き・外に現れない無意識の心の働きである。我々は、まず最初に、我々の意識していないところで、すなわち、深層心理が思考するのである。自ら意識して、自らの意志で、すなわち、表層心理で思考するのは、深層心理の思考の結果を受けてのことである。表層心理は、深層心理による思考(無意識の中での思考)の結果を受けて、意識して、それを思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考する。人間の表層心理による思考は、短時間のものから長時間のものまで多岐にわたっているが、深層心理による思考よりも短くなることはない。しかし、ほとんどの人は、思考と言えば、表層心理による、意識しての思考を考え、深層心理による思考が存在することに気付いていない。一般に言われる理性は、表層心理による、意識しての思考を意味する。しかし、自我を動かすものが、深層心理である。深層心理による思考とは、人間の無意識の心の思考である。無意識の心の思考と言っても、決して、無作為の動きをすることことでも、本能的な動きをすることでもない。深層心理は、思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理は、長時間、思考するのである。ラカンが「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、その謂である。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が論理的に思考しているということを意味する。人間の思考は、言語を使って論理的に為されるからである。つまり、深層心理は、自我を主体に立てて、人間の無意識のままに、感情原則に基づいて、論理的に思考し、感情と行動の指令を生み出しているのである。深層心理が自我にもたらした感情と行動の指令を、自我の欲望と言う。快感原則とは、フロイトの用語であり、快楽を得たいという欲望である。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、深層心理によって、行動するのである。深層心理が、人間の無意識のうちで、まず、動くのである。深層心理は、構造体において、自我を主体に立てて、快楽を得ようという欲望に基づいて、保身化・対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を行動させようとする。人間は、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の適否を考えるのである。その後で、人間は、行動するのである。それでは、保身化とは何か。深層心理は、自我を確保・存続・発展するように、そして、構造体が存続・発展するように、自我を動かす。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。日本人にとって、日本人という自我を確保・存続・発展させるために、日本という構造体が必要なのである。だから、日本人は、日本にこだわるのである。郵便局員がかんぽ生命保険の不正な販売をしたのは、郵便局員という自我の確保・存続・発展のためである。官僚が安倍晋三元首相の森友学園・加計学園の不正に荷担したのは、官僚という自我の確保・存続・発展のためである。それでは、対他化とは、何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。簡潔に言えば、好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、他者の自らの思いを探ることである。それを、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉で集約している。次に、対自化とは、何か。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)ということである。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望なのである。最後に、共感化とは、何か。共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。また、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くする)がそれである。支持率の下がった国家権力者が、自国民からの支持を高めようと思い、他国を自国民との共通の敵にするのもそれである。だから、共感化とは、簡潔に言えば、愛情、友情、協調性を大切にする思いである。さて、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探り、迎合する。人間は、安心できる人や理解し合う人や愛し合うことができる人ならば、共感化する。人間は、自我が不安な時は、共感化できる人がいたならば交わり、自我の存在を確かなものにしようとする。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。だから、サルトルは、人間は対他化と対自化の相克であり、対自化を目指さなければならないと言ったのである。そして、思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の力を発揮し、支配し、思うままに行動することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないということになるのである。