あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我から自己へ(大衆から単独者へ)。(自我その428)

2020-10-29 15:09:07 | 思想
一般に、大衆とは、世間一般の人々、民衆、庶民を意味する。しかし、世間一般の人々、民衆、庶民の全てが大衆ではない。また、エリートという国や組織の指導的地位にある階層の人々の全てが大衆ではないということでもない。むしろ、エリートと呼ばれている人の方が、世間一般の人々、民衆、庶民よりも大衆であることの可能性が高いのである。なぜならば、大衆とは、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて、権力者や多数派に与している人のことであるからである。日本の官僚は大衆の巣窟である。大衆は、権力者や多数派に寄りかかり、自らの意見を述べることによって現在の体制に異を唱えている少数派や単独者を激しく攻撃する。なぜ、大衆は、自分の意見を述べる人を攻撃するのか。それは、嫉妬心からである。その意見が間違っているからという理由ではない。その意見が自分の考えと異なっているからという理由でもない。大衆は、自分の意見を述べることが許せないのである。自分が我慢して意見を述べないのに、その人は自分を意見を述べているから、許せないのである。さらに、大衆は、その人が他者に対して話せる意見を持っていることが許せないのである。大衆は、自分は人に話せる意見を持っていないのに、その人は話せる意見を持っているから、許せないのである。「出る杭は打たれる」という現象と同じである。大衆は、自分は出ることができない杭であるから、どのような杭であっても、出る杭は何としても打つことを考えるのである。なぜ、大衆は、現在の体制に異を唱えている人を攻撃するのか。それも、また、その意見が間違っているからという理由でもなく、その意見が自分の考えと異なっているからという理由でもない。それは、現在の体制が変われば、現在の自分の立場を失う可能性があるからである。つまり、自我を守ろうとして、現在の体制に異を唱えている人を攻撃するのである。なぜ、大衆は、権力者や多数派に与するのか。それは、敗者になりたくなく、勝利者となりたいからである。権力者や多数派に与して、少数派や単独者を攻撃して、沈黙させれば、勝利者の一員として、喜びを分かち合えるからである。さて、人間は、大衆に育てられ、大衆の中で育つ。だから、自然に、大衆として生い育っていき、大衆のまま、一生を終える人がほとんどである。人間は、生まれて来たくて生まれてきたのではなく、気が付いた時にはこの世に誕生していたのであり、先天的には、主体性は身に付いていない。さらに、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、自然に、大衆として生い育ち、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて、権力者や多数派に与し、自らの意見を述べることによって現在の体制に異を唱えている少数派や単独者を激しく攻撃するようになるのは当然のことなのである。しかし、人間の中には、大衆から単独者へと超越することなしには、生きている価値は無いと考え、実行する人が存在する。大衆の特徴は、他者に認められたいと思いながら現在の立場に固執して、すなわち、他者の眼を気にして自我に固執して、権力者や多数派などの力の強い側に付くことにある。単独者の特徴は、無勢であっても、自分の立場が悪くなっても、すなわち、自我が危うくなっても、権力者や多数派などの力の強い者に対して、自分の意見を述べる時は述べることにある。つまり、人間の中には、自我の欲望に動かされることから自己の主体的な決断によって動くというように超越しなければ、生まれてきた意味は無いと考え、実行する人が存在するのである。すなわち、それは、自我から自己へと超越することによって、初めて、自分が生まれてきたことの意味が生まれてくると考え、実行する人である。しかし、それは容易ではない。なぜならば、人間は自我の欲望によって動かされている動物だからである。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持して活動している。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。自我とは、言わば、役割を果たし、役柄をこなすという役を演じている人間のあり方である。しかし、自我と役者が異なっている点は、自我はその役柄に成りきっているということである。だから、人間は、自我のために、泣き笑い、時には、自殺することもあるのである。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、夫婦、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、県、国などがある。夫婦という構造体では夫・妻という自我の人がいて、家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我の人がいて、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我の人がいて、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我の人がいて、銀行という構造体では支店長・行員・客などの自我の人がいて、店という構造体では店長・店員・客などの自我の人がいて、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我の人がいて、仲間という構造体では友人という自我の人がいて、夫婦という構造体では夫・妻の自我の人がいて、カップルという構造体では恋人という自我の人がいて、県という構造体では知事・県会議員・県民など自我の人がいて、国という構造体では総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我の人がいるのである。人間は、さまざまな構造体に所属し、さまざまな自我を所有して活動しているのである。だから、ある女性は、家族という構造体に所属している時は母という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は妻という自我を所有し、小学校という構造体に所属している時は教諭という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という国の構造体に所属している時は日本人という国民の自我を所有し、埼玉県という構造体に所属している時は県民という自我を所有し、教諭仲間という構造体に所属している時には友人という自我を所有して活動しているのである。だから、彼女に、「あなたは何。」と尋ねても、一定の答は返ってこないのである。時と場所によって、自我が異なるからである。構造体によって、異なった自我を所有しているからである。彼女の息子が母だと思っているのは当然だが、彼女は母だけでなく、妻、教諭、客、乗客、県民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子は母としか知らず、彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部の自我しか知ることができないのに、それが全体像だと思い込んでいるのである。だから、殺人事件が起こると、必ず、マスコミが犯罪者の真実の姿を追求し、会社、近所、親族、高校時代の仲間などという構造体を訪ねるが、その評価は同じではないのである。構造体に応じて、異なった自我を持ち、異なった評価が与えられているからである。そのなかで、マスコミが、悪評価・低評価の自我を真実の姿だとして取り上げて、裏の真実の顔などと述べているだけなのである。さて、人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持している。そして、そこに、常に、他者が介在している。ふと自分を意識することがあるが、それは自我を意識しているのである。そして、常に、自我として存在しているから、他者がそばにいたり、他者に呼びかけられたりすると、常に、自我を自分として意識するのである。人間は、社会的な存在であるから、構造体の中で、自我を得て、初めて、自らの存在が意味を帯びるのである。人間は、自らの社会的な位置が定まらなければ、つまり、構造体の中で自我が定まらなければ、深層心理は、自我の欲望を生み出すことができないのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間の存在とは社会的な位置であり、社会的な位置とは構造体の中での自我であるから、構造体に応じて、深層心理が思考して、自我の欲望を生み出すのである。さて、人間は、常に、ある構造体の中で、ある自我として存在している。だから、人間には、自分という固定したあり方は存在しないのである。自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指しているあり方に過ぎないのである。他者とは構造体の内部の人々であり、他人とは構造体の外部の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。さらに、人間は、一般に、自己としても存在していしない。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを勝ち取らなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的生きれば自己となるのである。人間は主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。多くの人は、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。深層心理の対自化の欲望による無の有化作用である。しかし、たいていの人は、自己として存在していないのである。自己として存在するとは、自ら、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することだからである。