あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

誰もあなたを理解していない。(提言10)

2023-03-31 14:46:01 | 思想
誰もあなたを理解していない。それは、決して、あなたが誰からも好かれていないということやあなたが誰からも興味を持たれていないということを意味していない。そして、あなたも誰一人として理解していない。それも、決して、あなたが誰をも嫌っているということやあなたが誰に対しても興味を持っていないということを意味しない。人間は、誰しも、自分がどのように思われているかを知るために、人を理解しようとするから、人がわからないのである。つまり、自分がどのように思っているかを知るために、その人を探っているのであり、その人そのものを理解しようとしていないのである。また、そもそも、人間は、人がわからないのである。その人が発する言葉、表情、態度、行動によって、その人のを想像しているだけなのである。だから、その人に対してだけでなく、その人が自分をどのように思っているかに対しても誤解が生じるのである。それでは、なぜ、自分を理解されたいと思うのか。それは、自分が理解されていると思うと、その人に自分の存在を認めてもらっているように思うからである。人間には、人に存在を認められようという承認欲があるのである。そして、承認欲があるから、人の気持ちを通して自分を知ろうとするのである。また、人に存在を認められていないと思うと不安だから、人の気持ちを推し量るのである。人間には、現在の自分の位置を確保したいという保身欲があり、保身欲が人の気持ちを推し量らせるのである。しかも、人間がある人に擦り寄って気持ちを理解しようとすれば、忖度に繋がり、その人に支配されていることを意味するのである。人間には、支配欲があるから、逆に、容易に支配されるのである。人間が、理解し合うのは、共通の敵が現れた時である。心を合わせて敵を倒す方法を考えるのである。しかし、それは、倒すという目的を共有しているという共感欲が満足させられるだけで、相手ちを理解しているわけではない。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだすことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人という自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。それは、互いに相手の気持ちを支配していると思うからである。しかし、それは、互いに相手を理解しているということにはならない。人に対する理解とは、志向性(観点・視点)で捉えて、認識しているということである。しかし、人と愛し合うとは、趣向性(好み)で捉えて、心の交流を図ることである。だから、人間は、どれだけ深く愛し合っても、理解し合うまでには至らないのである。だから、人間は、常に、孤独に陥る可能性があるのである。人間は、孤独をかみしめて生きるしかないのである。





安倍晋三元首相は子供だったから支持率が高かったのである。(提言その9)

2023-03-29 15:23:32 | 思想
「子供は正直だ」という言葉がある。大人は嘘をつくことがあるから信用できないが、子供はどんなことも正直に言うから信用できるという意味である。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、子供が正直であるのは、大人に対してではなく、自我の欲望に対してなのである。子供は、自我の欲望に正直だから、店内で駄々をこね、菓子やおもちゃを離そうとしないのである。些細なことが原因となって喧嘩するのである。学校で、嫌いな人を集団でいじめるのである。いじめられた子の中には、自殺する者もいる。つまり、子供は、人の心を思いやる心が無いから、自我の欲望のままに行動し、周囲に多大な迷惑を掛けるのである。そして、時には、死をもたらすのである。だから、大人の介入による抑圧が必要なのである。安部晋三元首相も子供のように自我の欲望に忠実に行動した。それが可能だったのは、国民の内閣支持率、自民党支持率が高かったからである。なぜ、国民の支持が高かったのか。それは、安部晋三元首相は、愛国心という自我の欲望に取りつかれ、それに従って行動したからである。一般に、愛国心は、字が表す如く、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、世界中の人々に、自分が所属している国の存在を認めてほしい、評価してほしいという承認欲から生まれた自我の欲望である。人間は、自分が所属している国の存在が認められ、評価されれば、その国に所属している国民という自我もまた認められ、評価されたような気になるのである。愛国心に取りつかれた人は、そのためには、手段を選ばないのである。愛国心に取りつかれた政治権力者は、国民による強い批判が無ければ、自国の兵士、国民、相手国の兵士、国民を思いやることなく、戦争を引き起こすのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とは、自分が所属している国の存在を認めてほしい、評価してほしいという承認欲だけでなく、自分が所属している国という構造体で、国民という自我を保持し続けたいという保身欲から発した感情でもあるからである。愛国心があるからこそ、自分が所属している国の動向が気になり、自分が所属している国の評価が気になるのである。国の動向が気になるのは、自分の所属している構造体が存続・発展してほしいという保身欲から起こるのである。国の評価が気になるのは、世界中の人々に自分の所属している構造体を評価してほしいという承認欲から起こるのである。世界中の人々に自分の所属している国が評価されれば、国民という自我が評価されたように感じ、快楽が得られるのである。また、愛国心があるからこそ、支配欲、承認欲、共感欲がが生まれ、オリンピックやワールドカップが楽しむことができるのである。勝利すれば、相手選手や相手チームに勝ちたいという支配欲、世界から認められたいという承認欲。自国選手や自国チームとともに戦っているという共感欲が満たされるからである。しかし、愛国心があるからこそ、北方四島、尖閣諸島、竹島という島々を獲得しようという支配欲が生まれるのである。また、愛国心があるからこそ、自国は被害国だから戦わなければ敵国に馬鹿にされると言って、承認欲によって戦争を起こすことを主張する愛国主義者が現れるのである。そして、戦場では、支配欲によって敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。また、戦争が起こってしまえば、国民全体に、国の勝利という一つの目的に向かってと団結するという共感欲が生まれ、勝利を目指して戦うのである。政治権力者はそれを利用して戦争を引き起こすのである。つまり、愛国心とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲に動かされた自我の欲望なのである。安部晋三元首相の自我の欲望による悪行は数知れない。結果的には失敗したが、検察庁法改正案を強行採決し、安倍政権寄りの東京高検検事長の黒川弘務を、検査庁トップの検事長に就任させる道を開こうとした。イスラエルでは、イスラエル寄りの演説をし、イスラム国に、囚われていた後藤健二さんを殺させた。アメリカ軍の普天間基地を、沖縄県民の意向を無視して、辺野古に移設しようと現在も工事を続けている。森友学園、加計学園、桜を見る会で、自らの知人、自らを崇拝している人、自らを支えてくれる人たちに、国税、国土を私物化し、便宜を図った。そのために、近畿財務局の赤木敏夫さんは、自殺している。森友学園との土地取引をめぐって、麻生財務大臣や財務省の理財局長に、財務省の公文書の改竄を命じられ、反対したのに、加担させられたからである。さらに、安倍晋三元首相は、国会の短期間の審議で、強行採決をして、国家安全保障会議、集団的自衛権、特定秘密保護法を通し、内閣総理大臣の判断だけで、いつでも、アメリカに追随して、日本を、戦争ができる国にしたのである。愛国心に取りつかれていたのに、アメリカの下僕であることには、恥じることは無かったのである。韓国経済に打撃を与えようとして、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制した。韓国に、日本の力を知らしめようとしたのである。順風満帆の安倍晋三元首相であったが、2022年7月8日、奈良市での街頭演説中に、山上徹也に銃撃され、死亡した。安倍晋三元首相は、愛国心に取りつかれていたのに、日本人を食い物にしている、韓国発祥の統一教会と一心同体だったからである。山上徹也は、奈良県警の取り調べに対して、「特定の宗教団体に恨みがあり、当初は、その幹部を襲撃しようと考えていた。安倍晋三元首相とその団体が深く繋がっていると思い込んで、犯行に及んだ。政治信条に対する恨みではない。」と供述しているという。マスコミは最初はその宗教団体名を報じなかったが、後に、その宗教団体は、安倍元首相と深く関わり、山上容疑者の母親が信者となり多額の寄付金を強要し、一家を破産させた世界平和統一家庭連合(旧統一教会)だと報じた。なぜ、マスコミは、最初、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という宗教団体名を報じなかったのか。それは、自民党と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を恐れたからである。マスコミの保身欲がなせる業であった。