あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

生きるということ、そして、生かされているということ

2016-02-14 12:55:12 | 思想
東日本大震災の被災者の多くが、「今回の地震で、生きるということは、生かされていることなのだということをつくづくと思い知らされました。」と話している。阪神・淡路大震災の際にも、被災者は、同じように答えていた。この言葉には、嘘、偽りはない。愛する人、親しい人を喪って、初めて、自分が彼らに支えられていたことを思い知ったのである。さらに、愛する人、親しい人を喪い、家を失い、田畑を失い、生活基盤を全て失って、絶望の淵にさまよっていた時に、国内ばかりでなく、海外の人からも、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、生きる希望を取り戻したのである。しかし、悲しいことに、人間は、日々、ほかの人によって、心や体が傷つけられたり、時には、殺されるたりすることがあるのも事実である。つまり、人間は、日々、ほかの人によって生かされていると同時に、ほかの人によって傷つけられ、時には、殺されることがある存在者なのである。そして、これは、誰も言わないことだが、人間は、自分自身によっても、生かされ、そして、時には、殺される存在者なのである。我々人間は、自分自身によっても、心身ともに生かされている。心身の身とは、肉体である。人間の肉体の外部には、毛や皮膚があるが、誰も、自分の意志で、毛や皮膚を作ることができない。毛が抜けたら、肉体の方で新しく作り出す。肉体の方で新しく作り出さなければ、抜けたままである。それが頭の場合は、禿になる。禿を防止しようとして、人間はいろいろな策を講じ、時には、それが成功しているようである。それでも、それは、人間が作り出したのではなく、肉体が作り出したものである。人間は、肉体に、ある刺激を与えただけである。皮膚は、年齢を重ねるにつれて、カサカサになり、潤いを失ってしまう。それを防止しようとしてクリームなどを塗っている女性が多い。ごまかすことはできても、肉体の方で若い肌を産み出さない限り、元には戻れない。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。無意識に、呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為は存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、呼吸そのものは無意識的な行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間に備わっている機能である。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他の人もしくは自分がナイフを突き立てたりなどしないと、心臓は止まらない。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんの一部しか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできない。このように、我々人間は、ほとんどの場合、自らの意志よって、肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。そして、我々人間は、自らの意志よって、肉体を創造できず、現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは肉体自身でしかないのである。確かに、我々は、自分の意志によって、体を動かすことができる。しかし、少し考えてみればわかるように、それは、頭を振る、手を回す、歩く、走る、座るなどの些細な動作である。しかも、その意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、途中でこんがらがり、うまく足を運べなくなるだろう。たとえ、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行為すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、肉体自身によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、人間は、自分の意志によって、意識的に肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、肉体的に、生きているのではなく、生かされているのである。肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は83歳で11月4日に亡くなったが、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。我々人間は、ちょっと指を切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を消毒し、傷口を固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。。痛みは、我々に、そこに異状があることを知らしめると同時に、同じ過ちを繰り返さないように警告しているのである。肉体は、これほどまでに、生きようとしているのである。