人間の意識しての思考を表層心理での思考と言う。人間の主体的に意識して行う思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。だから、たいていの人は自己として存在していないのである。人間が自己として存在しにくいのには、二つの理由がある。一つの理由は、自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるからである。人間は、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、他者から白い眼で見られ、その構造体から追放される可能性が大きいから、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。官僚が公文書の改竄をするのも、社員が会社の不正に荷担するのも、役所や会社という構造体の他者から白い眼で見られたくなく、それらの構造体から追放されたくないからである。もう一つの理由は、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだからである。人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で、すなわち、深層心理から離れて、理性独自で、思考して行動することはできないのである。つまり、人間は、本質的に、深層心理から離れて、表層心理独自で、主体的に思考できず、行動できないのである。しかし、人間は、自分が主体的に行動できない原因は他者や他人から妨害や束縛を受けているからだ思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自ら意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、そのままでは、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それに動かされて行動するからである。つまり、人間の行動は、基本的には、自我の欲望の現れなのである。さて、人間は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動によって、快感原則を満たそうとして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに従って行動しようとする。人間は、常に、構造体に所属して、自我を所有しているが、自ら意識して、すなわち、主体的に思考して、自我を動かすことができないのである。人間は、自ら、自我を動かすことはできず、深層心理が、自我を主体に立てて、他者に働き掛けるという自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望を叶えることによって、快楽を得ようとして、生きているのである。深層心理が思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。そして、深層心理に対して、人間の意識しての思考を、表層心理での思考と言う。多くの人が考える思考は、表層心理での思考である。表層心理での思考の尊称が理性である。つまり、人間の思考には、深層心理の思考と表層心理の思考という二種類存在するのである。しかし、人間は、意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、自我の欲望を生み出すことはできないのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。確かに、人間は、表層心理で、思考することがある。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で、意識して、思考して、すなわち、理性で思考して、深層心理が生み出した行動の指令について拒否するという結論を出し、意志で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、そのまま、実行せざるを得ないのである。ドイツの哲学者のアドルノが、第二次世界大戦の惨状を嘆いて、「理性の敗北である」と言ったが、もともと、理性には、強い感情を圧倒する力を有していないのである。さらに、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動において、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。しかし、ほとんどの人は、深層心理の思考を知らず、自ら意識しながら思考すること、すなわち、表層心理での思考しか知らないから、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら、主体的に暮らしていると思っているのである。しかし、人間は、自らが意識して思考して、すなわち、表層心理で思考して、生み出していない自我の欲望によって生きているのである。だから、自己という実態は存在していないのである。そして、自分とは、他者や他人に対しての自らの意識である。だから、他者や他人という実態も存在していないのである。他者の自我、他人の自我、すなわち、他我が存在しているのである。しかも、自我も、他我も、深層心理によって動かされているのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自らの欲望であるから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。このように、人間は、常に、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて、行動しているのである。まず、自我を主体に立てるとは何か。自我を主体に立てるとは、深層心理が自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、自我の行動について考え、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているということである。自我は、自己の現れであるから、自我の欲望が自己の欲望となって、人間を覆うのである。だから、人間は、自己を主体にして、表層心理で、意識して思考して、自らの行動を決定するということはできないのである。また、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、深層心理は、常に、他者の思惑を気にして、自我の行動を思考するのである。さらに、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議することだけだから、人間は、深層心理の思考よりも早く、表層心理で、思考することはできないのである。人間は、表層心理で、自己によって、主体的に思考できないばかりでなく、自我の行動についての思考も、深層心理の後塵を拝することになるのである。だから、人間は、自由でもなく、主体的な思考者でもないのである。次に、心境とは何か。心境とは、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。深層心理は、常に、ある心境やある感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、その人自身の心境であり感情である。深層心理は、心境や感情にも動かされて思考して、自我の欲望を生み出しているのである。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態性である。感情は、喜怒哀楽悪など、突発的に生まれる情態性である。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させている。人間は、不得意の心境や感情の状態の時には、欲動は、深層心理をして、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させている。つまり、深層心理は、自らの現在の心境や感情を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しみが消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものなのである。特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、すなわち、苦しいという感情が消すことができれば、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、欲動にとって、深層心理をして、感情や行動の指令という自我の欲望を起こさせて、自我を動かし、苦しみの心境や感情から、苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、欲動にとって、すなわち、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。そして、深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあった時、他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識すると同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。それは、人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているからである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。次に、快感原則とは何か。快感原則とは、スイスで活躍した心理学者のフロイトの用語であり、快楽を求め、不快を厭う欲望である。快感原則とは、ひたすらその時その場で、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を満たして、快楽を得、不快を避けようという欲望であり、そこには、道徳観や社会規約は存在しない。