このようにして、人間は、まず、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。人間は、表層心理は、意識して、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の適否を考え、そして、行動するのである。現実原則も、フロイトの用語であり、自我に現実的な利益をもたらそううという欲望である。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を、全て、意識するわけではない。深層心理が出した行動の指令を、人間は、意識せずに、その行動の指令通りに行動することがある。これが、所謂、無意識の行動である。また、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を意識し、その行動の指令を抑圧し、行動しない時がある。これが、所謂、我慢、辛抱である。しかし、この後、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令とは別の行動を考え出さなければいけない。表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、対他化によって、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。人間は、表層心理で、後のことを考慮し、行動の指令を抑圧する。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないのである。それは、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が考え出した行動で行動できれば、それは、意志による行動と言われる。そして、もちろん、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を意識し、その行動の指令の通りに行動する時もある。これも、また、意志による行動と言われる。表層心理が意識した行動は、皆、意志による行動と言われるのである。しかし、人間は、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を意識し、その行動の指令を抑圧し、行動しないように決めても、行動してしまう時がある。深層心理が生み出した感情が強過ぎるので、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに行動してしまうのである。これが、所謂、感情的な行動である。先の例で言えば、表層心理は、深層心理からの相手を殴れという行動の指令を、後のことを考慮し、抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情が強過ぎるので、抑圧できず、そのまま、相手を殴ってしまうのである。この行動は、犯罪になることもあり、後悔することが多い。このように、人間は、構造体に属し、自我を持ち、深層心理はが、まず、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、構造体と自我の確保・存続・発展ために自我を動かし、対他化・対自化・共感化の機能によって、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。後に、人間は、それを受けて、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、思考し、そして、行動するのである。これが、人間に共通の傾向である。つまり、人間の現象である。さて、深層心理には、社会的な道徳心が無いから、快楽を得るために(「快感原則」のために)、いろいろな自我の欲望を生み出す。すなわち、深層心理が生み出した自我の欲望は、良心的な欲望、実現可能性の高い欲望、理想的な欲望から、不道徳な欲望、無謀な欲望、かなえてはいけない欲望まで、さまざまな欲望がある。人間、誰もが、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動すれば、人類はすぐに滅びるだろう。人間は、表層心理で、意識して思考が、自我の存続のために(「現実原則」によって)、社会的な道徳心に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を審査し、良心的な行動の指令、実現可能性の高い行動の指令、理想的な行動の指令を許諾し、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令を抑圧するから、自我は安泰なのである。人間が、表層心理で、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令を意志を使って抑圧できるのは、自我がこれらの悪事を行えば、他者に露見し、悪評価・低評価を受け、顰蹙を買ったり、処罰されたりして、自我が傷付けられるからである。それでは、人間は、自我がこれらの悪事を行っても、他者に、自我が特定される可能性が低かったらなかったらば、どうするであろうか。つまり、人間は、自分が犯人だと特定される可能性が低くても、悪事を犯さないかということである。もちろん、そこには、自分が犯人だと特定される可能性の大小、深層心理が生み出した感情の強弱、悪事の大小が原因し、簡単には、決められないだろう。