次に、心身の心であるが、心とは精神を意味する。そして、精神とは、感情や思考の働きをつかさどっている。まず、感情であるが、感情ほど、我々人間の意志の支配が及ばないものは無い。それどころか、我々人間は、感情に支配され、動かされているのである。例えば、怒りの感情が、他の人に危害を与えるように、我々を仕向けるのである。相手に面と向かって悪口を言ったり、殴りかかったりして、後で深く悔いることになるのは、怒りの感情のせいである。しかし、感情は、喜びももたらす。満開の桜を見たり、富士山を見たり、雪景色を見たりして、感動するのは、感情の働きである。自然に対してだけでなく、オリンピックやワールドカップで、日本人チームや日本人選手が活躍しているのを見て感動するのも、感情の働きである。そして、日本人チームや日本人選手が敗北するのを見て悔しい思いをするのも、感情の働きである。しかし、喜びにずっと浸っていようと思っても、暫くすると消え、悔しい思いを忘れようとしても、なかなか消えない。それは、感情は、自分の意志によって、消えたり、生じたりするものではないからである。カラオケや酒によって、気分転換をはかるのも、感情は、意志によって生じるものではないことの現れである。カラオケや酒は、感情を変えたり、引き出すためのものであり、それ自体が感情を生み出すことはできない。だから、カラオケや酒によっても、時には、気分が変わらなかったり、落ち込んだりすることがあるのである。つぎに、思考であるが、多くの人は、感情と異なり、思考は自分の意志によって、為されていると考えている。しかし、そうではない。まず、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることを、誰しも、怒りに駆られての所作だとするが、怒りの感情だけでは、そのようなことは為されない。怒りとともに、悪口を言おうという思いが生じているから、悪口を言うのである。怒りとともに、殴ろうという思いが生じているから、殴り掛かるのである。悪口を言うことや殴り掛かることは、意志から生じたのではない。心の中で、怒りの感情とともに、そのようにしようという思いが生じたのである。それは、意志が及ばない範囲に存在する、深層心理(無意識ともいう)によって、引き起こされたのである。深層心理が、感情と思考を生み出しているのである。我々ができることは、悪口を言いたいという思いを、自らの意志によって、悪口を言わないようにすること、殴りかかりたいという思いを、自らの意志によって、殴りかからないようにすることだけである。しかし、深層心理が強ければ、意志の抑圧は効かず、悪口を言ったり、殴りかかってしまうのである。それでは、どうして、意志は生じるのだろうか。それは、悪口を言ったり、殴りかかってしまう後のことを考えるからである。相手に面と向かって悪口を言えば、相手に復讐され、周囲の人に軽蔑されることを考えるからである。相手に殴り掛かれば、相手から殴り返され、周囲の人に軽蔑され、時には、逮捕されることが考えられるからである。それが、悪口を言うことや殴り掛かることを止めさせる意志を生じさせるのである。これが表層心理である。表層心理とは現実思考なのである。つまり、人間の心理とは、常に、まず、深層心理が感情と思考を生み出すのであるが、そのすぐ後に、表層真理が、その思考通りに行動したらどのようなことになるかという思考を働らかせるのである。これは意志ではない。意志無くして、誰しも、人間の心理は自然とそのように動くのである。人間は、そのように作られているのである。人間は、表層心理が、深層心理の言うままに行動しても、何の問題も無いという風に判断すれば、深層心理の言う通りに行動する。しかし、深層心理のままに行動したら、その後、自分にとって不利益な状態に陥ると判断すれば、その行動を抑圧する。しかし、表層心理が、不利益だとわかっていても、深層心理が強過ぎると、表層心理はそれを制止できず、そのまま行動してしまうことがある。それが犯罪である。だから、犯罪者の多くは、それが犯罪だとわかっているが、深層心理が強過ぎたために、自らを律することができなかったのである。ストーカーと言われる人も、表層心理では、自分が行っていることはやってはいけないことだとわかっているが、別れの悲しみが強すぎる深層心理が付きまとうことを命じ、そのまま行ってしまうのである。それでは、冷静な思考は、どうであろうか。誰しも、冷静な思考だけは、自分の意志によって、行われているのだと思いがちである。しかし、そうではない。冷静であろうと、思考は、全て、言葉が繋がった文によって編み出されるものだからである。人間、誰しも、自分の意志で、言葉によって構成されたもの、つまり、文章を作ることはできない。文章は、精神によって、編み出されてくるのであり、そこには、意志の力添えはない。文は、作るのではなく、作られるものなのである。文は、意志が作るのではなく、意志が介在しない、深層心理によって作られるのである。文は、外部に対する反応である。外部というのは、周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章だけでなく、自分の言葉、自分の体内の状態もそうである。つまり、反応できるものには、全て、言葉や文が生まれてくるのである。それでは、思考とは、何に反応して、形成されるのだろうか。それは、自分自身の言葉や文や文章によってである。もちろん、最初に生まれて来た言葉や文や文章は、自分の言葉や文や文章ではない。周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章、自分の体内の状態などである。最も多いのは、他の人の文章である。著書である。他の人の著書を読み、それに反応して、ある思いが生じ、それが言葉や文になって、心に浮かんだり、発せられたりする。そして、その言葉や文を聞き、それに反応して、また、次の言葉や文が浮かんでくるのである。そうして、文が綴られていくのである。これらの一連の文章作成は、意志によって行われるのではなく、無意識において、つまり、深層心理において、為されるのである。つまり、文が構成されたものである限り、思考と言えども。我々の意志ではなく、深層心理によって、為されるのである。このように、我々人間の肉体も精神も、無意志によって、動いているのである。それ故に、私たちは、生きているのではなく、生かされていると言えるのである。

サッカーの日韓戦について(自己と自我(その1))

2016-02-08 13:26:19 | 思想
