あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人は人生というゲームをさせられている(自我その72)

2019-03-29 20:55:32 | 思想
人間、誰しも、他者の束縛がなければ自分は自由に行動できると思っている。しかし、人間は、他者に束縛されなくても、常に、自我・深層心理に束縛されている。自我とは、おののの構造体における自分のポジションである。構造体とは、人間が活動する、家、学校、会社、コンビニ、道路、電車、カップル、仲間など、人間の組織・集合体の空間を意味する。人間、誰しも、いついかなる時でも、自分であることはできず、自我である。自分であることはないのであるから、自由になることはできない。人間、誰しも、朝、起きた時から、束縛が始まる。他者に束縛されるのではない。自我に束縛されるのである。朝、ある特定の家という構造体で目が覚めるやいなや、祖父、祖母、父、母、息子、娘などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。ただ単にそこに存在するのではない。常に、深層心理に、他者から、自我(自分のポジションとしての活動)が認められるように活動するように動かされている。これが、対他存在のあり方である。また、与えられたポジションは引き受けざるを得ない。なぜならば、自分で、別の家の構造体を選ぶことができず、現在の家の構造体でも別のポジションに変えることはできないからである。これが、自我のあり方である。もちろん、ある特定の高校という構造体へ行くと、一年生、二年生、三年生などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。ある特定の会社という構造体へ行くと、社員、課長、部長、社長などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。コンビニという構造体へ行くと、店長、店員、客などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。道路という構造体を使用する時には、歩行者、自動車運転手、自転車の乗り手などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。電車という構造体に乗る時には、客、運転手、車掌などを自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。カップルという二人から成る構造体の中では、恋人を自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。仲間という数人から成る構造体の中では、友人を自分のポジションとして与えられ、それを引き受けて、自我として活動する。つまり、おのおのの構造体の中で、自我(自分のポジションとしての活動)が認められるように、家族ゲーム、学校ゲーム、会社ゲーム、コンビニゲーム、道路ゲーム、電車ゲーム、カップルゲーム、仲間ゲームを行っているのである。そして、全てのゲームにルールがあるように、全ての構造体にもルールがある。ルールを破れば、罰せられることが一般的だが、あまりにひどいルール破りは、構造体から追放される。誰しも、構造体から追放されるのが嫌だから、ルールを守ろうとするのである。ある構造体から出ても、別の構造体に入れてもらえる保証も別のポジションが与えられる保証が無いからである。それほど、人間にとって、ある構造体に属し、あるポジションを与えられ、それを自我として活動することが重要なのである。なぜならば、自我(自分のポジションとしての活動)があって、初めて、対他存在(他者から認められたり高く評価されたりすること)を満足する機会が与えられるからである。学校という構造体や会社という構造体での自殺の原因は、自我が認められなかったことである。学校でいじめに加担するのは、仲間という構造体から出された後、別の構造体には入れる保証は無く、不安だからである。ストーカーになるのは、カップルという構造体を形成していた一人が別れを告げて去ろうとしているのだが、残されたもう一人が、カップルという構造体が消滅することに限りなく不安を覚え、それを認めたくないからである。ストーカーにならずとも、カップルという構造体を形成していた一人が別れを告げると、残されたもう一人は、誰しも、ストーカー的な心情に陥るものである。このように、我々は、いついかなる時でも、ある構造体に属し、ある特定のポジションを与えられ、それを引き受けて、自我として活動している。そして、常に、深層心理に、他者から、自我(自分のポジションとしての活動)が認められるように活動するように、対他存在を満足させるように動かされている。つまり、いついかなる時でも、構造体と自我から逃れることはできない。しかし、どの構造体での活動しろ、皆、ゲームである。家族ゲーム、学校ゲーム、会社ゲーム、コンビニゲーム、道路ゲーム、電車ゲーム、カップルゲーム、仲間ゲームなどのゲームである。確かに、深層心理には常にせき立てられるが、たかがゲームではないかと考えて、自我に捕らわれ過ぎない生き方をすることが大切である。