しかし、もしも、それが、自分が犯人だと特定される可能性が小さく、他者に共感する者が大勢いることが想定され、深層心理が生み出した感情が強く、悪事そのものが小さく、自我が傷付けられる可能性が小さいと思われることならば、人間は、その悪事を犯すのではないか。人間は、表層心理で、他者に共感する者が大勢いることで大衆性を頼み、自分が犯人だと特定される可能性が低いから自我が傷付けられる可能性が低く、また、小さな悪事だから自分が犯人だと特定されても自我が傷付けられることが小さいから、深層心理の生み出した自我の欲望のままに行動するのである。これが、人間の大衆性である。それが、ハイデッガーの言う、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間のあり方である。ハイデッガーは、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた状態を「現存在の頽楽」(人間の堕落した状態)だと言う。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活とは、大衆の生活であり、それは、好奇心のままに、そこにいない人や事柄を話題に取り上げ、誰が言ったのかもその根拠も示さず、無責任に、語り合って、日々を送る生活である。それは、芸能人の不倫というスキャンダルに端的に現れる。芸能人の不倫という世間話は、他者と話題を共有できるから、深層心理の他者との共感化が築け、満足感が得られるのである。また、自分が得意げに話し、他者が興味を持って聞いてくれるから、自我の対他化が満足できるのである。好奇心は、芸能人のプライバシーにまで入っていけるから、深層心理の自我の対自化をを満足させるのである。曖昧性は、芸能人の不倫というスキャンダルについて無責任に話せるから、深層心理の自我の対他化が傷つけられず、むしろ、対自化を満足できるのである。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活は、大衆が大衆という他者ととに、ある他者を対自化し、ある他者について共感化できるから、楽しいのであるのである。さて、日本人は、日本という構造体で、日本人という自我を持って生活している。日本人の深層心理は、快楽を得るために(「快感原則」に基づいて)、日本人という自我を対他化・対自化・共感化して、また、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のために、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。これが、愛国心である。特に、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のための自我の欲望が、日本人の愛国心である。だから、日本人ならば、誰にでも、愛国心は存在する。だから、売国奴や反日などと言って、他の日本人を非難する人が存在するが、実際には、売国奴や反日は存在しない。もちろん、アメリカ人にも、中国人にも、ロシア人にも、韓国人にも、全て、愛国心が存在する。さて、日本人の深層心理は、快楽を得るために(「快感原則」に基づいて)、日本人という自我を対他化・対自化・共感化して、また、日本人という自我の発展、日本という構造体の発展のために、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているが、当然、行動の指令の中には、不道徳な行動の指令、無謀な行動の指令、かなえてはいけない行動の指令などの悪事を行うことの指令が存在する。しかし、大衆性に満ちた日本人は、もしも、それが、自我が犯人だと特定される可能性が小さく、他者に共感する者が大勢いることが想定され、深層心理が生み出した感情が強く、自我が傷付けられる可能性が小さいと思われることならば、実行するのである。そして、集団となって、街頭で、「在日は出ていけ。」と叫び、インターネットで、「在日の女優」、「反日日本人の正体」、「日本を駄目にした日本人」、「韓国に日本を売った日本人の正体」などと流すのである。右翼の国家主義者の狙い目はそこにあるのである。日本人の愛国心を深層心理から強く動かすことなのである。つまり、日本人の多くは、深層心理は、国家主義に基づいていて思考し、表層心理は、民主主義の基づいて思考しているのである。だから、日本人の多くは、民主主義者を装いながら、何か事があると、国家主義に引きずられていくのである。それが、現在でも、日本という国の構造体が、国家主義者によって動かされているという現象を生み出しているのである。さて、現在の日本の首相である安倍晋三という国家主義者は、岸信介の孫である。岸信介は、超という接頭語を付くぐらいの、国家主義者であった。安倍晋三元首相が、岸信介を尊敬しているのも、頷けることである。岸信介は、満州国の高官を経て、東条英機内閣が太平洋戦争を起こした時は、商工大臣になっていた。太平洋戦争中、大日本帝国は、軍部が、八紘一宇(はっこういちう・世界を一つの家にすること)を掲げて、自らの行為を正当化しつつ、中国、東南アジアの侵略し続けた。その結果、アメリカを中心とした連合国と戦争をせざるを得なくなった。また、大日本帝国は、満州国の建国理念として、五族協和(日・朝・漢・満・蒙の五族の協和。日本人、朝鮮人、漢族、満州族、モンゴル族が平等の立場で満州国を建設すること)・王道楽土(おうどうらくど・王道主義によって、各民族が対等の立場で搾取なく強権のない楽土(理想郷)を実現すること)を掲げた。しかし、八紘一宇、五族協和、王道楽土は、見せかけだけのスローガンであった。真実は、日本軍人(日本人)はアジアの諸民族を蔑視し、嫌悪していたのである。