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、安い壺を高く売りつける霊感商法、集団見合いのような形で教会の代表者が結婚相手を決める合同結婚で知られているが、共産主義反対、夫婦別姓反対、同性婚反対、外国人参政権反対、専守防衛・非核三原則・武器輸出三原則の破棄を提唱している。まさしく、安倍晋三元首相と同じ考えである。安倍晋三元首相は、集団結婚を兼ねた統一教会に祝電を送ったこともある。それにしても、安倍晋三元首相の最期はあっけなかった。なぜならば、首相在任期間が歴代最長であり、退陣後も、党内最大派閥を率い、タカ派としての発言力は衰えていず、自民党内では無視できない存在だったからである。確かに、安部晋三元首相は暴君であった。しかし、暴君と言っても、ヒットラーのような政権担当能力があったわけではない。安部晋三には政治的な才能は無い。それは、コロナウィルス騒動でのおたおたぶり、判断力の無さ、決断力の無さでも、十分に窺うことができる。しかし、首相としての才能が無くても、国民を愛国心で引き付けることができれば、思う存分、悪行を重ねることができるのである。総理大臣として君臨できるのである。安部晋三元首相は異常な人間ではない。もちろん、偉大な人間でもない。人間とはこういうものなのである。人間は、深層心理によって動かされている動物だからである。深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という欲動によって思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、自我を欲動が満足する状況にすれば快楽が得られるので、欲動の四つの欲望のいずれかに応じて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。しかし、深層心理が生み出した自我の欲望には、善事だけでなく悪事も存在する。なぜならば、欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望が存在しないからである。人間は、表層心理で、道徳観や社会規約に基づいて思考するのである。表層心理とは、自我を意識しての精神活動である。人間が、表層心理で、自我を安全に維持しようという保身欲という欲望の下で思考するのである。人間は、表層心理で、自我を安全に維持しようという保身欲の下で、道徳観や社会規約に基づいて思考し、悪事を抑圧しようとするのである。なぜならば、道徳観や社会規約を守らずに悪事を犯せば、周囲や社会から顰蹙を買ったり罰せられたりして、自我に現実的な不利益がもたされるからである。しかし、子供は、社会経験が乏しく、道徳観や社会規約を知らないから、表層心理で思考することが無く、深層心理の生み出した自我の欲望に正直に行動するのである。すなわち。善事悪事を区別できないから、店内で駄々をこね、些細なことで喧嘩をし、集団で一人の子をいじめることがあるのである。安倍晋三元首相も、子供と同じく、自我の欲望に正直に行動したのである。深層心理が、総理大臣という自我を主体にして、思考して生み出した愛国心という自我の欲望のままに、行動したのである。すなわち、強行採決をして、国家安全保障会議、集団的自衛権、特定秘密保護法を通し、内閣総理大臣の判断だけで、いつでも、アメリカに追随して、日本を、中国と戦争ができる国にしたのである。徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制した。韓国に、日本の力を知らしめようとしたのである。そして、これらのことが、多くの国民の支持を受けたのである。そして、国民の支持率が高く、悪事を犯しても批判されないと思い、自我の欲望のままに、森友学園、加計学園、桜を見る会で、自らの知人、自らを崇拝している人、自らを支えてくれる人たちに、国税、国土を私物化し、便宜を図ったのである。しかし、人間とはこういうものなのである。他者に批判されなければ、快楽を求めて、自我の欲望のままに行動するのである。善事悪事に関わらず、自我の欲望のままに行動すれば、快楽が得られるからである。国民が批判しなければ、安倍晋三元首相のような悪事を平気で犯す政治権力者が現れるのである。国民が愛国心に取りつかれている限り、愛国心を利用して、悪事を犯し、国を戦争に導く政治権力者が現れ続けるのである。戦争で国民を動かすことは、政治権力者の自我の欲望の最大の喜びだからである。








人間は、誰しも、ナチス党員になる可能性がある。(人間の心理構造その17)

2023-03-23 15:49:17 | 思想
ドイツの哲学者であるアドルノは、「現代の理性は方向を誤り、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べ、ヒットラー率いるナチスが600万人ものユダヤ人を大虐殺した原因を理性に求めた。しかし、ユダヤ人の大虐殺は、理性のせいではなく、自我の欲望から生まれたのである。つまり、ナチスのユダヤ人に対する大虐殺は、深層心理が、自我の欲望として生み出した、ユダヤ人に対する憎しみの感情とユダヤ人を根絶せよという行動の指令か原因なのである。すなわち、ドイツ人のユダヤ人に対する自我の欲望が、ヒットラー率いるナチスの600万人ものユダヤ人の大虐殺を生み出したのである。ナチス時代のドイツ人に限らず、人間は、理性では、究極的には、自我の欲望を抑圧できないのである。つまり、人間は理性の動物ではなく、自我の欲望の動物なのである。人間は、自らの自我の欲望に向き合わない限り、この世から、人殺しも戦争も無くなることは無いのである。人間は、自らを、全動物中最も進化し、最も知能が高い動物であると言う。しかし、動物界でも植物界でも、同種が殺し合っている生物は人間だけである。しかも、殺すことを目的に、殺し合っているのである。だから、時代を追うごとに、殺す方法が先鋭化してきたのである。つまり、人間が、地球上で最も進化した動物は自分だと言っているが、最も進化したのは人殺しの方法なのである。そして、遂に、どんなに遠くにいても、一瞬のうちに、大量に人間を殺すことができる核兵器という武器を造り出したのである。武器の頂点にあるのが核兵器である。人間は、遂に、遠くにいながらにして、爆発すれば、環境を破壊しながら、一瞬のうちに数十万の人間を倒すことができる核弾頭という最も有効な殺人兵器を発明したのである。これが、自らを最も進化している動物だと自負している人間の進化の実態なのである。人間の歴史とは核兵器開発の歴史なのである。しかし、人間は、この歴史の流れを変えようしないばかりか、これからは、核兵器以上に有効な殺人兵器の開発に骨身を削っていくことは想像に難くないのである。なぜならば、人間は、自我の欲望の動物だからである。人間は、根本的には、自らを動かす自我の欲望を抑制できないのである。確かに、人間は、兵器の開発を、個人ではなく、集団的、組織的に行ってきた。しかし、精神分析の大家である心理学者のフロイトが言うように、個人の心情と集団の心情、個人の動きと集団の動きは同じなのである。個人間に嫉妬心があれば国家間にも嫉妬心があり、個人間に争いがあれば国家間には戦争があり、個人間に殺し合いがあれば国家間に大虐殺の応酬があるのである。人間は、個人を分析すれば集団、組織が見えてくるのである。自我の欲望から分析を始めなければならないのである。そして、人間は、理性に対する過剰な期待から自らを解放しなければならないのである。人間は、理性に過剰に期待するから、自らの内なる力である自我の欲望を無視し、自らを根本的に分析できないでいるのである。人間の理性に対する過大な期待が、個人に対しても、社会に対しても、自らの目を曇らせているのである。人間は、決して理性の動物ではなく、自我の動物であることを自覚し、自我の欲望から分析を始めなければならないのである。それでは、自我の欲望とは何か。自我の欲望とは、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令が一体化したものである。自我の欲望が人間を動かしているのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。すなわち、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が人間を動かしているのである。感情が動力となって、行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。深層心理が生み出した感情が強ければ、容易に、理性による思考や主体的な思考を押しのけ、深層心理が生み出した行動の指令通りに、人間を動かすのである。深層心理が生み出した強い感情は、時には、暴行、レイプ、殺人などの残虐な行動に走らせるのである。強い感情は、理性による思考や主体的な思考を押しのけ、人間をして、深層心理が生み出した行動の指令通りに、残虐な行為を行わせるのである。理性とは、感情に左右されず、真偽・善悪を識別する能力である。主体的とは、他者や他人の意見に左右されず、自らを純粋な立場において思考し、行動するあり方である。理性による思考や主体的な思考は、表層心理での思考である。表層心理とは、深層心理とは対照的に、人間の有意識の精神活動である。つまり、表層心理での思考とは、自らの存在を意識し、自らが思考していることを意識しながら思考することである。つまり、深層心理が思考して生み出したユダヤ人に対する憎しみの感情が、理性による思考や主体的な思考を押しのけて、ナチスに、大虐殺を行わせたのである。もちろん、ナチスの行動は非難すべきである。しかし、人間は、誰しも、平和時においても、ナチスに類似した行動を行う可能性があるのである。