あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

国民は戦争を拒否できないのか「民主主義の陥穽」。(自我から自己へ14)

2022-03-22 15:11:31 | 思想
ロシア兵がウクライナに侵攻し、ロシア兵とウクライナ兵が殺し合い、死に、ウクライナ市民がロシア兵に殺された。彼らは、自分として殺し合い、死に、殺されたのではなく、自我として殺し合い、死に、殺されたのである。なぜならば、戦いを望んでいないからである。戦争を選択していないのに、それによって殺し合い、死に、殺されているのである。彼らはロシア兵、ウクライナ兵という自我を持っていたから殺し合い、死に、ウクライナ市民という自我を持っていたからロシア兵に殺されたのである。つまり、ロシア兵はロシア国という構造体に所属しているから、プーチン大統領の命令に従い、ウクライナに侵攻し、ウクライナ兵と戦ったのである。ウクライナ兵はウクライナ国という構造体に所属しているから、ゼレンスキー大統領の命令に従い、ロシア兵と戦ったのである。ウクライナ市民は、ウクライナ国という構造体に所属しているから、ロシア兵に殺されたのである。人間は、常に、構造体の中で、自我として生きていて、構造体と自我から逃れることはできないのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、他者、・物、現象などと関わりながら、暮らしているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、大統領、総理大臣・国会議員・官僚・国民(市民)などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・男児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・女児などの自我がある。人間は、常に、構造体の中で、自我として生きていて、人間関係を営みながら暮らしているが、人間関係とは、自らの自我と他者の自我が関係すること、自らの自我と他人の自我が関係することである。他者とは、同じ構造体の人々である。他人とは、別の構造体の人々である。人間は、自らのことを自分と言うが、自分とは、自らを他者や他人と区別している自我のあり方に過ぎないのである。すなわち、自分とは、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と区別しているあり方に過ぎないのである。だから、人間には、自分という固定したあり方は存在しないのである。人間には、自分いう固定したあり方は存在せず、他の構造体に入れば、他の自我になるだけなのである。だから、人間は、自我を有して生まれていないのである。自我を持つ能力を有して生まれてくるのである。人間は、カオスの状態で、動物として生まれてくるのである。人間は、他の動物と同じように、無意識のうちに、ひたすら生き続けようとするのである。しかし、他の動物は自我を持たないが、人間は、カオスの状態では不安だから、コスモスの状態を求め、構造体に所属し、自我を持つようになるのである。言葉がそれを可能にしているのである。さて、人間にとって、殺すとは、相手の自我を殺すことである。相手の肉体が死ねば、相手の存在、つまり、自我を消滅させることができるから殺すである。もしも、相手が生きていても、その構造体から追放され、自我を失わさせれば、殺すことはしないのである。人間は自我の動物である。人間には、固有名詞があるが、それは、個別の存在を表すだけで、それによって、行動はできない。固有の行動は存在しないのである。人間は自我を基に行動していからである。ロシア兵は、ロシアという国の構造体で自我を持っているから、プーチン大統領の命令に従い、ウクライナ兵と市民を殺すのである。ウクライナ兵は、ウクライナという国の構造体で自我を持っているから、ゼレンスキー大統領の命令に従い、ロシア兵を殺すのである。ウクライナ市民は、ウクライナという国の構造体で自我を持っているから、プーチン大統領の命令に従ったロシア兵に殺されるのである。彼らは、ロシア国民、ウクライナ国民という自我を持っているから殺し合い、殺されるのである。だから、殺した者も殺された者も、互いの顔を知らないのである。何と理不尽なことであろうか。プーチン大統領の自我の欲望による強権によって引き起こされた戦争、ゼレンスキー大統領の自我の欲望による無策によって止められなかった戦争を、どうして国民の命であがなわなければいけないのか。確かに、大統領は国民の選挙によって選ばれ、大統領に交戦権があることが認められている。しかし、国民は、これほど安易に戦争を起こされるとは思っていなかっただろう。もっとも、ロシアでは情報統制がされ、ウクライナ侵攻は、ネオナチ派の政治家からウクライナ国民を解放させるに行ったとされているようだ。しかし、いかなる理由にしろ、戦争は悪である。正義の戦争などあり得ない。自衛の戦争は正義の戦争だという人がいるかも知れない。しかし、突然、勃発した戦争は存在しない。少なくとも、一国の最高政治権力者が、自我の欲望を抑圧すれば、戦争は起こらない。しかし、現在、世界において、自我の欲望を発揮することしか考えていない最高政治権力者しか存在しない。だから、戦争は、どこでも起こる。それでは、国の最高政治権力者が戦争を起こした場合、全国民は従わなければいけないのか。戦争を忌避したい国民は戦争を拒否できないのか。最高政治権力者が起こした戦争を、戦争を忌避したい国民は戦争を拒否できなかったとしたならば、それは民主主義の陥穽ではないのか。それでも、欧米には、良心的兵役拒否を認められている国がある。良心的兵役拒否とは、自己の信条に従って、戦争を悪と断じて、一切の軍務を拒否するという積極的な行為である。しかし、兵役免除には、厳しい審査があり、認められても、非戦闘軍務、民間間労務に就かせられることが多い。しかし、日本では、徴兵制が導入されると、良心的兵役拒否は認められないだろう。同調圧力の強いこの国で、自己の信条が認められるはずがない。現在、日本は、太平戦争を正当化している自民党が、公明党と組んで、政権を担当している。自民党は、公明党、日本維新の会と組んで憲法を改正して、徴兵制を導入し、日本が大手を振って戦争のできる国にすることを画策している。多くの国民は愛国心という自我の欲望が強いから、自民党は、国会議員を増やし、公明党、日本維新の会を巻き込み、早晩、憲法を改正して、徴兵制を導入し、日本を大手を振って戦争のできる国にするだろう。