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求め不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、快感原則も、独りよがりで、孤独なものなのである。次に、欲動と何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動の四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたい、自我を他者・他人に認めてほしい、自我で他者・物・現象という対象を支配したい、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望である。深層心理は欲動によって、すなわち、この四つの欲望のいずれかの欲望によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望に動かされて、行動するのである。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、これは、別名、保身化と言われ、人間は自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないから存在するのである。この欲望は、当然のごとく、構造体を存続・発展させようという欲望に繋がっていく。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。次に、自我を他者・他人に認めてほしいという欲望であるが、これは、別名、対他化と言われ、自我を他者に認めてもらうことによって、快感原則を満たそうとする、すなわち、快楽を得ようとするのである。次に、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望であるが、これは、別名、対自化と言われ、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。最後に、自我を他者と理解し合うにさせたい・愛し合うようにさせたい・協力し合うようにさせたいという欲望であるが、これは、別名、共感化と言われ、自我と他者が心の交流することによって、快楽を得ようとするのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に動かされて、保身化・対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、快感原則を満たすように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍首相に迎合したのは、立身出世のためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子は、仲間という構造体から追放されたくなく友人という自我を失いたくないから、自殺寸前までいじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとい、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとするのである。もちろん、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した自我を失うことの辛い感情が強いので、超自我や表層心理での思考は、ストーカー行為を抑圧しようとしてもできずに、深層心理が生み出したストーカー行為をしろという行動の指令には逆らえないのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望、すなわち、自我の対他化の作用であるが、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我と表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、相手に惨劇をもたらすのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという欲望、すなわち、対象への対自化の作用であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。哲学的に言えば、対象の対自化とは、「有を無化する」(「人は自己の欲望を対象に投影する」)(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。)ことである。さらに、深層心理は、対象の対自化が高じて、「無を有化する」(「人は自己の欲望の心象を存在化させる」)(人間は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。)ことまで行う。これは、人間特有のものである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。犯罪者が自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込むこともこの欲望によるものである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとしているのである。人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、また、自己正当化できなければ生きていけないのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その目的である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば満足感が得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその意味・理由である。次に、欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望、すなわち、自我と他者の共感化の作用であるが、それは、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるという理由・意味があるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるという理由・意味があるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強いという意味があるのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。「呉越同舟」は、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得るということに、その理由・意味があるのである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、互いに相手を対自化して、イニシアチブを取ろうとして、仲が悪くなるのである。次に、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我(その人)を動かそうとしているのである。深層心理が感情を生み出し、それによって、自我を動かそうとするのである。感情が強ければ、それだけ、自我が強く動くのである。自我ハム方向に動くのではなく、深層心理が生み出した行動の方向に動くのである。それが、行動の指令である。深層心理が怒りの感情と殴れという行動の指令を自我に出せば、怒りの感情が強いほど、自我による殴るという実行性が高くなるのである。次に、表層心理の役割とは、何か。人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実的な利得を求める視点から、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾するか拒否するかを決定し、その決定が意志となり、それによって行動することがあるのである。許諾すれば、それは、意志の行動となる。拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、意識して、別の行動を考えなければならなくなる。表層心理とは、人間の意識しての思考であるが、常に、深層心理の自我の欲望を審議するために動くのであり、自ら独立して動くことはない。つまり、人間は、常に、深層心理の思考が先にあり、それを受けて、人間は、表層心理で、意識して、思考することがあるのである。現実原則とは、フロイトの用語であり、現実的な利得を求める欲望である。つまり、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、意識して思考し、許諾するか拒否するか決定し、許諾すれば、意志として、表層肉体を使って行動し、拒否すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、意識して、別の行動を考えなければならなくなるのである。往々にして、日常生活で、ルーティーンから外れたこと、すなわち、異常なことが起こると、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を、現実原則に基づいて、意識して思考し、行動の指令の採否を決めることがあるのである。それは、異常なことが起こると、深層心理が傷心・怒りなどの過激な感情と罵倒しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちだからである。所謂、理性とは、表層心理での思考である。人間は、表層心理で、すなわち、理性で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を、現実原則に基づいて、意識して思考し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定することがあるのである。しかし、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理で、深層心理が出した行動の指令を抑圧した場合、代替の行動を考え出さなければならなくなる。