なぜならば、人間は、誰しも、いついかなる時でも、自我の欲望に動かされて生きているからである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、ある構造体の中で、自我として生きているのである。さて、人間は、自らを自分と称するが、それでは、自分は自我とどのように関わっているか。人間にとって自分とは一人だが、自我は構造体ごとに異なったあり方をしている。自分は自我の総称であって、固定したあり方ではない。人間は、一つの自我を失っても、自分は存在し続ける。逆に、自分を失えば、すべての自我を失う。だから、小学校、中学校、高校で、教師、クラスメート、顧問、部員にいじめられて自殺する生徒がいるが、その生徒は、学校をやめれば良いのである。生徒という自我を失えば、いじめられなくなるからである。彼(彼女)は、生徒という自我を失っても、他の自我で生きていけるのである。人間には、複数の自我がある。たとえば、ある人は、家族という項構造体では父であり、会社という構造体では営業課長であり、コンビニという構造体では客である。自我は、他者や他人と異なったあり方を示しているにすぎない。しかし、人間は、総体として、複数の自我が存在するが、同時に複数の自我を持てない。人間は、構造体ごとに、それに応じた一つの自我を演じているのである。しかし、人間には、演じているという意識は無い。深層心理が、自我を主体にして、自我の欲望を生み出して人間を動かしているからである。だから、人間は常に自我として生き、それを自分だと思い込んでいるのある。すなわち、人間は、所属する構造体ごとに、異なった自我になるが、それは、なろうとしてなるのではなく、自然になっているのである。人間が、社会的な存在だと言うのは、常に、構造体に所属して、他者と関わりながら、他人を意識して、自我として生きているということである。人間が生きていくには、構造体に所属して、自我として生きていくしかないのである。所属する構造体が自我を決定するのである。その自我は、その構造体の中でしか通用せず、固定した存在ではないから、主体的に生きられないのである。つまり、人間は、常に、構造体の中で生きるしかなく、構造体の中の他者に自我が与えられるから、自我を自分だと思って生きるしかないのである。しかし、人間は、常に、構造体に所属して、構造体から与えられた自我に執着して暮らしているが、それを意識したり、疑問に思ったりする人はほとんどいない。なぜならば、それは、自らの存在を疑うことであり、自らを不安に落とし込むことだからである。また、深層心理が、自我に執着し、自我の欲望を生み出すために思考しているから、人間は、それに身をゆだねれば、楽なのである。人間は、表層心理で自らを意識して思考しなくても良いから楽だから、多くの人は深層心理の思考の所産である自我の欲望のままに動いているのである。深層心理は人間の無無識の精神活動であるから、人間は、自ら意識しなくても、自ら意志しなくても、自我に執着すれば、生きていけるのである。つまり、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、自我に執着して、思考して、行動しているのではなく、深層心理が、自我に執着して思考して生み出した自我の欲望によって動かされているのである。だから、人間は、自らは自分に執着して生きていると思っているが、その自分とは、人間が、自ら選んだあり方では無く、構造体から与えられ、自らを他者や他人と区別して指している自我というあり方で生かされていることを意味するのである。他者とは構造体内の人々であり、他人は構造体外の人々である。人間は、深層心理に支配され、深層心理が自我に執着しているから、人間も、自我に執着して生きるしかないのである。さて、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、欲動によって、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がある。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという承認欲がある。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲がある。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲がある。人間は、すなわち、深層心理は、自我を欲動にかなった状態にすれば快楽が得られるので、深層心理は、自我を欲動の四つの欲望のいずれにかなうように状態にするようにに思考して、行動の指令を生み出し、その動力として感情を生み出し、人間を動かそうとするのである。すなわち、欲動が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。さて、欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲があるが、深層心理は、保身欲に基づいて、ほとんどの人の日常生活をルーティーンにしているのである。また、毎日の生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。それは、深層心理の思考のままに行動しても何ら問題が無く、表層心理で自らを意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。そして、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、日常生活において、ルーティーンを破ることが起こることがある。それは、ほとんどの場合、学校、会社、コンビニなどの構造体で、教師、同級生、上司、先輩、客などに大声で怒鳴られたりなどされ、自我が他者に認られたいという承認欲が阻害された時である。そのような時、深層心理が思考して、怒りの感情と怒鳴った他者に対して怒鳴り返せなどの行動の指令を、自我の欲望として生み出し、その行動の指令通りに動くように指図する。しかし、そのような時には、まず、超自我という機能が働く。深層心理には、欲動の保身欲から発した、超自我という、日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとする機能があり、それが動くのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。その場合、次に、人間は、表層心理で、行動の指令について検討するのである。人間は、表層心理で、自らの自我の状況を認識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則から、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒否するか考えるのである。現実原則とは、フロイトの言葉であり、現実的な利得を求め、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという志向性である。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。人間は、表層心理で、自我の状況を意識し、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、自我にどのようなことが生じるかを、現実原則の視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を大声で怒鳴り返したならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを考えて、怒鳴り返せという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を怒鳴り返せという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、怒鳴り返してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した深層心理の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。そして、深層心理は、自我を守るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かし、時には、罪を犯させるのである。ナチス党員が、ユダヤ人の虐殺を行ったのも保身欲からである。ナチス党という構造体から追放されたくなかったから、それに加担したしたのである。また、ユダヤ人虐殺が日常化していたから、表層心理で、自らのその行動を意識して考えることが無かったのである。また、日本の官僚たちが、安倍晋三元首相が起こした森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題になどで、「記憶にございません」と繰り返し国会答弁し、証拠隠滅、書類消去、書類改竄などの罪を犯したのは、安倍晋三元首相に恩を売り、立身出世したかったからである。彼らは、自我の保身から、国民を欺いたのである。また、彼らは、深層心理で、国民を欺くことがルーティーンになっているから、表層心理で、自らの行動について、反省することが無いのである。学校でいじめ自殺事件があると、校長・教頭・教諭が校内のいじめを隠蔽するのは、自らの自我を守るためである。深層心理には、被害生徒への思いよりも、自らの自我が大切なのである。いじめた子の親も、自らの自我を守るために、自殺の原因を、いじめられた子やその家族関係に求めるのである。さらに、生徒や会社員が嫌々ながらも学校や会社へ行くのは、生徒や会社員という自我を守りたいためである。