徴兵制が導入されれば、全18歳以上の人、もしくは、全成人に徴兵検査の案内が来ることになり、戦争が近づいたり、戦争が始まったりすれば、召集令状が来るだろう。それに従わなかったら、どうなるだろう。まず、警察が逮捕に来るだろう。その時、私はそれに従うことはどうしてもできない。抗うだろう。抗っても、逮捕されるか、射殺されるだろう。逮捕されても、正式な裁判に受けられ可能性が少ない。徴兵検査や召集に同意するまで、拷問を受けるだろう。どうしても、同意しなければ、殺されるだろう。殺されても、事故死とか、逃亡しようとやむを得ず射殺したなどと処理されるだろう。抗うということは、これを覚悟して行うということである。日本は法治国家だからそういうことは無いと言う人がいるが、戦前も法治国家だったが、国策に反した意見や国策に反した行動した人を、裁判を受けさせずに、警察官や憲兵が拷問しているのである。拷問によって、殺された人は、百人近く存在するのである。マッカーサーは、太平洋戦争後、連合国軍最高司令官として、1950年まで、日本占領の最高公権力者として進駐したが、「日本人は12歳である。」と述べている。戦後70年以上経過したが、日本人の政治意識の低さは変わっていない。だから、現在でも、太平戦争を正当化している自民党が、公明党と組んで、政権を担当しているのである。その自民党が公明党、日本維新の会と組んで、憲法を改正して、徴兵制を導入し、日本を堂々と戦争のできる国にし、戦前のように、特高(特別高等警察)や憲兵を使い、徴兵検査や召集に抗った者を、同意するまで拷問するだろう。そのような犬死にをするくらいならば、積極的に体制と戦うのも一方法として考えられる。もちろん、一人では戦えない。だから、同士を募り、若しくは、同意見の集団に参加して戦うのである。もちろん、敗北死する可能性が高い。しかし、おめおめ、徴兵検査を受け、戦地に行かされ、したくもない戦争で死ぬよりは良いと思う。鶴見俊輔は、「戦地で銃を持たせられたら、自殺するつもりだった。」と言った。しかし、戦地では通信係だったから、自殺しなかった。鶴見俊輔の考えも、一考に値すると思う。


プーチン大統領もゼレンスキー大統領も悪党である。(自我から自己へ13)

2022-03-16 18:56:19 | 思想
悪党とは自我の欲望を満たすためには他者の犠牲を厭わない者のことを言う。政治権力者としての自我の欲望を満たすために国民の命を犠牲にして戦争を行う者は悪党以外の何者でもない。プーチン大統領もゼレンスキー大統領も悪党である。多くのロシア国民も多くのウクライナ国民も愛国心を理由に戦争を支持しているのもあまりにも愚かである。ロシアの大統領のプーチンは、ウクライナ国内の親露派の地域と人々を守るためと言って、ウクライナに兵を動かし、侵攻した。ウクライナの大統領のゼレンスキーは、ウクライナの独立を守ろうと言って、全国民に武器を持って戦うように呼びかけ、至る所が戦場になった。現在も、戦争が継続しているのは、多くのロシア国民と多くのウクライナ国民は愛国心を理由に戦争を支持しているからである。日本を含めて、世界中の国が、プーチンの行為を野蛮な行為だとして、批判している。確かに、プーチンは悪党である。しかし、ゼレンスキーも悪党である。両者は、自我の欲望を満たすために戦争を行っているからである。しかし、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領に限らず、人間は、誰しも、政治権力を握ると、自我の欲望を満たすために、戦争を行おうとするのである。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。人間は、生まれつき、わがままに生きたいのである。それが幸福というある。人間は、悪人と他者に批判されなければ、わがままに生きたいのである。わがままに生きるとは、自我の欲望のままに、行動することである。他者に合わせて生きるとは、他者の目を気にして行動することである。つまり、人間は、生まれつき、自分の思い通りに行動したいが、他者の批判が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないというわけである。だから、人間は不幸に生まれているのである。しかし、人間は、権力を握るとわがままに生きられると思うのである。自分の力を発揮し、他者を支配することができると思い込んでいるのである。人間が政治家になろうとするのは、自分の思い通りに、自分の力を発揮し、大衆という他者を支配したいからである。特に、大統領という政治権力者になれば、自我の欲望のままに、大衆という他者を支配できると思い込んでいるのである。だから、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、政治権力者としての自我の欲望を満たすために国民の命を犠牲にして戦争を行っているのである。政治権力者の自我の欲望を放置すれば、いともたやすく、戦争を起こし、国民に殺人を行わせ、かつ、国民を死に追いやるのである。国民が止めなければ、政治権力者の支配欲という自我の欲望は、果てしなく広がるのである。しかし、多くのロシア国民と多くのウクライナ国民は愛国心を理由に戦争を支持しているから、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、迷い無く、自我の欲望を満たそうとするのである。ニーチェに「権力への意志」という思想がある。人間には、他者からの好評価・高評価を糧にしていっそう強く生きようという意志があるというのである。それは、他者の視線を自らのものとして、他者に自らの存在を見せつけようという意志である。そこには、現状に留まり、反省しようという意志は存在しない。永遠に現在を乗り越えようとする。そこには、「政治権力者は英雄的行動を繰り返して権力の向上を続けている間、大衆は力強い権力者に憧れ続ける」と考えが基礎にある。だから、大衆が愛国心に支配され、政治権力者を崇拝すれば、政治権力者はいっそう増長し、自省することはない。ニーチェは「大衆は馬鹿だ」とも言ったが、まさにその通りである。政治家は、大衆が支持し権力を握ると、もしくは、権力を握り大衆が支持すると、必ず、堕落するのである。人間には、誰しも、支配欲があり、政治権力を握り、大衆が期待すると、自分は何をやっても許されると思い、支配欲を発揮して、自我の欲望のままに行動しようと思うのである。