1月30日㈯の深夜、カタールのドーハで、サッカーU23アジア選手権の決勝が行われ、日本チームが韓国チームに勝利した。2点を先行され、試合の残り時間約20分間で、3点を得点しての逆転勝利であった。劇的な勝利であったために、日本人選手は狂喜乱舞し、誰彼と構わず抱き合っていた。韓国チームが、試合開始から有利に展開し、残り時間から考えて勝利が確信できる得点差であったために、試合終了を告げるホィッスルが鳴ると、韓国人選手は失望落胆し、その場に倒れこみ、暫く動けない者もいた。1993年10月28日、このドーハで、日本チームはイラクチームと戦い、アデッショナルタイムで同点にされ、翌年のアメリカワールドカップを逃した。勝利していれば、初めてのワールドカップ参加であった。同点にされた時の中山選手の嘆きぶりは忘れることができない。これが日本サッカー界で有名なドーハの悲劇である。そのために、今回の勝利をドーハの歓喜と呼ぶ人がいる。日韓戦の勝利は、選手はもちろんのことであるが、監督、コーチなどのチームに直接に関わった人たちだけでなく、日本人全体に喜びをもたらした。それとは逆に、日韓戦の敗北は、韓国人全体に悲しみを与えたことは、想像に難くない。それは、23年前、同じドーハで、日本チームがイラクチームと戦い、アデッショナルタイムで同点にされ、初めてのアメリカワールドカップを逃した悲しみに匹敵する。確かに、韓国チームは、日本チームが敗北したが、今年のブラジルのオリンピックには参加できる。名誉挽回の機会がある。一応の慰めにはなるだろう。しかし、それだけでは、癒しきれない落胆を感じたはずである。なぜならば、日本に負けたからである。日韓戦においては、韓国人の思いは特別である。韓国チームの選手たちは、試合前日のインタビューでも、「日本に対戦する時には、120パーセントの力が出る。」、「日本に勝って、(従軍)慰安婦だったおばあちゃんたちに喜んでもらう。」などと答えている。韓国チームの監督も、「日本チームは、韓国チームの自動販売機である(韓国チームに自動的に勝利をもたらすことになっている。」、「歴史がある限り、韓国と日本の戦いは続く。」と答えている。自信満々な思いを超えて、日本人にとって失礼にさえ当たる言い方をしている。これまでの日韓戦においても、韓国チームの応援席に、「独島(竹島)は韓国の領土である」という垂れ幕が掲げられていたり、ゴールした韓国人選手が猿まねをして、日本人を揶揄したりすることがあった。滑稽なことに、彼は猿まねをしなくても、私が見たどの韓国人(韓国人)、どの日本人より、そのままの顔で最も猿に似ているように感じた。因果応報と言うべきだろうか。ヨーロッパでプレーしている選手だから、その国で、そのように差別されていたのだろうか。もちろん、いずれも、アジアサッカー連盟やFIFA(国際サッカー連盟)から注意を受けている。なぜ、韓国人がこれほどまでに日本人を憎悪するのであろうか。それは、日本が、長年の間、韓国(朝鮮)を属国として扱い、そして、支配してきていたからである。日本は、1910年8月22日調印の韓国併合条約(日韓併合)から、太平洋戦争に敗北し、1945年9月2日に無条件降伏文書に調印するまで、35年もの長い間、韓国(朝鮮)を支配していた。しかし、実際には、日本は、1876年に、朝鮮に日朝修好条規を締結させてから、1945年に、太平洋戦争に敗れるまで、67年間、韓国(朝鮮)に直接的に干渉し、そして、占領し続けてきたのである。1875年9月20日、朝鮮の江華島付近で、日本の軍艦が砲撃された。江華島事件である。これは、日本が朝鮮の鎖国をやめさせようとして、挑発したのである。しかし。日本は、朝鮮側から不当な襲撃があったとして、その責任を問い、武力的威圧のもとに、朝鮮に、1876年9月27日、日朝修好条規という日本優位の不平等条約に調印させた。この条約には、清国と朝鮮の宗属関係の否定、釜山・元山・仁川の開港、日本側の領事裁判権などが規定されていた。また、付属貿易協定で、日本は無関税特権を獲得した。明治政府は、欧米列強に倣うやり方で、朝鮮政府に迫り、鎖国政策をやめさせたのである。日朝修好条規は、日本の中国大陸進出の第一歩になった。日本の韓国(朝鮮)政策の象徴的な出来事が、1895年10月8日の閔妃暗殺事件である。李氏朝鮮の国王高宗の妃であった閔妃が殺害され、その遺体が焼き払われたのである。事情は次のようなことであった。日清戦争後の三国干渉を契機に、日本の内政干渉を嫌った、李氏朝鮮の閔氏政権がロシアに接近して、排日政策を執り始めた。これに危機感を抱いた、日本公使の三浦悟楼の指揮により、日本軍人・浪士らは、反日派の中心人物と目されていた閔妃を、10月8日の未明に、王宮内で殺害し、その遺体を焼いたのである。明治政府は、事件に関わった三浦悟楼以下48名を本国に召還し、裁判を行ったが、翌年1月、全員を免訴釈放した。この事件は、端的に、日本人の韓国人(朝鮮人)に対する気持ちを表している。日本人は、韓国人(朝鮮人)に対して、植民地意識、侮蔑意識を持っていたのである。しはし、それは、太平洋戦争で日本が敗北しても、消えることは無かった。戦後においても、それは多くの日本人の心に残存していた。陰では、中国人をチャンコロ、韓国人(朝鮮人)をチャンコロと侮蔑的に呼んでいた。また、現在もそれが残っていることは、「在日は日本から出て行け。」、「在日は死ね。」、「在日を殺せ。」などのヘイトスピーチを繰り返して街頭行進をする集団が存在することを見ればわかるだろう。在日韓国人や在日朝鮮人に対して侮蔑意識が無ければ、このようなことができるはずがない。歴史を知らないというだけでは済まされない問題である。当然ごとく、国連は、ヘイトスピーチを人権問題化し、日本政府に取り締まるように勧告している。しかし、安倍自民党内閣は、表現の自由を理由にして、耳を貸そうとしない。その自民党の憲法改正草案は、国民の表現の自由を徹底的に制限しているのだから、笑止千万である。頭隠して尻隠さずである。言うまでもなく、安倍晋三はもちろんのこと、自民党の国会議員もヘイトスピーチをする集団と同じような考え方をしているから、ヘイトスピーチを取り締まらないのである。もちろん、ヘイトスピーチをする集団も、安倍内閣、自民党を支持している。安倍内閣が誕生したから、ヘイトスピーチをする集団が現れたのである。ヘイトスピーチをする集団は、在日特権を許さない会と称しているが、もしも、在日韓国人や在日朝鮮人に特権があったとしても、それを決めたのは歴代の自民党内閣である。批判の矛先が間違っているのである。自民党の国会議員やヘイトスピーチをする集団以外にも、明治以来の戦前の日本の韓国(朝鮮)政策を支持する日本人はかなり存在する。日本が併合したから、韓国(朝鮮)はインフラが整備され、農業収穫が増加し、現代に残る大学も創設されたりなどして、国が豊かになったのだと言う。確かに、そういう面はある。しかし、自主権を奪われて、国が豊かになったと言われても、それは、韓国人(朝鮮人)の人間性を侮辱するのものでしかないだろう。