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した傷心・怒りなどの感情が残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。自殺とは、深層心理の快感原則の基づいて生み出した自我の欲望である。深層心理は、生きている間は、苦痛から逃れられないと思考し、自殺という自我の欲望を生み出したのである。人間は、それを受けて、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、自殺を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した苦痛の感情が強すぎるので、抑圧できず、自殺に突き進んでいくのである。このように、確かに、深層心理の思考が生み出す自我の欲望は強い。しかも、人間には、先天的には、主体性は身に付いていず、大衆に育てられ、大衆の中で育つから、自然に、大衆として生い育ち、自分の存在を他者に認められたいと思いいつつ、現在の自分の立場を失うことを恐れて、権力者や多数派に与し、自らの意見を述べることによって現在の体制に異を唱えている少数派や単独者を激しく攻撃するようになるのは当然のことなのである。しかし、人間の中には、大衆から単独者へと超越することなしには、生きている価値は無いと考え、実行する人が存在するのである。無勢であっても、自分の立場が悪くなっても、すなわち、自我が危うくなっても、権力者や多数派などの力の強い者に対して、自分の意見を述べるべき時は述べる人が存在するのである。自我から自己へと超越することによって、初めて、自分が生まれてきたことの意味が生まれてくると考え、実行する人である。自己として存在するとは、自ら、表層心理で、主体的に、意識して、思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することである。それは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することである。確かに、人間は、深層心理から離れて、表層心理独自で、すなわち、深層心理から離れて、理性独自で、思考して行動することはできない。しかし、深層心理は、対象を支配したいという欲望があり、それに基づいて、思考することがある。それを利用するのである。すなわち、自我という対象を支配するのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が自我を支配する欲望を誘発して、主体性を勝ち取るのである。そして、自我から自己へと超越することによって、すなわち、大衆から単独者へと超越することによって、主体的に表層心理で思考して、つまり、理性で思考して、自我が危うくなっても、権力者や多数派などの力の強い者に対して、自分の意見を述べるべき時は述べる人になるのである。

若者は政治をゲームとして見ている。(自我その427)

2020-10-27 13:40:31 | 思想
人間がゲームを楽しむのは、自分が指揮官になり、駒を自由に動かせるからである。駒自身の痛みを感じることが無いから、楽しめるのである。若者が政治をゲームとして見ているから、自民党を支持するのである。自民党の国会議員も、政治をゲームとして見ている。自民党の国会議員が、韓国、中国、北朝鮮と対決姿勢を見せているのは、戦争になっても、戦うのは自衛隊員であり、庶民であり、自分たちは命令を下すだけで良いと思っているからである。若者が、韓国、中国、北朝鮮を敵視しているのは、戦争になれば、自分たちが戦場に駆り出されることを考えず、ゲーム感覚で政治を見ているからである。悪いのは、韓国、中国、北朝鮮であり、日本は、民主的な方法で、正しいことをしていると思っているのである。若者は、日本は、アメリカという強国を後ろ盾にして、韓国、中国、北朝鮮を成敗すれば良いと思っているのである。確かに、中国、韓国、北朝鮮は反日教育をしている。しかし、日本が、それらの国を侵略したことは紛れもない事実なのである。戦後、中国、韓国、北朝鮮の指導者が日本を厳しく追及しなかったのは、日本は、中国、朝鮮(韓国)を侵略したが、悪いのは日本の軍部であり、中国人、朝鮮人(韓国人)だけで無く、日本の民衆も被害者であるという共通の了解であった。だから、総理大臣や国会議員が、靖国神社を参拝すると、中国人、朝鮮人(韓国人)が怒るのである。約束が違うというわけである。しかし、若者は、その事情を知らず、内政干渉だと言って怒るのである。若者を含めて、日本人の多くは、中国の共産党一党独裁政権による尖閣諸島の領海侵犯、香港の自由の剥奪、台湾への武力侵略の可能性、韓国の竹島の実効支配、従軍慰安婦像の設置、従軍慰安婦と徴用工に対する謝罪と慰謝料の要求、北朝鮮の日本人拉致、核開発を見て、韓国、中国、北朝鮮を敵視しているのである。しかし、足を踏まれた人間は、足を踏んだ人間のことをいつまでも忘れないものである。殴られた人間は、殴った人間のことをいつまでも忘れないものである。加害者が、謝罪し、反省の意志を示せば、被害者は、一時的に怒っても、禍根を残すことは無い。しかし、暫くたち、加害者が自分だけが悪いのではない、あれは仕方が無かったのだと開き直れば、被害者の怒りは爆発するだろう。まさしく、加害国の総理大臣の態度がそれであった。A級戦犯が靖国神社に合祀されたことが公になった後で、初めて、総理大臣で靖国神社を公式参拝をしたのは、中曽根康弘である。1985年8月15日のことであった。そして、靖国神社を公式参拝した総理大臣の中で、最も日韓間関係がもつれさせたのは、安倍晋三である。安倍晋三が総理大臣になってから、韓国が、強く、従軍慰安婦像の設置、従軍慰安婦と徴用工に対する謝罪と慰謝料の要求を行うようになったのである。それは、決して、偶然では無い。中曽根康弘も安倍晋三も、日本の中国、朝鮮(韓国)への侵略を認めなかったからである。認めるわけにはいかなかったのである。中曽根康弘は、海軍主計中尉として、太平洋戦争に深く関わったからである。安倍晋三は、A級戦犯の岸信介の孫であるからである。海軍中尉だったという中曽根康弘の自我、A級戦犯の孫という安倍晋三の自我が、日本の中国、朝鮮(韓国)への侵略を認めさせなかったのである。二人だけで無く、自民党議員の多くは、日本の中国、朝鮮(韓国)への侵略を認めていない。なぜならば、彼らの多くは、戦前の政治家の子孫だからである。戦前の政治家の子孫という自我が、日本の中国、朝鮮(韓国)への侵略を認めさせないのである。自民党は、党としても、そして、日本維新の会も、日本の中国、朝鮮(韓国)への侵略を認めようとしない。認めることがあっても、それは、政治的な打算であり、虚言である。なぜ、日本の中国、朝鮮(韓国)への侵略を認めないのか。それは、愛国心からである。愛国心から、過去においてであろうと、日本を悪者にできないのである。それは、若者も同じである。自民党を支持している若者にも同じ愛国心があるのである。愛国心とは、自分が所属している国を他の国の人々に認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であるからである。しかし、その欲望を戦争によってかなえようとするのは、幼児の愛国心である。「子供は正直だ」と言われるが、それは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、お互いに、自我の欲望に忠実であり、相手の気持ちを考えることなく、自分の欲望のままに行動するから、喧嘩が絶えないのである。幼児のように愛国心にとらわれた人間は、相手国の状況や相手国の国民の心情を思い図ることが無いから、些細なことで、戦争を始めるのである。自民党議員も若者も、当然、アメリカという強国を後ろ盾にして、韓国、中国、北朝鮮を成敗すれば良いと思っているのである。しかし、アメリカが、自国の利益にならないことに、どうして、自国兵士の命を犠牲にするだろうか。日本人は日米安全保障条約を頼りにしているが、その条約では、日本が他国と抗戦しても、アメリカは日本に援軍を送る義務は無く、議会に諮るというということが謳われているだけなのである。日本人は、骨の髄まで、お人好しである。だから、オレオレ詐欺に引っかかる人が多いのである。若者は、深謀遠慮が無く、政治をゲームとして見ているから、悪いのは、韓国、中国、北朝鮮であり、日本は、アメリカという強国を後ろ盾にして、韓国、中国、北朝鮮を成敗すれば良いと思っているのである。日本人という自我の欲望に固執するあまり、安易に、戦争に訴えようと主張するのである。彼らは、戦争をゲーム感覚で見ているから、戦争の悲惨さを思い描くことができないのである。若者は、戦前、戦中、日本の政治権力者が、国内において、どのように残酷なことをし、軍人や民間人が、中国、朝鮮を中心としたアジア諸国において、どのような残酷なことをしたのか知らないのである。日本の若者は、太平洋戦争末期を中心に、軍部によって、六千人以上の若者が特攻隊に組み入れられ、死を強要され、いかに苦悩のうちに死んだのかを知らないのである。心理学者のユングは、「民族に元型がある」と言う。元型とは、先天的にある気質である。日本人にも、先天的な気質があり、それが、代々、受け継がれているのである。つまり、この後も、日本において、自民党政権が続けば、そして、戦争を始めれば、日本の政治権力者は、太平洋戦争前と太平洋戦争中と同じような残虐な行為を、国内においても、海外においても、行うことは確実である。日本人は、戦前、戦中、ナチス以上に、中国、朝鮮(韓国)において、残虐なことを行った。日本の軍人たちは、中国を侵略し、十五年戦争(1931年~1945年)において、侵略した村々において、全食糧を奪い、抵抗した男性は試し斬り、若しくは、軍用犬に食わせ、女性は六歳の幼児から七十歳以上の老女まで全てレイプし、妊婦を殺して胎児を取り出し、無抵抗になった村人を赤ん坊や幼児や老人を含めて一カ所に集めて、銃で皆殺しにしてきたのである。この世で考えられる残虐な行為を、日本の軍人たち、いや、日本人が中国において行ってきたのである。その残虐ぶりは南京事件が有名であるが、南京事件は氷山の一角である。全ての村々において、南京事件と同様に、いや、それ以上に、残虐な殺戮を行ったのである。