大衆が、それを批判しない限り、政治権力者は、自我の欲望のままに、わがままな行動をするのである。国民が、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領を支持するから、彼らは国民の命を犠牲にしてまで戦争をするのである。さて、人間は、常に、何かであり、誰かである。それは、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、行動しているということである。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。構造体と自我の関係を具体的に言うと、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。人間は、自我にアイデンティティーを持って、初めて、人間となるのである。自我にアイデンティティーを持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それが持続すると、人間は、自我に自信を持つようになるのである。それがアイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理が自我を持つのである。深層心理とは、人年の無意識の精神活動である。深層心理は、自我を確保し。自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、思考して、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、世界中の人々は、所属する国という構造体に執着し、国民という自我に執着するのである。構造体には、国以外に、都道府県、市区町村、家族、会社、学校、カップル、仲間、宗教団体などさまざまなものがある。人間は、いついかなる時ども、構造体に所属している。人間は、いついかなる時ども、構造体に所属して、自我を持して行動している。人間は、構造体を離れて、存在できないのである。自我を持たずして、存在できないのである。人間は、自らの存在を保証するから、すなわち、自我を成立させるから、構造体を愛するのである。だから、世界中の人々は、誰しも、自分が所属している国を愛しているのである。すなわち、愛国心を持っているのである。また、誰しも、愛郷心を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷を愛している。誰しも、自分の家族を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ場所を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれている人を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる人を愛しているのである。宗教心を持っている人は、誰しも、。自らが帰依している宗教の共同社会、すなわち、教団を愛しているのである。人間は、自我として存在し、自我は構造体あって成立するから、構造体を愛するのである。さて、人間は、愛国心があるからこそ、自国の動向が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではない。人間の無意識のうちに、深層心理が自我の欲望を生み出しているのである。愛国心は、その自我の欲望である。つまり、人間は、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在し、深層心理が生み出した自我の欲望に人間が動かされて生きている限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。だからこそ、表層心理での思考が重要なのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、審議するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令について、それを実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考する。戦前、戦中、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手に銃口を傷付けたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した敵を殺せという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、戦争に入り、敵兵と対峙するのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、深層心理が納得するような代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。このように、深層心理の自我に対する執着は強く、人間は、表層心理の思による意志には、限界があるのである。しかし、それでも、人間には、自我が危機的な状況にある場合、表層心理で思考する機能があるから、悲劇や惨劇は、ここまででとどまっているのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した過激な行動の指令通りに行動したならば、自我がどうなるかということを、道徳観、社会的規約、他者の評価を考慮して、思考するから、悲劇や惨劇は、ここまででとどまっているのである。つまり、人間には、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激なために、自我が危機的な状況に陥った場合、表層心理で、自らの存在を意識して思考する機能があるから、人類は滅びずに存続できたのである。人間は自らの存在を意識すれば、必ず、思考が始まるのである。すなわち、人間は表層心理で自らの存在を意識すれば、必ず、表層心理で思考するのである。人間は、深層心理が過激な感情を生み出したとき、表層心理で、自らを意識し、思考するのである。なぜならば、深層心理が過激な感情を生み出すときは、自我が危機的な状況にあるときだからである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時にも、自らの存在を意識し、表層心理で思考する。