あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

本当の自分は何なのか、本当の自分は誰なのか(自我その58)

2019-03-14 19:48:24 | 思想
我々は、日常生活において、初対面の人に会うと、自分から若しくは相手の問いに答えて、自分について語る。例えば、ある男性は、中学生の娘の保護者懇談会では、「由美の父です。」と述べる。友人の家に電話して、息子らしき人が電話に出ると、「山田太郎という者ですが、お父さん、いらっしゃいますか。」と尋ねる。ある家に荷物を運んで、インターフォン越しに、「どなたですか。」と尋ねられると、「宅配業者です。」と答える。数人で深夜巡回し、中年男性と一緒の高校生と思われる女性を見かけ、家に帰るように諭し、その男性から、「おまえたちは何だ。」と尋ねられると、「補導員です。」と答える。コンビニに入り、店員に間違われて、ティッシュペーパーの売場を尋ねられると、「私も客なんですが。」と答える。もちろん、彼は一人であるが、このように、時と場合により、父、山田太郎、宅配業者、補導員、客になる。いずれも彼の役割を示している。それでは、どの役割の彼が、最も正しいなのか。一見、山田太郎のように思える。固有名詞であり、名前が他者が代替できないような役割を担っているように思われるからである。しかし、山田太郎という固有名詞は、山田家に生まれ、両親に太郎と名付けられた者の名前であり、それだけでは意味をなさない。「山田太郎という者ですが、お父さん、いらっしゃいますか。」と尋ねた時も、「お父さん」の友人ということがわかって、初めて意味をなすのである。彼は、その他にも、時と場合によって、日本人、北海道民、夫、兄などになる。父、友人、宅配業者、補導員、客、日本人、北海道民、夫、兄など、全てが、山田太郎の正しい役割である。特に、山田太郎の最も正しい役割というものは存在しないのである。つまり、我々人間は、時と場合に応じて、いろいろな役割を担って行動し、特に正しい欲割というものは存在しないのである。いずれもが自分自身だかり、その時は、他者の代替が利かないからである。我々は、このようにして、時と場合に応じて、いろいろな役割を担って行動しながら、毎日を送っている。しかし、このような自分のあり方に疑問を呈する時がある。「本当の自分は何なのか」や「本当の自分は誰なのか」と、自分自身の心に問いかける状況に陥った時である。かつて、自分探しという言葉が流行った。テレビ番組で、自分探しの旅に出ている若者を取り上げたこともあった。また、自分探しをしなければならなくなった若者の心理を、社会的な風潮と関連づけて説明した本も出版された。果たして、彼らは本当の自分を見つけることができたのだろうか。現在も、本当の自分が見つけられずに悩んでいる若者はいるのだろうか。確かに、自分のことは全部わかっているつもりでも、いざ、「本当の自分は何なのか」や「本当の自分は誰なのか」と、自分自身の心に問いかけてみると、無数に答えがあるようであるが、どれもしっくり来ない気がする。先の山田太郎の例で言えば、山田太郎が、「本当の自分は何なのか」や「本当の自分は誰なのか」と、自分自身の心に問いかけてみれば、さすがに、補導員、客、日本人、北海道民はないだろうが、父、友人、宅配業者、夫、兄などが候補に上がるが、どれもしっくり来ない気がする。それでは、なぜ、今まで、疑問を持たずに、毎日、いろいろな役割を担い、それをこなしながら、暮らしていたのに、「本当の自分は何なのか」や「本当の自分は誰なのか」と、疑問を持つようになったのか。それは、自分に自信を無くし、絶望感に陥ったからである。なぜ、自信を無くしたのか。それは、人間は、毎日、いろいろな役割を担って暮らしているが、その役割の一つでも、他者からの評価が最低だと自分に思われる時があったからである。役割は他者からの評価があって初めて成立するから、一つの役割でも、自分が最低だと思われるような評価がされると、自信を失い、絶望感に陥り、それが全体に波及し、全ての役割に対して自信を失ってしまうのである。人間はバランスの動物だからである。その絶望感から逃れ、自信を取り戻そうとして、「本当の自分」を探そうとするのである。しかし、そもそも、「本当の自分」は存在しないから、それを求めても不可能なのである。一つの役割、つまり、「一つの自分」が損傷して、心に傷を負い、自信を失い、絶望感に陥っているのだから、暫くして、心の傷が癒えれば、再び、バランスを回復し、日常生活を送れるようになるのである。そもそも、人は他者から注意されると、自分が最低に評価された、これで自分はもう終わりだと思いがちだが、時間を掛けて考えてみれば、その評価は一時的なものであり、大部分の時間は問題なく過ごし、これまで役割を十分にこなしていたことに気付くものである。自分探しの旅は、心の傷を癒やし、時間を掛けて考えてみる良い機会になるであろう。しかし。「本当の自分」にこだわっている限り、永遠に旅は終わらないだろう。