その証拠として、次のような実例を挙げることができる。日本軍(日本人)は、中国や朝鮮や東南アジアにおいて、日本の神社を拝ませ、日本語を強制し、拷問、レイプ、虐殺を行った。陸軍の細菌戦部隊である731部隊は、中国において、ペスト、コレラ、チフスなどの細菌の研究を進め、実戦に使い、中国人、ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って人体実験を行った。その犠牲者の数は三千人近いと言われている。日本軍(日本人)は、朝鮮において、創氏改名(朝鮮人の姓名を日本式の氏名に改めること)を強制した。日本軍人は、東南アジアにおいて、現地の若い女性をだまして、暴力的に従軍慰安婦に仕立て上げた。それは、朝鮮だけにおいてではない。占領地全てにおいてであった。太平洋戦争は終わった。日本は敗北した。しかし、日本人の中には、アジアの諸民族対する蔑視感・嫌悪感を、現在も、持ち続けている人が存在するのである。それも、決して少ない数ではない。特に、中国、韓国、北朝鮮に対して蔑視感・嫌悪感を抱いている人が多い。それは、戦前、大日本帝国が、中国、韓国、北朝鮮を侵略し、占領したからであり、多くの日本人の深層心理が、国家主義思想あるからである。「在日韓国人や在日朝鮮人は日本から出て行け。」と叫びながら、デモ行進をする在日特権を許さない市民の会という右翼集団の行動に如実に表れている。戦前の亡霊が現在まで生き残っているのである。特に、安倍晋三が首相になってから、我が意を得たりとばかり、ヘイトスピーチする集団とともに、中国・韓国・北朝鮮に対して、あからさまに非難する人が増えてきた。岸信介は、太平洋戦争中、あくどいやり方で、中国で利益を上げた。それ故に、今もって、多くの中国人に嫌われている。当然のごとく、戦後、A級戦犯として逮捕された。しかし、共産主義国であるソ連の台頭、中国の共産党の勃興、朝鮮戦争が起こりそうな機運が高まってきたので、アメリカは政治判断を下し、岸を釈放した。その後、自民党の衆議院議員になり、そして、首相にまで上り詰めた。1960年、安保条約(日米安全保障条約)を改定した。旧安保条約には、アメリカ軍が安全保障のために日本に駐留し、日本が基地を提供することなどを定めていたが、新安保条約は、それに、軍事行動に関して両国の事前協議制などを加えた。旧新ともに、安保条約は、日本がアメリカの従属国家であることを示している。また、岸信介は、旧安保条約の細目協定である日米行政協定を、新安保条約では、日米地位協定と改定した。日米地位協定には、基地・生活関連施設の提供、税の免除や逮捕・裁判に関する特別優遇、日本の協力義務、日米合同委員会の設置など、アメリカ軍人とその家族の権利が保証されている。日本人がアメリカ人の下位にあることは一目瞭然である。岸信介は、政治家を退いた後も、自主憲法やスパイ防止法の成立を目指した。安倍晋三の父である安倍晋太郎も、自民党の衆議院議員であったが、首相にはなれなかった。岸信介の実弟が佐藤栄作である。つまり、佐藤栄作は安倍晋三の大叔父に当たるのである。佐藤栄作も、自民党の衆議院議員であったが、首相となり、ノーベル平和賞を受賞した。安倍晋三元首相は、祖父の岸信介についてはよく言及したが、父の安倍晋太郎、大叔父の佐藤栄作についてはほとんど触れることがなかった。それは、安倍晋三の深層心理が岸信介に繋がっているからである。安倍晋三の自我は岸信介に連なっているからである。安倍晋三が靖国神社を参拝するのは、そこに祀られているA級戦犯者の復権、延いては、A級戦犯者だった岸信介の復権を目指しているのである。安倍晋三の集団的自衛権は岸信介の対米従属外交、新安保条約、地位協定に繋がっている。自民党の憲法改正案は、岸信介の自主憲法制定の考えに連なっている。安倍晋三とは岸信介のことなのである。確かに、日本は、太平洋戦争でアメリカに敗れ、満州国は崩壊した。しかし、アジアの諸民族に対しての蔑視感・嫌悪感を残している人々がまだ存在する。特に、中国、韓国、北朝鮮に対してそうである。アメリカに対して敗北したのであって、中国や朝鮮に対しては敗北していないというのである。彼らは、日本をアメリカの従属国にしても、中国、韓国、北朝鮮と対峙しようと考えているのである。言うまでもなく、その一人が安倍晋三である。岸信介の満州国における見果てぬ夢を、安倍晋三が首相となって、今見ようとしているのである。戦前の亡霊が現在の日本を支配しようとしているのである。麻生太郎は、安倍内閣の副首相兼財務大臣であった。麻生は、「ワイマール憲法も、いつの間にか、ナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。」と発言し、憲法を変えずとも、解釈によって、実質的な憲法改正の道を示唆した。それは、安倍晋三が、ほとんどの憲法学者が反対する中で、強引な憲法解釈と強行採決によって、国会で、集団的自衛権を認めさせたのと、底で繋がっているのである。麻生太郎の祖父が、吉田茂である。吉田茂は、戦前は、外交官として、日本が太平洋戦争に突き進むために、暗躍した。戦後は、首相となり、最初の安保条約(旧安保条約)を成立させた。戦前は、無鉄砲にも、日本がアメリカと戦争するように仕向け、アメリカが世界の第一の強国だとわかると、戦後は、アメリカに阿諛追従している。麻生太郎の節操のなさは吉田茂と繋がっている。確かに、吉田茂は、アメリカからの要求である日本の軍備増強を拒否した面は評価しても良い。しかし、安保条約を成立させて、日本をアメリカの属国にし、沖縄をアメリカの基地の犠牲にした基礎を造ったことは、批判しても批判しつくせるものではない。