また、日本が併合していなくても、ロシアが占領していただろうと言う人もいる。確かに、日露戦争は、朝鮮及び満州の支配権をめぐる対立から発展した軍事衝突であった。日本が勝利したから、韓国(朝鮮)を併合しただけだと言う。しかし、日本とロシアの韓国(朝鮮)の支配権をめぐっての対立は、韓国(朝鮮)にとっては、はた迷惑なだけである。そして、韓国併合の時期は、世界的に帝国主義の時代で、植民地にするか植民地にされるかの二者択一の生き方しかなく。日本は欧米に倣って後者を選んだのである。悪いのは、帝国主義の時代を作った欧米である。日本も、アメリカによって、鎖国を破られ、日米和親条約、日米修好通商条約によって、主要港を開港し、治外法権を認め、片務的関税協定を結ばせられた。そして、同じような内容の条約を、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ばせられた。だから、日本は、欧米の模倣をしただけであると言う。確かに、日本は、欧米に対しては、堂々と論陣を張ることができる。しかし、韓国(朝鮮)に対しては言い訳できない。心から謝罪し、賠償するしかない。韓国人(朝鮮人)にとっては、今もって、長年、日本に支配されていたという歴史的事実は悔しい出来事なのである。また、韓国併合という言葉自体がまやかしの言葉であり、実際は、日本の軍事力によってのものだから、韓国支配、韓国占領、韓国征服などと言うべきなのである。琉球処分という言葉もそうである。明治政府の、1872年から1879にかけて、琉球王国を解体し、日本国家に強制的に組み込んでいく過程は、琉球処分と呼ばれているが、軍事力を持って無理やり成し遂げたことであるから、琉球支配、琉球占領、琉球征服などと呼ぶべきなのである。終戦という言葉もそうである。太平洋戦争は、自然と終ったのではない。日本が、1941年12月8日、自ら、アメリカ、イギリスを中心とする連合国に戦いを挑み、悲惨な目に遭い、1945年9月2日、無条件降伏文書に調印して、攻撃をやめてもらったのである。戦いを挑んで負けたのである。だから、終戦ではなく、敗戦と呼ぶべきなのである。天皇が玉音放送(国民に敗戦を認める放送)を流した8月15日を終戦記念日とするのではなく、惨めにも、東京湾に停泊するミズーリ号で無条件降伏文書に調印した9月2日を敗戦の日とするべきなのである。韓国併合、琉球処分、終戦という言葉は、日本人が、歴史にまともに向かわず、罪の意識や心の傷から逃れようとしていることの現れである。だからこそ、韓国人は、サッカーの日韓戦に韓国人が燃えるのである。サッカーの日韓戦に勝利することによって、日本の韓国支配の屈辱を晴そうとしているのである。言わば、サッカーの日韓戦は、代理戦争なのである。もちろん、野球の日韓戦にも、韓国人は燃えるであろう。しかし、サッカーほどは心は高ぶらない。なぜならば、野球は、世界的に見て、マイナーなスポーツだからである。サッカーは、世界で最も人気のあるスポーツだから、世界中の人に、韓国が日本に勝ったことを示したいのである。韓国人の愛国心の故である。1965年6月22日、日韓基本条約が締結され、韓国の対日賠償請求権は放棄される代わりに、無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力協定が結ばれた。日本人の多くは、これで、韓国に対する償いは済んだと考えている。確かに、この5億ドルによって、韓国の経済は復興した。しかし、それで、韓国人の愛国心が癒されたわけではない。日本人が戦前の韓国(朝鮮)支配を真摯に反省している姿勢を見せ続けない限り、愛国心が癒されることはない。特に、日本の政治指導者に、反省の姿勢を見せてほしいのである。なぜならば、政治指導者こそ国民の代表だからである。しかし、戦後の日本のほとんどの政治指導者には、その姿勢は見られない。なぜならば、彼らは自民党の国会議員だからである。なぜ、多くの自民党の国会議員には、反省の心が無いのであろうか。それには、二つの大きな理由がある。一つは、彼らは戦前の政治家の精神に繋がろうとしていることである。だから、戦前の日本人の行いを無下に否定できないのである。それは、自民党の憲法改正草案が、大日本帝国憲法と似通っているのを見てもわかることである。自民党の憲法改正草案と大日本帝国憲法が異なるのは、総理大臣が軍隊(自衛隊)を統率するだけである。天皇の地位は、大日本帝国憲法では主権を有していて、自民党の憲法草案では元首となっているから、二つの考えは異なっていると言う人がいるが、基本的な働きは同じである。大日本帝国憲法においても、美濃部達吉が天皇機関説で言うように、国家に統治権の主体があり、天皇は国家の一機関であったのである。もう一つは、彼らの血が、戦前の政治家と繋がっていることである。彼らの多くは、戦前の政治家と血縁関係にあるのである。その典型的な例が安倍晋三である。言うまでもなく、彼は岸信介の孫である。岸信介は、戦後に総理大臣になったが、太平洋戦争を起こした東条英機内閣の商工大臣である。安倍晋三は、祖父の衣鉢を継いだのである。だから、自民党の政治が続く限り、韓国人の愛国心は燃え続けるのである。韓国人が、従軍慰安婦を国際問題化するのも、日本の政治指導者に、戦前の日本の韓国支配に対する真摯な反省の姿勢が見られないからである。しかし、日本の政治指導者に真摯な反省の姿勢が見られないのは、当然である。反省していないからである。反省していないのだから、真摯な反省の姿勢が見せられるはずがないのである。時には、反省の姿勢を見せることはあるが、それは政略的なものであり、心からのものでは決してない。だから、失言で、韓国人、朝鮮人、中国人の心を傷つける言葉を発する自民党議員は枚挙に暇がないのである。もちろん、後に、謝罪することになるが、この謝罪も心からのものでないことは言うまでもない。失言こそ、彼らの本心である。それでは、なぜ、戦前志向の自民党を、多くの国民が支持するのだろうか。それも、また、愛国心の故である。国民の多くも、また、現在の日本の政治指導者が、戦前、日本が韓国(朝鮮)に行ったことに対して、真摯な反省の姿勢をみせること、つまり、心から謝罪することは、自らの愛国心を傷つけることになるから、政治指導者にしてほしくないのである。多くの国民にとって、自民党の国会議員と同様に、日韓基本条約の5億ドルで、戦前の贖罪は終わったのである。