つまり、人間は、他者の存在を感じた時に、自らの存在を意識し、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激であった時や他者の存在を感じた時には、表層心理で自らの存在を意識して、表層心理で思考するのか。それは、深層心理が、常に、他者に脅威を感じ、自我に危うさを感じているからである。さらに、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに無意識に行っている行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。そして、それと同時に、表層心理での思考が始まるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を覚え、自らの存在に危うさを覚えたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が必ず始まるのである。だからこそ、人間には自らの存在を意識する時間が必要なのである。
さて、世界において、そこに国というものが存在すれば、国民は、誰しも、自国に対して愛国心を有している。それを声高に主張するか、内面に秘めているかの違いだけである。全ての人に愛国心が存在するのは、誰しも、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。だから、どの国においても、愛国心を声高に主張する人は存在する。つまり、世界各国にその国の右翼が存在するのである。また、たとえ、二つの国籍を有している人がいたとしても、その人の愛国心は全体に拡散することはなく、その二ヶ国だけには愛国心を抱くが、その他の国には愛国心を抱くことはない。愛国心とは、自分が気に入った国を愛する心ではなく、自分が所属している国を愛する心だからである。自分が所属している国が素晴らしいからでも、自分が所属している国から恩義を受けたからでもなく、自分が所属しているから、その国を愛するのである。だから、ロシア人は、ロシアという国に執着し、ロシアのあり方が気になるのである。同様に、ウクライナ人は、ウクライナという国に執着し、ウクライナのあり方が気になるのである。もちろん、ロシア人であっても、もしもその人がウクライナに生まれていたならば、ウクライナに愛国心を抱いていたのは、疑いのないところである。「私はロシアに対して強い愛国心を持っているのだ。だから、ウクライナが嫌いなんだ。」と威張るように言うロシア人は、ウクライナに生まれていたならば、ウクライナで、「私はウクライナに強い愛国心を持っているのだ。だから、ロシアが嫌いなんだ。」と威張るように言っているに違いないのである。愛国心に限らず、愛とは、自分が所属しているものや自分が所有しているものに執着し、それが他の人に評価されることを望む感情である。これが自我の現れなのである。ニーチェならば、この現象を、権力への意志と表現するだろう。だから、自分がロシアという国に所属しているからロシアに愛国心を抱いているのと同様に、自分がウクライナという国に所属していたならば、ウクライナに愛国心を抱いていたのは確実なのである。自我の為せる業である。だから、愛国心は声高に叫ぶほどのことはないのである。自我の為せる業、ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心は、国民ばかりでなく、時には、国全体を大きく動かすのである。自分が所属している国に対する愛、執着、評価が国民個々人ばかりでなく、国全体を動かすことがあるのである。自分が所属している国やその国に所属している自分を、他国や他国の人々や他の人々に認めてもらいたいと思いが高まった時である。国民としての自我が人を動かすのである。それが、人間は社会的な存在であるという文の端的な意味である。人間は社会的な存在であるという文の意味を、マルクスは、階級にこだわり、ブルジョア(資本家)やプロレタリアート(労働者)などの自分の所属している階級によって、人間は意識(考え)が決定され、それが、経済闘争に繋がると述べているが、人間の自我(マルクスは自我という言葉を使っていない)が形成される場(構造体)は階級ばかりでなく、国はもちろんのこと、家族、会社、学校、県、市、町など数多く存在する。そこに構造体が存在し、そこに所属している人がいれば、そこには自我が存在するのである。そして、愛国心と同じように、家族愛、愛校心、愛郷心が存在するのである。さて、それでは、いつ、なぜ、人間に愛国心が芽生えたのだろうか。人間には、先天的に愛国心を備わっているのだろうか。いや、そんなことはない。人類には、有史以来、愛国心という観念が存在したのだろうか。いや、そんなことはない。現代のように、世界が国という単位で細断されながらも、その国の領域を縦断・横断ができるような、国際化した時代においては、自分がある特定の国に所属し、その国が確固たる存在を呈しているという意識、つまり、確固たる国に所属しているという国民意識がないと不安だから、愛国心が生まれてくるのである。つまり、国民としてのアイデンティティ(自己同一性・ほかならぬこの私であることの核心)の意識が存在しないと、国際化した社会では不安で生きていけないから、愛国心を抱くのである。もちろん、自分が所属している国が、国際社会において認められれば、不安解消ばかりか、満足感すら得ることができるのである。それは、国民としてのアイデンティティが満足できるからである。自分が認められたように満足感を得るのである。そこにおいては、国の存在こそが自分の存在、もっとはっきり言えば、国こそが自分なのである。国の存在が自分の自我の現れの一つなのである。ワールドカップで自国チームが活躍したり、オリンピックで自国民が活躍したり、自国民人がノーベル賞を獲得したりした時に、国民全体が喜ぶのも、国民としてのアイデンティティが満足できたからである。自己満足ならぬ自我満足である。手柄を挙げた自国民人に、国民人の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。逆に、自分が所属している国や自国民人が貶められると、自分が貶められたように傷つくのである。自分が所属している国や自国民に、国民の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。それも、また、国民としてのアイデンティティが為せる業である。自我の為せる業である。つまり、愛国心、国に対するアイデンティティ、国民としてのアイデンティティの三者は同じものである。