中曽根康弘は、戦前、海軍主計中尉として、インドネシアにいた時に、従軍慰安施設を作った。自叙伝でそれを自慢げに語っていたが、従軍慰安婦が問題となると、沈黙を保っている。戦後、首相となるや、日本に原発を導入し、レーガン大統領に対して、「日本列島は不沈空母」と言い、アメリカの軍事行動を全面的に支援することを約束した。防衛費の対国民生産GNP比率1%枠を突破させた。さらに、首相として、初めて、靖国公式参拝を行った。また、国家秘密法の制定、有事法制の制定、イラン・イラク戦争末期の1987年に自衛隊の掃海艇の派遣を試みたが、いずれも党内外の反対意見が強く、成功しなかった。中曽根康弘の姿勢は、常に日本のナショナリズムを喚起することであり、海軍時代と全く同じである。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。このような人物がいたために、戦争終結が遅れ、日本は、沖縄戦、本土爆撃、広島・長崎の原爆投下の大惨劇に見舞われるのである。戦後、逮捕され、A級戦犯として終身刑を下されたが、健康上の理由で仮出所を許され、その後、病死した。日本は、戦後のほとんどの内閣は、自民党によるものであった。自民党の本質は、憲法改正案に見られる通り、上意下達の全体主義なのである。それは、戦前の政治と同じである。つまり、戦前の亡霊が戦後の日本を支配しているのである。すなわち、現在は、アメリカに隷属しながら、戦前と同じく、国家主義者が日本の政治を動かしているのである。さて、ハイデッガーは、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間を「ひと(ひと的存在)」と言う。ニーチェは、「大衆」、「最後の人間」と言う。わかりやすく言えば、世間話・好奇心・曖昧性に満ちた人間性が、大衆性である。世間話・好奇心・曖昧性に満ちた生活を送り、それに満足しているのが大衆なのである。ハイデッガーは、「ひと(ひと的存在)」を「非本来的な人間」と言い、そこから脱却し、「本来的な人間」になるためには、「自らを臨死性に置く」(自らを死に臨む状態に置く)という覚悟を持たなければならないと説いているが、「本来的な人間」の内実を説明していない。ニーチェも、「大衆性」に対峙するものとして「貴族性」を挙げているが、その内実を説明していない。一般に、ハイデッガーやニーチェの思想は、「実存」と呼ばれている。サルトルは、「実存が、本質に優越する。」と言っている。サルトルによれば、「実存とは、衆人におもねらず、個人が自ら思考し、決断し、行動することである。」ということになる。しかし、やはり、「実存」を詳述していない。ハイデッガーは、自らの思考を「存在への思考」とし、サルトルの自らの思想理解を嫌ったが、「実存」に関する限り、サルトルの考え方は、一考に値すると思う。しかし、ハイデッガーの「本来的な人間」にしろ、ニーチェの「貴族性」にしろ、サルトルの「実存」にしろ、もしも、「大衆性」から脱却しようと思うのならば、自ら、思考するしかないことを説いている。「大衆性」は共通した考え方・生き方だが、ハイデッガーの「本来的な人間」の考え方・生き方にしろ、ニーチェの「貴族性」の考え方・生き方にしろ、サルトルの「実存」の考え方・生き方にしろ、一人一人が思考し、決断し、自ら責任を取るである。それ故に、困難で、誉れ高いのである。


自我に取り憑かれ、深層心理が生み出す自我の欲望に動かされている人間に生きる意味はあるか。(自我から自己へ2)

2021-11-07 11:24:27 | 思想
人間は、自分が意識して思考する前に、既に、無意識に思考している。しかも、それが、人間を動かしている。つまり、人間は、無意識の思考によって動かされているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が思考して、人間を動かしているのである。フランスの心理学者のラカンは「無意識は言語によって構造化されている」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考しているということを意味する。「構造化されている」と受動態になっているのは、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、思考していないからである。すなわち、人間は無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考して、人間を動かしているのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快楽を求めて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲動を生み出し、人間を動かしているのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って存在し、行動しているのである。欲動とは、深層心理に内在していて、深層心理を動かしている四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかが満たされたならば、快楽が得られるので、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという欲望があり、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという欲望があり、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望があり、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。