日本は、朝鮮(韓国)を植民地として統治してきた期間(1910年~1945年)、朝鮮(韓国)を日本に同化させようとし、食糧・原料供給地とし、一切の言論・集会・結社の自由を奪い、農民に飢餓輸出を強い、創氏改名させ、労働者として日本に強制連行し、若い女性を慰安婦にし、21万の青年を戦場に送っているのである。さらに、戦争末期になり、戦況の不利を悟り、戦闘機・戦艦・武器などが少なくなると、若い兵士や学徒出陣の学生・生徒たちに強要し、「自分も後に続くから。」と言って、六千人以上を特攻という苦悶の死を与えたが、ほとんどの上官は後に続かなかった。そして、戦後、彼らは、特攻の責任を、自決した大西瀧次郎海軍中将に押しつけ、「特攻を希望した若者たちは立派だった。彼らの名誉ある死があるから、現在の日本の繁栄があるのだ。」と言って、自らの責任を回避した。特攻によって命を散らされた若者が生きていたならば、日本は現在もっと繁栄しているだろう。彼らは、行動が詐欺師であるばかりでなく、言動まで詐欺師である。特攻のほとんどは、希望ではなく、軍部の上官による強要である。軍部の上官たちは、自らの保身のために、若者たちを犠牲にし、若者たちは、臆病者だと言われたくないために、特攻死したのである。現代において、従軍慰安婦が問題になっているが、従軍慰安婦は、軍隊が直接に関与したかどうかが問題ではない。日本が、朝鮮半島を占領し、そこの住民が日本軍の慰安婦として行ったことが問題なのである。南京大虐殺も、殺された人数が問題ではない。無抵抗の民間人がレイプされ、虐殺されているのは事実なのだから、きちんと、謝罪すべきなのである。特に、中国においては、ハルビンで、日本軍の731部隊が、中国人・ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って、三千人以上の人体実験を行っていたのも事実であるから、言い訳は許されないのである。さて、日本の安倍政府が、韓国に対して、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのも、韓国民が、日本製品の不買運動を起こしたのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、意志という表層心理が抑圧しない限り、このような子供じみた正直さが行動となって現れるのである。日本でも、韓国でも、中国でも、愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない人が多数を占めるようになったのである。このまま、各国民が愛国心という自我の欲望に正直に突き進めば、戦争になるだろう。そして、残虐なことが、再び、繰り返されるのである。太平洋戦争中、軍部は、世界を一つの家にするという八紘一宇を標語を掲げて、日本の中国、東南アジアの侵略を正当化しつつ、アメリカを中心とした連合国と戦争を行った。また、日本は、満州国の建国理念として、五族協和(日・朝・漢・満・蒙の五族の協和。日本人、朝鮮人、漢族、満州族、モンゴル族が平等の立場で満州国を建設すること)・王道楽土(王道主義によって、各民族が対等の立場で搾取なく強権のない楽土(理想郷)を実現すること)という標語を掲げた。しかし、八紘一宇、五族協和、王道楽土は、見せかけだけのスローガンであった。真実は、日本軍人(日本人)はアジアの諸民族を蔑視し、嫌悪していたのである。日本軍(日本人)は、中国や朝鮮や東南アジアにおいて、日本の神社を拝ませ、日本語を強制し、拷問、レイプ、虐殺を行った。陸軍の細菌戦部隊である731部隊は、中国において、ペスト、コレラ、チフスなどの細菌の研究を進め、実戦に使い、中国人、ロシア人などの捕虜・抗日運動家を使って人体実験を行った。その犠牲者の数は三千人近いといわれている。日本軍(日本人)は、朝鮮において、創氏改名(朝鮮人の姓名を日本式の氏名に改めること)を強制した。日本軍人は、東南アジアにおいて、現地の若い女性をだまして、暴力的に従軍慰安婦に仕立て上げたのである。日本は、長年の間、朝鮮(韓国)を属国として扱い、そして、支配してきた。日本は、1910年8月22日調印の韓国併合条約(日韓併合)から、太平洋戦争に敗北し、1945年9月2日に無条件降伏文書に調印するまで、35年もの長い間、朝鮮(韓国)を支配していた。しかし、実際には、日本は、1876年に、朝鮮に日朝修好条規を締結させてから、1945年に、太平洋戦争に敗れるまで、67年間、朝鮮(韓国)に直接的に干渉し、そして、占領し続けてきたのである。1875年9月20日、朝鮮の江華島付近で、日本の軍艦が砲撃された。江華島事件である。これは、日本が朝鮮の鎖国をやめさせようとして、挑発したのである。しかし。日本は、朝鮮側から不当な襲撃があったとして、その責任を問い、武力的威圧のもとに、朝鮮に、1876年9月27日、日朝修好条規という日本優位の不平等条約に調印させた。この条約には、清国と朝鮮の宗属関係の否定、釜山・元山・仁川の開港、日本側の領事裁判権などが規定されていた。また、付属貿易協定で、日本は無関税特権を獲得した。明治政府は、欧米列強に倣うやり方で、朝鮮政府に迫り、鎖国政策をやめさせたのである。日朝修好条規は、日本の中国大陸進出の第一歩になった。日本の朝鮮(韓国)政策の象徴的な出来事が、1895年10月8日の閔妃暗殺事件である。李氏朝鮮の国王高宗の妃であった閔妃が殺害され、その遺体が焼き払われたのである。事情は次のようなことであった。日清戦争後の三国干渉を契機に、日本の内政干渉を嫌った、李氏朝鮮の閔氏政権がロシアに接近して、排日政策を執り始めた。これに危機感を抱いた、日本公使の三浦悟楼の指揮により、日本軍人・浪士らは、反日派の中心人物と目されていた閔妃を、10月8日の未明に、王宮内で殺害し、その遺体を焼いたのである。明治政府は、事件に関わった三浦悟楼以下48名を本国に召還し、裁判を行ったが、翌年1月、全員を免訴釈放した。この事件は、端的に、日本人の韓国人(朝鮮人)に対する気持ちを表している。日本人は、韓国人(朝鮮人)に対して、植民地意識、侮蔑意識を持っていたのである。しかし、それは、太平洋戦争で日本が敗北しても、消えることは無かった。戦後においても、それは多くの日本人の心に残存していた。陰では、中国人をチャンコロ、韓国人(朝鮮人)をチャンコロと侮蔑的に呼んでいた。また、現在もそれが残っていることは、「在日は日本から出て行け。」、「在日は死ね。」、「在日を殺せ。」などのヘイトスピーチを繰り返して街頭行進をする集団が存在することを見ればわかるだろう。在日韓国人や在日朝鮮人に対して侮蔑意識が無ければ、このようなことができるはずがない。当然ごとく、国連は、ヘイトスピーチを人権問題化し、日本政府に取り締まるように勧告している。しかし、安倍自民党内閣は、表現の自由を理由にして、耳を貸そうとしない。その自民党の憲法改正草案は、国民の表現の自由を徹底的に制限しているのだから、笑止千万である。頭隠して尻隠さずである。言うまでもなく、安倍晋三はもちろんのこと、自民党の国会議員もヘイトスピーチをする集団と同じような考え方をしているから、ヘイトスピーチを取り締まらないのである。もちろん、ヘイトスピーチをする集団も、安倍内閣、自民党を支持している。安倍内閣が誕生したから、ヘイトスピーチをする集団が現れたのである。ヘイトスピーチをする集団は、在日特権を許さない会と称しているが、もしも、在日韓国人や在日朝鮮人に特権があったとしても、それを決めたのは歴代の自民党内閣である。批判の矛先が間違っているのである。自民党の国会議員やヘイトスピーチをする集団以外にも、明治以来の戦前の日本の朝鮮(韓国)政策を支持する日本人はかなり存在する。日本が併合したから、朝鮮(韓国)はインフラが整備され、農業収穫が増加し、現代に残る大学も創設されたりなどして、国が豊かになったのだと言う。確かに、そういう面はある。しかし、自主権を奪われて、国が豊かになったと言われても、それは、韓国人(朝鮮人)の人間性を侮辱するのものでしかないだろう。また、日本が併合していなくても、ロシアが占領していただろうと言う人もいる。確かに、日露戦争は、朝鮮及び満州の支配権をめぐる対立から発展した軍事衝突であった。日本が勝利したから、朝鮮(韓国)を併合しただけだと言う。しかし、日本とロシアの朝鮮(韓国)の支配権をめぐっての対立は、朝鮮(韓国)にとっては、はた迷惑なだけである。そして、韓国併合の時期は、世界的に帝国主義の時代で、植民地にするか植民地にされるかの二者択一の生き方しかなく。日本は欧米に倣って後者を選んだのである。悪いのは、帝国主義の時代を作った欧米である。日本も、アメリカによって、鎖国を破られ、日米和親条約、日米修好通商条約によって、主要港を開港し、治外法権を認め、片務的関税協定を結ばせられた。そして、同じような内容の条約を、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ばせられた。だから、日本は、欧米の模倣をしただけであると言う。確かに、日本は、欧米に対しては、堂々と論陣を張ることができる。しかし、中国や朝鮮(韓国)に対しては言い訳できない。心から謝罪し、賠償するしかない。特に、朝鮮人(韓国人)にとっては、今もって、長年、日本に支配されていたという歴史的事実は悔しい出来事なのである。また、韓国併合という言葉自体がまやかしの言葉であり、実際は、日本の軍事力によってのものだから、韓国支配、韓国占領、韓国征服などと言うべきなのである。琉球処分という言葉もそうである。明治政府の、1872年から1879にかけて、琉球王国を解体し、日本国家に強制的に組み込んでいく過程は、琉球処分と呼ばれているが、軍事力を持って無理やり成し遂げたことであるから、琉球支配、琉球占領、琉球征服などと呼ぶべきなのである。終戦という言葉もそうである。太平洋戦争は、自然と終ったのではない。日本が、1941年12月8日、自ら、アメリカ、イギリスを中心とする連合国に戦いを挑み、悲惨な目に遭い、1945年9月2日、無条件降伏文書に調印して、攻撃をやめてもらったのである。戦いを挑んで負けたのである。だから、終戦ではなく、敗戦と呼ぶべきなのである。天皇が玉音放送(国民に敗戦を認める放送)を流した8月15日を終戦記念日とするのではなく、惨めにも、東京湾に停泊するミズーリ号で無条件降伏文書に調印した9月2日を敗戦の日とするべきなのである。