しかし、人間は、誰しも、生まれつき愛国心を持っているわけではなく、成長の過程の中で、子供の頃から愛国心を抱くようになるのである。自分自身の体験や周囲の人からの影響によって愛国心を持つようになるのである。単に、学校で、国の存在とともに自分が国民人だということを教えられただけでは、愛国心は身につかない。そこでは、知識は入ってくるが、愛国心は湧いてこない。次のような時、愛国心が湧いてくるのである。街で外国人に会い、その体格に圧倒され、惨めな自分の体格を卑下しつつ、自分と同じ体格の人たち、つまり、自国民を見た時、自分と同じように生まれ育った者への愛情、つまり愛国心を抱くのである。外国旅行に行き、言葉や習慣や雰囲気の異なっているのに不安を覚えている時、自国民人を見て安心感を得た時、愛国心を抱くのである。また、外国旅行に行き、帰りたくなった時、自分の生まれ育った国への愛情、つまり愛国心を抱くのである。さらに、子供心にも、オリンピックやワールドカップやノーベル賞受賞などでの自国民人の活躍に、周囲の大人たちが湧きかえっているのを見ると、自分もうれしくなり、自分もこの大人たちと同様に国民人だから喜んでいいのだと思った時、愛国心を感じ取っているのである。つまり、誰しも、自分が他国の人々から疎外されていると感じていた時に、自分が国民人の一員であり、国民人の仲間の一人なのだと意識して、安心感を得た時から、我知らず、愛国心を持つようになるのである。また、自国及び自国民が他国及び他国の人々と対抗している場面で、自分も、周囲の人と同様に、自国及び自国民を応援したくなる気持ちになった時から、愛国心を覚えるようになるのである。特に、自国が他国と戦争しているる時、自分が国に所属していることそして国民の一員だと強く意識し、愛国心を強く覚えるのである。愛国心は自我の現れであるが、愛郷心も愛校心も自我の現れである。何であれ、自分がそこに所属していることを意識し、そこに愛着を感じ、無意識に(深層心理で)そこに囚われた時、つまり、アイデンティティを抱いた時、そこが自分の自我の一つになるのである。さて、一般的には、愛国心の強い人は、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)と呼ばれ、右翼という短い言葉でまとめられれている。そして、右翼の反対勢力は、一般に、左翼と呼ばれている。誰しも、愛国心を持っている。だから、誰でも右翼になりうる可能性がある。それでは、なぜ、一部の人しか右翼にならないのか。それは、そこに、左翼的な考え、そして、左翼が存在するからである。左翼とは、愛国心を抱きつつも、自らの愛国心に身をゆだねず、相手の国民にも愛国心があると認識し、両者に折り合いをつけようとする人たちである。端的に言えば、左翼が存在するから、右翼の愛国心の暴走を止めることができるのである。右翼と左翼が対抗し、国民がそれを見て判断を下すから、国に秩序が成立し、国が存続するのである。もしも、右翼が台頭し、左翼が有名無実になってしまえば、国民も右翼化することになり、その国はためらいなく他国と戦争を始めるだろう。それが、ロシアとウクライナである。




死の恐怖とは死ぬことの恐怖ではなく、自我を失うことの恐怖である。(自我から自己へ12)

2022-03-11 15:26:56 | 思想
人間にはいつか死が訪れる。人間は、誰しも、自らにいつか死が訪れことを知っている。死とは、生命を失うこと、息が絶えることを意味する。しかし、人間は、誰しも、自分の生命を失った状態、自分の息が絶えた状態を想像しても、恐怖心は身に迫って押し寄せてこない。また、死ぬ時の肉体の痛みを想像しても、恐怖心は身に迫って押し寄せてこない。さらに、死後の荼毘に付されることや肉体が朽ち果てることを想像しても、恐怖心は身に迫って押し寄せてこない。それは、いつか自分も死ぬだろうがまだその時期ではないと思っている。また、快楽主義の祖と言われている古代ギリシアの哲学者のエピクロスが言うように、「われわれが生きているときには死はわれわれのもとにはなく、その死がやってきたときにはわれわれの方が居ない」のである。人間は、死を規定できないから、死の恐怖心が身に迫って押し寄せてこないのである。聖書に「人はパンのみにて生くるものにあらず。」という言葉がある。言うまでもなく、パンとは、食糧のことである。聖書は、人間は、生きていくためには、食糧以外に、神の言葉が必要だと言うのである。人間を生かしてくれるのは神であり、神の言葉に従えば、人間が生きていくために必要なものを神が備えてくれると言うのである。さすがに、キリスト教の教えである。しかし、キリスト教国ではない日本では、一般には、人間は、食べることだけを目的に生きるのではなく、文化的・精神的なことを追求することを目的にして生きるのだという意味で解釈されている。確かに、人間が生きていくためには、食糧だけでなく、他の物や他のことが必要である。それが、キリスト教国では神の言葉、日本では文化的・精神的なことだとされたのである。しかし、キリスト教国でも、それ以外の国でも、食糧が確保されても、聖書に記されているような高尚な生き方をする人は稀である。本人が、高尚な生き方をし、高尚な人間だと思い込んでいるだけで、ことが起こると、簡単に化けの皮がはがれてしまう。快楽を求め、不快を厭い、自我の欲望に駆られて行動する。そもそも、人間にとって、パンは単に食糧では無い。パンは食糧であるととも、快楽を与えるものなのである。人間は、パンを食べる時にも快楽を求め、それ以外の時にも快楽を求めているのである。高尚だと思われるな生き方も、快楽に繋がっているから、それを求めるのである。しかも、人間は、意識して快楽を求めて思考する前に、無意識のうちに快楽を求めている思考しているのである。なぜ、人間は快楽を求めて行動するのか。なぜ、人間は、無意識に、快楽を求めて思考するのか。それは、快楽を求めて思考する間、死の恐怖から逃れることができるからである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、常に、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間は、自我の欲望を満たすことを思考し、自我の欲望を満たすために行動している間、死の恐怖から逃れることができるのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているのである。しかし、人間は、自ら意識して思考して行動しているのではない。人間の自ら意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、行動しているのではない。人間は表層心理で思考する以前に、つまり、、感情と行動の指令を生み出していないのである。深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。人間は、表層心理で、自らを意識して、思考して、行動していないのである。すなわち、人間は、主体的に思考して行動していないのである。フランスの心理学者のラカンも、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言うのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではなく、論理的に思考しているのである。深層心理が、欲動によって、快楽を求めて、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、自らの深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望にとらわれて生きるのである。自我の欲望が、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが無意識のうちに思考して生み出している自我の欲望によって生きているのである。しかし、自らが意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望である。自らの欲望であるから、逃れることができないのである。深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。つまり、深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間は、その自我の欲望にとらわれて生きるしかないのである。人間の行動は、全て、深層心理が生み出した自我の欲望の現れなのである。ほとんどの人の日常生活が、ルーティーンという同じようなことを繰り返す無意識の行動になっているのは、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに無意識のうちに行動していることを意味しているのである。それは、構造体にも自我にも異常が無く、深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに行動して良く、表層心理で思考することが起こっていないことを意味するのである。表層心理とは人間の意識しての精神活動を意味する。人間は、表層心理で意識すること無く、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、行動しているから、毎日、同じような行動ができるのである。人間は、自らを意識して思考すること、すなわち、表層心理で思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。まさしく、ニーチェの言う「永劫回帰」である。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、人間、誰しも、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンの生活が壊れそうになることがある。それは、構造体が壊れたり、構造体から追放されたり、自我が傷付けられたりして、平穏な日常生活が脅かされた時に起こる。妻から離婚してほしいと言われ、夫婦という構造体が壊れる。上司から馘首を言い渡され、会社という構造体から追放される。クラスという構造体で、クラスメートに悪口を言われる。そのような時、深層心理が、夫婦という構造体を壊し夫という自我を奪った妻、会社という構造体から追放し会社員という自我を奪った上司、悪口を言い自我を傷付けたクラスメートに対して、怒りの感情と暴力や侮辱などの復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、復讐の行動によって傷付いた自我を回復させようとするのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとする。人間は、夫婦という構造体、会社という構造体、クラスという構造体だけで無く、他の多くの構造体にも所属しているから、超自我は事を穏便に済ませようとするのである。超自我は、深層心理に内在する自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した暴力や侮辱などの復讐という行動の指令を抑圧できないのである。超自我が復讐という行動の指令を抑圧できない場合、復讐という行動の指令に対する審議は、表層心理に移されるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実的な利得を求めて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した暴力や侮辱などの復讐という行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果、すなわち、理性による思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した暴力や侮辱などの復讐という行動の指令を行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を傷付けたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した復讐しろいう行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手に暴力や侮辱などの復讐をてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、深層心理が納得するような代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。このように、深層心理の自我に対する執着は強く、人間は、表層心理の思による意志には、限界があるのである。