欲動の四つの欲望の中で、最も強いのは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとしている。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したからである。人間が、離婚、退学、退社を嫌がるのは、夫(妻)、生徒、社員という自我の存続が絶たれ、自我を失ったたからである。人間が、会社などの構造体で昇進を祝福するのは、自我が発展したからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。また、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。それは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。だから、ニーチェは、人間は「永劫回帰」(永遠に同じことを繰り返すこと)であると言うのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、不快な気持ちを取り除こうとして、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出しがちである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、超自我によって、過激な自我の欲望を抑圧しようとする。超自我とは、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する作用である。日常生活において、異常なことが起こり、深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出すと、もう一方の極にある、深層心理の超自我というルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧する働きが功を奏さないことがあるのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないことがある。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という過激な自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。その時、人間は、表層心理で、現実的な自我の利得を求めて、思考して、意志によって、それを抑圧する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。過激な感情は、時には、他者に向かうことがある。それが、暴力、稀には、殺人という犯罪を引き起こすこともある。それは、他者から、侮辱などによって、自我が傷つけられ、自我が下位に落とされたから、その自我を復活させようとして、他者を攻撃することによって、他者を下位に落とし、自我が上位に立とうという目的で起こした、深層心理は生み出した自我の欲望によるものである。つまり、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。だからこそ、人間は、表層心理で思考しなければならないのである。深層心理が思考して生み出した圧倒的な自我の欲望の力の中で、表層心理で、思考し続けなければならないのである。表層心理に存在する、現実的な自我の利得を求める欲望は、道徳観や社会的規約を考慮し、後に、自我に利益をもたらし不利益を避けるという、長期的な展望に立つ欲望である。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。さて、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件の五人の実行犯のうちの一人である林郁夫は「誰でも、自分の立場だったら、私と同じように、行っていたと思う。」と言う。彼は、オウム真理教教団幹部であるが、改悛の情が強く、捜査に積極的に協力したという理由で、実行犯の中で、唯一、無期懲役判決が下った。彼は、刑務所の中で、あの事件を何度も何度も振り返って考え、そのように語ったのである。これがテレビで報道されると、多くの人は、この言葉を言い訳として捉え、「反省していない。」と言って、非難した。しかし、彼は、究極の反省をしている。究極の反省の後で、この言葉が出てきたのである。彼は、オウム真理教教団の幹部であったが、たとえ、一般信者であったとしても、サリン散布を断ることはできなかっただろう。オウム真理教教団の信者であるという自我が、教祖の麻原彰晃の命令を遵守させたのである。彼の自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望が、彼をして、そのように行動させたのである。林郁夫は、オウム真理教教団という構造体に所属し、信者という自我を持った時から、教祖の麻原彰晃の命令に従うしか無いのである。それが、自我判断である。林郁夫は、自我判断をし、自己判断をしなかったのである。自己判断とは、自分の良心による判断である。自我判断とは、構造体の中で、自我を確保・存続・発展させるために、他者から自我が認められるように、構造体の主体者や構造体の方向性に則って行動するように、判断することである。誰しも、他者には自己判断を求めるが、自らは、判断に迷うと、自我判断するのである。いや、多くは、迷うこと無く、自我判断をしているのである。