また、自民党が国民の支持を受けるもう一つの理由として、自民党の政治指導者の方が、野党指導者より、リーダーシップを発揮して、日本を力強く運営できるように見え、愛国心を満足させてもらえる可能性が高いことが挙げられる。たとえ、その力強さは、アメリカ頼みであったとしても。アメリカに追随して、戦前のように、中国、韓国、北朝鮮に対峙できるような。国際的に高い地位を確保して、愛国心を満足させようと考えているのである。ところが、アメリカの政治指導者は、冷戦時代のソ連・中国と対峙していた頃の考え方をいていないのである。ソ連は崩壊してロシアになり、中国は、今や、アメリカの最大の国債購入国・貿易国となり、アメリカにとって、日本は、アジアにおける共産主義からの防波堤の国から、収奪の国に変わってしまったのである。日本の政治家や官僚は、それに気付かず、いや、気付くのが怖いから気付こうとせず、これまでのように媚びを売って軍隊を置かせるだけでなく、これからは、兵隊まで差し出そうとしている。ところが、アメリカは、これからは、日本から徹底的に経済的に収奪しようと考えているのである。それは、アメリカ大統領の立候補者の演説から見ても、はっきりわかることである。しかも、日本に対して強く出ると主張している候補者が、国民から大きな支持を受けているのである。アメリカが豹変したのではない。世界が変わったのである。アメリカは、その世界の変化に合わせて変えようとしているのである。アメリカは、アメリカの国益を目指して動いているのである。アメリカ人の愛国心である。それを利己主義だと非難する国民は、自らの愛国心の利己主義性に気づいていないだけなのである。愛国心とは利己主義である。自らの国民性を第一に考える利己主義である。だから、愛国心の衝突によって戦争が起きるのである。戦争は愛国心という利己主義のぶつかり合いによって引き起こされるのである。現代の戦争のほとんどは、愛国心によって引き起こされると言っても、過言ではない。だから、戦争を起こさないようにするには、自国民の愛国心を抑制し、他国民の愛国心を刺激しないことが最も肝要なのである。愛国心を褒めたたえる人が多いが、それは幼児の思考をした大人である。愛国心と利己主義を対照的なものだと考える人も多いが、愛国心は利己主義の一つである。さて、人間とは、自我の動物である。人間とは、自らのステータス(社会的な位置)に囚われた動物である。あるステータスに打ち付けられた自己のあり方が自我である。自己判断という言葉があるが、実際は、自我による判断なのである。どこに行っても、何らかのステータスを得て、そのステータスに従って行動している。逆に、ある所へ行って、そこに自分にステータスがないならば、どうして良いかわからず、そこを去るしかない。別名、役柄存在である。そして、自らのステータスに応じて行動し、その行動の仕方が褒められると、心の底から喜びを感じるので、それが認められるように行動する。そのステータスの一つが日本人である。だから、ある人は、会社へ行けば課長というステータスを身に引き受けて、課長が自我になり、家に帰れば父というステータスを身に引き受けて、父が自我になり、尖閣諸島問題が起これば日本人というステータスを身に引き受けて、日本人が自我になるのである。そして、課長というステータスを身に引き受ければ、愛社精神が湧き、父というステータスを身に引き受ければ、家族を愛する心が湧き、日本人というステータスを身に引き受ければ、愛国心が湧くのである。なぜ、愛社精神があるのか。それは、その会社が課長というステータスとともに生きる場所を保証しているからである。なぜ、家族を愛する心があるのか。それは、その家族が父というステータスとともに生きる場所を保証しているからである。なぜ、愛国心があるのか。それは、日本という国が日本人というステータスとともに生きる場所を保証しているからである。会社あっての自分、家族あっての自分、日本あっての自分だからである。それ故に、会社に尽くし、家族に尽くし、日本に尽くすのである。そうすると、会社の人々から評価され、家族に感謝され、日本人から褒めたたえられ、生きがいが感じられるのである。もちろん、それは、その会社の中にだけ、その家族の中にだけ、日本の国内だけに通用するものでしかない。その構造体の中にだけ通用するものでしかない。だから、伊藤博文を暗殺した安重根は、韓国では英雄だが、日本ではテロリストにしか過ぎないのである。人間は、いついかなる時でも、ある特定の構造体の中で、ある特定のステータスを得て、それを自己として引き受け、その構造体に認められるように生きているのである。そこに、普遍的な自己は存在しない。個別的な自己しか存在しない。その個別的な自己のあり方が自我なのである。だから、誰しも、自分の所属する構造体の数だけ自我の数が存在する。誰しも、自分が得たステータスの数だけ自我の数が存在する。もちろん、自分の所属する構造体の数と自分が得たステータスの数は同数である。人間、誰しも、常に、自我としてしか生きられないのであるが、自我として生きるとは、次のようなことである。ある人はX会社という構造体の中で、課長というステータスを得て、自分を課長として生き、会社の中の人間に認めてもらおうと働いている。その人は帰宅すると、Y家という構造体の中で、父というステータスを得て、自分を父として家族に接し、家族に認めてもらおうと生きている。その人は、日本という構造体の中で、サッカーの日本代表選手というステータスを得て、日本人から賞賛を受けようと日韓戦を戦う。それは、韓国選手も同様である。韓国という構造体の中で、サッカーの韓国代表選手というステータスを得て、韓国人から賞賛を受けようと日韓戦を戦うのである。ただ、それだけのことなのである。そこに生きている自分とは、自己ではなく、自我なのである。しかし、この自我の力が非常に強いのである。自我は、深層心理となり(無意識のうちに)、人間を動かすのである。いじめっ子の母親が、謝罪しないばかりか、いじめの原因を、いじめられている子やその家庭に帰すのは、母親という自我の為せる業である。ストーカーが、失恋した相手にその後も付きまとうのは、失恋者の自我が為せる業である。日本人が、サッカーの日韓戦の勝利を喜ぶのは、日本人という自我が為せる業である。韓国人が、サッカーの日韓戦の敗北を悲しむのは、韓国人という自我が為せる業である。そこに、自己判断は存在しない。自己判断ができるのは、自分に、関わりの無いことに対してだけである。しかし、我々は、日々、自分に関わりのあることを扱って暮らしている。それが、自我として生きているということなのである。だから、そこでの判断は、自我判断である。自分のステータスに有利な、偏った、自我判断なのである。そこに、大きな落とし穴がある。個人間の争いも、国家間の争いも、自分のステータスに有利な、偏った、自我判断から起こるのである。もちろん、この自我判断は、冷静な思考からもたらせるものではなく、深層心理が、怒りや苦しみの感情を伴って、心の奥底から、突き上げるのである。それが、自我判断の初発の動きである。それ故に、自我とは、それに囚われたままの人間とそれに対した人間に、つまり、人間界全体に、悲劇や惨劇をもたらす可能性が大きいのである。