そして、裁判官も、自我を守りたいという保身欲で動くから、日本の裁判は、常に、政権寄りの判決になるのである。次に、欲動の第二の欲望である自我を他者に認めてほしいという承認欲であるが、それは、深層心理が自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。深層心理は、常に、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考しているる。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自我がどのように思われているかを探ろうとする。フランスの心理学者のラカンは、「人は他者の欲望を欲望する」と言う。それは、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」という意味である。この言葉は、端的に、承認欲を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の承認欲の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているからである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。ナチス党員が、ユダヤ人の虐殺を行ったのも、上官に認められたいという承認欲からである。また、人間の犯罪は、自我が他者に認められないどころか、他者に心が傷つけられ、怒りの感情を持ったことが原因である。すなわち、犯罪は、決まって、傷心から始まるのである。深層心理が傷つけられたからである。怒りは、深層心理が思考して生み出した復讐の感情である。それは、深層心理には、自我が他者から認められたい、評価されたいという欲望があるからである。しかし、それが、他者に認められるどころか、貶され、プライドがずたずたにされたから、心が傷付き、深層心理が、その傷心から立ち上がろうとして、怒るのである。そして、深層心理の敏感な人は、感情の起伏が激しいから、激しく罵倒したり、いきなり殴り掛かるなどの乱暴を働くことがあるのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付きやすく、深層心理が、その傷付いた心を早く回復させるために、怒り、自我に、傷つけた人を激しく罵倒させたり、乱暴を働かさせたりするのである。怒りは、深層心理が生み出した感情であり、自らの心を傷つけた相手に対する復讐を実行させる大きな力になるのである。全ての感情が行動の指令を実行する動力になっているのであるが、怒りという感情が最も大きい動力であるから、人間は怒りに駆られて行動の指令通りに行動するのである。深層心理は自らが思考して生み出した行動の指令を、自我に実行させるために、感情という動力を生み出しているのである。つまり、感情とは、現在の自我の状況を反映しているだけでなく、次の行動への動力になっているのである。特に、怒りは感情の中でも最も強い感情であり、自我を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自我を上位に立たせようとするのである。それは、自我が下位に落とされ、心が傷付いたからである。だから、深層心理は、怒ると、徹底的に自我を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自我を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。自我を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。それが、犯罪に繋がるのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手の弱点を突いて下位に落とそうとするのである。女性に対しては、「ブス」、「デブ」などと侮辱したり、男性に対しては、「能なし」、「ちび」などと侮辱したり、相手が抵抗するまもなく殴ったりするのである。強い怒りのの感情には、深層心理に存在する超自我というルーティーンの生活を守る機能も、表層心理での現実原則の自我の利益を守るという志向性も抗することはできないのである。次に、欲動の第三の欲望である自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲であるが、それは、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、満足感、充実感という快楽を得ようとすることである。支配欲とは、他者・物・現象を対象にして、自我の志向性や趣向性で、支配しようとするという欲望である。志向性とは、わかりやすく言えば、観点・視点である。趣向性とは、わかりやすく言えば、好みである。まず、他者を対象にしての支配欲であるが、それは、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接し、自我が他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのである。まず、他者という対象の支配欲であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのである。ナチス党は、ユダヤという劣等民族がドイツの第一次世界大戦の敗北を招いたのだろいう志向性で、復讐によって支配しようとし、大虐殺を行ったのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが目的である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが目的である。だから、校長や社長は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに横暴なことをするのである。わがままな行動も、支配欲によって起こる行動である。わがままを通すことができれば、深層心理が快楽を得られるからである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、深層心理が快楽を得られるからである。そして、後に、表層心理で思考して、自然破壊を認識し、悩むのである。次に、現象という対象支配欲であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるからである。さらに、支配欲が高じると、深層心理には、無の有化、有の無化という機能が発生する。無の有化とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に実際には存在しなくても、この世に存在しているように思い込むことである。深層心理は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。有の無化とは、深層心理は、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、その苦しさから逃れるために、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。神の存在にしろ、犯罪者の心理にしろ、深層心理は、自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。最後に、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲であるが、それは、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うという対等の関係である。特に、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に恋愛感情を支配されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲がかなわなかったことから起こるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、屈辱感が強過ぎたからである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望である保身欲が消滅することの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である恋人という自我を認めてほしいという承認欲がかなわなくなったことの辛さもあるのである。そして、ストーカーの深層心理は、屈辱感から、怒りという感情と付きまとえ・襲撃せよなどの行動の指令を自我の欲望を生み出し、別れを告げられた者を、行動の指令通りに行動させようとするのである。そして、ストーカーは、表層心理で思考して、現実原則から、自我に現実的な利得を求めようとして、行動の指令通りに行動したならば、後に、自我に不利益なことがあるとわかり、意志で抑圧しようとしても、怒りの感情が強いので、そのまま行動してしまうのである。これが、ストーカーの惨劇である。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望から発している。ナチス党はユダヤ民族を共通の敵として、ドイツ人と共感欲を満たしていたのである。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないという支配欲から起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、「呉越同舟」の現象である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは他クラスを倒して皆で喜びを得ることができるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終わると、再び、二人は、互いに相手を対象化して、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないという支配欲から、仲が悪くなるのである。このように、人間は、誰しも、深層心理が自我に執着し、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。だから、人間は、誰しも、平和時においても、ナチス党員になる可能性があるのである。









