あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

表層心理の覚醒、深層心理の躍動(自我その61)

2019-03-17 20:48:52 | 思想
我々は、誰しも、自由、主体性を好む。そして、他者に束縛されない限り、自分は自由に、主体的に行動できると思っている。しかし、果たして、そうであろうか。自由とは、自らを意識し、自らの意志によって、主体的に行動することである。自由には、意識と意志が絶対条件なのである。しかし、人間は、自由であっても、意志に拠ることなく、意識せずに行動することがあることが、一般的に認められている。それを無意識という。一般に、無意識の行動はまれにしか起こらず、人間は、ほとんどの行動を意識して、主体的に行っていると思われている。しかし、私は、逆だと考えている。私は、人間のほとんどの行動は無意識に拠るものだと考えている。一般に、無意識の行動と言うと、無根拠の、思いがけない行動のように解釈されるている。しかし、私は、それは、意識されていないだけで、よく考えられた行動だと考えている。それゆえに、私(私だけではないが)は、無意識を深層心理と言い換えたいと思う。無意識という名前には、マイナーの、負のイメージがあるからである。フロイト以来、心理学では、無意識を、「本人は意識していないが、日常の精神に影響を与えている心の深層。」と解釈しているが、私は、無意識はそれ以上の役割を果たしていると思っている。そして、無意識の深層心理の対として、意識を表層心理と呼びたいと思う。さて、人間は、意志の力を信用しているが、目覚まし時計を使わなければ、若しくは、他者に起こしてもらわなければ、起きられない人が多い。また、意志で眠ることができない。だから、ベッドや布団に入った時間はわかっていても、自分が寝入った時間を、誰一人知らない。眠りたいのに、眠ることができず、睡眠薬や睡眠導入剤を使用している人は珍しくない。このように、人間は、一日の始まりと終わりですら、自分の思うとおりにできないのである。どこに、意志の力があるのだろうか。ニーチェは、「人間は、意志を意志することができない。」と言っている。つまり、意識された意志、言い換えれば、表層心理が生み出した意志は、力が弱いのである。ニーチェの言葉に、「権力への意志」があるが、これは「他者に認められたい人間の強い欲望」という意味であり、深層心理が生み出したから、力が強いのである。ところで、言うまでもなく、一日は、起床から始まる。ある日、目覚めると、部屋に違和感を覚え、部屋を見回すとともに、現在の自分の状況を意識し、なぜ、ここにいるのかを考える。そして、昨晩、飲み過ぎて、終電に遅れ、ホテルに泊まったことを思い出し、安堵する。しかし、普段は、我々は、意識して部屋を見回すことはしない。しかし、部屋を見ていないわけではない。夢から覚めて、夢から現実の世界へと風景は一変しているはずだから、部屋を見ているのである。ただ、無意識に、部屋を見ているから、つまり、深層心理が部屋を見ているから、部屋をを見ていることに気付かないのである。もちろん、自分の部屋だから、意識して、見回すこともしない。そして、次に、憂鬱になる。会社に行くことを考えたからである。嫌みな上司のせいである。しかし、会社に行かなかったことを考えると、退職に繋がり、生活の糧を失い、路頭に迷う自分を想像する。そして、会社に行くことを決める。働くということは、快不快より、生きていくことに繋がっていることを実感したからである。ところで、憂鬱は、深層心理が生み出したものである。表層心理は、感情を生み出さないからである。そして、憂鬱な気持ちが、表層心理に、自分が上司のせいで会社に行きたくない気持ちでベッドの上にいることを意識させる。人間は、順調な時や人に見られていない時は、深層心理のままに動き、自分を意識しないのである。しかし、今回は、憂鬱だから、自分を意識したのである。そして、会社に行かないといういつもとは異なったことを行うこと想定すると、必ず、深層心理は、そのような行動をすると、どのようなことが結果として起こるかも考えるのである。つまり、表層心理が、嫌みな上司に会うことの辛さと生活の糧を失うことの辛さを天秤に掛けて、嫌みな上司に会うことを選んだのである。弁証法とは、意見と反対意見の対立を通じて、より高い段階の認識に至る哲学的な方法で、ヘーゲルが有名であるが、我々も、日々、それを行っているのである。