韓国併合、琉球処分、終戦という言葉は、日本人が、歴史にまともに向かわず、罪の意識や心の傷から逃れようとしていることの現れである。1965年6月22日、日韓基本条約が締結され、韓国の対日賠償請求権は放棄される代わりに、無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力協定が結ばれた。日本人の多くは、これで、韓国に対する償いは済んだと考えている。確かに、この5億ドルによって、韓国の経済は復興した。しかし、それで、韓国人の愛国心が癒されたわけではない。日本人が戦前の朝鮮(韓国)支配を真摯に反省している姿勢を見せ続けない限り、愛国心が癒されることはない。特に、日本の政治指導者に、反省の姿勢を見せてほしいのである。なぜならば、政治指導者こそ国民の代表だからである。しかし、戦後の日本のほとんどの政治指導者には、その姿勢は見られない。なぜならば、彼らは自民党の国会議員だからである。なぜ、多くの自民党の国会議員には、反省の心が無いのであろうか。それには、二つの大きな理由がある。一つは、彼らは戦前の政治家の精神に繋がろうとしていることである。だから、戦前の日本人の行いを無下に否定できないのである。それは、自民党の憲法改正草案が、大日本帝国憲法と似通っているのを見てもわかることである。自民党の憲法改正草案と大日本帝国憲法が異なるのは、総理大臣が軍隊(自衛隊)を統率するだけである。天皇の地位は、大日本帝国憲法では主権を有していて、自民党の憲法草案では元首となっているから、二つの考えは異なっていると言う人がいるが、基本的な働きは同じである。大日本帝国憲法においても、美濃部達吉が天皇機関説で言うように、国家に統治権の主体があり、天皇は国家の一機関であったのである。もう一つは、彼らの血が、戦前の政治家と繋がっていることである。彼らの多くは、戦前の政治家と血縁関係にあるのである。その典型的な例が安倍晋三である。言うまでもなく、彼は岸信介の孫である。岸信介は、戦後に総理大臣になったが、太平洋戦争を起こした東条英機内閣の商工大臣である。安倍晋三は、祖父の衣鉢を継いだのである。だから、自民党の政治が続く限り、韓国人の愛国心は燃え続けるのである。韓国人が、従軍慰安婦を国際問題化するのも、日本の政治指導者に、戦前の日本の韓国支配に対する真摯な反省の姿勢が見られないからである。しかし、日本の政治指導者に真摯な反省の姿勢が見られないのは、当然である。反省していないからである。反省していないのだから、真摯な反省の姿勢が見せられるはずがないのである。時には、反省の姿勢を見せることはあるが、それは政略的なものであり、心からのものでは決してない。だから、失言で、韓国人、朝鮮人、中国人の心を傷つける言葉を発する自民党議員は枚挙に暇がないのである。もちろん、後に、謝罪することになるが、この謝罪も心からのものでないことは言うまでもない。失言こそ、彼らの本心である。それでは、なぜ、戦前志向の自民党を、多くの国民が支持するのだろうか。それも、また、愛国心の故である。国民の多くも、また、現在の日本の政治指導者が、戦前、日本が朝鮮(韓国)に行ったことに対して、真摯な反省の姿勢をみせること、つまり、心から謝罪することは、自らの愛国心を傷つけることになるから、政治指導者にしてほしくないのである。多くの国民にとって、自民党の国会議員と同様に、日韓基本条約の5億ドルで、戦前の贖罪は終わったのである。また、自民党が国民の支持を受けるもう一つの理由として、自民党の政治指導者の方が、野党指導者より、リーダーシップを発揮して、日本を力強く運営できるように見え、愛国心を満足させてもらえる可能性が高いことが挙げられる。たとえ、その力強さは、アメリカ頼みであったとしても。アメリカに追随して、戦前のように、中国、韓国、北朝鮮に対峙できるような。国際的に高い地位を確保して、愛国心を満足させようと考えているのである。ところが、アメリカの政治指導者は、冷戦時代のソ連・中国と対峙していた頃の考え方をいていないのである。ソ連は崩壊してロシアになり、中国は、今や、アメリカの最大の国債購入国・貿易国となり、アメリカにとって、日本は、アジアにおける共産主義からの防波堤の国から、収奪の国に変わってしまったのである。日本の政治家や官僚は、それに気付かず、いや、気付くのが怖いから気付こうとせず、これまでのように媚びを売って軍隊を置かせるだけでなく、これからは、兵隊まで差し出そうとしている。ところが、アメリカは、これからは、日本から徹底的に経済的に収奪しようと考えているのである。それは、アメリカ大統領の立候補者の演説から見ても、はっきりわかることである。しかも、日本に対して強く出ると主張している候補者が、国民から大きな支持を受けているのである。アメリカが豹変したのではない。世界が変わったのである。アメリカは、その世界の変化に合わせて変えようとしているのである。アメリカは、アメリカの国益を目指して動いているのである。アメリカ人の愛国心である。それを利己主義だと非難する国民は、自らの愛国心の利己主義性に気づいていないだけなのである。愛国心とは利己主義である。自らの国民性を第一に考える利己主義である。だから、愛国心の衝突によって戦争が起きるのである。戦争は愛国心という利己主義のぶつかり合いによって引き起こされるのである。現代の戦争のほとんどは、愛国心によって引き起こされるのである。だから、戦争を起こさないようにするには、自国民の愛国心を抑制し、他国民の愛国心を刺激しないことが最も肝要なのである。愛国心を褒めたたえる人が多いが、それは幼児の思考をした大人である。愛国心と利己主義を対照的なものだと考える人も多いが、愛国心は利己主義の一つである。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、一度目の太平洋戦争の悲劇で懲りずに、二度目の戦争を経験して笑いものにならない限り、日本の歩むべき道に思い至らないのかもしれない。その時、ほとんどの日本人は、愛国心とはどういうものか、深く反省し、考え直すかもしれない。しかし、その時、日本という国は存在しているだろうか。

愛国心という名の自我の欲望が戦争を引き起こしている。(自我その426)

2020-10-25 14:46:03 | 思想
愛国心があるからこそ、自国の動向が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではない。人間の無意識のうちに、深層心理が自我の欲望を生み出しているのである。愛国心は、その自我の欲望である。つまり、人間は、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、自我とは、何か。自我とは、構造体の中で、他者から、ポジションが与えられ、そのポジションに応じて行動しようとする、 現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。国民という自我は、国という構造体に所属している人間のあり方である。人間は、国に所属し、国民という自我を持っているから、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出すのである。現在、世界中の人間は、何らかの国に所属しているから国民である。だから、常に、戦争を引き起こし、敵兵だからという理由で殺す可能性を秘めているのである。しかし、現在、日本においても、日本という国という構造体や日本国民という自我だけでなく、いろいろな構造体があり、そこに所属しているいろいろな自我がある。例えば、構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップルなどがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では、支店長・行員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って暮らしている。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。人間は、ある構造体に所属して、あるポジションを自我として持ち、他者からそれが認められ、初めて満足できるのである。それが、アイデンティティーが確立された状態である。人間は、自我を持つことで、深層心理という無意識の思考が自我の欲望を生み出すことができるのである。さらに、深層心理は、自我の確保・存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出している。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、全ての日本人は、愛国心を持ち、日本という構造体に執着し、日本人という自我に執着するのである。もちろん、世界中の人々は、誰しも、自分が所属している国を愛しているのである。すなわち、愛国心を持っているのである。また、誰しも、郷土愛を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷を愛している。誰しも、自分の家族を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ場所を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれている人を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる人を愛しているのである。宗教心を持っている人は、誰しも、自らが帰依している宗教の共同社会、すなわち、教団を愛しているのである。人間は、自我として存在し、自我は構造体が存在することによって成立するから、構造体を愛するのである。かつて、中国の反日運動の際に、スローガンにとして、愛国無罪という言葉が使われた。愛国心に基づいた行為ならば全てが許されるという意味である。判断力の欠いた、幼児性に満ちたスローガンである。中国人は、このスローガンを掲げて、中国にある日本の店舗を襲撃したのである。「子供は正直である。」と言われる。幼児性とは、この言葉そのものである。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利を強く主張するということは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。