右翼の誕生。(人間の心理構造その16)

2023-03-14 12:49:43 | 思想
右翼になるのは簡単である。愛国心に取りつかれ、愛国心に従ってひたすら行動する者が右翼だからである。戦争とは、愛国心に取りつかれた右翼同士の戦いである。一般に、愛国心は、文字通り、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、世界中の人々に、自分が所属している国の存在を認めてほしい、評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自分が所属している国の存在が認められ、評価されれば、国民という自我もまた認められ、評価されたような気になるのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心とは、自分が所属している国という構造体で、国民という自我を保持し続けたいという保身欲から発した感情でもあるからである。愛国心があるからこそ、自分が所属している国の動向が気になり、自分が所属している国の評価が気になるのである。国の動向が気になるのは、自分の所属している構造体が存続・発展してほしいという保身欲から起こるのである。国の評価が気になるのは、世界中の人々に自分の所属している構造体を評価してほしいという承認欲から起こるのである。世界中の人々に自分の所属している国が評価されれば、国民という自我が評価されたように感じ、快楽が得られるのである。また、愛国心があるからこそ、支配欲、承認欲、共感欲がが生まれ、オリンピックやワールドカップが楽しむことができるのである。勝利すれば、相手選手や相手チームに勝ちたいという支配欲、世界から認められたいという承認欲。自国選手や自国チームとともに戦っているという共感欲が満たされるからである。しかし、愛国心があるからこそ、北方四島、尖閣諸島、竹島という島々を獲得しようという支配欲が生まれるのである。また、愛国心があるからこそ、自国は被害国だから戦わなければ敵国に馬鹿にされるとして、承認欲によって戦争を起こすことを主張する右翼が存在するのである。そして、戦場では、支配欲によって敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。また、戦争が起こってしまえば、国民全体に、国の勝利という一つの目的に向かってと団結するという共感欲が生まれ、勝利を目指して戦うのである。政治権力者はそれを利用して戦争を引き起こすのである。つまり、愛国心とは、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲に動かされた自我の欲望なのである。しかし、愛国心に限らず、人間は、自我の欲望に動かされて生きているのである。すなわち、人間は、自ら意識せずして、心の中に、自我の欲望が生まれ、それに動かされて生きているのである。人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、他者と関わらせ、他人を意識しながら、人間を動かしているのである。人間の意識した精神活動を表層心理と言う。つまり、人間は表層心理で思考して生きていないのである。すなわち、人間は表層心理で自らを意識して思考し意志によって生きていないのである。それでは、構造体、自我とは何か。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、他者からある特定の役割を担ったポジションが与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、さまざまなものがあり、自我も、その構造体に応じて、さまざまなものがある。国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我がある。県という構造体では、知事・県議会議員・県職員・県民などの自我がある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我がある。夫婦という構造体では、夫・妻という自我がある。店という構造体では、店長・店員・客などの自我がある。電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我がある。仲間という構造体では、友人という自我がある。カップルという構造体では恋人という自我がある。他者とは、構造体内の人々である。他人とは構造体外の人々である。それでは、なぜ、深層心理は、自我を主体にして思考するのか。なぜ、自分ではなく自我なのか。それは、自分とは自らを指す言葉であるが、抽象的な存在でしかないからである。人間は。この世に生まれ、社会生活を営みながら生きていくには、構造体という具体的な人間の組織・集合体に所属して、自我という具体的な形になって行動するしかないのである。それでは、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得られるから、欲動に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理を動かし、深層心理が自我である人間を動かしているのである。欲動の第一の欲望は、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。これが、欲動の四つの欲望の中で、最も強く、深層心理を動かしている。なぜならば、自我あっての人間であり、自我なくして人間はこの世に生きていけないからである。人間は、この世で、社会生活をして生きていくには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるから、保身欲があるのである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるのである。だから、人間は、誰しも、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、生きているのである。フランスの心理学者のラカンに、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉がある。「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという承認欲を端的に言い表している。だから、日常生活において、人間、誰しも、構造体の中で、他者から認められよう、非難を受けないように行動しているのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、人間の苦悩のほとんどが、他者から悪評価・低評価を受けたことが原因なのである。欲動の第三の欲望が、他者・物・現象などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の支配は、深層心理が自らの志向性で他者・物・現象を捉えることから始まり、自我の下に置くことで完成するのである。志向性とは対象を捉える方向性である。まず、他者という対象に対する支配であるが、それは、文字どおり、自我が他者を支配すること、構造体のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、構造体のリーダーとなることができれば、深層心理は喜び・満足感という快楽が得られるのである。すなわち、人間が喜び・満足感という快楽が得るのである。さらに、わがままも、他者を支配したいという欲望から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。人間、誰しも、自我のわがままを通したいが、そうすると、他者から非難され、承認欲が阻害されるので遠慮しているのである。次に、物に対する支配欲であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採して木材にすること、鉱物から金属を取り出すこと、包丁で魚をさばくことなど、いずれもこの欲望による。樹木、鉱物、包丁などの物を対象として利用し、支配することができれば快楽を得られるのである。最後に、現象という対象に対する支配欲であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感・充実感という快楽が得られるのである。さらに、支配欲が高まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれるのである。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・現象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。