しかし、それでも、人間には、自我が危機的な状況にある場合、表層心理で思考する機能があるから、悲劇や惨劇は、ここまででとどまっているのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した過激な行動の指令通りに行動したならば、自我がどうなるかということを、道徳観、社会的規約、他者の評価を考慮して、思考するから、悲劇や惨劇は、ここまででとどまっているのである。つまり、人間には、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激なために、自我が危機的な状況に陥った場合、表層心理で、自らの存在を意識して思考する機能があるから、人類は滅びずに存続できたのである。人間は自らの存在を意識すれば、必ず、思考が始まるのである。すなわち、人間は表層心理で自らの存在を意識すれば、必ず、表層心理で思考するのである。人間は、深層心理が過激な感情を生み出したとき、表層心理で、自らを意識し、思考するのである。なぜならば、深層心理が過激な感情を生み出すときは、自我が危機的な状況にあるときだからである。また、人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時にも、自らの存在を意識し、表層心理で思考する。つまり、人間は、他者の存在を感じた時に、自らの存在を意識し、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、深層心理が思考して生み出した感情や行動の指令が過激であった時や他者の存在を感じた時には、表層心理で自らの存在を意識して、表層心理で思考するのか。それは、深層心理が、常に、他者に脅威を感じ、自我に危うさを感じているからである。さらに、無我夢中で行動していても、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに無意識に行っている行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。そして、それと同時に、表層心理での思考が始まるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を覚え、自らの存在に危うさを覚えたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実的な利得を求めて、思考するのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が必ず始まるのである。人間が自らの存在を意識するとは、ある情態の下で、ある思考にあることやある行動をしていることを意識するのである。情態とは、深層心理を覆っている心境や深層心理が生み出した感情のことである。思考とは、深層心理が生み出した行動の指令が、まだ、実行されていない状態にあることを意味するのである。行動とは、深層心理が生み出した行動の指令が実行されつつあることを意味するのである。ほとんどの人は思考や行動を重要視するが、人間にとって重要なのは、むしろ、心境や感情という情態である。人間は、心境と感情という情態によって、自らの存在を意識し、自らが得意の状態にあるか不得意の状態にあるかわかるからである。得意の状態にあることが、人間の生き方の本意なのである。人間は、常に、構造体に所属し、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのであるから、常に、心境と感情という情態が人間に付きまとうのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情という情態こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。それは、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているからである。人間は、自分の存在を感じ取る時は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取るのである。それは、意識しての確信であると共に無意識の確信でもある。つまり、表層心理しての確信であると共に深層心理の確信である。だから、深層心理は自我を主体に思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かすことができるのである。さて、心境も感情も情態であるが、心境は、爽快、陰鬱など、深層心理に比較的長期に持続する情態であり、感情は、快感、不快、怒り、哀しみなどの、深層心理が突発的に生みだす情態である。深層心理は、感情を生み出す時は、行動の指令と一体化させて、自我の欲望として、生み出すのである。心境と感情は並び立つことがない。人間は、常に、一つの心境という情態、若しくは、一つの感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、その人自身の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境という情態性に影響されて思考しているのである。人間は、心境によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間が得意の心境の状態の時には、深層心理は、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す場合、現在の状態を維持させるような方向に行うのである。人間が不得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態から脱却させようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しいという心境が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいという心境から逃れるために、苦悩の原因となっている問題を解決しようとするのであり、苦しいという心境から逃れられれば、苦悩の原因となっている問題を解決しようがしまいが、気にならないのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが唯一の目的だからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境という情態が大切なのである。