しかし、この言葉は、見事に、愛国心の陥穽を表している。愛国無罪は、内向きの言葉であるから、それをを唱えられると、容易に、同じ国という構造値に所属して同じ国民という自我を持っている人間は、反論できないのである。なぜならば、愛国無罪に反論すると、自国の構造体での国民という自我を否定し、敵国に通じていると周囲の愛国心を抱いている人々から反感を買い、暴力を受けたり、時には、リンチによって殺されたりする可能性があるからである。政治権力によって、拷問死させられる可能性もあるのである。中国において、愛国無罪がスローガンであった時があるように、日本においても、「俺は日本のためなら何でもする。命も惜しくない。」などと、愛国心に満ちた言葉を吐く人々がいる。所謂、右翼という、ナショナリスト(愛国主義者、国粋主義者、全体主義者、民族主義者)の判断力の欠いた、幼児性に満ちた言葉である。しかし、この言葉に真っ向から反論する人はいない。なぜならば、そうすると、自ら、日本国民としての自らの自我を否定しているように誤解される虞があるからである。ナショナリストたちは、自らが思っている日本像と異なった考え方をしている人や自らが思っている日本の国益に反した行動をする人を、反日、非国民、売国奴と言って罵る。他の日本人も自分たちに従わなければならないと思っているのである。なぜならば、真に日本のことを考えているのは自分たちだと思っているからである。ナショナリストの愛国心はストーカーの恋愛感情に似ている。ストーカーもまた自分が最も相手の女性(男性)を愛し、最も知っていると思い込んでいる。そして、相手に付きまとっている自分は悪くなく、自分のことを受け入れない相手が悪いのだと思い込んでいる。相手が自分の気持ちをどうしても受け入れてくれないとわかったり、相手に新しい恋人ができたりすると、思い余って、相手を殺すことも珍しくない。そして、社会的に罰されるのが嫌で、自分の行為を正当化するために自殺する人も存在する。ストーカーは、相手を真に愛しているのは自分だけだと思っているから、他の人が相手を愛すること、相手が他の人を愛することを許さないのである。それは、日本を太平洋戦争を突き進ませたナショナリストたちに似ている。ナショナリストたちは、自分たちは命を懸けてまで日本のことを思っているのだと、日本人の愛国心に訴えた。ほとんどの日本人はそれに従った。そして、自分たちの考えに反対する日本人を非国民、売国奴だとして逮捕し、自分の考えに従わない者を逮捕し、拷問にかけ、殺した。拷問で殺された者は、わかっているだけでも、80人以上存在する。ナショナリストたちは、愛国心に訴え、朝鮮半島、中国大陸に侵略し、アメリカ・イギリス・オランダ・中国などに対して太平洋戦争を起こした。そして、愛国心に付け込まれた大衆は、戦争反対の日本人を警察や憲兵に密告し、中国人、朝鮮人、アメリカ人、イギリス人、オランダ人を憎悪した。しかし、戦争に負けた。すると、大衆と大多数のナショナリストたちは他の者に責任転嫁して戦後を生き延び、少数の筋金入りのナショナリストたちは、罰せられるのが嫌で、自己正当化するために自決した。現代においても、日本の大衆は自民党を支持している。それは、決して、自民党の国会議員を信頼しているからでは無い。日本の大衆は、前首相の安倍晋三、現首相の菅義偉を筆頭に、自民党の国会議員の大半が悪党であることを知っている。それでも自民党を支持するのは、野党が政権を執れば、中国、北朝鮮、韓国に対抗できないと思っているからである。対する圧力が弱まると思っているのである。大衆は、愛国心によって、中国、北朝鮮、韓国が憎いから、頼るべき政党として、自民党を支持しているのである。大衆の自民党支持は、愛国心のなせる業なのである。もちろん、アメリカ人ならばアメリカに愛国心を抱き、中国人ならば中国に対して愛国心を抱き、韓国人ならば韓国に対して愛国心を抱き、ロシア人ならばロシアに対して愛国心を抱き、北朝鮮に住む人ならば北朝鮮という国に対して愛国心を抱いているのは当然のことである。トランプ大統領が、「アメリカを第一に考える」と言ったのは、完全なる愛国心の発露である。つまり、愛国心の発露とは、エゴの発露なのである。だから、愛国心を無反省に追求すれば、国家間の戦争に帰結する。だから、トランプ大統領は危険なのである。「子供は正直である。」という慣用句の通りである。つまり、トランプ大統領は、子供なのである。そして、トランプの幼児性、つまり、深謀遠慮のない、無反省の愛国心の発言が、アメリカの大衆の深謀遠慮のない、無反省の愛国心を揺り動かしたのである。つまり、アメリカの大衆数は、子供なのである。それは、日本についても、言えるのである。自民党の幼児性、つまり、深謀遠慮のない、無反省の愛国心の発言が、日本の大衆の深謀遠慮のない、無反省の愛国心を揺り動かしたので、自民党は、公明党で組んで、政権を執ることができているのである。つまり、日本の大衆も、子供なのである。さて、尖閣諸島周辺では、中国公船による日本領海への侵入が続いている。愛国心の強い日本人は、そのことを危惧している。なぜ、そのことを危惧するのか。それは、尖閣諸島を中国に奪われたくないからである。なぜ、中国も日本も、尖閣諸島を領有したいのか。それは、愛国心という自我の欲望によるものである。多くの日本人は、尖閣諸島周辺の海底に石油資源があるから急に中国が領有権を主張し始めたと言うが、それは第二義である。第一義は、愛国心という自我の欲望からである。1972年9月27日、日中国交正常化のため北京入りした田中角栄が周恩来首相との会談において、尖閣諸島の領有権について日中双方が棚上げ論を確認した。つまり、結論を次世代に委ねることにしたのである。それは、正しい判断である。両国が、愛国心という自我の欲望から領有権を主張すれば、とどのつまり、戦争による解決しか存在しないからである。平和裏に解決したいのならば、時間を掛けて解決策を練りあげることである。しかし、それでも、解決できないならば、国際司法裁判所に訴えて、裁可を仰げば良いのである。しかし、国際司法裁判所は、紛争当事国が納得しなければ、訴えを取り上げないのである。中国は訴えようとしているのだが、日本が納得しないから、訴えることができないのである。なぜ、日本が納得しないのか。裁判で勝つ自信が無いからである。それよりも、現在、実行支配している形を維持する方が、愛国心を満足させることができるからである。それは、竹島についても言えるのである。日本、韓国の両国が、竹島の領有権を主張している。平和裏に解決したいのならば、国際司法裁判所に訴えて、裁可を仰げば良いのである。しかし、日本は訴えようとしているのだが、韓国が納得しないから、訴えることができないのである。韓国が納得しないのは、裁判で勝つ自信が無いからである。それよりも、現在、実行支配している形を維持する方が、愛国心を満足させることができるからである。日本人の中には、「尖閣諸島を死守せよ。」、「竹島を命を賭けて奪取せよ。」と主張するナショナリストが存在する。愛国心という自我の欲望に無反省であるから、そのように主張するのである。尖閣諸島、竹島という無人島の島に、命を賭ける意味があるのか。さらに、日本は、明治以降太平洋戦争で敗れるまで中国を侵略し続け、1910年から太平洋戦争で敗れるまで韓国を占領していたのだから、その代償として、中国の尖閣諸島の領有権を、韓国に竹島の領有権を認めても良いのである。確かに、日本は、敗戦後、中国にも韓国にも、経済援助を行ってきた。しかし、それだけで、両国国民の深く傷付いた愛国心は癒えることはないのである。自らの愛国心にとらわれるのではなく、他国民の愛国心に対する配慮が必要なのである。つまり、幼児性の愛国心では無く、成熟した愛国心が必要なのである。また、アメリカ軍基地が日本に無くなり、アメリカ兵がいなくなったならば、日本が中国に侵略され、中国の奴隷国になるという人が存在する。現在、日本がアメリカの奴隷国であることは、誰しも、認めることであろう。日米関係は、同盟関係では無く、主従関係なのである。確かに、中国の一党独裁は、民主国家では無い。しかし、日米関係も、民主国家の関係では無いのである。アメリカの力を借りて、中国、ロシア、北朝鮮、韓国と対立しようとするから、アメリカの奴隷国にならざるを得ないのである。ほとんどのアジアの国は、日本ほどの軍事力を備えていないのに、中国の奴隷国になっていない。それを見習えば良いのである。



私は徴兵に応じず、武器を持たず、戦場に立たない。(自我その425)

2020-10-24 13:59:16 | 思想
私は徴兵に応じず、武器を持たず、戦場に立たない。政治家の積極的な政策によって引き起こされた戦争、もしくは、政治家の無策によって生じた戦争を、どうして国民の命であがなわなければいけないのか。確かに、政治家は国民の選挙によって選ばれている。しかし、私は戦争までも政治家に委ねてはいない。欧米には、良心的兵役拒否を認められている国がある。良心的兵役拒否とは、自己の信条に従って、戦争を悪と断じて、一切の軍務を拒否するという積極的な行為である。しかし、兵役免除には、厳しい審査があり、認められても、非戦闘軍務、民間間労務に就かせられることが多い。しかし、日本では、徴兵制が導入されると、良心的兵役拒否は認められないだろう。同調圧力の強いこの国で、自己の信条が認められるはずがない。現在の日本は、太平戦争を正当化している自民党が、公明党と組んで、政権を担当している。自民党は、憲法を改正して、徴兵制を導入し、日本が大手を振って戦争のできる国にすることを画策している。国民は愚かだ(政治意識が低い)から、自民党は、国会議員を増やし、日本維新の会を巻き込み、早晩、憲法を改正して、徴兵制を導入し、日本を大手を振って戦争のできる国にするだろう。徴兵制が導入されれば、全18歳以上の人、もしくは、全成人に徴兵検査の案内が来ることになり、戦争が近づいたり、戦争が始まったりすれば、召集令状が来るだろう。それに従わなかったら、どうなるだろう。まず、警察が逮捕に来るだろう。その時、私はそれに従うことはどうしてもできない。抗うだろう。抗っても、逮捕されるか、射殺されるだろう。逮捕されても、正式な裁判に受けられ可能性が少ない。徴兵検査や召集に同意するまで、拷問を受けるだろう。どうしても、同意しなければ、殺されるだろう。殺されても、事故死とか、逃亡しようとやむを得ず射殺したなどと処理されるだろう。抗うということは、これを覚悟して行うということである。日本は法治国家だからそういうことは無いと言う人がいるが、戦前も法治国家だったが、国策に反した意見や国策に反した行動した人を、裁判を受けさせずに、警察官や憲兵が拷問しているのである。拷問によって、殺された人は、百人近く存在するのである。マッカーサーは、太平洋戦争後、連合国軍最高司令官として、1950年まで、日本占領の最高公権力者として進駐したが、「日本人は12歳である。」と述べている。戦後70年以上経過したが、日本人の政治意識の低さは変わっていない。だから、現在でも、太平戦争を正当化している自民党が、公明党と組んで、政権を担当しているのである。その自民党が、憲法を改正して、徴兵制を導入し、日本を堂々と戦争のできる国にし、戦前のように、特高(特別高等警察)や憲兵を使い、徴兵検査や召集に抗った者を、同意するまで拷問するだろう。そのような犬死にをするくらいならば、積極的に体制と戦うのも一方法として考えられる。もちろん、一人では戦えない。だから、同士を募り、若しくは、同意見の集団に参加して戦うのである。もちろん、敗北死する可能性が高い。しかし、おめおめ、徴兵検査を受け、戦地に行かされ、したくもない戦争で死ぬよりは良いと思う。鶴見俊輔は、「戦地で銃を持たせられたら、自殺するつもりだった。」と言った。しかし、戦地では通信係だったから、自殺しなかった。鶴見俊輔の考えも、一考に値すると思う。