次に、無の有化という機能であるが、それは、人間は、自我の志向性に合った、他者・物・現象が実際には存在しなくても、深層心理が、この世に存在しているように思い込むのである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、深層心理が、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめ自殺事件があると、いじめた子の親たちは親という自我を傷付けられるのが辛いから、自殺の原因はいじめられて自殺した子の家族にあるとするのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感という快楽を得るために行なわれるのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。それは、深層心理が、自我と他者が理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることで、喜び・満足感・充実感という快楽得ようとするのである。愛し合うという現象は、互いに、相手の心を支配することだけでなく、相手に身を差しだし、相手に支配されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができ、恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるからである。また、友人を作ろうとするのは、共感欲を満足させ、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするためである。中学生や高校生が、仲間という集団でいじめや万引きをすることがある。積極的にいじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体で友人という共感欲に満足しているのである。嫌々ながらも、いじめや万引きに参加している者は、仲間という構造体から追放され、友人という自我を失うのが怖いからである。さらに、「呉越同舟」という四字熟語がある。「共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること。」という意味である。これも、また、共感欲から発した現象である。日本がアメリカに隷属しているのも、「呉越同舟」の現象である。日本とアメリカに、中国・ロシア・北朝鮮という共通の敵国が存在するからである。自民党は、これを利用して、国民を右傾化に導き、それが成功し、支持を集めているのである。それでは、感情と行動の指令という自我の欲望とは何か。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我となっている人間を動かそうとしているのである。深層心理が生み出した感情が力となって、深層心理が生み出した行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。感情が強ければ、それだけ、自我が動かす力が強いのである。たとえば、深層心理が怒りの感情と殴れという行動の指令を自我に出せば、怒りの感情が強いほど、相手を殴る可能性性が高くなるのである。つまり、人間は、自由に動いているのではなく、深層心理が生み出した自我の欲望通りに動いているのである。その端的な例は、ほとんどの人の日常生活がルーティーンになっていることである。ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から来ているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で自らを意識して思考することなく、深層心理が生み出した自我の欲望のままに、無意識のままに行動しているから可能なのである。逆に、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていない証である。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。しかし、日常生活において、異常なことが起こることもある。それは、ほとんどの場合、侮辱などをされ、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が傷付けられた時である。そのような時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手に危害を加えろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に、相手に危害を加えることを促すことがある。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた異常な行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から来ている機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、深層心理が生み出した相手に危害を加えろという過激な行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望であり、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないようにしようという現実原則の視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。しかし、右翼は、自らの行動を異常だと思っていないのである。だから、超自我が機能しないのである。すなわち、深層心理が異常な行動だと認識しないから、超自我がその行動を抑圧しようとしないのである。たとえば、右翼の組織として、在日特権を許さない市民の会という組織がある。「在日は日本から出て行け。」、「在日は死ね。」、「在日を殺せ。」などのヘイトスピーチを繰り返して街頭行進をした集団である。在日韓国人や在日朝鮮人に対して侮蔑意識が無ければ、このようなことができるはずがない。歴史を知らないというだけでは済まされない問題である。当然のごとく、国連は、ヘイトスピーチを人権問題化し、日本政府に取り締まるように勧告してきた。しかし、当時の安倍自民党内閣は、当初、表現の自由を理由にして、耳を貸そうとしなかった。その自民党の憲法改正草案は、国民の表現の自由を徹底的に制限しているのだから、笑止千万である。頭隠して尻隠さずである。言うまでもなく、安倍晋三前首相はもちろんのこと、自民党の国会議員もヘイトスピーチをする集団と同じような考え方をしているから、ヘイトスピーチを取り締まらなかったのである。もちろん、ヘイトスピーチをする集団も、安倍内閣、自民党を支持している。安倍内閣が誕生したから、ヘイトスピーチをする集団が現れたのである。ヘイトスピーチをする集団は、在日特権を許さない市民の会と称しているが、もしも、在日韓国人や在日朝鮮人に特権があったとしても、それを決めたのは歴代の自民党内閣である。批判の矛先が間違っているのである。自民党を批判しなければいけないのである。自民党の国会議員やヘイトスピーチをする集団以外にも、明治以来の戦前の日本の韓国(朝鮮)政策を支持する日本人はかなり存在する。日本が併合したから、韓国(朝鮮)はインフラが整備され、農業収穫が増加し、現代に残る大学も創設されたりなどして、国が豊かになったのだと言う。確かに、そういう面はある。しかし、自主権を奪われて、国が豊かになったと言われても、それは、韓国人(朝鮮人)の人間性を侮辱するのものでしかないだろう。また、日本が併合していなくても、ロシアが占領していただろうと言う人もいる。確かに、日露戦争は、朝鮮及び満州の支配権をめぐる対立から発展した軍事衝突であった。日本が勝利したから、韓国(朝鮮)を併合しただけだと言う。しかし、日本とロシアの韓国(朝鮮)の支配権をめぐっての対立は、韓国(朝鮮)にとっては、はた迷惑なだけなのである。そして、韓国併合の時期は、世界的に帝国主義の時代で、植民地にするか植民地にされるかの二者択一の生き方しかなく。日本は欧米に倣って後者を選んだのである。悪いのは、帝国主義の時代を作った欧米である。日本も、アメリカによって、鎖国を破られ、日米和親条約、日米修好通商条約によって、主要港を開港し、治外法権を認め、片務的関税協定を結ばせられた。そして、同じような内容の条約を、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ばせられた。だから、日本は、欧米の模倣をしただけであると言う。確かに、日本は、欧米に対しては、堂々と論陣を張ることができる。しかし、韓国(朝鮮)に対しては言い訳できない。心から謝罪し、賠償するしかないのである。韓国人(朝鮮人)にとっては、今もって、長年、日本に支配されていたという歴史的事実は悔しい出来事なのである。また、韓国併合という言葉自体がまやかしの言葉であり、実際は、日本の軍事力によるから、韓国支配、韓国占領、韓国征服などと言うべきなのである。琉球処分という言葉もそうである。明治政府の、1872年から1879にかけて、琉球王国を解体し、日本国家に強制的に組み込んでいく過程は、琉球処分と呼ばれているが、軍事力を持って無理やり成し遂げたことであるから、琉球支配、琉球占領、琉球征服などと呼ぶべきなのである。終戦という言葉もそうである。太平洋戦争は、自然と終ったのではない。日本が、1941年12月8日、自ら、アメリカ、イギリスを中心とする連合国に戦いを挑み、悲惨な目に遭い、1945年9月2日、無条件降伏文書に調印して、攻撃をやめてもらったのである。