左翼の自虐史観と右翼の自慰史観(自我の欲望(その6))

2016-02-02 12:51:38 | 思想
右翼と左翼は、その政治思想ばかりでなく、歴史観も異なっている。それが顕著なのが、近代史に対する見方である。右翼は、韓国併合は、インフラ整備も為され、併合以前よりも国は豊かになり、韓国民にとっても良かったと主張する。左翼は、韓国併合は、創氏改名をさせ、韓国の自治を侵し、韓国民を侮辱することになったから、容認できないと主張する。右翼は、太平洋戦争(右翼は、大東亜戦争と表現する)は、アメリカから仕掛けられてやむを得なく起こした戦争であり、日本の兵士はよく戦ったと主張する。左翼は、太平洋戦争は、中国大陸への侵略行為の連続であり、勝ち目のない戦争なのに日本を神国だとする驕りから引き起こされ、挙句の果てに、アジアの人々に対して残虐な行為を繰り返し、最悪の戦争だったと主張する。右翼は、南京大虐殺は、大虐殺と呼ばれるようなものではなく、戦争中によくある出来事であり、原因は、中国兵が一般市民を装って逃げようとしたことだと主張する。左翼は、南京大虐殺は、戦争中のこととは言え、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜及び一般市民を大量虐殺し、放火・略奪・強姦などの非行を加えたことは、到底許すことはできないと主張する。右翼は、特攻は、自ら志願して、国のために命を捧げたのであり、その行為は称賛に値し、戦後の日本の繁栄は特攻隊員のおかげだと主張する。左翼は、特攻は、志願しているように見せかけられているが、実際は、強制されたり、そうせざるを得ないような状況に置かれたりしたのであり、特攻隊員の苦悩を偲ぶにはあまりあると同情し、彼らが生き残っていたならばもっと日本は平和で豊かな国になっていただろうと主張する。このように、両者の主張の隔たりは大きい。当然、激論になる。右翼は、左翼は自国民に対して冷淡過ぎると批判する。その原因は愛国心の欠如にあるとする。右翼は、左翼は愛国心が欠落しているから、日本人や日本人の行為を批判できるのだと批判する。そして、右翼の中には、左翼を、非国民、売国奴のように、戦争中の呼び方をしたり、反日と呼んだりする人がいる。しかし、左翼にも愛国心はある。愛国心の有しない国民は存在しない。また、右翼は、左翼の歴史観を自虐的だと批判する。自虐の対意語は存在しないが、あえて、作成すれば、「虐他」ということになるだろう。他人を責めることを意味することになる。つまり、右翼は、左翼に対して、もっと自国や自国民を評価し、もっと他国や他国民を責めるべきだと言っているのである。それに対して、左翼は、右翼の歴史観を自慰的だと批判する。自慰とは、自分で自分を慰めることを意味する。自虐の対意語も存在しないが、あえて、作成すれば、「慰他」ということになるだろう。他人を慰めることを意味する。つまり、左翼は、右翼に対して、もっと自国や自国民に対して厳しく見、もっと他国や他国民に対して理解を示すべきだと批判しているのである。それでは、どうして、このように、右翼の歴史観と左翼の歴史観に大きな隔たりがあるのか。それは、愛国心の有無であろうか。右翼はそのように考えている。だから、右翼は、左翼的な考えをする人を売国奴、非国民、反日と呼ぶのである。しかし、左翼も、また、ある特定の国に所属し、一国民となっているから、愛国心を有していないはずがない。それでは、右翼左翼の違いは、愛国心の多寡、深浅だろうか。右翼には愛国心が多く、深い人がなり、左翼には愛国心が少なく、浅い人がなるのだろうか。確かに、「俺は国のためなら何でもできる。死ぬことさえできる。」と主張する男性の多くは右翼であり、「私は日本が好きなだけ。」とヘイトスピーチを繰り返す女性は右翼である。愛国心を声高に主張する彼らには、愛国心の多さ、深さにおいては、他の日本人に決して劣ることはないという自負心があるだろう。しかし、愛国心の多寡、深浅を測ることができるのだろうか。また、本当に、右翼の言動は、愛国心の多さ、深さを表していることになるのだろうか。そして、右翼の言動には、日本及び日本人だけではなく、他国及び他国の人々、さらには、世界及び世界の人々に対する、現在から将来へのあり方への展望があるのだろうか。そこには、普遍的な人間性への視点は存在するのだろうか。左翼は、右翼と異なり、人間性を重要視し、日本及び日本人だけではなく、他国及び他国の人々、さらには、世界及び世界の人々に対する、現在から将来へのあり方への展望を有している。だから、左翼は、右翼のみならず、現在の日本の保守政権を批判するのである。しかし、現在の日本において、左翼は右翼の勢いに圧倒されがちである。しかし、これは、現在のみならず、明治時代以降、いつも見られた光景なのである。また、それは、当然のことなのである。右翼の原動力は、理性から来る思想ではなく、愛国心という観念、わかりやすく言えば感情だからである。感情に囚われた人間は、一方向に、脇目も振らずに、後先構わず、激しく動き、他を寄せ付けない怖さを持っている。だから、思想を基にして行動している左翼は、右翼に圧倒されているように見えるのである。さらに、「日本のためなら戦って死んでも良い。在日は日本にいてはいけない。反日は日本人ではない。」という愛国心に囚われた自我を持っているいう右翼に至っては、死という言葉さえ持ち出しているから、それに対抗するには相当の覚悟が必要である。死を覚悟してまでも自分の思想を吐露できるような、真の左翼でない限り、それに抗することはできないだろう。言い換えれば、自らの構築した思想を自我として有している左翼しか右翼に抗することはできないのである。