戦争をして守るべきものが存在するか。(自我その424)

2020-10-22 14:26:06 | 思想
戦争をして守るべきものが存在するか。そんなものは存在しない。しかし、日本人、韓国人、中国人の中には、戦争をしてでも、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)を領有しろせと叫んでいる人が存在するのである。愚かである。同じ島を、日本人は竹島と名付けて愛し、韓国人は独島と名付けて愛している。日本人も韓国人も、その島は自国に所属していると思っているから愛し、その領有権を巡って争っているのである。また、同じ島々を、日本人は尖閣諸島と名付けて愛し、中国人は釣魚島および付属島嶼と名付けて愛している。日本人も中国人も、その島々は自国に所属していると思っているから愛し、その所有権を巡って争っているのである。愛国心という自我の欲望に取り憑かれた者たちの喜劇である。しかし、掛け声だけならば、それは喜劇で済む。それが、実際に戦争という形で実行に移されたならば、惨劇、悲劇を生むのである。なぜ、日本人ならば、例外なく、竹島、尖閣諸島の領有権を主張し、韓国人ならば、例外なく、独島の領有権を主張し、中国人ならば、例外なく、釣魚島および付属島嶼の領有権を主張するのだろうか。なぜ、日本人、韓国人、中国人の中には、戦争をしてでも、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)を領有しろと叫ぶ人が存在するのだろうか。それは、決して、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)に海洋資源などの利得があるからではない。それは、第二義の問題である。第一義は、自国の領土だと思うから、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)を領有したいのである。自我の欲望から発しているのである。1969年、ソ連と中国との間で、ダマンスキー島(珍宝島)の領有権を巡っての戦争があり、双方合わせて百人以上の死者を出した。1982年、イギリスとアルゼンチンの間で、フォークランド諸島の領有権を巡っての戦争があり、双方合わせて九百人以上の死者を出した。現在においても、インドとパキスタンの間で、カシミール地方の領有権を巡っての紛争が続いている。なぜ、人間は領土にこだわるのか。人間は、国民という自我を持った時から、領土にこだわるようになるのである。それは、愛国心という国民という自我の欲望から発しているのである。人間は、国家という構造体に所属する国民という自我を持った時から、愛国心という自我の欲望を抱き始め、領土にこだわるようになるのである。1947年、インド、パキスタンがイギリスから分離独立してから、カシミール地方の領有権を巡って、紛争が起こるようになったのである。かつて、十センチほどの敷地の境界線を巡って争い、挙げ句の果てには、隣家の住人によって殺された男性がいる。これも、また、家族という構造体に所属し、家族の一員という自我を持つようになったから、土地にこだわるようになったのである。日本人は竹島と尖閣諸島を愛し、韓国人は独島を愛し、中国人は釣魚島および付属島嶼を愛し、家族が土地を愛するのは、ただ単に、自我の欲望から発しているのである。領土や土地に執着するのは、自らが所属している構造体の所有物だと思うからである。自我の欲望は、自我のためだけでなく、自我が所属している構造体のためにも発揮されるのである。なぜならば、自我は、構造体に所属することによって成立し、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである、さらに、人間は、構造体が発展すれば、自我が発展したように思い、構造体が弱体化すれば、自我も弱体化したように感じるからである。だから、オリンピックやワールドカップで、国民は、自国選手や自国チームを熱狂的に応援するのである。愛国心からである。小学校の運動会で、親は我が子を熱狂的に応援するのである。家族愛からである。領土を巡って戦争をするのも、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのも、同じ愛国心から発しているのである。境界線を巡って殺人事件に発展するのも、小学校の運動会で応援するのも、同じ家族愛から発しているのである。しかし、オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームが敗れても、小学校の運動会で我が子が敗れても、次回大会がある。しかし、戦争で殺された人間、殺人事件で殺された人間は、戻ってこないのである。だから、自我の欲望による行動は、選択する必要があるのである。人間は、自我の欲望の動物であるから、国民は領土に執着し、家族は土地にこだわるのである。人間が自我の欲望のままに行動すれば、国家間に戦争が起こり、個人の間の殺人事件が起きるのは当然のことである。「子供は正直だ」という言葉がある。この言葉は、幼児性の特徴を表している。それは、子供は、自我の欲望に、正直に、反省なく、言動し行動するということである。しかし、この言葉は、否定的ではなく、肯定的に理解されることが多い。なぜならば、大人はずるいが、子供は正直だから御しやすいと思われるからである。確かに、子供は、思慮が浅く、力が無いから、自我の欲望に、正直に、反省なく、言動し行動しても、大人は簡単に抑圧できる。大人の力の発揮どころである。しかし、大人が、幼児性に捕らわれ、自我の欲望に、正直に、反省なく、言動し行動すればどうなるか。戦争や殺人を引き起こすのは、当然の帰結である。日本人、韓国人、中国人の中に存在する、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)を確保しろ、取り戻せと叫んでいる人は、幼児性に捕らわれているのである。このように言うと、必ず、「それでは、竹島を韓国に支配されたままで良いのか。尖閣諸島を中国に奪われて良いのか。」と怒る人が現れる。その時、私は、逆に、その人に、「日本の抗議を聞き入れず、竹島を韓国がこのまま支配していけば、竹島を領有するために韓国と戦争をするのか。中国兵が尖閣諸島に上陸したならば、尖閣諸島を領有するために中国と戦争をするのか。」と尋ねる。すると、たいていの人は、「そうなったならば、戦争もやむを得ない。」と答える。竹島、尖閣諸島という無人島を領有するためには、戦争はやむを得ないと言うのである。愚かである。最も良いのは、国際司法裁判所に、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)の領有権がどの国にあるか判断してもらうことである。しかし、国際司法裁判所に判断してもらうことについて、竹島(独島)の領有権を巡っては、韓国が反対し、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)の領有権を巡っては、日本が反対しているのである。だから、国際司法裁判所に訴えることができないのである。韓国も日本も自信がないから国際司法裁判所に訴えないのである。国民という自我の欲望に捕らわれた者たちによって形成された国家の惨状をここに見ることができるのである。しかし、日本、中国、韓国だけが、国民という自我の欲望に捕らわれた者たちによって形成された国家ではない。世界は、国民という自我の欲望に捕らわれた者たちによって形成された国家に満ちあふれている。だから、戦争が絶えないのである。しかし、日本は、竹島(独島)の領有権を巡って、韓国と戦争し、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)の領有権を巡って、中国と戦争をしてはならないと思う。無人島の領有権をめぐる戦争だから、愚かなのではない。戦争そのものが愚かだからである。戦争をして守るべきものは存在しないからである。特に、日本は、明治維新以降太平洋戦争終結まで、中国、朝鮮(韓国)を侵略し続けたのである。確かに、戦後、日本は、中国に支援金を渡し続け、韓国に賠償金を支払った。一応の反省の思いを届けている。しかし、支援金、賠償金で、侵略の罪が消えることはない。竹島(独島)の領有権を韓国に与え、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)の領有権を中国に与えても良いと思う。それで、戦争が回避できるのであれば、それで良いと思う。竹島(独島)の領有権を巡って、韓国と戦争し、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)の領有権を巡って、中国と戦争をするような愚かなことがあってはならないと思う。日本、韓国、中国の国民の一人として、殺してはならないと思う。