戦いを挑んで負けたのである。だから、終戦ではなく、敗戦と呼ぶべきなのである。天皇が玉音放送(国民に敗戦を認める放送)を流した8月15日を終戦記念日とするのではなく、惨めにも、東京湾に停泊するミズーリ号で無条件降伏文書に調印した9月2日を敗戦の日とするべきなのである。韓国併合、琉球処分、終戦という言葉は、日本人が、歴史にまともに向かわず、罪の意識や心の傷から逃れようとしていることの現れである。だからこそ、韓国人は、サッカーの日韓戦に韓国人が燃えるのである。サッカーの日韓戦に勝利することによって、日本の韓国支配の屈辱を晴そうとしているのである。言わば、サッカーの日韓戦は、代理戦争なのである。もちろん、野球の日韓戦にも、韓国人は燃える。しかし、サッカーほどは心は高ぶらない。なぜならば、野球は、世界的に見て、マイナーなスポーツだからである。サッカーは、世界で最も人気のあるスポーツだから、世界中の人に、韓国が日本に勝ったことを示したいのである。韓国人の愛国心の故である。確かに、1965年6月22日、日韓基本条約が締結され、韓国の対日賠償請求権は放棄される代わりに、無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力協定が結ばれた。日本人の多くは、これで、韓国に対する償いは済んだと考えている。確かに、この5億ドルによって、韓国の経済は復興した。しかし、それで、韓国人の愛国心が癒されたわけではない。日本人が戦前の韓国(朝鮮)支配を真摯に反省している姿勢を見せ続けない限り、愛国心が癒されることはない。特に、日本の政治指導者に、真摯に反省の姿勢を見せてほしいのである。なぜならば、政治指導者こそ国民の代表だからである。しかし、戦後の日本のほとんどの政治指導者には、その姿勢は見られない。中には、表面上、反省の姿勢を見せるが、本心は異なっているのである。なぜならば、彼らは自民党の国会議員だからである。なぜ、自民党の国会議員には、反省の心が無いのであろうか。それには、二つの大きな理由がある。一つは、彼らは戦前の政治家の精神に繋がろうとしていることである。だから、戦前の日本人の行いを無下に否定できないのである。それは、自民党の憲法改正草案が、大日本帝国憲法と似通っているのを見てもわかることである。自民党の憲法改正草案と大日本帝国憲法が異なるのは、総理大臣が軍隊(自衛隊)を統率するだけである。天皇の地位は、大日本帝国憲法では主権を有していて、自民党の憲法草案では元首となっているから、二つの考えは異なっていると言う人がいるが、基本的な働きは同じである。大日本帝国憲法においても、美濃部達吉が天皇機関説で言うように、国家に統治権の主体があり、天皇は国家の一機関であったのである。もう一つは、彼らの血が、戦前の政治家と繋がっていることである。彼らの多くは、戦前の政治家と血縁関係にあるのである。その典型的な例が安倍晋三である。言うまでもなく、彼は岸信介の孫である。岸信介は、戦後に総理大臣になったが、太平洋戦争を起こした東条英機内閣の商工大臣である。安倍晋三は、祖父の衣鉢を継いだのである。だから、自民党の政治が続く限り、韓国人の愛国心は燃え続けるのである。韓国人が、徴用工、従軍慰安婦を国際問題化するのも、日本の政治指導者に、戦前の日本の韓国支配に対する真摯な反省の姿勢が見られないからである。しかし、日本の政治指導者に真摯な反省の姿勢が見られないのは、当然である。反省していないからである。反省していないのだから、真摯な反省の姿勢が見せられるはずがないのである。時には、反省の姿勢を見せることはあるが、それは政略的なものであり、心からのものでは決してない。だから、失言で、韓国人、朝鮮人、中国人の心を傷つける言葉を発する自民党議員は枚挙に暇がないのである。もちろん、後に、謝罪することになるが、この謝罪も心からのものでないことは言うまでもない。失言こそ、彼らの本心である。それでは、なぜ、戦前志向の自民党を、多くの国民が支持するのだろうか。それも、また、愛国心の故である。国民の多くも、また、現在の日本の政治指導者が、戦前、日本が韓国(朝鮮)に行ったことに対して、真摯な反省の姿勢をみせること、つまり、心から謝罪することは、自らの愛国心を傷つけることになるから、政治指導者にしてほしくないのである。多くの国民にとって、自民党の国会議員と同様に、日韓基本条約の5億ドルで、戦前の贖罪は終わったのである。また、自民党が国民の支持を受けるもう一つの理由として、自民党の政治指導者の方が、野党指導者より、リーダーシップを発揮して、日本を力強く運営できるように見え、愛国心を満足させてもらえる可能性が高いことが挙げられる。たとえ、その力強さは、アメリカ頼みであったとしても。アメリカに追随して、戦前のように、中国、韓国、北朝鮮に対峙できるような。国際的に高い地位を確保して、愛国心を満足させようと考えているのである。ところが、アメリカの政治指導者は、冷戦時代のソ連・中国と対峙していた頃の考え方をいていないのである。ソ連は崩壊してロシアになり、中国は、今や、アメリカの最大の国債購入国・貿易国となり、アメリカにとって、日本は、アジアにおける共産主義からの防波堤の国から、収奪の国に変わってしまったのである。日本の政治家や官僚は、それに気付かず、いや、気付くのが怖いから気付こうとせず、これまでのように媚びを売って軍隊を置かせるだけでなく、これからは、自衛隊隊を差し出し、アメリカの戦争に追随させようとしているそうとしているのである。ところが、アメリカは、日本を利用し、安価で軍事基地を作り、武器を高く売りつけ、日本の内政に干渉し、徹底的に経済的に収奪しようと考えているのである。それは、アメリカ大統領のの演説から見ても、はっきりわかることである。何かがあれば、真珠湾攻撃を持ち出し、日本を非難するのである。しかも、日本に対して強く出ると主張している候補者が、国民から大きな支持を受けているのである。アメリカが豹変したのではない。世界が変わったのである。アメリカは、その世界の変化に合わせて変えようとしているのである。アメリカは、アメリカの国益を目指して動いているのである。それが、アメリカ人の愛国心である。それを利己主義だと非難する日本人は、自らの愛国心の利己主義に気づいていないだけなのである。愛国心とは自我の欲望だからである。だから、愛国心を盾にして戦争が起きるのである。現代の戦争のほとんどは、愛国心によって引き起こされているのである。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望であり、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし、不利益を被らないないようにしようという現実原則の視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した過激な行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動してしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。もちろん。右翼は、自らの政治的な行動を異常だと認識していないから、超自我はがそれを抑圧しないだけでなく、表層心理で、自らの行動を反省することもないのである。右翼は、表層心理で、自らの行動が道徳観や社会規約に照らして、自らの行動が行動が誤っていることも認識しない。在日韓国人や在日朝鮮人が特権を受けているという怒りの感情だけで、「在日は日本から出て行け。」、「在日は死ね。」、「在日を殺せ。」などのヘイトスピーチを繰り返して街頭行進を行ったのである。そこには、そのように大声で叫ばれた人たちの辛い思いを斟酌する気持ちが無いのである。もちろん、右翼は、深層心理が生み出しかた感情と行動の指令通りに行動し、表層心理の思考による抑圧が無いから、苦悩することもない。だから、日本でも、右翼がはびこるのである。政治を、右翼に支持された自民党に委ねれば、日本は戦争に突き進むしかないのである。戦争を起こさないようにするには、自国民の愛国心を抑制し、他国民の愛国心を刺激しないことが最も肝要なのである。愛国心を褒めたたえる人が多いが、それは幼児の思考をした大人である。愛国心を金科玉条にして行動する右翼も、幼児の思考をした大人である。「子供は正直だ」と言って褒めたたえる人は、幼児の思考をした大人である。子供は、自我の欲望に正直に行動するから、菓子やおもちゃを離さず駄々をこね、嫌いな人を集団でいじめるのである。右翼は子供である。愛国心があるからこそ、日本人、ロシア人、中国人、韓国人には、北方四島、尖閣諸島、竹島という島々を獲得しようという支配欲が生まれるのである。また、愛国心があるからこそ、各国に、自国は被害国だから戦わなければ敵国に馬鹿にされるとして、承認欲によって戦争を起こすことを主張する右翼が存在するのである。そして、戦場では、支配欲によって敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。また、戦争が起こってしまえば、国民全体に、国の勝利という一つの目的に向かってと団結するという共感欲が生まれ、勝利を目指して戦うのである。各国の政治権力者はそれを利用して戦争を引き起こすのである。




無知な人間と傲慢な人間について。(人間の心理構造その15)

2023-03-10 17:00:23 | 思想