それは、常に、心境という情態が深層心理を覆っているからである。もちろん、日常生活において、異常なことが起こると、感情が湧き、深層心理を覆う。例えば、美しい花を見ると感動という感情が湧き、誰かに侮辱されると怒りという感情が湧き、深層心理を覆ってしまうのである。また、深層心理が、常に、心境や感情という情態が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境や感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境や感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境や感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境や感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などにも、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。それは、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているからである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う故に我あり」と言う。この言葉味は、私がいろいろな物やことの存在を疑うことができるのは、私が存在しているからだということを意味している。デカルトは、「我思う」ことができるのは「我あり」であることに気付き、そこから、私の存在の確信を得たと言っているのである。しかし、デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う以前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、こと(現象)の存在が証明できるから、これらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、これらの存在を前提にして活動しているのである。だから、デカルトの思考は、不要なのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、人間は、誰しも、意識して、すなわち、表層心理で、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、一旦、今までの心境は消滅し、その後、新しい心境が現れてくる。つまり、変化するのである。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、何かをすることによって、気分転換をして、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。さて、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのであるが、自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我の行動について考えるということである。だから、人間は、自我から離れることができないのである。深層心理は、自我を主体に考えるという営みを失われるから、死を恐怖するのである。すなわち、人間が死を恐怖するのである。深層心理にとって、自我の存在が、人間の存在なのである。すなわち、人間にとって、自我の存在が、自らの存在を意味するのである。さて、人間の構造体は家族であり、最初の自我は娘、息子である。しかし、娘、息子は、家族を選べず、母、父という親を選べないのである。なぜならば、人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきていないからである。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。つまり、自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。だから、人間は、誰しも、親を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。その家族を構造体として、娘、息子を自我として存在しているのである。しかし、親も、子を選べないのである。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。生まれてきた子の母、父を自我として生きるしか無いのである。人間の悲劇とは、偶然持たされた命であり自我であるが、そこから、一生逃れられないということである。自殺すらも、自我の生き方の一つなのである。次に、深層心理が、快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となった人間を動かそうとしているが、快楽を求めるとはひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。だから、深層心理には、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、人間が快楽を得るということは自我が快楽を得るということであり、深層心理が快楽を得るということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。それでは、深層心理は、自我はどのような時に快楽を得ることができるのか。それは、欲動にかなった時である。だから、深層心理は、欲動に従って思考するのである。欲動には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しないから、深層心理にも存在しないのである。だから、人間は、悪事を犯しても、快楽を得ることがあるのである。自我の欲望をがかなえられれば、快楽を得るのである。そこに、人間の存在の問題の原点が存在するのである。さて、欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、快楽を得ようとしているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて、他者・物・現象などの外部に反応して、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。