つまり、現代日本において、左翼が右翼に圧倒されているように見えるのは、右翼に抗する発言をする、覚悟ある、真の左翼が少ないということを意味しているのである。さて、このように、愛国心に囚われ、愛国心を増長させた右翼と、愛国心を抱きつつそれに反省を加えている左翼は、根本的に異なったあり方をしているから、その方向性も違ってくるのは当然のことである。それが、過去の日本や過去の日本人に対する思いにも表れるのである。右翼には、過去の日本や過去の日本人のあり方を肯定し、そのまま繋がろうという思いがあり、左翼には、過去の日本や日本人のあり方を時には否定し、批判的に継承し、新しく創造しようという思いがある。そのために、同じ歴史的な事件に対しても、その評価に、大きな差異が出てくるのである。同じ日本人であり、同じ日本に愛国心を持っているが、それに囚われることを良しとする思いとそれを超えていこうとする思いの違いが、日本に対しても異なった考えを抱かせるのである。それでは、どちらのあり方が日本人として正しいのか。このような問いかけをすると、右翼の方に肩入れする人が多くなるだろう。愛国心を謳っているのが右翼であり、日本人は、皆、愛国心を持っているからである。だから、左翼はこのような問いかけ方はしない。自らに不利だからである。それでは、どちらのあり方が人間として正しいか。このような問いかけをすると、左翼の方に肩入れする人が多くなるだろう。なぜならば、左翼は、日本人を飛び越えて、他国の人々、延いては、世界中の人々のことを慮って、発言しているからである。だから、右翼はこのような問いかけ方はしない。自らに不利だからである。このような面においても、愛国心に囚われた右翼の日本人を重んじたあり方と世界中の人々の心に向かっている左翼の人間一般を重んじたあり方の違いが鮮明に現れてくるのである。ところで、言うまでもなく、愛国心は、愛郷心、恋愛、母性愛などとともに、愛の一つである。一般的には、愛は推賞される。愛は、慈しみ合う心、思いやり、かわいがること、大切にする心などを意味するからである。しかし、仏教では、愛は、煩悩として忌避される。なぜならば、人間は、愛に囚われると、苦悩し、自分を失った行動、人間性を失った行動を取ってしまうからである。愛郷心は、地元の都道府県のチームを応援することなどに現れる。高校野球の甲子園大会、高校サッカーの選手権大会、高校バレーの春高バレーなどの応援を見ればわかる。なぜ、そのチームを応援するのか。言うまでもなく、自分の出身地のチーム、もしくは、自分が住んでいる所のチームだからである。ただ、それだけの理由である。愛郷心とはそういうことである。お国自慢も、また、愛郷心の現れである。青森県民がリンゴの生産量を誇るのも、山形県民がサクランボの生産量を誇るのも、栃木県民と茨城県民が認知度を争うのも、静岡県民と山梨県民が富士山の所属を争うのも、全て、お国自慢をしたいがためである。しかし、愛郷心は地元の高校チームを応援する、お国自慢をするなどのほほえましい現象として現れているうちは良いが、それが、暴力沙汰になると笑っていられなくなる。かつて、北陸の隣県同士の暴走族が、県境で、隣の県の自動車がこちらの県に入って来ないようにするために、その運転手に暴力を振るったことがある。これは歪んだ愛郷心であるが、これもまた、愛郷心である。愛国心もそうである。自国のサッカーチームや野球チームやバレーチームを手に汗を握って応援している様子は、ほほえましい現象である。しかし、領土を巡ってや覇権のために戦争を行うのは愚の骨頂である。しかし、これもまた、愛国心がもたらす業なのである。さて、恋愛は、誰しも、憧れるものである。相思相愛になると、生きている喜びに満たされ、明日への希望が湧いてくる。相手のために何でもしてあげようという気持ちになっている。しかし、ストーカーも、また、恋愛感情が為せる業なのである。恋愛状態に陥っていた者が、相手から別れを告げられても、どうしても、相手を忘れられなくて、付きまとってしまう時、ストーカーだと言われる。誰しも、別れを告げられると、すぐには、失恋を認めることができず、ストーカー的な心情に陥る。しかし、ほとんどの失恋者は、何かによってその気持ちから徐々に逃れていき、ストーカーにならない。しかし、ほんの一部ではあるが、失恋の苦しみから逃れることができず、相手に付きまとってしまい、ストーカーだと言われるのである。だから、誰しも、失恋すると、ストーカーになる可能性があるのである。それ故に、ストーカーは、精神に異常がある人でも、変態でもない。自分の気持ちの切り替えに失敗した人がなるのである。恋愛に溺れた者の悲劇である。それは、愛国心に溺れた者の悲劇が国家間の戦争であり、愛郷心に溺れた者の悲劇が他県の者への暴力であるのと同様である。さて、母性愛は、言うまでもなく、母親が自分の子供に対して抱く愛情を意味する。子供のためならばわが身を犠牲にすることを厭わないほどの、母親の我が子の対する強い愛情を意味している。それは、「女は弱し、されど、母は強し。」という言葉があるように、一般的に推賞されている。しかし、いじめっ子をかばう母親の気持ちも、また、母性愛の現れなのである。いじめられていた子が自殺して、いじめっ子が特定されても、その母親のほとんどは、我が子の非を認めようとしない。自殺の原因をいじめられていた子の性格やその家庭環境に求める。いじめられていた子の苦悩やその家族の悲しみを推し量ろうとはしない。いじめられて自殺した子の母親の気持ちさえ推し量ろうとしない。むしろ、対抗意識を燃やしそうする。いじめっ子の母親にとって、我が子だけがかわいいからである。我が子が非難されるのが耐えられないからである。それは、自分が責められているように感じられるからである。つまり、母性愛とは自分の身を犠牲にしても我が子を守ろうという感情であるとともに、我が子に非があっても、盲目的に我が子をかばおうとする感情なのである。母性愛を褒めたたえる人は多い。しかし、非難すべき点があることを見逃してはならないのである。それは、愛国心、愛郷心、恋愛と同様である。つまり、愛国心、愛郷心、恋愛、母性愛には、常に、悲劇的要素をはらんでいるのである。この四つの愛ばかりでなく、愛とは、例外なく、悲劇的要素をはらんでいるのである。なぜならば、それは、仏教が説くように、愛に囚われると、自分を見失い、人間性を見失ってしまうからである。