「子供は正直だ」という言葉がある。言うまでもなく、大人には嘘をつきだます人がいるから、その言葉や行動を全面的には信用できないが、子供は自分の気持ちに正直に言い行動するら信用できるという意味である。しかし、子供は、社会性が乏しいから、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に従って、正直に言い行動しているだけなのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣、国会議員、官僚、国民などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性、大人・子供という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、自我を持って、初めて、人間として行動できるのである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、構造体の中で、自我を持って、暮らしているのである。そして、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、欲動に応じた行動を行えば、快楽が得られるので、欲動に従って思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。すなわち、人間は深層心理に動かされているが、深層心理もまた欲動に動かされているのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。欲動の第四の欲望が、自我の趣向性に合った他者と心の交流を図りたいという共感欲である。子供が、親の制止を聞かず、玩具店でおもちゃを離そうとせず、スーパーマーケットで菓子を離そうとしないのは、深層心理が、物という対象をを支配したいという支配欲に応じて、怒りの感情とおもちゃ・菓子を離すなという行動の指令を、自我の欲望として生み出したからである。

しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から来ている機能である。しかし、子供は、社会性が乏しいから、自我を失う怖さを知らず、超自我がおもちゃ・菓子を離すなという行動の指令を抑圧できないのである。超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、現実的な自我の利得を求めて、道徳観や社会的規約を考慮し、長期的な展望に立って、許諾するか拒否するか思考するのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神活動である。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実的な自我の利得を求める欲望は、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望であり、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した行動の指令について、それをそのまま実行すればどのようなことが生じるかを、自我に利益をもたらし不利益を被らないないようにしようという現実原則の視点で、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などを基に思考し、許諾するか拒否するかを決定するのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我と同様に、表層心理での意志による拒否による抑圧も、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動し、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。それが、所謂、感情的な行動である。しかし、玩具店やスーパーマーケットで駄々をこねる子供は、社会性が乏しいから、表層心理での思考ができず、必然的に、自らの意志でおもちゃ屋菓子を離すことができないのである。親が強制的に諦めさせるしかないのである。また、子供の世界にいじめが多いのも自我の欲望から発しているのである。人間、誰しも、自分の趣向性に合った、好きな人や心を許せる人と、楽しく暮らしたいと思っている。子供でも、毎日のように、クラスという同じ構造体で、生徒という自我を持って暮らしていると、必ず、好きな人と嫌いな人ができる。好きな人とは、共感欲によって仲間という構造体を作り、友人とという自我を持って、楽しく交流できる。しかし、一旦、自分が相手を嫌いだと意識すると、それが表情や行動に表れ、相手も自分も嫌いになり、同じ構造体で、共に生活することが苦痛になってくる。その人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がしてくる。自分が下位に追い落とされていくような気がしてくる。いつしか、相手が不倶戴天の敵になってしまう。そうすると、深層心理は、思考して、怒りの感情と相手を攻撃し炉という自我の欲望を生み出し、相手を困らせることで、自我が上位に立ち、苦痛から逃れることを指令するのである。自分一人で攻撃すると、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れないので、友人たちを誘うのである。自分には、仲間という構造体があり、共感化している友人たちがいるから、友人たちに加勢を求め、いじめを行うのである。友人たちも、仲間という構造体から放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。いじめの場合、超自我も、表層心理の思考での意志による抑圧も、働かないのである。秘密裏に行うからである。大人に知られず、罰せられる虞が無く、ルーティーンの生活が続けられ、罰せられる虞が無いからである。さて、子供は、無知ゆえに、自我の欲望に忠実に行動するが、社会を熟知しているゆえに、自我の欲望に忠実に行動する者が存在する。それは、政治家である。その頂点にいるのが総理大臣である。国という構造体では、総理大臣、国会議員、官僚、国民などの自我があるからである。特に、安倍晋三前首相が、国会で、強行採決を繰り返し、安全保障法制改定法案が可決させ、秘密保護法案、安保法案を通し、集団的自衛権を認めさせ、いつでどこでも、アメリカに追随し、日本を戦争ができる国にした。彼は、森友学園、加計学園、桜を見る会でも、不正を行った。深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快楽を求めて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているが、彼は、欲動の第二の欲望である他者に認められたいという承認欲と欲動の第三の欲望である他者を支配したいという支配欲を思う存分に発揮したのである。彼は、国民の支持率が高く、国民という他者に認められたいという承認欲が満たされたから、傲慢にも、自分は何もしてもよいと思い込んだのである。言わば、国民が彼の悪行三昧を許したのである。安倍晋三前首相は、国民の支持率が高いから、国民の批判が気にならなくなったのある。支配欲から、自分には思い通りの政策を行う資格があり、どのような行為も全て許されると思い込んだのである。人間は、人の目が気になるから、常識的に振る舞うのである。深層心理が、他者に認められたいという承認欲によって快楽を得ようと人間を動かしているからである。言い換えれば、深層心理が、他者に批判されて不快感を味わわないように人間を動かしているのである。安倍晋三前首相は、国民の支持率が高く、一部の国民の批判が気にならなくなったから、好き放題に政治運営ができたのである。このように、人間は、承認欲から、人の目が気になるから、世の秩序が守られているのである。犯罪者は、常に、犯罪を自分の正体を隠して行うのは、人の目が気になるからである。最初は殺す意図がなくても、被害者に自分の顔が見られた場合、後に、証言され、世間から非難され処罰されることを恐れて殺してしまうのである。承認欲のなせる業である。親が幼児を虐待するのも、自分の思い通りにならないからである。支配欲のなせる業である。内縁の夫が幼児を殺す場合幼児が彼に懐かなかったことが原因であることが多い。承認欲のなせる業である。人間は、人の目が気にならなくなると、残虐性を発揮するのである。おれは、人間は自我の欲望の動物だからである。常に、自分の意志に関係なく、深層心理が欲動の四つの欲望から快楽を求めて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出してくるからである。行動の指令の中には残虐なものもあり、超自我や表層心理の思考で抑圧しなければとんでもないことになるのである。ナチスが第二次世界大戦でユダヤ人を虐殺したのも、日本兵が太平洋戦争でアジア人や欧米人を虐殺したのも、アメリカ兵がベトナム戦争でベトナム人を虐殺したのも、ロシア兵がウクライナ国民を虐殺しているのも、人の目が気にならないからである。味方兵は人の目にならない。彼らもまた同じことをしているからである。敵兵や敵住民も人の目にならない。むしろ、怒りや憎悪を燃やす対象である。安倍晋三前首相が、森友学園、加計学園、桜を見る会で不正を行ったのも、沖縄を犠牲にしてアメリカに媚びを売っているのも、中国・韓国・北朝鮮に喧嘩を売っているのも、支持率が高いので、常軌を逸した自我の欲望を実行することを許されていると思っているからである。彼は、支持率が高いから、大衆の目を気にせず、自らの欲望のままに行動できるのである。彼に限らず、国会議員から町会議員まで、隙あらば、常軌を逸した欲望を実行しようと、虎視眈々と狙っているのである。権力を持った俗人とはそういうものである。だから、国民は、総理大臣は言うまでもなく、国会議員から町会議員まで、常に、監視しなければならないのである。