その中にあって、最も大きな悲劇をもたらすのが愛国心である。なぜならば、愛国心に囚われた人間は、戦争すらもためらわないからである。愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちが、自分たち以外の大勢の者を、つまり、大勢の他者を、国民という形で巻き込んで、国家間の戦争を始めるのである。国家間の戦争が始まると、国民は例外なく、戦争に参加させられるのである。愛国心に囚われていない者には、それは、大いなる悲劇である。しかし、愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちにとって、むしろ、それが狙いなのである。戦争ほど、国が一つにまとまること、国民が一つの方向性にあることはないからである。彼らは、日本は、戦争が始まれば、戦争に行かないという意見や戦争に反対する意見を吐く人がほとんどいなくなり、たとえ、いたとしても、非国民などと罵倒して存在性を失わせることができ、簡単に法律を成立させて逮捕できる国だと知っているからである。明治時代以降、日本国民は、皆、愛国心を抱くようになった。それは、明治時代以降、日本人は、日本という国が国際競争にさらされているということを意識するようになったからである。だから、日本国民は、皆、日本人という自我を持つようになったのである。だから、日本国民は、皆、日本に対して愛国心を持ち、日本人という自我を持っているのである。それ故に、日本人は、皆、日本という国の誉れとなることに対して感動し、恥となることには心が傷つくのである。それは、愛国心を抱きつつも愛国心に囚われるまでに至っていない日本人も、愛国心に囚われている日本人も、同様である。日本人は、皆、オリンピックやワールドカップやノーベル賞受賞などの日本人選手や日本チームや日本人の活躍に感動し、オリンピックやワールドカップなどで日本人選手や日本チームが敗れると心が傷つくのである。しかし、愛国心に囚われている人は、国が誉れを得ることにとどまらず、国が一つにまとまること、国民が一つの方向性にあることを望む。だから、愛国心に囚われた権力者やそれを支持する者たちは、戦前のように、天皇を元首として、国を一つにまとめ、マスコミまで圧迫して国民を一つの方向性に導こうとしているのである。この愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちが、右翼的な権力者であり右翼の人々なのである。それに反して、国民に主権があり、その国民に様々な意見があるのを当然だと考えている人々がいる。それが、左翼である。だから、左翼の人にとって、共産主義思想が、単純に、左翼の考えを意味しない。それが国家主義、全体主義に繋がれば右翼の思想である。だから、中国や北朝鮮の共産主義国家が左翼ではないことは言うまでもない。中国や北朝鮮は、右翼の国である。権力者が愛国心を前面に押し立て、国民の大半がそれに従っている国は右翼の国である。韓国は、共産主義国家ではないが、権力者が愛国心を前面に押し立て、国民の大半がそれに従っている国であるから、右翼の国である。日本の右翼は、中国、北朝鮮、韓国と敵対するように国民を煽るが、それは、これらの国は右翼の国だからである。同じ国に所属していなければ、右翼同士は敵対するのである。自分が所属している国が最も偉大な国だという意識があるからである。ナチスとは国家社会主義ドイツ労働者党の通称である。ここに、社会主義や労働者という名称が入っているが、左翼の集団ではない。ゲルマン民族の優位性、反個人を唱え、愛国心に訴えたファシズム政党であるナチスこそ、典型的な右翼の政党である。ナチスは、第二次世界大戦とともに、消滅した。しかし、その思想が、跡形も無く、消えたわけではない。現在も生き残っている。現在、ドイツでは、ナチズムとの連続性を持つ、ネオ・ナチズムという右翼勢力が存在する。ネオ・ナチの政党やグループを結成し、動きを活発化させている。右翼は、どこの国にも、いつの時代でも存在するのである。そこに愛国心があれば存在するのである。愛国心の有しない国民は存在しないから、国民である限り、右翼思想に傾く可能性があるのである。愛国心に大きく傾き、溺れ、ナチスと同じように自国民の優越を唱え、他国民を攻撃する可能性があるのである。愛国心に溺れ、国民という自我に操られると、他国民を攻撃することに厭いもためらいも無くなるのである。むしろ、それを目的化し、積極的に行うようになるのである。そこに喜びさえ感じられるようになるのである。国民という自我に操られた人間は、その自我を守るプライドのために、無反省に他を攻撃するのである。それは、県民という自我、恋人いう自我、母親という自我であっても同様である。愛郷心に溺れた県民がそのプライドのために隣県の自動車運転手を襲い、恋愛に溺れた恋人が失恋するとそのプライドのためにストーカーになり、母性愛に溺れた母親がそのプライドのためにいじめっ子の母親になると被害者の少年にいじめの原因があると主張するのである。そして、右翼とは、国民というプライドを守るために、他国民を攻撃することを厭わず、ためらわない集団なのである。右翼とは、愛国心に操られた集団なのである。だから、国民というものが存在する限り、そこに愛国心が常に存在するゆえに、誰しも、右翼に転化する可能性があるのである。そして、国民は、誰しも、愛国心を有しているから、右翼の考えや行動を支持しやすいのである。右翼は、国民の愛国心に訴えるからである。それゆえに、人類の普遍性を唱える左翼は、常に、政治権力の弾圧や右翼の暴力を受ける覚悟を持たなければ、その成立はない。また、往々にして、愛国心に訴える右翼に、国民の支持が集まり、孤立無援状態に陥りやすい。しかし、それらを恐れて、自らに考えを言わない左翼や行動しない左翼は、左翼ではない。右翼とは、愛国心に溺れて、日本人という自我を持ち、日本のためならば死んでも良いという死の覚悟を持って、日本のためという具体的な目標に向かって行動する者たちである。左翼とは、自らが確立した思想によって、自己という自我を持ち、権力者の弾圧・右翼の暴力・国民の非難を受ける覚悟を持って、人類の普遍性という抽象的な目標に向かって行動する者たちである。それ故に、右翼はと左翼は、相容れないのである。国民がどちらを選ぶか。それが、国の運命を決めるのである。